« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:94838275

(承前) W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ。(つづき) (JRF 0194)

JRF 2024年5月10日 (金)

↓のつづき。

《[cocolog:94838245] W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ。宗教を医学的唯物論で説明するのを否定...》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/05/post-71d7d6.html

JRF2024/5/101741

……。

>宗教の生み出す理論は、現に見られるようにさまざまである、しかし、宗教の理論は第二次的なものである。そしてもし諸君が宗教の本質を掴もうと望まれるならば、諸君は理論よりもいっそう不変的な要素として、感情と態度に留意しなければならない。宗教がそのもっとも主要な仕事を営んでいる短絡は、この二つの要素の間にある。

JRF2024/5/105221

これに反して、概念や信条やその他の制度は環状[ループ]線を成していて、それらは完成したもの、進歩したものであるかもしれず、いつかはその全部が統合されて一つの調和した体系にさえなるかもしれないが、しかし、宗教生活を営んでゆく上にいつでも必要で不可欠な機能をもつ器官とは見なされえない。これが私たちが検討してきた現象から当然引き出すことのできる第一の結論であると私には思われる。
<(下巻 p.368)

JRF2024/5/109929

……。

>事実、さまざまな宗教における互いに敵対している神々と信条とは、互いに他を抹殺し合ってはいるが、しかしそこにはすべての宗教が合流するように見える或る一様な意見がある。それは次の二つの部分から成る。

一、不安感、および

二、その解決。

一、不安感は、もっとも簡単な言葉であらわすと、自然の状態にありながら、私たちにどこか狂ったところがあるという感じである。

二、解決というのは、より高い力と正しく結びつくことによって、この狂いから私たちが救い出されているという感じである。
<(下巻 p.371)

JRF2024/5/109866

救い出す前には、「疲労」または苦しみがあって、自我が砕け散ることさえある。その後、神などとの「合一」がある。

>意識的人格は救いの経験をもたらしてくれるより広大な自己と連続している、という事実こそ、宗教的経験に関するかぎり、文字どおり客観的に真であると私に思われる宗教的経験の積極的内容をなすものである。<(下巻 p.382)

広大な自己は、潜在意識であるととりあえずはするようだ。

そしてここからはジェイムズの信仰のあらわれとするが、潜在意識を通じて確かに「それ」は影響してくる。「それ」には実在感があったのであったが…。

JRF2024/5/104517

>他の実在のなかに効果を生み出すものは、それ自身一つの実在と呼ばれなければならない。<(下巻 p.383)

その実在は強く「神」が意識されるが、しかし、この段階では一神教の神ではなく多神教の神でもよい。

JRF2024/5/101662

>一種の多神論が私たちのところに舞い戻ってくる<(下巻 p.396)

…こともありうるとする。ただ、基本的にジェイムズは一神論的な立場であり…。

JRF2024/5/105081

>私たち自身の限界外の自己のこちら側から出発して、その向こう側の限界において私たちが交わるにいたる神が、絶対的な世界支配者でなければならないとするのは、もちろんはなはだ著しい過剰信仰である。しかし、それは過剰信仰であるけれども、ほとんどあらゆる人間の宗教の一箇条である。私たちはたいていなんらかの仕方で私たちの哲学の上に過剰信仰を接ぎ木しているつもりでいるが、実は哲学自身こそ、この信仰の上に接ぎ木されているのである。<(下巻 p.386)

JRF2024/5/100736

……。

>宗教的経験が明らかに証明しているのは、唯一の事柄は、私たちが私たち自身よりも大きい或るものとの合一を経験しうること、そして、この合一のなかに私たちの最大の平安を見いだしうるということである。<(下巻 p.396)

そうなりやすいということは、それが真理であることを示しているのかもしれない。それは一神教である必要はないとしても、一神教であるときのほうが理解はしやすいのなら、それが真実なのかもしれない。もちろん、そうでない可能性はいつまでも残るのではあるが。

JRF2024/5/107635

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »