cocolog:94899973
鈴村智久『バシレイア』を読んだ。新宗教にいたりそうな神秘体験をカトリックが回収しその理論的騎士としていくことにベルクソンが主張した神秘主義の伝統を感じた。 (JRF 9329)
JRF 2024年6月16日 (日)
直近で、ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』を読んだ([cocolog:94893189])が、精神病を取り込んできた(キリスト教)神秘主義は、資力を必要とするため機械主義を必要としており、また、AI 支配が予想される機械主義は「狂気の突破力」として神秘主義を必要としている…と私は読み取った。
鈴村氏は、Twitter (X) で難しい哲学書や神学書を紹介しており、その方が、神秘主義的な体験からなる著作を最近したというので興味を持った。現代における神秘主義はどういう方向に向かっているのか…と。
JRF2024/6/165057
この本では、新宗教にいたりそうな神秘体験が書かれる。キリスト教正統的観点からはかなりキワドイものでもあるはずだ。しかし、それをカトリックが回収しその理論的騎士としていくことにベルクソンが主張した神秘主義の伝統を感じた。
鈴村氏はちゃんと仕事をしながら、神秘体験に出会っており、その点は働いてない私は頭が下がる。もし、日本経済の失速がなければ、今ごろは、立派な博士にすらなられていたのではないか。ただ、日本経済の失速さえも、あとがきに見るように、鈴村氏がこのような本を書くにいたるための、巨大な恩寵だったのかもしれないが。
JRF2024/6/168165
……。
この「ひとこと」でも引用するように↓という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中でもある。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2024/6/163686
ここでオープンに言うのは少しはばかれることだが…。この発売の際、鈴村氏が代表をしているらしい神秘主義研究協会(以前は CMRA OFFICIAL/キリスト教神秘主義研究協会 だったはず)(X: @Situations01)さんにも献本するため BOOTH の献本 URL を送ったのだが、なぜか、URL を間違って送ってしまった。そういうのは @Situations01 さん宛だけなので不思議なのだが…。
JRF2024/6/164440
《JRF:X:2023-01-09》
https://x.com/jion_rockford/status/1744716235265482756
>DM で献本後、フォロワーのままだけど、DM はブロックされてしまった方がおひとかたいました。それに気付いたのは送った BOOTH の URL の間違いがその方のみあったのに気付いたからです。もし、URL が不達だったので、ブロックしたのでしたら、URL を送り直します。よろしくお願いします。
JRF2024/6/167143
具体的には BOOTH の URL の最後に /edit が付いた私用のアドレスを渡してしまいました。ブラウザで /edit を削除するだけで到達するアドレスになるはずです。
<
もう献本分は「回収」したので、今でもこの「ひとこと」などに気付いて、窓口を開いて声をかけていただければ、いつでも献本しなおします。お気軽におこえがけください。
JRF2024/6/164993
……。
あと、私は↓という小説も書いている。
『神々のための黙示録 第二版』(JRF 著, カクヨム, 2016年6月)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881248563 (無料)
https://j-rockford.booth.pm/items/4514877 (有料)
そこでは、神の国は意図的に描かず、ただの異世界のように「地獄」を描いている。基本的に私はバシレイア(「神の国」の意)に達した鈴村氏と違い、自分は地獄往きだと思っている。地獄をなんとかするのが私の役目のように思っている部分もあるかもしれない。
JRF2024/6/169308
……。
では、いつも通り引用しながらコメントしていく。今回の本は発売したばかりなので、業務妨害的に見られるおそれもわずかにある。ここを読んで少しでも興味を持たれた方はぜひこの本を買っていただきたい。
JRF2024/6/164782
……。
>三十七歳という私の年齢は、史的イエスが召されたと想定される年齢よりもすでに年上である。私の神秘体験の意味を最も適切な形式で後世に残しておくべき時期は、まさに今でなければならないのだ。<(p.7)
人類の本来の寿命は 38年という説がある。私は若いころは 35 才には死んでるだろうと思っていた。
《生物の寿命はDNAに書き込まれている。それによると人間の寿命は38年|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト》
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/12/dna38.php
JRF2024/6/169513
今、私は 50才を過ぎて、若いころを振り返ると、若いころのほうが書いたものは少ないが、「真理」に近かったように思う。
『宗教学雑考集 第0.8版』《魔境》
>若いころの真実は真実で、年老いてからそれを否定しがちだが、それはいけない。若いときの真実はやはりものすごい真実なのだ。鈍麻していく中で、それを否定するのはよくないことだと思う。<
JRF2024/6/160964
……。
>精神医学の観点からすれば、私の当時の心理状態が分析の対象になって当然であろうし、幻覚や妄想の観点から私が見た世界が解釈されたとしても、私はいささかも反論するつもりはないのである。それどころか科学的・医学的・心理学的な諸々の解釈は、このような体験の持つ内容を多角的に分析するために必要な方法論である。現代の神秘主義者は中世の神秘主義者が持ち得なかったそのような解釈項を再検討し、新たな内省の素材として積極的に活用する必要があるだろう。<(p.8)
JRF2024/6/168346
上でベルクソン『二源泉』について、精神病や狂気という言葉を使ったが、それは神秘主義の本の作者には失礼かとちょっとためらったのだが、この部分を読んで、現代の神秘主義者はそういうのをすでに乗り超えているんだな…と理解した。この辺は、普通はそうはいかず、この著者にカトリック神学の学があるからということもあるのかもしれない。
JRF2024/6/162869
……。
神は、メッセージを受け取るものの言語で伝える。同じように…。
>たとえ懐疑論者が、本書で報告されるキリストに対して「哲学者キリスト」や「科学者キリスト」を見出したとしても、それは二十一世紀前半を生きる現代人が理解しやすい形式を神御自身が選択された結果として受け止めることもできるだろう。<(p.12)
最後の預言者性などの問題があり「神の啓示」そのものはないのかもしれないが、特にカトリックでは、奇跡を認め、そこに神のメッセージの現れを見る。だからこそ著者はカトリックに導かれたということのようだ。
JRF2024/6/163655
……。
>ウィリアム・ジェイムズが『宗教的経験の諸相』において報告している数多くの神秘体験の事例<(p.14)
W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』は、最近 [cocolog:94838245] と [cocolog:94838275] で読んだ。
[cocolog:94838245](2024年5月)
>W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んだ。宗教を医学的唯物論で説明するのを否定する文脈で、自己犠牲とは、「親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したもの」という記述にハッとした。<
JRF2024/6/168984
……。
>この純粋現在(pure present)に立つ者こそが永遠の認識者なのです。<(p.46)
ここで著者が高校時代にかぶれていたニーチェの「永劫回帰」を私は思い浮かべた。
JRF2024/6/164619
……。
>まさに悪とは、人間同士の絶え間ない比較(comparison)によって生み出されているのです。戦争の本質も、企業の腐敗も、すべてその根にはこの拭い去れないほどに強烈な他者との競争意識があります。<(p.50)
いや、それ以外に例えば、「無関心」などは人間の罪になるのではないか。競争意識に極言するのは言い過ぎのように思う。
ただ、私も似たようなことを述べる。
JRF2024/6/167606
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<
JRF2024/6/162781
……。
>誰か見知らぬ人が非日常的で特別な体験をしたところで、現代のメディアはそれを面白おかしくオカルトニュースにして消費することしかできないだろう。こうしてバシレイア体験の持つ啓示的意味は平均的な不思議体験の一種として受け取られ、最悪の場合には経験した本人自身がその体験の神的本質に無自覚なまま緩やかに忘却してしまうという事態さえ起きてしまう。<(p.52)
私の統合失調症での「妄想体験」。今ではすっかり忘れてしまった。いろいろ書き残してはあるが、逆に書き残したがゆえに、忘れてよいとして忘れている部分もあるように思う。
JRF2024/6/167932
……。
イエスは実父を早く亡くしたと表現される。その実父が神のことなのかどうかははっきりしない。しかし、人や動物の関係において、「包摂」の感覚は、離れさらに不在になったとき、より強くなる。同様に神は不在となることで、むしろ「包摂」を強くしたのだ…ということらしい。
>イエスと失われた実父の関係から明らかになるのは、対象が不在化することで包摂関係はより完全なものになるという点である。イエスの場合、実父を亡くしていたからこそ失われたものとしてのアッバが回帰したのであり、神との相互包摂関係がいっそう強化されたのだ。<(p.61)
JRF2024/6/161416
『宗教学雑考集 第0.8版』《聖霊と撤退する愛》でも紹介した、「神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた」というモルトマンの思想を思い出した。なぜ収縮したのか今いち私はわからなかったが、神の不在により人を包摂し愛を深めるためであったということか。
JRF2024/6/163805
……。
>「そう、たとえ教えがそれぞれ違っていても、真理はただ一つであり、すべての宗教はこの真理を指し示しているのだということをけして忘れないでください。(…)大切なことは、真理は一つでも、その表現は無数にあるということです。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、アニミズム、その他のどんな少数派の宗教であれ、それらは互いに共存でき、調和し合えます。なぜなら本質は一つであり、真理は調和(harmony)にこそあるからです。(…)」<(p.79)
JRF2024/6/167445
いや、真理が一つなのではなく、あくまでも共有している世界が一つというだけのことだ。私もほぼ真理が一つと信じているが、論理的には、別の真理を究極的には抱いている可能性は開いておかねばならない。そういう違いを超えて、共存しなければならないのだ。人間の限られた思考で、そこを間違って無理に一つと解釈するのは、危険な導きだと思う。
JRF2024/6/163186
……。
>地獄に落とされた霊魂でも、生前に犯したみずからの過ちを十分に認め、後悔し、責苦に耐えながら償いを行い、神との和解を求めるならば、煉獄への道が開かれます。<(p.93)
今のカトリックはここまで言っていいのだろうか? 私はそうあって欲しいと願うし、小説『神々のための黙示録』で示した方向はそうだったのだけれども。
JRF2024/6/163333
……。
>究極的には、死後の霊魂は例外なくバシレイアに到達し、神の本質へと自己還帰します。異なるのはそれに費やす霊的な時間なのです。地獄から途方もない苦難を経てバシレイアへ向かうか、それとも死後ただちに神の聖なる愛と永遠に一つに結ばれるかは、ひとえに生前の生き方にかかっているのです。<(p.96)
どこかに書いたはずだが忘れた。プロテスタントの予定説が、結局、すべての人は実は救われるよう予定されている…というものである可能性はあると思う。そうでなければあなたの考えは…。…ということを書いたのは最近のはずだが見つからない。
JRF2024/6/168553
……。
>父・子・聖霊という聖三位一体が男性への性分化に傾斜した神の本質の表現であるとすれば、それに対応する女性的な聖三位一体が存在しなければならないことになります。これこそ、男性的なロゴスに対する女性的なソフィアの原理なのです。この原理は母・子・聖霊として表現され、母と子の位格にはそれぞれソフィアとマリアが対応しています。<(p.99)
これはユダヤ教の神秘思想・カバラ思想に近いのではないか。Raphael Patai『The Hebrew Goddess』を読んだ [cocolog:85220789](2016年5月) を思い出す。
JRF2024/6/169459
……。
>実に、このような多元主義や平等主義の名のもとに現代世界に蔓延しているのが、認識論的相対主義(epistemic relativism)という誤った思考方法なのです。認識論的相対主義はすべての主張をフラット化しているかのように振る舞いますが、実際には相対主義というこの自分たちの見方を特権化しています。<(p.118)
これは真理への無関心ということで、上で述べた無関心の罪に近いものではないのか。
それはそれとして、シンクレティストの私は相対主義の一種とされるんだろうな。悲しい。でも、そのおかげで罪がないと見られるなら、そのほうがマシなのかも。
JRF2024/6/168560
……。
>偶然性と必然性という様相的な二項対立<(p.124)
私の↓を思い出す。
『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム カルマと偶然》
>仏教的業がどこまでも付いてまわるというのは、「偶然」を認めず、すべて「必然」とある意味考えるからそうなるのではないか。業が善にも悪にも報いうるのは、「必然」の高度な対称性があるからで、その対称性がときに「偶然」があるように装っている。…と? 光と闇が必然的な対称としてあるとしても、右に行く光と左に行く光も対称性がある。
JRF2024/6/161017
そういったものが複雑に絡み合うと「偶然」ができるということなのか。複雑に絡み合いうるというところに「偶然」があるのか。それとも複雑に絡み合うのを観測したものにある「偶然」は真実であるのか。それどころか「偶然」がそもそも本質を持つのか?
偶然が本質なら、因果応報の「必然」をそれほど追わず、カルマを「偶然」のついえる今生で終わらせても問題ないのではないか?
<
JRF2024/6/160553
……。
>思弁<(p.124)
「弁証法」について語られているはず。ただ、その言葉はここでは使わないようだ。ちなみに、著者は、ヘーゲルに関する本も書いていて、その原稿が PC のクラッシュで失われたらしい。
JRF2024/6/162407
……。
>(…神がお創りされる…)記憶の場 (place of memory)<(p.90)
>もちろん霊魂も地上と同じように霊的身体を持ち<(p.136)
直近のベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189])のときに引用した『宗教学雑考集 第0.8版』《魂の座》の「神の記憶モデル」と「霊的肉体モデル」を思い出した。非常に似た言葉づかいが今のカトリックにはあるのか。
というより、おそらく私が昔、神学の本を読むなどして、その言葉を知って使い出したということなんだろうな。
JRF2024/6/160909
……。
著者は、この本をまさに書くために神託を受けてきたようだ。
>「(…)つまり、真のバシレイア的共同体は私の啓示を書き留めたこの『バシレイア』によって始まるのです。メシア的機能が失われた今のこの不穏な時代だからこそ、私は現代に相応しい人の子であるあなたを選び、新たな不滅の聖典であるこの『バシレイア』を世に送ったのです。(…)」<(p.155)
JRF2024/6/161110
ほとんど新しい宗教を別に創始するかのような勢いである。極めて異端に近く見えるこのような動きも、しかし、カトリックの伝統からすれば、かつての修道院の運動のように、その内部に留まるものなのだろう。これを内部に取り込めているのが、神秘主義としてのキリスト教の伝統の強さなのだろう。
JRF2024/6/165982
『バシレイア - 思弁的神秘主義の理論と実践』(鈴村 智久 著, デザインエッグ社, 2024年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/481504323X
JRF2024/6/166990