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cocolog:94975464

トーマス・ロックリー『信長と弥助』を読んだ。Twitter (X) で話題の本。資料にしっかり基づいた冷静な筆致のかなり学術的な本だと思った。第1章と第7章に一般向けのフィクションがあるが、それ以外はノンフィクション。 (JRF 8555)

JRF 2024年7月29日 (月)

『信長と弥助 - 本能寺を生き延びた黒人侍』(トーマス・ロックリー 著, 不二 淑子 訳, 太田出版, 2017年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4778315561
https://7net.omni7.jp/detail/1106739336

JRF2024/7/297399

やや鎮火してきたが、Ubisoft の11月発売予定の新作ゲーム『アサシン クリード シャドウズ』が今もって炎上している。その炎上のさなかに、弥助ブームの火付け役と目されるこの本に注目があつまった。特に私は黒人奴隷に関する記載を問題視して、↓に先に「ひとこと」を書いた。問題の経緯についてはこちらをまずご参照いただきたい。それを読んでいただいたのを前提としてのこの「ひとこと」になる。

JRF2024/7/297095

[cocolog:94949593](2024年7月)
《Ubisoft の発売予定のゲーム『アサシン クリード シャドウズ』が炎上している。黒人奴隷の扱いについて、慰安婦問題に似た無視できない展開になってきたので、それをメモしておく。 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/07/post-377a5a.html

JRF2024/7/290743

↑の「ひとこと」を書きはじめたときには、Amazon で紙の本も買えたと記憶しているが、すぐに売り切れとなり、しばらくして紙の本が復活したところで、ようやく私も買って手に入れることができ、届いてほぼすぐに読んだのだった。(手に入ったのは 2021年6月の第1版第4刷だった。)

なお、Amazon では Kindle 版を「サンプルを読む」で第1章まるまる読むことができる。私は紙の本が読めるまで待ったが、気になる方は、特に問題となった文は第1章にあるので、そこだけ読んでも、炎上の背景が理解できると思う。

JRF2024/7/291268

……。

ここから先、いつも通り、「引用」しながらコメントしていく。ただ、今回は話題の本で、それをこんなに大量に引用していくのは、業務妨害のおそれも強い。よって、少しでも興味のある方は、ぜひ買って読んでいただきたい。よろしくお願いします。

あと、私は、黒人奴隷問題についてのみ関心があり、弥助が侍であったか、などの問題については重視していないため、そういう部分に関する引用を期待されると裏切ることになる。

(いつものことだが、このブログには字数制限などがあって、元の文にない改行が入るなどする。ご了承いただきたい。)

でははじめていく。

JRF2024/7/290833

……。

まず、[cocolog:94949593](2024年7月) でも引用した次の「問題の箇所」はとても早く登場する。フィクションとして述べられるパートで、織田信長に出会う前の記述の部分である。

>弥助は日本を旅した最初のアフリカ人ではなかったが、これだけ高貴な人物に随行したアフリカ人は彼が最初だったにちがいない。イエズス会士は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対しており、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ。

JRF2024/7/299300

ポルトガルやアジアのほかの地域から来た貿易商たち -- 宣教師とは異なる行動原理を持つ外国人たち -- がアフリカ人を伴うことはあったが、この当時は貿易商が九州沿岸から離れることは滅多になかった。したがって弥助は内陸部に赴くたびに、大騒ぎを引き起こした。地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。

弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。
<(p.16)

JRF2024/7/296677

ここは誤解を導きやすいところで、私の誤解のうち [cocolog:94949593](2024年7月) で判明していたものの他に、新たに「高貴な人物」というのが、織田信長のことではなく、高位の宣教師ヴァリニャーノのことであることに気付いた。確かにそうだとすると、弥助が全国レベルだからと言って、「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」が日本全体のことだとする誤解は生じにくいとも言える。

そのあたりの誤解についても [cocolog:94949593](2024年7月) の繰り返しになるが解説しておこう。

JRF2024/7/295858

上記、引用部分を読んで、「日本で黒人奴隷が流行した」という誤解、または、「黒人奴隷は日本発祥」という誤解が、Twitter (X) で生じた。

ちゃんと読むと、「地元の名士のあいだでは」は「九州沿岸の地元の名士のあいだでは」だと文脈からわかるようになっており、「日本で黒人奴隷が流行した」「黒人奴隷は日本発祥」は誤解であることは確定している。

JRF2024/7/299162

ただ、「日本で黒人奴隷が流行した」などと書かれているというバイアスがあって読むと、「地元の名士のあいだ」では「地方の名士のあいだ」と読んでしまったり、または、「地元の名士のあいだでは(…)流行が始まったようだ。」を「地元の名士から日本に・世界に向けて(…)流行が始まったようだ。」と読んでしまったりするようになる。前者は「日本で黒人奴隷が流行した」という誤解になり、後者は「黒人奴隷は日本発祥」という誤解になるわけだ。

JRF2024/7/293916

また、この引用部分だけを読んだ場合、弥助が全国レベルであるところから影響されると、「九州沿岸で」という文脈を読み落とし、「日本全土で」と読む可能性も高くなる。弥助が出世したのが逆に黒人が奴隷になろうとするインセンティブになりえたことに思い及ぶと、「黒人奴隷は日本発祥」という説も仮説としてはありうることに気付く。

JRF2024/7/293196

さらに、上の本の引用部分を「文の対比」としてみると、「イエズス会は黒人奴隷を禁じた」に対比して「日本は黒人奴隷を流行らせた、一部証拠がある」という構造になっているとも言える。書かれている文章はそうなっていないけれども。この部分は、書かれていることを部分的に取り出すと一面として正しいが、合わせると別の印象を作るアンフェアなレトリックの例になっているようにも思える。

この引用部分は誤読を生みやすい部分であったということは確実に言える。

おそらく今回の騒動でこの本は売れただろうから第2版的なものも出せると思われる。その際には、この部分の修正をお願いしたい。

JRF2024/7/294748

具体的には、特に、文の間(ごく近く)に「九州沿岸を含む一部では」と限定をしていただきたい。確かにそれ以外の文脈からそれがなくてもそう読めるとは言えるのだが、その文脈を汲み取るのは難しい。私も誤読したし、他の方も引掛っているようだ。そういう限定を、冗長にはなるが、足せば、そういう誤読はかなり減るように思う。

また、「アフリカ人奴隷を使う」を単に「アフリカ人を使う」に変えて欲しい。黒人の雇用形態である当時の日本で一般的な雇用形態が、現代基準で奴隷的であったとしても、イエズス会と対比したときアンフェアだから。イエズス会も奴隷的雇用を免れているわけではないから。

JRF2024/7/299648

最後に、「始まった」も「あった」で良いように思う。

まとめると、

「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。」



「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人を使うという流行が、九州沿岸を含む一部でだが、あったようだ。」

…としていただきたい。

JRF2024/7/293659

そして

「イエズス会士は(…)奴隷制に反対しており、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ」

という部分の修正は

「基本的にイエズス会士は(…)奴隷制に反対していることもあって、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ」

…とすればいいかと思う。

「基本的に」はアンフェアさを減らすために「反対」を弱めるために付ける。「反対していることもあって」にするのは、おそらく、アフリカ人を伴わないのは、目立ち過ぎたり、日本語能力がある日本人改宗者のほうが便利だったりも理由であったろうから。

JRF2024/7/294297

この部分に関し、ネットではロックリーさんが謝罪すべきという意見もあるが、私は「謝罪」はいらないと思う。誤解されやすい文章があっただけで謝罪するほどのことはしておらず、悪意はない…と、この本全体を読んで確信したから。ただ、誤解されやすい文章をそっと修正し、または、Twitter (X) などで発表してもよいが、その部分が Twitter (X) に流れてくれば十分だと思う。

JRF2024/7/293900

……。

……。

さて、Twitter (X) で問題になったのは以上で、ここからは、「日本で黒人奴隷が流行した」または「黒人奴隷は日本発祥」に誤読した上で、それらを否定する文が、この本に含まれるのかに注目していく。

将来にも、日本人だけでなく外国人も、誤読は続くと思われる。または、今回の騒動で批判した側が逆に思い直して「日本で黒人奴隷が流行した」または「黒人奴隷は日本発祥」が真実であったと思い込むこともないではないと思う。そういう人々のために、それらを否定する言説も用意できればと思う。

JRF2024/7/293653

「日本で黒人奴隷が流行した」を否定するには、黒人がそもそも日本で少なかったこと、黒人が「奴隷」として特に雇用されたわけでないことなどが示されれば良い。

「黒人奴隷は日本発祥」を否定するには、弥助の伝説がアフリカに伝わらなかったこと、または、弥助以外にもすでにロールモデルがいたこと、または、自発的に奴隷になる者はいなかったこと…などが示され、当時弥助の存在が奴隷になるインセンティブになっていないことが示されれば良い。

JRF2024/7/299372

……。

>弥助もこの若く美形揃いの小姓衆の一員として、信長と性的な関係を持っていた可能性はある。<(p.26)

信長に近く、おぼえがめでたかったゆえ。…のようだ。

JRF2024/7/297442

……。

長篠の戦いのあと、徳川家康を訪れた際…

>凱旋の旅はいっそうのんびり進み、家康は信長を各所や史跡に案内したり、景色のいい場所で茶会を開いたりした。弥助もきっと参加したかっただろうが、小さく素朴な小屋である茶室にはいるのは彼の体は大きすぎた。<(p.34)

以前、河崎一郎『素顔の日本』を読んで↓のようなことを書いた。

JRF2024/7/299627

[cocolog:93063079] 2021年10月
>>
>世界中の人種のなかで、ピグミー族とホッテントットを除けば、おそらく身体的な魅力といった点で最も劣っているのは、日本人であろう。日本人は、いわゆる蒙古系人種に属し、扁平で無表情な上に、高いほお骨と切れ目の顔の持主である。体形は、およそ恰好が悪い。頭部は不均衡に大きく、胴長で短い脚は、曲っている場合が多い。日本人にくらべると、人相学的に非常に近い中国人および韓国人は、どちらかといえば上背があって直立した体形をもっている。<(p.31)

JRF2024/7/295979

著者も示唆するが、正坐に問題があったのではないか。正坐が苦手な恰幅の良い人物などを支配層から排除しがちだったこともあるのでは…と思う。ちなみに私はデブで正坐がほとんどできない。
<<

案外、イエズス会のスパイかもしれない弥助を具体的対象として排除するために茶室が小さく作られたとかあるのかもしれない。弥助だけでなくヨーロッパ人に関しても、正座は不得意だったものと思われる。茶の湯は、そういう政治的装置だったのかもしれない。

JRF2024/7/297095

……。

>第一章のこれまでの部分は、本書のその他の部分とは異なり物語形式で綴っている。この形式を選んだのは、弥助の逸話が、まさに“事実は小説より奇なり”を地で行くような、現実離れした冒険譚に感じられたからだ。<(p.45)

第一章の一部の他、最後の第七章もフィクション形式で語られる。フィクションとノンフィクションをまぜるなという批判が Twitter (X) であったが、構成としては混ざっていない。ノンフィクションの本に、フィクション的なものを挟んで想像しやすくするのは、特に一般向けの本ではよくあることだ。

JRF2024/7/298687

……。

>弥助という名で知られる男は1555年ごろに生まれたようだ。どこの国の出身で、どこで育ったかについては、母国語や出身民族と併せて不明である。これらについては次章以降で論じてみたい。ほぼ確実なのは、彼が自由の身でなかったという点だ。とはいえ、この時代には現代的な意味での自由という概念は存在していなかった。事実上、すべての人間が社会的序列の上にいる人から多かれ少なかれ束縛されていた。そうでないのは、社会のはみ出し者か無法者だけだった。<(p.50)

弥助は、信長に出会ったときはヴァリニャーノの従者で奴隷ではなかった説に立つようだ。その前は奴隷だったと考えてもいるようだ。

JRF2024/7/299967

……。

>イエズス会は奴隷を認めておらず、建前上は奴隷を所有していなかった。しかし実際には、弥助のような護衛をはじめとして、従者、船員、荷運び人、通訳、また農作業を行う人々の手を借りる必要があった。ほかの教会思想家たちは、“しかるべき”奴隷についてだけ規範を定めるという方法を取った。つまり、規制の対象を、奴隷の女性から生まれた者、妥当な戦争(異教徒との戦争など)での捕虜、自発的に身を売った者、極貧のために売られた子供、囚人などに限ったのである。一方、イエズス会は奴隷たちの不滅の魂を救済し、彼らを“正当に”扱うことで良心の呵責を和らげた。<(p.50)

JRF2024/7/298278

この点は少しあやしい。イエズス会としては認めていないが、個々の会士は考え方もいろいろあったようで、司教によって規制が変わったりしたようだ。

《ギロチン:X:2024-07-17》
https://x.com/AFFTRPGCoC/status/1813185010176041170
>イエズス会が積極的に奴隷貿易を仲介し、商人に与えた奴隷貿易の許可証だっていくつも残ってるのに。会議の度に禁止令が出てるのは、禁止した司教が死んだりする度にそれが無効化され、会士による奴隷貿易が復活してきたからです。

JRF2024/7/293473

当然、教義としては反対すべきなんでしょうが、経済的な事情もあり。イエズス会創設者の偉い人は判断を求められた際、現地インドの会士の判断に委ねると丸投げして逃げた記録とかが残ってます。本能寺のずっと後になってから、全体一致で禁止する方針になったみたいですね。

JRF2024/7/295747

《そら:X:2024-07-18》
https://x.com/lazward_ao/status/1813806998183649487
>秀吉は1587年に奴隷貿易を禁止したが、
イエズス会は1596年になって初めて、
日本において奴隷取引する者を
キリスト教から破門することを定めた。

しかし司教の死後に破門令が無効になる
これ酷いな、許可証も調べればあるのか‥

JRF2024/7/299476

ロックリーさんは、特にヴァリニャーノについて悪くいうことはない。その点はちょっと警戒すべきかもしれない。

JRF2024/7/291563

……。

>実のところ、フロイスはアフリカ人を見世物にしようと考えた唯一のヨーロッパ人ではなかった。のちに、秀吉からの依頼で何度かアフリカ人を余興の出し物にした者もいたし、日本や中国の各地で見世物として提供した者もいた。<(p.61)

[cocolog:94949593](2024年7月) では最初、秀吉に関して問題にしたのだった。秀吉のところにいたのは「奉公人」ではなかったのか…。

JRF2024/7/296428

……。

フロイスは信長と弥助の初対面について書く…、

>「今大坂の司令官である信長の甥もこれを観て非常に喜び、銭一万[十貫文]を与えた。」<(p.64)

>銭一万[十貫文]というのは破格の厚待遇であり、信長がいかに気前よく弥助を引き立てたかを示している。<(p.64)

JRF2024/7/299230

↓で、「日本人が外国人の奴隷を買うのは、かなり高くついてしまうから雇われた黒人は奴隷としてではなかった」という論が示される。逆に銭一万もあれば弥助は自らを「買い取れた」ということではないか。しかし、買い取るという直接の形式にせず、あくまで黒人の献上と銭の下賜という形を取ったのは、日本側(信長側)に「奴婢」などを禁じる規範的意識があったからかもしれない。

JRF2024/7/297064

《岡 美穂子.:X:2024-07-20》
https://x.com/mei_gang30266/status/1814617353763889177
>何人かに聞かれた気がするので、すでにお答えしたことですが、まとめて回答します。「流行した」とまで言えるかは分かりませんが、日本の大名の中に「黒坊」を抱えていたと史料から分かる人は、複数おります。具体的に史料で分かるのは、平戸の松浦、熊本の加藤清正、因幡の亀井、長崎奉行の長谷川など

JRF2024/7/298531

(…)

ご指摘の通り、「黒坊」はカフルに限定されませんが。雇用形態は「奴隷」ではなく、給金契約の方が多かったのではないかと推測します(はっきりとわかるのは加藤家の史料だけですが)。なぜなら、日本人が外国人の奴隷を買うのは、かなり高くついてしまうからです。

JRF2024/7/297413

……。

光秀は弥助を軽くみたが…、

>弥助という存在の影響は、詳しくは第三章で論じるが、当時よりも現代のインターネット時代のほうが、よりその重要性を増すのかもしれない。<(p.84)

この辺は、今のロックリーさん自身が悪い意味で感じているところだろう。なんか申し訳ない。

JRF2024/7/294891

……。

>この本では、フィクションと事実を選り分けようと試みてきた。私たちの知るかぎり、弥助は日本で家族を持ってはいない。とはいえ、これは実際に持たなかったという意味ではなく、単にどちらの証拠もないというにすぎない。<(p.97-98)

弥助に妻子がいたというのも、Twitter (X) では見た気がするが、新しい情報が出たというわけでもなさそうなので、フェイクであったか。

JRF2024/7/292628

……。

>しかし、なぜ弥助の人生はここまで人々の興味を惹きつけ、思索や内省や議論をもたらすのだろうか? 実際に、アフリカ出身だけではなく、世界中に彼のような男たちが存在していたというのに。弥助の時代は、どんな素性の男性でも(この時代には、マリア・ギオマール・デ・ピーニャのように多民族系の女性が名を成した例もいくつかあるとはいえ、通常は男性だけだった)、適切な環境に置かれれば、世界中のどこででも名声と財産を築ける時代だった。

JRF2024/7/295725

この時代にはまだ深刻に制度化された人種差別も、産業奴隷も、国民の国外移住をコントロールできる強力な政府も、狭い地域の外の世界を詳しく知るための情報源も存在しなかった。異国の人間であることや、外部の世界の貴重な情報や外国での伝手、外国語能力、異なる技術のノウハウを持っていることが売り物となった。歴史上ほかに類を見ない時代だったのだ。
<(p.111-112)

JRF2024/7/294446

弥助がいたからインセンティブになったということはなさそうだ。弥助がいなくても海外に出たいというインセンティブがあった時代ではあったようだ。ただ、アフリカ人にとっては世界に出るとは、船賃のことなども考えると、奴隷になることと等価で、自発的に奴隷になる者がない周りの状況からすると、世界に出ようというアフリカ現地人自体ほぼいなかった可能性はある。

ただ、後述のように「アフリカ人」にも様々な経緯がありえたので、自由人がいなかったわけでもなく、たまたま自由人になった者が、世界を目指す例もないではないようだ。

JRF2024/7/295232

……。

>日本を含む東アジアに在住した黒人に関する学術的な研究は、どの言語でも、ほんのわずかしかない。また、非日本人と移民のコミュニティに関する研究も、16〜17世紀のヨーロッパ人貿易商と現代の移民問題をのぞくと、日本ではきわめて限られている。弥助という存在は、基本的に歴史研究の隙間からこぼれ落ちており、そのため、今日までは歴史フィクションによって語られるのみだった。

JRF2024/7/292959

黒人侍の逸話を包括的に検証しようというこの試みが状況を変えることになるのか、はたまた、謎めいた経歴の魅力を削いでしまうのかは、なんとも判断しがたい。(…)弥助の物語が、これからも長く語りつがれ、人々にインスピレーションを与える源泉でありつづけることを願っている。
<(p.114)

炎上の今は、「謎めいた経歴の魅力を削ぐ」方向になっているが、それまではうまくいっていたように思う。炎上がおさまれば、また、いい方向に行くのではないか。

JRF2024/7/291538

……。

>1613(慶長18)年から1623(元和9)年まで在日イギリス商館長を務めたリチャード・コックスも、その手記の中で、ヨーロッパ人貿易商だけでなく、有馬氏、松浦氏、島津氏に仕えたアフリカ系の人々(カフロ)にも触れている。コックスの在任時には日本はおおむね平和だったこともあり、船乗り、使者、召使、奴隷として仕えていたと書かれているが、アントニーという名の元奴隷をあるイギリス人が行政職で雇用したという記述もある。<(p.118)

JRF2024/7/297992

>ポルトガル人などの外国人は、本国から弥助のような奴隷や召使を連れて来日し、なかには日本人に売り渡される奴隷もいた。当時の奴隷制度の形態は、現在、一般的に考えられている形態とは異なり、契約労働者に近いものだった。日本在住の黒人、中国人、朝鮮人奴隷たちは、職業を持ち、所有者の家に養子として迎えられたり、家族の誰かと結婚したりすることもあった。<(p.126)

JRF2024/7/290331

>弥助が日本人に雇われた最初のアフリカ人だったかどうかは定かではないが、リチャード・コックスによれば数十年のうちに、数多くのアフリカ人が日本で雇用されるようになっていた。<(p.145)

このあたりが「黒人(奴隷)を使う流行が九州沿岸を含む一部であった」ということの証拠となる部分なのだろう。

JRF2024/7/294438

……。

>日本における奴隷貿易は、売買の拡大を危惧した秀吉によって1590年代に禁じられたが、契約労働者の売買という形式で続けられた。いったん奴隷となって国外へ出されてしまうと、日本側にできることはほとんどなかった。1635(寛永12)年から1866(慶応2)年まで続いた鎖国政策により、奴隷貿易はいったん根絶されたものの、その後、再び自由な渡航が合法化されたとたん、日本人女性が高級娼婦として海外へ売られるようになった。こうした売買は、1920年代に法律で禁じられるまで公然と行なわれていた。<(p.126)

日本にとっての「不都合な真実」といったところ。

JRF2024/7/297399

……。

>弥助はおそらく初めて日本の地を踏んだ黒人の一人だったろう。しかし、最後の一人でなかったのは確かだ。推定では、1630年代までの期間に、延べ数百人のアフリカ人が日本に居住していたと見られている。その中にはヨーロッパ人に雇われた者だけでなく、日本人に雇われた者もいて、さらに独立して暮らしていた者もいた。1641(寛永18)年からオランダの東インド会社が交易所として借用していた長崎湾の人工島、出島には、数世紀にわたって数人のアフリカ人が入れ替わり滞在していた。<(p.140)

JRF2024/7/298451

「日本に約6000人の黒人奴隷がいた」とかの Twitter (X) での噂は、ロックリーさん自身がここで否定していることがわかる。

なお、これまでもずっと引用には、参考文献番号などが付けられていたことがあったが、それは無視して引用してきた。当然、ここの引用にも参考文献番号はポツポツ付いており、根拠のない話ではないようだ。

JRF2024/7/291068

……。

当時の狩野派の南蛮屏風などには黒人がわりとよく描かれている。その黒人を四種のタイプに分ける。第一は従者または奴隷。第二は奴隷または契約労働者の「ラスカー」と呼ばれるインド人水夫。

JRF2024/7/298495

>三番目は稀にしか見かけないタイプだ。このタイプの黒人は、ポルトガル人貿易商のように高級な服を着て靴を履いている。隷属的な立場ではなく、ヨーロッパ人と対等の立場で描かれている。147ページの絵の硯箱に描かれている男性はこの一例だ。このことから黒人全員が奴隷や契約労働者といった隷属的な立場にいたわけではないということがわかる。明らかに裕福で羽振りがよく、おそらくは貿易商か重要な地位にいる独立した個人だと思われる。弥助もこうした絵画のどこかに隠れているかもしれない。

JRF2024/7/294054

最後のタイプは武装した黒人たちだ。彼らはこれまでの三つのタイプの中間に位置している。たいてい身なりがよく、裸足の同胞たちとは異なり靴や靴下を履いていることもある。携行した武器の種類はさまざまで、刀、槍、三叉の矛[ほこ]、弓矢などがある。こうした武器は、護衛や用心棒として雇われていることを示している。ときに馬に乗っていることもあるが、たいていは徒歩である。弥助を目撃した人物も彼が徒歩だったと証言している。日本に到着した弥助も、このタイプに当てはまりそうだ。おそらく弥助は上級のアフリカ人奴隷か、傭兵の自由民[奴隷の身分から開放された人々のこと]だったのではないだろうか。
<(p.150)

JRF2024/7/293344

……。

>屏風絵の中には、黒人の数がヨーロッパ人よりも多い絵もあり、日本の港に上陸した外国人の中に、相対的に言ってかなり多くの黒人がいた証拠となっている。それと同時に、当時の日本人が真っ黒な肌に対して強い興味を抱いていた証拠でもあるのは、弥助に対する人々の反応や信長の極端な優遇ぶりからも明らかだ。弥助が名誉ある立場で城中にいたことが、日本人画家が黒人を描写する流行のきっかけとなったのかもしれない。<(p.152)

第二章以降で「流行」の言葉はここに出てくる。

JRF2024/7/293579

……。

>弥助はどこの国の出身だったのか? この問いは今まで深く考察されてこなかった。これまでは、ソリアの記述と、イエズス会がモザンビーク島でポルトガルの物資支援を受けていたという二点から、弥助はモザンビーク出身だろうと単純に考えられてきた。しかし、ソリアの記述にはほとんど(あるいはまったく)根拠が見当たらない。<(p.155)

ロックリーさんの結論としては、弥助の出身として、アビシニア(現: エチオピア)人を推すが、モザンビーク人の可能性も一定程度ある…ということのようだ。

JRF2024/7/297049

……。

15世紀、ポルトガルは喜望峰を回った航路を発見したあとも、それを(スペインに見つかるまで)秘密にして、アフリカの各地に拠点を作った。

JRF2024/7/293375

>ポルトガルは海上航路の安全を確保するため、アフリカ海岸沖のサントメ島など防衛に適した島々に入植して砦を築いた。また、その島々を物資補給と交易の拠点とした。このように、当初から意図していたわけではないものの、ポルトガルは一大王国を築きはじめていた。しかし、支配地域は狭く、最大のビジネスは奴隷と象牙の貿易だった。スペインが南米で発見した銀鉱山に匹敵するような大型金鉱山の発見は、多額の費用を投じ、川を越え陸を進み奥地を探検したにもかかわらず、ついぞ実現しなかった。<(p.157)

JRF2024/7/295215

ポルトガルに対してすでにアフリカの主要輸出品が奴隷だった。少なくとも「黒人奴隷を日本がはじめた」というのはこの点から単純に否定できる。自発的奴隷が生まれる発端が日本の弥助であったかが問題だが、それはこれまでインセンティブ面からの否定ということで述べてきたところである。

JRF2024/7/294859

……。

ポルトガル人たちは黒人とも混血した。そして、積極的に「利用」した。

>多くのポルトガル人は本国ではさして功績もあげていなかったが、植民地では富を築き、上品ぶった態度を取った。黒人奴隷、船員、召使の存在なしには、入植者の威厳を保ち、“屈辱的な”肉体労働の必要を減らすことはできず、現地での軍事的圧力をかけることもできなかった。熱帯特有の病気に対して高い免疫力を持つ黒人たちで編成された屈強な臨時軍のおかげで、ポルトガル人はわざわざ本国から援軍を呼び寄せなくてすんだのである。<(p.159)

JRF2024/7/293060

黒人は「熱帯特有の病気に対して高い免疫力を持つ」のがポイントのようだ。その点で特に頼りがいがあった…と。

JRF2024/7/294564

……。

>入植したポルトガル人は現地人と結婚し、やがて弥助の時代以降には、その混血の子孫が奥地との交易で重要な役割を果たすようになった。<(p.162)

基本的に「黒人奴隷に対する不当な扱い」はポルトガル人が十分にしていたことが読み取れるが、その一方、ポルトガル人は混血はしていた。混血したのは、ポルトガル人男性と現地女性との結婚なのだろうが、そういう組み合わせが日本では不可能に近かったとは言え、混血がないこと(弥助にすら記録がないこと)が、不当な奴隷の扱いと見なされることもありえるか…とは思う。

JRF2024/7/294292

Twitter (X) では「日本で黒人奴隷が流行した」ことのなかった証拠として、現代の日本人に黒人の DNA が受け継がれていないことを挙げる人々がいたが、それは逆に、日本の不寛容さを示す「不都合な真実」であるという見方もできる。

JRF2024/7/298767

……。

>明の皇帝は、過去数世紀にわたる絶え間ない東方からの海賊行為を日本人の仕業だと考え、日本との通商を一切禁じた。実際には、倭寇と呼ばれる海賊には中国人も多く、この当時の後期倭寇には、ヨーロッパ人やアフリカ人まで加わっていたが、明帝国は日本に科した通商禁止を撤回しなかった。<(p.166)

アフリカ人海賊が、日本近海にいた。これは、黒人がヨーロッパ人商船で日本に来ただけでなく、海賊船で来た可能性も示唆するものだ。まぁ、当時は、海賊船も含めて「商船」だったかもしれないが。

JRF2024/7/293965

……。

弥助の経歴についてわかっていることは…、

>弥助はほぼまちがいなく人生のどこかで奴隷だった時期があること。ただし、ヴァリニャーノに仕えていたときも奴隷だったのかどうかはわからない。<(p.169)

弥助はおそらく10代前半かどこかの時点で奴隷であった。

JRF2024/7/292160

……。

>16世紀のポルトガルの奴隷制度は、これまで見てきた通り、後年の大西洋を挟んだヨーロッパと新世界間の奴隷制度の歴史に基づく概念とはかならずしも一致しない。新世界の奴隷には、おもに二種類の労働が課せられた。ひとつは、重労働の農作業で、奴隷たちは農業が機械化されるまで安い労働力を提供した。もうひとつは、奴隷所有者の家庭内家事労働だ。また、世襲奴隷だったことも特徴的である。

JRF2024/7/292901

一方、弥助の時代の奴隷は -- 奴隷から解放されて自発的に働くアフリカ人も含めて -- そういう種類の労働もしていたが、専門的な仕事につくこともあった。会計職、官僚職を務める者、主人の寝床を温める役目の愛人、武装した護衛などがこれに当たる。また奴隷の身分はかならずしも世襲ではなく、さまざまな地方の法律は、生まれながらの奴隷と自由民との区別を定めていた。

奴隷としてであれ、(おそらくこちらだと思うが)自由民として仕事に就いたのであれ、弥助の職務には明らかに護衛としての仕事が含まれていた。
<(p.169-170)

JRF2024/7/296644

まず、日本にいる黒人奉公人は、新世界つまりアメリカで見られたような「黒人奴隷」ではなかったとは言えそうだ。当時の資料にそういう記述が見当たらないから。

そして、「奴隷から解放されて自発的に働くアフリカ人」は数は相対的に少ないかもしれないが世界的にいたということだ。

JRF2024/7/299957

……。

ヴァリニャーノはイタリアのナポリ王国出身である。イタリアには黒人奴隷は少なく、特に男性黒人奴隷はほぼ皆無だったようだ。そんな中、女奴隷の子に出世した者がいた。

>もっとも重要な地位にいた黒人は1530年から1537年までフィレンツェ公を務めたアレッサンドロ・デ・メディチだろう。彼は“ムーア人”というあだ名で呼ばれた。真実は定かではないが、アフリカ人奴隷の子供とされ、その肖像画を見るかぎり、アフリカ系の血が混じっていることはまちがいなさそうだ。<(p.173)

黒人が高い地位にいたことはある…と。ただし、彼の場合は混血者だが。

JRF2024/7/298947

……。

ポルトガルの黒人事情。

>15世紀半ばに商品として輸入を開始して以来、ポルトガル社会と経済にとって、アフリカ人奴隷はますます重要な存在になっていた。伝染病と戦争が続く貧しい国で、安価な労働力を提供する奴隷は貴重な資源だった。16世紀にはアフリカ系住民の人口は、全人口約125万人のうち15万人にまで迫りつつあった。当然ながら、その多数は混血の人々だった。また多くは奴隷ではなく、自由民と男女のその子孫であり、また数は少ないものの、アフリカ諸国の代表や学生、司祭といったみずからの意思でポルトガルにいる人々もいた。<(p.174)

JRF2024/7/292255

奴隷でなく自発的にアフリカから世界に(この場合はポルトガルに)行く者はいたということのようだ。

JRF2024/7/290581

……。

ポルトガルの黒人奴隷の供給元はコンゴが主だった。コンゴ王国では、アフリカ内での紛争を通じて、奴隷をかきあつめたようである。

>コンゴ経済と輸出はポルトガルの関心 -- 最大の関心は奴隷貿易だった -- に大きく左右されることになる。奴隷貿易は頻繁な紛争と奴隷商人の汚職によって、ゆっくりと、だが確実にコンゴ王国を蝕んでいった。ンジンガ王とその王子たちは奴隷貿易に不賛成ながらも、利益享受の有無とその時期次第では支援を行った。

結局のところ、奴隷貿易はなにもポルトガルの進出をきっかけの始まったわけではなく、アフリカ内陸でもコンゴ王国内でも、それ以前から実施されてきた慣例だったのだ。

JRF2024/7/290191

コンゴ王国の通貨は貝殻を使用したもので、外国人貿易商には価値がなかった。また、外国勢に輸入品の対価として交換できる商品も、奴隷以外にほとんどなかった。王はヨーロッパで学んだ息子たちや多くのコンゴ高官の学費でさえ奴隷で支払っていた。

そんなコンゴ王国の奴隷貿易に転換点をもたらしたのは、ヨーロッパと新世界にもっと奴隷を供給しろという市場からのひっきりなしの圧力だった。それはさらなる紛争を生みっ王国と従属する小国や部族との関係を不安定にし、禍根を残した。
<(p.175)

JRF2024/7/290573

黒人奴隷貿易はポルトガルがはじめたものではない。日本の前にポルトガル発祥というわけでもなく、もっと古いものだ。

そして、紛争が奴隷供給の一番の理由であったようだ。ほぼ「奴隷狩り」があり、奴隷になるのは不名誉なことだったろう。自発的に奴隷になることはほぼなかったのではないか。たとえどのようなインセンティブがあろうとも。

JRF2024/7/297129

……。

コンゴ王国の…、

>ンジンガ王の二人の息子はヨーロッパ世界でかなりの成功を収めた。一人はウチカ(現在のリビア)の司教となり、もう一人はリスボンの有名大学の教授兼学長になった。<(p.177, 注)

これも奴隷からではないが、ヨーロッパ人が黒人を引き立てなかったわけではないことを示す例である。日本の信長だけが引き立てたわけではない。

JRF2024/7/290754

……。

>ポルトガル人はイベリア半島在住の奴隷に武器携帯や戦闘参加を促してはいなかった(…ゆえにポルトガルにいた黒人奴隷に弥助のように軍事訓練を受けた可能性はない…)。奴隷商人に歯向かった奴隷はアフリカ海岸沖の長い航海中に鮫の餌食にされるか、サントメのサトウキビ農園で過酷な労働につかされた。

JRF2024/7/299680

当然、奴隷たちには従順さが奨励され、キリスト教の教えを用いてその運命を受け入れるように説き伏せられた。奴隷はかならずしも終身身分ではなく、解放というにんじんが、つねに眼前にぶらさげられていた。主人の存命中はめったになかったとはいえ、遺言状による解放は希望を抱かせる頻度で実現していたからだ。
<(p.177-178)

自由民となった解放奴隷もそれなりにいたようだ。

JRF2024/7/290714

……。

>もし弥助が現在のエチオピアや周辺国出身の奴隷だったなら、当時の常として、極貧の両親によって売られたか、北東アフリカを荒廃させた終わりなき紛争で捕虜となったのだろう。<(p.186)

親に売られたケースであれば、「自発的」ではないが、親が子に納得させるために、黒人の英雄の話を持ち出した可能性はある。弥助などのロールモデルによるインセンティブが役立つ場面だ。

JRF2024/7/299772

……。

>一方、アビシニア(…つまりエチオピア…)人自身が使用する奴隷の調達先はオロモ人だった。オロモ人は現在のエチオピア西部に暮らすアニミズム信仰が主流の民族である。アビシニア王は当初、奴隷調達のためにオロモ人のキリスト教への改宗を禁じていた。オロモ人がキリスト教徒になると、捕獲して売買するわけにはいかなくなるからだ。旧約聖書の言葉を引用して人身売買を正当化したイスラム教国やカトリック教会と同様に、国として奴隷を容認しようとしたのである。<(p.187)

JRF2024/7/295467

奴隷売買をするためにキリスト教を禁じるなんてこともありえたのか。日本でもそういう面はあったのだろうか? この点、ロックリーさんに少しキリスト教の色眼鏡もあるか。

JRF2024/7/295163

……。

>インド人は北東アフリカの奴隷を“ハブシ”と呼んだ。北東アフリカの主要国家であるアビシニアを表す語である。ハブシは実にさまざまな仕事をこなしたが、特にその技能を評価されることが多かった。ハブシの女性はハーレムや家庭内奴隷として人気があり、絶世の美女と考えられていた。一方、男性は獰猛さや戦闘技術、名高い忠誠心、ユーモアや知性により特に軍事奴隷としての評価が高く、弥助の時代の何世紀も前から、インド軍兵士の大多数を占めていた。(…)新たな母国でなんの絆も持たないハブシは、主人に逆らったり主人を裏切ったりすることも少なかった。

JRF2024/7/296529

ハブシの評判はアジア全域に知れわたっていた。遠く離れた現在のタイには、1548年に書かれたアビシニア人軍事奴隷や傭兵の記録があり、中国南部の貿易港、とくに広州にも同様の記録が残されている。
<(p.190)

黒人は当然、タイや中国にも来ていた。

JRF2024/7/292950

……。

>エチオピア人は戦闘技術と武勇の誉れが高く、その評価は20世紀まで続いた。19世紀後半にはイタリア軍の侵攻を撃退し、エチオピア軍は近代において白人軍を倒した最初の非白人軍となった。<(p.191, 注)

日露戦争がそういうのの最初じゃないんだね。

JRF2024/7/293020

……。

>マリク・アンバルは、アラブ諸国で売買されたアビシニア人軍事奴隷で、やがてみずから傭兵舞台を率いて戦い、中央インドのアフマドナガル王国の名宰相となった。(…)アンバルのほかにも、インド亜大陸のさまざまな地域で一時期統治を行なったハブシたちがいた。ときには息の長い王朝を築くこともあり、たとえばムンバイ近くのジャンジラ島の王朝は200年続いた。<(p.192)

奴隷からのしあがったものは、弥助以外にもいた。ただし、マリク・アンバルは弥助の少し後の時代の人である。弥助の伝説が、マリク・アンバルに勇気を与えた…などということはありえるのだろうか?

JRF2024/7/293176

……。

>ヴァリニャーノと信長のもとでの弥助の役目を考えると、弥助がハブシだったという仮説は今のところもっとも有望である。しかしながら、確実な証拠はないため、100パーセントの確証を得ることは不可能であり、弥助の出生地がモザンビークである可能性も除外できない。<(p.194)

JRF2024/7/295440

……。

弥助が奴隷でなかった可能性もわずかながらある。

>ポルトガル人傭兵の入植者たちは現地のアビシニア人女性と結婚し、多くの混血の子供たちが生まれた。そうした二世の若者の中に、父親の宗教と放浪癖を受け継いで、こっそりゴアに渡った者がいたのかもしれない。<(p.196)

ということは、弥助はそうでなかったとしても「放浪癖」のある、世界を目指した「黒人」はいたのかもしれない…となる。

JRF2024/7/299064

……。

弥助の元の名前は、旧約聖書のイサクが元のキリスト教の名前だろうという。ただ、それ以外にも可能性があり、モザンビーク出身とすると「ヤオ」という名前で、それに適当に信長が「スケ」を付けた可能性もあるという。

JRF2024/7/292140

>もし弥助がモザンビーク出身だったなら、その他多くのモザンビーク在住の部族または商売や戦争のためにモザンビークを渡り歩いた部族よりも、ヤオ族である可能性のほうが高そうだ。ただし、奴隷商人であるヤオ族の男性が、なぜ奴隷になったのかという疑問は残る。飢饉のため家族が困窮したり、なにか罪を犯したりしたために売られたのかもしれない。実際、弥助の時代にも数回飢饉があった。<(p.201)

JRF2024/7/297366

……。

>弥助の出生地の証拠を検証した結果、彼がイタリア、ポルトガル、コンゴからヴァリニャーノと同行していた可能性は低いとわかった。また、私たちの知るかぎり東洋には弥助のような黒人はほとんどいなかったようだ。この仮説を否定する証拠はない。

現在のモザンビークが弥助の出生地である可能性はありえる。ヴァリニャーノが寄港した時期にはちょうど紛争があり、捕虜となった兵士もいた。一方、ポルトガルは当時小規模な奴隷貿易を行なっていて、弥助という日本名は、彼の出身部族の名前“ヤオ”と日本人の男性名の接尾語“スケ”を組み合わせたものかもしれない。

JRF2024/7/291971

またヤオ族には、記録に残された弥助の特徴 -- 腕力、武器を扱う技能、長距離の旅の習慣 -- と一致する部分があったようだ。ヴァリニャーノにとって、モザンビークまたはインド滞在中に、モザンビーク出身の奴隷または従者を雇うことは難しくなかっただろう。

しかし、現代に伝わる弥助の人物像と当時の状況にもっとも合致するのは、弥助がエチオピアやディンカ族の居住地のようなその周辺地で生まれ、子供の頃からインド軍または傭兵隊のキャンプで軍事奴隷として養育され、訓練を受けていたという仮説だ。

JRF2024/7/295176

インドで雇用可能なアビシニア人の数は、ほかの地域出身のアフリカ人にくらべてはるかに多く、さらにアビシニア人はヴァリニャーノが求める技能と評判を兼ね備えていた。その当時、相当な数のアビシニア人が職を求めていたことだろう。

また彼らは地理的にもイエズス会布教所の近くにいて、雇用実績もあった。また弥助の体格と健康状態の良さを考えると、危険が多く飢饉に苦しめられたかもしれないモザンビークの田舎で育ったというより、貴重な軍事奴隷としてきちんと食事を与えられ特別な養育を受けてきたと考えるほうが自然だ。

JRF2024/7/294417

さらにヴァリニャーノはまちがいなくキリスト教徒を雇いたいと考えたことだろう。少なくとも、キリスト教徒として生まれ、奴隷になったばかりの時期にイスラム教に改宗したとしても、カトリックへの再改宗に素直に応じる者を望んだはずだ。また、ヴァリニャーノの威厳を高めることができ、どんな困難な状況でも絶対服従の忠誠を誓える者が必要だった。ハブシ(エチオピア人)はそうした特性で名声を得ていた。弥助の果たした役目を任せるには、奴隷になったばかりの者や、しかるべき養育を施され奴隷という境遇を受け入れていない者では信頼できなかったことだろう。
<(p.202-204)

JRF2024/7/298624

長く引用してしまったが、この結論にいたる第五章にロックリーさんは学術的な力を込めたのだと思う。

JRF2024/7/294413

……。

弥助のその後について…

>日本語であれヨーロッパの言語で書かれたものであれ、特定の黒人に言及した当時の日本に関する史料はほとんどない。その数少ない史料の大半は弥助に関するもので、つまり、私たちがすでに検証した史料ということだ。その他の史料は、概して楽師や召使の奴隷について言及したもので、体格や軍事的技能を買われて雇用された弥助に当てはまらないと思われる。また、そうした史料の多くは17世紀初めのもので、その頃には弥助はかなり年をとっていたことだろう。<(p.206)

JRF2024/7/297754

……。

>黒人の自由民が(逃亡中の奴隷であっても)開業することは、地球上のどのポルトガル領でも、その他のアジア地域でも珍しいことではなかった。黒人はポルトガル本国では差別されたり、家賃と食費を払えずに貧困に陥ったりすることが多かった。しかし、技能や仕事があればその働きぶりは実に優秀で、とりわけ植民地では、ヨーロッパ人の適任者がいないため、自由民が事務員や職人として雇われることも多々あった。<(p.216-217)

弥助の例を挙げずとも、自由の身となれば黒人にもチャンスはあった。

JRF2024/7/297100

……。

>マカオやゴアにも多数の奴隷が暮らしていて、その数はヨーロッパ人の人口の約6倍にものぼった。奴隷の多くはアフリカ系だった。(…)広州の商家では、アフリカ人奴隷をたくさん買うことがステータスシンボルだったと言われている。<(p.217)

「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行」は中国の広州には少なくともあったらしい。日本(九州沿岸)だけではない。

JRF2024/7/291642

……。

>この地域の調査データは数が少ないが、当時の東アジア航路を行き来する国際貿易商のあいだでは、アフリカ人護衛団を侍らせることが流行だったようだ。裕福な商人たちは誰が一番豪勢で派手な取り巻きを連れているかを競い合った。例を挙げると、海賊船船長兼貿易商であり、マカオの初期の開拓者だったバルトロミュー・ヴァス・ランデイロは、斧槍や盾で武装した80人近いアフリカ人護衛をどこへでも引き連れていたと言われている。<(p.218)

「流行」の言葉はここにも。

JRF2024/7/293181

……。

>また別の例では、弥助の時代よりも後のことだが、17世紀前半の中国人海賊で、密輸業者及び貿易商だった鄭芝龍が、最大で300人を超えるアフリカ人護衛の一大軍団を抱えていた。

(…)

鄭は日本に長く住んでいた。中国政府当局から逃れて安全に暮らせるうえ、日本とヨーロッパの交易や密輸の機会を利用して儲けることができたからだ。彼の船団は最多で一千隻のジャンク船[三本マストが特徴の中国の木造帆船]を擁していた。そのため、日本で暮らす裕福な中国人、ポルトガル人、日本人は、アフリカ人の取巻きを大勢連れているとまことしやかに伝えられていた。
<(p.219)

JRF2024/7/295337

もしかするとここも、九州沿岸を含む一部の「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。」という部分の根拠なのかもしれない。弥助はあまり関係なく思えるが…。

JRF2024/7/291995

……。

>弥助は航海に慣れており、どこの国の船でもどんな状況でもどんな職種でも、船上で役立つ働きができただろう。(…)弥助はほかにすることもなく、あるいは新たなチャンスがあるという噂を頼りに、インドかアフリカ、またはその中間のどこかに行こうと考えて、船上労働と引き換えに無賃労働する契約を結んだのかもしれない。第4章で検証した屏風絵のように、アフリカ人やインド人はアジア地域のポルトガル船乗組員の多数を占めていた。<(p.220)

JRF2024/7/293878

「船上労働と引き換えに無賃労働する契約」が可能なら、わざわざ奴隷にならなくても世界を目指せたとなるわけだが、弥助に憧れて世界に行ったアフリカ人がいたとなるのだろうか?

JRF2024/7/290547

……。

一方、ロックリーさんは基本的には、船での旅が高コストであることから、弥助はアフリカに帰ったのではなく、日本近辺に留まっただろうと説く。

>〈世界ふしぎ発見!〉では、弥助がモザンビークに戻り、日本の着物を現地の人々に紹介したのではないかと示唆した。この説は、番組が“キマウ”と紹介した現地衣装の語源が“キモノ”なのではないかという推論を基にしている。

JRF2024/7/293078

(…しかし…)

ゴアにはサリーやバジュの一種である“キマウ”と呼ばれる服がある。これは、マレーシアのようにインド文化の影響を色濃く受けたほかの国々でも一般的な服装となっている。19世紀までインドは世界最大の繊維輸出国のひとつであり、モザンビークと何世紀にもわたり直接交易があったことを考えると、その“キマウ”という衣装が実在するとしたら、インド由来の品と考えるほうがもっともらしい史実に思える。
<(p.220-221)

JRF2024/7/293355

……。

基本的にはロックリーさんは、弥助はイエズス会にいったんは帰ったという説になるようだが、ただ、本能寺の変の際にすぐにイエズス会を頼ることもできたのにそうせずに信忠のところに向かったため、それ以外の可能性も排除できないとするようだ。

JRF2024/7/290325

……。

第七章は、フィクションに戻り、弥助の生涯を物語る。最後、弥助は中国船で海賊になり…、

>弥助として歴史に残した男の血は、もしかしたら、今も日本南部の島々か日本の南西の海のどこかで暮らす日本人、中国人、フィリピン人のいずれかの島民の体に脈々と受け継がれているのかもしれない。日本史上もっとも有名な黒人の魂は、四半世紀以上経っても忘れられることなく、伝説として、また世界中の人々に多様性に富んだ閃きを与える源として、今も私たちとともにある。弥助、君に心からの敬意を。<(p.243)

JRF2024/7/290483

……。

著者あとがき。

>当初、私は弥助と同じ境遇の人々は男女問わず、たとえば奴隷のように憂慮すべき事情で海を渡らされた強制移民ばかりだろうと考えていた。しかし、そんな私の想定はやすやすと裏切られ、移民のすべてがこれに当てはまるわけではないことを知った。<(p.256)

炎上騒動の当初は、私はもっと黒人が日本中に来ていたような印象を持っていた。そしてロックリーさんと同じく、それは(ヨーロッパ人の)奴隷だったろうと思っていた。

JRF2024/7/291740

……。

執筆は簡単にはいかず…

>この本の基となった弥助に関する論文を読んでくれた専門家の言葉を借りれば、こういうことになる。「君は最大主義者[マキシマリスト]的手法を取っているように思う。同じだけの確率で“ないかもしれない”場合にも、だいたいにおいて“あるかもしれない”方を採用している。とはいっても、史料が不十分な場合には、そうでもしないと先に進めないだろう」。その言葉は、本書のスタンスを端的に表している。<(p.257)

JRF2024/7/295571

でも、私はそこまで強引な印象は受けなかった。まぁ、私がいつもロックリーさん以上に強引だからというのはあるかもしれない (^^;。

JRF2024/7/299677

……。

>本書の目的は、アフリカの奴隷貿易とその世界的な影響に対して批判の目を向けることでも、ある特定の文化的慣習 -- たとえ私たち現代人の眼には怪しげに映る行為だったとしても -- を批判することでもない。あくまで事実は事実として、可能性は可能性として提示するよう努めた。現代人にとっては、本書に登場するさまざまな人物の行動や思考パターンが奇異に思え、ときには恐ろしくさえ感じられるかもしれない。しかし、その当時にはかならずしもそういう評価を下されていたわけではないのだ。<(p.258)

JRF2024/7/296169

>過去を振り返って批判することはたやすい。(…)しかし、私は裁判官の立場に立って書くという誘惑には極力あらがい、冷静な観察者の目線で書くように努めた。その時代の良さや独特の雰囲気をよりよく伝えたかったからだ。そのせいで著者が人情味に欠けていると思われないことを祈りたい。<(p.259)

「強引」というよりは「冷静」が本書の私の評価になる。

JRF2024/7/291186

……。

さて、「日本で黒人奴隷が流行した」は、九州沿岸から中国にかけてあった黒人奴隷を使う流行について、日本側を切り取るとそう言えなくもない…ということのようだ。黒人を日本人に適用しないような無理な待遇の「奴隷」にしたという話ではない。ただ、混血を進めなかった点(そういう証拠がない点)については日本にとっては不利だろう。

つぎに「黒人奴隷は日本発祥」については、まず、単純に黒人奴隷はポルトガルのアフリカ支配以前からあるもので、ポルトガルの後の日本が発祥であるはずはない。

JRF2024/7/293656

そして、「黒人が自発的に奴隷となったのは日本の弥助のインセンティブの影響」ということについては、インドまで弥助が戻ってそこでマリク・アンバルまで影響した可能性はなくはなく、そういうロマンの嚆矢となった可能性はありうる…とはしたいが、普通に考えればありえない…ということだろう。多くの奴隷は紛争によるもので、奴隷になるのは不名誉なことだから、わざわざ奴隷になることはなかっただろう。親が子を売る場合、弥助やマリク・アンバルの物語が影響した可能性はなくはないが、ロックリーさんすらアフリカでの評判を持ち出さないあたり、日本の弥助はそこまで有名人でもなかっただろう。こちらもありえない方向である。

JRF2024/7/298010

これで、他の人の誤解の影響が相殺されるのなら良いのだが、どうか。

JRF2024/7/298102

……。

……。

追記。

ちなみに、弥助の出身地について、岡 美穂子. さんは、モザンビーク説をとるようだ。

《岡 美穂子.:X:2024-07-19》
https://x.com/mei_gang30266/status/1814260902033776843
>ヴァリニャーノがリスボンからインドへ行く途中に、モザンビーク要塞に立ち寄り、その司令官に挨拶に行った際に、支援金と共に、3人の奴隷を受け取り、2人をリスボンのイエズス会修道院に送って、1人を手元に残した、と書いてあるからです。<

JRF2024/7/295254

typo 「引掛っている」→「引っ掛っている」。

JRF2024/8/291914

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