cocolog:94734241
イェンゼン『殺された女神』を読んだ。ハイヌウェレ型神話に関する学術書。栽培民の前段階としての狩猟民の不死性などを考えた。狩猟民は、痕跡を残してはいけないから、目立つ墓がない…ゆえに死なないということだったのではないか。 (JRF 7361)
JRF 2024年3月10日 (日)
直近にイェンゼン 他『民族学入門』を読んだ([cocolog:94723373])が、今度はイェンゼンの単著となる。『民族学入門』のほうが、写真資料があって、素人の私にはわかりやすかった。
いつも通り、引用しながらコメントしていく。あと、最近の(アンチ)フェミニズム関連のツイート等をコピペした [cocolog:94734239] もさっき書いたので、興味のある方はそちらもご参照の上、こちらを読んでいっていただきたい。反出生主義は子に同意がないことを問題にするが、それなら性的同意も問題ではないか…などという話もしている。
JRF2024/3/107107
あと、私がここで何度か言及する拙著『宗教学雑考集』は↓で売っている。
《宗教学雑考集 易理・始源論・神義論 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2024/3/106334
……。
>もし《合理的民族学者》が、今後数年間のある時期において、西洋技術の発生を熟考し、その熟考の基礎として、われわれが未開民族に関して持っているものとは変わらない資料しか持たないとしたならば、彼は長い発展系列を設定し、そして機械を、より多くの偶然と微少な利用諸段階の産物として発展系列の最後に位置づけることが推測されよう。しかしこのような見解では、唯一の正当な考察、つまり完全に目的から自由な現実の認識を求める努力が、原発見の本来の過程をなしていたこと、そしてすべての技術的なものは、《応用》の領域での遂行にすぎなかったという考えには到達できないであろう。<(p.12)
JRF2024/3/108885
いきなり「木を切り倒すための斧」は発明できない。どこかから斧が生まれ、それがたまたま、木も切り倒せそうだったので、その方向に発展した…みたいな経路を発明はたどる。だから合目的的説明があるからといって、それだけで発明ができたと考えるべきではない…ということのようだ。
JRF2024/3/104500
著者はこういう言い方を許すかわからないけれども「遊び」からまたは宗教的信念があって、そこに発明の端緒がある場合もありうる。この本の例であれば、犁[すき]は、もしかすると大地に男根を刺すという信仰から生まれてきたのかもしれない。
私は古代の風俗について、合目的的な理由付けをしがちだが、それとは別の「遊び」などから元からその風俗の芽がありえたことを否定しないようにしてきたつもりだ。ただ、合目的的な理由がなければ、その風俗は長く生き残ることもなかったのではないか…とも思う。
JRF2024/3/105350
……。
殺されてそこから食物などがはえてくる神を「デマ神」と呼ぶ。ニューギニアのマリンド族のマヨ祭儀に付随する神話では、もっとも基礎的な食料であるバナナの発生を問題にする。バナナ・デマはデマ・ゲブという。
JRF2024/3/109220
>ゲブについては以下のように述べられている。つまり、ゲブの全身はフジツボでおおわれていたので、醜く、棘だらけの外形をしていた。それで彼の妻になろうとする者はいなかった。ある日ゲブが岸辺で魚取りをしていた際、数人の少女達が近寄って来るのを見た。彼はその棘だらけの身体を恥じて、砂の中にすっぽり潜りこんだ。少女達は彼を掘り出し、村から急いでやってきた人々は、掘棒とココヤシ開け具で彼の身体を綺麗にして、フジツボをけずり取り始めた。夕方になると、男達は薮の中に引きずりこみ男色的行為におよび精液を彼の身体中に塗りたくった。それで彼の傷ついた身体は治り、再びなめらかになった。
JRF2024/3/100467
これについて彼らはある歌を唱ったが、それは今日でもバナナの豊穣儀式の際に歌われるものである。夜の間、ゲブは押し込められていたが、彼の頚から大きなバナナの木が生え、そしてそれは朝までにはもう実をつけていた。精液を身体にすりこんだことが、バナナの発生の要因だったという。人々はこれにつづき、大きな祭宴を催し、祭宴場をバナナで飾りたてた。今日、祭宴の時ごとに吊すのを常とするのと同様に、彼らはバナナを又になった枝に吊したのである。この祭宴に現れた別の男が檳榔[びんろう]ヤシに変身した。
JRF2024/3/103494
まだ押し込められたままでいたゲブは、しばしば男達によって無理やりに男色の対象にされたが、ついにある夜、彼は家の屋根に登り、ヤムイモのつるをつたわって天に昇っていった。そこで彼は今日でもなお月として存在している。
<(p.28-29)
JRF2024/3/105077
>(…成年式においてバナナが…)彼らに、すでに成年式を済ませた者達から、精液と混ぜ合わされて渡される。<(p.34)
JRF2024/3/103906
まず、ハイヌウェレは女性だったが、ここでは男性がデマ神となっている。男性がデマ神になることもあるというのが驚き。そしてこの本にこののち書かれていくように、ハイヌウェレ型神話は世界各地にあるようだ。
次に、男色については、これは、日本の腐女子文化を考えると、女性受けを狙ったものではないかという疑いもわくが、精液を男に飲ませるのに似た行為はこの後も出てくるので、男性文化にもあったのだろう。
JRF2024/3/101747
精液はバナナに塗るが、他の食物にも塗る祭儀があるようだ。精子を食物にかけたり、(聖書が禁じる)地にかけたりするのは、匂いをわかるようにするという意味があるのかな…と思う。一夫一妻なら即浮気の証拠となるが、問題となってる文化のように乱婚状態だと、他の部族と見分けるという意味もあるのだろうか。
JRF2024/3/106409
ただ、精液をバナナに塗るのは、基本的には、象徴的な意味が大きいのだと思う。つまり、食物文化の存続にも「生産」にも、興奮してオナニーができること、文化維持に一定の感情的責任を負えることを示す意味があるのではないか。
『民族学入門』を読んだとき([cocolog:94723373])に、林住して、文化を受け継ぐことを学ぶのでは…といったことを書いたが、精液を塗るのも文化存続に関連しているように私は思う。
あと、体に精液を塗ることについては、この本の後で出てくるが、それを薬とする文化ではあったらしい。
JRF2024/3/101345
……。
>しめくくりの儀式はデ・ヘヴァーイ Dë-hévaai つまり《殺害者としての父》の登場によって頂点に達(…する…)。デ・ヘヴァーイを演ずる者は、特有な武器を携える。これは単に祭儀用具として使用されるだけであって、槍投器、棍棒および槍を組み合わせたものである(…)。マヨの娘ないしはマヨの母としてすべての男達によって強姦され、その後殺害され、食べられてしまうあの少女を殺すのにこの武器は、おそらく用いられる。彼女の骨は二、三のココヤシのかたわらに埋められ、その血でヤシの幹は赤く塗られる。<(p.35)
JRF2024/3/109862
吉田敦彦『日本神話の源流』([cocolog:94490727])で紹介された食人祭儀について知りたくてこの本を買ったのだが、その祭儀の詳細はこの本にもあまりなく、この部分がもっとも詳しい部分のようだった。
JRF2024/3/108352
……。
>別の異伝によると、天から落ちてきた老婆それ自体が首狩りを導入し、頭の加工を教えたのだ。<(p.39)
食人も首狩りももちろんやるべきではないが、食人については、ある程度、合目的的理由が付けられるのだが、首狩りについては難しい。
食人は、堕胎のほうがマシということを印象付けるために、また、女性が一人いなくなった分、男性がいつ死んでもいいということが印象付けられるためにやられる…という理由付けはいちおうできる。
JRF2024/3/109482
エリアーデ『世界宗教史 8』([cocolog:94542860])を読んだとき…
>>
中央アフリカ東部のバントゥー語族などに見られるが、神の諸側面が擬人化されることがある。
>大地に恵みを与える神の「唾液」としての雨といった例が挙げられる。<(p79)
神が自然を人を育てる。それは神がお召し上がりになり嘉[よみ]するため…と。
<<
…と書いた。
JRF2024/3/108194
また、『宗教学雑考集』《血の儀式》において…
>>
インティチユマのある儀式において…、
>二人の男がその血管を割いて、血を聖石の上に流出させる。(…)傷口から流れ出る血は蒐[あつ]められて、「ミンカニの排泄物」と混ぜられ、こうしてできた混淆[こんこう]物が砂丘の上におかれる。儀礼は完了し、人々は、絨毯蛇が豊かに生まれ出る、と信ずる。(デュルケム『宗教生活の原初形態』下巻 p.174-175)
<
JRF2024/3/100131
自然に人を求めさせるために血の祭儀を行うのではないか。人の血を栄養としたものは、より多くの人の血すなわちより多くの人口を求めるようになる…という考え方があるのではないだろうか。
<<
…と書いた。
JRF2024/3/106367
ここから敷衍して、人は、植物を「殺して」食べるが、その植物は栽培してでも増やしたいと願う。人を殺して自然(神)に食べさせることが、自然(神)に人を増やすよううながすことになる…という信念があるのかもしれない。そして自然の中には人も含まれ、人が人を増やすように…というか島という限られた自然環境の中で減らさないように導くにはそうするべきなのだ…ということかもしれない。
この点は、栽培民独特のもので、後述する狩猟民にはなかった信念なのかもしれない。
JRF2024/3/109995
首狩りについては、妊娠出産によって女性が死ぬのに、食人儀式の犠牲になるのに、男性が死ぬ機会がないというときに、代償として「戦争」的「首狩り」を求める…ぐらいの理由付けしか私は考え付かない。
JRF2024/3/104292
……。
ニューギニアのキワイ族の神話。
>ソイドは火と取りよせるために、妻を派遣するが、その際、彼女はある見知らぬ男によって暴行される。神話はこれが地上での最初の生殖行為であったことは明白には述べていない。けれども、神話的思考に応じて、このことを想定してよかろう。いずれにせよ、ソイドは妻を殺害し、その屍体をバラバラに切断し、整地した土地にばらまく、すると屍体の諸部分および血から有用植物が発生する。つまりタロイモ、ヤムイモ、ココヤシ、サゴヤシやバナナの木などである。
JRF2024/3/108934
物語のこの先の部分では、ソイドは(…戦争の導入者で死者の国の主である…)シドと同一人物である。シドと同様にソイドはかまずに果実を飲み込む。果実は彼の身体を通って陰部にまで到り、それによって陰部は恐ろしく大きくなる。このように、不恰好になったために彼はもはや妻を得ることができない。植物の存在しないある島に達した時、初めて彼は一人の男を見つけ、その男がソイドに娘ペカイを与える。
JRF2024/3/105567
だがペカイは交接によって殺される(もっとも再び蘇生するが)。そしてソイドは、彼の精液 -- すべて果実 -- を地上にばらまき、そこから翌日までに植物ばかりが生育し、これがこの荒れはてた島を立派な畑に変えたのだ。
してみるとわれわれは、これらの神話の中に植物発生の第二のモチーフを手にするのである(Nr. 44)。ここでは男の精液が、別のところで女性の死体と同様な意味を持っている。
<(p.44-45)
JRF2024/3/104119
ソイドはまず、子の代わりに、植物を育てる文化に専念する運命になる。これは妻がいなければ即、林住などに関係なく、文化を守るべき…ということになっていて、これは一夫一妻的である。乱婚的ではない。もともとのキワイ族の結婚に関する文化は、その他の文化とは異なっていたのではないか。
肉を播くのは、種芋をバラバラにして播くところから来ていると想像できるが、精液を播くというのは、それとはだいぶ印象が違う。
JRF2024/3/109697
過去には、芋の生産の前に、果実を種から育てる一夫一妻の文化を持っていたのではないだろうか。
ただ、種は普通、糞にまじって出るものだ。それが精液を重視するというのは、無人島などに渡る際の文化維持に男性の役割が大きかったということだろうか? 男性がまず種を持って海を冒険して、島で死に、しかし、そこに種を運んで埋めてあったため、次行った男性はその実で生き延びられるようになり、やがて女性を呼べる…という機序なのだろうか?
JRF2024/3/107883
……。
ペカイの父とも目される原古の最強の人物がマルノゲレである。
JRF2024/3/107603
>マルノゲレの文化的事蹟の一つは(シドと同様に)、ダリモ舎屋の最初の建造である。(…)その後、彼はモグル Moguru 儀式を遂行しようとする。この儀式はなかんずく戦争の成功にとっても決定的なものである。この儀式に対しては、とりわけダリモ舎屋を正しく飾り立てることが重要である。舎屋を矢、ココヤシの実、魚などで飾り立てる試みは希望した結果をもたらさない。この情景はセラム島西部の一つの神話を想起させるものである(Jensen, 1939, Nr. 55)。
JRF2024/3/108419
その神話では集会所を正しい仕方で飾る試みは、ひとが果実や動物をそれに利用していたあいだは、やはり失敗し、最後に狩りとって来た頭をその中にぶらさげるという正しい考えを思いつくのである。キワイ族では事件の進行は少し違った道を辿る。
<(p.47)
やはり首狩りは、男が死なないのは許されないということではないのだろうか…。
JRF2024/3/109414
……。
セラム島西部のヴェマーレ族の有名なハイヌウェレ神話…。
JRF2024/3/104122
>この神話をわれわれの訪れた西セラムのほとんどあらゆる土地で -- 大抵の場合最初の説話として -- 細部に相違はありながらも、基本的には同一内容のものとしてわれわれは聞いた。この神話の重要性は、人間の原古が終りを告げ、人間生活の形態が今日と同じ特徴のものになるに至るあの劇的事件を取扱っている点にある。最も重要な出来事は、死の導入である。その際最も目立つのは、最初の死が殺害の形で起ることだ。
JRF2024/3/106013
この物語のある異伝では、人間はココヤシの実を味わったのち初めて死ぬようになり、また同じくそののち結婚もできるようになった、という。この観念の論理的首尾一貫性は異論の余地のないものである。というのも、もし死がなければ新しい人間の生成は無意味だろうからだ。
<(p.59)
死があるから生まれる必要があり、結婚の必要ができる…と。
JRF2024/3/109138
植物の果実が楽しむためでしかないならば、それについて人を犠牲にするほどではない。しかし、植物が生きるために必要になったということであれば、それを皆が得るためには一人を犠牲にすることもいとわない…ということなのかもしれない。
ハイヌウェレが宝物を排泄しているうちは、嫉妬だけで済んだが、それが殺されるのを正当化するためには、生きるために必要なものを生んだ、それをシェアできなければならない…ぐらいのことがないといけない。そして自分達は食人祭儀によって、それを生んでいる、自然にそれを生ませている、という認識なのだろう。
JRF2024/3/107891
……。
>ヤシの果汁で赤子を洗う。<(p.61)
コロナが話題になってからなぜか、症状が軽くなったのだけど、私にはイネ科の花粉によると言われる、人と時期のズレた花粉症があって、4月から7月にかけて苦しむ。
それで妄想的に考えるのだが、こういうイネ科の花粉症は、イネを違法に栽培しているのを見つける…とかいうことがあったなら役立っただろうと思う。
JRF2024/3/106357
同じように、ヤシの果汁で洗うのは、そのアレルギーを持つ子を見つけるためではないか。その過敏性を役立てるためか、集団の遺伝子から、アレルギーを排除するためかはよくわからないが。
JRF2024/3/104862
……。
>セラム島の神話は、ただ首だけから成っている存在を私たちに語っている。他の諸民族の神話との比較から、私たちはこの首存在が大抵の場合月の擬人化であることを知る。これに加えて人間の首とヤシの実との密接な関連がある。<(p.64)
アニメ『ガンダム Gのレコンギスタ』を18話から26話(最終話)まで観たときの感想で…
JRF2024/3/100822
[cocolog:82116314]
>>
はてなブックマーク - 《Technobahn ニュース : MIT、レオタードのような新型の宇宙服の開発に成功》
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200707181525
jrf:>昔、ノーマルスーツってのは不可能で、実は生首だけ載っけて下はロボットなんじゃないか…って怖い妄想したことがあるのを思い出した。不可能じゃないのか…。< 2007/07/18
JRF2024/3/109876
[cocolog:70271764] で書いたように>原発&宇宙のテクノを捨てるのは、超長期では肉体を捨てることになるのではないかという妄想的不安が私にはある。<
<<
JRF2024/3/100371
脳が人の霊を担っているという概念があれば、首だけが移動できるようになれば、どこにでも…宇宙にも…達せる…という概念が、未開人にもあったのかもしれない。ひからびた首を戻す方法も必要だから、そこを夢として首狩りしてた…とまで考えるのは行き過ぎだろうけど。
JRF2024/3/106722
……。
南カリフォルニアのインディアンにおいて、デマ神的であるウィヨット。カフイラ族の神話ではウィヨットはムカトに代わっている…。
JRF2024/3/100616
>ムカトの死後、ノスリ[ハゲタカの類]はある日ムカトの死体の焼かれた穴の中から、それまで人間たちの知らなかった奇妙な物が発生するのを見た。パルメチェウェト Palmechewet つまり決して眠らない男が、助言を求めに死んだムカトのもとへ遣わされた。
JRF2024/3/104205
困難な道程の後にとうとうパルメチェウェトは、自分の目に見えないムカトがこう言うのを聞いた、「それらは食べるための物である。おまえたちは、私がそれらについておまえたちに教えることのできないうちに、私を殺した。タバコは老人の喫うためのものである。瓜は私の頭蓋から、カボチャは私の胃から、トウモロコシは私の歯から生える。私の部下たちのもとへ戻って、これらの物はすべて良いものだと告げよ。」
<(p.84)
JRF2024/3/101737
タバコは老人が喫うためのもの…なんだね。タバコは特に若いうちは毒だというのは知られていたのかもしれない。この点、安楽死が議論される日本では、もしかすると今後、タバコに老人は保険が効くようになるなど展開があるのかもしれない。
[cocolog:93866331]
>酒もタバコも私は嗜まないが、嗜む人には文化維持者として尊敬に近い感情を持つ。タバコ、インディアンから受け継いだのに文化を守れなくて申し訳ない…とか思ってる。<
JRF2024/3/102180
……。
南カリフォルニアのインディアンのジュアネーニョ族の神話。コヨーテの子孫と称するタクウェ。
>タクウェによって肉を喰われた、聖別された死者たちの霊魂はこの信仰によれば天に入り、そこで星となった。<(p.89-90)
JRF2024/3/107103
食人儀式導入前、人間は不死であったとされる。どうも狩猟民のころは人は不死であったと目されているのではないか? それはなぜだろう? それは後に考えるが、ここでは、その一つの表現として星になったということである。不死であることの表現として、星になる…があったということであろう。おそらく、死ぬと星になるという概念は、また別にあったのだが、それが、狩猟民の不死性と後に結び付いて、そのような世界観があると(ある意味不死性を説明する)神話として残されてきたのではないか。
JRF2024/3/103633
……。
アフリカにはハイヌウェレ型神話が例外的に少ない。人類の祖地であるはずなのに。
JRF2024/3/109244
>ここで論じられている根栽農耕民のような広範囲に分布する決定的な文化が、アフリカにも広がっていたか否かという問題が当然生ずる。根栽は中央森林地帯の大部分において広く行われ、更に西アフリカ沿岸に沿って帯状の地域を占めている。ハイヌヴェレ神話はなるほど断片的にしか存在しないとは言え、それでもかつては、それがもっと生き生きとした形で分布していたことを推論しうるに充分な広がりを示している。しかしわれわれがオセアニアとアメリカの範例諸民族で発見したような明白な刻印においては、この文化層はアフリカ大陸では見出されないのである。<(p.99)
JRF2024/3/102424
古代の遺伝学の成果(デイヴィッド・ライク『交雑する人類』([cocolog:94524505])・篠田謙一『人類の起源』([cocolog:94528860]))などから、現世人類より前に出アフリカの繰り返しだけでなく、ユーラシアからアフリカへのルートもあったのではないか…という説がある。もしかすると物語・神話については、その名残りがあり、ユーラシアでハイヌウェレ神話が生まれて、アフリカにやってきたというルートもありうるのではないだろうか。
JRF2024/3/105906
まぁ、それよりは、出アフリカの後、ユーラシアでハイヌウェレ神話が生まれて、アフリカの大部分には帰って来れなかった…のほうがありうるかもしれないが。
JRF2024/3/101471
……。
北方の狩猟民族にもハイヌウェレ型神話のようなものはある。
JRF2024/3/100876
>エスキモー族における海棲動物の母セドナ Sedna に関する周知の説話の中にこの神話の本質的特徴が出現するのは意外なことである。彼女はなるほど女神ではあるが、制限つきでしかデマ神と見なすことができない。植物発生神話の場合と全く同様にエスキモーは、人間がまだ狩猟を知らなかった時代について語っている。その頃父母のない少女が海に投げ込まれた。彼女は船にしがみつこうとしたが指を切り落とされてしまった。そのため彼女は海底に沈んだ。
JRF2024/3/103946
彼女はその海底から《今日なお》豊漁をもたらしたり、狩猟の運を奪ったりして決定的に人間の食物に影響を及ぼしている。彼女の指からは海の獲物が発生した(Rasmussen, S. 381 f.)。
<(p.141)
犠牲を捧げると自然は人間を増やそうとすると私は語った。それは栽培に特殊だが、その前段階というのはあったのかもしれない。対価性のような認識だろうか。
JRF2024/3/101557
……。
>最初に心に迫ってくるであろう問題は、さまざまな民族において、しかも遠い距離を越えて存在するこのように著しい一致が、実際に文化史的関連によってのみ解明しうるのか、あるいはむしろ全複合がその都度、それぞれの場所で独自に発生したのか、という問題である。<(p.143)
JRF2024/3/105326
ユングの元型論が紹介される(第4章 p.144 から)。それのみを信じるなら、世界各地でハイヌウェレ型神話が見られるのは、独立に元型の影響によって各地で作られたことになる。しかし、イェンゼンはそう考えない。合目的的な形成は先に否定したが、元型の影響もそれだけとは考えない。どこかで発明された概念の伝播と考える。
ユングの理論のように、民族学的一致を心理的諸前提に帰納したがる人もいるだろう…という…。
JRF2024/3/104081
>しかしその時でもなお、個々の平行関係にとっては一切の決定的要点が欠けている。たとえば、問題になっているすべての民族において最初の死と生殖能力の開始とが基礎づけられるために、人間・植物・動物の生き生きとした運命同一性に関する認識が、神が殺されねばならないという形をなぜとるのであるか? 神話的思考が死の始まりをどのように具象化するかについて、人はきわめて多数の形態を何の苦もなく考え出すことができよう。<(p.150)
JRF2024/3/101523
ただ、同じモチーフが継承されやすいのは私が上で述べたような合目的的な理由もあったからではないだろうか。偶然生まれたものの伝播というだけでは説明できないように思う。
元型は遺伝子に遡り、それは、中立的なものもあり、それが影響しているということはあるかもしれない。しかし、影響しているなら、それが進化にも痕跡を残しそうなものである。
合目的的理由も、進化に影響を及ぼすと同時にそれがかえって、元型を形作ることもあるだろう。
JRF2024/3/109723
もちろん、元型は集団があれば、そこで神話素となっているだけで成立しうるのかもしれない。そういう中間的なものとしての元型ならば、進化や合目的性とは別に伝播するのかもしれない。
ただ、そもそもの「進化」と合目的性の関係(必ずしもイコールでないこと)を考えると、これはミームの進化には遺伝子に根拠がありうる…ということ以上のことを言っていないのかもしれない。
ユングの元型論が大事だったのは、まだキリスト教の霊の理論が強かった時代、魂やイメージ・思考といったものにも遺伝子の影響があるかもしれないと気付かせることにあったのかもしれない。
JRF2024/3/101623
……。
>われわれは民族学が繰り返し直面するこの《民族誌的類例》(アンドレー Andree)の問題を、プロメテウス神話素との関連においてすでに一度触れておいた。<(p.143)
プロメテウス神話素の話にここでちょっと戻ろう。
JRF2024/3/104167
>穀物の種子は元来天にだけ存在していたもので、天神ないしは天の神々はこれを人間に与えまいとしていたが、ある人間(ないし動物)が、そこから盗み、この貴重な獲物を見つからずに、多くは狡猾に隠して地上に持って来る。
JRF2024/3/100169
これは、ギリシアのプロメーテウス神話において、火の起源 -- ところでこれは未開諸民族の神話にも見出される伝承だ -- と結びついているのと同一の個別的特徴である。プロメーテウスも盗みを隠して、天から火を大茴香[おおういきょう]の茎に入れて持ち帰る。なるほどヘーシオドス(Vers, 47 ff.)の記述は、悪意ある天神が人間に火と同時に穀物をも《隠蔽していた》と述べているが、他の点ではかくも統一的なこの神話素と穀物との結合に対しては、それ以上は何も知ることができない。
<(p.20)
JRF2024/3/105331
一方、種芋は盗まれない。プロメテウスの火や種は天から盗むという神話がありがちなのに対し、種芋に関してはそれはない。代わりに食人などの強力なオルギーがあったりする。これは穀物の種は、国家などが播くための種を保存するのに対し、種芋は通年で栽培されていて、そこからシェアされるという性格があるからかもしれない。
JRF2024/3/107781
……。
>なぜここに取り上げたすべての民族が、植物の本質に関する認識をこのように同質的に形成し、食用植物を神の身体もしくは死体から発生しめたのであろうか?<(p.151)
私の『宗教学雑考集』《ハイヌウェレ神話と子宮墓と「堕胎」》の議論では、植物の身体からの発生を定住文化の「堕胎」と結び付けて考えた。
JRF2024/3/102083
>子宮墓とともに産道から生まれて来ることを「見てはいけない」ことを表している、そこに産児制限があった(。…子宮墓もハイヌウェレ型神話も…)生まれてくるのに産道が使われるのではなく、直接、生まれてくるということだ。ここには産道から生まれることへの抑圧・タブーの存在が感じられる。つまり、それは「見てはいけない」ことを表していると考えればつじつまがあうのだ。なぜか? それは聖の根源でありプライバシーの根源である「堕胎」が見てはいけないものだったからではないか?<
JRF2024/3/108522
それが種の場合は、子宮墓となり、種芋の場合は、ハイヌウェレ型神話となったということではないか。ここは元型論的要因のほうが強そうに私は個人的に感じる。
JRF2024/3/106282
……。
>動物狩猟そのものは実際ここで論じている文化より古いのだが、しかもわれわれの引用したほとんどすべての民族において、あの原古の神話的出来事の結果起ったのだと明言されている。人間の狩猟に対する関係についての新しい精神的方向づけがこの文化にはあったにちがいない。というのも殺害がかくも決定的に存在秩序の中で認知され、それゆえ動物殺害は必然的にこの新しく認知された世界の秩序に組みこまれたにちがいないからだ。
JRF2024/3/100577
たとえば、真の狩猟民族の殺害に対する関係を観察すると、全くちがった基本態度に直面することになる。狩猟民は、まるでその狩猟儀式において《本来は》殺すのではないことを主として目指しているように見える。望ましい狩の成果を確実なものにするために、一方であれほど努力していながら、他方では、殺された動物と自分自身と世界に向かって動物が殺されたのではないといつわることに懸命なのだ。
<(p.155)
死なない動物…これはハイヌウェレ神話の前の永遠の命とも関連してそうである。
JRF2024/3/106515
最近 theHunter という狩猟ゲームに私ははまっていた([cocolog:94631525] … [cocolog:94713897])が、そこでは動物の痕跡を見つけることが、狩猟の大きなウェイトを占めていた。痕跡を残すことは、狩られることを意味する。
痕跡がないように、死しても、死んでいないかのように見せる。自分達がまるで居なかったかのように見せること、それが鏡像認知された、人間に必要なことだったのではないか。だから、自分達の墓は基本的に作っても、目立たないようにしていたのではないか。墓はない、だから、死はない…と。埋葬も痕跡を隠す目的が先だったのかもしれない。
JRF2024/3/106294
逆に、栽培民は、自然に自分達が役に立つことを知ってもらうため痕跡を残そうとする。首狩りもその文脈にあるのかもしれない。
JRF2024/3/101424
……。
>個人の生命は初期の時代において今日のような本質的な意義を決してもたず、われわれの眼に人身供犠を野蛮と映らしめる視点が、当時ほとんど何らの役割も演じなかたことは疑いない。また犠牲となる人間の体験も、われわれの胸に迫る同情の念がおそらくかなり場違いなものに映る態のものであったにちがいない。
だがこうした全く別種な事態にもかかわらず、私には人間殺害の中に祭儀のその他の性格になじもうとしないある合理主義的見方がほの見えるように思われる。
JRF2024/3/104612
それに私は、未開人の思考の中では象徴が象徴されたものと絶対的に同一であった、という未開人の思惟のしばしば強調される異種性を信じない。
今日の原住民とつき合った私自身の経験に基づき、私は演技者と演技されたものとの間に区別があることを彼らが非常によく《知っている》という見解をもつ。
JRF2024/3/105865
この区別が全く無意味になること、今、この瞬間にとって、この体験状態にとって、演技者と演じられたものとが一つになること、これが祭儀の本質の一部なのだ。われわれも舞台上で演ぜられる運命に涙が出るほど《感動する》、まるでそれが現実の運命であるかのように。だがわれわれはそれが演じられた運命であることを《知っている》。もちろん感動は子供の方が大人より強い。同じように、感動は未開民族の方がわれわれより強い。
JRF2024/3/109053
だがまさに初期人間は、演じられたものが現実の運命ではないが、提出されたすべての要求を演劇が満たすこと、そしてそうした要求が豊富な演技行為を発達させたこと、をよく自覚していたという、まさにこの理由のために私は、人間殺害とはこの祭儀の肥大化を意味するのだという見解に決定的に傾むいている。狂信的な人々は、おおむね仮借ない合理主義をもち、おのれの思考を残酷な究極まで考えぬき、そして例によって人々はこうした狂信者たちに従ったのである。
<(p.193)
戦後ドイツ人の感想…。
JRF2024/3/100417
……。
>狩猟時の興奮を狩猟民は恋愛の興奮になぞらえる。単に二つの対照可能な相異なる出来事という意味だけでなく、心的体験としての同一性からもそうするのだ。痴情による殺人は病的な単独現象としての殺害と生殖の心的結合の現実性を示しているのである。<(p.194)
theHunter で、殺した動物でトロフィーを作るのは、おかしな感情だとは思うが、しだいに理解できるようになってきた…。
JRF2024/3/103310
……。
>人の了解しあう特殊な非日常的な現実とは、少年が成熟によって生殖能力に到達し、また豊穣が死との神秘な関わりを有するという自然の脅威なのである。<(p.199)
「豊穣が死との神秘な関わりを有するという自然の脅威」という部分は、食人儀式にこめる栽培民に特殊な感情と上で語ったことを著者も念頭に置いているのではないか。なぜ、それをそのまま語らないのか、私にはわからないけれども。
JRF2024/3/102186
……。
訳者解説。
イェンゼンのもう一つの代表作『未開民族における神話と祭儀』から…。
>狩猟民文化については、断片的にしか知られていないので、彼等の宗教形態の本質を《理解》することは出来ない。しかし、古層狩猟民の宗教に属する或る神観念があり、それは野獣の主および保護者、また狩猟に当り人間を助ける神である(155-156)。野獣の主の姿は独特であって、高神の観念からの派生とみることは出来ない。それはしばしば動物の形をとっており、また世界を創造したこともなければ全知全能でもないし、高神の観念に顕著な第一原因としての特徴を欠いている。
JRF2024/3/107413
しかし、デマ神との相違の方がこれよりも大きく、デマ神におけるようなこの世の初めにおける活躍という特徴がなく、またデマ神の場合に決定的な重要性をもつ神話との関係も明かでない。要するに野獣の主は極めて古い神表象であって、デマ神とは何等共通するところなく、高神からもおそらく独立している(160-161)。
<(p.214)
ただ、野獣の主は、トーテミズムとはかなり関連しているように思う。
JRF2024/3/101032
『殺された女神 - 人類学ゼミナール 2』(Ad. E. イェンゼン 著, 大林 太良 & 牛島 厳 & 樋口 大介 訳, 弘文堂, 1977年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4335500521
https://7net.omni7.jp/detail/1100268555
原著は Adolf Ellegard Jensen『Die Getötete Gottheit - Weltbilt either frühen Kultur』(1966)。
JRF2024/3/101188