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W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ。宗教を医学的唯物論で説明するのを否定する文脈で、自己犠牲とは、「親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したもの」という記述にハッとした。 (JRF 2744)

JRF 2024年5月10日 (金)

『宗教的経験の諸相 - 全二巻』(ウィリアム・ジェイムズ 著, 桝田 啓三 訳, 岩波文庫 青, 1969年10月・1970年2月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003364023 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1100477339 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003364031 (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1100477340 (下巻)

JRF2024/5/106834

原著は、William James『The Varaeties of Religious Experience』(1901-1902)。

拙著『宗教学雑考集』の正式版に向けた取材として読んだ。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/5/107068

ジェイムズも引用が多いが、私もかなり彼の書を「引用」していく。できるだけコメントしながら引用していくが、今回は、特に私の主張なくコメント短く引用することが多くなる。問題はあるので、ぜひ、ここで少しでも興味が出た方は、本書をご購入いただきたい。

JRF2024/5/108265

……。

まず、先に訳者による解説から、次の部分を引用しておく。

>1902年、「私は『宗教的経験の諸相』を、ある意味で、病的心理学 morbid psychology の研究だと見なしている」と書いているように、ジェイムズは宗教というものを、異常な精神現象のうち最高のものと見なし、そういう見地から 90年代の研究の結果をこの書に注ぎこんでいるのであって、その意味で、この動機がこの書の成立にもっとも大きい動機を演じていることは、一読して看取されるところである。<(下巻 p.408)

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宗教を異常な病的心理学ととらえたからといって、宗教の価値が減じるところではないとはジェイムズは説くようだ。

この点は、私が『宗教学雑考集 第0.8版』で、進化論が真としても、創造論から見れば、なぜ進化論を真と見えるように神は創造したかという視点から取り込めるので問題ない…というような見解や、霊魂が、原始人の合理的な創作物だと見えたとしても、霊魂はそれ以前から存在していて、合理的な創作物に見えるようになっただけ…ともとれるので問題ない。…という見解とも共通するものがあるように見える。

JRF2024/5/109345

私は実際そう信じているし、そう見ることで合理的見解を述べることに抵抗がなくなることも期待している。そう期待できること自体が恩寵なのだとも思う。ジェイムズもそうだったのではないか。

JRF2024/5/104335

……。

……。

上巻。

JRF2024/5/104784

……。

宗教の一般信者ではなく、熱情のある創始者のような者を研究しなくてはならない。…という。

>私たちは(…)他人の示唆によって生じた感情や模倣的行為の模範となった根源的な経験を研究しなくてはならない。このような経験は、宗教というものが退屈な習慣ではなくて、むしろ激しい情熱であるような人物のうちにしか見いだされえない。このような人物こそ、宗教界の「天才」なのである。他の多くの天才たちが、その伝記の数々のページに永く記念されるに足る感銘ぶかいくさぐさの果実を結んでいるように、彼ら宗教的天才たちも、しばしば神経過敏症の徴候を示している。

JRF2024/5/101349

おそらく、他のいかなる領域の天才たちより以上にさえ、宗教の指導的人物たちは異常な心理の発作に襲われやすい素質をもっていたようである。
<(上巻 p.19-20)

後にも書くが、この本は、宗教の組織や制度などよりは個人的経験にスポットライトを当てる。ただ、上の引用から受ける印象と違い、有名人だけが対象になっているようではないようである。

JRF2024/5/102275

……。

宗教経験を還元主義的に分析することはしばしばあるが、それは宗教をおとしめると考えがちである。しかし、最初のほうで私が書いたようにそうではなく、かりに還元主義的な分析が成り立とうと、宗教の価値は減じるものではない。ジェイムズも(毒舌ぎみに)そのようなことを述べる。

>起源が卑しいと主張されると、霊的価値までが大なしにされてしまう、というこの仮説をごく一般的にあらわしているのは、鈍感な人々が自分よりも敏感な知人に対してしばしばくだす批評の言葉である。

JRF2024/5/100621

アルフレッドがあんなに固く霊魂の不滅を信じるのは、彼の気質がそのように感動しやすいからだ。ファンニーが並みはずれて良心的なのは、神経が過敏だからにすぎない。ウィリアムの憂鬱な宇宙観は、消化不良のせいだ -- おそらく肝臓の働きが悪いのだろう。エリザが教会へ行くのを楽しむのは、彼女がヒステリー性の体質であることの徴候なのだ。もっと戸外に出て運動でもしたら、ピーターは魂の問題などにあんなに思い悩むこともなくなるだろうに、などという批評である。

JRF2024/5/102795

これと同じ論法のもっと極端化した例は、今日、ある著者たちの間ではごく普通のことになっているものであるが、宗教的感情と性生活との関係を明らかにすることによって、宗教的感情を批判するというやり方である。回心は思春期と青春期との分かれ目である。聖者の難行苦行も、宣教師の献身的行為も、親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したものにすぎない。自然な生活に飢えているヒステリー症の修道女にとって、キリストは、いっそう地上的な愛情の対象の代理として想像に描かれたものにすぎない、などという論法で、同じような例はいくらもある。
<(上巻 p.24-25)

JRF2024/5/107862

自己犠牲とは、「親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したもの」…。

JRF2024/5/106688

>自分が反感をいだいている精神状態の価値を貶[おと]しめようとする時に用いられるこの方法は、普通、私たちみんながよく知っているものである。精神状態が緊張しすぎていると思われる人物を批評する時に、私たちはみな、少しはこの方法を用いるのである。しかし、私たち自身の魂の高揚状態を批評して、体質のあらわれ「以外のなにものでもない」などという人がいたら、私たちは侮辱を感じて憤慨するであろう。身体の特質はどうあろうとも、私たちの精神状態は生きた真理の啓示として独自な価値をもっていることを、私たちは知っているからである。だから私たちは、このような医学的唯物論の口を封じてしまいたい、と願うのである。

JRF2024/5/103372

医学的唯物論、実際これは、私たちがいま考察しているこのあまりにも単純な思想体系をあらわすのに実にふさわしい呼び名である。医学的唯物論は、聖パウロがダマスコへの途上でキリストの幻影を見たのは、彼が癲癇[てんかん]患者であったからで、大脳皮質後頭葉の放電傷害のせいだといって、片づけてしまう。
<(上巻 p.28-29)

「医学的唯物論」…。

JRF2024/5/104588

>一般に、精神的価値を一定の種類の生理的変化に結びつけて考えるような一種の精神=物理説をあらかじめ作り上げておくのでなければ、宗教的な精神状態がすぐれた精神的価値をもっていると主張するその権利を反駁するために宗教的な精神状態の身体原因説を免ずるのは、まったく理屈に合わぬ気まぐれなことになる。さもないと、私たちの思想や感情も、私たちの科学上の学説でさえも、私たちの信仰否認すらも、真理の啓示としての価値をなんら保存しないことになろう。なぜなら、そのいずれもが、例外なしに、そういう観念をいだいた人のその時その時の身体の状態から生ずることになるからである。<(上巻 p.31)

JRF2024/5/103591

宗教を医学的唯物論のメガネで見るなら、科学や信仰否認も医学的唯物論で説明できてしまうではないか…と。

JRF2024/5/100259

>ある思想に善であるという刻印を押すものは、その思想に含まれる内的幸福という性質である。でなければ、その思想が私たちの他の意見と一致して、私たちの要求に役だつ、ということである。そしてこの後者の性質こそ、その思想を私たちに真理として通用せしめるものなのである。<(上巻 p.32)

ジェイムズは『プラグマティズム』という本を書いたことでも知られる。プラグマティズムは実用主義とも訳される。

JRF2024/5/103922

>自然科学とか工業技術とかの場合なら、そういう学問や技術にたずさわる人の神経病的体質をあばき出して、彼らの意見を反駁しようなどと思いつく人はありはしない。この場合には、意見はいつでも論理と実験とによって吟味されるのであって、彼らが神経学上いかなる類型に属しようと、問題ではない。宗教的意見の場合も、そうでなくてはならぬはずである。宗教的意見の価値は、直接にその意見そのものにくだされる精神的判断によって確定されうるばかりである。

JRF2024/5/100232

(…)

要するに、直接の明白性、哲学的合理性、および道徳的有用性、これらだけが有効な規準である。
<(上巻 p.35)

ただ、神経症的でないと信じ、その全き人格性を信じるがゆえに、その精神と出会ったように感じることがある…といった「現実の効用」はありうるのだと思う。もちろん、ジェイムズはこの後、そういったことも視野に入れて論じていってるということのようだが。

JRF2024/5/106130

>キリスト教神秘主義の歴史においても、真に神の奇蹟である神託や体験と、悪魔が悪意をもってこしらえた偽[にせ]もので、宗教的人物を以前の二倍も地獄の子たらしめるような神託や体験とを、どうして識別するかという問題は、つねに解きがたい問題であって、もっとも優れた良心の指導者たちの、あらゆる聡明と経験とを必要とする問題であった。そして、結局その解決は、私たちの経験論的な規準に頼らねばならなかったのである。すなわち、「その根によらず、その果実によりて、汝ら彼らを知るべし」という規準である。<(上巻 p.38)

JRF2024/5/105221

>あなたがたは、その実で彼らを見分ける。<(マタイ 7:16)



>あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。 その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。<(申命記 18:21-22)

…を思い出す。

JRF2024/5/105368

……。

>人生には情緒的で神秘的な体験をする瞬間があるが -- これについては後で詳しく述べることにする -- この瞬間は、その来たるや、内的な権威と照明の異常な感じを伴なっている。しかし、そういう瞬間はまれにしか訪れるものではないし、また、誰にでも訪れるというものでもない。そして、そういう瞬間を経験してから後の生活が、その瞬間となんの関係ももたいないこともあれば、また、その瞬間を固めるよりも、むしろそれと矛盾するような方向に向かってゆくこともある。

JRF2024/5/104249

そのような場合に聞こえるその瞬間の声に従う人もあれば、むしろ普通の人生経験の導きに従うことを好む人もある。人間の精神的判断に、実にしばしば、悲しむべき不和が起こるのも、それがためである。この不和については、この講義が終わるまでに、諸君も十分切実に感じとってもらえるようにしたいと思う。
<(上巻 p.33)

JRF2024/5/108282

私は統合失調症を経験した。神秘的な体験だった。『宗教学雑考集』では私の精神病の体験もいくつか載っている。そのうちの一つ。

『宗教学雑考集 第0.8版』《魔境》
>>
禅では魔境というものが知られており、それは悟りとは明確に区別される妄想状態である。私が経験した神秘体験は魔境のようなものであろう。ただ、それを体験すると、それを無視して、それまでの自分には戻れない。

JRF2024/5/105935

何らかの脳の作用が影響しているのだろう。年齢による脳の衰えも影響しているのかもしれない。

(…)

>自分は愚者とならねばならなかった、かくしてこそ真我[アートマン]を再び自分の中に見出すことができるようになったのだ、自分は罪を犯さねばならなかった、そうしてこそ自分は再び生きることができるようになったのだ。(ヘッセ『シッダルタ』p.132)<

JRF2024/5/102209

それをアートマンと思うこと、このような真実に目覚めたと思うこと、それもまた、愚かになった頭で考えるがゆえのことだ。愚かさの証拠だ。私も同じようなものなのでわかる。彼が本当に目覚めていた若いころならば、決してそれを真理とはしなかったろう。

若いころの真実は真実で、年老いてからそれを否定しがちだが、それはいけない。若いときの真実はやはりものすごい真実なのだ。鈍麻していく中で、それを否定するのはよくないことだと思う。

JRF2024/5/107622

音楽の指揮者のようにトシをとることで、熟成する芸術・技術はある。でも真理は若いころにあると思う。まぁ、私の人生がそうだったというだけかもしれないが。何が真理だったかは忘れてしまったが。
<<

JRF2024/5/100266

……。

>さて、この講義において、私は、制度的宗教の分派をまったく無視し、教会組織のことには少しもふれず、組織神学や神々の観念そのものについてもできるだけ考察しないで、問題をできるだけ純然たる個人的宗教のみに限定したいと思う。<(上巻 p.51)

基本的に、ジェイムズは神学者ではなく心理学者または哲学者という自己認識のようである。

JRF2024/5/100838

>それゆえ、いま私は宗教というものを自分なりに勝手に解釈することを許していただくことにして、私たちは宗教をこういう意味に解したい。すなわち、宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である、と。<(上巻 p.52)

ジェイムズはキリスト教のほか、仏教も主な射程にすえているようだ。

JRF2024/5/102521

>私たちが宗教を定義して、個人と「彼が神とみなすもの」との関係というとき、私たちは「神」という言葉をきわめて広い意味に解釈して、具体的な神であるか否かにかかわらず、何であれ神のような対象を指すものと考えねばならない。

JRF2024/5/103199

(…)

第一にいえることは、神々は、存在と力において第一のものであると考えられている、ということである。神々は万物をおおい包んでいて、神々から逃れるすべはない。神々にかかわるものは、真理における最初にして最後の言葉である。そこで、もっとも根源的、包括的で、もっとも深く真実なるものは、何であろうと、このようにして、神のようなものとして扱うことがゆるされるであろうし、したがって、人間の宗教とは、人間がいかなる態度をとるにせよ、彼が根源的真理だと感じるものに対してとるその態度と同じものと見なすこともできるであろう。

JRF2024/5/103192

このような定義には、いくらか擁護の余地があろう。宗教とは、いかなる宗教であれ、人生に対する人間の全体的反応である。もしそうであれば、人生に対するいかなる全体的反応も宗教である、と言ってはなぜいけないのであろうか。

(…)

しかし、「宗教」という言葉をそこまで広げて用いるのは、よしんば論理的根拠からはどこまでも弁護できることであるにしても、都合の悪いことであろう。世間には、人生全体に対してさえ、それを茶化したり冷笑したりする態度がいろいろあるものである。
<(上巻 p.56-58)

JRF2024/5/103825

>私たちは、個人が、呪詛や冗談によってではなく、厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在という意味においてのみ神を用いることにしたい。<(上巻 p.63)

JRF2024/5/107131

……。

たとい(神がいないように見える)歴然たる事実に反しようとも、私たちは(神に)忠実に義務を果たさなければならない…と述べた上で、エルネスト・ルナンは『Feuilles détachées』の中で言う。神が厳粛に世界を護っているという第一の仮説に対し…、

JRF2024/5/107482

>「ひょっとしたら、世界は一場のお伽[とぎ]芝居にすぎず、神はそんなものに関心をもってはおられぬのかもしれない。それだから、どちらの仮説に立とうとも、まるきり間違っているということのないように、われわれは準備しておかなければならない。われわれは優れたものの声に耳を傾けねばらなぬが、しかし、その場合でも、第二の仮説の方が真であるとわかった場合、われわれがあまりにも完全に欺かれていたということがないようでなければならない。

JRF2024/5/109697

もし実際にこの世界が厳粛なものでないとすれば、教義を固く守って生きる人々はあさはかな人ということになるだろうし、いま神学者たちに浮薄だとよばれている俗人の方が、真の賢者だということになるであろう。

JRF2024/5/103526

それゆえ、どちらに対しても備えよ。in utrumque paratus. いかなる事にも用意せよ -- おそらく、それが知恵というものであろう。時に応じて、あるいは信頼に、あるいは懐疑論に、あるいは楽観論に、あるいは皮肉に、身を委ねるがよい。そうすれば、少なくともある瞬間には、われわれは真理とともに在る、という確信がもてるであろう。……上機嫌というものは、一種の哲学的な精神状態である。それは、自然に向かって、自然がわれわれを真剣に取り扱わないのと同様、われわれも自然を真剣に取り扱いはしない、と告げるようにみえる。人はつねに微笑を浮かべて哲学を語らねばならない、と私は主張する。

JRF2024/5/102698

われわれが有徳であるのは、永遠者のお蔭である。しかし、われわれには、この贈り物に、一種の個人的な報復として、われわれの皮肉をつけ加える権利がある。かくして、われわれは冗談をもって冗談に応分の報いをする。つまり、われわれに仕向けられたその悪戯[いたずら]を、われわれも仕返してやるわけである。主よ、もしわれら欺かるることありとも、そは汝によりてなり! という聖アウグスティヌスの言葉は、いまなお、われわれの現代的感情にぴったりあてはまる名言である。

JRF2024/5/104515

ただ、われわれが永遠者にぜひ知ってもらいたいことは、われわれが欺瞞を甘受するにしても、われわれは承知の上で進んでそれを甘受しているのだ、ということである。徳行という投資をしても利潤がわれわれの懐中[ふところ]にはいらぬことは、われわれも覚悟の上で諦めているが、しかし、投資した徳行をあまり当てにしすぎて、お笑い草となりたくはないのである。
」<(上巻 p.60-61)

JRF2024/5/101661

私は笑われてもいいけどなぁ。そう思っていても、まともに生きていけない、性悪な私。悲しい。

JRF2024/5/109515

……。

>ストア派の哲学者の絶叫とキリスト教信者の絶叫とを比較してみると、そこに教義の差異よりもはるかに大きな差異があることに、私たちは気づく。両者を分つものは、むしろ、感情的気分の差異なのである。

(…)

皇帝(…マルクス・アウレリウス…)の「神々が余と余の子供たちとを守護し給わぬにしても、それだけの理由があってのことである」というりっぱな言葉と、ヨブの「神われを殺し給うとも、われ神を信じまつらん」という絶叫とを比較してみられよ。
<(上巻 p.68)

JRF2024/5/101850

これが「キリスト教の特殊性」らしい。

JRF2024/5/107776

>単に道徳の立場から、陰鬱な態度を斥けるのには、意志の努力が必要であるが、キリスト教の立場からそれを斥けるのは、より高級な感情が興奮する結果なのであって、これがあらわれるのには、意志の努力など必要としないのである。道徳家は呼吸[いき]を殺して、筋肉を緊張させておかねばならない。そして、こういう運動競技的な態度をとっていることができる間は、万事うまくゆく -- 道徳はそれでこと足りているのである。しかし、この運動競技的な態度はつねにゆるみがちで、身体が衰えはじめる時とか、病的な恐怖が心を襲う時とかには、きわめて頑健な人間でもその態度はゆるまずにはいないのである。

JRF2024/5/106129

(…)

ここにおいて、宗教が私たちを救いにきて、私たちの運命をその掌中に握るのである。そこには、宗教的人間には知られているが、他の人々には知られていない精神状態がある。この精神状態にあっては、自己を主張し、自己の立場を貫き通そうとする意志は押しのけられて、すすんでおのが口を閉ざし、おのれを虚無[むなし]くして神の洪水や竜巻のなかに没しようとする心がまえが、それにとって代わっているのである。

JRF2024/5/106786

この精神状態においては、私たちのもっとも怖れたものが私たちの安楽の住家となり、私たちの道徳の死滅する時が私たちの霊の誕生日に変わっている。

(…)

たんなる道徳の場合には、恐怖は中絶されるのであるが、宗教の場合には、それは中絶されるのではなく、積極的に拭いとられ、洗い流されるのである。

JRF2024/5/107472

(…)

もし宗教というものが私たちにとって何か特定の意味をもつものとするならば、それは、この付加された感情の範囲、このような婚礼の熱狂的な気分を意味するものと解釈しなければならない、と私は考える。このような領域では、厳密な意味の道徳はせいぜい頭をたれて黙従するほかないのである。私たちにとって宗教とは、戦闘が終わって、宇宙の基調音が私たちの耳に響きわたり、永遠の財宝が私たちの眼の前にひろがっている、あの新しい自由の領域以外のなにものを意味してもならないのである。
<(上巻 p.74-77)

JRF2024/5/102629

ジェイムズも抑鬱に苦しんでいたらしく、そこから信仰により救われたのだろう。

回心については、この後、この本のテーマとして出てくる。

JRF2024/5/104824

……。

>まだ宗教に達しないそのような精神状態にあっては、諦めは必然的運命の重荷を背負うものとして甘受され、犠牲もせいぜい不平をこぼさずに堪え忍ばれているにすぎない。これに反して、宗教生活においては、諦めと犠牲は積極的に信奉される。幸福が増すようにと、その必要のないものまでがいろいろと諦められてゆく。

かくして、宗教は、どのみち必要なものを、容易にし、よろこんで行わせるのである。

JRF2024/5/101552

そして、もし宗教がこの結果を成就しうる唯一の原動力であるとすれば、宗教が人間の能力としてきわめて重要なものであることは、論議をまたずして証明されたことになる。宗教は私たちの生活の本質的な機関となり、私たちの本性の他の部分ではそれほどうまく果たせない一つの機能を果たしてくれるのである。
<(上巻 p.82)

諦めるべきものを、望んで諦めさせるのが、宗教の効用。

でも逆に、諦めずに雄々しく戦うべき人に負い目を感じさせるところが、「宗教がルサンチマンだ」などという批判を生んでいくんだろうね。

JRF2024/5/102616

……。

宗教的対象には、具体的な姿がないほうがいいらしい。

>私たちが後で見るであろうように、あらゆる宗教における神秘主義の権威者たちは、特定の感覚的心象の存在しないことこそ、祈りが聴き入れられるための、また高い神の真理を瞑想するための必要条件 sine qua non である、と力説しているのである。そのような瞑想が、善に向かう信者のその後の態度にいつまでもきわめて力強い影響をのこすということは、当然、予想されることである(…)。<(上巻 p.85-86)

JRF2024/5/109123

確かに禅宗は具体的な仏の像を想像してやるという方法論ではなかった(はずだ)が、真言宗は像は使う感じだね、その辺どうなんだろう?

JRF2024/5/101127

……。

人には「概念」がある。「概念」は霊魂と出自を同じにしているようだ。…というのが直近で ルース・ミリカン『意味と目的の世界』を読んだとき、拙著『宗教学雑考集 第0.8版』《霊概念の成立》から引用した部分にある。そういうものと未分化な原始形態ということなのかどうかは判然としないが、霊魂や抽象概念がかなり実在性を持って人には感ぜられることがあるようだ。それを「幽霊」と呼ぶかどうかは別として。

JRF2024/5/103603

>もはや確かな事実だと主張してもよいであろうが、はっきりと宗教的なものだといえる経験領域においては、多くの人(どれだけの人であるかは言えないが)は、その信仰の対象を、彼らの知力が真なると認めるたんなる概念の形で、所有しているのではなく、むしろ、直接に感受される準感覚的な実在という形で、所有しているのである。そのような信仰が目の前に実在しているという感覚が高まったり低くなったりするにつれて、信者の信仰も熱したり冷めたりする。<(上巻 p.99-100)

これはカントの説くところとはまた違った実態である。

JRF2024/5/109840

>イマヌエル・カントは、神、世界創造の計画、魂、魂の自由、死後の生命のような信仰の対象となるものについて、奇妙な学説をとなえた。彼の説くところによると、これらのものは本来まったく知識の対象ではない。われわれの概念は、それを用いて働くべき感覚的内容をつねに必要とする、ところが、「魂」「神」「不滅性」というような言葉は、なんら特定の感覚的内容を含むものでないから、理論的にいえば、それらはなんの意味ももたない言葉なのである。

JRF2024/5/108458

しかし、実に不思議なことに、それらの言葉も、われわれの実践に対しては、一定の意味をもっている。われわれは、あたかも神が存在するかのように行為することができ、あたかもわれわれが自由であるかのように感じることができ、あたかも特定の計画に満ちているかのように自然を考察することができ、あたかもわれわれが不滅であるかのように計画を立てることができる。そこでわれわれは、これらの言葉が、われわれの道徳生活では、まったく違った意味をもってくることを知る。

JRF2024/5/101805

だからこれら不可知な対象が現実に存在するというわれわれの信仰は、カントのいわゆる実践的観点 praktische Hinsicht から見ると、つまり、われわれの行為の見地から見ると、事実において、われわれがほんとうに認識することができたとした場合にそれらの対象がありうるその本質の知識と、まったく同じ価値をもっているのである。

このようにして、私たちは、カントが説くように、人間の精神というものは、自分ではどれ一つとしてその概念を作ることのできないような一組の事物が実在しているものと固く固く信じている、という不思議な精神現象をもっているのである。
<(上巻 p.86-87)

JRF2024/5/109202

そして、ジェイムズが挙げる例の中には、カントに影響を受けたのか、そのような実在は、五感とは違う感覚により感じられたという証言が出てくる (上巻 p.98)。

JRF2024/5/100932

……。

そういった霊的直観について…。

>その直観は、合理主義の住み家である多弁な段階よりもいっそう深い段階である諸君の本性からくるのである。諸君の意識下の生活全体、すなわち、諸君の衝動、諸君の信仰、諸君の要求、諸君の予感が前提をなしているのであって、諸君の意識はいまその前提から導かれた結果の重みを感じているのである。そして、理屈をこねる合理主義がいかに巧妙に語って反対しようとも、その合理主義の言葉よりも、そういう結果のほうがいっそう真実でなければならないことを諸君のうちにある何かが、絶対的に知っているのである。<(上巻 p.115)

JRF2024/5/108782

霊的直観は、反駁可能なものではない。

>実をいえば、形而上学や宗教の領域において、合理的な理由が私たちを納得させるのは、実在について私たちがもっているぼんやりとした感じが、合理的な結論を支持するようなふうに、すでに印象されている場合に限っている。実際、その時にこそ、私たちの直観と私たちの理性とが協力して働き、仏教とかカトリック哲学の体系のごとき、世界を支配するほどの偉大な体系が成長するのである。(…)不合理な直接的な確信こそ私たちの内部深くにひそむものであり、合理的な論証はうわべだけの見せものにすぎない。<(上巻 p.116)

JRF2024/5/102069

ただ、組織の教理は、それを学ぶことで、そのような直観を導く(すべての人にではないが)効果も少なからずあるように思う。

JRF2024/5/108700

……。

>ギリシア人やローマ人は、彼らのすべての悲しみと歓びとを、混ぜ合わすことなく、完全に区別していたのである。本能的な善を、彼らは罪とは考えなかった。彼らははまた、私たちの多くが主張しているように、直接的には悪とみえるものも「善となりつつある」ものでなければならぬとか、何かこれと同じような気のきいたことを主張して、宇宙の面目を保とうなどとは欲しなかった。<(上巻 p.135)

神は終局の善に向けてすべてを善に導いているはずだから、悪も「善となりつつある」…と。

JRF2024/5/104547

進化も、何が目的かは別として、より良いという方向に向かっている…と考えることもできる。そのときどきの環境に適応するとしても、以前の環境が完全に忘れられるわけでもない。いずれ、生物は宇宙で暮らしすべての環境を凌駕できるようになるだろう。そこでは人は個人個人かなり理想的な善に達しているだろう。ただし、そうなっても、完全なる善はそれとは別に存在しうるのかもしれないが。

JRF2024/5/105233

……。

現代でも「引き寄せの魔法」とかあるが、神にまかせていればすべてうまくいく…というような楽天主義がある。クリスチャン・サイエンスなどがこの時代にはあったそうだが。

悪があることは見ず、くよくよする必要がないことを自己暗示的に自らに課し、それを自らに課したことも忘れて、意識的に健全な心の態度を取る。すると、プラセボ効果ということなのか、すべての人でないにしろ、通常思われるより多くの人が、実際、身体的にも健康に過ごせるようになって、この運動は広がった。

JRF2024/5/103229

この楽天主義をまた「精神治療」派とも呼ぶようだ。「精神治療」派という言葉からは、精神薬を使って、社会に適応するアーサー・ケストラー(参: 『ホロン革命』 [cocolog:80965253])とかを私は想像するが、このジェイムズの時代は、(まだ)そういうことではないらしい。

JRF2024/5/100407

>とにかく、実際的成果をあげたお蔭でこの運動が普及したのだということは、あくまでも明白な事実であって、アメリカの国民が体系的な人生哲学に対してなした唯一のほんとうに独創的な貢献ともいうべきこの運動が、具体的な治療術とそのように密接に結びついているというこの事実にもまして、アメリカ国民の性格にある極端に実際的な傾向をみごとに示したものは、かつてなかったのである。合衆国の医者や牧師たちは、いろいろと反抗したり抗議したりしながらも、精神治療の重要性に眼を開きはじめている。

JRF2024/5/103225

(…)

祈ることのできない人間がたくさんいるのと同じように、精神治療者の観念にどうしても感化されることのできない人間も、むしろより以上に、たくさんいるのはもちろんだが、そんなことは、事態になんのかかわりもありはしない。というのは、私たちの直接の目的にとって重要な点は、精神治療の感化を受けることの *できる* 人間がかくも多数いる、という事実だけだからである。
<(上巻 p.147)

JRF2024/5/103187

この時代のアメリカの差別意識を考えると、どうも、こういう「楽天主義」は悪を少なくとも自分のものとは見ないため、自分が差別していても、それに気付かない傾向があるのではないかと思う。楽観のうちに自分の差別も肯定してしまう。逆に、それを被差別者の悪…つまり、未だ彼が十分な精神治療を受けていないこと…に帰する傾向があるのではないか。

JRF2024/5/103635

……。

>(…精神治療派…)この派の著者の言葉を引用しておこう。「恐怖心は、進化の過程においていろいろ役立ってきたもので、大部分の動物に見られる用心深さはすべてそれに基づいて生じたもののように思われる。しかし、恐怖心が文明化した人間生活の精神的素質の一部としていつまでも存続するなどと考えるのは、ばかげたことである。用心深さに含まれている恐怖心という要素は、義務と興味を自然の動機として行動する文明人にとっては、励ましの力となるものではなく、かえって力をそいだり尻ごみさせたりするものだ、と私は思う。(…)」<(上巻 p.150)

JRF2024/5/108906

私も悪を進化に結びつけて考えていた。その辺、こういうアメリカの派の遠い影響下にあったのかもしれない。

JRF2024/5/109239

『宗教学雑考集 第0.8版』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の間にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<

JRF2024/5/103058

この部分、「進化を経てきた」を「進化(や社会の発展など)を経てきた」に書き換えることにする。意味が若干取りにくくなるが、より正確にはなるだろう。(あと「目の間にある」を「目の前にある」に書き換える。ここは誤字。)

JRF2024/5/108332

……。

>諸君自身の小さい不安定な自己を休ませ、より大きい自己が存在していることを知りさえすればよいのである。突如として起ころうと徐々に起ころうと、大きかろうと小さかろうと、とにかく楽観論[オプティミズム]と待ち望む心が結び合って生まれる結果は、つまり、努力の放棄の結果として生ずる再生の現象は、あくまでも人間本性の動かせない事実であって、その究極因果の説明として、有神論的見地をとろうと、汎神論的=唯心論的見地をとろうと、また、医学的=唯物論的見地をとろうと、事態にはなんのかかわりもないのである。<(上巻 p.171)

JRF2024/5/109930

>有神論的説明は、古い本性がすっかり棄てられた瞬間に神の恩寵によって新しい本性が創造されると説く。汎神論的説明(これは大部分の精神治療家の用いるものである)は、不信と不安という孤立的な障壁がとり除かれる瞬間に、狭い私的な自己が、宇宙の霊(これは諸君自身の「潜在意識的」自己である)であるいっそう広い、あるいはいっそう大きな自己に融け込むのだと説く。

JRF2024/5/107244

医学的唯物論はこう説明する、生理学的に「高級な」(医学的唯物論の場合、精神的に高級な、などというわけにゆかない)作用は、調節をはかるもので、結果を阻止することができるだけのものであるから、この高級な脳作用が働かないようにさえぎって、単純な脳作用が自動的に作用するがままに任せられると、単純な脳作用がいっそう自由に働くのだと。-- 宇宙の精神=物理的な説明において、この第三の説明が他の二つの説明のいずれかと結ぶつきうるものかどうかは、ここでは未解決の問題として残されてよいであろう。
<(上巻 p.171-172, 注)

JRF2024/5/107719

精神治療のメカニズムの三様の説明。それぞれモデルであって、事実であるかどうかはわからない。ジェイムズは、ここでもその結果のみを重視する。

JRF2024/5/109746

……。

>前回の集まりで、健全な心の気質を考察したが、この気質は、苦悩を長びかせることが体質的にできないような気質で、ものごとを楽観的に見ようとする傾向が、個人の性格を固める結晶水のようなはたらきをする、といった気質である。私たちは、この気質がどうしてある特殊な型の宗教の基礎となりうるかを見た。それは、善が、たといそれが現世の生活の善であろうとも、善こそが、理性的存在たる者の心すべき根本的事柄である、と考えるような宗教であった。

JRF2024/5/100468

この宗教は、宇宙の悪い面をかえりみることのないよう人間に命じて、その悪い面を心にとめたり重んじたりするのを組織的に禁じ、思慮ぶかい打算によって悪い面を無視させ、それどころか、時には、悪い面の存在を頭っから否定させるのである。つまり、悪は病気なのである。だから、病気のことでくよくよ気をもむのは、そのこと自体、また一つの病気であって、もとの病気をただ重くするだけのことである。

JRF2024/5/109061

後悔や自責の念などの感情でさえ、善に奉仕するしもべの役をなすものであるのに、病的な心を弛緩させる衝動でしかない。最善の悔いとは、正義のために起[た]って行動することであり、諸君がかつて罪とかかわりをもっていたということを忘れることである、と考えられるのである。
<(上巻 p.195)

ジェイムズ自身による、精神療法派の要約。もちろん、私の上での要約より的確である。

JRF2024/5/103231

次にジェイムズは「悲観主義」「厭世主義」…自殺を志してしまうような在り方…を問題にする。そして、そこを辿った上で「回心」するのが、キリスト教や仏教の本筋である…ということのようである。

JRF2024/5/102352

……。

>(…多神教のような…)このような有神論の場合には、神は悪の存在に対してかならずしも責任を負いはしない。悪が最後まで克服されない場合にのみ、神は責任を負うばかりであろう。しかし、一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。<(上巻 p.201)

ヨブ記が投げかけるような神義論または弁神論の問題である。

JRF2024/5/107624

この点、私は次のように書いた。

『宗教学雑考集 第0.8版』《過去の神義論》
>セネカの解答は、基本的には、善き人にはその善きことを示すために神が試練を与えるからだ…というものである。<

JRF2024/5/102169

『宗教学雑考集 第0.8版』《善》

今現在の自分なりに「神義論」を考えてみよう。

まず、《有神論の基本定理》がある。つまり、善いことをすることには、直接的とはいいがたく、ある意味間接的に、善い報いがある。…ということである。

JRF2024/5/100148

そして、『ヨブ記』のエリフなども持ち出す自然の摂理がある。それは人間というものを越えた何がしかの創造の摂理があることを表しているようにも読みとれる。災厄はそういった大きな流れの中の摂理として起き、その善さは人間のスケールでははかれない。その中でも善人は「間接的」に善い報いを受けているはずだが、個々のスケールでみると割に合わないことも多いであろう。

JRF2024/5/102729

神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。(そのあたりは、{{chapter:宇宙論}}で論じた部分に関わる。)

JRF2024/5/109934

だから個人の直接な報いは神にはあまり重要でない。または、そう見えるのは問題ないということだ。しかし、個人の善に神が関わることがないのかといえば、そうではない。


私はこれまで生きてきて、どちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭わない道を意識として持つべきだと思うようになった。

JRF2024/5/101553

現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。<b>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。</b>そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。

JRF2024/5/107902

『宗教学雑考集 第0.8版』《奇跡》
><b>奇跡については神の介入の証拠はやがてなくなり物理的・科学的な説明を邪魔できなくなるのだ。</b>

(物理的)奇跡とはそのように証拠は残さない形でなら起こりうるのである。<b>証拠を残す形で起こってもいいはずだが、なぜか、そうならないのである。</b>

JRF2024/5/101567

(…)

奇跡がそのようにしか起こらないということは、神は「《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあること」がわかっておられたというだけでなく、その特長を(長い目で見て)維持しようとなさるということである。

JRF2024/5/108380

我々は他者を救うとき直接救うようなことはあまりしない。自力で労働などにより貨幣を稼がせ(または貨幣がない時代は分業し)、それで自由に「救い」を選択し買わせるほうが好まれる。それは自分への信頼につながるし、独立した自己が依存を脱し自分の上司ではなく神の治める世界への信頼にもつながるということからであろう。依存をまねきやすい奇跡が、起こりにくいことも含めて考えると、神は個の独立を好むともいえそうだ。《有神論の基本定理》はある種、集団にしか作用しないが、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなる。そこに個の独立をもたらす「神の前の平等」を求める余地が生まれるのだろう。

JRF2024/5/103195

神は個の独立を好み、自然の摂理の中でそこから集団として善に向かうことを好まれる。そういうことが成り立ちうるようにこの世界を自然をそして悪を造った・造らざるを得なかったということになるだろう。個々の善悪は多くの場合バーチャルにしかかえりみられない。セネカ流を拡張して、集団全体を善者として善者だから試練を与えているとも見えるが、そうではないのかもしれない。神の似像として人を創るというのは、神をしてもそうせざるを得なかったのかもしれない。

JRF2024/5/106479

……。

>悪をば、事物との不適合、生活と環境とのまちがった対応という意味にしか考えないような人々がいる。そういう悪は、少なくとも原則的には、ごく自然なふうに治療されることができるのである、なぜなら、自分自身のほうか事物のほうかどちらかを、あるいは、両方いっしょに、変化しさえすれば、両方の仲はぴったり納まって、結婚式の鐘のように万事はまためでたくおさまるからである。

JRF2024/5/108081

ところが、世のなかにはまた、そういう人々とは違って、悪というものを、主体と特殊な外的事物との関係であるばかりでなく、もっと根本的で一般的なあるもの、自己の本質のうちにあう不正ないし悪徳であって、環境を改めても、内的な自己をうわべだけでどんなに列べ変えてみても癒やすことができず、なにか超自然的な治療を必要とするものとみなすような人々もいる。

JRF2024/5/107548

一般的に見て、ラテン民族は、前の方の見方に傾いていて、悪は複数の罪悪からできているもので、一つ一つ除き去ることができる、と考えるが、これに反してゲルマン民族は、むしろ罪というものを、単数形で、しかも大きい頭文字で考えがちで、われわれ人間の主観の本性に深く根ざしていて、どんなに表面だけの部分的な手術を施してもけっして除去できないものと考える。

JRF2024/5/106348

こういう民族の比較は、いつでも例外を免れないが、しかし、北方民族の宗教の調子のほうが、むしろ本質的に厭世的な傾向をもっているのは確かであって、この感じ方のほうがより極端なものであるだけに、それだけ私たちの研究にとって教えるところが多いであろう。
<(上巻 p.204-205)

「ゲルマン民族の考え方」は、私は今一つ理解できない。

JRF2024/5/103665

……。

>幸運にもつかんだ束の間の自然的な幸福に、ただ成り行きまかせで甘んじているというだけの生き方に、宗教的価値を認めようとするのは、うかつさと皮相さとを神聖化するにほかならないであろう。私たちの悩みは、事実、*そんな方法で* 癒やされるには、あまりにも根深いのである。

JRF2024/5/106893

そもそも私たちが、死ぬことが *できる*、病気になることが *できる*、という事実が、私たちを悩ますのである。私たちが、さしあたっていま、生きており、そして健康である、という事実は、その悩みにとっては重要な問題でない。私たちは、死と関連していない生を、病気にかかることのない健康を、滅びることのないような種類の善を、つまり、自然的な善を超越した事実のうちにある善を、求めるのである。
<(上巻 p.213)

JRF2024/5/105619

「死ぬことができる」「病気になることができる」は、永遠の相において「地獄往きになることができる」「罪にさだめられる」ということに相当するのだろう。そうでなければあまり「癒されない」ということが理解できない苦悩のように思う。それとも私が生きるのに諦め過ぎなのか?

JRF2024/5/102280

……。

>潜行性の内科的病気に冒された老人は、最初のうちはいつものとおり笑ったり、酒をたらふく飲んだりするかもしれない。しかし、医者から病状を打ち明けられて自己の運命を知るにいたると、その知識が、笑ったり飲んだりしても満足を得られなくなってしまう。笑いも飲酒も死の道連れとなり、蛆虫がその兄弟となり、そのすべてが味気ないものになってしまう。<(上巻 p.214)

関係ないが、ガンに絡んで、以下のメモを思い出した。

JRF2024/5/100500

>>
○ 2024-04-19T02:47:10Z

遺伝子検査には、ガンの過剰診断と似た問題がありうるし、差別もありうるし、昔は取り違えや「托卵」も結構あったのだろうが、生物学的な家系を確定することには、それなりの効用はあると思う。

JRF2024/5/104826

《finalvent:X:2024-04-17》
https://twitter.com/finalvent/status/1780452732517671065
>うーむ、びっくりだなあ。現状の科学ではほとんどわからないと思うのと、やばいもんはわかるかもだが検査項目にはないだろう。遺伝子調べなくても家系を調べればだいたいわかると思うが。

《武見厚労相、子どもの遺伝子検査に驚き 「慎重に考えるべきだ」 | 毎日新聞》
https://mainichi.jp/articles/20240416/k00/00m/010/088000c

JRF2024/5/107368

なお、遺伝子診断については、それを相続税の制度と組み合わせ、ほぼ出生時に強制する提案を私はしている(参: [cocolog:94155291] など)。
<<

JRF2024/5/106385

……。

トルストイは生の絶頂のさなかに生に幻滅してしまう。

>幻滅がこれほどまでにひどくなると、完全な原状への回復 restitutio ad integrum はほとんど望みがない。知恵の樹の実を味わった以上、エデンの園の幸福はもはやけっして帰ってはこないのである。なにか幸福が訪れる場合でも -- そして、その場合の幸福は時としてたいへん烈しい形式のものであることが多いけれども、それがその烈しい形のままで帰ってくることはめったにない -- その幸福は、単純にただ不幸を知らないというのではなく、もっとずっと複雑なものである。

JRF2024/5/103230

すなわち、その幸福は、自然的な悪を幸福の一要素として含んではいるが、その悪が超自然的な善の中へ吸いこまれてしまうことを知っているので、その悪を躓[つまず]きの石とも恐ろしいものとも考えることのないような幸福なのである。この過程は悪から救い出される過程であって、単に生まれながらの健全さに復帰する過程ではない。

JRF2024/5/101369

そして、その苦悩者は、救われるとき、彼には第二の誕生と思われるものによって、彼がかつて知ることのできたものよりもいっそう深い種類の意識的生命と思われるものによって、救われるのである。
<(上巻 p.237-238)

この本では楽観主義の宗教の者を「一度生まれの者」、厭世主義を経て回心したものを「二度生まれの者」といった言葉で表すことがあるようだ。ただ、回心はこの段階では詳述されていない。

JRF2024/5/107689

……。

>(…楽観主義の宗教に比べ…)私たちは、病的な心のほうがいっそう広い領域の経験に及んでおり、その眼界のほうが広いと言わねばならぬように思われる。注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。その方法は、多くの人々にあって効果を示すだろうし、私たちの大部分の者がふつう想像するより以上に広い範囲にわたって効果を示すであろう。そして、それが効験をあらわす範囲内においては、それが宗教的解決であることに反対すべきいわれはない。しかし、憂鬱があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。

JRF2024/5/108661

そして、たとえ私たち自身が憂鬱をまったく免れているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。
<(上巻 p.247)

JRF2024/5/103949

進化においては、退化もまた進化である。楽観主義で生きられない者は死ねばいいというのもそれはそれで優れているのではないか、と私などは思う。私は浅はかではあるだろうが。

JRF2024/5/106322

……。

>自然的な善は、ただ量的に不十分でうつろいやすいばかりではなく、その存在自体のなかに、ある虚偽がひそんでいるのである。<(上巻 p.251)

これは私の「人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。」という考えに似ている。

当然、こういうことを考えたのは私が最初ではないだろう。

JRF2024/5/104440

……。

恋から無関心への回心の例のあと…。

JRF2024/5/102013

>スターバック教授は、その『宗教心理学』Psychology of Religion, p.141. で、これに類した例を一つ、それから憎しみが突然に愛に転じた逆の例を一つ、挙げている。さらに彼が 137-144 ページで、習慣や性格の非宗教的な急変についてあげている非常に珍しいいくつかの実例を参照されたい。すべてそういう急激な変化は、特殊の大脳機能が無意識のうちに発達して、それが意識生活のなかへ突入すると、すぐ統制的な役割を演じうるようになっている結果おこる、という彼の考えは正しいように思われる。

JRF2024/5/109390

急激な「回心」について論ずるときに、私はできるだけこの意識下潜伏説を用いることになるであろう。
<(上巻 p.272, 注)

ジェイムズは、「潜在意識」などの言葉を使って、回心が作る心理的働きを、医学的唯物論的に何度か説明する。その中では、催眠術において暗示が行動をさせるとき、それに適当な説明で合理化しながらも、その暗示どおりに行動することなども説明に加える。(それを「自動現象[オートマティズム]」と呼んでいる。(上巻 p.352))

JRF2024/5/108748

……。

上に述べたトルストイの回心。

JRF2024/5/104315

>徐々にトルストイは次のような信念を固めるにいたった -- そこまで達するのに二年かかった。と彼は言っている -- 自分が心を悩ましてきたのは、生活一般でも普通人の普通の生活でもなく、上流の知的、芸術的階級の生活であり、彼自身がいつも営んできた生活であり、頭脳的な生活であり、因襲と技巧と個人的野心の生活であったという信念を。彼は間違った生き方をしていたのであった、だから、それを変えなければならなかった。動物的要求のために働くこと、虚偽と虚栄とを放棄すること、公衆の困窮を救うこと、簡素であること、神を信ずること、そこに幸福はふたたび見いだされるであろう。<(上巻 p.280)

JRF2024/5/100982

そしてトルストイは農夫の生活をはじめた。…そうだ。

現代では、ビル・ゲイツ氏が、農場を買っているという話を思い出す。あれはまた別ものなのかもしれないが。

私も農場関連のゲームは積みゲーしてたりする。それと比べたらダメかもだが。

JRF2024/5/104481

……。

>回心する、再生する、恩恵を受ける、宗教を体験する、安心を得る、というような言葉は、それまで分裂していて、自分は間違っていて下等であり不幸であると意識していた自己が、宗教的な実在者をしっかりとつかまえた結果、統一されて、自分は正しくて優れており幸福であると意識するようになる、緩急さまざまな過程を、それぞれあらわすものである。少なくともこの過程が、一般に回心と言われるものであって、そのような精神的な変化を引き起こすのに、直接の神の働きかけが必要であると考えるか否かは別問題である。<(上巻 p.287)

JRF2024/5/108962

私が統合失調症になったとき、そのような「救われた感じ」は一瞬で終り、みじめさにまみれたものだった。だから、私のものは回心とは違うのかもしれない。

もちろん、この第10章の最後のほうで、ジェイムズは、回心後にも「堕落」が普通にありうることを説く。ただ、堕落しても、宗教的生活は捨てないことが多いとのことだった。私もそれに関しては、あてはまるかな…と思う。回心ののち、宗教を無視することはできなくなった。あいかわらず性悪のままだが。

JRF2024/5/109205

……。

>感情的な関心には大きな振幅がありうるし、焦点は、パッと燃え上がった紙を突っ走る閃光[スパーク]とほとんど同じように、素早く移動することがありうる。そのような場合、私たちが前講でいろいろ聞き知ったような自己の動揺ないし分裂があらわれるのである。あるいはまた、興奮と熱との焦点、目的を設定する観点が、恒久的に或る体系の範囲内にあるような場合もありうる。その場合、その変化が宗教的なものであるならば、そしてことにそれが危機 crisis によって、あるいは突如として、起こる場合には、私たちはそれを回心と呼ぶのである。<(上巻 p.297)

JRF2024/5/108654

潜在意識にたまっていた何かに突如、焦点が移動するのが回心というのが定義的なもののようだ。

JRF2024/5/105343

……。

>スターバック博士は言う、「(…)神学は疾風怒涛の持続期間を短縮する。」<(上巻 p.302)

>理性的な形式主義に反抗して個性の解放と主観の自由を強調する青年期特有の傾向を、一般に「疾風怒涛」という。<(上巻 p.393-394, 訳注)

「組織の教理は、それを学ぶことで、そのような直観を導く(すべての人にではないが)効果も少なからずある」と上で書いたが、その逆(?)に、宗教経験の異常状態を早く終らせる効果もあるのだろう。

JRF2024/5/109744

……。

>スターバック博士がここで念頭においているのは、もちろん主として、教導や訴えや範例によって昔からきまっている一定の模範型にはめこまれてしまうようなごく平凡は人々の回心のことである。こういう平凡人の帯びている特殊な形式は、暗示と模倣の結果である。彼らがその成長の危機を、別の宗教と別の国とで通過したとしたら、たといその変化の本質は(この変化は、大体において、不可避なものであるから)同一であろうとも、それに付随することがらは違ってくるであろ。

JRF2024/5/103368

例えば、カトリックの国々や私たち自身の聖公会派においては、信仰復興[リバイバル]を奨励する諸宗派に普通に見られるような不安や罪悪感というものがない。これら比較的きびしい教会主義の諸派においては、むしろ典礼の方に重きがおかれていて、個人自身が救いを受けるということはそれほど強調される必要がないし、またそういう方向に導かれる必要もない。
<(上巻 p.301)

宗教によって、「回心」の形態は特に細かな部分では異なる。…と。

私は、原始宗教の、イニシエーションなどを想起する。

JRF2024/5/109106

……。

回心において…。

>結果を生むために両方の条件 -- 一方の感情の潜在意識的な成熟と他方の感情の疲労と -- が同時的に協力したに相違いないことは、ほとんど疑いのないことのように思われる。<(上巻 p.324)

突如として起こるタイプの回心には、宗教的「自己放棄」の瞬間がなければならないのであるが、それは、その前段階において、上で述べた潜在意識的なもの以外に、いろいろ試みた上での「疲労」がなければならないようである。

JRF2024/5/104502

……。

メソジスト派(ウェスリイの派)が突然の回心をとても重視するのに対し…。

JRF2024/5/105558

>ところが、プロテスタンティズムのもっと普通の諸派は、瞬間的な回心を重視しない。これらの諸派にとっては、カトリック教会の場合と同じように、自己絶望と自己放棄との激しい危機につづいて救いが経験されるということがなくとも、キリストの血と典礼と個々人の普通の宗教上の義務行為とだけで実際には救いを得るには十分であると考えられている。それに反して、メソジスト派にとっては、この種の危機がない場合には、救いは提供されているだけで、効果的に受け容れられてはいないのであり、その意味ではキリストの犠牲は不完全なのである。

JRF2024/5/100059

メソジスト派が、この場合、たとえ健全な心に従ってはいないにしても、しかし、全体としては、深い霊的本能に従っていることは確かである。メソジスト派が典型的で倣う価値のあるという個々のモデルは、劇的で面白いばかりでなく、心理学的に見ても、いっそう完全なものである。
<(上巻 p.343)

JRF2024/5/104976

この引用とはあまり関係がないが、この本で扱われる回心などの例・証言は、多分に人を感動させるものがある。この本を読むことで、潜在意識にキリスト教が蓄積されて、後に回心に致る人もいるのかもしれない。…と思う。

JRF2024/5/102175

……。

>私たちが、いかなる宗教的な関心をももたずに、純粋に自然史的な観点からして、心の歴史を書いたとしても、それでも私たちは、人間が突然にしかも完全に回心しがちな傾向をもっていることを、人間のもっとも奇妙な特性の一つとして書き留めざるをえないであろう。<(上巻 p.346)

かつてのイニシエーションなどが、こういう人間的素地を作ったのか、それとも、そういう素地を保存するため、それが有効であったから、イニシエーションが行われていたのか…。

進化史における第二次性徴の神秘というものがあるのかもしれない。

JRF2024/5/104077

……。

ただし、ジェイムズは回心が実用的に何かをもたらしているという見解には否定的である。

>回心者は、一つの種属として、自然人から区別できるものではない。ある自然人は彼らの結ぶ果実において、ある回心者をしのぐ場合さえもある。教義的神学を知らない人は、自分の目の前の二つのグループの人々の「偶有性」を日々観察するだけでは、人間的本質と神的本質が違うように、この二つのグループの人々の本質も相互に違っている、と推測することはできまい。<(上巻 p.357)

JRF2024/5/102286

>霊が第二の出生をとげたという真の証[あか]しは、ほんとうの神の子の性質のなかに、すなわち、永久に忍耐する心、自己愛を根絶した心のなかにのみ、見いだされる。しかし、このようなものは、なんら危機を経ない人々のうちにも見いだされるし、またまったくキリスト教の外においてさえ見いだされるということも、承認されなければならない。<(上巻 p.358)

ただし、それが個人の内心に与える影響までは否定しない。

JRF2024/5/101254

>人間が一つの深淵によって二つの部類に客観的に分かたれている、ということをあくまでも否定するにしても、だからといって、回心という事実が回心する個人自身に対してもっているきわめて重大な意義に私たちが盲目であってはならない。<(上巻 p.358)

もちろん、それが超越的救いとは関係がなく、心理学的意味があるということに過ぎなかったとしても。

JRF2024/5/102992

……。

自己暗示にかかりにくい受動的な人物のほうが突然の回心をしやすい傾向があるようだが、もちろん、それが霊的な事実に対して意味があるわけでないのは、上の医学的唯物論批判で語ったのと同じである。

JRF2024/5/107003

>あたかも私たちの第一次的な目ざめている意識が、物質的な事物の接触に対して私たちの感覚の扉を開け放つのと同じように、もし私たちに直接的に触れることのできる霊的な力が存在するとするならば、そのような力が私たちに触れるということの心理学的条件は、その力の唯一の通路となりうるような潜在意識的な領域を私たちが所有しているということであろう、と論理的に考えられるのである。<(上巻 p.363)

JRF2024/5/109294

しかし、それが医学的進化的遺伝子的事実であるのなら、「突然の回心」を選び続けることは、遺伝子をまたは社会的な特質を選び続けることを意味する。ある種の差別・純血主義になるのではないか。

たとえば、日本語や漢字の難しさを強制することが、ある種の外国人の子供を苦しめていることがあるかもしれない。そういう間接的な純血主義は問題があるのではないか?

問題はあるが、それが人の文化でもある。それ以外の多様な価値の中、彼らが生き残ることを認めるのが現代であり、アメリカやメソジスト派が受け容れたことなのであろう。

JRF2024/5/105626

……。

……。

下巻。

JRF2024/5/105274

……。

>人間の性格というものは知性とは違ったものであって、性格に関するかぎり、個人差の原因は、主として情緒的刺激の感受性の相違、および、そこから生ずる衝動と抑制の相違にある(…)。<(下巻 p.12)

今だと原因としては、遺伝子などが持ち出されるところだが、このころはこういうモデルで OK だったんだね。

JRF2024/5/101209

……。

>地獄の業火を説いた古風なキリスト教は、恐怖心をかきたて、この恐怖心を十分に利用して、その代償に悔い改めという果実を手に入れ、回心という十分な価値をかちとることをよく心得ていたのである。<(下巻 p.16, 注)

現代の価値観だと、恐怖心の利用はよくないこととされがち。その点、実用主義は「役に立つならいいじゃん!」と、そういうのをバイパスしてしまうおそれはあるかな。

JRF2024/5/106931

……。

>神の恩寵が奇蹟を生み出すとすれば、それはおそらく潜在意識の扉を通じてであろう。<(上巻 p.25)

「潜在意識」が「集合的無意識」ぐらいの理論になると、そこには超心理学的事態、実際の神がありうるという見方も「科学的」にひそんでくるんだろうな。

JRF2024/5/100727

……。

>宗教が人間の性格に実らせるふくよかな果実をあらわす集合名辞は「聖徳」Saintliness という言葉である。<(下巻 p.28)

聖徳、この後キーワードになるのだろうか。

JRF2024/5/104235

……。

聖徳の特徴の一つ…。

>この世の利己的な卑小な利害関係から成る生活よりももっと広大な生活のなかにいるという感じ。そして、理想的な力 Ideal Power の存在を単に知的に知るだけでなく、いわば感覚的に感じているという確信、キリスト教の信仰においては、この力はつねに神として人格化されている。しかし、抽象的な道徳的理想でも、市民的または愛国的ユートピアでも、あるいは神聖または正義に関する内的ヴィジョンでも、やはり、私が見えない者の実在に関する講義のなかで述べたような仕方で、私たちの人生の真の主であり拡大者であると感じられることができるのである。<(下巻 p.29)

JRF2024/5/105289

抽象的理想でも実在と感じられる。ユートピアのような実在だろうか? それが聖性に人を導く…と。

JRF2024/5/106517

……。

>さて、聖徳から普通生ずる果実のひとつである慈愛と兄弟愛に移ろう。特定の神学が要求する礼拝の種類がいかに限られたものであろうと、この慈愛と兄弟愛とは、従来つねに本質的に神学的徳性とみなされてきたのである。兄弟愛は、神が好意をもって現前し給うという確信から論理的に生ずるものといえよう。私たちが人間として兄弟であるという考えは神が私たちすべての者の父であるという考えから直接に推論されるものだからである。<(下巻 p.39)

JRF2024/5/109433

有神論の基本定理を集団が受け容れていることは、兄弟愛の現れと見ることもできる。

有神論の基本定理を受け容れることは集団にとって価値があり、それはひるがえって個人にも価値がある。しばし、個人に十分な価値がなくても、有神論の基本定理が受け容れられていくのは、究極的にはそこに、「総体として生きたい」があったからであろう。

JRF2024/5/101721

『宗教学雑考集 第0.8版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。<

JRF2024/5/105705

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。<

JRF2024/5/108646

進化もまた、過酷な環境にさらされて「総体として生きる」からできてきたのであろう。

[cocolog:94817429]
>人間の目的には主体が必ずあるかというとそうではない。「主体の目的」がない状態に人間は陥いることができる。しかし、その状態を長く続けると生命体として維持できなくなるため、身体が、主体的な目的を呼び起こすだろう。

JRF2024/5/108960

様々なレイヤーでの「最適化」が存在しているが、「生きたい」という目的は確実に存在し、子孫を遺したいというレイヤーも存在しているはずである。なぜなら、そこには「総体として生きたい」があって、「総体として生きる」ためには、生存競争して死んで子孫を遺すような在り方が有利だったからそれが選択されてきたという進化史があるからだと私は思う。

そしてなぜ「総体として生きたい」があるかというと、それは、私の「なぜ生きなければならないか」の議論で仮説(仮設)として挙げたところである。

JRF2024/5/103784

ただ、じゃあ、どうして「総体として生きる」に適した環境になったか? それは話が逆である。安住があったという宇宙環境にのみ、「総体として生きる」は成立したのだ。そして、安住の過去を欠乏とする相対的に過酷な環境で、複数者が生きる進化の有効性と兄弟愛に通じる有神論の定理が同時に成り立つのだろう。

JRF2024/5/100215

……。

>緊張、自責、心労が、平静、忍従、平安へ移行するということは、私がこれまでしばしば分析してきた心の刺激のあらゆる転移、人格的エネルギーの中心の変化のなかで、最もふしぎなものである。しかもそのふしぎさは、主として、この移行が積極的な活動によって生ずるのではなく、単に心をくつろがせて重荷を投げ出しただけで生ずる場合が多いという点である。この自己の責任の放棄ということは、道徳的行為とは違った、とくに宗教的行為の営みであるように思われる。それはあらゆる神学に先行し、またあらゆる哲学とも無関係である。

JRF2024/5/103294

精神治療、神智学、ストア主義、普通の神経衛生などは、キリスト教と同じ程度にこの点をとくに強調しているし、それはあらゆる思弁的信条とも密接に結びつく可能性がある。このような傾向の強いキリスト教徒は、いわゆる「精神集中」のなかに生き、将来について思い煩うこともなければ、その日その日の成り行きに気をもむこともない。(…)ヒンズー教や精神療法や神智学などはすべて、このような目前の瞬間に対する意識の集中を非常に重視しているのである。
<(下巻 p.55-56)

アドレナリン(とドーパミン)のふしぎなのだろうか…。

JRF2024/5/109374

……。

>過去百年間に、私たちの西欧の世界では、一つの奇妙な道徳的変貌がおこなわれた。私たちはもはや、肉体的苦痛に平然と堪えることを要求されているとは考えない。(…)このような歴史的な変化の結果として、かつては禁欲的鍛錬が一種の長所と考えられて、あれほど確固とした伝統的な威信を保っていた教会の内部においてさえ、禁欲的訓練は、悪評を蒙らないまでも、大部分すたれてしまっている。いまでは自分自身を鞭うったり「断食」してやせおとろえたりする信者は、それに倣おうという気を起こさせるよりもむしろ疑念と恐怖をよび起こすだけである。<(下巻 p.68-69)

JRF2024/5/105822

暴力的なことはなくしたほうがいい。それはそうなのだが…。私はどちらかというと体罰肯定論者である。

[cocolog:75330389]
>口の達者な人だけが指導者になるべきなのか?それが正しいのなら、まずは口だけで、説得だけで、(刑事罰とか経済力とかを使わず)体罰をやめさせればいいじゃないか。<

体育会系の指導者に(例えば素人野球の監督に)、運動がどれだけ得意であってもなれないのは、問題があると思う。そういうロールモデルがないと、夢がないと、「やってられない」という運動部員もいると思う。それを排除していいのか…という問題だと思う。

JRF2024/5/102923

……。

所有を否定し貧困を尊ぶ文脈で、イエズス会のロドリゲス神父が語るところでは…。

JRF2024/5/106912

>聖ドシテウスは病人の看護にあたっていたとき、或るナイフが必要になり、聖ドロテウスにそれをもらいたいと頼んだ。そのナイフは彼の個人的な用に使うのではなく、彼が担当していた診療所で使うつもりだったのである。

JRF2024/5/108747

ところが聖ドロテウスは答えて言った、『ははあ、ドシテウスよ、そんなにあのナイフがお前の気にいったのか! お前はナイフの奴隷になりたいのか、それとも、イエス・キリストの奴隷になりたいのか? ナイフなんかを主人にもちたいと望んだりして、お前は恥ずかしくて顔が赤くなりはしないのかね? ナイフには触れさせないよ。』この非難と拒絶が聖なる使途に非常な影響をあたえ、それ以降、彼は二度と再びそのナイフに触れなかった。……
<(下巻 p.96, 注)

JRF2024/5/106445

ナイフの機能を求めたのだろうから、それは「所有」とはまた別だろう。その点、聖ドロテウスに誤解かユーモアがあったのではないか。それをたださず、再びそのナイフに触れないということは、むしろ、それが、「ナイフに触れない」ことを所有しているということではないのか。所有という言葉が間違っているなら、執着があるということだ。聖ドシテウスにその点、非があるのではないか。

JRF2024/5/102802

……。

貧困を尊ぶのはどこから来ているか、その淵源の一つは、兵士の理想化にあるようだ。

>私たちは兵士を絶対的に身軽な人間として讃美する。兵士は自分の生命[いのち]一つのほかには何者も所有せず、また大義の命ずるときはいつでも生命をなげうつ覚悟をもっており、したがって兵士こそは何ものにも束縛されない理想的な自由の代表者なのである。<(下巻 p.98)

最近、次のように語った

JRF2024/5/108807

[cocolog:94828661]
>母への尊敬は当然、昔からあった。それが資本主義が女性に仕事をさせるようになり、女性の間でも仕事によって貴賤ができてきた。そしてそれを男性と比べるようになった。出産という大きく尊い「仕事」がある中それをしたら、おかしくなるのは当然。出産がない分、下に見られる男も増える。私は、議員などの指導層にパリテを導入するのは賛成するけれど、労働におけるフェミニズムは西欧「不労所得者」文化から来たものをそのままというのはかなり問題があるとは思う。<

JRF2024/5/103908

男性の場合(昔)は、兵士の「仕事」に対して、どうやっても平時の仕事は劣後すると感じられるものだった。それは、母にならない女性が、母になった女性に感じるものに相当するだろう。

その兵士に貧困の理想があり、それが男性修行者の理想になるのはわかるのだが、女性はなぜ貧困を理想とするのだろう? このあたり出産で命を落とすのが怖い女性によるもう一つの命を落としがちなことへの倒錯があるということなのか…。

JRF2024/5/106280

[cocolog:94828661] では、新しい「フェミニズム」について、きっかけとなった雁琳さんの女房文学への示唆から女性漫画家モデルも考えた。

その後、上で読んだことを踏まえ、考えたのが次のメモになる。

JRF2024/5/101377

>>
○ 2024-05-05T12:10:02Z

女房文学の成立には、出産(結婚)が奨励されない女性の存在が反映しているのかもしれないな。その奨励は貴族の子女の教育に集中するため。そういう女性が子の代わりに世に遺すものとして。

他の結婚する女性が受け継ぐ昔話と衝突しないよう、大人向けの物語が求められた側面もあったか。竹取物語が紀貫之という男の手になるという説もさもありなん。

JRF2024/5/103321

人工子宮を見据えてまたは少子化を目指して出産しない女性のモデルが求められる中、雁琳さんが新しい「フェミニズム」として女房文学に注目するのは、間違っていない気がする。

(…なお、この点を Gemini さんにぶつけると、昔話が子供をなすことを祝福するような内容のものが多いため、そこを出産を奨励されない女房が嫌った面もあったのかもしれない。…旨の指摘があった。…)

JRF2024/5/108665

《桃缶ココハナ:X:2024-04-30》
https://twitter.com/momokan_create/status/1785113282732531719

竹取物語って作者不明とされてるんだけど、紀貫之なのでは説があって、土佐日記見ると確かに節回し(ダジャレとか)が似てて信憑性あるなあと感じた。
で、こないだ土佐日記読んでたら土佐で亡くした幼い女の子を偲ぶ部分があって、それを見てふと思った。

JRF2024/5/100295

竹取物語の作者がもし紀貫之ならば、かぐや姫は幼くして亡くなった我が子を模しているのかも。紀貫之50代後半?くらいの頃にできた子だとすると、竹取の翁とかぐや姫の親子年齢の差や、歳をとってからの子がめちゃくちゃ可愛いことなどの心情と符合する。

かぐや姫は未婚を貫くが、これはもしかして紀貫之自身「たとえ帝が求婚してこようとウチの娘は嫁がせん!」ていう溺愛にも見えるし、未婚のまま幼くして亡くなったことを暗に仄めかしているともとれる。ひょっとしたら紀貫之は娘の死について「いったい何のために娘は生まれてきたのか」と自問し

JRF2024/5/109250

かぐや姫が何のために地上を訪れたのかという物語に昇華させて、娘の魂と自分のやるせない心を供養したかったのではないだろうか。
竹取物語はタイトルもいくつか説があって、「竹取の翁の物語」といわれることもある。だとすると、主人公は竹取の翁であり、彼の苦悩が物語の軸になる。

もし竹取物語の作者が紀貫之で、亡くした娘を偲んで物語として昇華させたかったとするならば、紀貫之は自分自身の苦悩を翁という人物に投影して書いたことになるのでは…。

JRF2024/5/100125

あくまでわたしの妄想なんですけどね。
物語を書くひとって、自ずと自分自身をどこかに投影させて書くことになる気がする。

JRF2024/5/109221

《Risa:X:2024-05-01》
https://twitter.com/l3iqoe/status/1785464407549436411
>うーん、でも、万葉集にも原型の長歌が残ってるからな…たぶん元は口伝で伝わってきたお話か、歌で紡ぐお話なのよ。それが平安時代に物語化されたんだろうね。その物語化に紀貫之が携わってるって意味なら、分からなくはない。<
<<

JRF2024/5/109570

……。

>自己放棄の神秘に加えて、貧困の崇拝にはなお他の宗教的神秘がある。まず誠実という神秘がある。(…)さらにまた、民主主義という神秘がある、つまり、神の前ではその被造物がすべて平等であるという感情である。この感情は(これは一般的にいってキリスト教国よりも回教国でいっそうよく普及しているようである)、人間が通常もっている利欲を抑制する傾向がある。この感情をもつ人間は、位階や名誉、特権や利益を軽蔑し、私が前回の講義で述べたように、どんな卑しい者とも同格で神の面前に平伏することを好むのである。

JRF2024/5/109286

それは実際には謙虚の感情に近いものではあるが、正確に同じものではない。それはむしろ、他の人々もともに享受できないようなものは、これを享受することを拒否する人類愛である。
<(下巻 p.107)

イスラム教をそのように見ているんだね。他の人々もともに享受できないようなものは、これを享受することを拒否する…と。服従の平等といったところか。

JRF2024/5/104066

……。

神はその実利がなくなれば捨てられるとジェイムズはいう。

>いずれにせよ、彼らはその神がもたらしてくれるように見えた果実の価値のゆえに、彼らの神を選定したのであった。その果実がまったく無価値に見えはじめるやいなや、果実が人間の欠くべからざる理想と衝突するにいたるやいなや、あるいは他のもろもろの価値をあまりにも甚だしく妨害するにいたるやいなや、よく反省してみると大人気ない、軽蔑すべき、あるいは不道徳な果実だと思われてくるやいなや、その神は信用されなくなり、やがて無視され忘却されたのである。<(下巻 p.114-115)

JRF2024/5/100226

実態としては前の神を捨てるということになっているのかもしれないが、同じ神ながら神が「変質」することもままあったと思われる。カトリックなどはそう解釈すべきではないか。

JRF2024/5/104132

……。

>すべての人間が同一の宗教をもつべきものか? すべての人間が同一の果実を示し、同一の指導に従うべきなのか? 硬い心の人でも軟かい心の人でも、高慢な人でも謙虚な人でも、努力の人でも懶惰な人でも、健全な心の人でも絶望している人でも、まったく同一の宗教的刺激が必要とされるほど、すべての人間は内的要求を等しくするのであろうか?

JRF2024/5/102972

それとも、人間の型が異なるに応じて、人間性という有機体のそれぞれ異なった機能が割り当てられていて、そのために、ある人々には慰めと安心の宗教のほうがほんとうに身のためになり、ある人々には恐れと譴責の宗教のほうが適しているのであろうか? おそらくそうであろうと想像される。
<(下巻 p.120-121)

この点は個人主義的な福音派の主張にジェイムズは傾き過ぎのように思われる。ここでこの本を読むのをやめる者がいても断罪できまい。

JRF2024/5/109794

SNS の時代に生きる我々は、他人と意見を表面的にも合わせることの大切さを知っている。それは集団になるほうが強いということでなく、我々の心の問題として、孤立しすぎることはよくないからである。

SNS の代わりとして宗教が担ってきたものがあるように思う。そこでは多くの人に受忍できるという性質が強く求められただろう。その人に最も適した・ふさわしい教えよりも、その人の周りが老若男女受忍できる教えのほうがその人のため・実用になったという面もあると思う。

JRF2024/5/101768

……。

クエーカー(派)始祖のジョージ・フォックスの体験談のあと…。

JRF2024/5/107973

>このような真正の直接的な宗教的経験というものは、それを目のあたりに見る人々の目には異端として映らずにはいない、そしてその預言者自身は単なる孤独の狂人と見えるにちがいない。彼の説く教義が伝染性をもっていて他の人々に伝播すると、その教義は、れっきとした異端としてレッテルをはられてしまう。それでもなお、伝染する力をもっていて迫害に打ち勝つことができると、その教義そのものが正統的教説になる。

JRF2024/5/104132

しかし、一つの宗教が正統派的教説になってしまうと、それが内面的であった時代は過ぎ去ったのである。つまり、源泉は涸れ、その信者はもっぱら受け売りをして生活し、こんどは彼らが預言者たちに石を投げる番になる。
<(下巻 p.125-126)

JRF2024/5/104821

マックス・ウェーバー『支配について』([cocolog:94703217])のカリスマ制の説明のところで、新興宗教のカリスマの後継者問題が語られていた。カリスマは世襲がはかられるが、多くの場合失敗し、成功したものは、家父長制的になる。そこから官職にカリスマを付ける官職カリスマが成立してくると、カトリックのような教権制も視野に入ってくる。…とのことだった。

「カルト」については、ロビン・ダンバー『宗教の起源』([cocolog:94517420])にも説かれていた。

JRF2024/5/107399

……。

>普通よく卑劣なことが宗教の責任にされているが、そういう卑劣なおこないのほとんど全部が、けっして本来の宗教の責任に帰せらるべきものではなく、むしろ宗教の邪悪な実際上の相棒[パートナー]、すなわち団体的支配の精神に帰せらるべきものである。そして偏狭な信仰心は、これまた、宗教の邪悪な知的な相棒、すなわち教義的支配の精神、絶対に完結した理論体系という形で掟を定めようという情熱に、帰せらるべきである。一般に教会精神と言われるものは、この二つの支配精神の総和である。

JRF2024/5/104732

だから私は切にお願いしておくが、この教会的精神のあらわす単に種族心理あるいは団体心理にすぎない現象を、私たちの研究の唯一の対象である純粋に内的な生命の現われと、けっして混同しないでいただきたい。
<(下巻 p.126-127)

JRF2024/5/100538

個人主義のジェイムズはそれでいいかもしれないが、私は上に書いたように集団性を重視するので、これもまた宗教の問題だと思う。そして、団体のあり方が、個人に影響していることを考えると、ジェイムズも本当はこういうことを無視できないはずである。講義の時間的制約からこうなったと私は考えたい。

JRF2024/5/104808

……。

>どのような聖徳をとって見ても、度を過ごしたために過った実例が見られる。<(下巻 p.129)

広い意味での「狂信」をここから見ていく。ただ、過度の献身としての狭い意味での狂信は別に取り上げている。

ちなみに、私は、↓において「狂信」として、信仰理解(faith_realization)に関して、高い信仰理解や高い国民教育を政治に活かそうとするのは狂信であるとした。

JRF2024/5/101856

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/5/109608


faith_realization_power_threshold は高過ぎる信仰理解を狂信であると考え、国政に活かさないようにするパラメータである。信仰理解が高過ぎること自体は狂信ではない。しかし、高い信仰理解を政治に活かそうとするのは狂信である。…とするのが本システムである。faith_realization_power_threshold は「信仰理解の政治利用」と訳せるかもしれない。

JRF2024/5/105844

(…)

同様に nation_education_power_threshold (国民教育の政治利用)が高くても狂信とされ、(…災害などへの…)予言対応がうまくいかなくなる。

(…)

本目的三条件…「来世がないのがよい」、「生きなければならない」、「自己の探求がよい」(あらため「思考と思念を深めるのがよい」)について最適化をしているとして、そのような最適化をやめた場合どうなるか?

JRF2024/5/108793

まったく三条件のどれもないというのは考えることが難しい。ただ、「来世がないのがよい」「思考と思念を深めるのがよい」をあきらめ、「生きなければならない」のみが残るような「原始状態」を考えることはできるだろう。

「生きなければならない」のみが支配する世界では、そうでない世界に比べ、生きるための犯罪や戦争が起きやすいと考える。それは逆に生きにくい世の中になっているものと思われる。

JRF2024/5/108105

そこで善の価値の重視などを行う…というのは、「思考と思念を深める」という方向性になるのではないか。つまり、ここでは因果応報的な価値の流布が目的とされ、そのために輪廻などの信仰が形作られる。「思考と思念を深める」には古代においては、信仰を大きくすることも含まれる。それにより、経済的に僧達が生きられるようにもなってきて、犯罪などをせずに生き残る方法が増える。

しかし、上で、信仰理解や教育が国力などへ与える影響には閾値があって、その閾値が高過ぎると狂信が起き、予言の有効性などが薄れるという話をしたが、そのような狂信がやがて起こってくることになる。

JRF2024/5/108666

これを防ぐために、「来世がないのがよい」という価値観が現れるのではないか。

JRF2024/5/105735

(…)

ところで、「来世がないのがよい」から、来世に報いがないので兵は殺してよいになるのだろうか、それとも、来世に報いはありうるが、僧などが宗教的にとりなして護持してくれるから、安心して戦えるということになるのだろうか。いずれにせよ、「信仰理解」が兵の強さに結びついてる可能性はある。

JRF2024/5/105438

「来世がないのがよい」、「生きなければならない」、「自己の探求がよい」(あらため「思考と思念を深めるのがよい」)のうち、仏教的なのは、「来世がないのがよい」だけと言える。この本目的三条件を最適化するとき、「来世がないのがよい」を優先することは、「信仰理解」の戦闘に対する効果を大きくすると言えるのではないか。

逆にいうと「来世がないのがよい」の追及は、信仰する者の戦闘を妨げないようになされるのではないか。

JRF2024/5/101292

すると、信仰する者どうしなら平和になるようにする。しかし、信仰してない者に対しては、殺すことが救いになる。…といった教えになりはしないか?

なりはしない。それなら、信仰のない国との外交が有効でなくなる…つまり、信仰理解が予言を通じて、戦争を防ぐような効果もなくなるだろう。それは「狂信」の一種である。本システムにおける信仰理解はそのようなものではない。

JRF2024/5/108315

支配者の信仰理解が高ければ、「生きなければならない」を強調するなどして、迷って戦闘に参加しない者の目を覚ますことはできるかもしれない。しかしそれ以上の効果はない。それ以上の「狂信」をなくすることが、むしろ、「来世がないのがよい」の追及であろう。もう少し正確に言えば、本システムでは、「思考と思念を深めるのがよい」に対して「来世がないのがよい」はそのようなものとして定義されている…となろう。

JRF2024/5/100833

(…)

戦争で人口が減ったり、軽犯罪でカルマが下がったり…というのと狂信は微妙に違う。狂信でも、人口が減ることは予想できるのだが、その減り方は戦争で人口が減るのと比べればゆるやかである。しかし、だから重視しないということにはならない。

人口が減るほどの狂信は人口減以上の「苦」があり、それは寺院の増加などで観測できる。人口が減るのと同時に寺院の増加があれば、人の苦がそこにあり寺院を本当は必要でもないのに建設してしまうのだ…とできる。

JRF2024/5/100758

「思考と思念を深めるのがよい」が輪廻の考えや僧制度を生み、それが戦争などの災害において、「殺すことが救いになる」「寺さえ建てれば守られる」といったような狂信をもたらし、それが国民教育で広まるか支配層がその考えに染まるかすると、災害は激化し被害が増えがちになる。そういうものだった。

私もかなり実用主義的考えをしていた。

JRF2024/5/103696

……。

狭義の「狂信」として、行きすぎた献身・奉献の物語は各宗教にある。

>仏陀とマホメット、彼らの仲間たちおよび多くのキリスト教の聖徒には、逸話の数々が重い宝石のようにちりばめられているが、それらの逸話は尊敬の念をあらわすつもりで作られるののではあるけれども、没趣味で馬鹿馬鹿しいだけのもので、人間のもっている称讃せずにはいられない性癖が間違った方向にあらわれた痛々しい表現にほかならないのである。<(下巻 p.131)

ヒドイ言われようである。

JRF2024/5/109084

Gemini さんによると…。

Gemini:>ジェイムズの批判は、聖人への敬意や信仰心を否定するものではありません。むしろ、真の信仰は、盲目的な賛美ではなく、聖人たちの教えや生き方から学び、自分自身の人生をより良いものにする努力にこそあると主張しているのです。

しかし、聖人への過剰な賛美は、偶像崇拝や教条主義につながる危険性もあります。ジェイムズは、そのような危険性を戒めるために、聖人逸話に対する批判的な視点を持つことが重要であると訴えています。

JRF2024/5/100105

……。

>ルターがあの実に男性的な仕方で、全能者が個々の人間どもに対して貸借の勘定をしているなどという観念を一撃の下に払いのけてしまったとき、彼は魂の想像力を拡大し、神学をたわいもない児戯から救ったのであった。<(下巻 p.141)

JRF2024/5/102892

私は『宗教学雑考集』で、個人についてはバーチャルな世界も含んで応報がなされると考えた。確かにそれが帳簿のように、すべて帳尻が合うようになされているというのは、神にしてはあまりにもせせこましい。信仰のみしか見ていないというのは、信仰により善い悪いをどう意志したかに還元できるので、話半分に聴くとしても、(環境に応じた)要所要所の善い悪いだけを拾い上げるイメージのほうが、もっともらしいような気はする。

JRF2024/5/106003

そのイメージに近いところというと、『宗教学雑考集』《必需品と贅沢品の宇宙的独立関係》を思い起こす。そこでは、人類の中位存続に無限の価値のある発明を時間的に引き延ばせば有限の価値になるが、その有限さは、単純には測れない…というのであった。その単純な測れなさが、「要所要所の善い悪いだけを拾い上げる」というイメージに似ていると思う。

そういったイメージを延長した向こう側に、「真実」があるのかもしれない。

JRF2024/5/107029

……。

聖徳の行き過ぎが見られるものとして「純潔」の行き過ぎも取り上げられる。それは修道院などで見られた。

JRF2024/5/109137

>いわゆる隠退的な信者の方は、主観的に、つまり、この世の混乱はそのままに放っておいて、自分自身だけの住む小さな世界を作って混乱を残らず排除してしまい、そこに自己の統一を達成する。このようにして、監獄と武力迫害と宗教裁判をもつ戦闘的教会とならんで、隠遁所と修道院と宗派組織とをもつ遁走的教会とでも呼べるような教会があって、両方の教会とも同一の目的を -- 生活を統一化し、魂に映る光景を単純化することを、追求しているのである。<(下巻 p.142)

JRF2024/5/108720

「下界」には、新入りいじめや詐欺などいろいろある。そこで神をただ信じるというのは難しい。実社会をしりぞくことで、この世界に対するピュアな見方を維持できるという面は確かにあると思う。ニートな私が思うに。

そういうピュアな見方が、社会のどこかにあることで、当たり前になりつつあった不正が顕わになる瞬間もあるのだと思う。

ただ、「下界」とかかわらないことで、それが一定の容姿や態度の醜さを持ってしまう…というのは、あるのだと思う。

JRF2024/5/109694

……。

>公的にせよ私的にせよ、何か人の役に立つということも、神への奉仕の一種と考えられている。(…)初期のイエズス会士たち(…)は、客観的な精神の持ち主であって、それぞれの仕方でこの世の福祉のために闘った。それだから、彼らの生涯は今日の私たちに感動を与えるのである。しかし、このルイの場合のように、もともと知性が止め針の頭ほどの大きさしかなく、そしてそれ相応の狭小な神の観念しか抱いていない場合には、その結果は、たとえ英雄的行為がおこなわれようとも、全体から見て、反感を覚えさせるのである。

JRF2024/5/108563

私たちが上述の具体的な実例で見たように、純潔ということは必要な唯一のものではない。多くの汚点をおびた生活でも、汚さないでおこうと努力したあげく有用性を失ってしまうよりは、まだましなのである。
<(下巻 p.149-150)

社会的利益にもならないのに、責任ある者がすべてを投げ出してしまうようなことはジェイムズは許せないようだ。

JRF2024/5/106409

……。

慈愛や思いやりにも行き過ぎがあるという。

>ハーバート・スペンサーは私たちにこう語っている。完全な人間の行為は環境が完全であるときにのみ完全に見えるであろう、つまり、それは下等な環境には適合しないのである、と。

JRF2024/5/107397

私たちはこの言葉を次のように言い換えることができよう。聖者的な行為は、すべての人々がすでに聖徒であるような環境のなかにあってこそ、およそ考えられるもっとも完全な行為であることを私たちは認めるのにやぶさかでないが、聖徒の数が少なくて大多数の人々がまさに聖徒の正反対であるような環境においては、そういう完全な行為も適合しないにちがいない、と付言しなければならない。
<(下巻 p.151)

しかし!

JRF2024/5/105518

>けれども、私同様、諸君も確信されていることと思うが、もしこの世の生活がそういう頑固で、冷酷で、けんか腰の方法ばかりでいとなまれるとしたら、(…)いつも他人を疑って暮らすよりも、むしろ何回でもだまされているような人が一人もいなかったら、思慮分別という一般の規則にのっとるよりも、むしろ情熱的、衝動的に人間を扱うことを喜ぶような人が一人もいなかったら、この世はいまよりも無限に住みにくい場所になってしまうことであろう。

JRF2024/5/101786

(…)

このような生き方をしている聖徒たちは、彼らの途方もない博愛によって、預言者のような影響を与えるであろう。いな、彼らが預言者のような働きをしたという事実は、数えきれないほど多いのである。出会った人々を、その過去を問わず、その外観を問わず、りっぱな人として遇することによって、聖徒たちはこうした人々を励ましてりっぱな人たらしめ、みずからかがやかしい模範を示したり、期待をよせて激励したりすることによって、奇蹟的に彼らを別人に変えてしまったのである。

JRF2024/5/105780

この観点から私たちは、すべての聖徒たちのうちに見いだされる人間的な慈愛、またある聖徒たちに見られる過剰な慈愛こそ、真に創造的な社会的力であり、或る種の徳の実現が彼らの人間的な慈愛によってのみ可能になるものであることを、認めることができるのである。
<(下巻 p.152-153)

慈愛は、実用的だと評価されるようだ。

JRF2024/5/104544

……。

禁欲も行き過ぎはありうるのだが、禁欲主義的な考えは上のほうで書いたような楽観主義のカウンターとして宗教に必要なものなのだという。

>禁欲主義は言う、人生は道化芝居でもなければ陽気な喜劇でもなく、その苦味によって私たちの愚かさを清めてくれることを期待しながら、私たちが喪服を着て対坐しなければならないものなのだ、と。<(下巻 p.162)

JRF2024/5/101445

>これに比べれば、自然主義的な楽観論などは、泡のようなもの、へつらいごと、スポンジ・ケーキの類でしかない。したがって、宗教的人間としての私たちは、実際問題として、今日私たちのほとんどすべてがやっているように、禁欲的衝動にあっさり背中を向けるのではなくて、むしろどこかに禁欲的衝動のはけ口を発見し、欠乏に耐えたり困難に打ち勝ったりして得た果実が客観的に役だつようなふうにすべきであろう、と私には思われる。<(下巻 p.163)

JRF2024/5/107893

上で体罰の話をしたが、体罰をしないまでも、過酷なところにわざと自らを、自らの組織を、追い込むこともときには必要なのだろう。

JRF2024/5/106157

……。

オーストリアの将校はいう。

>「(…)戦争においては、人間のなかにあるもっとも野蛮な諸性向が蘇ってくる。そしてそのような野蛮な性向は戦争のためには量り知れないほど有用なのである。」<(下巻 p.166)

ジェイムズのように実用性で判断をしていると、人間を戦争時のその野蛮さで測ることになりかねない。上で兵士の貧困を理想とする話があったが、それが修行者の理想になるという話をした。兵士の野蛮さの代わりとして、修行者の行き過ぎもあるのだとすれば、それほどそれも責められるものではない。…ということのようだ。

JRF2024/5/108607

……。

>ことに私たち英語を話す民族の間では、貧乏礼讃が、もう一度、声高らかに歌われる必要がある。私たちは文字どおり貧乏を恐れるようになっている。自分の内面生活を容易にし育成するために乏しきを選ぶ人を私たちは軽蔑する。金儲けに夢中になっている金融街でみんなと一緒になって奪い合い、ひしめき合うことをしない人間がいると、私たちはその人間を気力がない、大志がない、と思う。私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。

JRF2024/5/106255

その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、-- 要するに、むしろ闘士的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

JRF2024/5/108657

今日いわゆる上流階級の人たちがかつて歴史に見なかったほど、物質的な困窮や辛苦におびえているのを見ると、風雅な住家を建てられるようになるまで結婚を延期したり、銀行預金もないのに子供をこしらえて手仕事をせざるをえないことを考えて身ぶるいするのを見ると、思慮ある人間なら、当然こんな女々しい非宗教的な考え方に抗議して然るべきである。
<(下巻 p.167-168)

JRF2024/5/100560

ヘッセ『シッダルタ』([cocolog:94240082])で、断食の修行の意味を「静かに待つことができる」ようになることに置いていたのを思い出す。

[cocolog:94240082]
>>
俗世に戻ったシッダルタの「できること」。

>「わたしは考えることができます。わたしは待つことができます。わたしは断食することができます」<(p.90)

これらしかないという認識…。

それはどういう役に立つのか…という問いに対し…。

JRF2024/5/108941

>「この上なく役に立ちます、御主人。人が食べるものをもたないとき、断食は彼のなしうる最も賢明な行為です。たとえば、もしシッダルタが断食することを学んでいなかったとするなら、彼は今日のうちに何かの勤めにつかねばなりません -- あなたのところにせよ、他のところにせよ。なぜなら飢えが彼を駆ってそうさせるからです。しかしシッダルタはこうして静かに待つことができます。彼は焦燥を知りません。彼は窮地を知りません。彼は長いあいだ飢えに攻められ、しかもそれに対して笑いを返すことができます。御主人よ、断食はそういう徳をもつのです」<(p.90-91)
<<

JRF2024/5/101761

……。

>大義のための運動には資金を要しよう、しかしその運動に奉仕する私たち一人一人が貧に甘んじうるならば、その程度に比例して、私たちは強力な資力をもつことになろう。<(下巻 p.169)

コロンビア大学で(ハマスが仕掛けたこととは言え)イスラエルのガザでの現在の行状に抗議する学生デモが鎮圧された。

それにかこつけてか Twitter では、ナチスの蛮行が「合法」であったことを指し、法律よりも倫理が上にある…といった主張があった。ちなみに、私は、人と法は組んずほぐれつしていくべき([cocolog:93979779])とは考えるが、倫理が必ず上とは決して考えない。

JRF2024/5/105963

それに関してなのだろうか、次のような噂がある。

《Masahiko Kinoshita:X:2024-05-07》
https://twitter.com/Con_Law_Masa/status/1787819396930707652
>にわかには信じられないですが、アメリカの13人の連邦裁判官がコロンビア大学の学生(デモに参加したとかにかかわらず)はロークラークに採用しない方針を明らかにしたとのこと

https://twitter.com/tomginsburg/status/1787686556595265581

JRF2024/5/106107

いかにして連帯するのかが問題となってくる局面だが、ナチスの問題のように反ユダヤ思想も出てきそうなところで、危うさはある。これはイスラエル戦争の問題というよりも、デモの自由に関わる問題なので、そこで連帯をすべきなのだと思う。

国際的なブラックリストに載って就職・転職が難しくなるみたいなポストを見たが、このような情勢と関連するか…。

JRF2024/5/107331

《デカ猫:X:2024-05-03》
https://twitter.com/GipI0dWNY7T73UE/status/1786351545497657376
>この件で思い出したが「世界規模の人事情報共有サービス」(ここ2.3年で大手外資系企業に転職した人なら知ってるアレです)なんだが、あれは「民事訴訟の記録」まで情報収集して採用企業に共有すんだよね。例えばこの件でマクドナルドを訴えたらマクドナルドを顧客に持つ会社には入社出来なくなる

JRF2024/5/109349

純粋に被害者であっても企業を訴えたらその記録が転職先に共有される。これって日本国憲法に記された裁判を受ける権利の明白な侵害だよね…日弁連とか何してんの?下らねえ政治活動するなら、こういう問題こそアクションを起こすべきだろ。弁護士仕事なくなるぞ。

JRF2024/5/104128

……。

上のハーバート・スペンサーが出てきた話のつづき。

>至福千年の社会になら、聖徒は完全に適応するであろう。彼のおだやかな訴え方は仲間に対して効果をあらわすであろうし、彼の無抵抗につけ込むような人間は一人もいないであろう。したがって聖徒は、抽象的に考えると「強者」よりもいっそう高い型の人間である。なぜなら、そのような社会が具体的に可能であるかどうかはともかく、彼はおよそ考えられる最高の社会に適応しているからである。<(下巻 p.177)

JRF2024/5/106892

次を思い出した。

《宗教的判断の認容 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post_4.html
> 人は無限に生きる存在でもなければ、何事も0秒で行動できる存在でもない。認識が正しいからといって、時宜を得るまで行動を先伸ばしにできるとは限らないし、必要なときに適切な判断が下せるとも限らない。聖人が社長になるまで就職しない人間はいないし、目の前に降る爆弾をよけるのに重力の計算をする人間もいない。

JRF2024/5/102729

その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。

実現可能な解決策を知らずに、「真実」を述べて人を不安に陥れることがある。このような場合、自分が考える「正しい認識」は、本当の意味での「正しい認識」に至っていないのである。


まぁ、私はまともな就職はしなかったので、上は嘘に近いのだが。

至福千年の社会になっていないからといって、聖徒にならない…ということは、そういう人々にはありえない選択なのだろう。尊いことだ。

JRF2024/5/107962

……。

「神秘主義」または「神秘的」という語を、ジェイムズは四つの標識で定義する。

>1. 言い表わしようがないということ。 -- (…)この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさわしい報告を言葉であらわすことはできないと言う。

(…)

2. 認識的性質。 -- 神秘的な状態は、感情の状態にたいへんよく似ているけれども、それを経験した人々にとっては、また知識の状態でもあるように思われる。神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であ(…る…)。

JRF2024/5/107907

(…)

3. 暫時性。 -- 神秘的体験は長い時間つづくことはできない。

(…)

4. 受動性。 -- 神秘的な状態の出現は、たとえば注意を集中するとか、なんらかの肉体的な動作をおこなうとか、その他、神秘主義の手引きなどに定めてあるいろいろな方法とか、そういう自発的な準備操作によって容易にすることができる。けれども、この特殊な性質の意識状態が一度あらわれると、その神秘家は、まるで自分自身の意志が働くことをやめってしまったかのように、ときにはまた、まるで自分が、ある高い力によって掴まれ、担われているかのように感じるのである。
<(下巻 p.183-185)

JRF2024/5/103069

>宗教的生活の一要素としてこの意識が方法的に養成される場合(…がある…)。ヒンズー教徒、仏教徒、回教徒、キリスト教徒、すべてが、それを方法的に養成しているのである。<(下巻 p.215)

JRF2024/5/100485

……。

>酩酊した意識は神秘的意識の一片である。<(p.193)

酒、亜酸化窒素(笑気ガス)、エーテル(ジエチルエーテル)、クロロフォルムなどの薬物による神秘的状態も挙げられる。この点は、ロビン・ダンバー『宗教の起源』([cocolog:94517420])ではシャーマニズムに絡んで論じられていた。

JRF2024/5/109444

……。

>インドにおいては、神秘的な悟りの修練は、太古の時代から、瑜伽[ゆが]という名で知られている。(…)自分の低い天性の蒙昧さを十分に克服した者、すなわち瑜伽の行者あるいは門弟は、三昧[さんまい]と呼ばれる状態に入り、「本能も理性も決して知りえないような事実に直面する。」かかる行者は次のことを悟る。--

JRF2024/5/100876

「(…)無意識的な営みが意識の下にあるのと全く同じように、意識を超えている別の営みがある。そしてこれはまた利己主義的な感情を伴なってもいない。……そこには自我の感情がない、しかも心は、願望もなく、不安からも解放されて、目的もなく、肉体もなくして、働いている。そのときこそ真理は燦然と輝き、そして私たちは自分自身を知るのである -- 三昧は私たちみなのうちに潜在的に存しているからである(…)」
<(下巻 p.215-216)

JRF2024/5/101452

歴史的順序としては、「自我の感情がない」という三昧の経験と矛盾せぬものとして真我[アートマン]の理論がたてられたということになるのだろう。

JRF2024/5/105275

……。

>神を知る知識が比量的でありえず、直観的でなければならないということ、すなわち、命題や判断などの型に従って構成さるべきではなくて、むしろ私たちの内にあって直接的感情と呼ばれるものの型に従って構成されなければならないというのは、形而上学のきまり文句である。しかし、私たちの直接感情は五官が供するもの以外の内容をもってはいない。そして私たちは、神秘主義者が彼らの法悦状態から生ずる最高の型の知識のうちに感覚がはたらいていることを強く否定するのを見てきたし、これからも見るであろう。<(下巻 p.223)

JRF2024/5/109905

第六感はない…と。ただ、雰囲気からプラセボ的に何かを導く能力は、それはそれで感覚的ではないのかな…とは思う。意識的であろうとなかろうと。

JRF2024/5/102962

……。

神秘的意識に邪魔されて、生活を破壊されるだけの者もいたが…。

>恍惚状態の習慣をしばしば極度にまで押し進めたスペインの偉大な神秘家ち(…イエズス会士たち…)は、その大部分の者が、明らかに不屈の精神とエネルギーとを示したが、それはかえって彼らが恍惚の状態に耽ったればこそのことであった。<(下巻 p.236)

神秘的意識を介することで、実用的な力を得る者もいた…と。

JRF2024/5/107815

……。

>私が無になる場合のみ、神は私の内に入ることができ、神の生命と私の生命との間の再がまったく目につかなくなるのである。<(下巻 p.243)

エックハルトの思想にも似たような「離脱」の思想があった。エックハルト『神の慰めの書』([cocolog:94778956])、『エックハルト説教集』([cocolog:94771542])を以前読んだ。

JRF2024/5/102459

……。

ヒンズー教や、キリスト教でも、様々な宗教にも、神秘主義はある。

>こうして、神秘主義の言説にはいわば永久的な意見の一致があり、これが批評家を立ちどまらせ、考え込ませることになるのである。前にも言ったように、神秘主義の古典が、誕生日も故国ももたないのは、そのためである。人と神との合一を永久に語りつづけるのであるから、神秘主義の言葉は言語以前のものであり、だから古びることがない。<(下巻 p.244)

ロビン・ダンバー『宗教の起源』([cocolog:94517420])を読んだときネアンデルタール人にシャーマンがいたのかが問題視されていた。

JRF2024/5/102635

[cocolog:94517420]
>ネアンデルタール人にシャーマンがいたと主張する考古学者もいるが、この世界に影響をおよぼす霊的世界を信じていたことはありそうにない。ただ、音楽などで、トランス状態に入る方法を見つけていたことは充分考えられる。(p.193)…というのが著者の見解のようだ。<

ただし、ジェイムズは後述するのだが、神秘主義はほとんどの宗教に見られるけれども、細目をよく見るとまったく一致はしていないようであり、そこには注意が必要である。

JRF2024/5/108554

……。

>以上、私はきわめて簡単で不十分ながらも、許された時間内において私にできるかぎり公正に、神秘的な意識の一般的特徴を素描した。それは全体的に見て汎神論的で楽観論的である。あるいは少なくとも悲観論的の反対である。それは反自然主義的であり、二度生まれあるいはいわゆる別世界的な精神状態ともっともよく調和する。<(下巻 p.249)

楽観的でありながら、二度生まれ的…というのは、これまでのジェイムズの構成とは微妙にズレてるね。

JRF2024/5/103235

……。

>神秘的状態は、悟性と感覚とだけに立脚する非神秘的あるいは合理主義的な意識の権威を打破する。神秘的状態は、そのような意識が意識の一種類にすぎないことを証明している。神秘的状態は、私たちのうちにそれに活溌に呼応するものがあるかぎり、私たちが安んじて信じ続けていい別の秩序の真理が可能であることを教える。<(下巻 p.249-250)

神秘的状態は、合理主義とは違う価値観、慈愛の精神などに根拠を与えることができる。それが「感覚」的にできる。…ということだろう。

JRF2024/5/108412

しかし、

>私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。<(下巻 p.255)

それが慈善などを通じて、実用的価値があるならそれは認めるべきだけれども。…と。

JRF2024/5/101424

……。

>私たちの世界がもっているのと全く同じように、神秘的な世界にも、天国的な領域もあれば地獄的な領域もあり、誘惑的な要素もあれば救済的な要素もあり、確実な経験もあれば偽の経験もある。しかしそれにもかかわらず、神秘的世界のほうがいっそう広大な世界であろう。この普通の自然主義的な世界において私たちが習慣としているのと同じように、神秘的世界においても、その経験を有効に使うには、私たちは選択したり、従属させたり、置き換えたりなどしなければならないであろう。この点でも、私たちは現に誤りがちであるように、間違いを犯すかもしれない。

JRF2024/5/109250

けれども、このもっと広大な世界を勘定に入れて、それを真剣に扱うことは、それがどれほど複雑で私たちをどれほど悩まそうとも、私たちが究極的に完全な真理に近づくためには欠くことのできない段階であろう。
<(下巻 p.257)

私は、神がバーチャルな世界を通じて応報を完璧に行うとしがちなのだが、仮にある者がバーチャルな世界に通じたとしても、彼が属する部分のバーチャルな世界だけで、完璧とは限らない、そう考えてはいけないということだろう。

JRF2024/5/104183

……。

「哲学」の章。「哲学」つまりここでは宗教哲学または神学のことである。

>聖徳という題目は、神の現前の意識は客観的に真なる何ものかの意識であるか? という問題に、私たちを直面させた。そこで私たちはまず神秘主義に向かって答えを求め、神秘主義はまったく宗教を確証する気ではいるけれども、普遍的権威を要求しうるにはその言説があまりにも個人的であり(そしてまた、あまりにもまちまちである)ことを見いだした。ところが哲学は、その発表する結論がいやしくも妥当なものであるならば、不変的に妥当すべきことを要求する。

JRF2024/5/107339

それゆえに私たちは今度は哲学に向かって私たちの質問を発することにしよう。哲学は果たして、宗教的な人間がもっている神的なものの意識が真実であるという保証の刻印を押すことができるだろうか?
<(p.260)

JRF2024/5/100677

ジェイムズはそれには否定的である。

しかし、私は考える。神話は数々受け継がれてきたところで、その整合性が取れるというのは、神話の信憑性を高める。神学が神の存在を証明することはないとしても、神々の不存在を示さぬよう、整合性をとるのに論理性は役に立ってきたのではないか?…と。

そして、矛盾を(相対的にほぼ)なくすことができたことが一神教の強みであったのだと思う。それは多神教では調整する部分が多くて難しかっただろうから。それは彼らの護教に役に立ったはずだ。

JRF2024/5/105551

また、逆側の作用もあったろう。論理性というものが、うさんくさく見られる状況というのを、理系の者は現代でもしばしば感じる。そういうことは過去にはよりしばしば見られただろう。神学の発達は、そういう論理性に、宗教的権威を与える。それにより科学がより発達できた面もあったのではないか。神学の発達していた中世を暗黒時代とする言説からはその逆を想像してしまうけれども。

JRF2024/5/104221

……。

創造論は、神の目的を重視する。しかし、それにしては、この世界はカオティックなのだ。

>この世界には「適応している」事物よりも、「適応していない」事物のほうが実際には無限に多いのである。<(下巻 p.272, 注)

私は『宗教学雑考集』《コラム カルマと偶然》などでは、応報と偶然を対比して、偶然と考えられるところは応報はついえると考えた。偶然はとても多い。「無限に多い」と言ってもいい。しかし、生物そのもののような驚くべき秩序はあり、それは説明を要するのである。

JRF2024/5/104005

……。

>全体の善は部分の善にまさる bonum totius praeeminet bonum partis<(下巻 p.277)

トマス・アクィナス『対異教徒大全 Contra Gentiles』III., c. lxxi., n. 6. の言葉のようだ。

上で「神は個の独立を好み、自然の摂理の中でそこから集団として善に向かうことを好まれる。」と書いたが、そこと関連するか。ジェイムズのここも神義論を論じている箇所だった。

JRF2024/5/104316

……。

教義神学に関するジョー・ヘンリー・ニューマンの引用のしばらくあと…。

>神の形而上学的な属性については、これだけにしよう! 実践的宗教の観点からすれば、そういう属性が礼拝させようとして私たちの前にもち出してくる形而上学的怪物などは、学者ぶった人間の考え出した、絶対に無価値な、発明品にほかならない。<(下巻 p.284)

JRF2024/5/102132

私は『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム シミュレーション・キリスト教?》で、神学は、終末思想による刺激とそれを弱めることを通じて、終末を引き寄せる過激派をコントロールできるため、(神学者含む)僧が(相対的に)多いことが犯罪減につながる…とした。

少なくとも神学の一部は実用的価値を持つはずであると私は考える。

JRF2024/5/105656

……。

デカルトは「我思うゆえに我あり」だが、カントはなんと言ったのか…。

JRF2024/5/101790

>現代観念論の基礎は、統覚の先験的自我というカントの教説である。カントがこの恐るべき述語で言おうとしたのは、「私はそれらを考える」という意識が(可能的あるいは現実的に)私たちのすべての対象に伴なわなければならないという事実にすぎない。カント以前の懐疑論者たちも同じことを言っていたのであるが、その「私」が彼らにとってはどこまでも個人と同一視されていた。カントはこれを抽象し、非人格化した、そして、これを彼のすべての範疇のうち、もっとも普遍的なものとした。しかしもちろんカント自身にとって、先験的自我はなんら神学的含意をもたなかった。

JRF2024/5/101617

カントの意識一般 Bewusstsein überhaupt あるいは抽象的意識という概念を、世界の魂をなし私たちのさまざまな人格的自己意識を存在せしめている無限の具体的な自己意識に変えるという仕事は、彼の後継者たちの手に委ねられた。この変化がどんなふうに行なわれたか、それをごく簡単にでも諸君に示すのは、あまりに専門的な問題に立ち入ることになるであろう。今日イギリスおよびアメリカの両国の思想に実に深い影響を与えているヘーゲル学派において、二つの原理が作戦の矢面に立っていると言えば、十分であろう。

JRF2024/5/101419

これらの原理の第一のものは、昔からの同一性の論理は私たちに死後の遺骸 disjecta membra 解剖より以上のものを与えないということ、そして、生命の充溢は、私たちの思考が自身に提供しうるあらゆる対象は、最初はその対象を否定するように見える何か別の対象の概念を内包している、ということを認めるということによってのみ、思想として構成されることができるということである。

JRF2024/5/102883

第二の原理は、否定を意識しているということはすでに否定を越えているも同然だということである。単に何か疑問を発するとか、何か不満足の意を表するとかするというだけで、答えあるいは満足がすでに面前に迫っていることを証している。有限なものが有限なものとして実感されると、その有限なものは、すでに可能的に in posse 無限なものである。
<(下巻 p.286-287)

なかなかに意味不明である。私の知能ではわからない。

JRF2024/5/103290

が、あえて二つの原理を解釈すると、弁証法は正・反・合として、第一の原理は、概念というものが出てくるには、正と反が同時にないといけない、ただし、反は意識はまだされてないかもしれないが…と。ここの「生命の充溢」とかで何がいいたいかはやはりわからない。

JRF2024/5/104086

私は弁証法は、[wikipedia:en:Pure Type System] を念頭において、パラメータを増やすことだと単純にとらえるのであるが、上の第二の原理は、正反があれば、すでに合があり、パラメータを増やすことで対応できる…。例えば、有限の何か二つがあれば、その型(タイプ)として、それが属する無限の要素を含みうる概念が考えられる。…といったことではないかと解釈した。

JRF2024/5/109708

……。

>人間というものは自分の宗教的経験を知らず識らずのうちに知性化するものである。礼拝において同行を必要とするように、人間は信条というものを必要とする。したがって、神の属性に関するスコラ哲学の有名な目録が実用的に無益である、と私が侮蔑的に語ったのは、傲慢に過ぎたようである。というのは、そういう属性には、私が考慮することを怠った一つの効用があるからである。そういう属性を列挙しているニューマンの雄弁な文章が、私たちに手がかりを与えてくれる。

JRF2024/5/103315

聖堂の礼拝でつねに抑揚をつけて話すのと同じように、彼はそれらの属性に抑揚をつけながら、その美的価値がどんあに高いかを示している。(…)ニューマンのような心をもった人々は、あたかも異教の祭司たちが彼らの偶像の上に光っている宝石や装飾を後生大事にするように、そういう形容辞の力を信じて一途にそれに心を配るのである。

JRF2024/5/105248

(…)

私はここで一言、教会制度が或る種の美的要求を満足させることによって人間性に訴えることに貢献している点に、触れることを許してもらえると思う。或る人々は何より第一に知的な純粋さと簡潔さを目指すけれども、他の人々にとっては豊かさということが最高の想像的要求である。人間の心が強度にこの型に属している場合は、個人的宗教がその要求を満足させるということはまずあるまい。

JRF2024/5/104028

(…)

知性のすぐれたカトリック信者にとっては、教会が奨励する古臭い信条や儀式の多くは、文字どおりにとっては、プロテスタントたちにとってと同じく、子供っぽいものである。しかしそれらの信条や儀式は「子供らしい」という好ましい意味で子供っぽいのであって -- 無邪気で、愛らしく、愛すべき民衆の知性がまだ十分に発達していない状態であることを考慮すれば、むしろ微笑ましいものである。ところがプロテスタントにとっては、反対に、そういう信条や儀式はばかばかしい嘘いつわりであるという意味で子供っぽいのである。
<(下巻 p.299-303)

JRF2024/5/102285

神学はゴシック建築のようなものというのが、ジェイムズの理解のようだ。それはある種の人にとっては実用的といっていいということだろう。

JRF2024/5/104190

……。

>神々への犠牲は原始的な礼拝のどこにも見られるものである。しかし、礼拝の儀式が洗練されてゆくにつれて、燔祭や雄山羊の血の代わりに、いっそう霊的な性質の犠牲がおこなわれるようになった。<(下巻 p.304)

環境保護は、人類の減少を望む段階にどうやらあるようである。それは、教義宗教が動物供犠をなくしてきたのが、その階層の上にいる人類の命の軽視につながったのではないか…と私は考え、私はアニミズムへの回帰・動物供犠の復活が必要ではないかと考えるに致っている。

JRF2024/5/100303

[cocolog:94515614]
>パナマで道路を封鎖した環境活動家二人を、77歳の弁護士が銃で殺した事件があった。動物供犠とゲーマーを神社でつなぎ、アニミズムを社会に再統合することでもろもろ抑止できないか。

JRF2024/5/108737

(…)

私は動物供犠をなくしたのが地味に問題なのではないかと感じています。日本でのクマ出没などのニュースにも影響されてそう感じています。今読んでる本(…ロビン・ダンバー『宗教の起源』…)に、人身供犠が人の社会に階層化を生み出したとありました。動物供犠は動物を無辜に殺しても人は生き延びるべきだということを示していたともいえます。それをなくしたことで、人よりも環境を優先する考えにつながったと考えるわけです。

JRF2024/5/105043

(…)

確かに動物供犠を行わない教義宗教が、環境よりも人類の生活を優先してきた面はあります。しかし、世界人口が過剰になるにおよび、教義宗教は、その人口調節機能を全世界的に展開する方向に作用し、過激な環境保護家のカルトを産むことにつながったと考えます。

JRF2024/5/107063

……。

祈りに関して。ジョージ・ミュラーは、その日に必要なものは神から与えられるとして、貯蓄などをせず、祈りだけで孤児院などを寄付により運営できた。

JRF2024/5/107262

>(…ミュラーは言う…)「私たちが勝手に自分の道を歩んで神を出し抜いたら、どういうことになるだろうか? 私たちは信仰を強める代わりに弱めるにきまっている。そして、私たちがそうして自分自身で切り抜けようと苦労するたびに、私たちはますます神に信頼することができにくくなり、ついには全く私たちの堕落した自然的な理性に負けて、不信が勝ってしまうことになる。神ご自身がよしとされる時の来るのを待つことができ、そして助けと救いをただ神のみに期待することができたら、事情はどんなに違ってくることであろう!<(下巻 p.315)

JRF2024/5/100707

祈って待つことで、願いが通じた場合、神を信じる思いが増すだろう。すると、次の祈りにおいても神に期待することができる。それは有神論の基本定理などを通じて、世の中をよくする。

しかし、ミュラーはそういう経験がなかったようだが、願いが通じないこともしばしばあるものだ。

その解決は、一つには、時間が解決することは多いから、相対的に祈りは通じることは多く、通算すると神は賭けに勝てるとできるのかもしれない。ただ、これは一神教的な考えではない。

もう一つは、祈りが通じなければ、それは試練だと考える方向である。

JRF2024/5/102926

>普通、なべて宗教的な人は、自分の運命となんらか関係のある自然的な事実というものは、何によらず、神的な目的をあらわしている、と考える。(…)もしそれが、「試練」であるならば、この試練に耐えるだけの力が与えられる。<(下巻 p.327)

子供時代を過ぎれば、細々とした願いは神に祈られないものである。神に頼むしかないものに願いは移る。神に期待しているというその気持ちが、神の存在への信念を強化する。それにより有神論の基本定理などを通じて、世の中をよくし、願いをより叶いやすくする。…そういうことはあるのだと私は思う。

JRF2024/5/103267

祈りのある生活をしていると、神がいろいろなことをちょうど用意してくれたかのように感じられてくる。このような信仰は…、

>個々の出来事が、私たちの信頼に対する報酬として、私たちの都合のよいように摂理の導きによって調節されるというのではなくて、私たちが万物を創造した力と繋がっているという感じを絶えず培うことによって、だんだんと私たちのほうが個々の出来事の受け容れに都合のよいように調節されてくるという信仰である。自然の外貌が変わる必要はない、自然のなかにある意味の表現が変わるのである。

JRF2024/5/105240

死んでいた自然が、生き返ったのである。それはちょうど、ある人間を見るのに、愛しないで見るか、それともその同じ人を愛をもって見るか、の違いのようなものである。愛をもって見る場合には、交わりは活気を帯びてくる。
<(下巻 p.321-322)

JRF2024/5/106604

……。

>私たちの見いだした宗教的生活の特徴を、できるだけ大ざっぱに総括してみると、それは次のような信念を含んでいる。 --

一、目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界はその主要な意義を得る。

二、このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が、私たちの真の目的である。

三、祈り、あるいは、より高い宇宙の霊 -- それが「神」であろうと「法則」であろうと -- との内的な交わりは、現実的に業[わざ]の行われる方法であり、それによって霊的エネルギーが現象や世界のなかへ流れ込み、現象世界に心理的あるいは物質的な効果が生み出される。

JRF2024/5/107058

宗教はまた次のような心理学的な特徴をも含んでいる。--

四、或る新しい刺激が、何か贈り物のように、生活に付加され、それが叙情的な感激か、それとも真剣さおよび英雄主義への訴えかのいずれかの形をとる。

五、安全だという確信、平安の気持が生じ、他者との関係において、愛情が優れて力強くなってくる。
<(下巻 p.338-339)

こういうことを述べていたのか、いまいち私は読めてなかったようだ。

JRF2024/5/109966

……。

宗教科学は宗教を代替しうるか? …それにはジェイムズは否と答える。

>或る事物に関する知識は事物そのものではない。諸君はアル-ガザーリーが神秘主義に関する講義のなかで私たちに語ったことを記憶しておられるであろうが、-- 酩酊の原因を、医師が理解するように理解するということは、酩酊していることではない。(…)もし宗教のはたらきによって、神の問題か人の問題かが現実に推進させられるのであるならば、それなら、宗教的生活を生きる人は、たとえその生活がどんなに偏狭であろうとも、宗教に関する知識がどれほど博くともただ知っているというだけの人よりも、いっそう善良な僕[しもべ]である。

JRF2024/5/101223

人生について知識をもっていることと、人生のなかで実際に或る位置を占めて、人生の激流をして自己の存在を貫流させることとは、まったく違ったことなのである。
<(下巻 p.343-344)

『宗教学雑考集』という中途半端な宗教学の電子書籍を書いてる私には、この点はいっそう強く感じられる。私が何かの宗教を超越して新しい宗教を作る意図はない。(微妙な話題が多いので、そう取られたとしても、諦めはするが。)私の本を読んで、自らの宗教にめいめい再度向き合ってその信仰を強化することになるなら、それに勝る喜びはない。

JRF2024/5/103017

……。

共感魔術による医術の例…。

>もし諸君が昔の医書を開いてみられるならば、どのページにも、共感的な魔力が呼び出されているのが見いだされるであろう。例えば、パラケルススに帰せられている有名な傷病軟膏をとってみよう。

JRF2024/5/104504

これにはさまざまな処方があって、普通は人間の脂肪や、牡牛かいのししか熊の脂肪、それからみみずの粉末、ウスニア(… [wikipedia:en:Usnea] …)か、絞首刑にされた犯罪者の風化した頭蓋骨に生えた苔、そのほか同じように不快な物質などを含み、-- こうしたすべてのものが、できることなら金星の出ているときに作られるが、作るときに火星か土星が出ていてはならない。

JRF2024/5/108631

それから、負傷者の血に浸した木片か、彼を傷つけた、血のついている武器かが、傷の方には包帯を堅く巻いておいて、その軟膏に浸されると、傷は間違いなく治る --これはヴァン・ヘルモントの説明の引用である。-- なぜなら、武器あるいは木片についた血には、負傷者の霊が含まれていて、軟膏に触れることによってこの霊が刺激されて活動を始め、その結果、その実の従兄弟[いとこ]である負傷者の身体の中の血を癒す十分な権能あるいは力が生ずるのである。

JRF2024/5/101892

これはその木片あるいは武器が負傷した部分から痛々しい外来の印象を吸い出すから起こることであるが、それには牡牛の脂肪および軟膏のその他の部分の援助を乞う必要があるのである。

JRF2024/5/108957

なぜ牡牛の脂肪がそんなに力があるのか、その理由は、屠殺されるときの牡牛はふしぎな抵抗力と復讐のつぶやきに充満しており、それゆえに、牡牛はほかのどんな動物よりも激しい復讐の炎を燃やして死ぬからである。こうして私たちは、軟膏の驚くべき効力をサタンの協力によるなどと考えるべきではなくて、軟膏のなかの血と凝結した脂肪とにしっかりと刻まれている死後の復讐的性格のエネルギーにのみ帰すべきであることを明らかにしたわけである、とこの著者は言っている。

JRF2024/5/100025

J. B. Van Helmont: A Ternary of Paradoxes, translated by Walter Charleton, London, 1650. -- 私は原文をだいぶ省約して引用した。

JRF2024/5/109607

著者はさらに進んで、ほかの多くの自然的事実の類推によって、距離をへだてた事物と事物の間のこのような共感作用がこの場合の真の原理であることを立証している。彼は言う、「魔女に殺された馬の心臓を、まだ湯気の立っている屍体から取り出し、それを矢に突き刺して火に焙ると、たちまち五体健全な魔女が残忍な火あぶりの耐えがたい苦痛に虐[さいな]まれ出す。これは前もって魔女の霊と馬の霊との間になんらかの繋がりがなかったならば、決して起こり得ないことである。

JRF2024/5/104038

湯気を立て、まだぴくぴくしている心臓のなかに魔女の霊はとらわれており、突き通された矢に妨げられて魔女の霊は逃げることができないのである。殺された人の屍体が、検屍のときに、暗殺者の面前で、新しく出血を起こしたり血をにじませたりすることが多いのは、それと同じ理由によるのではあるまいか? -- 激しい怒りの発作を起こしたときのように、魂が肉体から仕方なく出て行く瞬間に殺害者に対して抱いた復讐心によって、血が激怒させられ、興奮させられるわけである。

JRF2024/5/104232

このようにして、もし諸君が水腫か痛風か黄疸に罹っているならば、諸君の血液をすこしと卵の白身とを容器に入れ、それをとろ火にかけて、餌にする肉と混ぜたものを飢えている犬か豚に与えると、病気はたちまち諸君から動物に移り、まったく諸君から離れてしまうであろう。そしてまた同じように、もし諸君が乳牛の乳か婦人の乳をすこし焼くならば、この乳を分泌した乳腺は涸れるであろう。

JRF2024/5/108783

ブラッセルの一紳士は格闘していたとき鼻をそぎ取られてしまったが、有名な外科医タリャコッツィは彼のためにボローニャの或る門番の腕の皮膚で新しい鼻をつくった。その紳士が故国に帰ってから約十三ヵ月後にこの接がれた鼻は冷たくなり、化膿し、数日たつと落ちてしまった。すると、それとほとんど同じ頃にその門番が息をひきとったことが発見された。ブラッセルには今でもまだ、この出来事の目撃者がいる」、

JRF2024/5/104705

こうヴァン・ヘルモントは言い、さらに付言して、「いったい、この出来事のどこに迷信あるいは過剰空想があるのか?」と言っている。

現代の精神治療の文献 -- 例えば、プレンティス・ムルフォードの著書など -- には、共感的な魔法が満載されている。
<(下巻 p.354-356, 注)

JRF2024/5/101154

まったく否定され、試されるだけで(本人に)危険なためか、ここまでハッキリとした魔術で、しかも理論的説明が付いたような例はこれまで読んだことがなかった。他の人もそうだと思うので、長いがこの部分を省略せず全部引用しておいた。

もちろん、検屍のときに暗殺者の面前で出血がある…という言説は、暗殺への抑止としての効果はあっただろう。他ももしかしたら、実用的な意義があるのかもしれないが、医学としてはほぼ意味はあるまい。

JRF2024/5/109311

……。

科学の問題はその非人格性にある。対して宗教は感覚的に実在を扱うことに意義があるという。

>私たちが(…科学において…)考える事物は巨大であるかもしれない -- 例えば、宇宙時間や宇宙空間、-- これに対して、内的状態はきわめてはかない、つまらぬ精神活動であるかもしれない。

JRF2024/5/101326

けれども、経験が与えるかぎりの宇宙的対象は、事物の観念的な像にすぎないのであって、その存在を私たちは内面的に所有してはおらず、ただ私たちの外的に存在していると言えるだけのものであるが、これに反して、内的状態は私たちの経験そのものである。内的状態の実在性と私たちの経験の実在性は一つである。意識の場プラス感じられた、あるいは考えられた意識の対象プラスその対象に対する態度プラスその態度が属している自己の感覚 -- このような具体的な個人的経験は小さなものであるかもしれないが、しかし、それは存続しているかぎりは実質のあるものである。
<(下巻 p.358)

JRF2024/5/103535

《絶対性 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/08/post.html
>例えば、リンゴとリンゴ園で撮った写真を見せ、これは絶対同じものだと主張する者がいたとき、我々はそれをいくらでも疑うことができます。写真の偽造を疑ったり、写真の日付を疑ったり。しかし、そうして本人を反駁しても益ある結果は得られないでしょう。そして、彼はその二つがそろえばそのリンゴがそのリンゴ園から取られたと証明できていると思い込み、体験によって自らに対しては十分な証明ができているのです。

JRF2024/5/109479

概念の中では証明可能なものばかりで作った絶対的真理があります。(…それに加えて…)むしろ証明可能という点では、日常的「真理」でないことを証明可能でないこと、すなわち、反駁可能でないことはいくらでもあります。コスト面からもそういうことがありますよね。しかし、当人は体験によって「証明」を得ているでしょう。

JRF2024/5/108699

ある人の「絶対的真理」は相対的に否定できても、絶対的に否定できないことがあります。でも、それはそれを基に将来を「絶対に予測」できるようなものではなく、忘却により本人にすら曖昧になっていくものです。それが「絶対」であるのは事実の性質によるのではなく、その人のガンコさにむしろ関係しているでしょう。

だまされてる感じがしますか?こう言えば納得していただけるでしょうか?

日常にも意味のある「絶対性」を求めるなら、その程度の「絶対性」で満足しなければならないのではないか、と私は思うのです。

JRF2024/5/101279

誰かと共有する事実は同じものでも互いに相対的な見方を生じます。相手の主観においても「絶対」に同じだといえることは、尋ねる人が増えるごとに無くなっていきます。結局、「絶対」というのは主観に強く拘束されるべきものではないでしょうか。

概念からサカノボっても
期待したような絶対性を知ることはないかもしれない。

でも我々は絶対と呼ぶに十分な真理の獲得を
日々体験し学んでいる。

JRF2024/5/100274

>個人の宗教は自己中心的であるかもしれないし、そのような宗教のかかわる私的な実在はいかにも狭いものであるかもしれない。しかし、いずれにしてもそういう宗教のほうが、私的なものは一切考慮しないことを誇りにする科学などよりも、つねに無限に内容が充実しており、具体的なのである。<(下巻 p.360)

「遺物説」とは、>宗教とはおそらく時代遅れのもの、古代の「遺物」の一つ、啓蒙開化された人類がすでに脱却してしまっている考え方へ隔世遺伝的に後戻りしたものにすぎない<(下巻 p.346)という考えのことである。ジェイムズはそのような遺物説を否定する。

JRF2024/5/103169

>私たち個人の運命につながる特殊な問題がどう答えられようとも、そのような問題こそほんとうの問題であると認めて、問題が開発する思想領域のなかで生きることによってのみ、私たちは深い人間になるのだ、と私は考える。ところが、このような生き方をすることが、宗教的であることなのである。だから、私は宗教の遺物説を、とんでもない誤謬の上に立っているものとして、躊躇なく排斥する。<(下巻 p.360)

JRF2024/5/104100

……。

……。

なんと、ここで「ひとこと」の一ページ 300 コメントまでの設定に引っかかってしまった! こんなのはめったにないこと。あと少しだったのに…。続きは↓。

《[cocolog:94838275] (承前) W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ。(つづき)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/05/post-68679d.html

JRF2024/5/108263

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