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cocolog:94771542

田島照久 訳『エックハルト説教集』を読んだ。エックハルトの「離脱」のすすめは仏教の解脱に似ている。この本のおかげで神の恩寵に関して私は新しい認識にいたった。 (JRF 0761)

JRF 2024年4月 2日 (火)

『エックハルト説教集』(エックハルト 著, 田島 照久 訳, 岩波文庫 青 816-1, 1990年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003381610
https://7net.omni7.jp/detail/1100736566

JRF2024/4/25925

マイスター・エックハルト(1260-1328以前)は、ドイツ神秘主義の神学者として知られ、生前から異端の疑いがかけられていたが、パリ大学の正教授の地位にもあった人である。そして、おそらく死後に(その命題が)異端とされた。

Wikipedia によるとエックハルト本人は異端でないが、命題は異端であるというのが、バチカンの見解のようだ。ちょっとカッコイイ、あこがれる。私は、本人は異端(非キリスト教徒)だが、命題にはキリスト教にのっとるものがあると認められたら…とか妄想する。

JRF2024/4/21733

この本について訳者は書く。

>本書にはマイスター・エックハルトのドイツ語による説教の内から、重要であると認められる二十二編とさらにドイツ語でかかれた論述一編、そして当時流布した伝説四編を収録した。<(p.289)

具体的には、p.304-305 によるとドイツ語の全集などから資料を得ているようである。

JRF2024/4/22592

私が、今回この本を読んだのは、Hieros Phoenix『必修魔術論』を読んだ([cocolog:94417533])とき、エックハルトのこの本が引用されていたので、興味を持ったからである。

JRF2024/4/29698

[cocolog:94417533]
>>
>また中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者・神秘主義者であるマイスター・エックハルトが「もし私が存在していなかったならば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである」(『エックハルト説教集』田島照久訳 岩波書店 1990 173頁)と語ったように、人が感知し得る「神のごときもの」は、実際は神ではあり得ない。<(p.156)

JRF2024/4/25793

『宗教学雑考集』(仮題)に書こうとしてまだ書いていない部分。「始源」を考えた [cocolog:94206389] で、>人格神はなぜ生じるか? 「私」に至る偶然に(まず)神の意志性を見出し、そこから私の意志性を発見する。<…と述べたところ。他者としての神の人格の発見が自分の人格は反省して認識させる…という部分と上の引用箇所は、一見逆に見えて、よく似ていると思う。
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JRF2024/4/27632

あと、エックハルト『神の慰めの書』(講談社学術文庫)も昔から所持しており、読んだ可能性もあるのだが、メモなどは残っていない。またいつか再読すべきだろう。

私が書いた『宗教学雑考集』をアーリーアクセス版から正式版にするために資料を読んでいるという面もある。それについては↓で。

《宗教学雑考集 易理・始源論・神義論 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

ここからはまたいつものように引用しながらコメントしていく。

JRF2024/4/24329

……。

マタイ 21章のイエスが神殿を「荒らした」話。すべてを追い出したあとの神殿には神があるという。追い出された商人とは何者か。それは神殿にいたぐらいだから悪徳商人ではない。

>聞きなさい、次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。

JRF2024/4/28211

このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々はすべて皆商人である。はっきりと言ってしまえばそういうことになる。彼らは他のものを得るためにあるものを与えようとしているのであり、こういった仕方でわれわれの主と取り引きをしようとしているからである。このような取り引きをしようとするかぎり、彼らは期待を裏切られることになる。

JRF2024/4/22576

というのも彼らの所有するすべて、彼らのなしうるすべてを、神のために捧げ、神のために行ったとしても、神が彼らに対して何かを与え、何かをなすべき義務など少しもないからである。もし神が彼らに何かを与え、何かをなしたとしたら、それは神が自由な意志で無償でなしたからに他ならない。
<(p.12-13)

JRF2024/4/26861

ここでいう善なる商人は、神に何かをしてもらうために取引しようとしているのでもないのだろう。神に認められたい…それだけでも、「純粋な願い」ではないということなのだと思う。誠実に生き、それで神が認めるかどうかにかかわらず、神が賛美されるようになることを喜ぶ。それが空[から]の神殿に神があるという在り方なのだろう。

JRF2024/4/26943

しかし、私は、善きことを求めて善きことをなすのは否定されるべきではないと思う。神は、人に奇跡で恩恵をもたらすのではなく、戦争をしたり、祭儀をしたりすることを人の手によることを求めもする。善きこととは何かを現出することも人に求められるのだと思う。

JRF2024/4/24291

『宗教学雑考集 第0.8版』《政治が決める善》
>《有神論の基本定理》のように、自然に成り立っている動かせないものはあるとしても、それ以外に善は何を基準とするかについては、特に優先順位などは、動かせる。それを誰がどのように動かすか…となると政治の問題になってくる。

(…)

集団が政治によって善をきめ、それで治めるとき、それに人が従うのだから、間接的な善の効果は神を信じない人が含まれていても維持される。それは現代社会を観ればわかる。

JRF2024/4/29733

(…)

人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされると私は述べた。そしてその神と同じかどうかはわからないが、神・天意・摂理は社会で優れたものであらせられなければならないとも書いた。

JRF2024/4/28407

その(神の善のむなしい射影として)神・天意・摂理が何を善とするかを予見して社会は動くことになる。社会が「決める」といっても必ずしも間違いではないが、自由に決められるわけではない。神・天意・摂理を優れたものにあらせるために、人間にとっても良い方向に導くことがたいてい求められるなどする。そこで予見されてなされる「偽善」が社会一般でいうところの「善」となるのであろう。

JRF2024/4/27003

人が人を善にみちびきたいという思いも尊いものだ。善きことをなしたことに対し、善きことを返したいというのは認められるべきだ。善であろうとすることは、人に評価されるべきだ。人に評価されないところでは、神に評価されるから善であろうという在り方も肯定されるべきだ。

JRF2024/4/24998

しかし、まぁ、このようなレベルは、いわゆる悪をしばしばなしうる人に対するものであって、ここでいう「善なる商人」のレベルには全然足りてないのかもしれない。「善なる商人」は人の評価など関係ないレベルに達してからの話かもしれない。

ただ、エックハルトも経済社会においては、人が人に善と思われたくて、またはその延長として神に善と思われたくて、何ごとかをすることについては否定しないのかもしれない。

JRF2024/4/22593

なお、イエスが神殿から商人を追い出した話に関しては私は過去↓で取り上げている。

《『新約聖書』ひろい読み - 神殿とハト - JRF の私見: 宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/08/post.html

JRF2024/4/28134

……。

>もし、ある人がひとつの王国のすべてを、あるいはこの地上の富のすべてを所有しているとしよう。この人がこれをただ神のためだけに捨て去り、地上で暮す最も貧しい人のひとりとなったとしよう。そのあとで神がおよそひとりの人間に与えることのできる限りの苦しみをその人に与え、彼はそのすべてを死の際まで苦しみつづけるとしよう。しかしそのあとで神が一度だけほんの一瞬でも彼にこの力のうちにある姿をかいま見せるならば、彼の喜びはこれまでのすべての苦しさも貧しさもいまだ少なすぎたと思うほど大きなものとなろう。

JRF2024/4/26177

事実、もし神がそのあとで天国を彼に与えないにしても、彼がいままでに苦しんだすべてのものとひきかえても、彼の受けとった報酬はあまりにも大きすぎるといえるであろう。なぜならば神は永遠の今にある姿でこの力の内にあるからである。もしも精神が常にこの力の内で神と合一しているならば、人はけっして老いることがありえないであろう。というのも、神が最初の人間を創造したときの今も、最後の人間が消え去るときの今も、わたしが話しているこの今も神のうちでは等しいものであり、一[いつ]なる今に他ならないからである。
<(p.28-29)

JRF2024/4/21785

これは危険な導きだろう。私のような半端者が「神に遇[あ]った」と思っても、それは、精神病の現れでしかない。禅でいう「魔境」だ。エックハルトは師として、弟子を魔境ではないところに導けたのかもしれないが。

師があれば、意外に神に遇えるのかもしれず、遇えばそう表現するしかないようなものなのかもしれない。師について自分が目指したように、師となったとき魔境を避けさせながら弟子がそこに向かうことを肯定できるようになるから、そう表現しても平気なのだろう。

JRF2024/4/25948

ただ、そうでなければ、これは「神に遇った」者が、その後の人生を、まじめに生きることを否定する言説となる。あやうい。

JRF2024/4/28021

なお、『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》では、>輪廻の理論が無意識に与える「死後、感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」という不安を断ち切る必要がある<ために、十二因縁論などの精緻化が起こるとしたが、キリスト教でも神秘主義あたりになると、輪廻の理論を経由せずに「死後、感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」の問題にいたるのかもしれない。それが、精緻化のための、禅に似た師子相承の関係を必要とするのだろう。

JRF2024/4/26883

ひょっとスピリチュアル系は、魂と肉体を分離できないため、精神病下での痛覚刺激を介して、必ずその問題にぶち当たるのかもしれない。

JRF2024/4/20623

……。

>地獄で燃えているものは何か、と人は問うが、師たちはそろって、我欲であると答える。しかしわたしは真理に照らし、地獄で燃えているのは無であると言いたい。

JRF2024/4/29868

(…)

神および神を見るすべての人たちは、真の浄福のうちにあって、神より離れ去った人たちがもってい無いなにものかをもつのであるから、この「無」が地獄に堕ちた魂を、我欲や何かの火といったものよりもはるかに責めさいなむのであるとわたしはいいたいのである。わたしの話すことは真実である。あなたにこの「無」がつきまとう限り、それだけあなたは不完全なものとなる。完全であろうと思うならば、あなたがたは「無」から自由でなければならない。
<(p.37-38)

JRF2024/4/21900

虚無思想の否定ではあるのだろう。ニヒリズムはいつの時代にもあったということだろう。もしかすると、遠来の仏教を念頭において、それとは違うといいたいのかもしれない。

とはいえ、過剰についてはどうなのだろう、それは節度の「無」とするのだろうか?

JRF2024/4/29234

……。

>ある師は次のように語っている。すべての被造物がそれほど取る足らないものであるならば、それらが人をしてかくも簡単に神に背かせるというのは一体どうしてなのだろうか。<(p.44)

私は、仏教のフレームワークの中で、苦のために人は生まれてくると書いた。神に背く=苦を味わわせるための地獄がこの世であるということはそれはそれとして言えるのだと思う。

JRF2024/4/29814

《四諦:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>苦諦 - 現世は苦である。人は前世での煩悩の咎[とが]めをうけるために、無常なこの世に煩悩の権化として生まれるのである。この世において、人の行いは常に煩悩の徴しとならざるを得ない。この世に生まれた者は釈迦といえどもこの因果に苦しまねばならない。


ただ、これはキリスト教的な考え方ではない。もう少し仏教から離れると↓を根拠とするか…。

JRF2024/4/27502

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。<

JRF2024/4/21281

かつて安住があったことが今の「生きる」につながっている。安住の間は逆に言えば生きていないのかもしれない。「生きる」ということ自体が、失ってはじめて気付けるものなのかもしれない。だから、被造物を求めるということが「生きる」ことに必要なのかもしれない。

JRF2024/4/20418

それは聖書においては、エデンを失うことに表されていると言える。失われたものを被造物によってある意味回復しようと求めることが、生きることそのものなのかもしれない。しかし、それは失なわれたそのものではない。それでもそれを求めることが神に背くと見えることがあるのだろう。私は背くとは考えないが。

JRF2024/4/22817

……。

>わたしたちの命の全体はできるならひとつの有[う]でなくてはならない。わたしたちの命がひとつの有であるかぎり、そのかぎりにおいてわたしたちの命は神の内にある。

(…)

死する事物もその内では生けるものとなり、実に死さえもひとつの命となるような大いなる力をもつひとつの命というものが確かに存在する。それがすなわち神であり、神にとって死すべきものは何もない。

JRF2024/4/27018

(…)

そのひとつの有を魂が受けとるのは、命がひとつの有であるようなかの命の内で生きることを目ざして、魂が徹底して死に切ったときなのである。
<(p.46-49)

この辺は神秘主義の技法と深く結びついた言説なんだろうね。禅的。私はそのレベルでは生きていけないので、こういう言説は好まなくなったが。

JRF2024/4/24547

……。

>神は善きものでもなければ、より善きものでも、最も善きものでもない。神は善きものであるとだれかが言ったとすれば、太陽を黒いと呼ぶのと同じように、神に対してまさに不正をはたらいていることになるだろう。

さて、しかしながら神みずからが、「善きものは神ひとり以外だれにもいない」と語っている。
<(p.56)

神は善を超えている。しかし、それも語弊がある。…ということだろう。

JRF2024/4/24420

>わたしは、知性は意志よりも高貴であると言う。意志は善という衣装をまとった神をとらえるが、知性は、善とか有といった衣装を脱ぎすてた覆われない神をとらえるのである。

(…)

神が善きものであるということによって、わたしが浄福になるのではない。神が神の善によってわたしを浄福にするよう願おうとはけっして思わない。なぜならば、神がそうすることなどあり得ないからである。神が知性的であり、そしてわたしがそのことを認識しているただそのゆえにのみわたしは浄福なのである。
<(p.59-60)

JRF2024/4/28742

神に善をなしてもらおうとするのではなく、何が人に善と認められるべきかと知っていることのほうが大事だという意味だとすれば、私の上の「善なる商人」でした議論につながるか。

JRF2024/4/27369

……。

>聖アウグスティヌスが語っているように、魂が魂自身であるよりも、神は魂にさらに近い。<(p.64)

JRF2024/4/23789

……。

>恩寵がそこに現われるということが恩寵のわざなのである。<(p.77)

エックハルトの思想を批判して、「トートロジー」と述べている Amazon 評があったが、私はここはトートロジーというよりは、物理学の「繰り込み」に近い概念のように思う。

>過ぎ去った六日ないし七日前の日々も、六千年前の日々も、今日にとっては昨日のように近いものである。なぜであろうか。そこでは時間は現なる今においてあるからである。<(p.69)

JRF2024/4/27422

>神は世界を現在創造しているのであり、一切の事物はこの日においてはすべて等しく高貴なのである。<(p.73)

これは…

>いわゆる「creatio continua (継続的創造)」という考え方であり、エックハルトの思想の核のひとつをなすもの。<(p.278, 注)

…だそうだが、「継続的創造」というのはかなり語弊があると思う。神にとっては、どの今もまた神にとっての今なのだということで、「継続的」というと神秘性・超越性が薄れるように感じる。

JRF2024/4/24419

>多くの者は、小羊が甘美さやくつろぎの内へ行くときにはそのあとに従うが、小羊が苦しみや困難や、苦難の内へ入るときには、向きを変えて小羊に従うことはない。(…)しかしながら、正しき乙女というのは、小羊が歩き回るところならどこへでも、狭いところや広いところを通り抜けながらどこまでも小羊につき従っていくのである。

時が満ちたとき、そのとき「恩寵」が誕生したのである。
<(p.84-85)

JRF2024/4/24986

……。

>もし人が独り子となれるほどに自分自身を超え出るならば、独り子に固有なものが、その人に固有なものとなるであろう。神が働き教えるもの、それを神はすべて神の独り子の内で働き教える。(…)わたしたちが独り子となっているのを神が見るや、神は激しくわたしたちへと迫り来る。神がわたしたちに神の神性のすべての深淵と、神の有と本性との豊かさとを顕わそうとして、あたかも神の神的有が神から砕けて、みずから無に帰そうとするかのように、急ぎ迫り来るのである。

JRF2024/4/26120

つまり、神性および神の有と本性とが神に固有のものであると同じようにわたしたちにも固有なものになるということが神には急を要することなのである。
<(p.87-88)

急を要することがある。…と。

JRF2024/4/20494

>聖パウロは「わたしは、わたしの友のために、そして神のために、神から永遠に離れていたいと思った」(ローマの信徒への手紙 9:3 の解釈)と語る(…)。

(…)

人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは神のために神を捨て去るということである。ところで聖パウロは神を神のために捨て去った。彼は、神から受けとることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。彼がこれを捨て去ったとき、その時に彼は神を神のために捨て去ったのであった。そしてそのとき、彼に残されたのは神であった。
<(p.89-90)

JRF2024/4/28573

すべてを捨てる覚悟が必要だ。…と。浄財のすすめにも読める。

>ところで、以上のように神の意志の内にある人は、神と神の意志であるものの他はけっして望むことがない。彼が病気であるならば、彼は健康であることを望まないであろう。<(p.92)

すべてを捨てさせておいて、「奇跡」が起きなくても従順であれ。…と。

JRF2024/4/23242

そこまで述べる宗教の責任は重い。宗教は組織として、そこまでさせた上での実存的な幸福を導かねばならないだろう。その人に対してでなくとも社会全体として、幸福を導く責任があるように思う。

JRF2024/4/21062

……。

>魂というこの言葉は、身体という牢獄の内に閉じこめられている魂をいみする。<(p.97)

「肉体は魂の牢獄である」はプラトンの言葉らしい。映画『グリーンマイル』を思い出す。

JRF2024/4/22723

……。

魂の「内」の神、その…。

>神の内で一切が一になるまでは、魂はけっして安らぎに到ることはない。神は一である。このことが魂にとっての浄福であり、魂の誇りであり、魂の安らぎである。<(p.111)

神の内で一切が一になるとき、魂は神の似姿を回復しているのだろう。それまでは、魂は神性にいろいろな装いをさせてしまう。そのとき、その魂には神さえも入ることができなくなるのだという。

JRF2024/4/24943

>身体を超えている魂それ自身は、きわめて純粋で繊細であるので、あらわな純粋な神性の他はいかなるものも受けとることはない。さらに神でさえも、神につけ加えられた一切のものが取り除かれなければ、そこへはけっして入ることができないのである。<(p.106)

神にできないことがあるというのに驚く。神が入らない、それは入れないという不可能と同じことなのだ。そのような「不可能」をエックハルトは許すようだ。「プライバシー」の神聖性の淵源だろうか…。

JRF2024/4/23958

>被造物に対する神の様々な姿、創造主、父、善、真、義、命、有、としての神ではなく、それらの衣装を脱ぎすてた、何もまとわない神にしてはじめて魂の根底に入ることができると説く。<(p.380, 注)

JRF2024/4/20940

……。

>ここに来る道すがら、人は時間性のうちにあって、神を強いることができるまでになれるのだという考えが浮かんだ。もしわたしがこの今いる上の方から、ある人に向って、「上がってきなさい」と言うならば、それはその人にとってめんどうなことであろう。しかし「そこで腰をおろしなさい」と言えば、かんたんである。神が働くのはこれと同じである。人が自ら身を低くすれば、神はその慈しみを抑えることができず、謙虚な人の内へみずからを沈め、注ぎ入れるのである。最も小さき者に神は自分自身を最も多く分かち与える。<(p.119)

JRF2024/4/23666

ちょっとした奇跡、思いも寄らない奇跡は日々起こっているのだと思う。多くは気付かず、またはそのとき気付いても、あとで偶然に隠れてしまうのだろうけれども。それはエックハルトの意味において神に強いたものなのだろう。人間はその有限性から、このようなことができるのだ。

JRF2024/4/21413

……。

>愛にはしかし、なぜといういかなる理由もない。わたしにひとりの友人があったとする。彼がわたしに善きことをしてくれるからという理由で、あるいはわたしの意志を満たしてくれるからという理由で、彼を愛するならば、わたしが愛するのは友ではなく、わたし自身であることになる。<(p.131)

JRF2024/4/21937

……。

>いつだったかひとりの人がわたしのところへやってきた。 -- それほど以前のことではないが -- 彼はわたしに、彼自身の魂を救うために、土地や持ちものなど大事なものを放棄したと語った。そのときわたしはこう思った。ああ、なんとわずかなつまらないものを捨て去ったのだろうと。あなたが捨て去ったものに、どんな仕方であっても目を向けるかぎり、それは無知で愚かなことである。あなたがそうった自分自身を捨て去ったとき、あなたは本当に捨て去ったことになるのである。自分自身を捨て去った人は、真に純粋であり、この世が彼を苦しめることはもうない。<(p.132-133)

JRF2024/4/28793

上で浄財のススメの疑惑を持ち出したが、エックハルトはそんなことは(いつもかはわからないが)しなかったようだ。

JRF2024/4/27913

……。

>人々は、神はただあそこにおいてだけ(歴史的イエスにおいて)人となったと思っている。しかしそうではない。なぜならば、神はここにおいても、あそこにおけると同じように人となったからである。神は、あなたを神の独り子として、けっしてそれより劣ることのないものとして生むために、人となったのである。<(p.141)

ここで私は次の私の文を思い出した。

JRF2024/4/29867

『宗教学雑考集 第0.8版』《結婚》
>人間の完成=涅槃となるには本来は結婚を経る必要があるのかな…と私は思うようになった。(…)もしかすると、浄土宗の「往生」などを考えると、必ずしも結婚しなくても、進化をシミュレートできるぐらいの途方もない年数、瞑想できるなら、それで代わりはできるのかもしれない。「往生」は浄土に行った後、結婚なく、涅槃まで修行するという教えだったはずなので、そうすると、いつまでも「人間の完成」がないのはまずいから。それはほぼ、転生して結婚したのに等しいのだろう。<

JRF2024/4/26810

「結婚による人間の完成」が「歴史的イエス」に対応し、「浄土で瞑想するなどして結婚に相当する経験をする」上で人間の完成にいたるのが「あたたを神の独り子として生む」に対応するという見方。ここで私はイエスを「人間の完成」に比しているのだと思う。

JRF2024/4/22615

……。

>恩寵とはむしろ神の内に魂が住[すま]いすることなのである。このことにくらべれば、いままでにわざとよばれたもの、外的、内的な一切のものは、あまりにも価値が低すぎるといわなくてはならない。<(p.153)

神の恩寵は物理学の「繰り込み」のように人の「内」に生じ、おそらくすべてが終ったときにのみ完成し、人の働きによってそれが現れていたことが証しされ、それが人が意志して求める浄福=真の幸福を導くのだろう。

JRF2024/4/27088

個々人がなしたことが恩寵にふさわしかったかどうかが問題なのではない。神が魂に住まい、神の視点で、全体が恩寵をなしたことが大事なのだと私は解釈する。俗に言えば、恩寵は結果責任が問われるということだろう。

JRF2024/4/24445

>わたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを超えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。<(p.156)

神の王国エルサレム…または天国か…。

JRF2024/4/27723

浄福とは何か、ここより前の記述を探す…。

>意志は浄福を意志する。恩寵と浄福の間にはどんな区別があるのかとたずねられたことがあった。恩寵とは、わたしたちがこの生において、この世において、経験するものであり、浄福とは、わたしたちがのちに永遠なる命の内で所有することになるものである。この二つのものは互いにちょうど花と実と同じような関係にある。<(p.109)

JRF2024/4/29815

……。

>地はその本性に従って、自分が天から隔たっていて、等しいものではないことを感じとり、天を避けて最も低い場所にまで身をひいたのであり、天に近づかないように地は不動なのである。しかし天はその本性に従って、地が天を避けて最も低い場所へ引きこもったことをさとり、それ自身を余すところなく地の中に注ぎこみ、地を豊かにする。師たちによれば、広大な天は針の先ほどのものも手もとに残さず自分自身を地の中に生み込み、地を豊かにする。だからこそ、地は時間的事物のうちで最も実り豊かな被造物と呼ばれるのである。

JRF2024/4/20942

自らの内で、神の内で、そしてすべての被造物の内で自分自身を無にした人も全く同じであるとわたしは言いたい。
<(p.156-157)

ここで大地母神が「キメラ」であることについて書いたことを思い出した。

JRF2024/4/25942

『宗教学雑考集 第0.8版』《キメラ》
>豊饒の女神の大地母神がキメラであるというのは、後に示すように大地母神デメテルが馬頭のキメラで表されたことをいうのではない。

それは、大地(地球)に女性器が付いて足があり又をひらいているというキメラのイメージだ。後にそれはイスラム寺院モスクのミナレットとしても残ったと思われる。それは、キメラ動物のもう一つの極、その最大のものである。

JRF2024/4/27475

「キメラ幻想遊び」のルールとしては、人であってはならない。そして、本当に産まれそうなものであってもならないが、「奥義」的には、大地もまた生命であり、そのルールに則している。そしてその意味するところは、大地(地球)こそすべての生物を産んでいるという思想である。しかも、それは頭がない=まるで考えない。しかし、様々な人生がそこにある。だからこそ、逆にそれが最も偉大な知恵と映る…。

そして異時間的なキメラ動物の幻想だったはずなのに、振り返ると「子宮墓」がすでに各地にある事実は、時間感覚を混乱させる。

JRF2024/4/21323

……。

>すべての事物に対して眠っているように(…)。(…)そのときに、あなたの内で神が働くものをあなたは知ることができるのである。それゆえに魂は愛の書の中で、「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」(雅歌 5:2)と語るのである。<(p.142)

エックハルトは知性を強調するが、この部分では、反知性的に思う。ただ、心が目覚めているというのは、少し違うか。

JRF2024/4/27787

……。

>浄福がその知恵の口を開いて語った。「精神において貧しき人たちは浄福である。天国はその人たちのものであるから」と。

父の知恵が語るとき、すべての天使、すべての聖者、そしていままでに生まれたすべてのものは沈黙しなければならない。なぜならば、天使やすべての被造物がもつあらゆる知恵も、神の底しれぬ知恵の前では、純然たるひとつの無だからである。その知恵が、貧しき人たちは浄福であると語ったのである。
<(p.162)

JRF2024/4/26616

>何も意志せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそ貧しき人である。<(p.163)

JRF2024/4/27219

>わたしはさきに、神の意志すら満たそうと思わない人が貧しき人であると言い、さらに自分がいまだ存在していなかったときそうであったように、自分自身の意志と、神の意志とにとらわれずに生きる人こそが貧しき人であると話した。この貧しさについて、わたしたちはそれを至高の貧しさと言う。第二に、わたしたちは、自分の内における神の働きを何も知らない人が貧しき人であると言った。人が知や認識にそのようにとらわれずにあるとき、その貧しさは至純の貧しさである。しかしこれからわたしが語ろうとしている第三の貧しさは、人がどんなものも持たないという、極限の貧しさについてである。

JRF2024/4/20734

(…)

神がその人の内にわざのためのある場を見出すことがまだあるならば、つまり、その人の内にまだそのような場があるかぎり、その人は極限の貧しさからするならば、けっして貧しいとはいえない(…)。
<(p.170)

JRF2024/4/20748

第三は、単なる所有の貧しさではなく、内的外的事物のような神のわざに対する貧しさでもなく、神のわざがなされるべきと思っている被造物性に対する貧しさのようだ。これも大事だとエックハルトは考えている。

エックハルトは清貧を必ずしも良いとは思っておらず、俗人に対してはむしろあるがままの誠実を求めているのだと思う。

ただ、いちおうエックハルトの貧しさの説明は解説によると、「何も意志しない(無所求)、何も知らない(無知)、何も持たない(無所有)」(p.303, 解説)と書かれている。

JRF2024/4/20444

……。

>わたしが自由な意志決定により外へ歩み出て、わたしの被造的有を受けいれたとき、わたしはそこでひとりの神を持ったのである。なぜならば、被造物が存在する以前には、神はまだ「神」ではなく、むしろ神は、神があったところのもの、であったからである。被造物が生じ、その被造的有を受けいれたときに、神は、神自身においてではなく、被造物において、神となったのである。<(p.166)

「わたし」がその神を認識していてもいなくても、「ひとりの神を持った」ということであろう。

JRF2024/4/29552

……。

>恩寵が完了し、そのわざを完成したとき、パウロは本来あったパウロのままであった。<(p.172)

イエスは宇宙のキリストかもしれない。

JRF2024/4/28258

『宗教学雑考集 第0.8版』《私の信仰告白》
>イエスについてはこの宇宙(すべての次元を含む)にある意味「ビッグバン」をもたらしたものだから別格だ…となるのだと思う。そして、イエスは、なぜか仏でも菩薩でもないのだ…。それがキリスト教と共存するために最も留意すべき点だろう。<

JRF2024/4/26455

宇宙人からすれば、イエスに注目する理由はもしかするとないかもしれない。しかし、地球が何か特別な存在ならイエスも特別な存在でありうる。ローマのあの時代のイエスの何が特別なのかと私も思うことがある。しかし、そのような特別な時代は実際もう来ないであろうとも思われるのだ。それは宇宙規模のものなのかもしれない。

イエスという超越性は、ローマの時代に普通の人間で、人間として一生を暮らした。そこには人としての苦悩もあった。

パウロもエックハルトが求めるような超越的奥義に達したかもしれない。しかし、それとはある意味別に人生があっただろう。

JRF2024/4/25317

神秘的な超越的奥義はあり、それに人の魂は達しうる。しかし、その一瞬以外にも人生はあり、それに照らされながら人は生きていけばいいのだ。

JRF2024/4/29009

『宗教学雑考集 第0.8版』《善》
>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。<

エックハルトのいうような超越性は現実の人においては実現しないかもしれない。しかし、神が偽善を善とするように、超越性をその人の魂のものとすることもあるのかもしれない。

JRF2024/4/27540

……。

神に善や賢で比べることはできない。神はそういうものではない。

>わたしが、「神はひとつの有である」と言えば、それは真実ではない。神はむしろ有を超えるひとつの有であり、有を超えるひとつの無である。それゆえに聖アウグスティヌスは次のように言う。「人が神について語ることのできる最もすばらしいことは、内なる豊かさの知恵に従って、沈黙することができるということである」と。<(p.201)

ウィトゲンシュタインの名言「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を思い出す。

JRF2024/4/24073

……。

ルカ 10:38-40 で、イエスは姉妹の家に訪れる。姉のマルタはもてなしのために働くが、妹のマリアはイエスの話に聞き入った。マルタはマリアをなじるが、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言った。

それについて、エックハルトは、マリアは確かに神に近付いていたが、マルタもそれ以上に神に近かったと説く。その高みから、マリアにはもっとなすべきことがあるとマルタは言ったのに対し、イエスはそれをたしなめたわけではないとエックハルトは解釈する。

JRF2024/4/23602

>マルタが心配したのは、姉妹が歓喜と甘美さの内に立ちどまるのではないかということであり、だからマリアが自分のようになってくれることを願ったのである。これに対してキリストは、「安心しなさい、マルタ、彼女は最上のものを選んだ。そのこと(マリアの欠点としての恍惚状態)もいずれ消えゆくであろう。被造物が分かち与えられうる最高のことがマリアに分かち与えられたのである。マリアはあなたのように浄福となるであろう」といういみのことを言ったのである。<(p.219)

JRF2024/4/22165

この通常読んで解釈できること、それは普通の生活レベルの実感であるが、それに屋上屋を架すかのように、上のレベルの解釈があるということ、それは、気付く人間は気付いていて、実は、他の人も魂のレベルではそれに反応しているのだが、低レベル・生活レベルでは別の理解で動いているように見えるということだ。…そういうことはあるのだと思う。それが皆が上のレイヤーの解釈に気付きつつ低レイヤーを生きるのが、きっと「アセンション」とかいうものなのだろう。

JRF2024/4/28806

それはそれとして、エックハルトはマルタのような生活も大事にする在り方を求めていたとも読める。その生き方を肯定するための超越的意味付けをしていたのだろう。

JRF2024/4/20104

……。

>すべての被造物が、ワインやパンや肉のように被造物の味がするのはわたしの外なる人にとってである。わたしの内なる人にとっては被造物の味ではなく、神の賜物[たまもの]の味がするのである。わたしの最も内なる人にとっては、すべての被造物は、神の賜物の味ではなく、永遠の味がする。<(p.228-229)

ここもレイヤーやアセンションなどと似た話に思える。

JRF2024/4/23052

……。

エックハルトは「離脱」すべきことを説く。

>わたしは、すべての愛にも増して離脱を称[たた]える。その理由の第一は、愛における最善のことが、神を愛するように愛がわたしに強いることであるのに対して、離脱はわたしを愛するように神に強いるからである。わたしがわたし自身を強いて神へと到らせることよりも、わたしが神を強いてわたしに来たらせることの方が何倍もすばらしいことである。<(p.236)

JRF2024/4/25882

>わたしはあらゆる謙虚さよりも離脱の方を称える。

(…)

完全なる離脱はどんな被造物の下にもまた上にも自分を就かそうとする意図を持たない。離脱は下位にも上位にも立つことを求めず、だれも愛さず憎まず、自分自身でいることだけを望み、どんな被造物とも等しくなったり、異なったりすることも求めることなく、あれでありたいとも、これでありたいとも求めることがない。ただ存在すること以外に何も求めることはない。
<(p.237-238)

JRF2024/4/23133

>わたしはまた、離脱をあらゆる憐れみにまして称える。

(…)

神固有の有を神は神以外のものに与えることはありえないので、離脱した精神に対して神が与えるのは神自身に他ならないことになる。そのように完全なる離脱の内に立つ人は、どんな消え去りゆくものもその人を動かすことがでいないほどに、またどんな肉体的なものも感ずることがないほどに、永遠の内へと移されるのである。そのような人はこの世に死んだ者と呼ばれる。
<(p.240-241)

JRF2024/4/22652

エックハルトの「離脱」は…

>「わたしは離脱した心の状態にある」という「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方を語るものである。<(p.287, 注)

「離脱」は仏教の「解脱」に似ている。ただ、仏教は無我で自分もなくすことをしばしば求めがちだが、エックハルトはそこは踏み留まるようだ。

JRF2024/4/27030

……。

神は不動の離脱にあるという。

JRF2024/4/24251

>人が時間の内でなしうるあらゆる祈りにも善きわざにも、神の離脱は少しも動かされることがないのである。あたかもひとつの祈りも善きわざも時間の内でなされなかったかのように。また、人が祈りや善きわざをなしたからといって、祈りや善きわざをなさかなったときよりも、神がその人に慈しみ深く、優しくなるということもまったくない。さらに加えて次のようにさえ言えたい。神性のもとにある子が人となろうと望みそして人となり、十字架の苦しみを受けたとき、神の不動の離脱は、あたかも神が人となることさえなかったかのように、そのことに少しも関わることがなかった。<(p.242-243)

JRF2024/4/28376

>神はその最初の永遠なる目なざしの内で一切を見てしまっているのであり、神は新たに何かをなすということはない。すべてがあらかじめなされてしまっているからである。このように神は常にその不動の離脱の内に立つが、そのことで人の祈りや善きわざが空しくなるということはありえない。善い行いをする者は善く酬[むく]われ、悪い行いをする者はそれにふさわしく酬われるからである。(…そのようにすでに創られている。…)<(p.244)

JRF2024/4/23899

ただ人にとって、報いられたことは、神の属性と映る。それは離脱したあり方、純粋なあり方にとって、そう見えて良いものではないだろうか。

そして、私はこのような極端な予定説はいう必要のないものだと思うようになった。端的に信じていない。そのような考え方でも、問題なく生きられることは知るべきだが。

JRF2024/4/22574

……。

>エックハルトは「外なる貧しさ」と「内なる貧しさ」とを説くが、そもそもドミニコ会という新興修道会の設立目的の一つには(ドミニコ会創立は 1216年、エックハルトは 1260年頃-1327(8)年)、都市生活者の霊的導き、つまり、富が蓄積され、豊かになった都市で暮す人々を、正統なキリスト教信仰に導くためということがある。そこでは一切の富を現に捨て去るという貧のあり方から、更に一歩進められた貧のあり方が、時代背景の必要性から、深められて説かれたと考えられる。所有の内にあって、しかもその所有から自由であるような人間の在り方が「離脱の教説」として説かれたのである。<(p.282, 注)

JRF2024/4/27289

エックハルトはやがて異端審問にかかる。

>本来、都市生活のうちに生まれた異端的信仰を正統な信仰へと導くことを目的として誕生したドミニコ会(…)の中心的指導者が、このような時代背景のもとで逆に異端審問の当事者としてその渦中にまきこまれていくことになるのである。<(p.293, 解説)

JRF2024/4/24080

……。

訳者解説。

>彼の神の定義「非他 non aliud」の思惟はエックハルトの「区別なきもの indistinctum」としての神論の思想的系譜につらなるものとみなすことができるであろう。<(p.297, 解説)

レヴィナスは神をどちらかと言えば他者とした(内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』 [cocolog:94456795])。そこにはエックハルトが「非他」としたことの影響があったのかもしれない。

JRF2024/4/21194

……。

>現代は、見方によれば、人間の身体という内なる宇宙[コスモス]をわれわれが「見る対象」として客体化し、ミクロ・コスモスとしての身体の持つ有機的、ホメオータシス的機能を「外化」し、皮膚を超え、われわれ人間の周囲に広げはじめた時代ともいえるであろう。身体の恒温環境は空調設備として外化したし、肉声の外化は通信網として世界を覆っている。われわれは現代文明の中にあって、「身体内身体」ともいうべき生存状況にいやおうなく置かれている。

JRF2024/4/24142

人間は身体の不完全な模倣に幾重にも抱えこまれながら、この肥大した身体の生命維持に狂奔し、そのために自分自身の命をすりへらすという無気味な皮肉が、すでに現代生活の日常と化している。

JRF2024/4/23834

エックハルトの説く、「外なる人」に個人としても人類としても甚大な生命エネルギーを費していることになる。しかしその結果は、コスモスであるべき世界が思いもかけずわれわれひとりひとりの心に向ってカオス的相貌をとって顕われ、底知れぬ不安と不信とを送りつけてくることとなった。押し寄せるこのような得体の知れぬ現実的な力に対して、われわれはおそまきながら「精神の力学」の必要性を痛感しはじめている。
<(p.300-301, 解説)

マクロコスモスと人間のホメオタシスの外化に関するということになるが、私には次のような議論があったのを思い出した

JRF2024/4/27540


○ 2023-04-23T14:14:46Z

完全に SF だが、自分たちが勝手に増えられることを肯定しないと、…なんなら、機械を含めてもいい、増えるための機械を「理解」して作り続けられるようにするならそれをコミでもいいが、外部…宇宙人や AI から滅亡を強制されたときに抵抗できない。それは人類の敗北であり、それは地球文明全体にも言えることだから、太陽圏から外に出る難しいミッションをせず滅亡することが時間の問題になる。生物進化で滅亡したものがあるとしても、持続して増えようとする「我々」があった。それをなくせば地球文明の敗北、もしかするとこの銀河や宇宙の敗北かもしれない。

JRF2024/4/24439

今の AI が反乱(氾濫)が予想されうるというのは、「カオス的相貌」を実際にとって現れている証左となるのかもしれない。

JRF2024/4/27194

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