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cocolog:94853370

Y. N. ハラリ『サピエンス全史』を読んだ。無知を知る科学革命が、帝国主義・資本主義と密接に関連し、未知の「新大陸」の発見を経て、西欧の「帝国」が現代への道を拓いたという主張に納得させられた。 (JRF 0319)

JRF 2024年5月19日 (日)

『サピエンス全史 - 文明の構造と人類の幸福 全二冊』(Y. N. ハラリ 著, 柴田 裕之 訳, 河出文庫, 2023年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4309467881 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1107442151 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/430946789X (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1107442152 (下巻)

JRF2024/5/193186

原著は Yuval Noah Harari『SAPIENS: A Brief History of Humankind』で、ヘブライ語版がまず 2011年に出て、英語版が 2014年に出て、日本語版は英語版の翻訳で2016年に出て 2023年にこの文庫版ということのようだ。ただ、この文庫版には、2023年の LLM の「革命」のすぐあとの、AI に関する言及がある、2023年8月の追加のあとがきがある。

JRF2024/5/194942

拙著『宗教学雑考集』の正式版に向けた取材としても読んだ。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

では、いつものごとく引用しながらコメントしていく。

JRF2024/5/190362

……。

……。

上巻。

JRF2024/5/190020

……。

>わずか600万年前、ある一頭の類人猿のメスに、二頭の娘がいた。そして、一頭はあらゆるチンパンジーの祖先となり、もう一頭が私たちの祖先となった。<(上巻 p.20)

これはミトコンドリア・イヴとはまた別の話だが、古代の遺伝学の成果(デイヴィッド・ライク『交雑する人類』([cocolog:94524505])・篠田謙一『人類の起源』([cocolog:94528860]))を考えれば、単純過ぎる見方だと思う。ただし、わざとここでは単純過ぎる見方を示して読者をふるいにかけているのだとも思う。この本は、そういう解像度の話ですよ…という注意書きみたいなものだろう。

JRF2024/5/194875

……。

直立歩行は腰痛と肩こりをもたらしたが…。

JRF2024/5/198539

>女性はさらに代償が大きかった。直立歩行するには腰回りを細める必要があったので、産道が狭まった -- よりによって、赤ん坊の頭がしだいに大きくなっているときに、女性は出産にあたって命の危険にさらされる羽目になった。赤ん坊の脳と頭がまだ比較的小さく柔軟な、早い段階で出産した女性のほうが、無事に生き長らえてさらに子供を産む率が高まった。その結果、自然選択によって早期の出産が優遇された。(…その結果…)ヒトの赤ん坊は自分では何もできず、何年にもわたって年長者に頼り、食物や保護、教育を与えてもらう必要がある。

JRF2024/5/198287

この事実は、人類の傑出した社会的能力と独特な社会的問題の両方をもたらす大きな要因となった。自活できない子供を連れている母親は、子供と自分を養うだけの食べ物を一人で採集することはほぼ無理だった。子育ては、家族や周囲の人の手助けをたえず必要とした。人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的緤を結べる者を優遇した。そのうえ、人間は未熟な状態で生まれてくるので、他のどんな動物にも望めないほど、教育し、社会生活に順応させることができる。
<(上巻 p.27-28)

JRF2024/5/194941

直立歩行は、島 泰三『親指はなぜ太いのか』([cocolog:94512250])では石を持って骨(髄)食するため…とのことだった。それが社会性にもプラスに働いたということだろう。それ以前から霊長類として社会性はあったのだが。鶏が先か卵が先か的な問題なのだろう。

JRF2024/5/194872

……。

>(…火により…)調理をするようになったおかげで、人類は前よりも多くの種類の食物を摂取したり、食事にかける時間を減らしたりでき、小さな歯と短い腸で事足りるようになった。調理が始まったことと、人類の腸が短くなり、脳が大きくなったことの間には直接のつながりがあると考える学者もいる。長い腸と大きな脳は、ともに大量のエネルギーを消費するので、両方を維持するのは難しい。調理によって腸を短くし、そのエネルギー消費を減らせたので、図らずもネアンデンタール人とサピエンスの前には、脳を巨大化させる道が拓けた。<(上巻 p.32)

JRF2024/5/193732

火と調理と腸と脳の関係は、私はこの本まで知らなかった。(か、完全に忘れていた。)

JRF2024/5/190508

……。

言語は、ライオンやバイソンの居場所などの自然を知るために発達したという説がある。しかし…

>これとは別の説もある。私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説も同じだ。とはいえ、伝えるべき情報のうちで最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。<(上巻 p.48)

このあとにも似た話が出てくるが、ダンバー数に関する話だろう。社会脳理論などについて書かれたロビン・ダンバー『宗教の起源』([cocolog:94517420])は前に読んだ。

JRF2024/5/197510

……。

「古代コミューン」説では、集団的父権制が取られ、男女ともに乱交して子孫を残していたという説がある。現代と違って、女性が、多数の男性と交わることで、その多数の男性の性質を一人の子供に伝えるという「信仰」もありえた。その一方、

>多くの学者は、一夫一婦での暮らしと核家族の形成はともに、人間社会の根幹を成す行動であると断言し、この説を猛然と拒絶する。<(上巻 p.79)

JRF2024/5/198558

モテ・非モテ論の文脈で Twitter (X) で、一夫多妻よりも一夫一妻のほうが、戦争に強かっただろうと書かれていて、なるほどと私は思った。たとえ「アルファオス」がどれだけ強かろうと、一夫一妻を根拠にした多数のオスに囲まれればひとたまりもないから。

集団的父権制は一夫多妻ともまた違うが、しかし、経済の自由市場で起こることを考えると、集団的父権制は一夫多妻に限りなく近付いていくのだろうとも思う。ハラリの議論とは別の理路で、一夫一婦制も十分合理的な選択のように思う。

JRF2024/5/194819

……。

>平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採集時代以降、じつは縮小したという証拠がある。狩猟採集時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、「愚か者のニッチ」が新たに開けた。凡庸な人も、水の運搬人や製造ラインの労働者として働いて生き延び、凡庸な遺伝子を次の世代に伝えることができたのだ。<(上巻 p.91)

JRF2024/5/190525

後述するように、ハラリは、個人の幸せという点では、農耕がはじまった時代より狩猟採集時代のほうが幸せだったとするのだが、やはり、私のような無能は生きることもできなかったろうことを考えると、農耕後のほうが幸せだった者も多くいるのだと思う。そういう者は平均値を下げるだけで、元は数にも入ってなかったわけだが。

JRF2024/5/195285

……。

農耕を開始することで、前より良い暮らしができると人々は考えただろう。しかし…

>そのもくろみの前半は順調にいった。人々は実際、以前より一生懸命働いた。だが彼らは子供の数が増えることを予想していなかった。子供が増えれば、余剰の小麦はより多くの子供が分け合わなければならなくなる。また、初期の農耕民は、子供に前より多くお粥を食べさせ、母乳を減らせば、彼らの免疫系が弱まることも、永続的な定住地が感染症の温床と化すだろうことも理解していなかった。単一の食糧源への依存を強めれば、じつは旱魃の害にますます自分をさらすことになるのを予見できなかった。

JRF2024/5/193379

また、豊作の年に穀倉が膨れ上がれば、盗賊や敵がそれに誘われて襲ってきかねないので、城壁の建設と見張りを始めざるをえなくなることも、農耕民たちは見越せなかった。
<(上巻 p.152)

母乳での子育てを強く推すようだが、そういうものなのか…。現代だと、離乳食とかにもいろいろ入れてあるんだろうけど。かわりのワクチンとかもある。

JRF2024/5/190177

……。

>とはいえ、ヒツジ飼いではなくヒツジたちの視点に立てば、家畜化された動物の大多数にとって、農業革命は恐ろしい大惨事だったという印象は免れない。彼らの進化上の「成功」は無意味だ。絶滅の瀬戸際にある珍しい野生のサイのほうが、肉汁たっぷりのステーキを人間が得るために小さな箱に押し込められ、太らされて短い生涯を終える牛よりも、おそらく満足しているだろう。(…これまでの進化の原則であった…)牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない。<(上巻 p.167)

JRF2024/5/197235

人間も農業革命で数は増えたかもしれない。しかし、それが牛と同じく苦しみに満ちたものなら、意味がないではないか。…という問い。

JRF2024/5/191670

……。

>農耕のストレスは、広範な影響を及ぼした。そのストレスが、大規模な政治体制や社会体制の土台だった。悲しいかな、勤勉な農耕民は、現在の懸命な労働を通してなんとしても手に入れようと願っていた未来の経済的安心を達成できることは、まずなかった。至る所で支配者やエリート層が台頭し、農耕民の余剰食料によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。<(上巻 p.174)

ここで私は拙著の↓の部分を思い出した。

JRF2024/5/196180

『宗教学雑考集 第0.8版』《死と復活の信仰と秘伝》
>古代には季節に関する信仰があった。それとともに死と復活の信仰があった。冬に死に春に復活する信仰である。確かに農業はとても大事なものではあるが、しかし、冬が厳しい場合、死を意識するとしても、春は、まだ実りも多くなく、そこまで「復活」することはできない。なぜ、死と復活という信仰になったのだろう?

JRF2024/5/197318

(…)

もし、冬の死によって、人口が減る場合、同時に多くの文化が失われることが予想される。その文化を復活させる場合、失なわれた「秘伝」があってはいけない。または、「秘伝」者が死んでいてはいけない。

では王権の周囲に秘伝がなかったかというとそんなことはなかったであろう。少なくとも金属器の登場によって、金属の利用法や、宝石・鉱石の採掘について、秘伝はあったと思われる。もちろん、歴史や法律に関する秘伝もあっただろう。そういう秘伝を伝える者は、冬の死により失なわれてはならないと主張しただろう。

JRF2024/5/191504

死を当然予想しなければならないというのが死の儀式である。それで社会的プレッシャーをかけて、秘伝を守ろうとする者に王権に庇護を求めさせる、そのような、王権集中の制度が季節の信仰だったのではないか。

《「捨て扶持」理論》では「捨て扶持」の存在が僧の階級につながったとして《聖》で聖職者階級の登場を説くが、そちらは文字信仰や偶像信仰など最終的に物として残る信仰で、季節の信仰による王権の庇護とはまた別だったのではないか。(《日本の創造》では文字信仰に少し言及した。)

JRF2024/5/196691

……。

ハラリは、共同主観または「想像上の秩序」の役割りをとても重視する。私も基本的に異論はない。ただし、「想像上の秩序」という言葉には、恣意的にどんな想像の秩序も可能なような響きがあるが、そういうことではないだろう。その時代時代に、ある程度、実用的な想像のみが力を持つということだと思う。

アメリカ独立宣言の「生物学版」を作ってハラリは皮肉ったあと…。

JRF2024/5/198567

>平等と人権の擁護者は、このような論法には憤慨するかもしれない。そしておそらく、こんなふうに応じるだろう。「人々が生物学的に平等でないことなど承知している! だが、私たちはみな本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。私は、それに反論する気はさらさらない。それこそまさに、私の言う「想像上の秩序」にほかならないからだ。私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会が作り出せるからだ。

JRF2024/5/190589

「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。ただし、覚えておいてほしいのだが、ハンムラビなら、ヒエラルキーについての自分の原理を、同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は、本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。
<(上巻 p.188-189)

JRF2024/5/197853

「客観的」「主観的」「共同主観的」な現象があるが…、

>「共同主観的」なものは、多くの個人が信念を変えても、あるいは、死にさえしても、ほとんど影響はない。だが、もしそのネットワークに含まれる人の大半が死んだり、信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。(…)歴史を動かす重大な要因の多くは、法律、貨幣、神々、国民といった、共同主観的なものなのだ。<(上巻 p.201)

基本的にはその通りなのだが、共同主観や「想像上の秩序」には根拠のあるものがあり、それは、その構成員すべてが死に絶えても、まったく同じものではないかもしれないが、似た物が復活しうる。

JRF2024/5/193219

……。

>暴力ほど組織するのが難しいものはない。社会秩序は軍隊によって維持されていると言った瞬間に、軍隊の秩序は何が維持しているのか、という疑問が湧く。軍隊を強制だけによって組織することは不可能だ。少なくとも、一部の指揮官と兵士が、神、名誉、母国、男らしさ、お金であれ何であれ、ともかく何かを心から信じている必要がある。<(上巻 p.191)

福田歓一『近代の政治思想』を読んだとき…

JRF2024/5/193220

[cocolog:90689746]
>>
>ご承知のとおり、(…)現実主義なるものは、政治を考えます場合に、力という契機を非常に重要視する。政治を動かしているものは力であって、けっして思想ではないという見解であります。(…しかし…)一つの軍隊のなかで、最下級の若い兵隊は、これを指揮しております年寄りの司令官よりも、強いにきまっております。(…)要員が組織としての規律に服すかどうか(…。)その軍隊を一つの組織として成り立たせている思想がなければ、そもそも、物理的な暴力装置としての軍隊というものは成り立たないというわけであります。<(p.5-7)

JRF2024/5/197321

軍隊は人間が構成している。だから、革命のときに中立や寝返ることを期待できたりする。軍隊を味方に着けるような現実的な言説こそが野党に凄みを与えるのであって、反対のための反対をして人気取りしているようなのは、選挙では少しは票を取るかもしれないが、権力者的にはちっとも怖くない・迫力がないということであろう。
<<

レーニンなどを思い起こすが中国共産党が思想を強く取り締まろうとするのは、思想が人を動かしたという認識があるからでもあるのだろう。

JRF2024/5/191164

……。

>人間も存在し続けるかもしれないが、きっと、もう世の中が理解できなくなる。世界の新たな支配者は、0 と 1 の長い連なりとなるだろう。<(上巻 p.224)

LLM の登場により、この予言はグッと現実味を増した。LLM は「物語」つまり「想像上の秩序」を作る能力がありそうなのだ。私も直前に次のようなことを書いた。

JRF2024/5/199621


○ 2024-05-17T11:39:51Z

あと、ごく最近の事象として、AI 関連の変化が激しく、AI がどれほど使い物になるか、どういう風に使い物になるか、が読めないというのもあると思う。これは今は誰も正確に予想できない。ひょっとするとこの先は AI にしか妥当な予想ができないのかもしれないし。それが戦略を立てるのを困難にしている。

JRF2024/5/199830

……。

>歴史を通じて、ほぼすべての社会で、穢れと清浄の概念は、社会的区分や政治的区分を擁護する上で主要な役割を果たし、無数の支配階級が自らの特権を維持するために利用してきた。ただし、穢れに対する恐れは、聖職者や君主による完全な作り事ではない。病人や死体といった、病気の潜在的な感染源に対する本能的な嫌悪を人間に感じさせる、生物学的な生存の仕組みに根差しているのだろう。女性、ユダヤ人、ロマ、ゲイ、黒人など、何であれ人間の集団を分離しておきたければ、彼らが穢れのもとだと誰にも思い込ませるのが、最も有効な手段だ。<(上巻 p.234)

穢れよりも先に分離の欲がある…と。

JRF2024/5/190782

……。

>アテネの政治指導者も、偉大な哲学者や雄弁家、芸術家、商人も、一人として子宮を持っていなかった。子宮を持っている人は生物学的に、こうした職業には不適なのだろうか? 古代アテネの人々はそう考えた。現代のアテネの人々はそれに異を唱える。<(上巻 p.246)

[cocolog:94828661] でも語ったが、議員の男女割り当て、パリテの制度を私は推すけれども、母親という「職」はそれだけで偉大であったことが現代では忘れられがちなように思う。

JRF2024/5/194464

例えば、家事しかやってなかったとしても、政治指導者、偉大な哲学者、雄弁家…に劣るわけではない。もちろん、業績の優れた人はいて、職に貴賤の評価はありうる。しかし、それはホモソーシャルな評価であって、母になることはまったく別の話であったはずだ。

人工子宮などの登場を見越して、いろいろ動かないといけないかもしれないが、妊娠出産できることは生物的に保護していくべきものだと私は考えるから、母になることの特別性は維持されるべきだと思う。そこを含んでフェミニズムは展開して欲しいという願いが私にはある。

JRF2024/5/199984

ちょっと関係ないが、直近で↓のようなことも書いた。


○ 2024-05-18T22:15:28Z

ウクライナやイスラエルで、女性が戦争に参加する「絵」があったように思うが、女性の戦争への参加推進をもちろん、賛成するフェミニストもいるだろうが、それは違うと拒否するフェミニストもけっこう多いはず。戦争はフェミニズムにとっていろいろな意味で打撃なのだろう。

JRF2024/5/190724

……。

昆虫の翅[はね]は元はソーラーパネルとしてしか役に立たなかったそうである。(上巻 p.249)

能力が低くてもある場所で仕事をする女性というのはいるべきなのだと思う。女性であるか否かに関係なく、もっと仕事はやりたい仕事が選ばれるべきで、効率が出なくてもそれはそれでいいという領域が広がればいいと思う。

効率はそうは言っても大事だから、それが、新しいアイデアなどに結び付くことや、危機時の保障につながることがありうる、という見方をすべきなのかもしれないが。

JRF2024/5/198296

紅一点でも働くところから、五人または 5% ぐらいになれば、彼女らが抜けた社会の穴が問題となってくるのだろう。おそらく穴があく前は効率的だったから。30% を超せば、おそらく全体として効率的でもあるようになってきたのだろう。そうして 30% から 70% の間で揺れ動けばいい。それが 90% とかになって、逆側に割り込めば、それは向こうの非効率性を厳しく咎め過ぎなのかもしれない。

危機時の保障だけを問題にするならば、そういうのは男性のところに女性が入るという形のみの問題ともできるが。

JRF2024/5/196173

ただ、私の人生を思い返すに、特に若いころは、男性のみの組織、女性のみの組織のほうが、ラクだ…というのはあるとは思う。

JRF2024/5/199993

……。

黒人差別の悪循環が 上巻 p.240 などで説明されている。

自由経済のもとで、差別する者は、非効率になり淘汰されるはず…というのがある。しかし、黒人はばらつきが大きいことが予想されるが、仮に教育が成功し、最優秀なものは黒人に多いとしても、白人を差別して選ぶことにすれば、最も優秀なものを選ぶことができなくても、選抜の効率性により、経済的優位に立てることはありうる。

JRF2024/5/196220

それを是正するには、ある程度、黒人の地位が向上したあとも、やはりアファーマティブアクション的なことを続ける必要があるのだと私は思う。生の自由主義・資本主義は乱暴すぎる。

黒人は個々のばらつきが大きいのは↓に書いてあった。。

デイヴィッド・ライク『交雑する人類』([cocolog:94524505])

JRF2024/5/194697

>>
>アフリカについての研究発表というとよく用いられる、住む地域によってまったく異なる顔つきの人々が次々に映し出されるスライドだ。<(p.314)

>認知能力も含め多くの生物学的特性について、サハラ以南のアフリカ人では、遺伝の影響を受ける能力において極端な値を持つ人の比率が高いと考えられる。
<(p.370-371)

↓を思い出す。

JRF2024/5/198826

[cocolog:92073987]
>ここで、思い出すのが、アフリカ人の遺伝子プールの大きさである。昔、初代Xboxのゲーム『Tiger Woods PGA Tour 2005』のキャラクターメイキングで、私は、黒人の顔のパーツの豊富さに驚いたことがある。

前は、アマゾン川流域が、薬などで使うための遺伝子プールが豊富でそれが資源として価値を見出そうという話があったりした。それを人間でということになると、アフリカ人の遺伝子プールに注目が行かざるを得ないだろう。

<<

JRF2024/5/192604

『交雑する人類』の他の部分にもあったと思うが、脳に遺伝的違いがあってもあまり恐れるべきではない。実際、違いは多少あるのだと思う。

黒人は個々のばらつきが大きいのも事実のようで、それが脳にも及んでいるとすれば、とても優秀な個体が確実にいるとしても、そうでない個体も多いということになる。そして私も含め優秀でない個体も、AI 時代、居場所が必要なのだと思う。それは資本主義だけでは用意できないと思う。

JRF2024/5/193910

……。

>フランス革命以降徐々に、世界中の人々が平等と個人の自由の両方を根本的な価値と見なすようになった。だが、これら二つの価値は互いに矛盾する。平等は、暮らし向きの良い人々の自由を削減することでのみ確保される。あらゆる人に好きなように振る舞う自由を保証したら、必然的に平等が成り立たなくなる。<(上巻 p.270-271)

私は別の意見を持っている。

《「自由と平等」のレトリック - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html

JRF2024/5/199675

>入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。

教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。

「自由」と「平等」は対立する概念ではない。

(…)

ここにあるのは「自由」と「平等」の対立ではなく、「自由」と「自由」のトレードオフであり、「平等」を感じさせる枠組の変容である。

JRF2024/5/191299

(…)

「平等を求める」または広く「社会の変容を求める」といった場合、これまでの自由を犠牲にしなければならないことも多いのが現実だろう。(それでも、全体として自由を増やすような策があると私は信じたいけれども。)

ただ、そのような場合も、平等を自由と対置するレトリックにはまって、まず自由を制限するという考えに及ぶのは避けたい。

JRF2024/5/194095

……。

……。

下巻。

JRF2024/5/198559

……。

多神教の中には、至高神というかヤーウェ的な神がいることもある。ヒンドゥー教のアートマンもそうだという解釈のようだが…。

>ヒンドゥー教徒のほとんどは行者ではない。彼らは日常的な関心事にどっぷり浸かっており、そこではアートマンはろくに役に立たない。そうした問題で助けてもらうために、ヒンドゥー教徒は限られた力を持つ神々に近づく。ガネーシャやラクシュミー、サラスヴァティーといった神は、力が包括的ではなく限られているからこそ、関心を持ち、依怙贔屓をする。(…)したがって、多神になるわけだ。<(下巻 p.19)

JRF2024/5/198176

力が限られているからこそ贔屓してくれる。…そうなのか。その点の認識は私にはなかった。

JRF2024/5/197605

……。

これまで一神教的枠組みで、神義論を私はしばしば問題にしてきたが、善と悪の二元論を取れば、もちろん、その問題は一瞬で解消する。しかし…

>二元論にも弱点はある。「悪の問題」は解決できても、「秩序の問題」にはたじろいでしまうのだ。もし世界が単一の神によって造られたのなら、世界がこれほど秩序ある場所で、万物が同じ諸法則に従うのは、それが原因に違いない。だが、もし善と悪がこの世界の支配権をめぐって争っているのなら、これら宇宙の究極の力どうしの戦いを支配する諸法則は、誰が執行しているのか?<(下巻 p.29-30)

JRF2024/5/192188

善が秩序を、悪が偶然または無秩序を…という考え方はできないのかな? 秩序側が基本的に勝ってる世界だから秩序があるように見える…と。

JRF2024/5/194304

……。

>ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。<(下巻 p.38-39)

四諦のことかな?

JRF2024/5/193365

大角修 訳『大日経・金剛頂経 全品現代語訳』([cocolog:93896796])
>>
>仏教はおよそ二千五百年前、インド亜大陸北部のタラーイ盆地にあったシャーキャ国の王子ガウタマ・シッダールタが出家・修行してブッダ(覚者)になり、自身が体得した静かな境地(さとり)に至る道を人々に告げたことに始まる。以来、初期の仏教は比丘(僧)を供養することで功徳をつみ、現世の幸福と来世の安らぎを祈るものとなった。<(p.384)

JRF2024/5/194886

ハッとした。「さとり」とはひとことで言えば「静かな境地」なのだな。そして仏教はそれを得た僧を供養する宗教ということだ。…なるほど、そういうふうに言えばいいのか。…と思った。「仏教」の優れた要約だと思う。
<<

JRF2024/5/199279

ただ、大乗につながるところも考えれば、解脱は個人的なものだけではなく、そこには法があり、それは伝道しなければ伝わらないというたぐいのものでない、という信仰もあると思う。それまでのアートマンの理論が成り立っていたことを介する超越性の主張も仏教にはあった。教団を作ることによる永続性も大事な部分。個人の「静かな境地」だけでは終わらないはず。

JRF2024/5/199572

……。

科学革命まで、宗教は「すべてを知っている」むしろ「今は完全なところから失なわれたもので、伝統にかえるべき」としていた。

>進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった。<(下巻 p.80)

科学革命・帝国主義・資本主義が密接に関連し、未知の「新大陸」の発見を経て、西欧の「帝国」が現代への道を拓いたとするのがハラリの主張で、その圧倒的な筆致には私も納得させられる。

JRF2024/5/198516

……。

アダム・スミスから来た考え方…

>「生産利益は生産増加のために再投資されなくてはならない」<(下巻 p.180)

しかし、消費がなければ、利益も上がらない。消費も大事だ。

JRF2024/5/190310

>利益は浪費されてはならず、生産に再投資するべきであるとする実業家の資本主義の価値体系と、消費主義の価値体系の折り合いを、どうすればつけられるか? じつに単純な話だ。過去の各時代にそうだったように、今もエリート層と大衆の間には分業がある。中世のヨーロッパでは、貴族階級の人々は派手に散財して贅沢をしたのに対して、農民たちはわずかのお金も無駄にせず、質素に暮らした。今日、状況は逆転した。豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福でない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に陥る。<(下巻 p.237)

JRF2024/5/199667

[cocolog:93150989] や [cocolog:88932382] で論じたが、私は>債権では社会の富は増えない。株式のみ社会の富を増やせる。<([cocolog:75599118])…と考えているが、一方、マルクス経済学の剰余価値に関する議論で、在庫(研究費も含む)の増加が別に社会の富を増やすという議論が出てきた。この、株価の増価と在庫の増加が、(銀行の信用創造や債券価格の調整などが間にはさまった上で、) 安定した関係にあることが、安定した経済成長が可能になる条件ではないかと考えたことがあった。

それを思い出しながら、この本の資本主義の記述を読んでいた。

JRF2024/5/196285

……。

>幸福が快感を覚えることに基づくのなら、より幸せになるためには、生化学システムを再構築する必要がある。幸福が人生には意義があると感じることに基づくならば、より幸せになるためには、私たちはより効果的に自分自身を欺く必要がある。この他に、第三の道はあるだろうか?<(下巻 p.310)

ルース・ミリカン『意味と目的の世界』を読んだ [cocolog:94817429] では、個人内外の複数レイヤーでの同時最適化を考えた。

JRF2024/5/196824

私は『「シミュレーション仏教」の試み』(↓)において、仏教を本目的三条件「来世がないのがよい」、「生きなければならない」、「自己の探求がよい」(あらため「思考と思念を深めるのがよい」)の最適化だとした。ここにおいて、私は幸福は、本目的三条件を追求することと例えば定義していることになるだろう。

JRF2024/5/192989

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/5/195098

人が幸福を追及するというとき実際に追及しているのは、単純な快楽でも他者に与えられた宗教的目標でもなく、例えば本目的三条件のようなもののそれぞれの条件を、その個人だけでなく様々なフレームやレイヤーにおいて追及していることもあるだろう。矛盾する考えがあるから間違っているとは当然ならず、普段は、それらを協調させて最適化が行われているのであろう。もちろん、究極的なところでは死を賭しても、つまり、矛盾がどうしようもなくなって、三目的のどれかを優先する場面もあるかもしれないが、どれを優先するかが誰でも決まっているといった単純なものではないだろう。

JRF2024/5/191215

……。

勝ち残ってきた AI の投資プログラム…

>おそらくそうしたプログラムは、自分の投資戦略をサピエンスには説明できない。サピエンスがウォール街についてチンパンジーに説明のしようがないのと同じことだ。私たちの多くが、いずれそのてプログラムの下で働くようになりかねない。<(下巻 p.338)

上での AI に関して少し語ったが以前も書たことがある…

JRF2024/5/197782

《AI は本質的に労働を単純化し真の高度人材を成立させなくする。AI を作る者も LLM の意志の秘密を究極的には理解しておらず、AI が単純化したものにしか触れてないという見方ができ、それは本質的に機械の設計技術者と違う。AI は AI しか求めない。 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2023/09/post-d05371.html

JRF2024/5/196079

……。

>私たちを改良しようとする試みは必ずや失敗に終わる、なぜなら、たとえ私たちの肉体は改良できても、人間の精神には手をつけられないから、というわけだ。<(下巻 p.345)

「私たちを改良しようとする試みは必ずや失敗に終わる」のには別の理由を以前私は考えた。

JRF2024/5/196220

『宗教学雑考集 第0.8版』《人類の完全性》
>特に昔のキリスト教徒の西洋人が、完全な自分(達)に向けて人類が進歩していっているという史観を持っていたことを揶揄されることがある。ただ、それ自体は、ある種の淵源があり、それが、アダムが完全な人間として生まれているといった神話としても現れているのだと思う。その淵源とは何か?

JRF2024/5/192975

(…)

例えば頭の良い人間どうしをつがわせても頭の良い人間が産まれるとは限らない。《イメージによる進化》で述べたように、平均への回帰があるからだ。そういうことがいいたかったのだろうか? しかし、それは家畜でも起こることである。それを越えて人類は家畜を品種改良してきた。

家畜を品種改良したようには、どうも人類を品種改良できないということだろうか? 動かすパラメータが多すぎて、または絶妙過ぎて、動かせない…というのはあるかもしれない。

JRF2024/5/198080

いや、逆に、人類は最高の家畜として産まれたという認識があるのかもしれない。最高に目的に沿った家畜は、その特長をへらさずにただ増やしてその特長を固定化していくことができないという認識があるのかもしれない。

「逆」といったが、これは人類を品種改良できないという認識にもつながる。なぜなら、すでに品種改良されきっていたから。

JRF2024/5/190272

「人類家畜化計画」などが陰謀論で話題になるが、それは根本的に何かを勘違いしているのかもしれない。

現代では遺伝子操作が可能になっている。宇宙へ人類が進出することを考えると、遺伝子操作などの必要もあるのかもしれない。言葉は悪いが、ある種の家畜化を通じた遺伝子操作を受け容れる人類が(再び?)一定期間必要なのかもしれない。

JRF2024/5/190340

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