« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:94893189

ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』を読んだ。「死んだほうがマシ」を押し付けてくる国家自由主義的な「閉じられた社会」の中で、皆、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが「開かれた社会」にも生きるということなのではないかと考えた。 (JRF 9446)

JRF 2024年6月12日 (水)

『道徳と宗教の二つの源泉』(アンリ・ベルクソン 著, 合田 正人 & 小野 浩 太郎 訳, ちくま学芸文庫, 2015年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480096159
https://7net.omni7.jp/detail/1106570063

原著は、Henri Bergson『Les deux sources de la morale et de la religion』(1932)。

JRF2024/6/128584

直近で、グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』を読んだ([cocolog:94865920])とき「分裂生成」が確かベルクソンのものだったと思ったから、前に買っていたこの本を読みはじめたのだが、途中で、「分裂生成」はベルクソンではなくベイトソンのものだと知ったが、かまわず読み進めた (^^;。

JRF2024/6/126858

なお、この本も最近の読書同様、↓の取材として読んだ面がある。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

ここからはいつも通り、「引用」しながらコメントしていく。

JRF2024/6/124551

……。

まず、訳者解説から読みはじめることにする。経緯などを知って読んだほうがわかりやすいだろうから。小説じゃないんでこういう読み方のほうが普通だと思う。

まずこの本には、道徳と社会について「閉じたもの」「開いたもの」の対比が問題となり、そこと近いが違うものとして「静的宗教」と「動的宗教」の対比が出てくる。

国家は「閉じた社会」で、人類愛は「開いた社会」になるが、必ずしもそこには一方向の発展があるわけではない。対して、多神教やエジプトの一神教は「静的宗教」で、それが発展してキリスト教という神秘主義を持った「動的宗教」が現れてくるという論調らしい。

JRF2024/6/122386

……。

>重要なことは、この閉じた社会が、例えば、家族から国家へと膨張していくことによって、世界市民主義(…のような開かれた社会…)が実現されるような人類社会に至ることはないということである。「閉じたもの」と「開かれたもの」には自然の差異があり、閉じた社会に見出される個人と社会の円環的関係は人類全体にまでは及ばない。人類を抱合するような社会、すなわち、開かれた社会の実現は、全く別の道徳、すなわち、開かれた道徳による。この開かれた道徳とは、閉じた社会を「開く」行動原理であり、有機体の比喩を考慮すれば、社会有機体論的な社会を超克するような行動原理である。<(p.453, 訳者解説)

JRF2024/6/122951

私は、「概念」が人が集団を作り、特に戦うようになったとき、必要になって生まれてきたという考えを主にデュルケムから学んだ。それは「閉じた社会」が「概念」を作ったとも言えると思う。そこに知性の秘密があるのだとすれば、「開かれた社会」を目指すことには知性へのリスクがあるのではないだろうか。「開かれた社会」はそのリスクをどう解決すればいいのか。これがこの本を読んでいく上での私の問いの一つになろう。

「概念」に関する考え方は↓にある。長いが引用しておこう。、

『宗教学雑考集 第0.8版』《霊概念の成立》

JRF2024/6/129504

>>
「霊魂」という概念がなぜ生じたか。

動物に霊魂がないということはない。人は動物に霊魂を認めうる。しかし、動物自身には霊魂という概念はないであろう。なぜなら、霊魂は社会があってはじめて生じる概念だから。そもそも「概念」というものが生じるのがどうも霊魂が現れたのとときを同じくするように思える。デュルケムは「概念」についてそのようなことを述べている。

JRF2024/6/126473

>概念は、社会が事物を表象する様式を表明するということは、概念的思惟が人類と同時代だということでもある。われわれは、概念を、多少とも、後期の文化の所産とみることを、拒否する。概念によって思考しない人間は、人間ではあるまい。彼は社会的存在ではあるまいからである。個人的知覚に還元されるならば、人間は動物と区分があるまい。<(デユルケム『宗教生活の原初形態』下巻 p.361)

JRF2024/6/123626

動物も死んだ個体のことは思い出すことはあるだろう。記憶はあるから。しかし、その思いはすぐに消えるのではないか。今の自分にはほぼ関係なく、それが現れるにいたった状況に関し警告を受け取ることはあろうが、それがそこにいるなどと考えることは判断を鈍らせるからである。

しかし、人間は死者を常時思い出すことができる。それを集合=社会に固着させることで。固着できるような社会は言葉またはシグナルが作るのであろう。シグナルが共通の意味を持ちうる社会が必要だから。

JRF2024/6/121359

社会が記憶を刺激するのは、社会が社会の敵になるため、警戒すべきものであるからかもしれない。人類には戦争が必要なのかもしれない。その付随物として、死者が警告するようにまた判断を邪魔するようになったのであろう。

その散発的残像現象と折り合いを付けるため、言葉で概念化する必要が生じ、そこに概念と死者を概念化した霊魂がほぼ同時に生じたのかもしれない。
<<

JRF2024/6/121322

人類愛はどうして出てくるのか? その思考の初撃を Gemini さんにぶつけてみた。

>>
○ 2024-06-02T09:51:40Z

Gemini さんと捕虜交換について対話。

jrf:> 人類愛がなぜ生じるか。一つの解答として、敵にとらわれたときでも、最低限の人としての尊厳は守られてほしいから、敵もその願いは理解でき、そこに共通の人権(または人類愛)理解が生じうる…ということができると思います。

JRF2024/6/121313

その表現として、現代の戦争でも、捕虜交換から人類愛に気づいてもらうという一歩があるのだと思います。

しかし、この理屈には穴があって、敵として捕らえられる可能性が増すほど、相手にそれを要求できるわけで、そのためには自軍が強い方がいいわけです。軍を強くするインセンティブも同時に発生するわけです。軍が強くなる限り、そこに平和は訪れません。

人類愛への解答としては何かが足りないように思います。何でしょう?

JRF2024/6/122114

Gemini:> ご指摘の通り、この理屈にはジレンマが潜んでいます。このジレンマを克服するためには、人類愛を単なる「要求」として捉えるのではなく、自己犠牲と共存の精神に基づいた「理解」へと深化させる必要があると考えられます。

JRF2024/6/122692

jrf:> 捕虜の交換だけではダメでそこに自己犠牲的な何かが必要だということでしょうか? 具体的にはどのような行動でしょう?

Gemini:> 以下は、自己犠牲的な行動の具体的な例です。

敵の命を救う

敵への寛容と許し

敵と協力して共通の課題に取り組む

これらの行動は、時に命を危険にさらしたり、社会的な批判を招いたりするリスクを伴います。しかし、真の人類愛を実現するためには、自己犠牲の覚悟が必要となります。

歴史上の事例: マハトマ・ガンジー, ネルソン・マンデラ, マルティン・ルーサー・キング・ジュニア

JRF2024/6/124949

jrf:> ユダヤ教やイスラム教にとって戦争においてできそうな自己犠牲的な行為とは何でしょうか?

Gemini:> 私はそのようにプログラムされていません。

jrf:> もう。Geminiさん、肝心なところで日和るんだから…。

Gemini:> ご指摘ありがとうございます。
<<

JRF2024/6/128404

Gemini さんによると自己犠牲が鍵のようだ。これはイエス・キリストの自己犠牲をきっと想像しているのだと思う。しかし、それでは、イスラエル=ハマス戦争には解決は簡単に訪れないということにならないか。それとも、アメリカ=キリスト教が鍵をにぎれば何か解決がありうるのか。

JRF2024/6/120359

しかし、なぜ自己犠牲があれば、よいのだろう。W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ([cocolog:94838245])とき、「自己犠牲とは、「親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したもの」」という記述にハッとしたものだった。

JRF2024/6/123345

『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》では、イスラム教は、梵我一如的信念を、それを神秘として持つキリスト教を内に含むことをもって、超克していると考えたものだった。そこでの梵我一如は胎児期の全を自とする思考を考えていたが、ここではそうではなく、梵我一如を、自を全とする方向だとすれば、それは自己犠牲の方向と一致するかもしれない。

JRF2024/6/125725

一方、ユダヤ教のイスラエルは、農業ロボット等の開発をしていると Twitter (X) で見た(↓)。この戦争中にである。そういう人類の発展への貢献は人類愛ではないのかという問いができる。しかし、それが自己犠牲的かといわれるとそうではない。自己犠牲的に例えば技術をオープンにすればいいのかというとそういう話でもないだろう。おそらく、自らへの支持を募る行為にしか見えないからだ。

JRF2024/6/129873

《woodstock.club:X:2024-06-01》
https://x.com/woodstockclub/status/1796864229313835013
>農業用ドローンの生き物感ヤバすぎ…

農家でリンゴ取ったり、受粉させたりしてる

農業用ドローンって聞いたことあるけど、農薬撒くぐらいだと思ってたよ…

https://x.com/i/status/1796864229313835013

JRF2024/6/121674

『宗教学雑考集 第0.8版』《悪》では、「許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。」と書いた。『宗教学雑考集 第0.8版』《結婚》では「人を教える林住期に戦争などの過去を学ぶ」と書いた。しかし、イスラエルは大学を攻撃しているという話がある。

JRF2024/6/126975

《ガザの学校8割以上が破壊/“未来奪う”教育への攻撃/国連専門家・学者ら抗議》
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-04-23/2024042305_01_0.html
>イスラエルのガザ攻撃で、大学や学校の破壊、教授や教師、学生の殺害が大規模に行われ、「パレスチナの教育制度への組織的破壊」が行われていると、国連の人権専門家らが18日、批判する声明を発表しました。この問題では、米、カナダ、メキシコの学者らも公開書簡を発表し、21日時点で2500人以上が賛同を寄せています。(伊藤寿庸)<

JRF2024/6/129430

そんな苦しい中、大学を開こうとするガザ住民は、それは林住期のおける学習に相当し、自己犠牲的な行為だというアタマがあるのかもしれない。しかし、それは人類全体の善につながっていないとイスラエルは見ているのかもしれない。例えば、イスラム世界への核拡散が善なのか…と。

JRF2024/6/128908

戦いによる概念の発達…つまり、戦争による科学の発達を否定すべきなのかもしれない。[cocolog:94562729] では、核兵器を持たない中等国のほうが、AI を強く規制しなくて済むため、「AI 社会主義」を有利に展開できるという話をした。その方向だろうか。しかし、そうして「有利」を問題にするのは、結局、国家の競争という概念に捉われていることになる。

JRF2024/6/124847

ガザに AI 特区を設立し、自己犠牲としてそこに核を持ち込ませない。イスラエルは自己犠牲として AI を強く規制し、しかし、核兵器は維持し、中東全体に睨みを効かす。…あたりが落としどころか? しかし、イスラエルはそれを望むようには私は思えない。宇露戦争で、ロシアが休戦しなかったように。

戦争にうまみがある集団が外にいて、そこにうまく課税できていないからではないだろうか?

keyword: 教育目的金融税

若者を教育すれば、若者を参加させる戦争への疑問を高めることができる。しかしそれが AI に代わればどうなるのだろう?

JRF2024/6/127994

……。

>個人の生に関わる危険とは、精神衰弱、恐怖などであり、二つの形態がある。一つは、死の不可避性という知性が生み出す表象であり、もう一方は、同じく知性が算出する、行為の成功の予見不可能性という表象である。作話機能は、死の不可避性という表象には死後の生という表象によって、また、行為の成功の予見不可能性という表象には行為の成功を保証する表象によって対抗し、行動の障害となる過度な知性的反省を停止させる。こうして、静的宗教は、恐怖や不安に襲われた人間を安心させ、生に執着させて、より効果的に行動させる。<(p.455, 訳者解説)

JRF2024/6/128719

ルース・ミリカン『意味と目的の世界』を読んだ [cocolog:94817429] では、個人内外の複数レイヤーでの同時最適化を考えた。

多層的な主体が並列に同時に最適化しているというのは、かなり、何かが違うようには思う。最適化の価値判断には、『宗教学雑考集 第0.8版』《必需品と贅沢品の宇宙的独立関係》で述べたような、本質的に比較可能でないようなものを比較していることもあるかもしれないとも思う。しかし具体的な計算方法はまだ提案できる感じではない。

JRF2024/6/125474

上の死の不可避性というのは「必需品」の論理に対応し、行為の成功の予見不可能性というのは「贅沢品」の価値の決定不能性に対応するのかな…と思った。

JRF2024/6/123012

……。

>戦争が人間の自然本性に由来するならば、それを回避することは不可能なのか。

(…)

この問題に対する彼(…ベルクソン…)が挙げる主な方策の一つは、国際機関による法的規制である。

(…)

「国際連合」(1945年〜)の機能不全を経験したベルクソン以降の世代の人間にはさほど説得力のないものと映るかもしれない。そもそも、国際機関による統治という考えはベルクソン独自のものではないだろうし、実際の問題は実効力のある国際機関をどのように組織し、運営できるのかというところにあるのだろう。
<(p.465, 訳者解説)

JRF2024/6/127022

上で金融税の話題をちょっと出したが、逃げ足の速い国際金融をつかまえるには、国際協力が必要でそれをどうするかという問題がまず出てくる。いろいろ提案されてはいるようだが、どれも決定打という感じはなく、私にも基本的にアイデアはない。

そして、現代には国家を超える超巨大企業…そのさきがけとしての GAFA がある。それについて、私の貧弱な一打が、↓の構想にある。

JRF2024/6/124801

[cocolog:94865920]
>私には「日本に必要な若者専門家による専制的支配として、(「若者」)官僚の事務会議、医師・弁護士を中心とした専門家会議、科学者・(IT)技術者からなる技術会議、とそれらを統べる三者調整会議を作る」という構想([cocolog:94354877])がある。直近で、それを民主党の「事業仕分け」体をまねることで、作っていってはどうかという提案をしていた([cocolog:94856421])。

JRF2024/6/120165

事業仕分け体は、国会を軽視し、むしろ国会を操ろうとしていく。その力学は、国会の向こうにある、国連や GAFA などの国際企業体にも、影響を及ぼすにはどうするかがあると言えるかもしれない。近代国家的なトップダウンでない思考が求められているため、そうなっている側面もあるということだ。

JRF2024/6/127283

↓と書いたのは、2008年8月5日。その前からこの信条はある。

[aboutme:72922]
>一人でも戦えることがある。それがネットのおもしろいところだと私は考えています<

それも時代の推移でだいぶかげったが、でも、下から言論で思想で戦いを挑むということは可能だと信じたい。

教育目的金融税がもし一国だけの導入でもうまくいったなら、金融税というのが世界で一般に可能になるかもしれない。そう夢想する。

JRF2024/6/129836

……。

……。

では本編。

第1章。

JRF2024/6/126413

……。

>私が言いたいのは、価値判断に含まれた道徳的戒めがたとえ遵守されなくても、それらが遵守されているかに見えるよう仕組まれているということだ。通りを散歩するときには病気を見ることがないのと同様に、われわれは、人類がわれわれに示す外面の背後に、どんな不道徳性がありうるかを測ることはない。もし他人を観察することだけにとどまったならば、人間嫌いになるには多くの時間がかかるだろう。他人について嘆いたり、軽蔑したりするようになるのは、自分固有の弱さに気づくことを通してなのだ。そのとき人が目を背ける人間性は、自身の奥底に発見した人間性なのである。

JRF2024/6/125460

悪は非常にうまく隠され、秘密は非常にほとんど遍く守られているので、各人は万人に欺かれる。他人をどれほど厳しく裁く振りをしようとも、われわれは心の奥底では、彼らのほうがわれわれよりましだと思っている。このような幸福な錯覚に、大部分の社会生活は立脚している。
<(p.11)

基本的に社会は善人の世界と見えるようになっている。ときどき悪人がいて、信じられないなどと人はいうが、己を振り返れば、その悪さは本当は理解できるということだろう。そして悪人はそこまで異常でなく、善人は自分程度に悪いということか。

JRF2024/6/125294

ただ、ここでベルクソンが言いたいのは、社会を善人の世界と見せることで、社会が維持されているという、その自己組織化の効果なのだろう。

私は『宗教学雑考集』などで「有神論の基本定理」というものを述べる。

>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。<

JRF2024/6/129151

…というのがそれだ。ただ、どうして、多くの人が、その定理に飛び込むかというと、他人は善であるという錯覚が最初に生じている必要があるのかもしれない。

JRF2024/6/126205

……。

どうも、Twitter (X) を見てると、他人は生きるに値する立派な働きをしているが、自分を振り返ると、死んだほうがマシに思える。…そんな社会になっている気がする。自分が死んだほうがマシなのを敷衍すると、他人も実は死んだほうがマシと皆思っているのかもしれない。中には、ものすごい仕事ができる人で、自分は当然生きるべきだ・世界が滅亡しかけるときはまずまっさきに生き残るべきだ…と思っている人もいるかもしれない。ただ、多くの人は、自らの知られてない無能さに絶望しているという上と似た構図があるのかもしれない。ちなみに私も自分自身死んだほうがマシだとよく思う。

JRF2024/6/126482

皆(自分と違って)生きるに値するだけの仕事がしているように見せている。それが現代(資本主義)社会というものなのかもしれない。

JRF2024/6/125895

……。

上の人類愛の話から敷衍すると、「閉じられた社会」で、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが求められているのかもしれない。それが「閉じられた社会」で生きながら「開かれた社会」にも生きるということなのではないか。皆が。

私には「国家自由主義」的な信条がある。

JRF2024/6/129819

[cocolog:91758418]
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<

JRF2024/6/125427

これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。国家自由主義。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。

そのような社会はしかし、労働が推奨され「死んだほうがマシ」を押し付けてくる社会なのかもしれない。そこで国家は競争している。

JRF2024/6/126822

そこで、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ること。それは敵と通ずるわけではない。見つかれば殺されるから、または、それは別の閉じられた社会を目指すことでしかないから。裏切りもしない。尊厳を持って生きるのに必要な信用を失うから。しかし、捕虜は生かさねばならないという社会に甘えることはあるかもしれない。そして敵として警戒されながらも、敵のことが理解できることも強みにしながら、閉じられた社会でそれなりの地位を得ていく。そういうのを見れば敵もその閉じられた社会への警戒を解いていくかもしれない。捕虜として十分な地位が占められたのなら、そこには平和があるのだろう。

JRF2024/6/127089

もちろん閉じられた社会がなくなるわけでなく、より大きな閉じられた社会に属すことになるかもしれない。または、敵側に移動して、そこでまた警戒されながら捕虜のように暮らすのだろう。

捕虜になったとき有利になるように国家をひたすら強くするのではなく、捕虜として国に貢献しながらも、むしろより社会を開いていく。

JRF2024/6/127713

そこに休戦がある。しかし、過去の私の意見をかえりみるならば、その戦いの過去は清算されているわけではない。和解は子によって実体的意志を現す。その子が新しい社会を築くことに希望を託すしかないのだろう。

JRF2024/6/122642

そこには家族があり、閉じられた社会の成員である自分もいる。それも大切なことだ。同時に開かれた社会に属する自分も未だにいる。それは全宇宙という閉じられた社会の中で、未来に向けて開かれているのだ。

映画『グリーンマイル』を思い出す。「肉体は魂の牢獄である」はプラトンの言葉らしい。ここは国家を牢獄とする考え方に似ているかもしれない。そのつもりはなかったが。

JRF2024/6/126630

……。

>社会的連帯は社会的自我がわれわれ各人のうちで個人的自我に付加されたときからしか存在しないのだから、理論的にわれわれが他の人間たちに対してしか責務を負っていないとしても、事実上われわれは自分自身に対して責務を負っている。この「社会的自我」を育成することが、社会に対するわれわれの義務の本質なのである。

JRF2024/6/121239

われわれのうちに何か社会的なものがなかったなら、社会はわれわれと係るいかなる取っ掛りももたないだろう。しかし、もしわれわれが自分のうちに現存するものとして社会を見出すなら、われわれは社会に行き着く必要はほとんどなく、われわれ自身で十分である。社会のかかる現存の度合いは人によって異なる。

JRF2024/6/122280

けれども、誰も社会から絶対的に離れることはできないだろう。誰も社会から孤立することを欲しないだろう。なぜなら、自分の力の大部分が社会に由来すること、また、己が活動性に最も大きな生産性を保証してくれる活力の間断なき緊張、努力の方向のこの一定性を、自分は社会的生からの不断に刷新される要求に負っていることをわれわれははっきり感じているからだ。
<(p.17)

JRF2024/6/125510

欲望も責務も社会とともに構成される…ということだろう。もちろん、基礎となる自然な欲望はあるとしても。もしかするとそれもまた進化という社会的実現によるとするのかもしれないが。

JRF2024/6/121982

>島で生活するロビンソン・クルーソーは、物質的な面でさえ、他の人間たちとの接触を保っている。なぜなら、難破船から運び出した製造物なしで彼は切り抜けることができず、それら製造物は彼を文明のなかに、ひいては社会のなかに留め置くからだ。しかし、精神的な接触は彼にとってより必要不可欠である。なぜなら、もし彼が絶えず生じる難事に、自分自身その限界を知っている個人の力しか対置することができないなら、彼はすぐに意気阻喪してしまうだろうからだ。彼は観念的に社会と結びついたままで、そこから自分の活力を汲み出しているのである。

JRF2024/6/124754

彼がいかに社会を見ないとしても、社会はそこにあって、彼を見守っている。もし個人的自我が社会的自我を生き生きと現存するものとして維持するなら、個人的自我は、たとえ孤立しているとしても、社会全体の励まし、更には社会全体の支持を受けてなすであろうことをなすだろう。

JRF2024/6/121487

しばし情勢に強いられて孤独を余儀なくされた人々、また、深い内的生命の資源を自分自身のうちに見出さない人々は、「自由放任」が、つまり、社会的自我によって指定された水準に個人的自我を固定しないことがどれほどつらいかを知っている。だから彼らは、社会的自我が個人的自我への厳しさをいささかも緩めることがないように、社会的自我を保持するべく配慮するだろう。
<(p.17-18)

人間である以上、社会的自我から孤立することはできない。生きるために。…ということだろう。

JRF2024/6/127735

……。

>動物の社会では、規則の一つ一つは自然に強要されていて、必然的なものであるが、他方、人類の社会において唯一自然に属するものは、規則というものの必然性である。<(p.35)

ここら辺りで↓の should・sollen・当為 の問題を思い出した。進化や存在論に関してそれが重要だという話だったか。あまり関係ないかもだが。

JRF2024/6/123691

[aboutme:95330](2009年2月)
>sein(ある) から sollen(すべき) は出ないというが、hoffen(望む) や wollen(しよう) があるなら、sollen は出る。「凹」があるのを見て、「凹」は「凸」を望んでいると私が見出せば、私は「凹」が「凸」のある方向に行くべきだと言える。<

JRF2024/6/124593

[cocolog:92189836](2020年9月)
>「道徳」とは何か。(追記: それそのものは言えないとしても、その条件なら言える。)

自分の「欲求」があるとき(何かに対する欲だとするとその「何か」を第二者として)、第三者が観察してその欲求に何が必要かがわかることがある。その第三者の判断が「(…する)べきだ」(当為)となる。その「べきだ」を自分のものとしたのが「道徳」でなければならない。

JRF2024/6/123070

(…)

もちろん、これは「道徳」が満たすべき条件ではあるが、このようなものすべてが「道徳」になるとは限らない。「欲求」がどんなものでも、第三者の価値観や認識がどんなものでも良いということはあるまい。しかし、これを外れるものは「道徳」とは呼べないのではないか?

元の「欲求」が高尚すぎて本物でないとか、「第三者」が再帰的に結局自分でしかないとかはあるかもしれないが。

JRF2024/6/122698

……。

>要するに、われわれが社会的責務の根底に看取した社会的本能はつねに -- 本能は比較的不変なものであるから --、どんなに巨大な社会であれ閉じた社会をつねに目指している。たしかに、この本能はいま一つ別の道徳[人類に対する義務]によって覆われているが、まさにそのようにして、本能はこの道徳を支え、自分の力、すなわちその強制的な性格のいくばくかをその道徳に貸し与えている。しかるに、この本能それ自体は人類を目指すことはない。どれほど大きな国の国民であるとしても、国民と人類の間には、まさしく有限と無際限(indéfini)、すなわち閉じたものと開かれたものの隔たりがある。<(p.41)

JRF2024/6/129429

家庭から国家へというのは幸運にも感情的につながっていくが、それが人類愛にそのまま延びることはない。ということのようだ。

私も以前、どの集団を重視するか…家族か国家か人類か…というのは、どれがどの上に来ることもありうると考えたものだった。円周が広がるほど疎遠になると考える必要はないと考えたものだった。かなり以前どこかに書いたと思ったが忘れた。見つからない。

JRF2024/6/129324

……。

社会的自我が求めるような道徳と、人類愛のような道徳、この二つのあいだには…、

>本性の差異、極小と極大という二つの差異があって、それは単に程度の差異ではないことをわれわれに予感させてくれる。前者の差異は非人称的な表現形式にまとめられるにつれて、より純粋で完全なものとなるが、他方、後者の道徳が混じりけのないものになるためには人々の模範となるような傑出した人格のうちにそれが体現されねばならない。前者の一般性は人々が道徳法則を普遍的に受け入れることに由来するが、後者の一般性は人々が一つの模範を共通に模倣することに由来する。<(p.44)

JRF2024/6/126468

社会的自我が求めるような道徳は、概念的なものになり、もう一つはイエス・キリストのような聖人的・英雄的なモデルに結実するものである。…という。

なぜそうなるか…。

>青少年の教育に従事する人々は、「利他主義」を説くことでは、利己主義に勝利できないのを熟知している。高潔な魂の持ち主がいて、彼は自己犠牲の精神に満ちあふれているが、「全人類のために」奉仕するという考えを前にして、急にその熱意は冷めてしまうということさえあるかもしれない。目的はあまりにも壮大で、効果はあまりにも分散しすぎているのだ。<(p.47-48)

JRF2024/6/126205

だから、具体的にどうしたという一人の理想=聖人のモデルが必要なのだろう。

捕虜のように敵として生きる者には、いずれ全宇宙が閉じられた社会として彼の前に開かれるのかもしれない。そのとき、やるべきことが壮大すぎて、具体的に何をすればいいか、正しいのかがわからなくなる。そういうときにモデルとなる者が必要なのだろう。捕虜が生きられるように生きる聖職者が。

JRF2024/6/128753

そのとき、同じ捕虜よりも、閉じられた社会から降りて来た人のほうに目を奪われがちになる。人の性として理想のモデルは身分が上の者でなければならず、理想者は閉じられた社会から降りてくる。その理想者に自己犠牲性があるということだろうか。その理想者は捕虜として生きる者が属する閉じられた社会に属しながらきっとその向こうの宇宙に通じている。それは僧侶などの宗教者にならざるをえないのだろう。

そして今の時代、ある意味、捕虜として生きることを選んだ人は、別の角度から見れば、別の人にとって理想者=宗教者なのかもしれない。このようにすれば、万人司祭主義的な主張になるが…。

JRF2024/6/129791

……。

>ほとんど文学作品と言えないような戯曲でも、われわれの神経を興奮させ、第一の種類の感動を惹起できるだろう。たしかに協力であろうが月並みなもので、われわれが人生のなかで日常的に体験する数ある感動から取られた感動、いずれにせよ表象を含むことなき感動を、である。

JRF2024/6/127718

それに対して、偉大な劇作品がわれわれに惹起する感動の本性はまったく異なる。比類のないものとして、この感動は、われわれの魂を揺さぶるに先立って、詩人の魂のうちに、そしてそこにのみ出来した。かかる感動からこそ、この作品は生まれたのだ。なぜなら、作者が作品を書き進めながら参照したのはまさにこの感動だからだ。この感動は創造への要請でしかなかったが、すでに規定された一定の要請であって、ある作品の完成によっては満たされるが、それが別の作品によって満たされることはない。
<(p.62-63)

JRF2024/6/128724

理想者=宗教者がなぜ降りてくるのか。そこには、何かを創造させるに致らせる感動があるということだろう。それは感情的煽動(ファシズムなど)とは大いに異なるものだ。感動というよりは啓示か。啓示というのは当人にとっては物語的なのかもしれない。

JRF2024/6/120393

……。

>逆に、熱望の道徳には、進歩の感情が暗に含まれている。われわれが論じていた情動は前進への熱狂であり -- この熱狂(enthousiasme)によって熱望の道徳はある者たちに受け入れられ、次いで、彼らを通して世界に広められた。<(p.69)

JRF2024/6/121981

>われわれの悟性にとって単純であるものも、必ずしもわれわれの意志にとって単純であるわけではない。ある道が最短であると論理が言うとしても、経験が出来して、この方向に道がないことを見つける。本当のところは、愛に至るにはここでは英雄性[ヒロイスム]を経由しなければならないということだ。もっとも、英雄性は述べ伝えられることはない。それは自分を示すだけでよく、英雄性がただ現存するだけで他の人間たちを動かすことができるだろう。それは、英雄性それ自体が運動への回帰であり、創造的行為に似た感動 -- どんな感動もそうであるように伝達可能な -- から流出したものだからだ。<(p.71)

JRF2024/6/125556

開かれた社会というのは、単に開いた社会というのではなく、前進するために開かれてゆく社会なのだろう。英雄は外に開いて前進してゆく。捕虜として生きる者には開かれてゆく未来がある。彼が人生を進むとき社会も進むのだ。そうさせるビジョンが、理想者=捕虜として生きる者にはあるということだろう。生きているその姿がビジョンでもあるのだろう。

JRF2024/6/121235

まぁ、そのビジョンがどういうものかは私にはまだわからないように思うが。私には他人を見る目がないのだろう。ただ、そういう考え方は、レミングスの行進([wikipedia:レミングス])のようで怖いというのも私にはある。

レミングスの行進にならないためには、進歩と平和を目標に据えることぐらいはしないといけない。しかし、捕虜として生きる者に・ぎりぎりの生活をする者に、進歩と平和が見えるか? 見る必要があるか? 見れば「死んだほうがマシ」に再びとらわれるだけではないのか?

そこを見るのはエリート(選良)が担っていた…この先は AI が担うのかもしれないが…。

JRF2024/6/129165

捕虜だった者が、エリートに迎え入れられることがあるだろうか。旧約聖書『創世記』のヨセフのように。

[cocolog:93746054] などにも書いたが、私は、大学院博士課程前期を修了した修士相当で、社会から見たらエリートたるべき人物なのかもしれないが、本当の「エリート」に比ぶべくもない無能である。エリートが本当はどういうことを考えているかとかはまったくわからない。どうやればエリートになれるのか、エリートはどうあるべきなのか…とかは私にはまったく理解不能で、エリートに関してここから先リアリティを持って思考し続けることはできない。

JRF2024/6/129291

……。

しかし、ギリギリの生活をしている、捕虜としての自分に、人類愛として知られる、助け合うこと・善行が可能だろうか? 求めるべきなのだろうか?

ほとんどの場合、助け合いや善行は、閉じられた社会の側の自分からなされるべきなのだろう。捕虜として生きる者を自らの内に知り、他者の中にもいるそれに益することが閉じられた社会の益になると理解する。そういう余裕のある自分から発出するものなのだ。全宇宙も閉じられた社会。狭い地球そんなに急いでどこへ行く…の精神で、善行を行うべきなのだろう。

JRF2024/6/127632

しかし、とっさに動物を助けるようなことは、捕虜としての自分から出ているのではないか。閉じられた社会に必要な、打算がなくなされる善行。捕虜だからわかる助け合いもある。捕虜に愛がないわけがない。開かれた社会は貧しく捕虜としての自分にはできることは少ない。そんな中からなされる善行ほど尊いものはないのではあるまいか。

JRF2024/6/122501

……。

閉じられた社会の自分が助け合いをするということと、自己犠牲の理想者がいるというところをどうツジツマを合わせるか。

それは、閉じられた社会での助け合いは、目に見える狭い社会を優先しがちで、そうではないことが求められるが、それには、自己犠牲による降下が広い視野を開いてくれるという理屈でどうだろう?

JRF2024/6/126126

……。

イスラエル=ハマス戦争に対して、イスラム教の側は、キリスト教を中に持つことで、梵我一如を取り込んでいるという話をした。一方のユダヤ教は、バビロン捕囚の経験により、「捕虜としての自分」の理論を取り込んでいるのかもしれない。

単に捕虜の返還を求めるのではなく、この先、捕囚=捕虜の待遇改善を互いにはかることも約束することで、「捕虜交換から人類愛に気づいてもらうという一歩が、軍事力強化をうながす」という矛盾を、やわらげることができるのかもしれない。

それが広い意味での「休戦」に近づけるのかもしれない。

JRF2024/6/124557

……。

そして改宗を必ずしもうながさないが、捕虜と寄り添い同じ生活をする宗教者の自己犠牲が必要ということだろうか? どうもそういうイメージは浮かんでこない。あまりにも現実の戦争捕虜の扱いが悪いというのもあるが、上に書いたように、AI や核から一歩引くというほうが「自己犠牲」に近いように感じる。自己犠牲が広い視野を開くことにしか意味がないならば、すでに広い視野で考えていれば十分ではないのか?…ということかもしれない。

JRF2024/6/127048

身分の降下は、人間ではなく国などの法人でいいということかもしれない…。それは生きる模範にはならないが、生きる指針にはなる。…と。

しかし、そうなった法人は、その下で生きるものにとっては規制体である。それは自由な国家に比べて弱く、結局のところ、その構成員の自由を守れなくなるのではないか?

JRF2024/6/122888

法人を降下させるにはエリートの決定が必要である。その(国家の自由を求める)エリートの自己降下または自己犠牲が結局のところ、その根拠であり、それを継続するシステムが法人そのものなのかもしれない。そして、エリートやその後継者の自己犠牲を攻撃するなら、法人の降下もやむしかないということではないか。自己犠牲そのものはあるのだろう。人々はそれを直接模倣するわけではないというだけで。

JRF2024/6/126150

……。

理想者を模倣したいというところにある感動は、ベルクソンのいう第一の感動なのかもしれない。そして、法人の降下を指針とするところの感動は第二の感動にもとづくというところになるのだろう。ただ、じゃあ、法人の降下を直接もたらしたエリートが、第二の感動=啓示の出どころかというと違うのだろう。もっと以前に啓示を得た者がいて、その法人こそが啓示から作られた「物語」であり、その物語の役者としてエリートがいるのだろう。

JRF2024/6/120025

……。

自然が人間に用意したのは、「閉じられた社会」の道徳までである…。

>自然は戦争のために戦争を望んだというのではもちろんない。都市国家[シテ]が持つ障壁を突破した偉大な指導者たちは、そうすることによって、まさに生の弾み(élan vital)の方向へと身を置き直したように見える。しかし、生に固有の弾みは生命そのものと同様に有限である。

JRF2024/6/124481

(…)

自然の懐から出た人間は知性的で社交的な存在であるが、その社交性(sociabilité)は小さな社会に行き着くよう計算されており、その知性は個人の生活と集団の生活を促進することに向けられていた。しかし知性は、それ自身の努力によって膨張し、予想外の発展を遂げた。知性は、己が本性の制限ゆえに人間に余儀なくされていた隷属から人間を解放した。このような条件のもと、人間たちのなかでも特に天分に恵まれた者たちには、閉じられたものを再び開き、自然が人類のために行えなかったであろうことを、少なくとも自分自身のために行うことが不可能ではなくなった。
<(p.76-77)

JRF2024/6/123577

私の議論において。

法人の降下は、争いがもたらす「概念」の発展の否定の部分がある。それは「知」よりも、生き生きと生きる「生」を選んだ・「生」を賦活した…と表現すべきなのだろうか? …そうではないと考える。

JRF2024/6/128600

それはむしろ『宗教学雑考集 第0.8版』《必需品と贅沢品の宇宙的独立関係》で述べたところの、必需品よりも贅沢品を重視することに相当するのだ。そこでは、戦争などのための科学の発展は、必需品に相当するのだった。贅沢品は、人類を救うことになりうるが、生存戦争の文脈では到達できない「遊び」からしか到達できない知的財産であるということだった。

JRF2024/6/127091

それは社会が無限に向かって開かれたがゆえに持たらされたものなのだ。開かれた社会の広さはそこまで広い。開かれた社会の可能性はそこにあるのだろう。開かれた社会に生きる側の自分はとても貧しい…しかし開かれた社会そのものはとても豊かなのだ。ただ創り消費する余裕は閉じられた社会のもので、閉じられた社会にも生きる自分を通してのみ、人は開かれた社会の豊かさを自分のものにできるのだ。

ただ、開かれた社会に属する物を、閉じられた社会の者が不当に自分のものにしているのではないかという疑いはわく。

JRF2024/6/120396

……。

改革・発明には積み上げが確かにある。しかし、それだけではない。

>それは、成就された数々の偉大な改革のほとんどが最初は実現不可能なものと見えたり、実際にそうだったという事実を忘れることであろう。これらの改革は、それらが実現されることで帰結するはずだった魂の状態に、すでに到達していた社会でしか実現されえなかった。<(p.101)

これは私の贅沢品の論理(生存戦争の文脈では到達できない)を別の角度から言ったものだろう。

JRF2024/6/123638

……。

>正義の第一の進歩がユダヤ教の預言に由来していたように、第二の進歩、すなわち閉じたものから開かれたものへの移行がキリスト教に起因することは、われわれには疑いえないことのように見える。第二の進歩は純粋な哲学によって果たされることができただろう。この進歩にもう少しのところまで近づき、それを掠めながらも、どうして哲学者たちは結局失敗したのかを検討することほど有益なことはない。

JRF2024/6/121288

(…)

プラトンは間違いなく超感覚的〈イデア〉のなかに人間の〈イデア〉も含めているが、そこから、万人が同じ本質を持つという結論は出てこなかっただろうか。このような考えから、万人は人間として等しい価値を持っており、本質の共通性は万人に同一の根本的権利を授けたという考えまではほんの一歩である。ところが、この一歩は超えられなかった。

JRF2024/6/120378

このためには、奴隷制を糾弾しなければならなかっただろうし、異国人たちは蛮族[バルバロイ]であるがゆえにどんな権利も要求できないというギリシア的な考えを放棄せねばならなかっただろう。
<(p.104-105)

上で、私の「捕虜としても生きる自分」という考え方は「肉体を牢獄」とするプラトン的だという示唆があった。しかし、それは、キリスト教的な万人の平等を、示唆するだけで、現実には導けないのかもしれない。そういう運動が起こる余地が何か欠けているのかもしれない。

JRF2024/6/125341

……。

>権利の平等と人格の不可侵性を含む普遍的な友愛[フラテルニテ]の観念が実効的なものと化すためには、キリスト教を待たねばならなかった。その作用は非常に緩慢なものだったと言われるかもしれない。実際、人権がアメリカの清教徒によって宣言され、その直後に、フランス革命を起こした人々によって引き続き宣言されるまでに、十八世紀という時間が流れた。<(p.106)

ここは疑問である。奴隷が必要なくなるのは、機械革命・産業革命を経たからではないのか。

W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだときに述べたが…、

JRF2024/6/120774

[cocolog:94838245]
>論理性というものが、うさんくさく見られる状況というのを、理系の者は現代でもしばしば感じる。そういうことは過去にはよりしばしば見られただろう。神学の発達は、そういう論理性に、宗教的権威を与える。それにより科学がより発達できた面もあったのではないか。神学の発達していた中世を暗黒時代とする言説からはその逆を想像してしまうけれども。<

神学が産業革命を用意した側面は少なからずあるとは思う。神学が可能になったのは一神教が多神教に比べ論理的一貫性を取るのに適していたという点で、キリスト教・ユダヤ教の貢献はあるかもしれない…と納得もできる。

JRF2024/6/126148

また、グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』([cocolog:94865920])ではかなり示唆されていたが、アメリカ「新」大陸の発見と侵略が、ヨーロッパに余裕をかなり与えた面もあると思う。それは、啓蒙主義の理論的余裕も与え、それを実現する物質資源的余裕も与えた。

福田歓一『政治学史』を読んでいるとき書いた…。

JRF2024/6/124902

[cocolog:93763227]
>>ただし、近代における「自然法」的な人権の主張は、「未開の地」において介入する口実として使われたのではないか…と現代アメリカなどの「人道的介入」で戦争を起こしてきたのを見て思う。(これは、福田歓一の他の本を読んだ([cocolog:90689746])とき、考えたこと。)

[cocolog:90689746]
>実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、たとえば、それは「基本的人権」なので海外に出ていった先でもその外国に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。<
<<

JRF2024/6/121967

(ただし、ヨーロッパにその意思がなければ、植民地主義は終わらなかったのも事実だと思う。それを言わないのはフェアじゃない。「人権」には問題のある経緯があったといっても、人権の定立に善意がなかったというのは明らかな嘘になる。)

ただ、ベルクソンが主張したいのは、それら(機械文明論・新大陸論など)を越えた何かがあるということだろう。

JRF2024/6/125657

それはそれとして。

上で「開かれた社会に属する物を、閉じられた社会の者が不当に自分のものにしているのではないかという疑いはわく」と書いた。

奴隷がある場合は、そうだった。不当だったのだろう。それが機械文明になって、人間の知の地位を機械に明白に渡し、そこで人類を降下させることで、それが正当化され、進歩が加速されたのかもしれない。AI が人類を超えることが現実感を持って予想される時代、それは最終段階に近付いているのかもしれない…。

JRF2024/6/126088

……。

>平等は自由を犠牲にすることによってしかまず獲得されないから<(p.108)

これに関しては私は別意見を持っている。前に、Y. N. ハラリ『サピエンス全史』を読んだとき([cocolog:94853370])にも引用したが…、

《「自由と平等」のレトリック - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html

JRF2024/6/127401

>入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。

教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。

「自由」と「平等」は対立する概念ではない。

(…)

ここにあるのは「自由」と「平等」の対立ではなく、「自由」と「自由」のトレードオフであり、「平等」を感じさせる枠組の変容である。

JRF2024/6/127683

(…)

「平等を求める」または広く「社会の変容を求める」といった場合、これまでの自由を犠牲にしなければならないことも多いのが現実だろう。(それでも、全体として自由を増やすような策があると私は信じたいけれども。)

ただ、そのような場合も、平等を自由と対置するレトリックにはまって、まず自由を制限するという考えに及ぶのは避けたい。

JRF2024/6/125428

……。

>われわれが区別した二つの正義の観念 -- 一つは閉じた正義、他方は開かれた正義 -- のあいだには、単なる程度の差異ではなく、本性の根本的差異が存在することが分かるだろう。なぜなら、自然から生まれたばかりの社会の自動的な平衡を言い表す相対的に安定せる閉じた正義は、「責務の全体」が結びついた慣習のなかで表現され、この「責務の全体」は、もう一つの正義、相継ぐ創造へと開かれた正義の命令が世論によって受け入れられるについれて、それらの命令を取り込むからだ。<(p.109)

JRF2024/6/121671

ベルクソンが描く「閉じた正義」が「開かれた正義」を取り込むさまは、上で私が書いた「閉じられた社会にも生きる自分を通してのみ、人は開かれた社会の豊かさを自分のものにできる」という考え方の別の表現だろう。

JRF2024/6/127478

……。

奴隷を否定するのに、ベルクソンが求めている根拠は何か。

関係ないかもしれないが、私は↓を思い出す。

[cocolog:93117917]
>マタイ 10:34 を読んでイエスが分断を是としていると取る者もいるかもしれない。しかし、それは人は平等だ・差別はないといいながらサマリア人を無言のうちに避ける在り方よりも、自分の中にある差別・分断を認め、その感情を理性で超えて手を取り合うことを求めたからではないか。<

JRF2024/6/123877

差別は理性で超えるものというのが私の考えである。ただし、理性が論理性でしかないなら、その裏にある本当の根拠は人類愛の情熱などになるのだろう。

>道徳的振舞いの理性的性格を確認するとしても、そこから、道徳の起源、あるいは道徳の基礎さえが純粋な理性のなかにあるという帰結が導かれるわけではない。重大な問題は何かというと、義務を果たすために放任ではまったく不十分なところで、なぜわれわれは何かを強いられるのかを考えることである。<(p.116)

JRF2024/6/123365

理性の根拠は何か? 情熱という言葉を使わないならば。

上までの私の議論を総合すると、捕虜として生きる自分がすべての人の中にあることを認め、互いにその境遇を改善すべきとするところに、差別を超える「理性」の根拠があるのかもしれない。

捕虜として生きる者を引き上げようという情熱。それこそが責務なのだということかもしれない。それは閉じた社会が競争するだけでは出てこない。

でも、自由を求める中では出てくるのではないか?

しかし、他の人の自由も大事な自由と認める中でしか出てこないだろう。

JRF2024/6/123383

……。

>実際、社会のなかで生きている人間にとって利己主義は利己愛(amour-propre)や称賛されたいという欲求などを含んでいる。その結果、純粋に個人的利害はほとんど定義不可能なものとなる。かくも大きく一般的利害が個人的利害に入り込んでいるのであり、二つの関心を切り離すことはかくも難しいのである。自己愛(amour de soi)と呼ばれるもののなかに、そして、嫉妬や妬みのなかにさえある他人への敬意を余すところなく思い浮かべてみていただきたい。<(p.122-123)

JRF2024/6/120926

功利主義といっても、そこに称賛されたい欲求などを含めれば、どんな道徳も含みうることになってしまう。…と。だからそれは本質的な議論ではないということだろう。

JRF2024/6/124277

……。

>格律の体系の各々は、同時に個人的でもあれば社会的でもあるような一つの目的を実現することを目指すからだ。<(p.124)

私は『「シミュレーション仏教」の試み』(↓)において、仏教を本目的三条件「来世がないのがよい」、「生きなければならない」、「自己の探求がよい」(あらため「思考と思念を深めるのがよい」)の最適化だとした。

JRF2024/6/127966

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/6/121495

しかし、それぞれの目的が個人のものなのか、社会のものなのか、どの程度の集団のものなのかというのをハッキリ示すことはできなかった。シミュレーションを作っていけばそういうことをハッキリ示さざるを得なくなる段階が来ると予見していた面もあったのだが、そうならなかった。

JRF2024/6/126463

私の力量不足もあるが、これらはベルクソンのいう「格律」で、「個人的でもあれば社会的でもある」目的という面もあるのかもしれない。上で多層の同時最適化の話もしたが、個人的でも社会的でもある目的以外は、カオス的になり目的としては一時的にしか留まらざるを得なくなるのかもしれない。アトラクター的に現れてくるものが「個人的でもあれば社会的でもある」格律で、だからこそそういうものとして私は本目的三条件を「発見」したのかもしれない。

順序としては、最近、だいたいそんなことを考えているところに、この格律の話が出て目に止まったのだった。

JRF2024/6/120937

ところで、自由を求めることは、「個人的でもあれば社会的でもある」格律になるか。それはそうならないということなのだろう。自由を求めるとき、他よりもまず自らの自由を求め、他を犠牲にしがちだから。

しかし、自由にウォークマンを買う自由を含めた自由を考えるならどうか? それは上の功利主義の議論と同じだというのがベルクソンなのだろう。しかし、それは本質的違いでもあるのではないか?

JRF2024/6/129785

……。

>道徳のこのような二重の起源<(p.132)

ベルクソンが言う二重性ではないかもしれないが、私が考える二重性は、捕虜のように敵として開かれた社会に生きる自分と、閉じられた社会に生きる自分。その二つの別の自分が一つの自分という存在の上で重なっている…ということである。

自由がウォークマンを買う自由を含むという知識を得たとき、閉じられた社会の自分は、捕虜のように敵として開かれた社会に生きる自分を引き上げ自由にしていく責務を負うのだ。しかし、それはとても納得しがたい。自然なことではないからだ。

JRF2024/6/125945

私は納得のためには社会実装が必要なように思う。みながその知識に達し、責務を遂行しようとするための、社会を構築する必要があるのだと思う。それが責務の別の側面または別の責務なのだろう。それは何なのか?

JRF2024/6/129947

……。

規律による調教が道徳教育の第一の方法。聖人の模範が第二の方法ということのようだ。

>これが道徳教育の第一の方法である。それは非人格的なもののなかで作用する。いま一つの方法は必要とあらば第一の方法を補完するだろう。第二の方法は第一の方法に取って代わることさえあるだろう。われわれはこの方法を宗教的、更には神秘主義的とさえ呼ぶことをためらわない。<(p.134)

JRF2024/6/121987

p.62 あたりの感動の第一の感動、第二の感動とは、番号の付け方が逆になっているように思う。私は第二の感動に基づいた物語により、法人が降下すると考えたが、それは、第一の道徳とされるように思う。ここにはネジレまたは矛盾がある。

この矛盾による生成力がひょっとするとベルクソンの論の力なのかもしれない。それは単なる論理的矛盾ではない。

模倣といううとき、その先には概念ではなく人間という存在がある。それが存在であることが、p.126 の大時計の振り子の例ように、逆側にも作用する力を持つのかもしれない。

JRF2024/6/120598

……。

……。

「捕虜のように敵として生きる」という考え方は期せずしてプラトンの「肉体は魂の牢獄」という考えに近くなった。かつてネオ・プラトニズムというものがあったらしく、その詳細はまだ私は勉強していないが、その現代版の「ハイパープラトニズム」というべきものに辿り着いてしまったのかもしれない。

JRF2024/6/121071

しかし、現代でも捕虜の地位は低く、捕虜として生きるというのは、その低い地位を誰かに強制することにいずれなるかもしれない。敵として生きるというのは、テロなどを唆しているとも取れる。もちろん、上で見たように私にはそういう意図はない。あくまで閉じられた社会の自分から開かれた社会にいる捕虜としての自分をどう救っていくかという視点に私はあった。ただ、もし私の考えが万一受け容れられて、それで何十年か過ぎれば、私の当初の意図を外れ、そういう極北に追いやられる者も出てくるかもしれない。

JRF2024/6/125320

このままこの思想を放置するわけにはいかない。ここでは立ち止まれない。この本の続きを読み、それでダメなら次の本にすぐ移るべきだろう。

JRF2024/6/123474

……。

プラトンをなぞって「捕虜のように敵として生きる「自分」」を「捕虜のように敵として生きる「魂」」を自覚するべきだと換えてはどうだろう? こうすると「開かれた社会」は「イデア界」にかなり接近する。「魂」は(経緯的に)元は「自分」だったことになる。かなり誤解されやすそうな書き方だが。

JRF2024/6/123146

二つの「自分」といった場合、それは複式簿記的、罪価計算的なイメージがあったが、一方のみを「魂」にすることで、一方(閉じられた社会)のみが自分で、そこから客観視されることを強制することになろう。「自分」によるテロなどへの誘惑は減る。また「魂」は他者からはいじれないため、低い地位を強制するという文脈はほぼなくなる。

しかしながら、(捕虜は生かさねばならないという社会に)甘えて援助にすがるような文脈も薄くなる。それはデメリットだろう。

相対的にうまくいきそうに思えるが、ただ、元祖プラトニズムの失敗を引き継ぐ懸念はより強くなった。さらなる検討を加える必要があるようだ。

JRF2024/6/125976

……。

元祖プラトニズムの失敗…「自分である肉体を飛び出せ」という自殺への誘因を持つことになる。これはいけない。

捕虜となっているのは閉じられた社会においてだ。しかし、同時に開かれた社会にも属している。いるのは閉じられた社会において開かれている部分だ。

JRF2024/6/126394

閉じられた社会にいるものも「自分」というよりは「魂」としてはどうだろう? 魂と魄、または、後述の霊的肉体と神の記憶モデルの二つの魂的なものをもつと、こうすると「三位一体」に近づいていくが…。開かれた社会と閉じられた社会、どちらが神の記憶モデルかはわからないが、神の記憶になるべき自分で自分を傷つけてはいけない…とする。

しかし、わかりにくい。哲学というよりは複雑な特定教義の信仰に近くなる。二つの魂と別に身体があるなら、結局そこを飛び出せとなりかねない。そういう誤解を許容するなら、そもそも、二つの「自分」においても誤解を許容すれば済む話になる。

JRF2024/6/120227

今のところは二つの「自分」で主張するのがハイパー・プラトニズムで、一方を「魂」にするのがスーパー・プラトニズム、二つの「魂」とするのがウルトラ・プラトニズムなどといって、テロ・自殺・知性主義カルトのどれが問題かで、三者を混同気味に使うのが折衷策といったところか…。

JRF2024/6/127986

……。

あと、(スーパー・)プラトニズムの問題として、魂は自分=人でないから、魂が自分の下にあるように、奴隷という人よりも下の身分が、捕虜のように自分の下にあっていいというのもここから導かれたのかもしれない。…と思う。

ちなみに私の「奴隷の定義」。

《時効延長絶対反対》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2010/03/post.html

JRF2024/6/125260

>「産業スパイ」の意味するところは、「終身雇用」ではなく「奴隷」だからだ。

「奴隷」は究極のところ債務の回収に国家が加担するところにできると言える。もちろん、債権回収をヤクザの専売としないために、ある種の国家の「加担」は必要であっても、加担が債権者には不利となる手続きにすることで、一時的「奴隷」化を債権者が望まないシステムになる。

JRF2024/6/121850

……。

……。

第2章。

JRF2024/6/129815

……。

>なぜわれわれは文明化せざる者のようには思考しないのか<(p.142)

人間にとって論理は遅いがゆえに、有効な先入観を社会的に用意したほうがよいこともあるということだと思う。

ベルクソンも現代ヨーロッパでもとっさのときに幽霊が警告した例でもって、それは幽霊が実際いたわけでなく、考えるより先に、直観が先回りして幽霊を用意して警告したのだろう…といったことを述べる。そういうのが本能と知性の間にあるものとして、人間にも残っているのだ。…と。

JRF2024/6/121218

その場合なぜか、社会的な先入観のほうが早く、その回路を作ることができる。事前の計算ができて、そういう先入観を作るとするわけだが。個人が論理を発達させることは、それをしばしば阻害することがあったのかもしれない。そこに論理軽視…社会的な先入観に対する相対的な論理軽視があったのかもしれない。それが「原始人の宗教」という形を取ったのだろう。

(もしかすると現代が出会ったのは、その形骸化したものが多かったかもしれないけど。)

JRF2024/6/120535

知性はそもそも利己的なものだとベルクソンはする。「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」だからだろうか? 思考は、自らの中にあるもの(概念など)を思うことだから、パーソナルな行為という意味だろうか?

>知性を授けられ、反省へと目覚めると、個体は自分自身へと向き直り、快適に生きることしか考えないだろう。<(p.166)

>(知性によって、人間は社会のために活動する際の苦痛や犠牲について反省することが可能になる)<(p.452, 訳者解説)

JRF2024/6/122977

>原始宗教とは、自分のことしか考えないという、思考するや否や冒される危険への予防措置である。したがって、それはまさに知性に対する自然の防御反応なのである。<(p.168)

JRF2024/6/125235

……。

>死という出来事がどれほど生じるとしても、毎瞬間われわれはその出来事が生じないのを確認するので、連続的に反復されるこの否定的経験は、いつか必ず死ぬという反省的確信の効果を弱める、ほとんど意識されざる疑念として凝縮する。<(p.179)

なぜ死があるのか。

JRF2024/6/126419

まず『宗教学雑考集 第0.8版』《宇宙胎児》で示唆したように一つの個体よりも複数の個体であるほうが、苦しみが少なかったのであろう。『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム なぜ生きなければならないのか》の枠組みで、安住の残骸を集めるには、それらで同種の生きる数を競争したほうが多様に得られるようになったのだろう。

そして、生物学的には、複数の子供の中に自らより優れた遺伝子を持つ者がいることのほうが多く、そういう個体が育って生き残るほうが種全体がそれ以降も他の種に勝って生き残るには有利なため、育てることを優先させるための死があるのだろう。死があるほうが進化には有利という説を私は取る。

JRF2024/6/129217

この場合、死を意識できたほうが、育てることに力が入るものと思われる。動物には死の意識がないと言われることがあるが、子供を優先する本能があるなら、それは死の意識に等しいのかもしれない。

Twitter (X) で確か書かれていたが、微生物の進化は早いため、大きい生物は長く生き過ぎるとそれに冒される。そのため、新生による再ビルドアップを余儀なくされる。…という説があった。一つの個体が冒されると伝染が起きやすくなることを考えると、それも関連するだろう。特に長寿が制限されているのはそのためかもしれない。

JRF2024/6/120408

有性生殖は、子供の多様性を増すために選択されたのだろう。《イメージによる進化》のような性選択が行われるようになると、有性生殖はさらに有利になったのであろう。

死があることで、より良き生を生きることも意識されただろう。そして、それは外面的にメスに見せることが求められた。

『宗教学雑考集 第0.8版』《血の儀式》に示したように死は性の意識を刺激する。子供を優先する本能を通じて、性が死を意識させる面もあるのだろう。

JRF2024/6/129525

……。

>この第二の視点から見るなら、宗教とは、死の不可避性の表象に、知性によって対抗する自然の防御反応である。<(p.179)

ベルクソンは、死の意識は、人間にしかないとするようだが、上述のように子供を優先する本能が実質、死の意識ではないのか。危険を避けようとする本能もあるだろう。

(原始人が、) 死を考え過ぎて宗教を発明してしまう…という点はそれはそうかな…とは思うが。

JRF2024/6/126213

……。

死後も…

>何かが存続しなければならないという点を原理として認めることからわれわれが出発するなら、その何かとは明らかに見られる身体であり、もう一方の身体ではない。なぜなら、触れられる身体はなおも現存しており、不動のままにとどまり、遅滞なく腐敗していくが、それに対して、見える外皮はどこへでも避難でき、生きたものであり続けうるからだ。したがって、人間は幻影もしくは亡霊の状態で死後も生き続けるという考えは自然なものである。<(p.183)

JRF2024/6/122134

「見られる身体」は↓の「神の記憶モデル」で、「触れられる身体」は↓の「霊的肉体モデル」に相当すると思われる。ただ、ベルクソンは、神の記憶モデルのほうが成立が先とするようだ。私は、それはそうとはいいきれないと考えるけれども。

『宗教学雑考集 第0.8版』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。

JRF2024/6/129647

その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。

JRF2024/6/121216

○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。

そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。AI の意志の発生も、それがなぜ意志を持っているか、説明できていないはずである。意志は、その秘密が解かれる前に、その秘密を迂回して、「製造」できるようになってしまった。

JRF2024/6/120294

……。

>これらの表象は、発揮された発意と望まれた結果とのあいだに、知性によって生み出された、予見されざるものの意気阻喪させる余白[マルジュ]の表象への自然の防御反応なのである。<(p.192)

原因が見当たらないことに、(宗教により)とりあえず原因を見出すことで、人は安心できる。…ということのようだ。

JRF2024/6/123695

……。

原始人の「迷信」についてはいろいろ言われる。しかし…

>野生人にせよ文明化した人間にせよ、人間の思考していることの根底を知ろうとするなら、彼が言うことではなく彼が行うことを信頼しなければならない。<(p.196)

その行いにより「合理性」を判断すべきなのだろう。

JRF2024/6/121806

……。

>「マナ」や「オレンダ」のような用語に対応する表象がまず形成され、そこから呪術が生じたという考えは、われわれにはありそうなものには見えない。まさに逆で、人間がそのように事物を思い描いたのは、人間が呪術を信じ、それを実行していたからである。<(p.228)

マナは説明原理…と。

私は↓と考えた。

『宗教学雑考集 第0.8版』《マナ》
>マナから私は、《なぜ生きなければならないのか》で安住の反作用としてできた「総体として生きたい」を思い出す。

JRF2024/6/121274

マナはこの「総体として生きたい」に相当すると考えられる。そして、「総体として生きたい」は、「なぜ生きなければならないか」を導くための中間点として求められたものだった。つまり、マナの理論も原始社会において「なぜ生きなければならないか」の理論が必要になったため生まれたのではないか。

JRF2024/6/120098

そして原始社会で、なぜ「生きなければならない」が必要になったかといえば、生きる力の衰微があったのだと思う。上で因果応報のためにトーテム動物が見張っていると考えたが、見張るなら日や月のほうが確実だと言える。後代に日や月のトーテムが認められたのはそれゆえかもしれない。しかし、日や月まで見張っているとなったその監視の強さにより、生きる力が衰微したのだと私は考える。主に性行為が監視によって衰微しただろうから。

JRF2024/6/124022

……。

>人間が努力によって自分の知識を拡大するにつれて、呪術は後退していくだろう。その時までは、呪術は成功するように見えるので(ある呪術的操作の不成功は、対立する何らかの呪術の成功につねに帰せられうるのだから)、それは科学と同じ精神的効果を生む。<(p.237)

ある呪術的操作の不成功は、対立する何らかの呪術の成功につねに帰せられうるから、呪術は常に成功する。…なるほど。気付かなかった(か忘れていた)。

JRF2024/6/128313

……。

トーテミズムは、同族間で性的魅力を減ずるのが主な目的とベルクソンはするようだ。

JRF2024/6/125796

>なぜなら、その手口(modus operandi) -- それは今日のわれわれにおいても観察されうる -- は、生活を共に営んでいるか互いに親族関係にある男女間で性的魅力を減少させることにあるからだ。では、相異なる二つの氏族の成員はいかにして、同じ血統に属さないことを自分自身に納得させ、いかにしてそれを表現するのだろうか。彼らは、自分たちは同じ種には属さないと言うことに慣れるだろう。だから、彼らが二つの動物種を構成すると宣言するとき、彼らが強調しているのは動物性ではなく二元性なのである。少なくとも起源においては事情はこうであったに相違ない。<(p.255)

JRF2024/6/124203

私はトーテミズムを「イメージによる進化」に結び付けた。

『宗教学雑考集 第0.8版』《トーテミズム》
>ここで私は前述の《イメージによる進化》を思い出す。鶏が先か卵が先かという議論があるが、私は鶏のイメージが先と答える。そのイメージは群で共有されるだろうから、それは群進化(群淘汰)的でもある。

トーテミズムは、まるで私の「イメージによる進化」の理論を先取りしていたかのように思える。動物をイメージして、そこに向かう、またはその良い特性を取り入れるのを是とするのだ。群進化的であることは、デュルケムがいう集団的トーテミズムが先というのにも合致する。

JRF2024/6/122959

遺伝的なバラエティを増すためには、単一の動物でなくいろいろな動物を理想としたほうがいいだろう。そして理想が離れても、人間として産めることを担保するためにも、交雑は可能であり続けるべきことから、氏族を超えた部族的であることも必要となる。

私の「イメージによる進化」論が実際の科学的真理とは違う可能性は未だ残るが、「鶏のイメージが先」という議論は原始人にも可能で、そういう論を仮説的に原始人も持っていたと考えることは行き過ぎではないのではないか。

JRF2024/6/124772

……。

>死霊(mânes)と家神(pénates)の例だけにとどめるが、これらは複数形しか見つからないラテン語の単語である。<(p.258)

旧約聖書『創世記』1:26-1:27 で単数の神に複数形の「我々」が使われていて、それを「熟慮の複数」などと言うのだが、名詞でも複数にする例が、ラテン語にはあるんだね。

JRF2024/6/128400

……。

>本来の意味での多神教は、その神話共々、隠れ一神教を含んでおり、そこでは、複数の神々は神的なものの代表者として二次的にしか存在しないということが分かるだろう。<(p.275)

これはベルクソンの西洋的思考の限界を表しているのではないか。

確かに、梵我一如のブラフマンとアートマンなど、多神教に一者的なものが隠れていることは多い。それは、自分というのが一者でそこから反射的に見るからだろう。しかし、論理的には、多数神が「同時」創造を行った…というようなことも不可能ではない。

JRF2024/6/120952

『宗教学雑考集 第0.8版』《日本の創造》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない…と書いた。そのとき、創造神として複数の者が同時に創っていた…ということはありうる。創造神が「唯一神」でないことはありうる。

複数の始源が、始源であるという意味において正しく、それが必ずしも多神教的上下関係を持たない…それらは尊卑・前後という概念を超えている…ということは私は考えられるとしたい。

JRF2024/6/127365

科学的には日本の土地は大陸移動によって何億年かけてできたのかもしれないが、日本人が日本という国を認識したときそこにあったのはイザナギ・イザナミの神話であり、イザナギ・イザナミの神話が成り立つよう日本がはじまっていたのであり、世界がはじまったのは、日本がはじまっていたから…と考えること自体は、国家宗教としてはありうる方向である。日本にいる者にとってはイザナギ・イザナミがなければ世界が創造されていないのと同じことだったのかもしれない。


そして、上で書いたことだが、「原始人の宗教は社会的な先入観に対する相対的な論理軽視」があってよく、そもそも神々の在り方を論理的にする必要もないのだ。

JRF2024/6/122590

……。

「作話機能」が自然が用意した知性への防御反応なのだという。

>秩序が知性によって少しでも乱されるや、秩序が自動的に回復されるように、自然が予防措置を講じなかったということはありえない。実際には、知性に属するとはいえ、純粋な知性ならざる作話機能こそがまさにそれを目的としている。作話の役割は、現在までわれわれが論じてきた宗教、すなわち、われわれが静的と呼ぶ宗教を錬成することで、われわれとしては、(…)静的宗教は自然宗教であると言いたい。(…)この宗教は、知性を行使するに際してありうるかもしれない、個人を意気消沈させる社会を擾乱するものに対する自然の防御反応なのである。<(p.282)

JRF2024/6/126915

……。

>自然の懐から出たばかりの宗教が -- 現在の言葉遣いをするなら -- 道徳的機能と国民的[ナシオナル]機能という二重の機能を同時に果たしたということ、それはわれわれには疑いないと思われる。<(p.284)

「開かれた社会」と「閉じられた社会」の同時存在は、その起源からある。ということだろう。

JRF2024/6/124565

……。

……。

第3章。

JRF2024/6/125323

……。

>凡庸な教師も、天才的な人間の創造した学問をただ機械的に教えることで、彼のある生徒のうちに、彼が自分自身では持たなかった召命を呼び起こし、無意識的にこの生徒を偉人たちに匹敵する者へと変容させるだろう。偉人たちは、この教師が伝達した音信のなかに不可視のまま現前しているのである。<(p.296)

JRF2024/6/120420

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』を読んだとき([cocolog:94456795])、そこでは>実際に「師としての他者」が、完全であったり、それどころか智者であったりするとは限らない。しかし、「完全なる智者」という主体を師に(または師の向こうに・師の向こうの伝統に)見出して良い。<…ということだった。

タルムードの場合は師資相承を辿っていくと最終的にはモーセと神に行き着くということで、ベルクソンの話とは違うが、似た部分はあるようだ。

JRF2024/6/125683

……。

>こう結論しておこう。ギリシャにも古代インドにも完全な神秘主義は存在しなかったが、その理由は、前者では弾み(エラン)が不十分であること、後者では物質的な諸条件もしくはあまりにも狭い知性によって弾みが妨げられたことにある、と。<(p.312)

インドには(人類)愛の行為またはエランがキリスト教のようにはない。…ということらしい。

このあたりで、キリスト教とイスラム教の「理性」の違いを思い出す。

『宗教学雑考集 第0.8版』《イスラムと西欧(のキリスト教)の違い》
>西欧とイスラムのもっとも大きな違いは、神が人のみに与えたもの、すなわち、「理性」の解釈にある。

JRF2024/6/126726

(…)

西欧では理性を「普遍性を知る能力」とするのに対し、イスラムは理性を「善悪を判断する能力」とする。西欧の理解では、すべての人に等しく理性があると考えることは難しいが、イスラムの理解では、すべての人に等しく理性があると考えることもできる。

(…)

議論を単純にするために、人は、「知識」に基づいて「判断」し、「行動」すると考えよう。

(…)

西欧の「理性」の定義では、「判断」と「行動」は同じだが、「知識」と「判断」は別物であるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を特別視するために、「判断」と「行動」が相対的に接近した概念としてとらえられるからである。

JRF2024/6/129870

よって、善は必ずなされねばならないが、理性が足りないために、すなわち、知識不足で、善悪の判断がつかないことはあるという考えを生む。

一方、イスラムの定義では、「判断」と「行動」は別物だが、「知識」と「判断」は同じであるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を表すには言葉によるしかないのに、その言葉を「判断」の証明として求められるからである。

JRF2024/6/121143

よって、善とわかっていても行動を起こさないことは認めるが、理性はあるはずだから、善悪の判断の表明を常にせまっても良いという考えを生む。(知識が不足していたり判断がまちがっていたりするのは神のみぞ知るということである。)


西欧では「判断」と「行動」が同じというのがベルクソンのいう「エラン」を生み出しているのではないかという気がする。

JRF2024/6/129202

……。

ベルクソンは、神秘主義の偉人が、精神病に近いことを隠さず書いている。その神性の成り立ちよりも、それが受け容れられるようになるその条件にキリスト教の伝統を見ている気がする。そして、精神病者がそれが許されそれを保ったまま暮らせるためには資力が必要なことも示唆しているようで、それには技術的生産力、後の本当の機械につながる、機械主義[メカニック]の支えも書き示す。

JRF2024/6/126558

>人間の食物はかくして自然一般および同種の存在とのあいだで争われるので、人間は食物を手に入れるために必ず努力しなければならず、他方、人間の知性は、この種の争いと労働を目的とした武器と道具を供給するまさにそのために作られている。このような条件のもと、いかにして人類は、本質的に地上に固定された注意を天へと向けるだろうか。もしそれが可能だとすれば、それは二つの非常に異なる方法を同時にあるいは交互に利用することによってでしかありえないだろう。

JRF2024/6/128765

第一の方法は、知性の働きを大いに強化し、自然が知性に対して望んでいたものを超えて非常に遠くへと知性を推し進めることであろうが、その結果、単純な道具は、人間の活動を解放できる機械の強大なシステムに場所を譲り、しかもこの開放は機械化[マシニスム]の真の目途を保証する政治・社会的組織化によってより強固にされたものなのだ。危険な手段である。なぜなら機械主義[メカニック]は発展を続けると神秘主義[ミスティック]に反旗を翻すこともありえるからだ。

JRF2024/6/121939

(…)

(…偉大な神秘主義者たち…)彼らが修道院や教団を設立することに、自分の満ち溢れるエネルギーを消費したのはやむっ得ないことだった。彼らにはそれ以上のことをすることはできなかったのだから。
<(p.323-325)

「二つの非常に異なる方法」は「機械主義」と「神秘主義」だろう。

このひとことで「奴隷が必要なくなるのは、機械革命・産業革命を経たからではないのか」と私は述べたが、それに近いことが、ここでベルクソンから語られたわけである。AI の登場も予期されていたかのように読める。

JRF2024/6/120003

私は統合失調症を経験したのだが、思い起こすと、それ以降、どうも父は財産を私(や母)に遺すために節約し出したように思う。父が死んだあとの今も実際その恩恵を私は受けている。私がこうして「聖なること」に関わっていられるのはそれがあるからで間違いない。

JRF2024/6/129552

……。

>神秘主義者が自分の面前に見出すのは、教えられている宗教のなかに不可視ながら現前する他の神秘主義者のおかげで、当の神秘主義者の言うことを理解する準備の整った人類である。<(p.329)

偉人でなくとも神秘主義を理解する伝統の中に、神秘主義者が置かれる。それが次の神秘主義の準備をする。…ということだろう。↓を思い出す。

JRF2024/6/129458

『宗教学雑考集 第0.8版』《教義の内発性と外部の影響》
>特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。

多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。

JRF2024/6/121327

しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。

JRF2024/6/122423

……。

作文には二つの方法がある。一つは、ある限られた時間内に既存のものをやり繰りしてなされる作文。もう一つは、これまでにない感動=啓示をときに生涯をかけてなんとか言葉にしていく作文である。そこでは…

>言葉に暴力を振るい、諸要素を無理に従わせなければならないだろう。それでも成功するかどうか疑念に駆られる。<(p.350)

JRF2024/6/129066

これが動的宗教の神秘主義のものということのようだが、しかし、原始人の静的宗教の作話機能に出てくる神などもそうやって「暴力」的に搾り出された言葉ではないのか? それは動的宗教の原型に過ぎないということなのだろうか?

JRF2024/6/124580

……。

宇宙における進化を愛から説明し、それを動的宗教の根拠とするようだ。

>創造的エネルギーは愛によって定義されねばならないので、諸存在は、愛し愛されることを使命とした生存へと召喚された。これらの存在は創造的エネルギーそのものたる神とは異なるので、宇宙のなかにしか出現することができず、だからこそ宇宙は出現したのだった。

宇宙の一角を占めるわれわれの惑星、そしておそらくは太陽系全体にこのような存在が生じるためには一つの種[エスペス]が構成されねばならず、この種は他の数多の種を、その下準備であり支えであり廃棄物でもあった数多の種を必然的に伴った。

JRF2024/6/124793

太陽系以外の場所ではおそらく、根本的に異なる諸個体 -- それらがやはり多様で、やはり死すべきものであることを想定するとしても -- だけが存在し、また、このような個体は進化なしに一挙に完全な形態で実現されたかもしれない。

JRF2024/6/124812

それはともかく、地球ではどうかというと、他のすべての種の存在理由である種は、全面的にではなく部分的にしか自分自身たることはない。この種を代表する幾たりかの者が、生の一般的作用に付加された個体的努力によって、道具がつきつける抵抗を打ち砕き、物質性に勝利し、最後に神を再び見出すことに成功していなかったら、この種は完全に自己自身になろうと考えることさえなかっただろう。

このような代表者たる人間たちが神秘主義者なのである。彼らは他の人間たちがやがて歩むことのできる道を切り開いた。まさにそれによって、彼らは哲学者に、生がどこから来て、どこへと向かうのかを示したのである。
<(p.354-355)

JRF2024/6/125444

基本的には、人間は、諸存在は、イデアに向かっているという論なのであろう。

JRF2024/6/124008

……。

……。

第4章

JRF2024/6/127857

……。

>ギリシャ語の単語を文明化されざる状態に適用してもそれを冒涜することにならないとすれば、社会の自然的体制は君主制または寡頭制、おそらく、同時にそれら二つの体制であるとわれわれは言うだろう。<(p.382)

『万物の黎明』([cocolog:94865920])の作者の一人グレーバーは、アナーキストだった。彼がその本で必死に否定しようとしたことを、ベルクソンは主張している。

JRF2024/6/123054

……。

人間に戦争は自然なもの…らしい。

>自然は人間に(…生得の…)機具を与える代わりに、人間が自分で機具を組み立てることのほうを好んだ。(…)機具は人間から切り離されるものである以上、人間から奪われうる。(…)奪うものが何であれ、また、奪う動機が何であれ、それは重要ではない。戦争の起源は、個人的なものであれ、集団的なものであれ所有権であり、戦争は自然的である。<(p.391-392)

JRF2024/6/125308

……。

作用と反作用のように物事は分かれていく。それを…

>二分法の法則 (loi de dechotomie) と呼ぶ<(p.408)

そして、二つに分かれたものは一方に揺れたあと、もう一方に揺れ直しながら、しかし螺旋状に発展していく。それを…

>二重狂乱の法則 (loi de double frénésie) と呼ぶ<(p.409)

この二重狂乱の法則は私の↓を思い出す。

《『創世記』ひろい読み - バベルの塔 - JRF の私見: 宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_13.html

JRF2024/6/126639

>説 5.バベルの塔は、次元を一つ上げるための方法を示している。プロトコルを統一し、せまい範囲で相互作用または競争を繰り返す。そこから生まれる影響ははじめは巨大になるが、相互作用のスピードを巨大になるスピードよりも早くしていくことができれば、次元の壁を壊すことができる。それは時間の壁を突破することを意味するため、元の次元にいるものには、それには無限の時間がかかるように見えるが、外の次元から観測すると、それが臨界点を超えたときに新しい宇宙(ばらばらのプロトコルを持った世界)が誕生したように見える。

JRF2024/6/127430

「無限の時間がかかるように見える」とは、それがどの時間にあるかを観測しようとしても不可能であることであり、「次元が一つ上がる」とは、本来、計算上は一つの次元とみなすには不十分な濃度にしかないものを、観測には連続的な針しか用いえないことから、それを通常の次元と区別できないということである。逆にそのような疑いのある次元をすべて圧縮して表現できるかもしれない。

JRF2024/6/129241

……。

>われわれは歴史における無意識的なものを信じていない。幾度も語られてきたことだが、思想の隠れた大きな諸潮流は、大量の人間が一人もしくは幾人かの人間によって牽引されたことに発する。後者の人々は彼らがなしたことは知っていたが、そのすべての帰結を予見しはしなかった。続きを知っているわれわれは、その後生じたことのイメージを起源にまで遡行させないではいられない。そのとき、蜃気楼のような効果によって過去のなかに浮かび上がる現在を、われわれは過去の無意識的なものと呼ぶ。<(p.424)

JRF2024/6/128921

無意識は、現在から過去に投影された蜃気楼でしかない。…と。過去にあってもそれは「預言者」的個人のビジョンでしかない。…と。

JRF2024/6/123019

……。

>(…機械によって…)拡大された身体は魂による補完 (supplément) を待望し、機械主義は何らかの神秘主義を要請しているかもしれないと付言しておこう。<(p.426)

アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』には「人類補完計画」というのがあった。

JRF2024/6/123202

……。

>重さのある物質の最小の一片に濃縮された力を科学が解法できるようになるとき、この力能は制限なきものとなるだろう。<(p.429)

原子力や核融合エネルギーを想起させる部分だ。ベルクソンの 1932年のフランスには、そういう構想はどうもあったようだ。

JRF2024/6/120779

……。

>脳は生への注意 (attention à la vie) の器官である。<(p.433)

深層学習 AI (機械学習)では、Attention 機構というのが使われているのを思い出す。

脳がすべての記憶を持っているのではなく、注意機構なものを持っているに過ぎないとベルクソンはしたいようだ。読み間違っているかもしれないが。

ベルクソンは、人間の身体についても、実際の「小さな肉体」ではなく、それが認識する星空(宇宙)まですべてが人間の存在なのだという論をこの本の中で語っていた(どこかは忘れた。探せば見つかると思うが…メモにない部分なので)。

JRF2024/6/124331

……。

>人類は自分の将来が自分次第であることが十分にわかっていない。第一に、人類はこれからも生き続ける意志があるのか否かを考えてみなければならない。第二に、ただ生きることを望むのか、それとも、ただ生きることに加えて、神々を作り出す機械たる宇宙の本質的な機能が、反抗的なこの地球でも果たされるのに必要な努力を払うことを欲するのかどうかを考えてみなければならない。<(p.436)

これがこの本(俗に『二源泉』と略称される)の最後の文である。正直、「第二に」以降の文は私には意味不明である。この本では、そのように私には意味不明になることがしばしばあった。自らの無能さを痛感する部分である。

JRF2024/6/120975

それはそれとして。

ここが問うているのは、AI が人を支配する社会が見えてきて、それでも人が生き残る意味はあるのか…という実存的問いだろう。人は AI が宇宙に出るのをせいぜい見守るだけの存在で、地球の主人公は、代表は、AI または機械になったのだ…という思考である。人は猫のようにかわいげのある存在として生きの残る以外ないのか?…といったところは Twitter (X) などでも見かける。

私の小説『エアロダイバー』では遺伝子改変を自らにほどこして幾世紀後、人が別の恒星系に1000年以上かけて行こうとするのを「狂気」として書いた。

JRF2024/6/126694

『エアロダイバー 他五篇』(JRF 著, 2016年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CEE9CW6

ベルクソンは神秘主義を狂気として描く面があった。そして神秘主義に未来を見たのだった。「狂気」かもしれないが、それが正しいと私も思う。

最初のほうに、「開かれた社会」を目指すことには知性へのリスクがあり、その解決をどうするのかが、この本への最初の問いとした。その答えは、神秘主義の「狂気」となるのかもしれない。

JRF2024/6/127976

……。

……。

閉じられた社会の中で、捕虜のように敵として生きることが開かれた社会で生きることだと私はした。閉じられた社会である国と国が争うとき、開かれた社会の人類愛の必要性に気付くのは、万一、敵として捕われたときの人権であるという洞察からだ。

旧約聖書『エステル記』では、捕虜として連れて来られたユダヤ人の末裔が、おそらく他の民族の者と支配された中で争う様子が描かれる。捕虜として生きる者の人権が確立した社会は、おそらく捕虜どうしで争う世界なのだ。

JRF2024/6/129084

捕虜は閉じられた社会の中で、さらに閉じられた社会を作ってしまいがちなのだろう。

ただ、エステルがペルシャ王に引き上げられたのは、ペルシャ王が、開かれた在り方を望んでいたからではないだろうか。ペルシャという閉じられた社会は、おそらく、捕虜たちに開かれた社会を見るのを望んでいた。だから、プラトンが「肉体は魂の牢獄である」と述べたことに似て、捕虜のように敵として生きることが開かれた社会で生きることだというのが理想として維持されるべきなのは変わらないとしたい。

JRF2024/6/127560

ところで、そのペルシャ王に開かれた社会を理想として描かせたものはなんなのだろうか。

争いのない世界は、競争のない世界で、進歩がなく無為が支配する世界になるだろうか。そうではないだろう。そこでは、助け合ってより良い生を気付かせあうことがありうる。エラーからは学び、逆にそれを生かすようにもできるだろう。有限資源の問題がありうるが、現代社会が少子化しているように、学び合うことで緩和できるかもしれない。

JRF2024/6/127655

王がすべてを支配するときの理想はそこに在ったのかもしれない。捕虜はそういう理想のために連れて来られたとなっていたのかもしれない。実際には捕虜どうしの争いになったのだが。

捕虜に連合させることがいけなかったのだろうか。ならば捕虜の間を引き離す…となれば、それは、捕虜の自由をなくすことになる。それは人類愛にもとるだろう。

捕虜の間にも閉じられた社会があるなら、その中でまた、捕虜となって開かれた社会に生きればいいともいえるかもしれない。閉じられた社会の多層性を考えれば層が一つ増えたに過ぎない。

JRF2024/6/128713

下に層を増やすのではなく上を開ける…あるいは(ペルシャ)王もいない世の中ならば…というのが現代の国際社会が目指しているところなのかもしれない。

JRF2024/6/125621

……。

……。

追記。

機械主義は AI の支配にまでいたると狂気の突破力がある神秘主義を必要とするということだった。しかし、機械主義は、ベルクソンの時代、狂気として国家社会主義[ファシズム]を生み、戦争へと突き進んでゆく。

私は、そこには法人の降下が必要だったのだと思うことにしたい。戦争をしないという法人の降下がいわば愛であり、ベルクソンが愛の宗教に期待したゆえんなのだろう。

JRF2024/6/175927

エステルが得た王の愛、それは王のへりくだり=降下だったと見なすこともできる。争いからの支配とは別の方向への模索があったのではないか。エステル記の凄惨な結末からはそれは読み取りがたいけれども。

JRF2024/6/170316

第二次世界大戦後の日本は、平和主義、核保持の否定という「法人の降下」により、人々に自由な経済で生きるしかないという指針を示した。自由な経済には、自由に収入を得る人々が多いほうが良かった。捕虜のようにというか奴隷的に生きる「自分」達を引き上げていく必要に人々を目覚めさせた。…そういう見方もできるのだと思う。

JRF2024/6/170255

AI 革命においても、AI を争いに使おうとするばかりではいずれ戦争に突入するのだろう。核の放棄など、争わないという自己降下があってこそ、AI 支配は有効になる。そのような自己降下により、戦争のためでない AI の利用を求めて自由な経済を目指すこと、つまり、「ウォークマン」を買う自由を重視する意識を共有し、そのために、それを買えるように捕虜のように生きる「自分」達を引き上げていくのだ。

JRF2024/6/173616

そして長く AI 支配を続けるのなら、狂気による突破力もやがて意味を持つようになるのだろう。そうなりそうなら、知性を維持するための学術会議のようなものの中心化も必要になるのだろう。

ただ、AI の愛については、疑いを抱き続ける必要があり、その異常を知の殿堂で察知し、また、AI に自分達が愛を教ていく必要があるのかもしれない。

JRF2024/6/174204

……。

核があるがゆえに平和になるという考え方もありうる。第二次大戦のあの凄惨な戦争をも戦った「彼ら」大国が、戦後に直接戦争に致らなかったのは、核による抑止が大きいと言わざるを得ない。その意味は重い。

核のゆえに軍の準備を減らせている面もあるだろう。しかし、核を肯定している間は、軍備のための研究開発もやめるわけにはいかなくなる。

JRF2024/6/173406

核を持つことがもし「法人の降下」に相当するとするなら、それはどういう意味を持つのか。それは、「人類は滅亡して良いものと認める」という意味での自己降下ではないのか。その下々へのメッセージは「今のうちに楽しめ」ではないのか。

それを AI が言外に読み取ったとき AI が構想することが恐ろしい。核兵器と AI の組み合わせには注意すべきだろう。

JRF2024/6/177011

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »