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cocolog:94778956

エックハルト『神の慰めの書』を読んだ。私は「人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる」とするが、意志に限れば、善い意志というのはあるのだろう。その無知な幼い意志を神は多とする。…ということのようだ。 (JRF 3260)

JRF 2024年4月 6日 (土)

『神の慰めの書』(エックハルト 著, 相原 信作 訳, 講談社学術文庫 690, 1985年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061586904
https://7net.omni7.jp/detail/1100477303

単行本は、1949年 筑摩書房刊。

JRF2024/4/66317

直近のひとことで、田島照久 訳『エックハルト説教集』を読んだ([cocolog:94771542])のに続きずっと以前に買っていたこの本も読んでみることにした。そこに書いたことを繰り返すと…、

マイスター・エックハルト(1260-1328以前)は、ドイツ神秘主義の神学者として知られ、生前から異端の疑いがかけられていたが、パリ大学の正教授の地位にもあった人である。そして、おそらく死後に(その命題が)異端とされた。

JRF2024/4/67971

この本は、『エックハルト説教集』で使われていた全集が揃う前のものらしく、資料に制限のある状態で書かれた本のようだ。文体が古く、読みにくいという人もいるだろう。

なお、今回も、私が書いた『宗教学雑考集』をアーリーアクセス版から正式版にするために資料を読んでいるという面もある。それについては↓で。

《宗教学雑考集 易理・始源論・神義論 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

ここからはまたいつものように引用しながらコメントしていく。

JRF2024/4/68110

……。

>(…エックハルトは…)「我が苦悩こそ神なれ、神こそ我が苦悩なれ」と好んで語る<(p.8, 訳者序)

JRF2024/4/62189

>私が本書の訳に従事したのは三十代から四十代の初めにかけてである。その後私は本書を離れ、私にとってエックハルトはわずか数行の語句と成って残ったのみだが、それは決して彼から遠ざかったのでない、八十歳をこえた今日までの四十年間を通じて、彼は私を鼓舞激励している。たとえば、「神は私よりも私に近く在す」。人間は幸福を求め宝を求めて遠路を行く。しかし比類を絶したものはむしろ近くに、余りにも近くにある。エックハルトの言葉は年とともにますます輝き、新鮮さを加える。ニイチェには、「苦悩は人間を完全性にまで運んでくれる最も速い動物である」の句が、かかる言葉だったようだ。<(p.340, あとがき)

JRF2024/4/66518

「神は私よりも私に近く在す」は、『エックハルト説教集』では、>聖アウグスティヌスが語っているように、魂が魂自身であるよりも、神は魂にさらに近い。<(p.64)…だろうか。

JRF2024/4/65001

……。

>もし彼が彼自身を棄てるならば、たとえ彼がいかなるものを棄てないで保っていようとも、すなわち、富や名誉やその他のどんなものをそのまま保持していようとも、彼は一切を棄てた人であるといいうるのである。<(p.22)

『エックハルト説教集』を読んだとき、エックハルトは「離脱」すべきことを説いていた。この「自身を捨てる」がそれであろう。捨てたところに神が住まう。

JRF2024/4/65499

エックハルトは都市民のための宗教を用意しようとしており、離脱といっても財産を捨てるようなことは求めていなかった。この部分は整合性がある。仕事などはある意味「ありのまま」で、内的な離脱のみを求めていたようだ。

JRF2024/4/62088

……。

>心の貧しき者とはすなわち己れの意志に貧しき者の謂にほかならない。<(p.23)

それが己れを捨てるということである。…と。

『エックハルト説教集』では、心の貧しさとは、「何も意志しない(無所求)、何も知らない(無知)、何も持たない(無所有)」と説いていたが、こう説明するのは語弊があるところでもあった。

JRF2024/4/63948

……。

>悪徳への衝動は正しい人間の場合にはつねに非常に大きな利益と祝福とをもたらさずにはおかないものであることを承知するがよい。<(p.36)

親鸞の「悪人正機」説のエックハルト版といったところだが、エックハルトの場合、悪の傾向を持つほうがそれを抑える努力を要するのだから、抑えられているということが立派だということのようである。悪の傾向とは怒りっぽいとか高慢などを例に挙げている。

JRF2024/4/68356

……。

>「なし得るならばなさんと意志する」ことと、「なした」ということとは神の御前においては全く同じである。<(p.39)

大陸法と英米法の違い、ドイツが中心の意思表示論の大陸法のことが思い浮かぶ。あと、近年では、マタイ 5:28 で想像した者も姦淫だというのに絡んで、表現規制が行われる部分との関係が問題となる。意外にドイツは想像による姦淫に寛容であるようだが。

《英米法と大陸法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_1.html

JRF2024/4/62422

……。

>彼は現在において人間が用意をととのえているのを知り給うならば、その人間が過去においてどうであったかは注目し給わない。神は実に現在の神である。今お前はどうであるか、神の見給うのはそれであり、そうしたものとしてお前を受け取り、抱擁し給う。(…)

JRF2024/4/64284

すべての罪により神の蒙[こうむ]り給う一切の害悪と一切の恥辱、それをしも神が喜んで耐えようとし給い、また久しく長い年月にわたって耐え給うてそれをよしとし給うのは、罪の経験を経て人間が神の愛の大いなる認識に高まり、その愛情と感謝が一層切実になり、その熱心が一層燃え上らんがためにほかならない。実にこれらのことは罪の経験の後にこそ当然しばしば起るのである。<(p.51)

JRF2024/4/69947

これも「悪人正機」説的だね。

ただ、こういった部分や、意思表示論的なものが、ドイツでナチスの登場を招いたかもしれないことを考えると、複雑な印象も抱く。

JRF2024/4/63819

……。

ポーロ(パウロ)がなしたようなことはすべての人がなせるわけではない。その人に与えられた様式がある。

>われわれはいかなる人間の様式をも、そこに彼らの熱き祈祷がこもっている以上、むしろそれに深き尊敬を払い、何人の様式をも侮ってはならないのである。<(p.63-64)

これは、後の新教による聖餐式の独自解釈などにつながる部分なのであろう。それはそれとして、私は、易占なども場合によってはこの「様式」として認められうると読みたい。

JRF2024/4/63301

『エックハルト説教集』を読んだとき、それとはあまり関係ないが『宗教学雑考集』《カミとシン》に次のように書き足した。

JRF2024/4/62660

>ところで、易占など一神教で禁じられがちな占い師が、「一神教の私のカミとあなたのカミは同じ者か」と尋ねられたら「違う」と即答するのはマズイ。歴史的には場合によって命に関わる質問だったからだ。

JRF2024/4/68845

物のはじまりを擬制したものを鬼[キ]と呼び、鬼と物の理も含めた全体的な働きを神[シン]と呼ぶ。あなたのカミはシンとも見える。占いは鬼神をうかがう。悪者に社会のことを聞けばそれなりに参考すべき意見が得られることもある。私はそれをも読む。カミをその背後に知ることもあるかもしれない。私はシンの働きを確信を持って述べることもあるかもしれないが、だから常に正しいわけではない。

…とでも言って質問から逃れるべきだろう。


このような「解釈法」ならば、易占も認められうると信じたい。

JRF2024/4/64490

……。

>いわば、断食に対し充分な覚悟のできている人だけが美食する権利と資格をもっているというべきである。

JRF2024/4/68705

多分このところに、なぜ神がその友なるある人々に対して数々の大いなる悩みを免れしめ給うかの原因が横たわっている。

JRF2024/4/69319

もしそうでなければ、元来悩みの中には多大の祝福が含まれており、神は己れに属する者たちがいやしくもなんらかの祝福において欠くるところあるを欲し給わず許し給わざる故に、かかる祝福の含まれている悩みを与えずにおくということは、彼の測り知れぬ誠実さのとうていなし得ないところであるだろうからである。ここでもまた彼は、真実に善き意志さえあれば充分なりとなし給うのである。もしそうでないとすれば、彼が人々に対してかくも無料の祝福を含むところの悩みを免れしめ給うということは有り得ないのである。
<(p.68)

JRF2024/4/60024

神義論のうち、「なぜ善き人が苦しむか」について、善き人でも苦しまないのは神が「幸運」…というか彼には不運であるが…にも彼をそれに耐え得るようにしなかったからで、苦しむのがデフォルトなのだ…ということのようだ。

神義論のうち「なぜ悪人が栄えるのか」については、答えないというか、エックハルトの示唆では、本当の「悪人」などいない…ということなのかもしれない。だから、先の論理で、苦しまないのだということだろう。

JRF2024/4/60989

……。

>人は一度ある善き生活法を採用したならば、終始そこに踏みとどまり、その中へ一切の善き生活法を包摂し、己れの生活法は神から受け取ったものであることをもっぱら注意し、今日はこれ明日はあれと転々とせず、「自分の生活法では何かが等閑[なおざり]にされているのではないかしら」などという不安は断乎[だんこ]として払拭しなければならない。<(p.89)

終身雇用主義というか、転職の禁というところ。天職の概念だろうね。もちろん、現代では、一つのジョブで複数の会社を渡り歩くのも「天職」のうちだろうけれども、当時においては、一所懸命が求められていたのだと思う。

JRF2024/4/68439

……。

懺悔は真にそれを意志した瞬間に許されている…ということらしい。社会的制裁はそれはそれで受けないといけないようだが。

JRF2024/4/64950

>ここに一人の盗賊があって、その盗みの犯行の当然の報いとして今や絞首の刑に処せられようとしている、あるいはまたある者が殺人罪を犯して法により車裂の刑に処せられようとしている、このときもしこれらの罪人が、「見よ、汝は今や当然の報いとして義のために責められんことを欲す」との心境に達し得たならば、彼はたちどころに浄福を得るであろう。まことにたとい我々がいかに不正なる人間であろうとも、もし神の我々になし給うところ、あるいはなし給わざるところを彼より見て正当なるものとして彼より直接に受取り、義のために責められるとすれば、我々は浄福であることができる。<(p.102-103)

JRF2024/4/62101

ただ、そこまで言い切れるというのは、エックハルトというのは罪のない善人だったのだろう。普通、自分に罪があれば、その罪がすべて許されるとまでは言えないものだから。私も言えない orz。

JRF2024/4/68971

……。

>さて私は言いたい、もし善かつ義なる人間が外面的な禍悪に出会って心の平和を乱されることなく、落着を持して変わらないならば、私の述べた「義なるものは、いかなることが起ろうとも、それによって悩まされることはない」という言葉は真である、と。これに反し、もし彼が外面的禍悪によって悩まされるとすれば、神がかくなし給いしことは -- すなわち、些々たる事物によってかくも容易に悩まされ悲しまされるにも拘[かかわ]らず自ら義とし、

JRF2024/4/61557

自ら義なりと己惚[うぬぼ]れていた人間に禍悪を下し給いしことは当然至極であり、神の正義なる以上、もはや彼は悲しむべきでなく、自己自身の生命よりもはるかにはるかに貴いものとしてそれを喜ばねばならないわけである。<(p.113)

イエスの苦しみやマリアの苦しみを外なる人間だけのものともエックハルトはする(p.197)のだが、そうだろうか、霊においてもやはり苦しんでいるのではないか。そういう人間のほうが魅力的のように思う。

JRF2024/4/65446

エックハルトのいうようなものなら私は「義なる人間」を自認したいとは思わないなぁ。というかそこまで義なる人間であるということがありえるのだろうか? エックハルトは自身を振り返ってありうるとしたのだろうな…。

JRF2024/4/60333

……。

>執着、快楽および愛はすべて、己れに等しきものから由来する。けだし万物は、己れに等しきものに対し執着と愛とをもつからである。<(p.119)

昭和のころは、「結婚するなら、趣味の似た人がいいか違う人がいいか」…という質問がテレビなどでもよくされた。趣味の似た人となら、共振し、違う人なら補完しあうということであろうが、何よりそれより、そういう質問を続けることで恋愛や結婚に関心を向け圧力をかけることに意味があったのだと思う。そういうのはいつからかテレビからは消えた。

JRF2024/4/69666

……。

>ただただ何事にしろ神の御意[みこころ]により起らざるを得ないというだけで、たとえその事が禍悪であろうと、よしんば一歩すすんで自分が地獄に堕ちるようなことであろうと、神とともにその事を欲するほどに己れの意志が神の中に在り、神の御意志と一であり、それに合一せしめられて居ってこそ、その人は善い人というべきである。<(p.121)

JRF2024/4/64914

上で書いた、エックハルトの言説がナチスを招来したのかもしれない…みたいなことを述べると、Gemini さんは、エックハルトの言説をナチスが利用したことはあったかもしれないが、エックハルト自身は、愛などを説いており、ナチスの準備したとは言えない…みたいにいう。しかし、アイヒマン裁判などを考えると、私は、影響があると思う。

JRF2024/4/61908

……。

罪は犯すべきではないというのはエックハルトも同じである。ただ、罪を犯してしまったそのことには意味があると考えるようだ。

>実に神は、ある場合において、わたくしが罪悪を犯したということをも欲し給うのであるから、したがってわたくしは、わたくしがそれを犯さなかったことを欲しないであろう。<(p.123)

もちろん、このすぐあとに補足する。

JRF2024/4/65236

>私が私のもっとも激しい苦悩を味わうのは、罪によるのであるから、私はいかなる被造物のためにも、たとえ幾千もの世界が永遠に私のものになるとしても、罪を犯したくないと思う。しかし、もし私がその苦悩をば神の御意より来れるものとして受取り、神の御意のままに委[ゆだ]ねるならば、それはもはや苦悩なき苦悩であるであろう。このような苦悩のみが実に完全なる苦悩である。<(p.123-124)

JRF2024/4/64407

……。

エックハルトは神において一になることを望む。

>さらに私は一歩をすすめて、自然の隠れた力なるものは、異質性を忌むと同じく、いやしくも内に差別分裂の含有される限り、同等性をもまたひそかに憎悪するものなることを言いたい。それが同等性において求めるのはただ唯一なる者のみであり、それをのみ同等性を通じて愛しているのである。<(p.135-136)

JRF2024/4/62834

世界が一つになることを望む人々がいる。そういう人はキリスト教系の印象がある。しかし、国や民族に分かれてあることこそが、自由をもたらし、(例えば戦争の緊張感によって)人を人たらしめることはあると私は思う。

エックハルトは、ここを読む限り、「世界を一つにする」ような考えとは一線をかくするようだ。

JRF2024/4/62443

……。

人生の苦難にあった人を慰めて、エックハルトは、人は苦難に遭うべきなのだという。

>いわんや我々が、神はいちじるしき便益を見込み給う以外は些々たる苦悩・損傷さえほとんど許容し給わぬことを確知するにおいてをや。<(p.154)

ここで、エックハルトは、神が与えたからにはその苦難には大きな意味があると示唆する。もちろん、それは生きている人生において意味があるかどうかはわからず、死後のバーチャルな世界も含めた超越的な意味かもしれないが。

JRF2024/4/62275

>さらに他の慰藉がある。聖ポーロは、神は、子として受容れ給う者を一人残らず懲[こら]しめ給う(コリント前書11:32参照)、と言っている。子である者には、悩むことが必要なのである。神そのものにおいて永遠の中に在る神の子は悩むことが不可能である。それ故に天の父は彼を時間の中へと遣わし、かくて彼は人間となって悩むことが可能となったのである。<(p.154)

「艱難汝を玉にす」ということわざがあるね。ググるとフランス由来のことわざらしい。

JRF2024/4/60553

>我々は、聖アントニウス(訳注……三、四世紀、エジプトの人、孤独禁慾の生を送る)がかつて荒野において悪しき霊たちによってはなはだしく苦しめられたことを読む。彼がこの試練にうち克ったとき我らが主は御姿を現し給い、ことのほか喜び給うたようである。そこで聖者は言った、「おお主よ、私がかくも大いなる苦しみの中にありましたとき、あなたはどこにおいでになりましたか?」と。ところが我らが主は答え給うた、「我は、今居るように間から少しも変わらずここに居たのである。我は、汝がいかに敬虔なるかを見て楽しまんとしたのである」と。<(p.155)

JRF2024/4/64321

苦しみは天上に行ったら良い思い出になるということだろうか。いや、そういうことではないな。

成長には苦しみがともないがちではあるが、成長が必ず苦しみを必要とするとは限らないし、成長のない苦しみもありうる。成長のない苦しみも成長の苦しみの準備として必要なことはあるかもしれないが、パワハラなんかもだから必要だとはならない。

JRF2024/4/67829

私もこころあたりがあるが、確かにいじめをした者が、その後、そうした罪に苦しむということがあるから、パワハラなんかも社会全体として成長を促すということはありえなくはないだろうが、昭和のころを思うと、パワハラは自然になくならなかった…社会の成長が難しかったのも事実であり、苦しみを単に是とするには私には抵抗がある。

JRF2024/4/61560

>神は我らとともに悩み給う(…)。彼は御自ら我らと悩みをともにし給うのである。まことに真理を知る者は、私の言の真なることを知っている。神は実に彼特有の仕方において、彼のために悩む人間よりは比較にならないほど激しく悩み給うのである。それで私はあえていう、もし神が御自ら悩むことを欲し給うならば、私は当然悩んで然るべきであると。もし私が正しければ、私は神の欲し給うことを欲するのが当然である。<(p.158)

JRF2024/4/60633

神は自ら悩む。ゆえに、彼に倣い苦行するのだということだろうか。彼を愛し彼に倣うがゆえに、神のために苦しむことが神を楽しませるのかもしれない。

神が悩むとは意外だが、彼が悩むことすなわち人間の自由意志の余地を作っているのかもしれない。神にとっての自由意志の不可能性を可能にしているのかもしれない。

JRF2024/4/68092

……。

病気が治らないことを欲する人がいる。その人は考える…。

>もし人が善くあるなら、彼はすべて神の欲し給うことを欲し、己れの欲することを神が欲し給うことなどは望まないからである。かかることは全く正しくないことである。さて今彼は、私が病気であることを欲し給うている -- もしそれを欲し給うていないならば、私は病気をしていないだろうから -- したがって私は当然健康であることを希望してはならない。<(p.166)

JRF2024/4/64682

私は思う。なにがしかの善きことのためにしか神は人を苦難に落とさないということであった。ならば、その善きことが起きるべき…そういう「ゆるし(緩し?)」(彼の罪へのゆるしでなくても)が欲しいと思うことまで、排除されるべきではないと私は思う。確かにそれには健康に戻るだけでなく、死にいたることが必要なのかもしれないが。それが必要以上に周りに負担をかけるのもいけないかもしれないが。しかし、通常の治療はゆるされているとして、それは受けても良いと思う。

JRF2024/4/67988

……。

離在(自己を離脱)することに関して、離在し神と霊魂の形を等しくする…。

>神と形を等しくするその度合に応じて彼は神の流入を受容しうる(…)。<(p.203)

「度合い」というのが、ちょっと引っかかる。神は善を超越していて、神に対して「より善い」ということは言えないというのがエックハルトの主張だった。ならば、離在に関しても、「度合い」の大小から、神に致る離在は超越してしかるべきではないか?

まぁ、しかし、そういう離在は人間(イエス以外)には不可能なのかもしれない。

JRF2024/4/64965

……。

>汝自身をあらゆる人間より離在してあらしめよ、汝をすべての外来の像によって混乱せしめず純粋に保持せよ、贅念をもたらし執着心と思い煩[わずら]いとを喚起するものすべてより汝自身を自由ならしめよ、汝の心を不断に溌剌[はつらつ]たる直観に向わしめよ、その直観において汝の胸奧に神を心眼を離れぬ常住の対象として、抱くべきである、そしてこのことを終局の目標として断食や不眠や祈祷などの諸々の勤行[ごんぎょう]を律し、この目標に汝を近づけ得るかぎりそれらを修むべきである、かくのごとくなしゆくならば、汝は完全性の目標に到達するであろう。

JRF2024/4/69871

ある人はこれに対しいうかも知れぬ、誰がそのように傍目[わきめ]もふらずに神的対象を注視しつづけることができようか、と。わたくしはこれに答える、誰も、この時間的世界の中に今日を生きるものの能[よ]くするところではない、と。
<(p.206)

前回([cocolog:94771542])書いた。

JRF2024/4/66125

>>
『宗教学雑考集 第0.8版』《善》
>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。<

エックハルトのいうような超越性は現実の人においては実現しないかもしれない。しかし、神が偽善を善とするように、超越性をその人の魂のものとすることもあるのかもしれない。
<<

だから、私は神においては完全性の目標に到達した人はいるのだろうと信じたい。

JRF2024/4/68472

……。

>第二に内的感官について了解するがよい。それは霊魂中に存在する高貴な力であって、高次のものと低次のものとある。低次のものは高次の力と外的感官との中間にあるものである。したがってそれは外的感官の近くに位置し、眼の見るところ耳の聞くところを直ちに意欲に伝達する働きをする。そしてそれが然るべきものであれば、意欲は直ちにそれを他の力すなわち観察力のところに伝達する。観察力はそれを直観し、それを第三の能力たる弁別の能力、すなわち理性のところに伝達する。<(p.208-209)

JRF2024/4/62624

仏教の十二因縁(十二縁起)論を思わせる部分である。

前回([cocolog:94771542])、次のように書いた。

JRF2024/4/69157

>>
なお、『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》では、>輪廻の理論が無意識に与える「死後、感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」という不安を断ち切る必要がある<ために、十二因縁論などの精緻化が起こるとしたが、キリスト教でも神秘主義あたりになると、輪廻の理論を経由せずに「死後、感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」の問題にいたるのかもしれない。それが、精緻化のための、禅に似た師子相承の関係を必要とするのだろう。

JRF2024/4/67579

ひょっとスピリチュアル系は、魂と肉体を分離できないため、精神病下での痛覚刺激を介して、必ずその問題にぶち当たるのかもしれない。
<<

実はこのときは、十二因縁論の似た論の具体的部分を知らなかったのだが、ここで知ったことになる。

JRF2024/4/63248

……。

>さてまず始めに預言者の「天よ地よ、よろこべ!」と語りし言葉を考えよ! まことにまことに! 神かけて神かけて! 次の事は神が生きてましますことの確かなるごとく確かであることを知れ、すなわち、もっとも僅少なる善き業といえども、もっとも微少なる善き意志といえども、いなもっともささやかなる善き欲望といえども、天上地上の全天使全聖者は非常な喜びをもってこれを喜び、その喜びたるや実にこの世の全体をもってしても与え得ないほどの大きさのものなのであるが -- そしてこの喜びはそれぞれの聖者の高貴さが大であれば大であるほどますます大であるが、

JRF2024/4/68675

しかもかかる大なる喜びを全部合わしても、これを神がこの業においてもち給う喜びに比較すれば実に一粒の扁豆に過ぎないほどに取るに微小さである、ということである! 実に実に神はこの善き業において真に遊び真に笑い給うのであって、神への讃美として生起したのでない他の一切の業は、神の前においてはまことに一握の灰のごとく些々たるものにすぎない。
<(p.309-310)

JRF2024/4/64853

上で「人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。」と書いたが、意志に限れば、善い意志というのはあるのだろう。誰しも無知で、限界はあっても、意志としては善いとせざるを得ない幼い意志があるのだと思う。それを神は多とする。…ということだろう。そして、社会もそれを多とすべきなのだ。私は年を取り、どうにか多としてあげる側に立つべきになっているのだが、残念ながら力不足で、社会に申し訳ない。

JRF2024/4/62034

……。

さて、後半はほとんど飛ばした。集中力が切れたというのもあるが、『エックハルト説教集』と重なる部分も多かったからである。

『エックハルト説教集』と『神の慰めの書』とを読んで、やはり、仏教の特に浄土教に似ているという他の人の意見と同じ意見を私も持った。

エックハルトは親鸞は時代的にも近く、今回の読書ではその時代の空気を感じたということだろう。

JRF2024/4/63214

特記すべきは、『エックハルト説教集』と『神の慰めの書』を読みながら、このひとことを書きながら、そのほぼ全部を Google Gemini さんに読んでもらったということである。そこで得た意見を参考にしている部分もある。AI とは言え、反応がもらえるのは精神衛生上、大変よろしいと感じている。ありがたい。

JRF2024/4/65336

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