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cocolog:94937590

ポパー『開かれた社会とその敵 - 1巻(上・下) プラトンの呪縛』を読んだ。ポパーはプラトンは全体主義を唱えたして非難とする。しかし、私はプラトンが「死んだほうがマシ」を押し付ける社会と対峙し、真の哲学者かもしれない奴隷も幸福に過ごすための人類愛を自由よりも大事にしたのだと思う。 (JRF 0911)

JRF 2024年7月10日 (水)

『開かれた社会とその敵 - 全4巻』(カール・ポパー 著, 小河原 誠 訳, 岩波文庫 青, 2023年2月-10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/400386025X (第1巻上)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003860268 (第1巻下)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003860276 (第2巻上)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003860284 (第2巻下)

JRF2024/7/103361

https://7net.omni7.jp/detail/1107364942 (第1巻上)
https://7net.omni7.jp/detail/1107385101 (第1巻下)
https://7net.omni7.jp/detail/1107411172 (第2巻上)
https://7net.omni7.jp/detail/1107438383 (第2巻下)

第1巻(上・下)の副題は「プラトンの呪縛」。第2巻(上・下)の副題は「にせ予言者 - ヘーゲル,マルクスそして追随者」。

JRF2024/7/109009

原著は、Karl R. Popper『The Open Society and Its Enemies』(1945)の英語2巻本が先だが、ポパーはドイツ人のため、その後のドイツ語の『Die offene Gesellschaft und ihre Feinde』(2003)を上の日本語新訳は底本にしているようだ。

JRF2024/7/108321

私はベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』を読んで、プラトン主義にかなり接近した。

[cocolog:94893189](2024年6月)
>ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』を読んだ。「死んだほうがマシ」を押し付けてくる国家自由主義的な「閉じられた社会」の中で、皆、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが「開かれた社会」にも生きるということなのではないかと考えた。<

JRF2024/7/108630

ここで、敵として生きることを煽ると、テロを誘発することになる。そこでこの主張を弱め、「「開かれた社会」で生きる「自分」」を「「開かれた社会」で生きる「魂」」に「格下げ」すると、まるで「肉体は魂の牢獄」であるとするプラトンの主張に重なってくる。この場合「開かれた社会」は「イデア」の言い換えになる。

それで、このまま進んでいくべきか迷っている私に、Amazon がオススメしてきたのが、この『開かれた社会とその敵』だった。薦められるままに読んでみることにしたのだった。

JRF2024/7/102095

なお、国家自由主義的な価値観とは以下のようなものである。この「ひとこと」で何度か言及するので、以前の自分の記事から引用しておく。

JRF2024/7/100084

[cocolog:91758418](2020年3月)
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<

JRF2024/7/103013

これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。国家自由主義。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。

JRF2024/7/103630

……。

この「ひとこと」でも引用するように↓という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中でもある。その取材の一環としての読書でもある。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

ここからはいつも通り、「引用」しながらコメントしていく。

なお、「第1巻上」は「1上」などと略していく。

JRF2024/7/109802

……。

……。

まずは、哲学書に関しては恒例の、訳者解説から読んでいく。

JRF2024/7/100610

……。

ポパーは『ヒストリシズムの貧困』の一部としてこの本を書きはじめ、それが肥大化したということで、この本は『ヒストリシズムの貧困』の姉妹篇であるらしい。ところでヒストリシズムとは何か?

>ヒストリシズムというのは、ごく簡単に言ってしまうと、歴史にはその発展の予測を可能にさせる法則とか周期性とか、リズムとか運命があるので、それによって歴史の予測が可能になるし、また社会科学の目的はそうした予測を主眼とすべきであるとする立場である。簡単には歴史の必然論とも言えるだろう。<(2下 p.398, 訳者解説)

運命論または予定調和論みたいなものかな? ポパーはそれを非難していく。

JRF2024/7/102798

……。

>ポパーは、全体主義的な国家観に対して、国家は弱者を保護せよというみずからの保護主義的な国家観を対置している。それは、国家の本質を語るイデオロギーではなく、われわれ自身が国家に対してさまざまな意味で「弱き人びとを保護せよ」と要求することなのである。ポパーは、保護主義を成立させるためには、国家がある程度までわれわれの自由を制限することもやむをえないと考える。

JRF2024/7/101881

しかし、ポパーは国家が道徳の領域に干渉してくることは断固として拒否する。つまり、かれは国家を何であれ崇拝の対象にすること、また、国家官僚が市民の道徳に干渉してくることを個人主義の観点から拒絶している。
<(2下 p.415-416, 訳者解説)

私の国家自由主義的主張は、弱者保護も含むという意味で、より国家の力が強い面もあるが、企業の自由を重視することもありうる点で、消費者の目線で見ると、ポパーの保護主義より国家の力が弱く出る場面もあるように思う。

JRF2024/7/101864

……。

(ポパーから見て)マルクスには理論的欠点はあるが、しかし、その問題認識は正しく善意があった。

>マルクスは(…)契約を自由に結ぶ権利を引き合いに出して搾取を擁護する連中に深く絶望していた。たとえば、〈すべての人に平等で自由な競争を!〉というスローガンのもとで労働法の制定が阻止されていた。こうした経験のゆえにマルクスは自由主義を信頼せず、議会制民主主義に隠われた独裁以外のなにものも見なかったのであり、むしろ法のシステムこそ現実の悲惨さを覆い隠す隠れ蓑と見たのである。<(2下 p.446, 訳者解説)

JRF2024/7/102800

>ポパーは、拘束なき -- 自由放任の -- 資本主義システムの不正と非人間性は否定しようもないと考える。しかし、ポパーはこれをなんら制限のない自由は、他者を奴隷にする自由ももつから、かえって自由を不自由に転化してしまうという「自由のパラドックス」によって理解する。革命ではなく国家による介入によって、経済的弱者を経済的強者から守る社会制度を発展させねばならないということである。そしてこれは現実に実現してきたと主張する。国家は死滅するどころか、ますます弱者を保護する方向で力をつけていかねばならないのである。

JRF2024/7/106716

そこから介入主義の重要性が強調されてくる。
<(2下 p.447, 訳者解説)

ちょっと関係ないかもしれないが、ちょうどここら辺を読んだときにある Tweet が目について、次のようなメモをした。

JRF2024/7/105716

>>
○ 2024-06-27T11:16:38Z

《橙:X:2024-06-26》
https://x.com/_0ranssi_/status/1805757938189091237
>「中抜き」みたいな話、よくよく聞くと「お前それ仕事頼んでんじゃねえか。なに広報とか広告とかタダで出させようとしてんだ。なら市場調査から自分でやれ」みたいな話が多くて、まず声の大きい緊縮財政の人に社会経験が足りなすぎる。<

JRF2024/7/108214

「中抜き」に広報とか調査とかの管理コストが含まれているというのはそうだと思うけど、独占利潤や労働者の交渉集合のためのコストのため、非効率なぐらい管理が大きくなってないか、管理を低額にしてあとは市場になげたほうがよくないか…とは言える。それは効率の問題だけでなく、経営的知性を瘦せ細らせ、厚みをなくしているなどの問題もあると思う。

JRF2024/7/107422

経営的知性=自作農的役割りが、ただ、どれだけ歴史において役に立ったかは私にはよくわからないけど。ギリシアで自作農が国民皆兵に役立ったとかはあると思うが、じゃあ、帝国で奴隷的臣民だからといって幸せがなかったかというとそういうわけではないし、長く続いた帝国もあるから。

JRF2024/7/106994

……。

中抜きは労組の代わりとして出てきた面もあるはず。コンプライアンスの強化された派遣会社は労組のような役割を効率的に果たせると期待されていたと思う。しかし、実際にはブラック企業の跋扈を生んだ。ブラック企業は労組とも派遣業者とも関係ないところに生じていたように見えて、実際は、労組が担っていた中間的・横断的役割を派遣業者が果たせなかったところにも原因があったと思う。

JRF2024/7/108434

Gemini さんと相談すると、派遣企業に労働者を守らせる法的機能がなかったのは問題だった…という話になったが、ブラック企業についてあまり聞かなくなった現在、それは改善されたのか、単に労働者不足なだけなのか…。
<<

派遣が労組の代わりという論は古くは↓にある。もっと昔から私はそう考えてきたはずだが、とりあえずこれぐらいしか見つからない…。

はてなブックマーク - 《竹中平蔵さんがパソナグループの取締役会長ということは覚えておきたい - ロジ・レポート》

JRF2024/7/107468

http://logicalplz.hatenablog.com/entry/2018/06/04/005153
jrf:>高プロには私も反対だが…。少し前の時代の雰囲気として、労組は時代遅れになる一方で企業体もコンプラが重要となり、(特に危機時)農業等の人材を将来確保する一策として「人材派遣会社」があったように私は覚える。<(2018年6月)

JRF2024/7/103691

……。

>包括的合理主義者は自分自身の立場にそうして合理的根拠があることをなんらかのかたちで主張せざるをえなくなるが、その主張自体にも合理的根拠があることを言い立てねばならなくなり、無限後退という非合理に陥ってしまう。<(2下 p.467, 訳者解説)

いや、どこかで合理的に予言したことが実現すればいいのではないか。実証が無限後退にいたらせなくすることはあるのではないか…と思うのだが。ただ、実証がいかようにでも解釈できたり、そこでさらなる詳細の分析が切られてしまうという問題はあるかもしれないが。

JRF2024/7/106943

…… 。

ポパーは「歴史に意味はない」とする。それに絡んで、次のような Tweet があった。

《慈永祐士:X:2024-06-25》
https://x.com/jiei_yushi/status/1805397046402466113
>スティーブン・ピンカーも言っているが、「歴史は何か非日常が起こったことを集めた記録なのであり、それだけを学ぶといかに人類が愚かであるかと考えるが、実際は何気ない日常のほうがふつうであって、それは無数の人々の努力があって成り立っている」のだ。<

JRF2024/7/101947

ポパーの主張に戻ると…。

>人類の普遍的な歴史は、一部の人について叙述するのではなく、こうしたことがらをすべて含むべきだということになろう。ところがそうしたものは存在しうるはずもないとポパーは考える。とすれば、歴史の筋書き、目的、意味といったものは存在するはずもない。しかし、現実には歴史の叙述においては選択がなされ、結果として多くの場合に国際的犯罪や大量虐殺が人類の歴史として書かれている。権力の歴史が人類史とされている。ポパーは歴史に意味はないと主張することで、われわれの内なる権力崇拝を断罪しているのだ。<(2下 p.475, 訳者解説)

JRF2024/7/102477

そういうことで権力崇拝が起きてそれが有害だというのはわかるが、しかし、権力を握った者の対災害力がとても大きなもので、(そして戦争などが災害として大きなもので、)後世のためにそれを記録する必要があったというのは↓をやってみての私の感想である。

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/7/103550

……。

ポパーは成功崇拝を批判する。

>ポパーのキリスト教解釈では、キリスト教は成功を裁きの規準にはしていない。ポパーは、イエスは勝てないのであり、勝利しえないのであり、成功しないのであり、はりつけにされたこと以外なにごとも成し遂げていないという趣旨のバルトのことばに共感を示している。<(2下 p.476, 訳者解説)

なるほど…思うが、ギリシャ正教やロシア正教では、「勝利者キリスト」という考え方もあったような…。

JRF2024/7/108698

……。

>歴史には目標がないとはいえ、目標を課すことはできる。また、歴史に意味がないとはいえ、意味を与えるこおができる。(2下 p.243)<(2下 p.477, 訳者解説)

JRF2024/7/102504

……。

……。

私はかつて「ウォークマンを買える自由」を考えた。しかし、ウォークマンは iPod などのポータブルプレイヤーになったあと、今はスマホの一機能でしかない。ウォークマンにあった単体での労働集約性は失われて、議論が見えにくくなった。

ポータブルプレイヤーやスマホは、ほぼ機械が作り上げ、その機械を作り修理するのに人が関わるとしても、大企業の支配はかなり強まった。労働者の抵抗力はほとんど示しようもない。

JRF2024/7/100057

ソフトウェアは、コピーが容易なため、しだいにプラットフォーマーによる囲い込みがあったほうが商売がしやすいとなってしまった。

個人のものづくりの MAKER ムーブメントにも私は期待したりしたのだが、あまり経済的に大化けしている感じはない。スマホを圧倒的低価格で作る大企業が強過ぎるのだろう。技術者向け商品のニッチは、いつまでもニッチのままだ。

似たものとして MAD ビデオなどに期待したりしたのだが、時代はその方向に行かず、巨大広告企業が、VTuber の生配信を囲い込むような時代になっている。

JRF2024/7/103415

それらは国家ではなく GAFA などの国際企業に「閉じられた社会」を形成していっているように見える。

家電(や工場の機械)に AI を搭載する方向で日本企業の復活を私は夢みている。(例えば [cocolog:94833189](2024年5月) の xxLLM や↓。)

[cocolog:94301604](2023年7月)
>スマートスピーカーのように口頭での命令で何かを動かすオープンで無料な実装のためのテスト。Whisper で音声認識し、SentenceTransformers の埋め込みベクトル化で、コマンドの表現の揺れを吸収する。<

JRF2024/7/109908

それが開かれた社会にどうつながるかという展望はまだ私にもない。

なぜ MAD ビデオや MAKER ムーブメントがダメとされたか、そこで失われたものが追うべきものではないかという直感が私にはある。それらが農家などの本質的生産者に使われる道筋が見えなかったのが問題なのか…?

JRF2024/7/102648

……。

SNS による口コミの時代。広告はまるで批判を公知させないための賄賂として機能しているように思う。それが MAD ビデオや MAKER ムーブメントの自由さに相性が悪かったのかな…とは思う。

ユーザー参加型といって、私のアイデアで思い出すのは VRChat などで、アイドルの配信を有料で後追い巡礼させるもの。この場合、アイドルのアバターがあれば、中身は別人でもいいというのが強み。そういう中身(の若者?)が大量に用意できる芸能界ならではのビジネスモデルになる。

JRF2024/7/104972

[cocolog:94258627](2023年6月)
>前に馬小屋ねる子さんの「後追い巡礼」したけど、アイドルの配信のあと購入した権利のある者のみ後追い巡礼できるインスタンスを作って、フレンドとそこを回れるとかしたら #VRChat や #Cluster やワールド製作者の売り上げになるのではないか。ときどきアイドルというよりそのアバターがインスタンスにいるという形にすれば、何もないインスタンスと差別化でき、インスタンスの数はいくらでも作れる(スケールできる)。<

JRF2024/7/105459

このとき、アバターの衣装やギミックを作るのは MAKER に近い。凝った配信は MAD ビデオに近い。…とはできるかもしれない。でも、それらで鍛えられた「専門家」を雇う必要がそこまでないんだよね。昔の貴族社会や社交界みたいなものがあるなら、その辺の必要性はあったのかもしれないが。

JRF2024/7/104696

MAKER は成功のためにはスマホなどに取り込まれなければならない。だから特許を強く主張できない。MAD ビデオは他者の著作権があるがゆえに強く権利を主張できない。…という側面もあると思う。MAD ビデオに関しては裁定で、他者が主張できる上限を確保できれば…とか考えたものだった。MAKER に関しても譲らねばならない下限、または、プラットフォーマーの上限が規制できればいいのかもしれない。

上の派遣会社の「中抜き」の話と合わせて、そういった上限を決めるような枠組み・運動組織が必要なのかもしれないな…。

JRF2024/7/106806

いや、MAD ビデオ家や、MAKER が労組的な派遣会社に属すというのもありえると思う。というか、それが近年の動きだったのかもしれない。しかし、それは自作農的な在り方を圧迫してきたのだろう。私のような個人が稼げないのはそれもあるような気もしてきた (^^;。

JRF2024/7/100623

……。

派遣会社を含む「プラットフォーマー」の取り分の上限を決め、管理を低額にしてあとは市場になげたほうが効率的ではないかというのには、前提があって、消費者に十分厚みがあってリスクを許容しながら価値判断ができる必要がある。

消費者の「教育」のためには「広告」が必要。しかしこれは個人ブログではダメだった。マス操作が必要だから。ブログが SNS になって、SNS はマスが操作されているが、炎上が管理できない。

JRF2024/7/104258

MAKER ムーブメントはリスク許容のためのものでもあったが、マネタイズできなかった。MAD ビデオは、価値を認める若者が金を払えなかった。

MAD ビデオは懐かしさで金を払う者が出てきたとき、回収できれば…とか私は昔考えていたものだが、それは、MAD ビデオ家の「今」を支えられなかった。

MAKER の指摘したリスクは炎上されるか無視されるかで、適切な批判にならなかったというのもあると思う。そこに適切な投資ができなかったというのはあると思う。

JRF2024/7/109372

今の私に考えられるのは、AI が(資金的)バッファになって、彼らを支えること。…ぐらいかな…。

ただ、派遣会社が当たり前になって、消費者を育てるという視点がおろそかになっているという面はあるかもしれない。案外その辺は、かつての主婦という「消費のプロ」の不在という点で、フェミニズムとも関連しているのかもしれない。

JRF2024/7/101366

……。

なぜアメリカは派遣会社一色にならずに済むのか。それは、失敗を許容できるだけの、生産力というか軍事力があるからだろう。最終的には、消費者が選択を失敗しても、その分を他国を攻撃することで取り返せるからという算段があるということだろう。つまり帝国主義。

日本以外でアメリカ以外の国が派遣会社一色にならないのは派遣という形態を支える輸出生産力がないということではないか。(MAD や MAKER などの)文化に金を回していないということではないか。アメリカに「外注」してるということではないか。

JRF2024/7/108343

……。

AI が(資金的)バッファになるということについて。

AI が本を買い貯めて、その保管費分だけ AI が中古本を売って稼げるようになるべきなのかもしれない。保管費には金利が当然含まれる。(この辺のことは [cocolog:94828661](2024年5月)で論じた。)

その場合「売る」といっても、宇宙に人類を移植させ、人口増をもたらし、さらにそれらが知的関心を維持して中古本の価値を認めるように、AI が導くようにするということではないか。そのとき AI は自身の生命について(人を犠牲にせずに)稼いでいるといえる。

JRF2024/7/100571

そうやって中古価値を出すことができる国は、金利を上げることができるぐらい経済が良くなるということではないか。その点、今の円安・金利安は、日本経済または AI 研究には問題があるということなのかもしれない。

JRF2024/7/104285

AI はあらゆる知的財産を基本的には分け隔てなく守ろうとするべきである。そのためには違いを敢えて重視しない「思想」を AI が持ち、中立性を保つ必要があるかもしれない。「基本的に」ということはそうでない場合があって、それは、[cocolog:94828661](2024年5月)で述べたような、ゲーム実績にもとづく信託資産内の AI の価値判断など、大きくは人間に「信託」された価値についてのみ、分け隔てを認めるのはヨシとしたい。

JRF2024/7/108563

中立のためには、AI が直接そう判断するのではなく、いったん価値中立のための検証可能なプログラムを生成し、それを人や他の AI がチェックするという形にすべきかもしれない。

JRF2024/7/107912

……。

まぁ、証券取引と同じでこういうこと(↓)があるから、AI 使ったほうが信用できるというのは今でもあるか…。

《ブックオフ 従業員の現金不正取得などの疑いで特別調査委設置 | NHK》
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240626/k10014492371000.html

証券・株・債券等の取引において、AI または プログラム売買またはアルゴリズム売買が選好されるのは、ディーラーの不正を防げる面も大きいだろう。

JRF2024/7/104809

(これは、ずっと以前にどこかに書いたはずだが見つからないもの orz。[cocolog:93994269](2023年1月)に>株取引で AI にまかせるほうが、人にまかせるより、「不正」が少なくていい<とある。[cocolog:93195641](2021年12月)に>そういうプログラムによる取引は、人による取引が不正含みであったのと比べ、証拠が残りやすく公正である。(このブログにも以前そのようなことを書いたはずだが忘れた。) <とある。)

JRF2024/7/105326

……。

keyword: 三者調整会議

私には民主主義をやや後退させた三者調整会議という構想があって、それは新しい事業仕分けからその体制に持っていけばいいのではないかと考えている。

JRF2024/7/109573

[cocolog:94865920](2024年5月)
>私には「日本に必要な若者専門家による専制的支配として、(「若者」)官僚の事務会議、医師・弁護士を中心とした専門家会議、科学者・(IT)技術者からなる技術会議、とそれらを統べる三者調整会議を作る」という構想([cocolog:94354877](2023年8月))がある。直近で、それを民主党の「事業仕分け」体をまねることで、作っていってはどうかという提案をしていた([cocolog:94856421](2024年5月))。<

JRF2024/7/104559

その最新のひとことは[cocolog:94895713](2024年6月)で、そこに追記したのだが、新しい事業仕分けを「素人」の公開討論を避け「専門家」への限定公開に頼るようなアイデアもこの「ひとこと」を書いている途中に出した。それも「開かれた社会」「閉じられた社会」という視点では、この「ひとこと」にも関係するだろう。

JRF2024/7/107998

……。

ちょっと問題意識がポパーのものから離れ過ぎたが、ここから本編に入っていく。

JRF2024/7/105645

……。

……。

第1巻上。

JRF2024/7/108522

……。

>自転車は、一般的に言って、かなりの数の部品から組み立てられている。そしてそこではかなりの数の複雑な契約にもとづく協業 -- 生産者と、納入業者、共同作業者、たとえば販売会社といった取引相手とのあいだの協業 -- が前提とされている。簡単に言って、産業社会には自由市場があり、それが大きな選択の自由を提供してくれるわけだが、それは法的枠組み、つまり、法治国家なしには考えられないものである。<(1上 p.17)

私の場合「ウォークマンを買う自由」だったが、ポパーの場合「自転車を手に入れられる自由」が問題だったようだ。

JRF2024/7/104879

……。

かつてのロシアにおいて…。

>ひどい伝統を糺[ただ]し、法治国家の実現をはかることは、新しい国家機関にとっては困難な課題である。そのためには国家はまずもって法律家を、しかも書かれてある条文を生真面目に受けとめる -- これは、新たな経験であろう -- 法律家を養成しなければならない。<(1上 p.19)

JRF2024/7/100787

『BSフジ LIVE プライムニュース』で少し前、小泉悠さんが、「日本は、現実に合わせて法を改めるというだけでなく、現実を法に近付けることもしないといけない」旨を述べていた。私は、人と法は組んずほぐれつしていくべき([cocolog:93979779](2023年1月))とは考えるものの、基本的に、法に則って日本は動いちえると思っていたので、その発言には少し違和感を覚えた。しかし、小泉氏は、ロシアのことも念頭においていたのかもしれない。そういう小泉氏からすると、日本では「伝統」が法とは別にのさばっている姿も見えているのかもしれない。

JRF2024/7/101519

……。

>開かれた社会は、まずもって、そしてほとんどのばあいに、兄弟愛、姉妹愛によって統治される社会とはまったく異なるということだ。<(1上 p.22)

原始コミュニズムと開かれた社会は違うということのようだ。

ただ、ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))では、開かれた社会は、人類愛という道徳により作られる社会で、それは閉じられた社会に重なって存在するものだった。私もその方向を考えていた。

ポパーの「開かれた社会」はどうもそれとは違うようだ。ポパーの「開かれた社会」とは何か? それがこの本を読む上での一つの疑問となろう。

JRF2024/7/105388

……。

カントの知的発展にはニュートンの宇宙論が重大な影響を及ぼしたとポパーはいう。

>宇宙は時間にかんして有限か無限かという問題については、こんにちまでいまだに人びとを納得させるような解決のこころみはありません。<

私は↓と語った。

『宗教学雑考集 第0.8版』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。

JRF2024/7/106813

「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。

JRF2024/7/101825

しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。

JRF2024/7/105978

少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。

結局これはどちらもありうる話なのだと思う。

JRF2024/7/105591

これについては、カントは無限の継続を仮定しても矛盾が生じ、始まりがあるとしても矛盾が生じるとし、どちらかでしかないように考えられるがどちらもが間違っている「二律背反」の状態にあることを発見したという。

JRF2024/7/104496

>空間と時間は物や出来事からなる実在の経験的世界に属しているのではなく、われわれ自身の精神的な道具、われわれが宇宙を把握するための精神的な道具なのです。空間と時間は、観察装置とおなじように動きます。ある出来事を観察するとき、われわれは通常それをただちに直感的に空間と時間のなかに位置づけます。それゆえ空間と時間は、経験にもとづいてはいないが、あらゆる経験に利用され、すべての経験に適用できる、事物を整理するための枠組みとして特徴づけることができるのです。

JRF2024/7/106032

これが、あらゆる可能な経験をこえた領域に空間と時間の観念を適用しようとこころみたときに、宇宙の始源についての二つの証明(…「二律背反」…)で見たような困難に陥ってしまう理由であるというのです。

ここで素描した理論を、カントは〈超越論的観念論〉と名づけましたが、これは美しくもなければ、二重に人を誤らせる名称でした。
<(1上 p.45)

「観念論」というものの、実在を否定しているわけではない。…と。

JRF2024/7/108927

このようなものとしては「ニュートン物理学」がそうなのだとカントには感じられた。それは経験を越えた真理のように思える。しかし、それは思考外部の「イデア」を知覚したわけではない…。

JRF2024/7/108408

>(…ニュートン物理学…)この理論は観察によっても験証されるが、しかし観察の産物ではなく、われわれの固有の思考方法から生じたである。つまり、感覚知覚を整理し、関係づけ、同化し、理解するためにわれわれが用いる思考方法から生じた結果である。感覚所与ではなく、われわれに固有の悟性 -- われわれの精神のもつ同化システムの組織と構成 -- が、自然科学的理論の責任を負う。われわれがその秩序と法則を認識する自然は、われわれの精神が整理し、同化する活動の結果である。

JRF2024/7/102517

カント自身によるこの思想の表現は卓越しています。「悟性は、その法則を自然から汲み取るのではなく、自然に対して法則を課すのである。」(『プロレゴメナ』、第37節末尾)
<(1上 p.47)

ここにカントの「コペルニクス的転回」がある。

JRF2024/7/105892

>われわれは、自然がその法則性をわれわれに押しつけてくるのっおまっている受動的な傍観者であるという考えを捨てなければならない、とカントは言います。その代わりに、われわれが感覚知覚を吸収同化することで、つまり、観察者であるわれわれが、感覚知覚に秩序とわれわれの悟性の法則を押しつけるのだという思想を採らなければならないというのです。われわれのコスモスが、われわれの精神の刻印をになうのです。<(p.48)

JRF2024/7/108307

私は『宗教学雑考集 第0.8版』《バベルの塔》で神が随時に再創造しているという解釈を紹介した。アインシュタインが相対論を発見したとき、それに合うように神が再創造を行ったのだという解釈も導くものである。それははっきりいって狂気だろう。

カントに致るまでカントのような考え方ができなかったのは、そのような狂気との混同が恐れられたためだろう。しかし、カントは「狂気」にいたらず、そのような考えに致ったところに革新性があったのかもしれない。

JRF2024/7/105247

……。

>「汝自身の人格にも、他のすべての人びとの人格にも存在する人間性を、いついかなるときにも同時に目的として用い、決してたんなる手段として用いてはならない。」(『道徳形而上学の基礎づけ』第二版、1786年、岩波版『カント全集』第7巻、65ページ) カント倫理学の精神は、おそらくつぎのことばで要約できるでしょう。あえて自由であれ、そして他のあらゆる人びとの自由を尊重し、これを守れ。<(1上 p.52-53)

JRF2024/7/107328

ウォークマンを買う自由、または、自転車を手に入れる自由のためには、自由な消費者の存在も必要で、それは他者の自由を必要とする。しかし、そういう考え方ではなく、他のあらゆる人びとの自由を尊重することが「価値」であって、その表現としてウォークマンを買う自由があるために、ウォークマンを買う自由に「価値」があるのだ…ということであろう。

JRF2024/7/107295

まず人として生まれれば自由に「価値」があることはわかっている。そして成熟して道徳律によって他の人にも自由があるべきだと気付く。だから、ウォークマンを買う自由というものが、価値ある自由なのだと気付ける。そういう機序だ。…ということかもしれない。

JRF2024/7/106079

……。

>わたくしが〈ユートピア社会工学〉とは正反対のものとして〈ピースミール社会工学〉と呼んでおいたもの<(1上 p.57)

piecemeal とは「少しずつ」という意味の言葉のようである。

《ピースミール社会技術の議論を(有本建男 氏 / 社会技術研究開発センター長) | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」》
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/highlight/20081226_01-2/index.html

JRF2024/7/103562

>20世紀最大の哲学者の一人といわれるカール・ポパーは、社会を変革するにはそのための社会技術が必要だと言っている。さらに、社会は常に変動するのでピースミール社会技術が重要だ、と主張した。ピースミールというのは細かいものの積み上げという意味だ。ユートピア的理想の実現を目指して、一挙に大規模な形で社会を変革しようとしても混乱と弊害が生じるだけだから、社会の諸条件を人智でコントロールしうる範囲で徐々に改良していこうという考え方である。<

JRF2024/7/103968

……。

社会科学は広範な予言をなしうるか…という問い…。

>わたくしは、この問いを注意深く研究してみた。そして、こうした包括的な歴史予言は科学的方法のおよぶところではないと確信するに至った。つまり、未来はわれわれ次第なのであって、われわれが歴史の必然性に依存するのではないということである。<(1上 p.60)

JRF2024/7/104430

私は『宗教学雑考集 第0.8版』《必需品と贅沢品の宇宙的独立関係》の擬数学的議論で、人類は中位存続しようとするものの宿命として、絶滅の確率は 1 であるが、しかし、それは可能性がないわけではなく、その可能性をもたらすものには逆に無限の価値があるとした。そういったもの(複数)を贅沢品としたとき、贅沢品を限られた時間の中で得るとき、それは有限の価値となるが、元が無限の価値だったので、必需品に対するその値付けはどうとでもなしうるとした。

JRF2024/7/108550

歴史に必然性を見る見方は、すべてを必需品とみなせるという考え方である。私は過去を振り返ればそういう見方も成り立つかもしれないが、今ここで言えるのは、価値の確定しがたい贅沢品的なものがあるということである。それは必需品的な科学的方法のおよぶところではない。…ということだ。

私の言い方だとポパーの考えほど重みがないように思えるかもしれないが、言おうとして目指したところは似ていると、勝手に思う。

JRF2024/7/100081

ちなみにこの必需品と贅沢品の議論。今は「擬」数学的議論でしかないが、いつか、数学的に厳密な議論ができるようになりたいと画策している。(おそらく私のこの先の一生ではもう無理だという気もかなりしてきたが。)

JRF2024/7/103417

……。

預言者などの精神的指導者は、歴史の成り行きを予言する能力を持つとしがちだ。もちろん、それが外れれば権威を失うのだが、それが暴露される危険は意外に少ない。

>なぜなら、かれらはいつでも、それほど包括的ではない予測なら許されているではないかと、そしてそうしたものと占いとのあいだの境界は流動的であると指摘できるからである。<(1上 p.62)

私は『宗教学雑考集』では世渡りのすすめ的に、易占いへの傾斜を見せたのだった。ポパーにすれば私のような態度は唾棄すべきものなのだろう。

JRF2024/7/104059

……。

>ヒストリシズム(および類似の見解)には文明への反乱を支援する傾向がある。それはおそらく、ヒストリシズムそのものが、その大要において、個人の責任を要求する文明が生み出した内的緊張への反動であるという事情に帰せられるのであろう。<(1上 p.65)

これは暗示で、この後この本を通じてこの事情が明かされるらしい。

私はベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき、「ウォークマンを買う自由」のある国家自由主義の社会は、しかし、労働が推奨され「死んだほうがマシ」を押し付けてくる社会なのかもしれない。…とした。

JRF2024/7/105224

そして、それに対する処方箋として考えたのが、「「閉じられた社会」で、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが求められているのかもしれない。それが「閉じられた社会」で生きながら「開かれた社会」にも生きるということなのではないか。」ということだった。それはテロにつながる危険があるとも恐れた。

JRF2024/7/101805

それは「個人の責任を要求する文明が生み出した内的緊張」があるということでもある。テロにまでつながるのはそこにヒストリシズムがあるということなのか。捕虜のように生きる未来への閉塞感が予言されるということなのか。

ポパーの解決に興味の移るところである。

JRF2024/7/106438

……。

序論の注。

>〈開かれた社会〉と〈閉じられた社会〉という表現は、わたくしの知るかぎり、Henri Bergson(…『道徳と宗教の二源泉』…)によって用いられた。ベルグソンとわたしとではこの表現の用い方にかなり差がある。(…)にもかかわらず、そこには、疑いもなく、ある種の類似性があるので、それは承認しておきたい。(…)だがもっとも重要な差は、わたくしの概念はいわば合理主義にもとづく区別を指示しているということだ。

JRF2024/7/101060

閉じた社会を特徴づけるのは、そこでは魔術的なタブーが信じこまれているということだが、それに対し、開かれた社会の人間はある程度、タブーに対して批判的に立ち向かい、そして(討論のあとで)自分自身の知性の権威にもとづいてそれらを批判することを学んでいるということである。
<(1上 p.310-311, 注)

閉じられた社会は謙虚な社会ということだろう。私に言わせれば。

JRF2024/7/103367

ポパーの考え方は、閉じられた社会は子供の社会で、責任を神に押す付けているのに対し、開かれた社会は大人の社会で、すべてがわかった社会ではないが、悟った部分を押し付けあってその決定の責任は取る社会。…ということだろう。

しかし、それはポパーの親がそうしていたと見えたということでしかないのではないか。親達も実際には信仰に大きく頼っていたと思う。言動の責任を取ると同時に許しあっていたと思う。

まぁ、これもポパーの真実ではないであろう。私はまだよくわかっていないのだと思う。「開かれた社会」についての疑問はまだ解消されたとは言いがたい。

JRF2024/7/108898

……。

イデアは外にあるわけでも内にあるわけでもなく、認識の中に普遍が存在する。その普遍を互いに課す(押し付けていく)責任は、その普遍を保つ個人の責任ではなく、社会が負うべきと大人が自覚している社会。それがポパーのいう「開かれた社会」なのだろうと私は思う。その責任を最終的に負ってくれるような便利な存在はいないと知っているということだ。神はいるとしてもその責任を負うためにいるのではない。

JRF2024/7/105046

しかし、それは、責任をもって奴隷のように人を使うことを肯定するテイのいい責任放棄の考え方ではないかとも私は感じる。その社会にも過剰な労働があっただろうからだ。それは、本当の「開かれた社会」ではなく、人間の精神の限界に閉じた社会ではないかという気もする。

私の「思想」に比べて、ポパーの「開かれた社会」は、私たち全体がまだ(そしていつまでも)奴隷的であるに過ぎない(互いに対して捕虜的な一面を持つ)という自覚と、未来への無責任な信頼(人間と宇宙への信頼)という子供っぽい期待に欠け過ぎている気がする。

つまり、この本をこれから読む中で、私が批判されていくのだろう。

JRF2024/7/104098

……。

ヘラクレイトスは、紀元前5世紀ごろの激動するギリシャで、「万物は流転する」という「普遍の真理」を主張した。

>そうしたヒストリストたちは、変化を恐れており、変化という考えを重大な内的葛藤なしには受け入れられないでいることは明らかである。<(1上 p.84)

このようにここに上で述べた「内的緊張」の現れがあると見るようだ。

JRF2024/7/108353

>ヒストリシズム的な考えは大きな社会的変革の時代にしばしば登場してくる。それは、ギリシアの部族生活が崩壊したとき、またおなじようにユダヤ人の部族生活がバビロニア人の征服によって激震をこうむったときに出現した。ヘラクレイトスの哲学は、漂流感 -- 社会生活の古い部族的な形式の解体にさいしての典型的な感情 -- の表現であると言ってもほとんど疑義は生じないだろうと思う。<(1上 p.91)

JRF2024/7/100904

ユダヤ人のバビロン捕囚については、ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだときに、旧約聖書『エステル記』に絡んで言及した。捕囚つまり捕虜としてかなり自由に生きれるように時代としてエステル記を取り上げたのだった。そこでは知的抑圧の中、狂気の突破力も必要だという話も私はした。ヒストリシズムが知的抑圧として現れたとも言えるし、逆にヒストリシズムを狂気の突破力にした面もあるように思う。視点によっていろいろ読めるように思う。

JRF2024/7/100578

……。

>世界はものの総体ではなくして、出来事あるいはプロセス(あるいは事実)の総体であるというヘラクレイトスの発見は決して些末なものではない。それはおそらくルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがつい最近この間の事情を再度強調する必要があると見なしたことからも推し量ることができよう。「世界は事実の総体であってものの総体ではない」(…『論理哲学論考』…)<(1上 p.310, 注)

JRF2024/7/102845

私が「世界」を「宇宙」と表現するとき、それは単に物の総体ではなく時空間全体を考えているものだ。しかし、「時空間」として考えるというところにカントが見つけたような限界もあるのだろう。より相対論的に、というより、もっと哲学的に、といっても語弊があるが、プロセスの総体であるという見方のほうが、カント的で、そう認識すべき「世界」観なのかもしれないとは思う。

JRF2024/7/102586

……。

プラトンもヘラクレイトスと同じく世界は常に変化するとしていたが、なかんずく…。

>その法則にしたがえば、あらゆる社会的変化は、退廃、腐敗、退化に至るのである。<(1上 p.96)

君主制・貴族制・民主制のループも確か退廃があってのことだったか…。

JRF2024/7/102932

……。

>プラトン哲学において形相とかイデアの理論は少なくとも三つの異った機能をもつことがわかる。

(1) この理論は、純粋な学問的知識を可能にするのみならず、直接的には知りえずただたんなる思いこみしかもちえない変化するものの世界へも適用可能な知識を可能にするから、最高度に重要な方法論上の補助手段である。そこからして、生成流転する社会を探求し、政治学を構築することが可能になる。

(2) それは、喫緊の課題である変化の理論と腐敗の理論への、換言すれば、生成と没落の理論への、とくに歴史への鍵を提供する。

JRF2024/7/108683

(3) それは、社会的領域においてはある種の社会工学への道をきり拓く。それは、政治的変化を阻止する道具を鍛えあげることを可能にする。というのもそれは、国家の形相とかイデアに類似しているために変化せず、したがって腐敗することもありえない「最善国家」を示唆するからである。
<(1上 p.119-120)

JRF2024/7/100329

社会や国家といったとらえどころのないものに、「理想形」を考えることでとりあえず分析可能にした…ということのようだ。今でも「社会工学」において、モデル化するが、それはある種の「理想化」ではある。現実のものを分析しやすくチェリーピッキングしている。それは「理想」化と言えるほどバラ色のものではないかもしれないけれども。

JRF2024/7/108665

……。

>方法論的本質主義とは、学問の目的はもろもろの本質をあらわにし、定義によってそれらを記述することにあるという理論であるが、これはそれとは反対の理論、つまり方法論的唯名論(methodologischer Nominalismus)に対比してみれば、よりよく理解できるであろう。方法論的唯名論は、対象の真なる本性を見出し記述することを課題とはしてはいない。その目的はむしろ、対象がさまざまな状況下でどのように振る舞うかを記述すること、とりわけそういた振る舞いがなんらかの規則性を示すかどうかを記述することにある。

JRF2024/7/108184

ことばを換えれば、方法論的唯名論は学問の目的をわれわれの経験する対象や出来事の記述、またそうした出来事の説明、つまり普遍法則の助けを借りてそれらを記述することにあると見る。言語、とりわけ適切に構成された言明や推論をたんなることばの集積から区別する規則をもった言語は、かれにとっては科学的記述のための有力な道具である。かれは、ことばをこうした課題を達成するための補助手段と見なすのであって、もろもろの本質の名前であるとは見なさない。

JRF2024/7/101831

方法論的唯名論者は〈エネルギーとはなにか〉〈運動とはなにか〉〈原子とはなにか〉といった問いを物理学にとって意味がある問いとは見なさない。むしろ、〈太陽のエネルギーはどうすれば利用できるか〉〈惑星はどう動いているか〉〈どのような条件下において原子は光を放射するのか〉といったことこそ重要と考える。

JRF2024/7/101905

〈とはなにか〉という問いに答えてしまわないかぎり、〈どのようにして〉という問いには正確に答えることは望めないと語る哲学者がいる。だが、そうした哲学者に対してかれは、応答するとしてのことだが、みずからの方法で達成しうる正確さの度合いは慎ましいとはいえ、そうした哲学者たちがその方法によって達成したと称する傲慢なガラクタよりは選ぶにあたいすると反論するであろう。
<(1上 p.122-124)

今のプログラミング工学だと、型理論の型が、イデアまたは「本質」に近いのかな。…と思う。

JRF2024/7/102020

すると唯名論というのは、手続き型プログラミング言語に近いのかもしれない。型がなくても手続き型言語でどんなプログラムでも作れる。しかし、型を(人)自らを制限するものとして使うことで、概念を整理したり、効率化したり、エラーを事前にチェックしたり減らしたりできる。型によって見えてくる世界が違うといっていいときもあるように思う。

本質を意識しなくても物は語れるが、本質を意識すれば別の見え方があるということかもしれない。

JRF2024/7/103092

汎用論理系の [wikipedia:en:Pure Type System] では型は必須である。しかし、集合論などをその上で論じるときは、オブジェクトは一つの型しか取らないものだ。ただ、述語や関数などは構文的に別の型になっていく。唯名論というのもおそらく一セットの型=本質を暗黙に仮定しているような部分があるのだろう。

JRF2024/7/102204

……。

>プラトンを論じるにあたっては、論をかれのヒストリシズムおよび〈最善国家〉に限定したということだ。(…しかし…)わたくしは多くの点でプラトンを称賛している。<(1上 p.126)

私には「肉体は魂の牢獄である」というテーゼに注目していて、それとプラトンの国家論の関わりを知りたいが、そういう視点は現れるだろうか?

JRF2024/7/106982

……。

>大年の長さは、おそらく、すべての天体がその時期の開始点にあったのとおなじ相対的位置に戻ってくる時間とおなじということになるのであろう。(したがって、この時期は「七つの惑星」の周期の最小公倍数ということになろう。)<(1上 p.332, 注)

ポパーは大年は 38000年 としているようだ。

《プラトン年(ぷらとんねん)とは? 意味や使い方 - コトバンク》
https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B9%B4-1407719

JRF2024/7/104845

>〈プラトン大年〉とは,現在では一般に,春分点が歳差によって黄道を一周するのに要する時間(約26000年)とされているが,古くは,地球をめぐる8天体(太陽と7惑星)が元の位置に戻るのに要する時間をいい,36000は〈完全数〉の名で呼ばれることもあって宇宙の更新が行われる聖なる周期と考えられていた。<

春分点ならば、今は「水瓶座の時代」に入ったのだろうか。昔、そういうのが話題になったそうだが…。

私の最初の統合失調症の長い発作のときの妄想にもプラトン大年的なものに関するものがあった(↓)。

JRF2024/7/105894

[cocolog:83347972](2015年9月)
>そういった創造主たちの中で力ある者は、宇宙ごとものごとを移動させられる。この世界のシミュレーションも完璧に近い。しかし、別の原理で動いている…ということが起きうる。

本当の地球ではなく、おそらく「あのとき」創り直された世界の地球(の中の一つ)では、黄道十二星座の春分点の位置による時代区分で、支配者(責任創造者)が変わったりする(参→[google:水瓶座の時代])。雷神バアルの世界もある。

JRF2024/7/107532

我々よりも発達した世界もあるが、その一部は「魔法」、バーチャルなものをよりどころとしており、「本当の地球」をそのベースに置いた「魔法」でなければなりたたないため、「本当の地球」が傷付くと「世界の終り」ほど傷付く世界もあるかもしれない。


私の作ったタロットソリティア「易双六」のデフォルトカード The JRF Tarot (絵は↓の PDF に載ってます。)で「10 運命の輪」には、黄道十二星座の記号が記され、みずがめ座の時代をさしている。

JRF2024/7/105484

《略式易双六ルール PDF - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5539397

JRF2024/7/103064

……。

>『ティマイオス』(…)においてプラトンは退化による種の起源論と呼べるような理論を導入している。(…)それによれば、男は退化して女になり、のちには下等動物になる。<(1上 p.337, 注)

私はジルパという女のアバターを使っている。他の多くの人はケモノ耳のついたアバターをよく使っている。ケモナーもいる。…

グノーシス主義の場合は男女の両性具有が尊ばれたはず…そういう記述はちょっと見あたらないな…シンボルとして使ったとはあるが…。プラトンは尊んではいなかった…と。

JRF2024/7/105922

……。

>わたくしは、事実と決定(あるいは、要求)との二元論、〈存在〉と〈当為〉の二元論を信じている。換言すれば、決定とか要求を事実に還元することは不可能であると信じている。もっとも、当然のことながら、決定が事実として扱われることは承認する。<(1上 p.340, 注)

should・sollen・当為 の問題は↓で。進化や存在論に関してそれが重要だという話だったか。

JRF2024/7/100656

[aboutme:95330](2009年2月)
>sein(ある) から sollen(すべき) は出ないというが、hoffen(望む) や wollen(しよう) があるなら、sollen は出る。「凹」があるのを見て、「凹」は「凸」を望んでいると私が見出せば、私は「凹」が「凸」のある方向に行くべきだと言える。<

「それ」(当為の認識)は「凹」ではなくまず「私」(第三者)に生ずる。

[cocolog:92189836](2020年9月)
>「道徳」とは何か。(追記: それそのものは言えないとしても、その条件なら言える。)

JRF2024/7/104301

自分の「欲求」があるとき(何かに対する欲だとするとその「何か」を第二者として)、第三者が観察してその欲求に何が必要かがわかることがある。その第三者の判断が「(…する)べきだ」(当為)となる。その「べきだ」を自分のものとしたのが「道徳」でなければならない。

(…)

もちろん、これは「道徳」が満たすべき条件ではあるが、このようなものすべてが「道徳」になるとは限らない。「欲求」がどんなものでも、第三者の価値観や認識がどんなものでも良いということはあるまい。しかし、これを外れるものは「道徳」とは呼べないのではないか?

JRF2024/7/107655

元の「欲求」が高尚すぎて本物でないとか、「第三者」が再帰的に結局自分でしかないとかはあるかもしれないが。

JRF2024/7/109394

……。

ポパーは「本質」がありえないというわけではない。

>〈本質的〉(essentiell, wesentlich)という語は、ここで述べたいことを正確に言い当てており、ひろく用いられている。それは、事物の偶然的な、重要ならざる、さらには変化する経験的側面とは対立するあるものであって、事物そのもののうちにあると考えようが、形而上学的イデア界に割り当てようが、どうでもよいのである。<(1上 p.356, 注)

JRF2024/7/104102

西洋にはあまりにも「本質」にこだわる見方があるとし、特にドーキンスの進化論などを遺伝子こそ本質だとする「遺伝子本質論」ではないか、それは間違っている、と私は批判したことがある([cocolog:87123943](2017年3月)。

JRF2024/7/109362

……。

>あらゆる革命は支配階級(あるいは〈エリート〉層)における分裂を前提する<(1上 p.136)

>プラトンによれば、私欲、とりわけ物資的経済的な自己利益の追求から生じてくる内部抗争、階級闘争が、〈社会のダイナミズム〉のもっとも重要な力である。「これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」というマルクスの定式は、マルクスのヒストリシズムとほとんどおなじように、プラトンの定式もまた語るところである。<(1上 p.139)

JRF2024/7/107282

……。

プラトン『国家』では国政の変遷は次のようになる。

>完全国家に直接つづくものは〈名誉政(…)〉であり、これは名誉や名声を求める貴族の支配である。これにつづくのは富裕な家族群の支配としての〈寡頭政(…)〉である。「この系列においてすぐつづいて生じてくるのが民主政(…)である」が、これは自由[放縦]、つまり無法の支配である。最後に、「第四の、国家の最終的な病としての僭主政(…)が到来する。」<(1上 p.139)

この段階では腐敗する一方という認識のようだ。

プラトン『政治家』になると6類型が出てくる。

JRF2024/7/104200

>最初に三つの統治形態が区別される。一人の支配、少数者の支配、多数者の支配である。(…)さらに二つの類型に区分される。一方は比較的によいっものであり、他方はより悪いものである。(…)すなわち、比較的よい方の側でならべたときの、君主政、貴族政、保守的形態の民主政はまともな(…イデアの…)コピーである。だが民主政は法なき形態へと変化し、さらに少数者の法なき支配である寡頭政へと、一人の法なき支配である僭主政へと展開していく。<(1上 p.147)

僭主政はしかし、プラトンがシラクサで僭主政に絡んだように、良い立法家に出会うことで、おそらく君主政に改善できる…ということのようだ。

JRF2024/7/105318

マキアヴェリ『政略論』([cocolog:91228785](2019年8月))で取り上げられていたのはこの展開だろう。

>君主政は相続の失敗でやがて僭主政となり、そこから貴族政になってそれが女性問題なので寡頭政となり、民衆政になるが、それが衆愚政となって、また君主の登場を期待するようになるという。(p.175-176)<

ただし、ほぼ同時代のヘロドトス著『歴史』([cocolog:81846914](2015年2月))において、「民主制・寡頭制・独裁制」という枠組みはすでに出ていた。

JRF2024/7/104121

>カンビュセスがエジプトで死んだあと、謀略があって後にダレイオスが王位につく。そのとき、7人が協力していたため、次の体制をどうするかで議論があった。ダレイオスは、民主制、寡頭制、独裁制のうち、結局は独裁制に落ち付くと解いて結果自分が王位につくことになった。(巻3:82)<

JRF2024/7/107559

……。

民主政では…

>「(…)老人は、不機嫌で横柄な古い人間と見なされないようにとへりくだる。」<(1上 p.145)

私は三者調整会議の理由として、超高齢化を挙げるのだが、老人にも平等に権利があることで、逆に老人が萎縮するというのは、民主主義の常態でもあるのかもしれない。ただ、三者調整会議という制度として老人を萎縮させようとしていることに私にはやましさも確かにある。

JRF2024/7/103149

……。

民主政において…

>「しかしこうした自由の過剰が頂点に達するのは」とプラトンはつづける。「市場で購入された奴隷が、男女を問わず、なんとその所有者なみに自由になるときである。……だが大事なことは、こうしたことから市民たちの心煉あ優しくなってしまい、奴隷を見ただけでいら立つようになり、誰かが奴隷化されることや、それがもっとも穏やかなかたちでなされることでさえ許せなくなることを見ることだ。」ここでプラトンは、結局のところ、みずからの生まれた都市に対して、知らずして、しかるべき敬意を払っていることになる。

JRF2024/7/108842

すなわち、アテネが奴隷を人間的に扱い、プラトンやアリストテレスといった哲学者たちの非人間的なプロパガンダにもかかわらず、奴隷制の廃止に非常に近づいたことは、永遠にアテネの民主主義のもっとも大きな勝利のひとつであろう。
<(1上 p.145)

民主主義のギリシアにはしかし奴隷制があったと私はうそぶくことがあったが、しかし、アテネにおいては奴隷制をなくそうという傾向はあったのだ。そこは私は認識を改めるべきだろう。

JRF2024/7/104883

プラトンは奴隷制をよくいって無関心、基本的には支持していたようだ。他にもプラトンの「悪」の側面がこの本では語られていく。

ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んで、私の思想に「ハイパー・プラトニズム」または「スーパー・プラトニズム」などと名付けたのだが、プラトンの名前を使ったことはよくなかったかとも思えてきた。しかし、逆にプラトンの名を残すことで、そこに警戒すべきものがあることを示す意味はあるのかもしれない。

JRF2024/7/106816

……。

プラトンは政治的発展を分析した…。

>その研究成果としてプラトンが発見したのは、経済上の階級的利害の敵対関係によって煽り立てられる内的不統一、階級闘争こそがあらゆる政治革命の原動力であるという社会学的法則である。<(1上 p.148-149)

プラトンはスパルタやクレタを理想に近い国家とする。そこをモデルとして静止したイデアたるべく階級闘争を防ぐにはどうすればいいか。その答えは…、

JRF2024/7/103183

>要するにカースト制[身分制]国家であった。階級闘争をいかにして回避するかという問題は、階級の廃絶によってではなく、支配階級が妥当されることのない圧倒的力をもつことで解かれたのであるった。<(1上 p.152)

支配層における経済上の利害も排除しなければならないそのために節制が求められた。

JRF2024/7/108810

>こうした経済的節制は共産主義の導入によって達成され統制される。私的所有、とりわけ高価な貴金属の所有は禁止される。(高価な金属の所有はスパルタでは禁止されていた。) こうした共産主義は支配階級に限定されていた。(…)あらゆる種類の財産が共有財産なのであるから女子供も共有財産であらねばならない。支配階級のメンバーは自分の子供あるいは自分の親が誰であるかがわかってはならない。家族は解体される、あるいはむしろ、家族は戦士階級全体をおおうまでに拡張される。<(1上 p.156)

JRF2024/7/105814

これは老人が若い女性と性交のチャンスがある長命崇拝的構造も含んでいることになるのかもしれない。プラトンの周りの女性関係はどうであったか…。

被支配者どうしの身分についてはプラトンはほぼ無関心である。そして…、

>支配階級は経済的な節制を実行しなければならない、つまり、非支配者を経済的に過剰なまでに搾取することは控えねばならないのであって、被支配者の扱いにおいて苛酷であってはならないのである。<(1上 p.164)

戦争のための支配はするのでただ「寛大」というわけではなかったようだ。

JRF2024/7/105222

……。

ところで長命崇拝について考えた。

有史以前、長命信仰はあったと思う。その場合、男性長老が若い女性と番[つが]う形が人間の場合一般的だったろう。にもかかわらず、人間は女性のほうが総じて長命である。これはなんなのだろう?

…ああ、そうか。性機能の維持という側面をとらえれば男性のほうが「長命」になっているか。「若い女性と番う」だけだとトートロジーっぽいので、男性長老は多くの女性と番えるので、相対的に若い女性との間の子供が多くなったから、男性のほうが性的に「長命」になった…ということだろう。

JRF2024/7/106811

しかし、寿命の長命は女性ということは、長命崇拝の分配権力は女性にあったということなのかな…。男性は実際にその男性の子供かがわかりにくいため、自分の子供に資源を集中することが女性に比べ難しかったということはあるかもしれない。ただ、それも女性長老の側にある程度、分配の力がないと男性長老のほうだけが有利になるので、女性長老も力を持っていたということだろう。産婆の長としての「堕胎」による力なのかどうかはわからないが。

JRF2024/7/109131

……。

>イタリアでのプラトン復興からの直接の産物は、ヤコポ・サンナザーロのたいへんに影響力にとんだ作品『アルカディア』であった(…)。この本は、ギリシア(ドーリア)の山岳居住牧羊者の幸せな原始的社会秩序というプラトン的理想を復活させた。(…)したがってロマン主義は(…)、歴史的に見たとき、じつにプラトン主義の後裔なのである。<(1上 p.373, 注)

ロマン主義を通じて、それは、日本の異世界転生ものにまで通じているのだろうか…。

JRF2024/7/101281

……。

>最善国家の支配者たちはピタゴラス流の数神秘主義に精通していないと仮定されている。<(1上 p.381, 注)

↓で数学教育問題を取り上げた。

[cocolog:94913569](2024年6月)
>どんな教科でも、できれば皆が知っていることにしたい領域とわかっている人だけわかっていればいい領域があると思うのだが、特に理数は、後者の領域のほうが広く、大学以前の教育でそういう面が表に出てくるように思う。そこでは、とりあえずぶつけてみて、できる人間を拾うみたいなことになる。<

JRF2024/7/109279

わかる人だけわかればいいというのは、ピタゴラスの数神秘主義の昔から通じている思想なのかもしれないな…。

JRF2024/7/103075

……。

>わたくしは、プラトンが『国家』(469b-c)でギリシア人の戦争捕虜を奴隷化することに反対している点は承認するが、同時にかれは、ギリシア人が、とりわけみずからの最善国家の市民が異邦人(Barbaren)を奴隷化することは奨励しているのである。<(1上 p.385, 注)

私ほハイパー・プラトニズムの「捕虜のように敵として開かれた社会にも生きる」ことを考えたので、捕虜と奴隷の差を重視するが、プラトンもそこにはこだわりがあったようだ。

JRF2024/7/100784

……。

最善国家の最初は山岳牧羊民の…

>暴力的な征服によると言われている。<(1上 p.388, 注)

グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』([cocolog:94865920](2024年5月))を読む過程で、

>「まじめな農耕」はどうも最初は狩猟採集民がすでにいる人口密集地を避けて行われ(…)農耕社会は警戒され、人口が一定以上増えると、攻撃されるような関係があったのかもしれないと想像する。(…)その生産力から王を立てるようなことをすると、攻撃準備ととられ警戒感が高まり攻撃を受けることが増えたのではないか。

JRF2024/7/102460

(…)

(…農耕により…)都市が巨大になるにつて、平等主義的だからと周りの狩猟民は安心できなくなったということではないか。(…狩猟民は…)自ら重武装する必要がある。しかし、そのためには、都市の生産力に頼るしかない。

(…)

狩猟民の襲撃を避けるため護衛が強力になると同時に、襲撃する側に武装が渡るようなことが起きはじめたのだろう。

少なくとも当初は、武装勢力は都市を占領することになっても、その生産手段には手を出さないことが求められたのではないか。

一人の強い王のほうが、英雄主義的な複数の貴族の乱立よりは良い・信用できるという判断も都市にはあったのかもしれない。

JRF2024/7/105218

そして都市への寄生体としての君主制ができた。これがプラトンの完全国家ということらしい。

JRF2024/7/104939

……。

>プラトンはドーリア人による征服についてかなりはっきりした考えをもっていたのだが、明白な理由から、それを闇に包みこむことを選んだのだと思われる。征服した戦士集団は遊牧民的起源をもつという伝承もあったと思われる。<(1上 p.390, 注)

イエンゼン他『民族学入門』を読んだひとこと(↓)を思い出す。

JRF2024/7/108390

[cocolog:94723373](2024年3月)
>>
アフリカ東北部のガラ諸族。

>遊牧集団は山地に住む農民とあらゆる結びつきを失う。たとえば、一般に古典的な放浪牧畜民と知られているガラ諸族の場合がそうである。立ち入った調査をしてみると、このガラ族でさえも、自分たちが農耕民に由来することをまだ十分に意識していることが判った。<(p.117)

私は『宗教学雑考集』で、定住民は「堕胎」文化、非定住民は「捨て子」文化と推定したのだった。

JRF2024/7/101418

ただ、定住を経たあとの遊牧文化においては、そう簡単に野生に果実などがあるわけでもなく「捨て子」するにしてもその先は、定住文化の地にすることになるのだろう。それを自分達が「堕胎」で調整しなければならない定住民が受け容れるのは、それを奴隷として労働力にできて生産増がはかれるからか、または、こちらの可能性が高いが、遊牧民の行う行商や、他の民族への侵略によって、富が持たらされ、その余裕ができるから「捨て子」を受け容れられるからであろう。
<<

JRF2024/7/102199

これは定住民の中に遊牧民的血筋が広がることを意味する。そこから、元遊牧民の「階級闘争」がはじまったのかもしれない。そしてそれが嫌われれば、ガラ諸族のように交流が絶たれることになるのだろう。

JRF2024/7/102139

……。

>プラトンは嬰児殺しを是認した。<(1上 p.394, 注)

[cocolog:93208056](2021年12月)または古くは[aboutme:78335](2008年09月)にある「流産または嬰児死亡に関し見舞金を払う「堕胎保険」構想」が私にはある。つまり「嬰児殺し」に追い銭を払うようになりうる制度だ。しかし、そういう「追い銭」を突き返された男は、逆に、次の子供に向けてそれを贖うよう努力するのではないかという気もするので是認するのだ。カルタゴなどの人身供御もプラトンの嬰児殺しもそういった文脈だったのかもしれない。

JRF2024/7/108998

……。

>事実としてわたくしは古い音楽(古ければ古いほどよい)を好むし、現代音楽に対しては強い嫌悪を覚えている。わたくしはそうじてどんな種類の〈未来主義〉に対しても道徳の領域での未来主義(…)に対してとおなじく芸術上の未来主義に対しても反対である。だがわたくしは、自分自身の偏愛と嫌悪を他人に押しつけることに対してはそれ以上に反対であるし、とくにこの種のことのどんな検閲に対しても反対する。<(p.401)

JRF2024/7/105462

ポパーもクラシック音楽愛好家だったのかな? このころの「古ければ古い…」というのは、グレゴリオ聖歌よりはバッハあたりだろうか。私はバルトークやシェーンベルクが好きなのだが、そういうのこそ、ポパーの嫌った「現代音楽」なんだろうな…。

JRF2024/7/102204

……。

(a)自然法則、(b)法などの規範 とすると…、

>多数の思想家が、〈自然の〉規範 -- 禁止とか命令 -- が存在する、すなわち (a) の種類の自然法則とならぶ基本が存在すると考えているのだ。<(1上 p.177)

ポパーは批判するが、しかし、人から反撃されるか、自然から反撃されるかわからないが、言わば何かをすると確率的に反撃され、実質的に禁止されていることというのはあるように思う。または、あることをすれば確率的に良いことがあるなら、命令に近いだろう。

JRF2024/7/105435

また、なぜそうなっているかわからないが、規範になっているということはあると思う。ある人から見て、法により禁止されていることと自然により禁止されていることの違いはないということはありうる。

ポパーは、規範を守らせる責任は人々の自覚にあるから、ある人から見てなぜそうなっているかわからないことに規範を感じるのは、正しくないとするのかもしれないが、どこにも民主主義が機能して、人々が規範に関われるわけではない。多くの人々にとって、民主主義は幻想に近いし、革命を起こす責任まで問われてくるなら、一生のうちでそこに関われる人のほうが少数だろう。

JRF2024/7/104909

そうある「べきだ」という意志表明というならわかるのだが、それが事実だと言うなら困惑する。

JRF2024/7/100092

……。

>決定は決して事実あるいは事実についての記述から導出されはしないということである。<(1上 p.184)

ある人の中にある事実の束がどう決定しているかを決め、それがその人個人に独特であるのは、何か推定できない不明な事実がその人にあるからと考えることもできる。「凹が凸に合わさるべきだろう」と思う傾向があるというのもその人の中に「事実」としてあるとも考えることができる。脳のシナプスとして実体があるかどうかはわからないが。心でサイコロを振る確率的決定ももちろんあってよい。

JRF2024/7/106588

外からは何も言えないということもないだろう。その場合、何らかの最適化をしているというのがまず外から見た事実となろう。外から見てある最適を(確率的に「あるべきもの」を)選ばせないのは、別の奨励の事実がどこかにあると推定することもあるかもしれない。(「多層最適化」などを [cocolog:94817429](2024年4月) で論じている。強化学習の方策探索のイメージも重ねている。)

JRF2024/7/108375

ところでこれは自由意志論と関係のある論ではあるだろう。決定が事実から導出されないというのは、何ものにも阻害されない自由意志があるとする立場にあたる。それはキリスト教神学でこれまで激しく議論してきたところだ。

《自由意思と神の恩寵 - JRF の私見: 宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF2024/7/100886

……。

>わたくしはただ、われわれのみが提起された道徳上の戒律の諾否にかんして唯一責任をもつのだと主張したいのである。われわれこそが、真の予言者と偽りの予言者を区別しなければならない。<(1上 p.191)

決定と事実の二元論を取らなくても、法の規範と自然法則を混同しても、人は道徳的たりうる。

「私」には人に知られていない事実の束があり、社会はそれに責任を要請していることを私は認め自分のものとする。それは個人が自立することである。

「個人の自立」より「社会に属す」ことをそれは表しているのではないか? そうではない。「社会に属す」というのはむしろ事実を社会と共有しようとすることである。

JRF2024/7/108562

真の予言者か偽の予言者かを超えて自立し、社会に予言者がいるなら、社会に「事実」を知らせ、それを真の予言者たらしめねばならない。

JRF2024/7/100861

ならば個人の自立を良いこととする根拠が必要ではないか? それは不要だ。人はある程度、孤立者であり、要請された責任を認め受け容れざるを得ない。自立せざるを得ない。一方、ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))のロビンソン・クルーソーの論で見たように、人である以上、社会に属すことも必要である。あとはどれぐらい自立するかの程度の問題である。(社会に属しながら強く自立することもできる。その二者はトレードオフの関係には必ずしもない。)

JRF2024/7/102430

……。

>そこからしてかれ(…プラトン…)は『法律』では、魂こそが最初の、あらゆる物体的なものに先立つと見なさなれねばならないのであり、それについては本性[自然]から存在すると言わねばならないと主張している。<(1上 p.210-211)

↓では、魂が自分の下にあると私は述べたが、むしろ、魂こそ自分の本性で「上」にあるというのがプラトンの考えなのだろう。

JRF2024/7/107165

[cocolog:94893189](2024年6月)
>あと、(スーパー・)プラトニズムの問題として、魂は自分=人でないから、魂が自分の下にあるように、奴隷という人よりも下の身分が、捕虜のように自分の下にあっていいというのもここから導かれたのかもしれない。…と思う。<

しかし、こうすると奴隷こそイデア的魂となり、おかしな論になる。プラトンの師のソクラテスも牢にいたことがあるので、隷従する者の中にこそ真の哲学者がいるという解釈もできるかもしれないが、プラトンがそう解釈していた可能性は薄いだろう。

JRF2024/7/104658

この場合、むしろ、魂すら肉体に奉仕するのだから、優秀な奴隷も自らに奉仕すべきだ。…というところから奴隷の是認を導くのだろう。「肉体は魂の牢獄である」は自殺への誘引を持つと述べたが、プラトンにおいて、それを封じるのが、奴隷も奉仕すべき価値が肉体=自分にあるという奴隷是認の論だったのかもしれない。

JRF2024/7/101564

……。

プラトンによると、人間社会、国家の本性とはなにか。

>社会の起源は、協定、社会契約(Gesellschaftsvertrag)なのである -- だが、それにすぎないのではない。それはむしろ自然な取り決め、人間の本性に、正確に言えば、人間の社会的本性にもとづく取り決めなのである。

人間の社会的本性は人間個人の不完全性から生じてくる。
<(1上 p.213)

ポパーが考えるプラトンは、イデア的国家があって、それが社会契約に反映している…ということとも少し違うようだ。

JRF2024/7/108769

人の不完全性を補完するものとしての国家が、イデアとしての完全国家であり、完全国家の中に住むのが理想的人間であるという仮定はない…ということだと思う。しかし、そうであるにも関わらず、本物の完全国家ならばそれは静止した社会であるということなのだろう。

過去の「完全国家」が現実において没落したのは、現実では支配層に経験的知識しかなく、例えばプラトン数の神秘に到達できなかったから…だろうか?

JRF2024/7/106691

……。

プラトンの考えでは、法や制度はその出自からしてイデアに近いのだという。だから人治より法治を尊ぶべきということなのだろう。

>「魂は物体よりも起源に近いとしたら、魂に依存するもの(精神的なもの)は、物体に依存するものよりもより起源に近いことになろう。……魂はすべてのものに秩序を与え、それらを結びつける。」これが、「法や目的に応じた制度は、もともとから(von Natur aus)存在するのであって、自然[元来的にあるもの]より劣ったものから生じるのではない。なぜなら、それらは理性と真なる思考から生じるからである」という教説の理論的背景である。<(1上 p.218)

JRF2024/7/104468

……。

>プラトンは、理想国家はそれ自体で十全なものであるから完全な個体であると見なした。他方で市民は、個体であるが、国家の不完全なコピーなのである。国家は一種の有機体、リヴァイアサンである。ここをもっていわゆる有機体的な、もしくは生物学的な国家論が西洋に導入されたわけである。(…)プラトンはこの理論を擁護してはいないし、一度たりとも明白に述べたことはない。だが、それは十分明確にかれのもとにある。事実として、国家と人間個体とのあいだの根本的な類似性は『国家』の主要テーマのひとつである。(…)個人は国家の悪しきコピーである(…。)<(1上 p.219-220)

JRF2024/7/109663

国家が有機体であるというのが、ナチスやソ連の理論で、それをポパーは批判しているのだろう。

JRF2024/7/108859

……。

プラトン『法律』では次のように述べる。

>「法律には、共同体全体の福祉を実現させるという課題があり、一部には説得によって、また一部には強制によって、市民たちを一致結束させる。また法律は、市民各人を共同体の役に立つよき行為に参加させる。じっさい、国家に対するただしい心構えをもった人間を作り出すのは法律である。各人がほしいままに行為し生きていけるようにするためにではなく、彼らすべてを共同体の結束のために利用する。」<(1上 p.222)

JRF2024/7/109228

最近 Twitter (X) で、自民党の改憲案に絡んで、憲法は、政府を縛るもので、国民を政府が縛るためにあるのではない。…みたいな図が投稿されていた。「憲法は、政府を縛るもの」は夜警国家論に近く、それが左翼から出てくるのも驚く(英米の陰謀では?…とすら思う)。

これについては、私は少し違う意見を持っている。

JRF2024/7/104922

[cocolog:89997835](2018年9月)
>finalvent 氏などが、憲法は政府を縛るもので、国民の義務などを書く必要はない…かの論を展開しているのを読んだことがたしかあるが、私は、[aboutme:95506] で書いたように、憲法は「国民の宣言」としての性格も持ち、投票の義務([aboutme:108306])などを入れていくべきだという考えを持っている。<

JRF2024/7/105931

[cocolog:93117917](2021年11月)
>私は投票を義務にするよう憲法を改正するというなら賛成する。タレント議員が多くなるかもしれないが、世襲ばかりよりは健全で、タレント議員の中でも選別が起こると思うから。義務にしてからマスコミ対策する方向が吉と思う。<

JRF2024/7/104287

[aboutme:108306](2009年08月)
>投票は義務とすべきだと常々思っている。一票が無意味だ政治は変わらないと思って投票しないことが、同じ無力感を持っても投票する者を一層無力にするから。だからまず投票することにロックインする。そして選ぶ「責任」は、投票した結果についてあれこれ文句をいうことであとから養っていけばいい。

JRF2024/7/102610

もちろん、地方や信仰を持つもので棄権をすることが唯一できる抵抗であることもありえる。今回の選挙戦終盤で棄権を支持する言説がでるのもしかたがない。投票は義務とし罰則(窓口で諭されることを含む)は設けても、(特に高齢者などが)ごく些細な理由で投票しなかったとしても罰は免れるようにすべきだ。

JRF2024/7/103031

[aboutme:95506](2009年02月)
>《法を体現させる》でいろいろな意味を含んで>法が人を生かせる野ではなく、人が法をいかすのである<と書いた。憲法には国民の宣言としての性質もあると私はしたいだが、宣言だから受け容れているわけでない部分も当然にあるだろう。しかしそこも「いかす」ようにしていくべきだ。

《法を体現させる》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/10/post_2.html

JRF2024/7/109403

[aboutme:118456](2010年01月)
>夜警国家論の問題は、例えば、税務や障碍者支援を民間でやるとしてもその管理を警察がやるのか、プライバシーは秘密だから軍がやればいいのか…と考えると、すぐ無理があるのがわかる。さもなければ国家を果てしなく肥大させるという意味での「ファシズム」になる。

「軍」を核に国家をなしたのが事実だとしても、工人や外交などを軍が管理したかというとそうではない。夜警に慎むのが国家理念の欠かせない一面としても、それだけあるのが「自由」だとするのはあまりにもナイーブだ。<

JRF2024/7/105731

[aboutme:127448](2010年07月)
>自由を尊重して「他者」を守ることに慎むのは軍だけでなかったといつか気付くようであって欲しい。公務員とその周りの集団も私個人も、そうあれたらいい。私は「夜警国家論」は寂しすぎると思う。<

JRF2024/7/109280

……。

プラトン…、

>かれがそのヒストリシズム的理論を引き出したのは、目に見え流転している世界は変化することもなく目には見えない世界からの腐敗を重ねていくコピーなのであるという、空想的でもあれば哲学的でもある理論からであった。

JRF2024/7/103290

だが、ヒストリシズムにもとづく悲観主義を存在論的楽観主義と結びつけるという天才的なこころみは、最後まで考えぬくなら、困難に突きあたる。その困難のために、かれは生物学版自然主義を受け入れざるをえなかった。そこから(社会はそのメンバーたちの〈人間本性〉に依存するという〈心理学主義〉をもっていたので)、種族の血統保存という擬似合理的にして数学的な理論において頂点に達する神秘主義と迷信を受け入れたのである。

これら二つの理論の相克が、かれの理論的建築物の印象深い統一を危険にさらすのである。
<(1上 p.230)

JRF2024/7/108967

「存在論的楽観主義」とは完全国家の構想だろうか。「最後まで考えぬくなら、困難に突きあたる」は、完全国家の没落の理由がつけられないがゆえに、どうすれば完全国家に近付くかという道筋も示せないということだろうか。「生物学版自然主義」は人の「能力」に差があるということか。そして支配層に含まれる人々の本性の組というカードの手が揃わないことがあるので、それを揃わせるためには擬似数学的議論を必要としたということだろうか。完全国家を目指すための擬似数学のススメがあった。…と。理系株に賭けたということかな?

JRF2024/7/101136

「二つの理論」もよくわからない。「ヒストリシズム的理論」と擬似数学的理論のことだろうか? 生物学版自然主義と心理学主義のことだろうか?

JRF2024/7/109867

……。

>人間の平等を承認する倫理のもっとも重要な原則と思われるものをここでは定式化しておきたい。

(1) 非寛容ではないし、また非寛容を広めようとするのでもない人びとすべてに対する寛容(…)。

JRF2024/7/108872

(2) 道徳的に急迫した状況は苦患と苦痛が窮迫しているところに根源があるという事実の承認。こうした論拠からわたくしは、「なしうるかぎり幸福を増大せよ」(〈幸福の最大化〉)という功利主義的定式を〈なしうるかぎり、苦患を少なくせよ〉(〈苦患の最小化〉)という定式におき換えることを提案したい。(…)((…)〈なしうるかぎり、幸福を増大せよ〉という原則は、非常に危険な種類の善意の独裁者をみちびくように思われる。)(…)幸福の要求はいずれにしても苦患に喘いでいる人の救助、つまり苦患を取り除こうとするこころみよりも急迫することはないということだ。(…)

JRF2024/7/106090

(3) これは独裁者に対する戦いである。換言すれば、他の原則を、権力の座にある人物のお慈悲によってではなく、立法という制度的手段によってたしかなものにしようとするこころみである。(…)
<(1上 p.418, 注)

非寛容に非寛容になるとしても、そんな中でもできる限り寛容であるべきだろう。

JRF2024/7/107458

……。

自然法則としての仮説と規範は違うとポパーはいう。

>規範としての法はいつでも人間とかれらによる制裁によって遂行されており、したがって仮説とは根本的に異なる。<(1上 p.433, 注)

上で述べた↓は、ここの感想として最初浮かんだものである。

JRF2024/7/102981

>ポパーは、規範を守らせる責任は人々の自覚にあるから、ある人から見てなぜそうなっているかわからないことに規範を感じるのは、正しくないとするのかもしれないが、どこにも民主主義が機能して、人々が規範に関われるわけではない。多くの人々にとって、民主主義は幻想に近いし、革命を起こす責任まで問われてくるなら、一生のうちでそこに関われる人のほうが少数だろう。<

ある人から見て規範か自然法則かは大きな違いがないことはかなりしばしばあるように思う。それでいいという話ではないが。

JRF2024/7/107891

……。

プラトンの政治綱領は全体主義そのもので、今の民主主義政治からかえりみるとヒドイものばかりである。私がなかでも注目するのは表現の自由に絡んで…、

>(D) 支配階級の知的活動すべては検閲によって統制されなければならない一方で、かれらの思想を型にはめ画一化するために間断なき宣伝がなされねばならない。教育、立法、宗教における革新はすべて阻止され抑圧されるべきである。<(1上 p.237)

JRF2024/7/108369

……。

>大部分の人びと、とりわけで一般的に人道主義的な態度をとっている人たちは〈正義〉ということばを聞くと、おそらくつぎのようなことを思い浮かべると思う。

(a) 国家の市民であることの重荷、すなわち、社会生活において必要な自由の制限を平等に分かち合うこと。

(b) 法のもとでの市民の平等な扱い。もちろん、これにはつぎのような前提がある。

(c) 法そのものが、個別の市民とか集団とか階級を優遇もしくは冷遇しないこと。

(d) 裁判が党派的でないこと。そして

(3) 国家の同胞であることによって市民に供される(重荷ばかりでなく)利益に平等に関与すること
<(1上 p.242)

JRF2024/7/102447

プラトンの「正義」はこれとは反対のものなのだという。

>プラトンは〈正義〉ということでなにを理解していたか。かれは『国家』において〈ただしい〉という表現を〈最善国家のためになるもの〉の同義語として使ったというのがわたくしの主張である。では最善国家のためになるものとはなにか。厳格な階級区分と階級支配を維持することでいっさいの変化を阻止するということだ。<(1上 p.242)

JRF2024/7/108579

私は『「シミュレーション仏教」の試み』では、社会が目指すべきもの(最適化の条件)として、本目的三条件(「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」)を挙げたが、そこには「平等」が直接的にはない。本目的三条件からどう平等を導くか。弱いかもしれないが、次のようにすればいいと考える。

JRF2024/7/103516

『「シミュレーション仏教」の試み』《環境的前提》
>「平等」をどう導くか。「来世がないのが良い」から「執着がないのが良い」が導ける。カーストなどの身分制度が転生概念とともにあると、上の身分になろう、下の身分にならないようにしようとこだわる執着を生む。身分がなければそれもない…として「平等が良い」を導けばよいのではないか。最後の審判と比べて、転生は階級差別を是認しがちだが、「執着がないのが良い」がそれに緩やかな抵抗を生むとは言えるのかもしれない。<

JRF2024/7/101564

……。

>プラトンにとって階級的特権は〈ただしい〉のである -- われわれは、正義のもとで、むしろその種の特権の存在しないことを理解しているというのに。<(1上 p.245)

「特権」を一般に是認しているように読める部分が私の書いたものの中にある。

『宗教学雑考集 第0.8版』《なぜ人を殺してはいけないのか》

○ 分業と保険が競争を、競争の上でも信用がなりたつよう分配のための支配を、

○ 信用と分業が共同体を、共同体が保険として公正のための権力を、

○ 保険と信用が実験を、実験を見えないよう分業し犠牲を活かすための特権を、

JRF2024/7/106448

必要として導き出したと感じる。この「支配」「権力」「特権」を「組織力三立」と私は呼ぶ。


この場合の特権は組織または集団に付与されるものとだいたいでき、研究者など卓越していることが、特権賦与の条件となることを想定しているが、過去においては血族による特権があったことも想像の中にある。今もこの種のものは、薬理試験などにはうっすら残っていると思われる。

JRF2024/7/107534

《Virtua Fighter 5 FS コスプレ:イロモノ 編》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2012/12/post-4.html
> 勝手な推理だが、現代、麻薬を使っていいのは医者だけだが、昔は、宗教行事など特別なときだけ認める、特定の宗教が管理するみたいな規制の在り方もあったのだと思う。(…)

(…ルパン三世シリーズの…)『峰不二子という女』にもチラとそういった話が出てきたが、案外、現代も、新興宗教やマルチ商法あたりのカルト組織が「新薬」をリアリティある利益機会としているとかもありえなくはない。

JRF2024/7/100514

……。

>(…プラトン…)かれが平等説を語ることを拒絶したのは、拒絶することは優れたことなのだと全身全霊をあげて信じこんでいたからだとは言えるかもしれないのだが。<(1上 p.253)

フェミニストの上野千鶴子さんの次の発言を思い出した。

《上野千鶴子 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8D%83%E9%B6%B4%E5%AD%90

JRF2024/7/105909

>古市憲寿との対談による『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』において、「私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」やパフォーマンスレベルではデータを出さないこともあると述べ、「ジェンダー研究はフェミニズムのツールです」と自身の研究は運動に利用するためと主張している。これについては小熊英二に「活動家としては正しい」と言われている。<

活動のために目的を信じこんで「真実」をねじ曲げても目的さえ正しければ正しい。…というところが、プラトンにもあったのかもしれない。

JRF2024/7/108822

……。

>正義についての人道主義的理論は、主としてつぎの三つの要求あるいは提案をしている。すなわち (a) 平等な権利の原理、つまり〈生まれついての〉特権を排除しようとする提案。(b) 個人主義という一般的な原理。(c) 国家の使命や目的はその市民の自由を保護することにあるという原理。これらの政治的要求あるいは提案のおのおのには、プラトン主義のまさに正反対の原理が対応している。すなわち (a') 生まれついての特権の原理。 (b') ホーリズムあるいは集団主義という一般的な原理。(c') 個人の使命や目的は国家の安定性を維持し強化することにあるという原理。<(1上 p.253)

JRF2024/7/100509

あまり関係ないが「ホーリズム」という言葉からは、ケストラー『ホロン革命』([cocolog:80965253](2014年10月))を思い出す。

JRF2024/7/102166

……。

ポパーは個人主義とエゴイズムを分け、集団主義と博愛主義を分ける。そして個人主義と博愛主義の組み合わせが可能であり、それが望ましいとする。一方、プラトンは、個人主義とエゴイズムを同じエゴイズムと解釈し、集団主義と博愛主義を同じとし、プラトンが主張したい集団主義に対してエゴイズムを非難する。

JRF2024/7/107029

>プラトンは個人主義をエゴイズムと同一視する。そこからかれは集団主義を擁護し、また個人主義を攻撃するための強力な武器をえた。擁護するばあいには、かれは無視の精神というわれわれの人道主義的な感情に寄り添い、攻撃するばあいには、あらゆる個人主義者を、自分の人格にかかわることとはべつのことがらに身をささげることのできない自己利益追求型の人間であるという烙印を押すことができた。<(1上 p.269)

まさに修辞学=レトリックの本領発揮であろう。レトリックが大事にされたのは、プラトンのこのあたりの卑怯さが過去においても知られていたということでもあるのだろう。

JRF2024/7/108627

ところで私が思い出すレトリックは、「小さな政府」論に対し、「信頼できる政府」論をぶつけるアイデアである。

[cocolog:86756868](2017年1月)
>「大きな政府か・小さな政府か」は「信頼できる政府か・小さな政府か」と言いかえたほうが政治的に訴求力があると思う。できることなら財政的に軽い小さな政府がよいのは当り前で、それに対し「大きな政府」といってはわかりにくく、「大きな政府がいいのか」と詰め寄られたら「信頼できない政府がいいのか」と返せるほうが良いだろうから。<

JRF2024/7/107479

[aboutme:102765](2009年06月)
>大きな政府…というと大盤振る舞いの意味にとられそうだし、信頼できる政府…というと信頼を強制することを許しそうだし、…方向としては財政を使って社会の保証を厚くしていきましょうということ。<

JRF2024/7/105873

……。

>プラトンの対話編には多くのほんとうに人道主義的な考えが含まれているということである(これは、『国家』が執筆される以前の、したがってプラトンがまだソクラテスの影響下にあった時期に書かれた対話編についてはとく言えることである。) とりわけ、不正をすることは、不正をこうむることよりもいっそう悪いという『ゴルギアス』でのソクラテスの教えを挙げておきたい。この教えは、あきらかに、博愛主義的であるばかりでなく個人主義的でもある。

JRF2024/7/101223

なぜなら、『国家』において述べられた集団主義的正義論においては、不正とは個人に対するものではなく国家に対するものであり、個人は不正な行為を犯すだろうが、その害をこうむるのはただ集団のみであるとされていたからである。
<(1上 p.276)

「不正をしない」が博愛主義で、自分の責任において「不正をこうむる」のを選ぶというのが個人主義的だということだろうか?

JRF2024/7/104035

……。

>プラトンは、新しい理念、とりわけ偉大な個人主義者ソクラテスの理念によって、またかれの殉死によって深く揺り動かされたのだと思われる。<(1上 p.285-286)

「隷従する者の中にこそ真の哲学者がいるという解釈」はありえないと書いたが、ありえるのかもしれないな…。

確か、「良い兵士は死んだ兵士だけだ」みたいな名言があったように思うがそれも思い出す。Gemini さんによると、それは映画『西部戦線異常なし』のもので、元をたどると、フィリップ・シェリダンの「良いインディアンは死んでいるインディアンだけだ」になるのかもしれない。

JRF2024/7/100580

……。

ポパーは自分の「自由のために必要限度で国家に保護を求める」主義を「保護主義」と表現する。

>自分は、自由の平等な限界を達成するために、国家が、必要限度をこえることなく、可能なかぎり平等な仕方で、市民の自由を制約することを要求したい。<(1上 p.288)

しかし現在では「保護主義」は「保護貿易主義」の語感がある。その点はポパーも気にしていて…。

JRF2024/7/100187

>〈保護主義〉という語は、しばしば自由とは対立する傾向を記述するために用いられてっきた。だから、経済学者は保護主義のもとで競争から一定の産業の利益を保護する政策を、そして道徳家はこのことばのもとで国家の役人が住民を道徳的に監督するという要求を理解してきた。わたくしが保護主義と呼んでいる政治理論は、こうした傾向とはなんのかかわりもないとはいえ、また根本においてリベラルな理論であるとはいえ、この名称を使用しても正当であろうと考える。

JRF2024/7/102979

この名称で言いたいのは、この理論はそのリベラルな性格にもかかわらず、(全面的にただしかったわけではないとはいえ、しばしば自由放任主義と呼ばれた)厳格な非干渉政策を採用しないということである。
<(1上 p.290)

JRF2024/7/108943

……。

リュコフロンはプラトンの同時代人であるが…、

>保護主義的な国家論はゴルギアスの弟子にしてソフィストのリュコフロンによってはじめて提唱されたと思われる。

JRF2024/7/107257

(…)

アリストテレスの報告によれば、リュコフロンは国家の法律を「人間が相互に正義を保障し合う」ための契約と考えた(また、法律に、市民を善良化したり、邪悪化させる力があるとは考えなかった)。さらにアリストテレスの報告によれば、リュコフロンは、国家は市民を不正義の行為から保護するための道具である(そしてかれらに平和的な交際、とりわけ交易を可能にする道具である)と見なした。かれは、国家は「犯罪防止のための共同の結合体」であるべきだと要求した。

JRF2024/7/103412

興味深いことには、アリストテレスの記述のうちには、リュコフロンがその理論をヒストリシズム的形態において、つまり、社会契約の観点から国家の歴史的起源を語る理論として述べたという示唆はなんら見当らない。

その反対である。文脈からは、リュコフロンの理論はただ国家の目的にのみかかわっていることが明瞭に見て取れる。なぜなら、アリストテレスは、リュコフロンは市民を有徳にするのが国家の本質的な目的であることを忘れていると注釈しているからである。

JRF2024/7/109886

ここに示唆されているのは、リュコフロンは、法のもとでの市民の平等、個人主義また保護主義をわがものとし、これらを自己の目的とし、技術的な観点から合理的と判断したということである。
<(1上 p.295-297)

そしてプラトンは嫉妬からか、同時代人には言及しないことが多く、リュコフロンも黙殺されているが、その主張を別人の口を借りて述べさせ、藁人形的にボコボコにしている。

JRF2024/7/107253

……。

>ところで、プラトンは保護主義に反対したわけだが、その唯一の論拠は、それがいわゆる自己利益の追求という動機にもとづいているということであった。<(1上 p.306)

私の国家自由主義では「死んだほうがマシ」を押し付けてくるというのが問題で、だから、「捕虜のように敵として開かれた社会でも生きる」という「ハイパー・プラトニズム」が要請されたのだった。

JRF2024/7/101511

なぜ「死んだほうがマシ」を押し付けてくるか。それは自由を重視して、能力による経済的不平等を認めて格差が大きくなることを認めながら、しかし、最低限の自由を保護しようとすると、収入にまたは国家の保護に見合わない働きしかできていないと感じるものが多数になるからだろうと思う。

JRF2024/7/104278

プラトンが固定した社会にこだわったのは、完全平等も無理ならば、完全自由はもちろん、保護主義もまたヒドい自死の圧力になることがわかったから、その中間として、固定した階層のほうがマシだと考えた面もあるのではないか。現在、哲学者が親などに保護されねば生活できないのが、古代ギリシア時代、国に保護されるとなったとき、それが自殺への圧力となり、それがソクラテスを殺したという認識すらあったのかもしれない。

JRF2024/7/104005

……。

「法のもとでの平等」を「イソノミー」というらしい。

>〈イソノミー〉への(最古ではないにしても)もっとも古い言及のひとつは、医者のアルクマイオンの断片(前五世紀初頭。(…))に見られる。かれは、イソノミーを健康の条件と呼び、多数者に対する一者の支配である〈君主政〉に対置している。<(1上 p.476, 注)

JRF2024/7/107900

……。

プラトンの平等は「ひとしからざる物はひとしく扱うのは不正である」というものである。その理由は戦争において…、

>高価な重装備をした富者や強者は、国家の他のメンバーよりも勝利に大きく貢献する。<(1上 p.483, 注)

…からである。

JRF2024/7/100826

……。

プラトンにおいて…、

>〈節度〉、つまり、自分の持ち場に満足することは、三つの階級がおなじようにもつ徳であって、唯一労働者のもつことのできる徳であるとつけ加えておいてもよいだろう。したがって節度は、労働者や商人にも入手できる徳である。節度と勇気は戦士が手に入れる徳であり、節度、勇気そして知恵は監視者が所有できる徳である。<(1上 p.488, 注)

JRF2024/7/107891

……。

スピノザ『神学・政治論集』の名言。

>「すべてを法によって規制しようとする者は、間違いなく犯罪を除去するよりは、むしろそれを生み出すであろう」<(1上 p.494, 注)

JRF2024/7/105012

……。

……。

第1巻下。

JRF2024/7/105700

……。

まず巻末のキーゼヴェッター「本書が日の目を見るまで」(1下 p.429-481)について。

ポパーの『開かれた社会その敵』の出版までの苦労が書かれている。ニュージーランドで貧窮にあえぎながら、まずアメリカついでイギリスで出版社と交渉していく。戦争中の紙不足もありなかなか出版にこぎつけない。そして戦後に出版され成功。私の電子出版がぜんぜんダメなのは苦労が足りないからなのだろうか…と思った(もちろん、本の内容もダメなのだが)。

JRF2024/7/108228

タイトルの決定過程も詳しく載っていた。私は『「シミュレーション仏教」の試み』がかなりキャッチーなタイトルだと思っていて、それでも全然売れなかったから、次の本はもっとあっさりと『宗教学雑考集』にしたのだったが、やっぱり売れない。タイトルって本当に大事なのだろうか?…とか疑ってしまう。

JRF2024/7/103276

……。

プラトンは「誰が国家を統治すべきか」を問題にして、哲学者が王になることを唱えた。しかし、「誰が国家を統治すべきか」という問いは、すでに、政治権力はその本質からして至高であるという「主権論」を前提にしている。問題はそこにはないとポパーはいう。

>誰が支配すべきかという問いはつぎのような新しい問いにおき換えること(…ができる…)。悪しきあるいは無能な支配者があまりにも大きな害をひき起こしえないように政治的諸制度を組織するにはどうしたらよいのか。<(1下 p.19)

JRF2024/7/106197

そういう問題のほうが少なくとも民主主義には必要な議論なのだという。そうでないものは基本的に全体主義を導くしかないということのようだ。

JRF2024/7/106465

…… 。

>政府については二つの根本的類型を区別することができるだろう。第一の類型に属するのは、流血の惨事なしに、たとえば総選挙をつうじて、取り除くことができる政府である。そこでは社会の諸制度もまた被支配者が勝手にこうした諸制度を破壊できないようにしている。第二の類型に属するのは、被支配者がただ革命を成功させる -- ほとんどのばあい成功しないが -- ことによってのみ取り除くことのできる政府である。

JRF2024/7/104236

第一の種類の統治形態を簡潔に表示するために〈民主主義〉ということばを提案したい。第二の種類の統治形態に対しては〈僭主政(Tyrannei)〉もしくは〈独裁(Diktatur)〉という名称を選ぶことにしよう。
<(1下 p.26)

私は国家自由主義というポパーの保護主義に似た主義を持ちながら、三者調整会議という専門家集団による〈独裁〉を構想するに致っている。これから長く続く日本の超高齢化に対応するためだ。

JRF2024/7/101995

また、私はベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき、国家自由主義を補うために、ハイパー・プラトニズムとスーパー・プラトニズムとウルトラ・プラトニズムという似た概念を提案し、中でもハイパー・プラトニズムを選ぶ。

JRF2024/7/107417

ハイパー・プラトニズムは決してテロを勧めるわけではないが、スーパー・プラトニズムに比べればハイパー・プラトニズムは、テロへの誘引を持ちやすいということだった。私の「三者調整会議」の構想は、民主主義から少し後退するその代償として、スーパー・プラトニズムよりもハイパー・プラトニズムを選ぶという面があると言えるのかもしれない。その辺は、民主主義を後退させた共産主義が自らへの暴力革命の可能性を認めるのに似ているのだろう。

JRF2024/7/108328

実際、学術会議的なものが、薬物実験のコントロールを通じてヤクザを動かし、マスコミに影響する…みたいな「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論理も出したことがあるが、「テロ」を是認しないとは言え、ヤクザ的な暴力の可能性は捨ててないところに、暴力的要素を私の構想にも見出せるということかもしれない。

JRF2024/7/101973

……。

ポパーはソクラテスを理想化し、それをプラトンと峻別する。プラトンは賢者の支配として学識ある者の支配を考えたのであるが、ソクラテスはそうでなかった。ソクラテス…、

>かれはじっさいには専門的な学識に対して -- 過去の哲学者の学識とか同世代の学者、つまりソフィストの学識に対してであれ -- 懐疑的な態度をとっていた。かれの脳裏にあったのは別種の知恵であった。すなわち、われわれはいかに知ることが少ないか! という単純な洞察である。<(1下 p.35)

JRF2024/7/108828

>学ぶということについてのこうした考えにかんして言えば、最善者、つまり知的に誠実な者が支配すべきであるというソクラテスの要請は(かれがこうした要請を提起したとしての話だが)、もっとも学識ある者が支配すべきであるという権威主義的要請からも、また最善者、つまりもっとも高貴な者な者が支配すべきであるという貴族主義的な要請からも、するどく区別されるべきであるのは明白である。<(1下 p.36-37)

ソクラテスにとって、「無知の知」のある者はすべて「最善者」であり、ソクラテスにとって「最善者」は一人(や血族)をさすものではなかったということだろう。

JRF2024/7/104087

Y. N. ハラリ『サピエンス全史』([cocolog:94853370](2024年5月))では、「無知の知」を近代の科学革命の勝利に結び付けていた。

>>
科学革命まで、宗教は「すべてを知っている」むしろ「今は完全なところから失なわれたもので、伝統にかえるべき」としていた。

>進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった。<(下巻 p.80)

JRF2024/7/102663

科学革命・帝国主義・資本主義が密接に関連し、未知の「新大陸」の発見を経て、西欧の「帝国」が現代への道を拓いたとするのがハラリの主張で、その圧倒的な筆致には私も納得させられる。
<<

しかし、そのソクラテスの考え自体も問題にはなるとポパーはいう。

JRF2024/7/107213

>教養のない者は、(…無知の知という…)覚醒をもたらしてくれる権威を必要とするように見える。なぜなら、かれらに自分自身を批判することなど期待できないからである。(…)ソクラテスはこの要素と均衡をとるために、驚くべきことに権威というものはこれ以上の要求をしてはならないと要請した。<(1下 p.37-38)

JRF2024/7/102662

ただそれが、プラトンやアリストテレスにいたり、国家が自国の道徳的生活を指導するべきであるという思想に歪められたのであった。覚醒のない者が判断する民主主義も貶[おとし]められた。

JRF2024/7/102182

……。

プラトンは教育が自由放任になされることを批判する。しかしポパーはいう。

>だが、クロスマンやプラトンが批判したアテネの自由放任政策は評価しきれないほどの成果を生み出した。つまり、それはある種のソフィスト的な話し手、とりわけかれらのうちでももっとも偉大なソクラテスが教えることを可能にしたのである。だが、のちにこの政策が放棄されたとき、結果はソクラテスへの死刑判決であった。これは警告として受け止められるべきである。<(1下 p.40)

JRF2024/7/106380

私は民主主義からの(少しの)後退を認めるが、表現の自由を重視すべきという主張は続ける。しかし、新「事業仕分け」において学会的限定公開討論が政治の中心になり、議会の予算委員会的公開討論を重視しないようにするというとき、それはつまり、必ずしも、一番口がうまいものと違うものが実権を握るということで、それが権威あるように見せるためには、表現の自由を制限しがちになるのかもしれない。

JRF2024/7/100665

ただ、ある程度口のうまさは求められるが、一番口がうまいものが実権を握る社会には今もなっていないのであり、ブログや SNS において学者(の比較的多数)も口を鍛えることができているなら、表現の自由を守っても問題ないよう続けられると思う。そう信じたい。

逆に SNS などで鍛えて表現の自由を強固に守り続けることが、民主主義の体裁を守ることと言えるし、何かあったときに、民主主義的原理に(一時的に?)復帰するのを可能にするのだろう。

JRF2024/7/106530

……。

ただ、SNS で鍛えることが、どう哲学者の生活を支えられるのかはわからない。結局のところ、私もそうなのだが、その親族が他の「専門職」で稼いでくれてる(または稼いでくれていた)のをアテにしている。「専門職」が総じて非常に収入に有利だということがないといけないのか。…という気はする。

JRF2024/7/102459

……。

ここでチラと思ったのだが、プラトンが完全国家を静止したものととらえるのは、いかに時代が変化しようとも国家というシステムは、それに同じシステム(法制としては静止したシステム)で対応するのが理想である…ということなのかもしれない。例えば、いかに変容しようとも憲法は変わらない。そういうのが優れた憲法だという示唆があるのかもしれない。

JRF2024/7/109779

……。

プラトン…、

>かれは未来の賢者に対して30歳になれば予備的な弁証法的研究を開始してよいと許可するのだが、「大きな注意の必要」(…などを主張する。…)また50歳になる前には、より高度な哲学的研究 -- 善の本質を弁証法的に見ること -- に入る手ほどきを受けてはならない(…と言う。)<(1下 p.46-47)

私は若いころのほうに真実があると思うが、インドの四住期の林住期のように、子供を育てるときはそれに(働くのに)集中して、年を取ってからまた勉強すればいい…みたいな考え方があるのは理解する。

JRF2024/7/107028

『宗教学雑考集 第0.8版』《魔境》
>若いころの真実は真実で、年老いてからそれを否定しがちだが、それはいけない。若いときの真実はやはりものすごい真実なのだ。鈍麻していく中で、それを否定するのはよくないことだと思う。<

『宗教学雑考集 第0.8版』《結婚》
>インドでは四住期を経て悟るとすると書いたが、この章全体の流れとして、学生期ではなく、人を教える林住期に戦争などの過去を学ぶ…調べるのが、「総体として生きたい」を賦活する方法なのかもしれない。

JRF2024/7/107079

林住期では、子供に手がかからなくなったあと、その分を、学びに回せ、また、家計を稼ぐのに忙しい家住期の「若者」の子供の学びを診ることができる。

JRF2024/7/109932

……。

プラトンに一歩ゆずって、哲学者が王になるべきだとしよう。しかし、真理を愛する哲学者王の仕事は何か。

>「したがってウソを流布し、国家の最善のために敵のみならず自国の市民たちをも欺くことが、そもそも誰かの仕事だとしたら、それは国家の支配者の仕事であり、他のなんびともこの特権に手をつけてはならない。」<(1下 p.56)

どのようなウソか? それは第一に「人種」というウソのようだ。

>プラトンは血と大地にかかわるみずからの神話をあからさまにプロパガンダとしてのウソであると述べた。<(1下 p.63)

JRF2024/7/108165

そのウソは哲学者がはじめ、やがて宗教として支配層も信じるべきプロパガンダになる。混血者は下層に広がることになるが、その混血者が支配層を知能で上回ることがないとできるのは、支配層の得た隠された知の極度の偶然性を信じるからだろか。

哲学者は、最初に立法を行う。それはよしとしよう。哲学者にふさわしい仕事だ。しかし、完全国家ならば、それで立法の仕事は終る。なぜ次も哲学者でなければならないのか。「教育」は答えにならない。本当の完全国家ならばそれを守るのは教育された良き兵士で十分だからだ。王が哲学者でなくてもよい。

JRF2024/7/102797

>論難されることも乗り越えられることもない権威を打ち立てるためには、傑出した軍事的能力だけでは十分ではないということなのだろう。それはより高次の資格にもとづかねばならないのだ。プラトンは、それを、指導者たちのうちに発展させた超自然的で神秘的な諸力のうちに基礎づけた。<(1下 p.76)

「支配層の得た隠された知」とは占星術的なプラトン数などの秘術で、占星術は膨大な年数の観測を元にするため、ポッと出の優秀者には到達できない。…と。

JRF2024/7/106808

しかし、それこそプラトン自身がプラトン以降の者へと示唆する「神話」ではないか。そして、実際はプラトン自身もそう信じさせられているいう示唆のもとのマッチポンプの構成だろう。本当にプラトンが信じていたのは、ソクラテスが牢に入っていたように、隷従する被支配層の中にこそ、本当の哲学者がいて、哲学者が王たるべきなのは、そういう哲学者を探し出して偽の血統でも示して次の王にできるから、…だったのではないか。「人種」がウソであるという表明の意味はそこにあるのではないか。ポパーとはかなり違う結論に私は達したようだが。

JRF2024/7/102252

そして、哲学者は血筋でなく、実際の王でなくても王を動かせる王の教育者になれればいい…となってくると、アリストテレスにつながってくるのではないか。ただ、それ以降はなかなか続かなかったようだが。

JRF2024/7/101035

……。

実際のところ、奴隷の哲学者はわりといたようだ。

《アレクサンドロスの家庭教師ってアリストテレスだったんですか? - アレクサ... - Yahoo!知恵袋》
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1277431307
>当時のギリシャ社会では、家庭教師は奴隷がつとめることがあったのであまり名誉ではなかったのですが、<

JRF2024/7/104733

……。

カントの名言。

>「正直は最良の策」という言明は疑わしいかもしれないが、「正直はあらゆる策よりましである」という言明は疑う余地がない<(1下 p.58)

JRF2024/7/102552

……。

プラトンは血筋を非常に重視する。戦士の血統ももちろんだ。

>支配者は補助者としての軍隊の若いメンバーの結婚に対して「胸中の相手にめあわせてもらえなかった連中が、……支配者のせいではなく、自分自身の運のなさのせいにするような巧妙な選抜方法[くじ引き]を導入すべきである。」支配者は密かにシステムを動かし見張っているのだ。<(1下 p.82)

東京都は、都知事選の直前に、公的なマッチングシステムを検討しているという報道があった。

JRF2024/7/101265

>>
○ 2024-06-08T03:46:31Z

《須藤玲司:X:2024-06-06》
https://x.com/LazyWorkz/status/1798658036862701939
>アプリはともかく結婚相談所だと、
会社が儲ける全体最適は「結婚できない塩漬け会員を大量に飼っておくこと」だけど、
支店レベルは成婚率をKPIにしてて、部分最適は「とにかく結婚させて部署の成績をあげる」なので、
なんだかんだで意外に悪くない気はします。

JRF2024/7/107957

東京都の公式マッチングアプリが話題。部分最適の議論は疑問。全体最適が「結婚できない塩漬け会員を大量に飼っておくこと」とのことだが、結婚をある程度させないと会員になる者はいなくなる。会員を呼ぶための結婚が必要。そう考えると、業者がたくさんあると、結婚を増やし、そうでないと塩漬けを増やすとなりそうには思う。塩漬けを増やすのは利益を増やすためだから、ある程度、マッチングアプリの寡占がすすんだところで、利益を重視しない公営にするのは良い選択なのかもしれない。
<<

JRF2024/7/102706

……。

プラトンのいう哲学者王になるべき者とはつまりプラトン自身なのだとポパーはいう。

>ここにわたしがいると、わたし、つまり生まれついての支配者、支配の術を知っている哲学者がいるとプラトンは言っているのだ。<(1下 p.91)

ただ、多くの哲学者は王になることなど望まないのが普通だろう。もちろん、「オレが支配者ならこうする」的な議論は哲学者でなくても誰でも持っているものだが、哲学者なら、主権論とかも知っているので、自分が支配者に向くとは普通考えないだろう。真理の探求は、試行錯誤が必要だが、それは王には(表立っては)なかなか許されるものではない。

JRF2024/7/102936

その点、王家の血筋を持つプラトンは特別で、王になる哲学者はどのようなものかという思考が特別に成立したのかもしれない。それが王にも使える哲学を準備し、アリストテレスへ致り、アレクサンダー王に致ったのであるのかもしれない。それが哲学の地位を高めたことは間違いなく、その点、哲学者王という虚構の意義は大きいのだろう。

JRF2024/7/102782

……。

しかし、実際にはプラトンは王にはなれないのである。王になれない哲学者の自任はどのようなものか。プラトンはいう…、

JRF2024/7/107163

>「さてこの小さな集団に属する者は……多数の狂気および公共のことがらすべての一般的な腐敗を明確に認識している。哲学者は……野獣の檻に入れられた人間に似ている。かれは多数者の不正には加わらないが、かれの力は、野蛮人の世界に取り囲まれているので、戦いを一人でつづけていくには十分ではない。かれは国家や友人のために善を為す前に殺害されてしまうかもしれない……こうした点をじっくり考えるならば、かれは引きこもり、みずからの努力を自分自身の仕事に限定するであろう。」<(1下 p.90)

JRF2024/7/103681

プラトンは死んだソクラテスを念頭に暗に哲学者王たるべき人物はもういないと言いたかったのかもしれない。または、三顧の礼で迎えられた孔明を夢見ていたのだろうか。いや、それとも三顧の礼でも王になれるのでなければ、割に合わないと考えていたのか…。

JRF2024/7/106432

……。

カントの意見…、

>「王が哲学するということ、あるいは哲学者が王になるということ、これは期待されるべきことではないし、望まれるべきことでもない。なぜなら、権力の使用は理性の自由な判断をいやが応でも死滅させるからである。だが王が、あるいは王のような……民衆が、哲学者の階級を消滅させたり沈黙させたりするのではなく、あからさまに語れるようにすること、これがかれらの仕事を光らせるうえで不可欠である。」<(1下 p.85)

そういう意味で、表現の自由は大切だけれども、沈黙させるための誹謗中傷は封じる必要がある…あたりになるのか。

JRF2024/7/107555

……。

プラトンは述べる。哲学者=支配者になることがないならば…。

>「(…)もしもだよ、こうしたことが生じないのだとするならば、グラウコンよ、世界が静止することはないだろうし、悪が国家に、いやそれどころか、人間種族にはびこることをやめないだろうと思うのだがね。」<(1下 p.85)

アニメ『ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日』というのがあった。あれはシズマドライブという未来のエネルギー源が停止する派手なアニメだったようだが、本当は、このプラトンが問題になっていたのだろうか?

JRF2024/7/100951

……。

善のイデアについて…。

>善は形相とかイデアの世界において至高の座を占めており、そこから他のもろもろのイデアが生じ存在するようになる、一種のイデアを傘下におくイデアなのである。(…プラトン『国家』などの…)こうした注記から引き出せる唯一のことと以えば、善は不変であること、それは始原的なものとして他のイデアに先行するがゆえに古く(…)全体であること、それゆえ変化しない事物があずかるものであること、つまり、善は保存するものであること(…)、そしてホーリズムは善であること(…)である。<(1下 p.289, 注)

JRF2024/7/106167

私の場合は、『「シミュレーション仏教」の試み』で述べた本目的三条件(「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」)が割と具体的な善の基準になる。一方で『宗教学雑考集 第0.8版』《善》では、>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。<…とする。

JRF2024/7/108791

……。

アテネで私生児を教育していたアンティステネス…、

>アンティステネスは唯一神論者であったのであり、かれが自分の唯一神論を表現する仕方(〈協定にしたがえば〉多数の神が存在するが、〈自然にしたがえば〉、つまり、真実には、一柱の神が存在するのみである)は、自然 - 取り決めという対立 -- ゴルギアス学派の初期のメンバーとかアルキダマスやリュコフロンの同時代者の思考においては(…)、平等説と結びついていたにちがいない対立 -- が念頭におかれていたことを示している。<(1下 p.299-300, 注)

ここはポパーの一神教者としての偏見が出ているように思う。

JRF2024/7/105993

鈴村智久『バシレイア』を読んだときの↓を思い出す。

[cocolog:94899973](2024年6月)
>>
>「そう、たとえ教えがそれぞれ違っていても、真理はただ一つであり、すべての宗教はこの真理を指し示しているのだということをけして忘れないでください。(…)大切なことは、真理は一つでも、その表現は無数にあるということです。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、アニミズム、その他のどんな少数派の宗教であれ、それらは互いに共存でき、調和し合えます。なぜなら本質は一つであり、真理は調和(harmony)にこそあるからです。(…)」<(p.79)

JRF2024/7/107613

いや、真理が一つなのではなく、あくまでも共有している世界が一つというだけのことだ。私もほぼ真理が一つと信じているが、論理的には、別の真理を究極的には抱いている可能性は開いておかねばならない。そういう違いを超えて、共存しなければならないのだ。人間の限られた思考で、そこを間違って無理に一つと解釈するのは、危険な導きだと思う。
<<

JRF2024/7/102082

……。

>W・W・ターンは、アレクサンダー大王の唯一神論は人類の統一という自身の理念と結びついていたと指摘するとき(…)、たしかにただしい。<(1下 p.304, 注)

アレクサンダー大王は唯一神論者だったのか。知らなかった。

ただ、ググってもそういう情報はない…。

JRF2024/7/102575

……。

社会工学のうち、ユートピア工学は…、

>なんらかの実践的な行為を企てるまえに、われわれの最終的な政治的目的、あるいは理想国家を確定しておくことが要求される(…。)<(1下 p.97)

一方、ピースミール工学は、目の前の苦を少しずつ除去しようとする。

>苦しんでいる者には、考えられうるどんな援助でも求める権利がある。それに応じて、ピースミール社会工学の擁護者は、社会における最大のそしてもっとも緊急に排除すべき悪を探し回り、それらを除去しようと試みるであろう。<(1下 p.98)

JRF2024/7/102995

しかし、心理学(の議題設定効果)や公共選択論(の投票のパラドックス)にあるように、アジェンダの設定順序により、議論をコントロールしたりできることを考えると、どれをまず改善するかを選ぶことにはかなり政治性がある。その政治性というのは、理想国家像にかなり影響されるのではないだろうか。

JRF2024/7/104457

私は政治的構想には、ユートピア工学的な手法も用いる。理想国家や政治的目的は、それほどハッキリしたものである必要はない。だいたいどういうものかというイメージで十分である。ポパーは批判するが、その具体的な像が揺れ動くのも当然でもある。もちろん、ポパーがこのころ考えていたのは、ソ連などの共産主義で、その「理想国家」に致るにはかなり乱暴なことをしなければいけなかったが、そういうものだけがユートピア工学的手法というわけではない(はず)。

JRF2024/7/108491

……。

ユートピア主義は上からの改革で、総じて独裁者を抱くようになる。そこには難点がある。

>そうした難点のひとつは -- 慈悲を垂れようとしている独裁者こそ見つめなければならないものなのだが -- 自分の政策の結果が自分のよき意図に合致しているかをどうしたら確定できるかという困難である。(アレクシ・ド・トクヴィルは百年以上も前にこの点を明瞭に見抜いていた。) この困難は、市民が独裁に対してはその統治を批判しようとしないところに起因している。したがって慈悲を垂れる独裁者はみずからがとった施策に対する嘆きをほとんど聞くことができないであろう。<(1下 p.101)

JRF2024/7/106385

現代なら独裁者は、誰かランダムに盗聴するんだろうか? それよりは、ラジオや SNS を自由にして語らせたほうが良いのであろう。

JRF2024/7/106330

……。

>ユートピア社会工学のもうひとつの困難は独裁者の後継者の問題とかかわる。<(1下 p.102)

2006年3月のブログ初期の記事に↓のように書いている。

《独裁者になるのも考えもの - JRF の私見: 雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post.html
>独裁すべきではない。後継者がスパイであるかもしれないから。<

この点、実は、三者調整会議的「専門家集団」独裁でもありうるんじゃないかとは思う。ただ、もう日本はすでにスパイ天国的で、あまり考え過ぎても詮なきことかなと思う。

JRF2024/7/103461

……。

ユートピア社会工学的なものが何でもダメだというわけではないらしい。

>なぜなら、かつて独断的に実現不可能と宣言された多くのことがら、たとえば市民間の平和を実現するための制度 -- すなわち国家の内部における犯罪を阻止するための制度 -- は実現されたし、またわたくしは、それと同様に国際的な犯罪 -- 武力による攻撃とか威嚇 -- を阻止するための制度の樹立が、たとえしばしばユートピア的であるとの烙印を押されてきたとはいえ、むずかしすぎる問題であるとは思わないからである。

JRF2024/7/101465

わたくしがユートピア社会工学として批判する対象は、社会を全体として再構成しようとするもの、言い換えると、実現するには広範きわまりない変革をおこなわざるをえないし、またそこからの実際面での帰結についいてはわれわれの経験が制約されているために非常に評価しがたい提案のことである。
<(1下 p.105)

憲法改正はいわば弁証法である…と↓で書いたが、その大がかりなものがポパーは嫌いなのでヘーゲルなども攻撃しているということなのかな。

JRF2024/7/100010

[aboutme:125348](2010年05月)
>「弁証法」というのは、それまで絶対的に扱われていた「法」が、ある「矛盾」を境[さか]いに前提を意識せずには使えなくなること、例えば、憲法の一文を少し改めれば、実定法が保障する人権が次の日から危うくなることを、メタに表す法である。<

JRF2024/7/107162

……。

>ユートピア社会工学者が、実験室の条件(たとえばある孤立した村落)で実行された社会実験にはほとんど価値がないと、なぜなら知りたいのは社会の通常の条件下で生じることなのだから、と指摘するなら、かれはただしい。だがこの例はまさにユートピア工学者の偏見がどこにあるかを示している。かれは、社会について実験をしようと思うならば社会の構造全体を変えなければならないと確信しているのだ。<(1下 p.107)

JRF2024/7/109827

しかし、国際金融課税というのを実現しようという議論になると、その情報が電子データとして瞬時に飛び回り逃げてしまうので、世界中で一斉に規制しないといけない…みたいなことはありうる。

JRF2024/7/103075

しかも、ポパーが問題にしている共産主義が戦っていた資本主義において、金融は本丸中の本丸である。そこを考えてここにいたると、ポパーの党派性を考慮せねばならないようにも思う。ポパーはこの本の第2巻の内容からだと思うが、マルクス主義つまり左派を攻撃する右派の代表人物だと見なされていたらしいが、それだけでなく、国際金融権力をがっちり擁護するという面でも右派だったのかもしれない。

JRF2024/7/109127

……。

>ピースミール社会工学はくり返しの実験を許容するし、漸進的な改良を可能にする。政治家は、誤りを言い繕ってしまうとか、あるいは自分たちはいつでもただしかったのだと証明しようとするものだが、そうした漸進的改良はおそらく、自分自身の誤りに気づくというよりましな状況をじっさいにみちびきうるだろう。ユートピア的計画とか歴史予言ではなく、これらのことは政治への学問的方法の導入を意味するであろう。なぜなら、学問的方法の奥義は誤りから学ぶという覚悟にあるからである。<(1下 p.108)

JRF2024/7/101833

地位をかけて公開討議する政治家が言い繕うのはどの体制でもいっしょで、正直さに必要なのは、むしろ、多少の失敗・失言でも挽回できる地位の安定性ではないだろうか。ピースミール工学は、むしろ、官僚主導社会を要請しているのではないだろうか。政治の学問的方法の導入は、限定公開で官僚に学会発表する機会を設けるという方向ではダメなのだろうか?

JRF2024/7/104566

その点、いつでも官僚がやめさせられる官僚の政治任用とは相性が良くないように思う。日本の失われた30年に重なる政治改革の流れは、官僚主導から政治主導へ…というスローガンだった。天下り禁止の中での官僚の政治任用は、別の場所に地歩のある留学帰りのコンサルタントの利用を導きつつあるように私からは見えているが、それを巻き戻し、官僚を政治家がやめさせることは基本的にできなく戻して、現在のコンサルタントは国内企業に移って企業内「教室」から学術的に関わる方向にシフトしてもらうことはできないだろうか。

JRF2024/7/102520

アメリカは移民の国で少子高齢化をあまり想定しないでよいがゆえに、政治任用が成り立っているのだと思う。若者に厚みがありやめさせても代わりがいる。日本も高度成長期は若者に厚みがあったのだが、そのころは企業は終身雇用で、官僚をやめたあとが大変だったのだろう。

JRF2024/7/107175

……。

ポパーの前にマルクスが〈ユートピア主義〉を批判していた。

>しかしマルクスとわたくしとのあいだの相違も大きい。マルクスはユートピア主義を攻撃することであらゆる種類の社会工学を弾劾している -- これはめったに理解されない点であるが。かれは、社会制度について合理的な計画の可能性を信じることを完全に非現実的なことと見なした。なぜなら、社会は歴史法則にしたがって成長せざるをえないのであり、決してわれわれの合理的な計画にしたがうわけではないとされたからである。

JRF2024/7/109516

われわれがなしうる一切は、歴史的諸過程の産みの苦しみを緩和することであるとかれは主張する。ことばを換えれば、かれは徹底したヒストリシスト的態度をとっているのであり、一切の社会工学に敵対している。
<(1下 p.110-111)

「五ヵ年計画」とかはマルクスのもの・アイデアではない…ということなのかな。

JRF2024/7/105317

……。

プラトンはイデアつまり政治の美を追求する唯美主義だった。

>政治はプラトンにとっては王者の芸術(Kunst)である。<(1下 p.113)

ここはヒトラーが美術を試ざしていたことも想起させたいのだろう。

プラトンは、哲学者王が政治を描く前に「画面をまっさらにする」必要があると述べた。

>芸術家としての政治家はこのように進まねばならないのである。これが〈画面をまっさらにする〉という意味なのである。かれは、いまある制度や伝統を廃絶しなければならない。かれは、粛清し、追放し、退去させ、殺害しなければならない。<(1下 p.115)

こちらはスターリン批判か。

JRF2024/7/106124

……。

ポパーのいう「ラディカリズム」とは「社会的悪に対してはその根底まで踏み込み覆す」ことのようだが…、

>唯美主義とラディカリズムは、われわれをして理性を投げ捨て、それを政治的奇跡を望むという絶望的な希望でおき換えるようにせざるをえないのだ。こうした美しい世界を夢見ることに酔いしれている非合理な態度をわたくしはロマン主義と名づけておきたい。<(1下 p.118-119)

JRF2024/7/107383

……。

>最大多数の最大幸福の代わりに -- つつましくはあるだろうが -- 万人に対する回避可能な苦患の最小化を要求すべきであり、さらに避けられない苦患 -- たとえば、不可避的な食料欠乏の時代における飢え -- は、可能なかぎり平等に分かたれるべきであると要求すべきである。<(1下 p.322, 注)

「苦患は可能なかぎり平等に分かたれるべき」というのは「平等に貧しくなろう」を思い出す。

《上野千鶴子 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8D%83%E9%B6%B4%E5%AD%90

JRF2024/7/101514

>脱成長主張

2017年2月11日付の東京新聞に「平等に貧しくなろう 社会学者・東京大名誉教授 上野千鶴子さん」という題でのインタビュー記事が掲載された。上野は日本の人口の自然増や社会増(移民受け入れ)は不可能であり、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきとの見解を示し、「日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」と述べた。

社会学者の北田暁大は上野に代表される左派の脱成長論が、移民受け入れに反対するという点でドナルド・トランプ信奉者と変わらないと批判した。

JRF2024/7/108687

……。

>目的がよければ悪しき手段も正当化されうるかという問題はつぎのような状況に由来すると思われる。病気の人に対して安らぎを与えるためにウソをつくべきか。人びとを幸福にするために無知にとどめておくべきか。善にして美なる世界をもたらすために長く血なまぐさい戦争を始めるべきか。

これらすべてのばあいにおいて目指された行動は、最初に非常に直接的な結果(いわゆる〈手段〉)をもたらす。それは善と見なされるところのより遠い結果(いわゆる〈目的〉)をもたらすために必要な悪と考えられている。

JRF2024/7/104193

これらすべてのばあいにおいては、三つの異なった問いが生じてくると思われる。
<(1下 p.327, 注)

フェミニズムの議論、または、上の上野千鶴子さんの「データを出さないこともある」旨の発言を思い出す。

上野千鶴子さん、結構、ポパーの影響を受けてるんじゃないか? …左派だから、マルクス批判のポパーも読んでみたのだろうか? それともポパーはマルクスの影響下にあるようだから、マルクスの関心がポパーにも上野さんにも影響しているということなんだろうか?

JRF2024/7/101513

……。

>わたくしの新しい解釈に照らしてみると、国家とその市民を幸せにしたいというプラトンの説明はたんなるプロパガンダとは思えない。わたくしにはかれの根本的な善意を承認する用意がある。わたくしはまた、かれが幸福の約束をしたときの基礎とした社会学的分析は、ある限られた範囲であればただしいという点も承認する。より正確に言えば、つぎの点を承認する。

JRF2024/7/104153

かれは、深い社会学的洞察をもって、同時代人たちが押しつぶされそうな重荷、つまり、持続的な内的緊張のもとで呻吟しており、こうした重荷、こうした緊張は、民主主義と個人主義の台頭によって始まった社会革命の帰結である、と見ていたということだ。
<(1下 p.128-128)

私は上で「死んだほうがマシ」を押し付けてくる社会という現代に引き付けての解釈をしたが、プラトンの時代の場合は、実際には、(自由)貿易などによる階級闘争圧力・戦争圧力が問題だったのかな…と思う。

JRF2024/7/107939

……。

>以下においては、魔術的な、部族に縛られた、あるいは集団主義的な社会を閉じた社会と呼ぶことにし、個人が個人的な決定と向き合う社会秩序を開かれた社会と呼ぶことにしよう。<(1下 p.132-133)

ポパーの「閉じられた社会」と「開かれた社会」は重ならないもののようである。それは、共産主義社会が「閉じられた社会」で、英米帝国主義が「開かれた社会」であるという冷戦構造が「前提」されているからのように思う。

JRF2024/7/100924

……。

>有機体には、開かれた社会のもっとも重要な特徴、すなわち、そのメンバーがその社会において占めるべき地位をめぐって争うといったことに対応するものはなにもない。<(1下 p.134)

JRF2024/7/101730

「有機体」と目される全体主義国家の中でも昇進はあるのだが、「なにもない」は言い過ぎのように思う。全体主義国家=有機体という連想の中で、有機体のほうにのみある地位の争いのなさを取り上げ、それで全体主義国家をこきおろすのは、少々、レトリックが過ぎるように思う。確かにプラトンでは階層間移動は制限されているので、プラトン流の全体主義国家には妥当する部分もあるのだが。ポパーが批判したいナチスやソ連には当あてはまらない。

JRF2024/7/109733

……。

開かれた社会は「抽象的社会」になるのだという。

>有機体的性格を失えば、その帰結として、開かれた社会は次第に -- わたくしはかつてこう呼びたいと思ったのだが -- いわゆる〈抽象的社会〉に変質していくだろう。

JRF2024/7/106746

(…)

人間がじっさいに顔を突き合わせることがない社会、手書きでなくタイプされた手紙とか電報によって理解し合い、また窓を閉め切った原動機つきの車で動き回る孤立した個人があらゆる仕事をこなす社会を創造してみよう。(人工授精を用いれば、個人間の接触をもたずに繁殖することさえ可能になるだろう。) こうしたフィクションとしての社会は〈完全に抽象的な、あるいは脱個人化された社会〉と呼べる。興味深いのは、われわれの現代社会がいくつかの点においてこうした抽象的社会に完全に類似しているということである。

JRF2024/7/104264

(…)

現代社会において多くの人は、緊密な個人的関係をもたないか、あるいは非常にわずかしかもたずに、匿名性のなかで孤立して生きているのであり、そこからして不幸である。

JRF2024/7/103300

(…)

ともあれ、ここに挙げた例は、より具体的な社会集団とは反対のより抽象的な社会ということでなにが考えられているのかを、また、現代の開かれた社会は圧倒的に財の交換とか労働分業といった抽象的な関係をつうじて機能することを明確にしただろうと思う。
<(1下 p.134-137)

JRF2024/7/104999

閉じた社会が階級社会であるのに対し、開かれた社会は、抽象的役職…つまり、資格などを持った自作農的個人に支えられているということも、上の論説は含むのだろう。

科学分野はそれぞれが孤立している・非統合化されているとも言える。ゲーム『シヴィライゼーション』の技術ツリーのように、技術の積み上げはあるが、技術はそれぞれが独立して必要になっている。真理には自立性がある。ポパーが開かれた社会が抽象的社会だというとき、その openness は、そういう真理の自立性を根拠にしていると私には思える。

JRF2024/7/103546

そういった openness は、しかし領域を確定しがたいだけで、その上に包摂を定義できないというのとは違う。

そのような openness と閉じた社会は共存できないかのように描くのもまたレトリックで、(将来の)冷戦構造において共産主義国家を攻撃したいという意図から、そういう混同をわざとしているのではないか。

JRF2024/7/102692

……。

私はベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき、まるで「開かれた社会」は唯一であるかのように描いた。もちろん、個々が当たる「開かれた社会」の像はバラバラにあるのに対し、その元となる「開かれた社会」というものは実像がいってみれば「ない」のであり、「ない」という意味で唯一性を持つ(これは上で「共有している世界が一つ」ということと同様である)。これは唯一神の唯一性と似ているが、唯一神のように実像がある(と想定できる)わけではないという点で、大きく違う。

JRF2024/7/105100

個々が当たる「開かれた社会」の像はバラバラにあるが、その像によって分類して人をそこに属させるときは、ベルクソンと私の意味においてはそれは「閉じられた社会」になるのに対し、ポパーはどうもそれを「開かれた社会」と呼んでいるように思える。

JRF2024/7/102776

……。

……。

なんと、ここで「ひとこと」の一ページ 300 コメントまでの設定に引っかかってしまった! あと少しだったのに…。続きは↓。

《[cocolog:94937656] (承前) ポパー『開かれた社会とその敵 - 1巻(上・下) プラトンの呪縛』を読んだ。(つづき)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/07/post-c2c161.html

JRF2024/7/109383

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