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cocolog:94723373

A. E. イエンゼン 他『民族学入門』を読んだ。林住期について少し考えが進んだ。林住し性的に排除される中、子をなす代わりの「霊」を残すこと、文化の継承を考えるべきということだろう。 (JRF 3760)

JRF 2024年3月 4日 (月)

『民族学入門 - 諸民族と諸文化』(A. E. イエンゼン 他 著, 大林 太良 & 鈴木 満男 訳, 社会思想社 現代教養文庫 S7, 1963年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAIR4C

吉田敦彦『日本神話の源流』([cocolog:94490727])だったか、イェンゼン(イエンゼン)氏の名前が出てて、それで興味を持って買ったのがこの本になる。

JRF2024/3/45977

なお、イエンゼン氏はこの本の複数の著者のうち、リーダー格ではあるようだが、この本は論文集のようなもので、イエンゼン氏がメインという感じではない。

>本書に収められた諸論文は、1959年の10月から12月にかけて、ミュンヘンのバイエルン放送局から、《諸民族と諸文化》という題のもとに放送された連続講演をまとめたものである。編者フロイデンフェルトは同放送局のプロデューサーであって、同様な連続講演をまとめた《今日の国民経済学》や《今日の化学》の編者でもある。

しかし実際に講演を行った人たちは、フランクフルト大学フロベニウス研究所の人たちである。
<(p.262, あとがき)

JRF2024/3/42705

あと、私がここで何度か言及する『宗教学雑考集』は↓で売っている。

《宗教学雑考集 易理・始源論・神義論 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

ここからは引用しながらコメントしていく。

JRF2024/3/43845

……。

>ふたりのイギリスの学者が今世紀のはじめに、中央オーストラリア諸部族に関して、彼らは生殖行為と妊娠との間の関連を知らないと報告した。彼らの信仰によれば新しい生命の発生は、女がひとりのいわゆる精霊の子を体内にうけ入れることによってのみ可能であるという。

JRF2024/3/49746

(…)

このふたりのセンセーショナルな報告は民族学者たちにより部分的には懐疑の念をもってうけ入れられた。しかもその懐疑は現在われわれが知っているように、正しかったのである。なぜならばオーストラリアにおけるその後の諸調査によって、精霊の子の信仰はなるほどほとんどすべてのオーストラリア原住民のもとで深く根を下してはいるが、同時に生物学的な諸過程の間の関連も彼らには完全に知られていることが示されたからだ。<(p.16)

デュルケム『宗教生活の原初形態』([cocolog:94474286])だったか、確かそういう話はあったが、やはり、「のみ可能」と信じているというのは否定されていたんだね。

JRF2024/3/42389

……。

>古層イモ類栽培民においては、われわれの意味における神表象はない。つまり天は一向に敬意を表されていないのだ。<(p.24)

著者も、古層イモ類栽培民にも神々がいることは認めるが、天(神)への信仰はないということだろう。

私は『宗教学雑考集』で次のように書いた。

JRF2024/3/47908

>子宮墓とハイヌウェレ神話の違いは、種と種芋の違いであろう。植物体の死が残した物でも、それが精なのか実(体)なのかで信仰の形態が違ったのであろう。<

精が残る場合は、それが天の動き(季節)により、再び芽吹くから天神への信仰に移っていくのかもしれない。実が残る場合は、地下(冥界)の働きが重視されるのかもしれない。イモ栽培のところは、熱帯が多く季節があまりないのも影響しているのかもしれない。

JRF2024/3/43479

……。

>穀物栽培の伝播に随伴したと思われる一つの神話的伝承 -- われわれはそれをインドネシアやアフリカばかりでなく南米のインディアンのもとにも見出す -- は次のようなことを報じている。天に住む創造神はこの世の始めに人間に穀物を渡したがらなかった。ところがひとりの神話的な存在 -- 時にはそれはひとりの人間であり、他の異伝では一匹の動物である -- によって穀物が神の意志に反して天で盗まれそして内緒で人間にもたらされ、人間はこのような方法で彼らの生活に最も重要な有用植物をうけとった。<(p.25)

JRF2024/3/49512

聖書の「知恵の実」ももとは、この伝承の亜種だったのだろうか。合流した民族のうちある民族では「一匹の動物」が蛇だったのかもしれず、名残りがあるのかもしれない。

JRF2024/3/48814

……。

狩猟採集民といっても、それが取る食料は様々である。しかし、そんな中でも、「狩猟」は必要がない場合でもなされ、特別な意義を持っているという。

JRF2024/3/49522

>しかしながら狩猟は、なんらかの形で、あらゆる野生物獲得民文化において行われている。狩りの獲物が食料のなかでかなりの割合を占めるわけでは決してなく、したがって狩猟の一般的重要性は大したことのない場合でも、なおかつ狩猟がその文化全体の性格において本質的であり、野生物獲得民の生活様式が全体としてとくにその狩猟民的要素の中に現われているのには驚かされる。狩猟の際の精神の緊張が、採取や漁撈の際とは比べものにならないほど大きく、したがってまた、創造的な思考の高まりを促すこともはるかに強いという事情を考えるならば、それも納得がゆくのである。<(p.31-34)

JRF2024/3/44819

最近 theHunter という狩猟ゲームに私ははまっていた([cocolog:94631525] … [cocolog:94713897])。その緊張感と自然の中でのリラックス感は、ゲームとはいえ、特別なものだったように思う。

JRF2024/3/45465

…… 。

南アメリカのインディアンのワ゛イカ族において、次のような伝承がある。

>鹿に姿を変えた人間は、自分の下腿の肉を削って上腿につけ、鹿の脚そっくりにしようとした。他の動物的特徴についても同様のことが起った、と。<(p.38)

私の「天使算」の妄想を思い出す。

JRF2024/3/46514

[aboutme:117655]
>人形祈祷に近いものは、最近、それに近いように遊んだ。弓祈祷については、本と違って、2001年の精神分裂症時に二つのハンガーを使って動物を模して踊ったことを思い出す。

これらは「天使」に関係する。どこかで「天使算」という文字列を見たと覚えているが…ググっても見つからない。(マッチの上に何人天使が乗れるかという神学問題ではない。)この「天使算」というものに、私は、消される補助線のようなイメージを持っている。つまり、半イメージ体や獣人は「有る」のだが、天使は「無い」もの、イメージを作るときに出てくるが身体を取らないものという印象がある。

JRF2024/3/41743

大事なのは、踊ったときの二つの弓も二つの羽に相当できる。そしてそれで踊ることの意味は、羽をどこに生やせば、何になるかということである。(失われたはずの魚のうろこにでも相当するのだろうか。)私の最近の結論を解釈すると、すなわち、他者に生やして心臓に迎えろということになっていた。「心臓に毛を生やす」?

JRF2024/3/43654

遺伝的浮動として我々が進化できる方向というのはある程度決まっており、できるのは、どこかの肉を別のどこかに移動させる「進化」のみではないか…という理解がまず私にはある。それは、『宗教学雑考集』ではトーテミズムとイメージによる進化をつなげる論で示した方向…他の動物が達成していることは達成しやすいが、そうでないまったくの自由は「進化」にはない…にも近いのだが。

JRF2024/3/44612

……。

>狩人は動物の足跡を見分け、その声を聞分けることができなければならない。狩人は野獣に気づかれずに忍びより、根気よく追跡できなければならない。また狩人は、すばやく、しかも的をはずさないように、射ることができなければならない。<(p.43)

theHunter の要素が書かれていて驚く。theHunter では、足跡を何キロも追うようなこともできるのだが、私は、それは現実の森ではそこまで足跡等が残らないので無理だ、比喩的表現だろう…と思っていた。しかし、実際にそういうことをやるんだね。知らなかった。ゲームはある程度リアルに迫った表現だったんだね。

JRF2024/3/43124

……。

>これに対して初期の狩猟儀礼は、死を克服し、動物の生存を続けさせるという目標をめざして発達をつづけた。そこで世界のいたる所で、われわれはつぎのような規則に行き当ることになる。仕留めた狩猟動物の骨は、特別な方法で取扱わなければならない。骨を砕いたり焼いたりしてはならない。完全に保存して、骨にふたたびたましい吹きこまれる時、動物が生きかえることができるようにしなければならない、という規則がそれである。<(p.45)

JRF2024/3/46920

これは『宗教学雑考集』に書いた説なのだが、このような文化はむしろ、骨を砕かないということに力点があって、そのために逆に動物霊のストーリーができたというのが私の解釈である。

人類はかつてスカベンジャーとして骨食(または骨髄食)を主食としていて、そこから離れて、狩猟に生きるため、あえて、骨を食べないように、食べることに誘われないように、骨の埋葬をはじめ、それが、霊の理論を作りまたは強化したと考えるのだ。

JRF2024/3/41428

……。

>イモ類栽培は実際上一年中植えつけたり収穫したりできるので、そのため貯蔵経済を頼りとしていない。この古層農耕民層の植物への関係にとって特徴的なのは、彼らの有用植物の増殖がイモを植えることによって行なわれ、種子を播くことによって行われるのではないことと、植えつけと収穫の仕事が主として女性の手にあって、他方男性はただ農地の開墾だけを行なうことである。<(p.78)

JRF2024/3/44243

著者らは、古層イモ類栽培文化のあと、穀物文化が来て、さらにそこから施肥や灌漑を行う大規模穀物文化になったとする。

しかし、古層イモ類文化にも施肥…糞尿が、植物生産を助けるという考えはあったと私は思う。というのは、イモ類文化につながるハイヌウェレ神話型である日本神話において、糞尿を見て怒る男性がハイヌウェレ神話の大事なモチーフになっているからだ。それは、イモ類文化においても、糞尿の大事なことは女性たちにはわかっているということを示すだろう。

JRF2024/3/44568

逆に、施肥がなかったというふうに、ヨーロッパの研究者が思ったとすれば、彼らが男で、糞尿を使っている場面を秘されていたから…ということはないだろうか?

JRF2024/3/48507

……。

>民族学の内部で二つの学説が対立している。一方の学説の代表者の信ずるところによれば、狩猟・採取段階の種族は、あらゆる生活領域において動物界ともっとも密接に結びついているのでかれらこそ大型の群居動物を飼いならした責任者であり、遊牧を行う遊牧民は、狩猟民および採取民の文化層から直接に発展したのだ、と考えられる。

JRF2024/3/47924

これに反して、他の学説の擁護者の意見によれば、群居動物を導いて家畜の状態にすることは、ただ農耕文化層において、定着民だけが成し得たことであり、遊牧民というのは、後の時代になってはじめて、農耕と大形家畜飼育との混合経済文化から分かれ出たもので、農耕を棄てて家畜経済一本と放浪との生活形態に移っていったものだ、とされる。

しかし、手に入るこれまでの民族学の資料、とくに先史学の資料を検討すると、大形の群居動物の大多数の家畜化は、定着した農耕文化において成しとげられた、と認めないわけにはいかなくなる。
<(p.114)

JRF2024/3/48969

私は『宗教学雑考集』で、定住民と非定住民という対比を書き、遊牧民は非定住民(を受け継ぐ者)と単純にした。

実際には、定住民の文化を経由したとしても、遊牧民は、自分達が定住以前の非定住な生き方への回帰で、むしろ、人間本来の在り方にあるという意識はあったのではないかと私は想像する。

JRF2024/3/41992

……。

アフリカ東北部のガラ諸族。

>遊牧集団は山地に住む農民とあらゆる結びつきを失う。たとえば、一般に古典的な放浪牧畜民と知られているガラ諸族の場合がそうである。立ち入った調査をしてみると、このガラ族でさえも、自分たちが農耕民に由来することをまだ十分に意識していることが判った。<(p.117)

私は『宗教学雑考集』で、定住民は「堕胎」文化、非定住民は「捨て子」文化と推定したのだった。

JRF2024/3/45646

ただ、定住を経たあとの遊牧文化においては、そう簡単に野生に果実などがあるわけでもなく「捨て子」するにしてもその先は、定住文化の地にすることになるのだろう。それを自分達が「堕胎」で調整しなければならない定住民が受け容れるのは、それを奴隷として労働力にできて生産増がはかれるからか、または、こちらの可能性が高いが、遊牧民の行う行商や、他の民族への侵略によって、富が持たらされ、その余裕ができるから「捨て子」を受け容れられるからであろう。

JRF2024/3/41774

……。

>牧畜民の社会秩序の中には、きわだって権威的な権力の頂点を形づくる傾向は決して観察することができないにもかかわらず、かれらは注目すべき巧みさをもって、実に現代にいたるまで、征服した王国の中で、手に入れた国家・権力装置をあざやかに動かすことができたのだ。自分の血統に誇りをもつ牧畜民が、その支配する国家の、種族を異にする臣下たちから離れ、混血をさける傾向は、権力を主張するに際して効果的であったことは疑いない。<(p.123)

JRF2024/3/48722

混血を避けることで、少数派を維持でき、それが、官職を少なく留め、効率的な支配に有利だったとは言えるだろう。

そして『宗教学雑考集』で語ったことだが、非定住民の支配の秘訣は、武器などを独占しようとしたとき、鉱山への道などを知りそれを機動力で封じることができることにあったのではないか。

JRF2024/3/47746

……。

>問題として残っていることは、アメリカ大陸の初期諸高文化が他の諸大陸からの刺激を受けたか否か、あるいはこれら刺激によって初めて発生しさえし、そしてことによるとアメリカ以外の諸地域にとって文化の担い手とすらなったものか否かである。

(…)

諸文化の細部に至るまでの一致からみて、太平洋をこえての伝播という想定は正当であるように思われ、われわれの文化形態学派もまたこの想定を主張している。もっともさし当っては次の諸問題がまだ未解決のままである。

JRF2024/3/42053

(…)

コロンブス以前のアメリカに鉄、犁、車および車輛の欠如、ロクロ、鞴[ふいご]や絃楽器の欠如をどのようにして説明すべきであろうか(…)。

(…)

非常に保守的な性格も理解できるのである。
<(p.167)

南米への太平洋諸島からの侵入については、篠田謙一『人類の起源』([cocolog:94528860])では遺伝的な証拠もあるということだった。ただ、文化については、確かに車などがないことが気にかかる。はっきりとは言わないが、ここでこの本の著者らはそれを保守性に帰着してるようだが、私はそれは信じられない。

JRF2024/3/46018

……。

>オーストラリア西北部のニャンゴマダ族の少年は10歳から14歳の年齢の時、《マロロ》として、一種の成年式を受ける。(…)女どもの寝泊まりする場所を離れて男の世界に入り、外との出入を断って叢林の臥床[ふしど]で暮すことになる。種族の秘密の伝承をはじめて知らされるのもそこである。<(p.184)


『宗教学雑考集』にも書いたが、インドの考え方で、四住期(4つのアーシュラマ)というのがある。

JRF2024/3/46835

>インドには四住期を経て解脱するという考え方がある。四住期とは、生涯を四つの時期に分け、師のもとで学ぶ学生期、結婚して家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する家住期、森林に隠棲して修行する林住期、一定の住所をもたず乞食遊行する遊行期の四つの住期(《アーシュラマ - Wikipedia》)のことである。<

JRF2024/3/40168

今回問題にしたいのは林住期である。インドでは家住期のあとに来るのだが、未開人の文化では、成人儀式として林住が求められるのは結婚の前である。

林住する意味は、林住により、社会から性的に排除されることで、子をなし自分を残すことよりも、「霊」を残すこと、文化を継承することに目が向くという意味があるのだろう。

JRF2024/3/45175

インドでは家住期のあとに来るようになったのは、寿命が延びたという点があるのかな…と思う。未開文化では、若いうちに文化を少しでも知り、その中からわずかに生き残っていくというイメージなのだろう。インドでは、学生期にも文化を学ぶのだが、それはむしろ自分のためで、長い林住期に文化を未開文化よりも多く複雑に学ぶことが求められるのだろう。

JRF2024/3/41911

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