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cocolog:94987854

大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか - ヘーゲル「法哲学」入門』を読んだ。ポリツァイ(内務行政)とコルポラツィオン(corporation=ギルドの発展形?)で上下から「現実的な神」である国家有機体を運営するのが、ヘーゲルの国家論のようだ。 (JRF 9407)

JRF 2024年8月 6日 (火)

『国家はなぜ存在するのか - ヘーゲル「法哲学」入門』(大河内 泰樹 著, NHKブックス 1286, 2024年7月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4140912863
https://7net.omni7.jp/detail/1107520497

JRF2024/8/66060

最近、ポパー『開かれた社会とその敵』を読んで([cocolog:94937590](2024年8月), [cocolog:94980637](2024年8月))、ヘーゲルに関心を持った。また、三者調整会議という構想を抱いていて国家論にも関心があった。そこに Twitter でこの本の宣伝を見たので、予約して買って読んでみた。

この本の内容としてはヘーゲルの『法の哲学』のさわり・要約といったところ。最近のコロナ禍にかこつけて国家論を論じている。

JRF2024/8/61736

……。

本の紹介に入る前に、私の三者調整会議の構想について、軽く書いておこう。

keyword: 三者調整会議

私には民主主義をやや後退させた三者調整会議という構想があって、それは新しい事業仕分けからその体制に持っていけばいいのではないかと考えていた。

JRF2024/8/64417

[cocolog:94865920](2024年5月)
>私には「日本に必要な若者専門家による専制的支配として、(「若者」)官僚の事務会議、医師・弁護士を中心とした専門家会議、科学者・(IT)技術者からなる技術会議、とそれらを統べる三者調整会議を作る」という構想([cocolog:94354877](2023年8月))がある。直近で、それを民主党の「事業仕分け」体をまねることで、作っていってはどうかという提案をしていた([cocolog:94856421](2024年5月))。<

JRF2024/8/63489

[cocolog:94895713](2024年6月)では、新しい事業仕分けを「素人」の公開討論を避け「専門家」のアカデミズム中心の限定公開に頼るようなアイデアを出したりしたが、その後、東京都知事選での蓮舫さんの敗北を機に反省し、その主張をゆるめた。希少な若者は自由主義経済から恩恵を受けており、民主主義からの後退はあまり必要ないのかもしれないから。

JRF2024/8/66650

[cocolog:94936198](2024年7月)
>インフレ期。民主主義から言えば、高齢者が強いが、自由経済から言えば、若者が強い。そこでバランスが取れているとできる。これからの時代、若者は金は稼げるが時間はないという傾向が強まり、壮年期・中年期は自己実現ならぬ「社会実現」を目指すなどとされていくのではないか?<

JRF2024/8/66944

『開かれた社会とその敵』を読んでいく過程で、民主主義からの後退の戦略構想は、現状では、昨今の政治主導の流れを、官僚主導に戻すこと…第二次安倍内閣で「内閣人事局」により奪われた官僚の人事権を内閣から取り戻すことぐらいに縮小している。その上でやることというのは、官僚の実績を学会発表する機会を増やすこと、コンペなどをアカデミアへの限定公開で増やすこと…ぐらいの提案になっている。

ただ、戦線を縮小し過ぎの感もあり、他に何かないか…というのがこの本を読むモチベーションになった。

JRF2024/8/61718

……。

いちおう、 ↓という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。そのための読書という側面もあるのだが、今回、こちらは進展がなかった。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/8/60854

……。

ここからはいつものように「引用」しながらコメントしていく。新しい本なのでそれが業務妨害に当るおそれも強い。興味を少しでも持った方は、是非、この本『国家はなぜ存在するのか』を購入していただきたい。

JRF2024/8/61170

……。

>プロイセンは農業を中心にした、産業的に遅れた国でした。

しかし、そうして政治的にも経済的にも遅れていたことが、むしろプロイセンを近代化に向かわせました。その中の一つの重要なファクターが「医療化」であったというわけです。
<(p.24-25)

ロシアもその遅れから逆に共産党支配へ突き進んだ。18世紀後半、フランス革命を横目に、プロイセンもその遅れから「医療ポリツァイ」などの積極導入に突き進んだ。…ということのようだ。

JRF2024/8/66232

……。

この本にはフーコーやハーバーマスも出てくるが、「医療ポリツァイ」の説明のために、フーコーの「生政治」という概念が説明される。

JRF2024/8/69392

>フーコーの「生政治」という概念については、すでに多くの研究や解説がありますが、これは人間の生命を統治の対象とする政治、と説明することができるでしょう。権力というのは私たちを物理的な力、つまり暴力によって支配するものであるという理解が通常ありますが、この生政治、ないしは医療ポリツァイにおいて現われてくる権力は、人々に何かを強制したり、人々を痛めつけたりするような否定的に働く権力ではありません。むしろ人間を生かす、肯定的に働く権力だというのです。フーコーはこれを「生権力」と呼びます。

JRF2024/8/62858

ここで重要なのが、統計的に人々を把握するということです。この権力は個人を拘束したり痛めつけたりするのではなく、人口を全体として調整しようとします。そして、その結果として個人を殺すよりは、むしろ生かしていくわけです。そういう新しいタイプの権力、ないしは、政治というものを、フーコーは当時のプロイセンの医学の中に見出しました。
<(p.27)

否定的な権力ではなく、生かしていく権力。

JRF2024/8/68450

……。

>ヘーゲルにとって最も重要な価値は自由です。そこで「法」は「自由の実現」である、といわれます。つまり、精神的なものであれ制度的なものであれ、自由が人々によって共有されるために何らかの形で存在しているもの、そうした存在が「法」と呼ばれます。

JRF2024/8/67386

したがって、通常の法律も私たちの自由を制限するものとは見なされません。むしろ、人々は「法」を通じて自由になる、ということになります。あるいは人々が内面化している道徳的意識や、国家といった外的社会制度も、その中で人々が自由になれるようなものである、あるいはそうでなければならないというのが、ヘーゲルが「法」という用語に込めている主張です。
<(p.49-50)

国家は自由と敵対するものではなく、むしろ国家により自由が保障されるのだ…ということについては、「国家自由主義」的な価値観として次のような話をよくする。

JRF2024/8/60123

[cocolog:91758418](2020年3月)
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<

JRF2024/8/64714

これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。国家自由主義。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。

これがポパーの場合、『開かれた社会とその敵』において、ウォークマンではなく自転車を買う自由が問題となったようで、「国家自由主義」に相当する主義はまぎらわしい名前だが「保護主義」と呼ばれていた。

ヘーゲルの場合は、「欲求の体系」を問題として自由を語り、国が自由のためにあるとするのは私やポパーに似ている。ポパーはヘーゲルを全体主義の御用学者として強く非難するけれども。

JRF2024/8/64071

……。

>このヘーゲル独自の「法」概念を理解するときに重要なのは、「意志」というもう一つの概念です。ヘーゲルは、「法」は「自由な意志の実現」であるともいいます。しかし、「法」が先に見たように多様な内容を含むものだとしても、それが「自由な意志の実現」であるというのはどういうことなのでしょうか。

たとえば、個人としての私は意志を持つことができます。その意志が他者の意志に阻害されることなく実現されうる状態は自由であるといえるでしょうが、これだけでは法律や社会制度は自由を制限するものとしか見なされないでしょう。

JRF2024/8/65852

ヘーゲルが「自由な意志」と呼んでいるのは、そのような個人の意志ではなく、「集合的な」意志、つまり複数の個人によって形づくられている意志です。ヘーゲルは自由を「自己のもとにあること Bei-sich-sein」だといいます。

つまり、多くの他者がそこにいるとしても、そこで自分が他者に巻き込まれる、他者に左右されるというのではなく、他者と一緒にいながらにして、自分であることが失われない、そうした状態の意志が「自由な意志」だということなのです。
<(p.50-51)

JRF2024/8/65263

これはおそらく「自由な意志」を(大上段から)定義しすぎていると思う。上のウォークマンを買う自由のように、下から見える自由から、自由を構築する方向も持たないと、人々に理解され得ないのではないか。大上段からの定義は、自由の意味を制限することになっていると思う。それも必要な方向かもしれないけど、「自由」の定義なのに「自由」が未来に開かれていない感じがする。

JRF2024/8/68241

……。

ヘーゲルには課題がある。

>その課題とはつまり、構成要素(個人)が自立しているにもかかわらず、全体(国家や社会)と一体であるようなあり方をいかにつくり出しうるのか、あるいは一体性の中にありながらも個人が自由であるようなあり方はいかにして実現可能なのかということです。これをヘーゲル的用語で表現するならば、「普遍と個別の一致はいかにして可能なのか」ということになります。<(p.53)

JRF2024/8/65037

先取りすると、ポリツァイ(内務行政)が上(普遍)から下(個別)へのシステムで、下(特別)から上へ意見などを拾い上げるコルポラツィオン(corporation=ギルドの発展形?)に人々は属して上とのコンフリクトの調整を行うことにより「現実的な神」である国家有機体を運営するのが、ヘーゲルの答えとなるようだ。

JRF2024/8/67601

……。

「ポリツァイ」は現代では police つまり警察と同じ言葉だが、当時は別のもっと広い意味を持っていた。「ポリツァイ」という言葉は、いろいろ訳があるが、

>「内務行政」という訳もあり、これが一番ヘーゲルの語の語ろうとしているものに近いかもしれません(…)。<(p.61)

かつての「ポリツァイ学」は、帝王学というか帝王の家臣学のようなもので、内政について広く学ぶ学問であったらしい。かつての行政的政治を知りたい、「支配」の秘密を知りたいという方は、この本で参照されているような「ポリツァイ学」にあたってみると、ひょっとすると求めるものがあるのかもしれない。

JRF2024/8/60314

ウェーバー『支配について』([cocolog:94703217](2024年2月))は、宗教や哲学に関心を持つ者にはいいかもしれないが、実務に関心があるなら、ポリツァイ学などがいいのだろう。

JRF2024/8/69899

……。

賤民などとも訳される「ペーベル」…、

>ヘーゲルは、ペーベルは市民社会の中で「偶然だけを頼りに」する、「軽佻浮薄」で「労働嫌い」な人々だといいます(…)。ひどい言いようですが、これは別に道徳的に彼らを批判したいからではありません。彼らにそうしたメンタリティを植え付けたのはまさに市民社会のほうなのです。

JRF2024/8/62435

つまり、ペーベルとは主には貧困を原因として、市民社会の中でその一員として生計を営んでいく意欲を失った人、そしてそれによってこの社会に対して反逆心を抱くようになった人々なのです。
<(p.98)

ヘーゲルは、ペーベルがフランス革命を起こしたという認識のようだ。

ペーベル。現代だと俗にいう「ネトウヨ」とかがそうなのだろう。反逆心というのは微妙に違うが、似ている。私はネトウヨではないつもりだが、「ニート」であるので、おそらくペーベルになるのだろう。ヘーゲルのかつての哲学者仲間にも没落してペーベルになった者が多かったのではないか。

JRF2024/8/63258

ペーベルには裕福な者も含まれうる。↓を思い出す。

[cocolog:70551613](2011年11月)
>マメ知識:リカードの比較優位における「失業者」は「利子生活者」という意味に近い。<

なお、この本の最後のほうで、著者は、ヘーゲルのポリツァイやコルポラツィオンからなる国家のシステムが、ペーベルをなくそうとしたものにもかかわらず、うまくいかなかったと評価する。

JRF2024/8/66693

……。

現代の福祉国家的側面は、宗教が担っていた。世界全体が善いものとなることを神があらかじめ見て(pro-vide)、配慮してくれる、そういう国家…、

>ちなみにフランス語では「福祉国家」のことを「摂理国家 État-providence」といいます。<(p.108)

神の摂理または予定に沿うようになされるのが信仰だったのだろう。

JRF2024/8/65106

……。

ポリツァイは洗練された巧妙な統治で、生活の隅々に入り込んでくる。それは、

>「些事にこだわる」=ペダンティックな性格<(p.114)

…を持つ。それはどこまでも些事に関わってくる可能性があるし、逆にまったく相手にされないことも起こる。どのあたりまで関わるかというのを制限する論理・機能がポリツァイだけだとない。

そこで必要となるのがコルポラツィオンの機能ということのようだ。コルポラツィオンが(例えば労働組合的な)交渉力を持つことで、ポリツァイを制限する・歯止めをかけられるということらしい。

JRF2024/8/67779

……。

>ヘーゲルは哲学者フィヒテだけでなくポリツァイ学者たちもまた、あまりにもそうした些事にとらわれすぎていると考えていたのでしょう。つまり、ヘーゲルは、自由であるはずの哲学がそうした些事に入り込んでいくことは、まさに自由の否定だと見なしたのです。<(p.117)

私のウォークマンを買える自由といった考え方は、下からの自由の意義付けではなく、些事に関わることだとヘーゲルは見なしたのかもしれない。私とは考え方が違う。

JRF2024/8/60301

……。

「ペーベル」という言葉は使われなくなり、代わりにマルクスなどが使う「プロレタリアート」という言葉が、その位置で使われるようになった。しかし、ヘーゲルのペーベルは、職業からあぶれた人たちで、労働者階級とはかなり違う。

>そこで参考になるのは、20世紀のユダヤ系ドイツ人の哲学者ハンナ・アーレントが『全体主義の起原』の中で「モッブ」と呼んだ人々です。アーレントによれば、モッブとは「全階級、全階層からの寄り集り」(…)であり、19世紀後半にそうした人々が、テロリズムと熱狂的なイデオロギーを奉ずるに至り、のちのファシズム、とくにその指導者層の淵源となったことを指摘しました。<(p.127)

JRF2024/8/60722

ペーベルやモッブは、「労動への意欲を奪われ精神的に荒廃し(p.129)」ていた。…と著者はする。

JRF2024/8/61713

……。

ギルドまたはツンフトから発展(?)した形としてコルポラツィオンがある。ヘーゲルはコルポラツィオンとギルドやツンフトとの違いを強調する。

>ヘーゲルは、コルポラツィオンを「第二の家族」(…)と呼びます。以前見たように、市民社会は、家族という紐帯から切り離されたばらばらの個人を出発点としていましたが、コルポラツィオンという、近代的分業にもとづいた職業団体を通じて、再び個人は共同体的な結びつきを取り戻すことになるというわけです。

JRF2024/8/63812

このコルポラツィオンがポリツァイに代わって「特殊な偶然性に対する配慮」すなわち、生活上のリスクに対する予防措置を担います。さらに重要なのは「能力の育成」、つまり職業訓練です(…)。
<(p.139)

ただ、IT革命のころもそうだが、何を教えればいいのかがハッキリしないときに「職業訓練」というのは的外れにも映るものだ。そうであるがゆえにペーベルとなることを選ぶ者も出てくるのではないか。(参: ↓)

《「結果」の平等、「機会」の平等 - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_2.html

JRF2024/8/68150

……。

>>コルポラツィオンにおいては、生計が能力において保障されるという意味で、家族が堅固な基盤を、すなわち堅固な資産を持っているだけではなく、さらに能力も生計の保障も、ともに承認されている。したがってコルポラツィオンの成員は、自分の有能性とちゃんとした暮らし向きを、すなわち自分がひとかどの人物であるということを、成員であるということ以外の外的表示によって示す必要はない。<(『法の哲学』第253節)<(p.142-143)

私は(私の本の)電子書籍の出版をしているが、まったく売れない。みじめだ。何か、団体等に属せば売れるようになるのだろうか。…と妄想する。

JRF2024/8/65497

しかし、皆が売れてない状態なら、そういう「コルポラツィオン」が私の生活の面倒を見る原資もない。まず誰かが売れねばならないと思うのだが、それが間違っているのか? たとえば、金持ちが(相続税・贈与税を逃れて)子供に財産を渡すのにコルポラツィオンを使うのの「おこぼれ」をもらうのが正しいということだろうか?

JRF2024/8/60968

……。

>ヘーゲルも、じつは若い頃は、フランス革命に熱狂していました。

(…)

ところが、青年期以降の著作ではフランス革命についてとても辛らつな批判を向けています。とくに、コルポラツィオンのような組織が失われてしまったことが問題であり、そうなってしまうと上から下までポリツァイが貫いているような国家が実現されてしまうと考えていました。
<(p.146)

そういう国家は国民にとっても酷なシステムだということだ。

JRF2024/8/62232

私は、三者調整会議もそうだが、国政についていろいろ考えるが、地方公共団体とか中間団体的なものは捨象してしまう。しかし、現実に国政に影響しようとするなら、まず中間団体的なところからアプローチするのが、モデレートなアプローチだと私も思う。逆にいればそうでないアプローチは過激だということだ。その点、私は反省すべきだろう。現実に現に中間団体に属してこなかった以上、今さらそれは難しいのだが。

JRF2024/8/69231

……。

フランス革命ではロベスピエールなどによる苛烈な政治があった。

>別の言い方をするならば、フランス革命が実現したのは、自由・平等・友愛のうち、自由と平等だけでした。しかし、まさに友愛なき自由と平等が暴力的な体制を生み出したのです。ヘーゲル研究者であるアヴィネリのうまい表現を引けば、「コルポラツィオンがなければ、『自由』と『平等』の下に『友愛』が消滅してしまう」のです。<(p.148)

JRF2024/8/67541

……。

>ヘーゲルは講義で国家を「現実的な神」とも呼んでいます(…)。『法の哲学』序言における「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的なものである」という言葉(…)はとても有名ですが、ヘーゲルがまさに現実となった理性的なものを国家の中に見ていることには疑いはありません。<(p.153)

JRF2024/8/65187

ただし、例えば、犬は四本足という概念は正しいが、怪我をして足を一本失っても犬は犬という概念に属す。三本足の犬は「現象しているもの」であるが、犬という概念が「現実的」になったものという評価をヘーゲルはしないということのようだ。同じように(?)、ヘーゲルは現存する国家が無条件で正しいと考えていたわけではない…と著者はする(p.154)。

JRF2024/8/67976

[cocolog:94980637](2024年8月)
>現にあるものは必然的にあるのであり、理性的で善なるものであらねばならない。そしてとりわけ善なるものは、以下に見るように、現に実在しているプロイセン国家であるというのである。<(ポパー『開かれた社会とその敵』2上 p.100)

…というポパーの理解は少し違うということになるのだろうか?

JRF2024/8/63576

……。

ヘーゲルの議会の構想は身分制議会であるが、その身分というのは、経済的概念であるという。

>第一の身分は、「実体的直接的身分」と呼ばれます(…)。「直接的」というのは、この場合自然=土地と結びついていることを意味します。つまり、農業によって生計を立てている人々ですが、そこにはいわゆる農民はもちろん、土地を持ち農場を経営する土地貴族(…むしろこれがメイン…)も含まれます。

JRF2024/8/67960

第二身分は、「反省的形式的身分」と呼ばれます(…)。これは、第一の身分が生み出した自然物に労働を加える人々を指します。つまり、職人、工場労働者であり、生産物を消費者に届ける商人もそこに含まれます。第一の身分がいわば田舎に住む人々だとすれば、反省的身分に属する人々は都市に住む人々と見ることができるでしょう。

JRF2024/8/68497

第三の身分は「普遍的身分」(…)です。この身分に属する人々は普遍的利害を実現するために働きます。ここで考えられているのは官僚であり、軍人であり、そしてまた君主でもあります(前二者が国家による給与で養われているのに対して、後者は自分の財産で養われているという点にヘーゲルは区別を見出しています)。
<(p.166)

現代法学において、かつての身分法的なものはなくなったが、消費者身分などを特別に保護する必要がある…などの文脈で、現代的身分はありうるというのが、私の昔からの考え方だった。

JRF2024/8/64105

……。

>ヘーゲルは「君主なき人民」は「形式なき塊(群れ/群衆Masse)」(…)だとまでいいますが、それは多である人民に対して君主が統一=「一性」として初めて国家に一体性を与えるのだという理解に即しているからです。逆にいえば、現在では一般的となった人民主権という考えは、こうした統一を与える卓越者を必要としない形で、主権という概念そのものを脱構築するものであったともいえるでしょう。<(p.176-177)

現在の民主主義国家の一体性は、隠れているが、実は選挙管理委員会の一者性への信用がそれを担保しているのかな?…とちょっと思った。誤解の可能性も高いが。

JRF2024/8/67492

……。

コルポラツィオンによって…

>これまでみたように、ヘーゲルは市民社会において人々は合理的に組織化されることになると考えていました。そうした組織を再び解体して議会を構成するよりは、組織を基盤としてそれを代表させる議会のほうが適切だというわけです。<(p.185)

JRF2024/8/68177

三者調整会議は学術的な会員になることで、企業内「教室」などから「議会」に参加すると構想する。農民などは、農協を通じて、大学に属し、農協施設内「教室」などを通じて、影響を及ぼす…などと考える。その選出に明確な基準が(まだ)ない、または、それぞれの企業などにまかされるとするのは、コルポラツィオンを前提とする議会に似ていると言えるかもしれない。

JRF2024/8/69848

……。

イギリスでは農業が工場のようになってしまったとヘーゲルは嘆くが…、

>現代の日本でも農業の企業化が進みつつあり、こうした動向と無関係ではありません。もし土地との結びつきも、企業化とともに市民社会の「欲求の体系」の中に組み込まれてしまうのだとしたら、ヘーゲルが農民や土地貴族に見出していた実直な心情や、市民社会に対する独立性 -- それは、土地貴族がそれだけで一つの議院を構成する理由でした -- などもう誰も持たないのだということになるでしょう。<(p.190-191)

JRF2024/8/61597

ロボット農業がメインになると企業がますます有利なり、地域関税など領域への侵入を規制または移動の自由を(国が)制限し、荘園化が起こるのではないかという論を、[cocolog:94895713](2024年6月)や[cocolog:94390443](2023年9月)などで私は行っている。

keyword: 荘園

JRF2024/8/64724

……。

ヘーゲルは普通選挙を非難する。

JRF2024/8/65799

>>多数の個々人による選挙についてなお指摘されうることは、とくに大きな国家において、多数のなかでは自分の票が無意味な結果しかもたらさないとして、必然的に自分の投票に対する無関心が生じ、そこで有権者は -- 彼らに対して、この投票権がどんなに[価値の]高いものと評価され、言い聞かされても --、投票には現れないということである。 -- そうしてこのような選挙制度からは、むしろ、その規定とは反対のものが結果として生じ、選挙が、少数者の、一政党の、したがって、特殊的で偶然的利害の権力という、まさに無効にされるべきものの手に帰することになる。<(『法の哲学』第311節註解)<(p.195)

JRF2024/8/67244

投票率の低下と、組織票がのさばることが問題視されているようだ。一応歴史的には次のようなことがあったようだ。

JRF2024/8/63218

>(…フランス革命後…)「フランスでは国民投票がきちんと行われず、ジャコバン派だけが投票に出かけ、投票を有利に導きました。彼らは党派心が強く、あらゆる可能な私的情熱をそれに傾け、暴力的・扇動的な振る舞いに出、人に嫌疑をかけ、投票所に行きづらくさせました。国民投票の結果として出てきたのは、一党派の思う意のままという事態で、その党派たるや、世論を代弁するどころか、まさのその正反対の偏狭な集団でした」(…)。

JRF2024/8/60561

こうした、ヘーゲルによるフランス革命の具体的分析が適切なものであったかどうかを筆者は判断することはできませんが、ヘーゲルが危惧しているような事態が現代にしばしば生じるような事態であることは容易に見て取ることができるでしょう。
<(p.242, 注73)

ちなみに、[cocolog:94937590](2024年7月)でも語ったように、私は最低でも憲法に投票の義務を明記することが必要だという考えを持っている。

keyword: 投票の義務

JRF2024/8/67181

……。

ヘーゲルは…、

>「戦争は絶対悪と見なされてはならない」<(p.216)

…とする。

私は、「概念」または科学の発展のために戦争は必要とされてきた面もあることを認める。ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』を読んだ [cocolog:94893189](2024年6月) にも、『宗教学雑考集 第0.8版』《霊概念の成立》を引きながら、そのようなことを語った。

JRF2024/8/63172

ただ、そのあたりの考察で、未来において、AI 支配を受け容れるとなって究極的に戦争がなくなったとき、狂気の突破力で人間が方向付けを行うことと、学術会議のようなものを中心に据えることで知性を維持し、「概念」の退化をなくそうということとを考えるに致った。

そういう未来の前段階、AI 支配を一国で受け容れ、そういうことが難しい核大国に対抗していくというとき、AI が直接、戦争するというよりは、AI にコンサルティングを受けながら対抗するという形になるのかもしれない。そういう体制が平和と経済的反映を築けるようになればいいのに。…と思う。

JRF2024/8/68452

……。

……。

以上。

三者調整会議の拡張については、あまり考えることができなかった。そういう「些事」については、この本はあまり書いていなかったように思う。本格的にそういうことを考えたいなら、ヘーゲルの原著や「ポリツァイ学」に遡るべき…ということなのかもしれない。

JRF2024/8/63885

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