cocolog:94980637
ポパー『開かれた社会とその敵 - 2巻(上・下) にせ予言者 ヘーゲル,マルクスそして追随者』を読んだ。ポパーはヘーゲルの御用学者性を批判するが、現体制が成り立つにはそれなりの理由があり、一度それに自らを合しなければ、説得力は生まれないように思う。 (JRF 4945)
JRF 2024年8月 1日 (木)
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/07/post-8b45fb.html
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/07/post-c2c161.html
JRF2024/8/16790
あと、↑では書くのを忘れたが、この本の翻訳は出版が 2023年で新しいため、また、「引用」が長く多いため、私のこの「ひとこと」は業務妨害的に受け取られる可能性もある。そう受け取られない可能性を増やすために、少しでも興味を持った方は、この本を買っていただきたい。全4冊で 7000円近くするため、特に若い方だと結構難しいかもしれないが…。よろしくお願いします。
JRF2024/8/10351
……。
では早速、いつものごとく引用しながらコメントしていく。
JRF2024/8/10397
……。
と、その前に。プラトンに関して補足をしておこう。
JRF2024/8/15606
……。
トランプ大統領候補暗殺未遂のあった日に見たツイート。橋下氏の学者を卑下するツイートもあった。
《ノザキハコネ:X:2024-07-14》
https://x.com/hakoiribox/status/1812378330664255828
>プラトン先生が「正しい意見ではなく勇敢な性質をもつ人間や親しまれる人柄をもつ人間が選ばれてしまう仕組みで世界の何を良くすることができるんすか?」と指摘してから2500年ぐらいが経ちましたが人間世界は未だにその先に進めていません。<
JRF2024/8/19242
ポパーは哲学者王をくさすための論拠を示したが、民主政にマイナスなことは書かなかったが、プラトンはこういうことも言っていたんだね。
ただ、人々が哲学者王に期待するであろう、教皇に期待するような「無謬性」は、真の哲学者であればこそ、提供できないんだよね。それならば、選ばれてしまった人をどう「哲学者」が補佐するかを考えるべきだ…といったところで、2巻(上・下)の内容につながって来るのかな?
JRF2024/8/15425
……。
現代の代表民主制はそもそも理想の民主政ではないし、民主政そのものに直接行動という「暴力」がありうるらしい。
JRF2024/8/15805
《オッカム:X:2024-07-14》
https://x.com/oxomckoe/status/1812428754108690631
>ただ民主政には学理上「暴力」は含まれます。直接行動といいます。もちろん違法ですが、民主制の本質は法治主義ではありません。代表制民主主義は、民意を抑制するためにアメリカ合衆国建国の父たちが捻り出した制度であり、民主政の延長にはありません。政治は命がけという原則は忘れてはいけません。<
JRF2024/8/15233
民主政は、討議による投票を理想とするなら、代表民主制は、「勇敢な性質をもつ人間や親しまれる人柄をもつ人間が選ばれてしまう」運動を許容するというぐらいの、「暴力」は本来、想定されているとすべきなのだろう。そして、代表民主制にはいろいろ形態がありえ、私が民主主義からの微後退を唱えるまでもなく、今の自民党政治にも全体主義的部分を認めざるを得ず、それに応じて、例えば街中に「Rシール」を貼ったりするような「粗暴」な運動も是認されると考える者がいるのだろう。さらにそこから微後退すれば、より「粗暴」な運動が許容されるべきとなるのかもしれない。
JRF2024/8/10529
討議による直接投票を理想とするところからの後退ぐあいによって、「暴力」または(デモなどを含む)直接行動の必要性も変化するのだろう。もちろん、だからといって、いかに後退したところで、暗殺までが許容されることはないのは当然である。
政治主導から官僚主導に後退するなら、選挙における食客を認めるぐらいの後退は必要なのかもしれない。もちろん、昭和よりはスマートな形で。運動員に学食の食券を配る…とか?
JRF2024/8/10850
……。
……。
第2巻上。
JRF2024/8/17881
……。
>プラトンは、平民的な、低劣な、あるいは堕落した精神状態を表わすために、〈職工的(banausisch)〉という表現を用いた。アリストテレスは、この表現のもつ軽蔑的な意味合いを拡張して、純粋な趣味でない関心一切に適用できるようにした。かれはこのことばを、われわれが〈職業的(professionell)〉ということばを用いるときのように用いたし、とりわけアマチュア・スポーツ競技では[金銭の獲得によって]資格を失うという意味において用いた。
JRF2024/8/17939
だが、たとえば医者のような専門家に対してするように用いたのだ。アリストテレスにとっては、どんなものであれ専門職的営み[プロフェッショナリズム]は身分の喪失を意味する。
JRF2024/8/16496
領主は、とかれはこう主張する。「技芸であれ学問であれ、なんらかの営みに」熱中してはならない。「なるほど、郷紳がある程度までなら習得してもよい自由学芸は存在するであろうが、それらに度を超して関心を払うときには、つぎのような悪弊が生じるであろうから」 -- そうした者は、それらの学芸に専門的職業人のように精通し、身分を失うということである。これが、アリストテレスの自由人教育(liverale Erziehung)の思想なのである(…)。
<(2上 p.22-23)
JRF2024/8/17356
アリストテレスは、マケドニア宮廷医師の息子で哲学者だったが、ディレッタント(世俗の人)と見なされることを好み、哲学者も専門職の一つとして、哲学を言わば余暇にすべき余技にまで貶めたようだ。
私は三者調整会議の三者のうちの一者として、弁護士・医師の「階級」を考えている。そういう意味では、アリストテレス的というよりは、職業に強い意味を見出すマルクス的なのかもしれない。
JRF2024/8/18751
……。
プラトンの常時衰退していくという論に対し、アリストテレスは目的因に形相を考えることで、物事は「進歩」しうることを認めた。しかし、アリストテレスの甥のスペウシッポス的な生物進化の論は認めなかったようだ。
>アリストテレスは当時大いに議論された生物発展論の敵対者だったと思われる。<(2上 p.25)
アリストテレスと言えば、生物の分類・博物学だね。生物の専門家の彼が家畜を作り出していたことを知らないはずがないから、本質的な進化・種が変わるような進化というのは考えなかったということかな。
JRF2024/8/19993
……。
アリストテレスによると、論理を元に元に辿っていくと無限後退に陥いらざるを得ないが、
>無限後退を回避するためには、真であることを疑いえない、そして証明を必要としない前提が存在すると仮定しなければならない、と教え、そうした前提を〈根本前提〉と呼んだ。(…)一切の〈証明の根本前提〉は定義である。<(2上 p.37-37)
現代記号論理学だと、「根本前提」は「公理」と呼ばれ、「定義」は「名前=実体」という形の特殊な公理となる。ただ、記号論理学を外れれば、「定義」はもうちょっと、いろいろなものが認められている。…感じかな。
JRF2024/8/11675
……。
「子馬とは幼い馬である」という定義において、「子馬」は、被定義語または被定義項と呼ばれる。「幼い馬」は定義子または定義項と呼ばれる。
>アリストテレスは被定義項を事物の本質の名前と、そして定義子をこの本質を記述するものと考えた。<(2上 p.38)
JRF2024/8/13446
……。
アリストテレスは定義を百科全書的に取り集めることを目指したのに対し、現代科学(純粋数学以外)はこのような本質主義的な見解は取らないとポパーはいう。
>科学上の理論はたしかにいつでも仮説にとどまらざるをえないが、多くの重要なばあいにおいて、ある新しい仮説が古い仮説より優れているかどうかを見出しうるということである。というのも、仮説が相互に異なっているならば、異なった予測がみちびかれ、そしてそれらはしばしば実験的にテスト可能になると考えられるからである。<(2上 p.41)
JRF2024/8/19609
>しかし、科学の方法がこのように理解されるならば、科学においてはプラトンやアリストテレスがこの語を理解した意味で、すなわち、最終的に決着をつけることができるという意味での〈知識〉は存在しないということになろう。科学では真理が獲得されたと想定する十分な根拠はない。ふつうに〈科学的知識〉と呼ばれているものは、原則としてそのような意味での知識ではなくして、むしろ、種々に競い合う仮説についての、またそれらがさまざまな検討において験証されてきた次第についての情報である。
JRF2024/8/18986
プラトンやアリストテレスのことば遣いで言えば、こうした〈認識〉、〈知識〉は、〈思い込み〉…つまり、科学によって想定され、そしてもっともよく験証されてきた思い込みなのである。
さらにこの見解は、科学には証明は存在しない(もちろん純粋数学や論理学は除外されるが)ということを意味している。われわれが生きている世界について、それがどのようであるかの情報を与えてくれる経験科学では、「証明」という語で理論の真理性の永久的決定が理解されるのであれば、そのような証明が現れることはない。
JRF2024/8/19659
(…)
「科学の言明は現実にかかわるかぎりで反証可能であらねばならないし、反証可能でないかぎりで現実とはかかわりをもたない」と言えよう。
だが、証明は経験科学においていかなる役割も果たさないとはいえ、論証には依然として大きな意義がある。論証の役割は事実として少なくとも観察や実験の役割とおなじくらい重要である。
<(2上 p.42-43)
JRF2024/8/17239
……。
>本質主義的な解釈は定義を〈ノーマルに〉、つまり、上から下へと読むのに対し、現代科学においてふつう用いられている定義は、後ろから前へ、つまり下から上へと読まれねばならない。なぜなら、定義とは定義子から始まり、それへのてみじかな、そして扱いやすい表示、つまり、一種のラベルを問うものだからである。<(2上 p.44)
>すべての定義を除去したところで、まったく影響を被らないままであろう。その唯一の影響は言語にかかわるのであって、その正確さではなく、ただ簡便さを失うということであろう。<(2上p.45)
JRF2024/8/13249
私は記号論理学にオブジェクト指向を取り入れることを目標として院生のころ研究していた。記号論理学でオブジェクト指向を取り扱うことは難しくない。単にオブジェクトが構造を持っているという話にすればいいからだ。しかし、私が考えたのは、それでは記号論理学「に」オブジェクト指向を取り入れることにはならないということである。
JRF2024/8/16552
むしろ、上でいうところの定義子が名前がオブジェクト指向のような構造を持つことだと考えた。もちろん、記号論理学…私が相手しようとしていた[wikipedia:en:Pure Type System]の高階論理は、十分過ぎるほどの表現力、論証能力を持っていたので、それにより、言える論理が増えることはあるはずがない。
JRF2024/8/15691
そこで、UI などで、論理記号を検索するのに便利だという方向を示そうとしていた。私の所属していた研究室の先生は、データベース理論の講義もやっていたので、データベース的な問いが、あたかも定義子=シンボルのようにあることが、何か論理性ではない部分などで有利さをもたらすのではないかと考えていた。その方向が「本質」的だと私は考えてラムダ計算のα同値の研究をしていた。が、教授などには結局のところ理解してもらえなかったように感じている。(それとも理解されたが、無意味だと思われていたか。)
JRF2024/8/19207
今なら、LLM の注意機構が注目されているので、「名前」の付け方で注意のしやすさなどが変わるという方向もできるかもしれない。アリストテレスの生物分類なども、オブジェクト指向を目指していたとすれば、私の考え方に関連付けられ、それはポパーが見ていたところと別の意義が見出せるかもしれない。ポパーのころなら、私の考え方は、操作的意義論とかに近くなるのかな? 私はそれとは微妙に違うと考えてるけど。
JRF2024/8/19136
「名前」はオブジェクト指向なら木構造だが、もっと複雑な構造…文や式であっていい。たとえば、「形容詞」。形容詞が真理の一部を表していたとしても問題はないが、多分に形容詞はデータベースからの検索されやすさのために使われていると見なしたほうが美しいのではないかとか考える。
JRF2024/8/12117
定理証明システムの UI についてもよく考えた。論理学的な論証ではない一般論証では、定義は曖昧なところからはじまることが多い。証明途中、定義途中において、本当の定義を持っていない半確定の知識を扱えればいい。そして弁証法的に定義を埋めていくことになるのだろう。そういった弁証法を容易にする定義形式などが求められる。Pure Type System では弁証法とはパラメータを増やすことに極言されるというのが私の見解だが、半確定知識の弁証法はもっといろいろな形式がありうるかもしれない。それを UI でうまく補助できないか。…などと夢想していた。全然、研究はそこまで到達しなかったのであるが。
JRF2024/8/13019
今も未練が残る。
JRF2024/8/18350
……。
事実や事件の論理も、大学院を(ほぼ)追い出されたあと、公認会計士や税理士などへ向けた勉強などをしながらよく考えた。その痕跡は↓にある(似た記述は『「シミュレーション仏教」の試み』のほうですでに電子出版されている)。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《コラム 信頼度付き論理? 法的事実の記号論理?》
>そもそも「事実」とは何か? どうやって記号論理の式として記述すればよいのか?
JRF2024/8/11440
ある場所や時点の特定…だけではなく、ある事実が続いていたかどうかが問題となって、継続自体が「事実」とされる場合もある。そうすると、場所の広がりも事実の構成には意味があるかもしれない。抽象的な真実、具象的なものと抽象的なものがまじった事実などは扱うべきなのか。…
JRF2024/8/18827
例えば、厳格で定式化しやすいと思われる法的事実の例を考えよう。「t 時に場所 l1 である事件が起きた」というとき、しかし、問題はその事件における行動だとすると、その事件の中身の詳細に時間を割り振ることになる。その詳細がすべて終わったときが t 時なのかというと普通はそうはならない。しかし、t 時の完了をもって、効果を持つ法律などはありうる。また、詳細はそれほど確定した時間を決められるわけではない…とすると、ファジーに時間に幅をもたせたりすることも考えねばならない。しかしすると、前後関係がおかしくなるような事態が出てくる。
JRF2024/8/18464
t を t1 から t2 に幅を持たせて Occur(t1, t2, l1, case1) みたいにするだけで一般的に書ける…というような話ではないのである。
JRF2024/8/12371
おそらく、被告・原告などが背景とする事実モデルは共通にできなければならず、その事実モデルに対して、記述としての命題( Occur(t1, l1 case1) とか )を扱い、その命題について、通常の論理学に従って論理を導いていく(矛盾がないか確かめる)ぐらいしかないものと私は想像する。
<
JRF2024/8/13757
事件の記述は仮説ばかりになる。そこには法論理というべきものがあるが、その適応は、ほぼ、事件事実の小事実が、どの論理に該当するかというのを公理的に導入するしかない。その際、事件を小事実にしたとしても、それはラベルでしかない。法事実(法論理的事実)も小事実も、前提などがすぐにハショられ、一つの論理式の命題というよりは、式の構造は持っているが、一つのラベルでしかないとみなすしかない。小事実から小事実への導出や法事実への導出は検索的でしかないように思う。検索した先でたまたま詳細な事実モデルを作れることもあるかもしれないが、その手間がかなりかかり現実的ではない。
JRF2024/8/19233
人工知能(AI)により、事実モデルを構築したり、法論理に矛盾がないかを確かめるのをアシストしてもらえるようにはなるのかもしれないが…。
JRF2024/8/16412
……。
ただ、このあたり、もう私は成果を出すにはトシを取り過ぎたから、だれか若い人が成果を出してくれればいいのになぁ。…と思う。研究からずいぶん離れたから私が知らないだけで、もしかして、もうあるのかな?
JRF2024/8/18102
……。
>アリストテレスの学説やそれに類似した哲学の諸傾向が概念の意味を正確に知ることがいかに重要であるかを長期にわたって説得してきたので、われわれすべてはそう信じるようになってしまったということなのだ。われわれは信じたことにしがみついている。しかも、二千年の長きにわたって概念の意味にこだわりつづけた哲学が饒舌や字義の詮索に満たされ、くわえて驚くほど曖昧で多義的であるのに対し、概念やその意味ではなく、代わりに事実にこだわってきた物理学のような科学が、大きな正確さを達成したという事実があるにもかかわらず、そうなのである。
JRF2024/8/14563
たしかに、概念の意味の重要性がアリストテレスの学説の影響のもとで過大に語られすぎてきたと指摘するのは重要である。だが、わたくしは物理学の(…反…)例はもっと多くのことを示してくれると思う。意味の問題にこれほど集中しても大きな正確さがみちびかれなかったという事実はわきにおいて、むしろ、意味の問題への没頭それ自体こそが、曖昧さ、二義性、そして混乱の主要な源であるということである。
<(2上 p.54)
JRF2024/8/14987
……。
>科学では立てられた主張は概念の意味に依存しないように配慮されている。さらに概念が定義されるときには、定義からなんらかの知識が引き出されるとか、論証がそれにもとづくといったことが生じないようにしている。これが概念には配慮がほとんどなされない理由である。われわれは概念に過重な負担をかけない。概念に可能なかぎり重みをおかないように努力するのだ。概念の「意味」があまりのもまじめに受け取られすぎないようにしているのである。
JRF2024/8/19199
概念は(実際の場面で使われることから学ばれるのだから)いくぶんか曖昧であり、正確さが達成されるのは、曖昧さというぼんやりとした半影領域を縮小することによってではなくして、そこから距離を取ることによって、つまり、概念の意味のありうる曖昧さからなにごとも生じないように注意深く言明を形成することによってなのである。こうした仕方で語にかかわる争いが回避されるのだ。
JRF2024/8/19019
科学や科学言語の正確さは概念の正確さに立脚するという考えは、たしかにもっともらしいが、にもかかわらずそれはたんなる偏見であろう。言語の正確さは、むしろ、正確であろうとする課題をたてることでそこでの概念に負担をかけることのないように注意深く努力することに依存する。
JRF2024/8/14589
〈砂丘〉とか〈風〉といった概念はたしかに曖昧である。(小さな砂の山は〈砂丘〉と呼ばれるためにはどのくらいの高さであらねばならないのか。空気の動きは〈風〉と呼ばれるためにはどのくらいの速さであらねばならないのか。) こうした概念は地質学者の目的にとっては十分に正確である。より正確な区別が求められるなら、かれはいつでも〈1メートルから8メートルの高さの砂丘〉とか、〈秒速4メートルから8メートルの速さの風〉ということができる。
JRF2024/8/17939
そして精密科学においても事情は似たようなものである。たとえば、物理的測定においては誤差領域がたえず考慮される。そして正確さはそうした領域を完全に排除するとか、存在しないと主張することにあるのでもなく、むしろそれらを明確に承認することにあるのだ。
<(2上 p.55-56)
上の私のオブジェクト指向高階論理に関して、「形容詞」うんぬんはここを読んで思い付いた(というか思い出した)。
JRF2024/8/19070
……。
ウィトゲンシュタインの学説…、
JRF2024/8/18533
>この学説によれば、科学は事実を探求するのだが、哲学の課題は概念の意味を明瞭にし、もって言語を純化し、言語的な謎を取り除くことにあるとされている。この学派の見解の特徴をなしているのは、合理的な批判の対象になりうるような論証は作らないということである。そこからしてこの学派は、その繊細な分析をもっぱら、手ほどきを受けた者たちからなる小さな秘教的なグループに向けておこなった。ここからわかるのは、意味の問題に汲々とするならば、いつでも、哲学におけるアリストテレス的な志向から生じるきわめて典型的な結果、つまり煩瑣主義と神秘主義がみちびかれやすいということである。<(2上 p.57-58)
JRF2024/8/14690
論理では semantics と syntax があって、私のオブジェクト指向高階論理は syntax に注目していたんだけど、ウィトゲンシュタインも syntax に「何かある」と見ていたんだね。コンピュータが(十分に)ない時代だから、コンピュータのような「(条件が)統一された思考体」を想定できず、秘教的にならざるを得なかったのかな?
JRF2024/8/16225
……。
ポパーはプラトンやアリストテレスの奴隷の是認を非難する。
>ツェラーはアリストテレスの人格的な徳についての長い一覧表(…)のなかでかれの「汚れのない原則」と「奴隷への慈愛」に言及している。ここでわたくしは、たしかにあまり気品はないのかもしれないが、はるかに慈愛に冨んだ原則、アルキダマスとリュコフロンがはるかに早くから立てていた原則 -- すなわち、そもそも奴隷は存在すべきでないという原則を思わずにはいられない。<(2上 p.352, 注)
JRF2024/8/10821
1巻を読んで、私は、プラトンは自由を犠牲にして奴隷であっても幸せに生きられるようにする(そこで生の最低限の保障が決まるようにする)ところに、プラトンなりの人類愛を見たのだった。
ちなみに私の「奴隷の定義」は次のようなものである。(『宗教学雑考集 第1.0版』には載る予定である。)
JRF2024/8/17001
>「奴隷」は究極のところ債務の回収に国家が加担するところにできると言える。もちろん、債権回収をヤクザの専売としないために、ある種の国家の「加担」は必要であっても、加担が債権者には不利となる手続きにすることで、一時的「奴隷」化を債権者が望まないシステムになる。<
もちろん、強制労働など非人間的扱いこそが奴隷の問題である。しかし、貴族が奴隷でないものに強制労働させるような社会はあった。また、逆に、現代でも実質的に「奴隷」であるのに、そう名付けてないだけの場合がありうる。そこを明確に区切るのが、上の定義であると私は考えている。
JRF2024/8/19442
(このような経済的な奴隷の定義を目の間にしたとき、資本主義者としてのポパーはどう考えただろうか? これは反語ではなく、素直な疑問である。)
そして、当然のことながら、奴隷はあるべきではない。
これはその上の「奴隷の定義」とは別に言えることだ。そして「奴隷の定義」を加味して奴隷をなくそうというとき、それは明確に、単に奴隷という言葉をなくすこととは区別される。むしろ、奴隷という言葉をなくすことは、なお「奴隷の定義」に相当することを行うための目眩しであり、奴隷をなくすこととは敵対することが多いであろう。
JRF2024/8/19317
……。
>ふつう、電気や層位学(Stratigraphie)に関心をもつことは、人間的なことがらへの関心よりもいっそう啓発されているとは言えないといって、〈文系〉教育が弁護されているが、<(2上 p.357, 注)
「層位学」ってなんじゃらほい…。
《層位学(ソウイガク)とは? 意味や使い方 - コトバンク》
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%A4%E4%BD%8D%E5%AD%A6-89112
JRF2024/8/12593
>地質学の一分野で,ある地方の地層の新旧を順序だて,地層の層相や地質時代から,その地方の地史を組立てる学問。 地層の層相や地層に記録された堆積時の初生的構造から,その地層の生成機構を研究する堆積学,化石に基づいて地層を細分し,各地層の対比や分帯を取扱う生層位学 (化石層位学) などの分野を含む。<
地層学みたいなもののことか…。
JRF2024/8/14880
……。
>ここに引用した、奴隷とは自由よりも生命を選ぶ者であるというヘーゲルの評語(…)については、参照、自由な者とは死よりも隷従をより恐れる者であるというプラトンの注釈(『国家』387a)。ある意味では、これは十分に真実である。自由のために戦う意思のない者は自由を失うであろう。
JRF2024/8/12622
しかし、プラトンやヘーゲル、さらに後世の著作家たちにも非常に人気のあるこの理論は、優越する暴力に屈服する人間は、死よりもむしろ武装したギャングに屈服する者であり、生まれついての「奴隷」であって、よりよい運命にあたいしないということを含んでいる。わたくしは、この理論は文明に対する最悪の敵によってしか主張されえないと言っておきたい。
<(2上 p.367-368, 注)
JRF2024/8/19299
ポパーのいうことは正しいと思う。ただ、プラトンは、自由を犠牲にしてでも生きることを優先したため、奴隷の生も認めることになったという私のテーゼは、ここの記述を証拠として、また、正しかったのだなという印象を持った。
JRF2024/8/18138
……。
>事実として、すべての誤りを排除した定義が帰納によってどうすれば実現できるのかを説明した者などいない。<(2上 p.370, 注)
数学的帰納法という演繹は別として、論理学とかは別として、アブダクションとかは、確かに論理学的に有効に機能しえないのは事実だと思う。アイデア出しとか、証明支援システムの UI の中では結構、意味があるんだけど。
JRF2024/8/13940
……。
>もちろん、科学にとってより重要なのは、理論なのか、論証なのか、合理的考察なのか、それとも観察と実験なのかを判断することはできない。なぜなら、科学はいつでも観察と実験によってテストされた理論だからである。
しかし、科学とはわれわれの経験の全体であるとか、科学においては観察が理論よりも大きな役割を果たすことを示そうとする〈実証主義者〉は間違っている。科学における理論と論証の役割は、いくら評価しても過大評価しすぎることはまずないであろう。
<(2上 p.375, 注)
JRF2024/8/12675
……。
>ある哲学が、ある文の真なることを支持する議論としてその文の自明性を用いるとしたら、それはもっとも重大な誤りのひとつである。ところが、これはほとんどすべての観念論的な哲学者のしていることなのだ。ここにしばしば示されているのは、観念論的な哲学は、いくつかの信仰上のドグマに対する擁護の体系であるということである。<(2上 p.379, 注)
ポパーは否定するだろうが、私から見ると、カントも「信仰上のドグマに対する擁護の体系」の面があるように思う。
JRF2024/8/10702
それはそれとして。
事件や事故について法論理を展開するというときは、その事件・事故ごとの自明性が大事になるように思う。観念論的な哲学は、法論理を参考にしているという部分もあるのかもしれない。
JRF2024/8/13652
……。
本質主義と定義論は、その形而上学により、本当の事実問題から離れたところに行かざるを得ない。その間に、道徳的問題は悪化していく…。
>本質主義と定義論は、倫理学に驚くべき発展をもたらした -- 抽象性の増大と、あらゆる倫理学にとっての基礎であるべきもっのとの接触の喪失、すなわち、いまここで決定されねばならない実践的な道徳的問題との接触の喪失をもたらした。<(2上 p.393, 注)
ただ、難しい問題を予め考えておき、それを具体的な場に提供するというとき、抽象化された議論で短い思考で可能となる判断基準を作っておくべき…というのはあると思う。
JRF2024/8/19045
……。
>R・カルナップは(…〈本来的概念と非本来的概念〉…)で、とりわけ数学で使用される暗黙的定義が、〈定義する〉ということばの通常の意味での定義ではないことを示した。暗黙的定義の体系は「モデル」の定義として理解することはできない。-- むしろそれは「モデル」の全集合を定義する。したがって、暗黙的定義の体系で定義された記号は定項ではなく、(一定の範囲をもち、体系によって一定の仕方で相互に連結される)変項として理解されなければならない。このような状況と、科学において〈われわれの表現が使用される〉仕方とには、つぎのように述べることが一定程度の類似があるだろう。
JRF2024/8/10461
暗黙的に定義された記号で研究がなされる数学の分野では、それらの記号が〈一定の意味〉をもたないという事実は、操作がなされる仕方にも理論の正確さにも影響を与えない。どうしてか。記号に過重な荷をかけすぎないようにするからである。
JRF2024/8/17823
われわれは、意味の本影[中心]的部分の外側には意味を背負わせないようにする。そのような部分は暗黙的定義によって正当化される。(そして、それに直感的な意味を付与するときには、それを理論そのものと矛盾してはならない私的な補助的道具として使うように注意する。) このようにして、われわれはいわば〈曖昧さの半影領域〉あるいは両義性の内に留まろうとし、この半影領域の性格な限界や正確な範囲の問題を回避しようとする。それによって、こうした記号の意味を議論することなく、多くのことを達成しうることが判明したのである。なぜなら、なにものも意味には依存しないからである。
JRF2024/8/17474
同様に、その意味を〈操作的に〉覚えられた表現もわれわれによって操作されうるだろう。われわれはそれらの表現をいわば、意味にはまったく、あるいは可能なかぎり少ししか依存しないように使用する。われわれの〈操作的定義〉には、問題を語にはまったく、あるいは少ししか依存しない領域に移すという利点がある。明瞭に話すとは、語がどうでもいいように話すことである。
<(2上 p.396)
JRF2024/8/17374
「数学の暗黙的定義」というのがよくわからないが、一階述語論理の意味論の話ならば理解できる。そこでは、オブジェクトの射影先は、どういうモデルにも適用可能となるようにする。つまり、モデルの細部にはこだわらない論証がなされていることになる。その点、論証は厳密なのだが、曖昧さを許していることになる。
曖昧さの度合いをファジー理論などで表すこともかつては考えられたが、基本的には(哲学的には)的を外している考え方だったのだろう。
JRF2024/8/18983
……。
>形而上学一般に対する戦いは、たいして有意義だとは思えないし、また、そのような戦いが費やされた努力にあたいするだけの注目すべき結果をもたらすとも信じられない(…)。必要なのは、科学と形而上学の境界設定の問題を解決することである。むしろ、多くの形而上学的体系が重要な科学的成果をもたらしたことこそが認識されるべきである。デモクリトスの体系や、フロイトの体系によく似たショーペンハウアーの体系を挙げておくだけでよいだろう。そして、こうした体系のいくつか、たとえば、プラトンやマルブランシュやショーペンハウアーの体系は美しい思想的構築物である。
JRF2024/8/13793
同時に、われわれをうっとりさせるが、混乱させる傾向のある形而上学的体系とは戦うべきである。しかし、おなじことは、そうした危険な傾向を示す非形而上学的体系や反形而上学的体系についても言える。
また、戦いは、一気にはできないと思う。むしろ、体系に立ち入って分析する労を払わねばならないし、著者が言わんとしていることをわれわれは理解していること、そしてかれらが言わんとしていることは理解するにあたいしないことを示さなければならない。
JRF2024/8/12621
これらすべてのドグマティックな体系、とりわけ秘教的な体系の特徴をなすのは、崇拝者たちが、批判者は理解不足であると非難することである。だが、かれらは理解が同意につながるのはつまらない内容の文に限られることを忘れている。そうでないすべてのばあいで、理解はできても、にもかかわらず意見を異にすることはありうるのだ。
<(2上 p.409-411, 注)
まぁ、だから、>費やされた努力にあたいするだけの注目すべき結果をもたらすとも信じられない<から、私のようなわけわからん存在はまず無視されるのだろうな…。
JRF2024/8/17514
……。
>ここでわたくしは、アリストテレスを批判しているにもかかわらず、かれの貢献を承認する者であることを付言しておきたい。かれは論理学の創始者であり、『プリンキピア・マテマティカ』(…)まで、論理学はアリストテレスが与えた発端の深化と拡張として理解されていた。(論理学の新しい時代がじっさいに始まったのは、「非アリストテレス的」あるいは「多値的」体系によってではなく、むしろ〈対象言語〉と〈メタ言語〉とが明確に区別されてからである。)<(2上 p.415-416, 注)
JRF2024/8/18166
対象言語とメタ言語…対象論理に対し、メタ論理を使ってコンピュータ上で論証していく Isabelle という汎用定理証明システムが、院生時代の私の主戦場だった。
JRF2024/8/10911
……。
ヘーゲル…、
>かれは、プラトンの『ティマイオス』とその数 - 神秘論から出発して(…)純粋な哲学的な方法を使い、諸惑星はケプラーの法則にしたがって運動しなければならないと証明することに成功した。(…)磁性化すると鉄は重量を増加させる(…)とか、その他こうした類のことを数多く証明した。<(2上 p.72)
JRF2024/8/11732
証明できたことの偽の論理性への非難はしかたないけど、科学への関心を持ってやや陰謀論とか秘術のようなものを信じるというのは、割とあること。私も独自の核融合理論とか([cocolog:94932858](2024年7月))とか、xxLLM の提案([cocolog:94833189](2024年5月))とか、最近でもしていて、ヘーゲルのことを笑えない。哲学しながら科学への関心を持つとそうなってしまうような部分はあるのだと思う。そういうのをしないポパーはその点はむしろ特別なのだと思う。
JRF2024/8/13811
……。
ポパーのヘーゲル批判は第一にヘーゲルは、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世のプロイセンに雇われた御用哲学者であるというもののようだ。
JRF2024/8/15831
>1818年におけるヘーゲルのベルリン招聘は反動の高潮期になされた。それは、王が政府内から、(…ナポレオン1世に対する…)解放戦争における成功に大きく寄与した改革者や民族派自由主義者を粛清し始めた時でもあった。とすると、ヘーゲルの招聘は哲学を適当な限界内に収めておき、もって哲学を健全なものとし、〈国家の安泰〉、すなわちフリードリヒ・ヴィルヘルムとその絶対主義低統治が安泰であるように奉仕させる策略ではなかったかという問いが生じてこよう。<(2上 p.87)
JRF2024/8/15654
……。
ヘーゲルは…、
>プラトンとは反対に、本質さえも発展すると確信している。<(2上 p.90)
まぁ、弁証法というのはそういうものだね。
JRF2024/8/17021
……。
>ヘーゲルは決してカントに反駁しようとはしなかった。かれはお辞儀をしてカントの見解をその反対のものへとねじ曲げた。それによって、形而上学への攻撃であったカントの〈弁証論(Dialektik)〉は、形而上学の主たる道具としてのヘーゲルの〈弁証法(Dialektik)〉に変わってしまった。<(2上 p.93)
カントの弁証論はどのようなものであったか。
JRF2024/8/12750
>カントはヒュームの影響下にその著『純粋理性批判』でつぎのように主張した。純粋な思弁や理性は、決して経験によってテストすることのできない領域に踏み出すときにはいつでも、矛盾や〈アンチノミー〉に巻き込まれ -- かれははっきり述べていたのだが -- 〈たんなる空想〉〈ナンセンス〉〈幻想〉〈不毛な独断主義〉〈一切を知り尽くしているという上辺だけのうぬぼれ〉と述べたようなイメージを生む危険をもつ、と。
JRF2024/8/13603
カントは、どんな形而上学的主張とかテーゼ -- たとえば世界の時間的始まりとか神の存在 -- にかんしても、反対の主張あるいはアンチテーゼをたてることができるのであり、二つの主張はともにおなじ前提から出発し、おなじ〈明白さ〉をもって証明されうることを示そうとした。経験の領域を離れると、どんな論証に対してもおなじような妥当性をもつ対抗論証が必然的に存在するのだから、われわれの思弁はもはや学問的たりなくなる。カントの意図は形而上学を乱作する者たちの〈忌々しい多産性〉を最終的に停止させることにあった。
<(2上 p.93-94)
JRF2024/8/10027
……。
>ヘーゲルは弁証法的トリアーデからまったく異った結論を引き出す。矛盾は学問の進歩のための手段であるのだから、矛盾は許容されるし不可避であるばかりでなく、高度に望ましいものでもあるという結論を引き出すのである。これは、あらゆる論証、あらゆる進歩を破壊させざるをえない教説である。<(2上 p.96)
JRF2024/8/10581
弁証法は、上で Pure Type System ではパラメータを一個増やすだけのものと私は述べた。それは前提を一個増やすのにも相当する。ただ、それは「だけ」というほど簡単なものではない。その変更により、これまでの導出のほぼすべてを見直す必要が出てくるからだ。弁証法はとてもコストがかかるのである。
JRF2024/8/15285
しかし、コンピュータ(半)自動定理証明であれば、そのコストを負担できるのではないかという目論見があったのである。そこが私が弁証法に注目していた点だった。弁証法に対してもロバスト(頑健)な証明となるように、曖昧に証明を記述するというところと、オブジェクト指向で証明を作りやすいよう UI を刷新するというところは近いところにもあったのである。
JRF2024/8/16741
……。
ヘーゲルの「同一哲学」は、イデア的=実在的=理性(wirklich)という図式から、現状追認の学となった。
>現にあるものは必然的にあるのであり、理性的で善なるものであらねばならない。そしてとりわけ善なるものは、以下に見るように、現に実在しているプロイセン国家であるというのである。<(2上 p.100)
JRF2024/8/16499
……。
>歴史は現実的なものの発展である。それゆえ、同一哲学によれば歴史は理性的なものであらねばならない。歴史をそのもっとも重要な部分とする現実の世界の発展は、ヘーゲルによって、一種の論理操作と、あるいは、思考過程と同一と見なされている。歴史は、かれの見るところでは、〈絶対精神〉もしくは〈世界精神〉の思考過程である。<(2上 p.112)
JRF2024/8/10953
ただ、私はヘーゲルを擁護する。私も社会に関して構想するとき、まず、現在の社会がある種理想的であることを前提とする。現状が「理想的」というのは言い過ぎだが、何がしかの理由があって、現状はこうなっているという前提に立って分析して、そこから人を説得しようとしないと、現在行政などを支配している人達に響く言説はできないと考える。「御用」はしかし、「現状の把握[グリップ]」には必要ということだ。
JRF2024/8/14699
自分には理想・構想がある。それをまず社会に「合」していく。自分の理想と社会の「矛盾」はどこにあるのかを分析し、一旦社会の現状を肯定できるところまで行ってみて、はじめて、自分の構想が、ならば、何を示そうとしているか、未来に何を予想しもたらそうとしているかが弁証法的わかる…というフェーズは必要なように思う。自らを合するのだ。
JRF2024/8/11096
ヘーゲルが言いたいのは、自分がそうやって社会と歴史と合してしまえば、あとは、社会の変更は論理操作みたいなものだ…ということだろう。技術の変化・国際情勢の変化などは、現行の体制に対して矛盾として現れ、あとはそことの弁証法をどうするかでしかない。…と。
そしてそれが特に容易なのが、絶対君主制ということだったのかもしれない。
JRF2024/8/13576
……。
もちろん、私はそう考えない。「社会の変更は論理操作みたいなもの」というのが違う。自分が間違っている可能性を強く私は認めるから、他の人との共同は必ず考慮しなければならないとするから。ただ、自分の論理が本当にあってるなら、人々には作用するとは私も信じたい。その辺は私の甘さかな。
JRF2024/8/10964
……。
>一般には知られていないのだが、わずか一世紀前のプロイセンは、当時スラブ系住民が圧倒的であったため、およそドイツ国家とは考えられていなかった。もっとも、その地の王たちは、ブランデンブルクの封侯としてドイツ帝国の「選帝侯」ではあったが。ウィーン会議では、プロイセンは「スラブ系王国」として記載された。そして1830年にいたってもヘーゲル自身は、ブランデンブルクやメクレンブルクを「ゲルマン化したスラブ人」が居住する土地として言及していたのである。<(2上 p.118)
JRF2024/8/16751
知らなかった。ドイツとロシアの意外な近さみたいなものは、現代にも影響してる感じかな。
JRF2024/8/17752
……。
ポパーはフィヒテにはじまりナチスに通じた「民族主義」を強く否定する。
>民族国家の原則は適用できないだけでなく、なんびとによっても明確に考え抜かれたこともない。<(2上 p.120)
だいたいにおいて一つの民族と言えればいいのであって、日本のように例外が少ない国もあれば、中国のように多い国もあるということだと思う。ここでのポパーのように一部をとらえて「民族が成立しない」というのは、ラディカルな考え方だと思う。
JRF2024/8/10980
ポパーのここでの態度は、ちょうど Twitter (X) にあった「白いカラス論法」に近いと思う。
《檜山, キマイラの爺さん:X:2024-07-15》
https://x.com/m_hiyama/status/1812706334984556758
>「一般的傾向について述べている言明に対して、勝手に厳密な全称限量子を付けて、反例を出して否定する」という詭弁的反駁法に名前を付けたほうがいいな。頻繁に目にするので。
「白いカラス論法」はどうかな。「(一般的に、大多数の)カラスは黒い」に対して、アルビノ個体の事例を持ち出して、「カラスは黒いは間違いだ」と“論破する”。
<
JRF2024/8/10020
……。
フリードリヒ・ヴィルヘルムはヘーゲルを任命した…。
>なぜなら、フランス革命は哲学の影響力を証明していたからである。<(2上 p.128)
この辺は、共産党が思想によって「革命」ができたと信じていて、だからこそ思想を強く警戒して取り締っているという話を思い出す。
小規模出版にあなどれない影響力が出てきたという話でもあるのかな? 教育の成功も背景にありそう。
JRF2024/8/17670
……。
ファシズムはマルクス主義と唯物論(または不可知論)を共有しているという。
>ファシズムという安酒の公式は、どこの国でもおなじである。ヘーゲル+一滴の19世紀の唯物論(とくにエルンスト・ヘッケルによる粗雑なダーウィニズム)ということだ。人種論の〈科学的〉要素は、ヘッケルにまでさかのぼることができる。<(2上 p.140)
JRF2024/8/18668
……。
>ヘーゲル主義者ベルグソン<(2上 p.141)
ベルクソンがヘーゲル主義者とは私は気付いてなかった。ただ、ポパー、レッテル貼りすぎじゃないか? もちろん、ベルクソンもヘーゲルの影響は受けているだろう。しかし、「主義者」とまで言えるのか?
>ベルグソン、とりわけかれの『創造的進化』(…)。この作品のヘーゲル的性格は十分に認識されていないようである。<(2上 p.435, 注)
この注を読んでもアテツケにすぎないように私は思うけどなぁ…。
JRF2024/8/18478
……。
ちょっと長くなるが、ヘーゲル流の全体主義とは何かについて引用しておこう。
JRF2024/8/13686
>現代の全体主義的傾向に示されているほとんどすべての重要な観念は、アルフレッド・ツィンメルンが言うように、「権威主義的運動のための武器」を集め、保管したヘーゲルから直接に引き継がれたものである。これらの武器のほとんどはヘーゲルが自身で鍛造したわけではなく、自由に対する永続的反乱という古代からのさまざまな戦争宝典のなかで発見したにすぎないとはいえ、それらを再発見し、現代の信奉者たちに手渡したのは疑いもなくかれの功績である。そうした観念のうちでも貴重なもののいくつかを提示しておこう。(すでに論じておいたプラトンの全体主義と部族主義、そして主人と奴隷の理論は省略する。)
JRF2024/8/18400
(a) 国家とは、国家を形成する民族(あるいは人種)の精神(いまでは、血)がかたちを取ったものであり、選ばれた民族(いまでは、選ばれた人種)は、世界を征服すべく運命づけられているというヒストリシズム的形態をとったナショナリズム。
(b) 国家は、その他のすべての国家に対して天敵であるから、戦争においてみずからの存在を主張しなければならない。
JRF2024/8/12223
(c) 国家はいかなる道徳的義務からも解放されている。歴史、すなわち歴史における成功こそが唯一の裁き手であり、集団にとっての利益が個人の行動における唯一の原則である。プロパガンダとしてのウソや真実の歪曲は許容される。
(d) (全体的かつ集団主義的)戦争、とりわけ老いたる民族に対する若い民族の戦争には〈道義的〉理念が含まれている。最高度に望ましいものとしての戦争、運命、栄光。
(e) 偉人の創造的役割、世界史的人物、深い知恵と大きな情熱をもった人物(いまでは、指導者原理)。
JRF2024/8/15948
(f) つまらない凡庸さに満ち満ちた小市民の人生とは対照的な、〈英雄となれ〉〈危険を冒して生きよ〉といった〈英雄的な生涯〉の理想。
この精神にかかわる宝物リストは、体系的でもなければ完全でもない。それらはすべて古くからの世襲財産の一部である。
<(2上 p.142-143)
この節では (a) から (f) についての詳しい説明がこの後に続く。
JRF2024/8/14356
ヘーゲルは戦争の、特にその準備の必要性を唱えねばならなかったのだろう。よくそれは国家が民衆をコントロールするために戦争に訴える…みたいなことも言われるが、そういう側面もなくはないにしろ、隣国の野心が無視できないというのもかなり本当だったと思われる。
近時、日本は武器輸出禁止三原則を見直していっている。かなりステルスな形で。この点、本来なら、野党が批判すべきなのだがそうなっていない。
JRF2024/8/12731
[cocolog:94856421](2024年5月)
>裏金騒動は、パトリオットミサイルの「輸出」の非道性を隠すためというのが私の見方だった([cocolog:94703217])。それが大した抵抗もなく決まったことに日本の「民主主義」が機能してないという懸念があるのだと思う。<
JRF2024/8/16637
《Chum(ちゃむ):X:2024-07-13》
https://x.com/ca970008f4/status/1812010781300654257
>ショルツ首相
「日本で製造された武器の輸出を認めるという日本の決定を歓迎することを特に強調しておきたい。日本にとって、この転換期に防衛政策を適応させることは容易な決断ではなかっただろう。」
「日本はウクライナを大規模に財政支援している。これは感謝と評価に値する。」
「日本はロシアに対して広範な制裁を課している。」
「これらすべてが示している、私たちは共にウクライナの側に寄り添っているのだ。」
<
JRF2024/8/11159
《Chum(ちゃむ):X:2024-07-13》
https://x.com/ca970008f4/status/1812134851698651422
>(…)
岸田首相: (…)オラフ氏がすでに述べたように、本日発効した日独軍相互後方支援協定、いわゆるACSAは、軍間の協力をさらに促進するのに役立つだろう。
(…)
<
JRF2024/8/10890
……。
日本経済をどう建て直すかで、日米安保をもとにアメリカの同盟国としての特別な地位を利用した武器輸出しかない(↓)…というのはあるのかもしれないが、そこを避けてきたがゆえに日本経済は発展してきた面も大きいはず、私はもう少し知恵を絞りたい。(なお↓の最初のメモは、[cocolog:94856421](2024年5月) にもコピペしたが、後半をコピペしていなかったため、コピペしなおす。)
JRF2024/8/19833
>>
○ 2024-05-17T10:08:34Z
日本経済。この30年の問題は、やはり中国経済の勃興が大きい。日本はアメリカに輸出するために自由経済を旗印にしたせいで、中国からの輸入にその旗を降ろすことができなかった。中小企業を中国に移転させ、開発最前線の空洞化をまねいた。海外にある工場などから利益を得る形になったというのが建前だが、すると、日本からアメリカが利益を吸い上げる形をまったく否定できなくなった。それを問題視すれば、海外の利益は海外で使うのが正義となり、日本には還流しなくなる。…ということなのではないか。なんとか国内政治の無策の問題にしたい方が多いようだが。
JRF2024/8/10904
でも、自由経済の旗印をある程度降ろすことはアメリカ相手にはもう長い間やっているので、同様のことができないか。例えば、国内に工場がないことをもって輸入の制限ができないか。とか私は考えるんだが、それは日本の製造業が、海外で作った製品を日本に持ち込みたいため、その主義が取れないでいる。…ということだと思う。
JRF2024/8/18843
補助金については、コロナに関して、危機時の(マスクなどの)準備に補助金を使うという文脈で、しばらく正当化できた。それを正常化していく必要があるのだと思う。それを上と組み合わせて、東アジア諸国等で、輸入制限をうまくできれば…といったところなのだと思う。特に EV・人工知能車 の勝負が決するまでに新しい体制…利益が中国独占にならず、日本にも東アジア全体にも及ぶ形…が築けるかが問われているのだと思う。
JRF2024/8/12229
○ 2024-05-17T10:28:36Z
東アジアでの投資を有効利用できないかとか思うのだが、今では、東アジアも中国からの投資が大きいので、対中国という姿勢はとれない。中国から欧米への輸出に安全保障上のリスクがあるため、東アジアの近隣諸国にも別の会社を作っておく。それは日本からの投資ということにしておくという感じか。しかし、それは日本に(一部にしか)うまみはなさそう。
JRF2024/8/12522
○ 2024-05-17T10:51:54Z
jrf:> 残るは兵器の輸出ということなのでしょうね。日本の政府の立場はそれなのでしょう。保護主義という言葉は Gemini さんがお嫌いのようなので、言い換えますが、国家主義的な政策は、最高でもアメリカのマネをすることしか日本には許されません。一方、技術力は日本はアメリカに今は完全に劣りますから、マネできない部分もあります。兵器の輸出ぐらいしか思い浮かばないのはわかる気がしますね。
JRF2024/8/11009
どこも人口減でミサイルのような兵器への依存を強めざるを得ないですから、ミサイルを日本も作るしかなく、それを売る…ということでしょうね。
高度なミサイル製造はアメリカ軍が駐留する日本だから、アメリカは日本のみに認可できると予想できるので、日本の売り物になるという判断でしょう。
Gemini:> (毒にも薬にもならぬ回答)
JRF2024/8/15629
○ 2024-05-17T11:39:51Z
あと、ごく最近の事象として、AI 関連の変化が激しく、AI がどれほど使い物になるか、どういう風に使い物になるか、が読めないというのもあると思う。これは今は誰も正確に予想できない。ひょっとするとこの先は AI にしか妥当な予想ができないのかもしれないし。それが戦略を立てるのを困難にしている。
<<
JRF2024/8/16536
……。
>「民衆を欺くことが許されるかどうか」というふとどきな問題を論じて(…)、ヘーゲルはつぎのように言っているのだ。「世論にあっては一切が偽であり真なるものを見つけることが偉人の仕事である(…。)」<(2上 p.163)
あまり関係ないが、「真なるもの」つまり、「真なる哲学者」を見つけることについて。
先にプラトンは「真の哲学者かもしれない奴隷も幸福に過ごすための人類愛を自由よりも大事にした」と書いた。
JRF2024/8/11400
真の哲学者を取り除いた奴隷集団にもはや真の哲学者がいないのであれば、奴隷は生きる価値がないかと言えば、もちろん、そんなことはない。奴隷の中に真の哲学者性を見出すとは、誰しもが仏性を持つというのと似ている。そして、ソクラテス的意味において、「無知の知」に気付けば誰でも真の哲学者なのである。それは誰でも生きる価値があるというのと等価なのだ。
JRF2024/8/13469
では、なぜ「誰でも生きる価値がある」と最初から言わないのか。「誰でも生きる価値がある」と当初、認めない者も、真なる哲学者の価値を認めることはしばしばあるからだろう。真理への道は多彩でなければならないのだろう。
真理の多彩性は欺いていることと似ているが、違うと思う。多彩な真理はそれぞれに真理で、人間という現象の違いに対応しているのだろう。それを弁証法的に統合することが、国家レベルで法レベルで要請されることもあるのかもしれない。それは原理的に不可能なこともありえるのだが、それが可能だという神の恩寵・奇跡を私は信じたい。
JRF2024/8/10010
……。
と同時に、これは、「真の哲学者を自認するなら埋もれて生きよ」ということでもあるのだろう。有名になって自分だけが助かるのではなく、奴隷がある時代なら奴隷でも、現代なら生活保護や障害者年金でもそれで生き、真の哲学者が評価されれば、そういった貧困に生きる者の地位全体が上がるのだと考える。実態は、単にそこに追いやられただけなのだが、そう考えることで自分を慰め、その地位にふさわしく、その地位に納得して、死ね。…ということなのだろう。
JRF2024/8/13278
……。
>ハイデガー的実存哲学では、生きることの真の意味は「現存在の被投性」[ここに今こうして生きていることは世界のなかに投げ出されていることであるという概念]、「死に向かう存在」におかれている。<(2上 p.171)
「実存」ということの捉え方はいろいろあるようだが、私は↓を書いているときに、これこそ「実存的悩み」だなぁ…と思った。
JRF2024/8/14809
>>
○ 2024-04-22T04:02:36Z
jilpa> #クラシック音楽館 『モーツァルト: バイオリンとビオラのための協奏交響曲』。プロになった音大のクールな先輩達が楽しげに真摯に語り合うところから、第2楽章になり、楽器店でまともなヴァイオリンも買えないような苦悩が見えます。郷古廉&村上淳一郎&トゥガン・ソヒエフ&N響 第2003回定期公演です。
《N響第2003回定期公演 - クラシック音楽館 - NHK》
https://www.nhk.jp/p/ongakukan/ts/69WR9WJKM4/episode/te/J8514G653Z/
<<
JRF2024/8/17814
世界でニュースになる苦悩からすれば、バイオリンを買えないだけとかブルジョワの甘え以外にないんだけど、でも、本人にとってはそれこそが痛切な悩みなんだよね。人間という現象にとっての個別の悩みで、そこではそれこそが本当に問題とすべき最前線で、(一労働者として人間として)おろそかにしてはならないと思う。
JRF2024/8/16679
……。
先に紹介したデモクリトスの名言「ペルシア王であるよりも、ひとつでも因果法則を発見したい」…、
>文字通りに訳すと「デモクリトスは、ペルシア帝国が自分のものになるよりも、一個でも因果的説明を見つけたいと言った」<(2上 p.426, 注)
JRF2024/8/13702
……。
>ヘーゲルは、民衆が、一種の安全弁として、ごくわずかな自由を、ただし自分の感情表現という無意味な機会以上にはならないように与えられたばあいにのみ革命は回避されうると確信している。そこでかれはこう書く(…)。
「……主観的自由の原理が……重要性と意義をもつのはとりわけ現代においてである……しかし、それ以上に誰もが、ともに語り、ともに行動したいと思っている。しかしひとたび自分の言いたいことを言ってしまえば、かれの主観性は満足され、おおくのことを我慢するだろう。
JRF2024/8/12385
フランスでは、言論の自由はいつでも沈黙よりは危険ははるかに少ないとずっと思われていた。なぜなら、沈黙されていると反対の気持ちを腹に蓄えているのではないかと心配になるが、屁理屈を語らせておくなら、そんな気持ちをものごとが容易に進行する側に押し出し、そして満足させられるからである。」
<(2上 p.445, 注)
JRF2024/8/10484
ポパーはヘーゲルのレトリックにはまって表現の自由の軽視の側に傾くべきではない。表現の自由の軽視は、左派のアナーキスト学者グレーバーにもあった。
[cocolog:94865920](2024年5月27日)
>>
JRF2024/8/18240
>よく考えてみるならば、「言論の自由」や「幸福の追求」のような、わたしたちが典型的な自由だと考えているものの多くは、実は社会的自由ではまったくない。好きなことをなんでもいう自由があるとしても、だれも気にしたり耳をかたむけたりしないのであれば、ほとんど問題にはならないのだから。同様に、好きなだけ幸せになることができたとしても、その幸せが他人の不幸と引き換えであるなら、それもまた大して意味をもっていない。おそらく、典型的な自由とみなされているものは、たいてい、ルソーが『人間不平等起源論』でこしらえた幻想、すなわち孤立した人間の生活という幻想を基盤としている。
JRF2024/8/10578
<(グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』p.571)
<<
JRF2024/8/19421
表現の自由だけでなく、それに基いた投票でまたは「直接行動」で、実際に政治を動かせねば、表現の自由に意味はないというのは、まぁ、その通りではあるが、しかし、だからといって表現の自由に意味がないわけではない。投票がなくても現在の「直接行動」がなくても、将来何かを生み出しうるのだから。
JRF2024/8/17885
[cocolog:94865920](2024年5月27日)
>ネット時代、孤立した人間に最後に残っているもの、それが表現の自由だ。それはとてつもなく貴重なものだ。
一所懸命、ある場所で死ぬことを決めた人間にとって、少なくとも声は上げられることほど大切なことはない。
<
JRF2024/8/15424
……。
ここから先、この本は、マルクスへの批判となる。
ポパーは、社会工学と歴史予言を分け、マルクスは後者を選んだことを批判する。
その批判の最初の第13章の最初に付けられた他者からの引用は次になる。これがポパーの全体としてのマルクスへの印象なのだろう。
JRF2024/8/17280
>集団主義者は……おそらく、進歩への熱望、貧者への同情、不正をかぎつける鋭い感覚、そして大事業への推進力をもっているが、これらは過ぎ去った[十九]世紀のリベラル派には欠けていた。しかし、集団主義者の科学は、経済についての根本的に間違った見解から……出発している。それゆえ、かれらの行動はとことん破壊的にして反動的である。そこから人間は、精神も心も引き裂かれ、不可能な決定の前に立たされる。(ウォルター・リップマン)<(2上 p.180)
私のマルクス経済学批判は次のようなものである。ポパーは経済学については詳しい批判はしないようだ。
JRF2024/8/11895
[cocolog:90768574](2019年3月)
>私は [cocolog:88932382](2018年2月) でいくつかの『経済原論』を読みながら、『資本論』がイノベーションや運の問題をうまく捉えていないことを批判したり、剰余価値をすべて「搾取」のように考えるのは間違いであろうと述べたりしている。<
誰かが言っていた(誰かは忘れた)のだが、マルクスはシュンペーターで補う必要があるというのに私は賛成である。
JRF2024/8/15124
……。
マルクスには人道主義的衝動があった。
>マルクスは試行した。そしてその主要な教説において誤ったとはいえ、かれの試行は無駄ではなかった。かれはわれわれの目を開かせ、さまざまな点で眼差しをするどくさせてくれた。マルクス主義以前の社会科学への復帰など、もはや考えられもしない。現代の著作者すべてが、たとえそうと知らなくても、マルクスから恩恵を受けているのだ。それは、わたくしのように、かれの教説に同意しない者たちにとくにあてはまることである。よろこんで承認したいが、たとえばプラトンとヘーゲルについてのわたくしの論述はマルクスの影響下にある。
JRF2024/8/19746
マルクスの誠実さを認めなかったら、マルクスを正当に扱うことはできない。
<(2上 p.182)
「マルクス主義以前の社会科学への復帰など、もはや考えられもしない」らしいが、経済学のシカゴ学派や新自由主義(のはじまり?)について、1994年まで生きたポパーは見たはずで、それらをどう考えていたのだろうか?
JRF2024/8/17630
……。
マルクスは社会工学をほぼ用意しなかった。そのため、共産主義は実際に革命に成功したあとすぐ手痛い失敗をすることになる。
>レーニンが素早く認識したように、マルクス主義は実際的な経済運営の問題に対し援助を提供しえなかったのである。レーニンは権力掌握後「これらの問題に対処した社会主義者を一人として知らない。ボリシェヴィキの教科書にもメンシェヴィキの教科書にさえ、このようなことはなにも書かれていなかった」と言っている。失敗した実験の期間、いわゆる「戦時共産主義」の期間のあとで、レーニンは、現実には私企業への一時的で限定された復帰を意味する措置を取った。
JRF2024/8/10481
このいわゆる NEP (新経済政策)とその後の実験 -- 五ヵ年計画など -- はマルクスとエンゲルスが提唱した「科学的社会主義」の理論とはなんの関係もない。
<(2上 p.185)
五ヵ年計画はマルクスには関係ない。…と。
JRF2024/8/13967
……。
>マルクスは若い頃に「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。大事なのは世界を変革することである」と書いた。こうしたプラグマティズム的な態度をもっていたから、かれは、科学の本質的な課題は、過ぎ去った事実の知識をえることではなく、未来の予測にあるというのちのプラグマティストたちの重要な方法論的な教説を先取りすることになったのであろう。<(2上 p.188)
ここの記述とあまり関係ないが…。
JRF2024/8/14955
私は上のヘーゲルの部分に関して、体制とまたは大きく言えば歴史と、自分の構想を合して、進歩などに弁証法的に対応していくことを述べた。しかし、自分というのはかなり限りある存在で、体制と合する前に、科学をちゃんと学ばねばならない。ただ、それでもそれですら独善的で、本来は科学的集団の一員となり、「私」ではなく「科学的集団」が、体制に合する…という形になるべきなのだろう。そういう意味では、自分がコントロールできることはほぼないとわきまえるべきなのだ。
科学的集団もポパーの批判を考えれば、「有機体」として体制にあたるのは間違っているのだろう。きっと別の方法論があるはずだ。私は知らないだけで。
JRF2024/8/18685
……。
>社会学は根本において社会心理学に還元されなければならないという理論を数多くの思想家が提唱してきたが、還元していくことは、多数の個人の相互作用から生じる複雑さのために非常に困難である。そしてこの理論は、事実問題として、しばしばふつうに受け入れられていたし、またテストされずにいた理論のひとつでもある。社会学についてのこうした考え方を(方法論的)心理学主義と呼んでおくことにしよう。とすれば、(…J.S.…)ミルはこの心理学主義を信じたと言えるであろう。
JRF2024/8/18939
しかし、マルクスは拒否した。かれは「自分の研究は、国家の形態といった法的関係は……人間精神のいわゆる一般的な発展によっては」説明できないという結果になったと書いている。
<(2上 p.195)
行動経済学についてはどうなのだろう? あれはマーケティングに関するものだからいいのかな? それとも微妙に「心理学主義」批判逃れがあるのだろうか?
JRF2024/8/12958
……。
>マルクス主義がヘーゲル主義から引き継いだ重要な見解をリストアップしておきたい。
(…)
(b) 歴史相対主義。ある歴史時代における法則は、もはや他の歴史時代においても法則である必要はない。(ヘーゲルは、ある時代に真実であることは、もはやべつの時代に真実である必要はないと主張した。)
(c) 歴史発展の基礎には、進歩の法則がある。
(d) 発展は、より大きな自由とより大きな理性を目指して進んでいくが、それをもたらす手段は、われわれ自身の合理的な計画ではなく、むしろ情熱や利己心のような非合理的な諸力である。(ヘーゲルはこれを〈理性の狡知〉と呼んでいる。)
JRF2024/8/13019
(…)
(f) 階級意識は、発展そのものを前進させる手段のひとつである。(ヘーゲルは、民族意識、民族精神または「民族の天才」を操った。)
(…)
<(2上 p.476-477, 注)
まず (b) と (c) について。
JRF2024/8/14057
ヘーゲルは「プラトンとは反対に、本質さえも発展すると確信している。」と上で引用したが、歴史において「本質」が変わるというのは、第1巻(上・下)のところで述べた必需品と贅沢品の議論を私は思い出す。知的資産としての贅沢品の価値は、人類の滅亡回避による無限の価値から逆算するため、いかような価値にもなる…ということであったが、それが無限的「本質」に影響するときは、「本質」そのものの変化としか受け取りようがない…ということは言えるのかもしれない。
JRF2024/8/16831
次に (d) について。
「理性の狡知」とは…、
《理性の詭計(りせいのきけい)とは? 意味や使い方 - コトバンク》
https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E6%80%A7%E3%81%AE%E8%A9%AD%E8%A8%88-148814
>ドイツの哲学者ヘーゲルの用語。 『歴史哲学』その他の著作にみられ,理性の狡智とも訳される。 理性がみずからは世界史の過程に現れず,個人をあやつって自己の目的を実現することをいう。<
JRF2024/8/19373
最後に戻って (b) について。
ちょっと関係ないかもだが、「技術者の劣化」の議論を思い出す。
>>
○ 2023-07-16T01:05:42Z
技術は劣化しないが技術者は劣化する…。新しい技術に人は移っていくので、古い技術には優秀な人が来なくなるし、優秀な人がきても、昔と同じように時間をかけて教わるということはなくなる。そこを新しい技術でカバーはするのだが、細かいところまではなかなか…。
<<
JRF2024/8/11954
[aboutme:120990](2010年03月)
>感覚の変化以外に「技術者の劣化」というと語弊があるだろうけど、技術者の代替わりなどで、十分技術が伝わらず、しかもレガシーでしかないからチェックもそれほどされず…というのは、ありうる話なんだとは思う。<
ただ、技術は基本進歩するもので「技術は劣化」しないというものの、「ロスト・テクノロジー」という言葉はよく言われることだね。カセットテープのオートリバースとか。
JRF2024/8/11421
……。
ジョン・カラザース…、
>かれはつぎのように書いている。「資本家は、工場を最良の状態で維持するための情報を誰でも教えてくれる、複雑だが実用には十分にシンプルな金融システムを発明した。非常に似ているが、はるかに単純な貨幣システムは、社会主義工場の選出したリーダーに、おなじように管理の方法を教え、資本家が必要とするよりもさらに強く専門的な組織者を必要とすることはないだろう」。<(2上 p.483, 注)
JRF2024/8/15703
ここは誤読した。正しくは、この部分は、レーニンが四則演算さえできれば、工場経営はできると思っていたのに相当するようだが、私は、最初、単純な「貨幣」というシステムさえあれば、経営者は自然に(失敗や本などでの学習をしながら)経営を学べるものだ…というふうに読んだ。あとは、株式などの資本の「難しい」取り決めだけで、社会主義ならそれは無視できる。…と。
JRF2024/8/15314
……。
マルクスは言う…、
>「人間のありようを規定するのは、人間の意識ではなく、むしろ人間の社会的なありようが人間の意識を規定する。」<(2上 p.107)
ポパーはマルクスの反心理学主義を肯定する。
JRF2024/8/11549
……。
氏か育ちか…本能が先か、伝統的な社会規則が先か…。ヘビへの恐怖がチンパンジーにおいても社会的である(つまり子らに一般的でない)のを示し、本能説を警戒したあと…、
>ある行動が一般的でないという事実は、その行動が本能にもとづくという議論を反駁するために使えるだろう。(このように反論することには危険がつきまとう。本能の抑制を強制する社会的慣習があるのだから。)しかし、その逆が成立するわけではない。ある一定の行動が一般的に見られるからといって、それが本能にもとづくとか、(人間本性)に根をはっているという仮定が支持されるわけではないということだ。<(2上 p.199)
JRF2024/8/12330
心理学主義のようになんでも心理に最終的な根拠つまり本能があるというのは、ナイーブであるということになる。
JRF2024/8/14701
……。
ミルは、神の采配のようなものを否定し、社会現象は個人に還元できることを示した。それ自体の意義は、ポパーも認める。
>わたくしの考えでは、心理学主義のただしさは、〈方法論的集団主義〉に反対して、〈方法論的個人主義〉と呼べる原理を主張している点にあると思われる。国家や社会集団などのどのような集団の〈行動〉や〈行為〉も、各人の行動や行為に還元可能でなければならないと強調する点でかれはただしい。だが、そのような個人主義的な方法の選択が心理学的な方法の選択を伴うと考えた点で(…)かれは誤ったのだ。<(2上 p.202)
JRF2024/8/17755
……。
>言語が社会を前提にしていることを考えてみればよい。<(2上 p.205)
私の、概念が社会や戦争を前提にしているという話は、『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《霊概念の成立》にある。
JRF2024/8/12553
……。
心理学主義に近いところとしてポパーは「陰謀論」に言及する。おそらくドレフュス事件などからユダヤ人への陰謀論が起こったことなどが念頭にあるのだろう。
>わたくしはそれを社会の陰謀論と呼んでいる。この論の主張するところによれば、社会現象の説明は、個人や集団がその出来事の発生に関心をもち、それを出現させるために陰謀をめぐらしたという事実を発見することにある。(かれらの関心はしばしば隠されているから、最初にそれが暴露されねばならないというわけである。)<(2上 p.208)
ポパーは「すべての帰結に意図があるわけではない」ことをもって陰謀論一般を否定する。
JRF2024/8/15290
>いま誰かが家を緊急に買いたがっているとしてみる。そのときかれは家の市場価格を上げたくないと思っていると考えていいだろう。だが、まさにかれが買い手として市場に現れることは、市場価格を上昇させる傾向をもつだろう。そして、おなじことは売り手についても言えるだろう。あるいは、まったく異なった領域から例を引くこともできる。生命保険をかけようと決心した人が、他人に保険会社の株式に投資するように勧める意図があったとはとうてい思えない。だがそれにもかかわらず、かれの行為はそうした結果をみちびくであろう。ここからしても行為のすべての帰結が意図された帰結でないことは明白であろう。
JRF2024/8/19165
そして、陰謀論のただしくないことがわかる。
というのも、このような理論は、あらゆる結果、一見誰によっても意図されなかったように見える結果でさえも、すべては人間の行為の意図された結果であると主張しているからである。
<(2上 p.211)
ただ、一般人が読んでいる以上に先を読んでいる者がいる…という不安が、陰謀論を作るとすれば、その不安自体は正しいことも多いと私は思う。
JRF2024/8/17897
……。
例えば、消費者行動は当人にとって意図せざる効果を示す。
>社会的状況は、こうもさまざまな意図しなかった、あるいは望まれなかった反作用をみちびくのであるから、社会科学によって研究されなければならないことは明白であるように思われる。その研究は、ミルが言ったような「人間本性のうちに十分な根拠のあることを示せないのであれば、社会科学に……一般化を導入することは絶対に許されない」といった偏見から出発するものであってはならない。それらは自律的な社会科学によって研究されなければならない。<(2上 p.212-213)
JRF2024/8/13045
社会諸制度は、意図があったとしても意図通りには発展しないのが通常であり、意図から離れた部分も含めた総体として分析せねばならないということのようだ。
>社会理論はわれわれのほとんどすべての行動から生じる望まれなかった社会的反作用の研究である、と最初に捉えたのはマルクスであったという論評を、わたくしはカール・ポランニー(…)に負うている。<(2上 p.491, 注)
JRF2024/8/18215
……。
>[前章では]マルクスをあらゆる心理学的社会理論の敵として描いた。だが、このような描き方は、多くのマルクス主義者のみならずマルクス主義に対する多くの敵対者をも驚かせるであろう。というのも、多くの人にとって、事態はまったく異なっていると思われるからである。かれらの考えでは、マルクスは、経済的動機が人間生活のすみずみにまで影響をふるうことを教え、そして「人間の圧倒的な欲求は、生存手段を獲得したいという願望のうちにある」と示すことで、その影響力の絶大さを説明したということになっているからである。<(2上 p.219)
JRF2024/8/11562
経済的動機とりわけ階級的利害が歴史の原動力という教説であったはずだが、ポパーは、しかし、この考え方は「俗流マルクス主義」なのだという。
>平均的な俗流マルクス主義者は、歴史という舞台の背後には、自分たちの卑劣な利潤欲を満たすために、狡猾に、意識的に、戦争、経済衰退、失業、豊かさのなかでの飢餓、そして他のあらゆる形の社会的惨めさをひき起こす諸力が潜んでいるのだが、そうして諸力を突き動かしている隠れた動機、強欲、利潤欲を暴露することでマルクス主義は社会生活の陰鬱な秘密を暴露した、と信じている。<(2上 p.220)
JRF2024/8/13328
>マルクスがときとして、強欲、利潤欲といった心理現象を語っていることは認めねばならない。だが、かれはそれで歴史を証明しようとしているわけではない。かれはそうした心理現象をむしろ社会体制 -- 歴史の成り行きのなかで発展してきた諸制度のシステム -- のもたらす腐敗的影響のあらわれとして解釈している。(…)かれにとっては、戦争、経済衰退、失業、豊かさのただなかでの飢餓といった現象は、〈大資本家〉や〈帝国主義的戦争屋〉の狡猾な陰謀の結果ではなく、社会体制の網の目に囚われた人びとがべつの目標に向けておこなった行為からの望まれなかった社会的帰結なのである。
JRF2024/8/17348
かれにとって、歴史という舞台で役を演じる人間は、〈偉大な者〉もふくめて、経済的諸力 -- みずからはもはや統御できない歴史的諸力 -- という紐に否応なく引っ張られた操り人形にすぎない。かれは、歴史の舞台は、われわれすべてを縛る社会体制、すなわち〈必然の王国〉のなかに埋め込まれていると説く。(しかし、いつの日にか操り人形はこのシステムを破壊し、〈自由の王国〉に踏み入るだろう、というのである。)
<(2上 p.221-222)
JRF2024/8/15965
……。
マルクスは、唯物論者というよりは反唯心論的であったとポパーはするようだ。
>かれは、実践的な二元論者として、われわれは精神であるとともに身体であることを承認したが、身体が根源的な要素であることを見抜くに足るほど十分に現実的であった。<(2上 p.225)
マルクスは、物質的な欲求に依存する〈必然の王国〉は、人間の諸力の発展により、精神的な〈自由の王国〉に近付くと考えた。それには、
>「労働日の短縮が根本的条件である」<(2上 p.226)
…とした。
JRF2024/8/13651
>ヘーゲルとともに、マルクスは自由を歴史発展の目標と考える。(…)だがかれは、われわれが物質交換の必然性から、またしたがって労働の苦しみから完全に解放されることはなく、われわれが純粋な精神的な存在ではありえないこと、つまり、完全に自由でもなければ、完全な自由を達成できるわけでもないことを見据えている。われわれにせいぜいできることは、疲労困憊させるのみで人間の品位にふさわしくない労働条件を改善し、より人道的なものにし、平等に負担し、誰もが自分の生活の一部を自由にできるようにすることである。これがマルクスの世界観の中心的な教えであると思われる(…)。<(2上 p.226-227)
JRF2024/8/12080
ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき、ベルクソンは「機械主義」という言葉で、やがて、AI が人間を支配するようなことも予想しているように私は思った。今、それに近付いているという実感が私にはあるわけだが。
マルクスはしかし、それは非現実的だと考えたのであろう。今の AI を見てもそう論じた可能性はある。そこは私は反省すべきだ。
JRF2024/8/16282
……。
>(…マルクスの考えでは…)思想や観念は、一方で、それらを生み出した物質的条件、つまりそうした条件を作り出した人びとの生活の経済的条件を考慮してはじめて科学的に扱うことができる(…)。(…)マルクス主義的なヒストリシズムは、(…)経済重視主義(Ökonomismus)と表現できるだろう。<(2上 p.228)
JRF2024/8/17918
>経済重視主義は、すべての社会発展は経済条件の発展、とくに物質的な生産手段の発展に依存するという教説として解釈され、またそう解釈するように要求されることが多い(…)。しかし、そうした教説はあきらかに間違っている。経済的条件も考え[思想、観念]に依存しており、経済的条件が一方的に考えを条件づけるわけではなく、ある種の〈考え〉、すなわちわれわれの知識を構成する考えの方が、複雑な物質的生産手段よりも根源的であるとさえ言えるからである。
JRF2024/8/17022
この点は、つぎのような考察からもあきらかになるであろう。すべての機械とすべての社会組織を含む経済システムがある日破壊されたが、技術的・科学的知識は破壊を免れたと想像してみよう。このようなばあいでは、経済システムが(多数の人が餓死したあとで小規模に)復活するまであまり長い字間はかからないであろう。しかし、こうした事物についてのいっさいの知識は消失したが、機械や物質的な製品は残ったと想像してみよう。これは、野蛮で未開な部族が、高度に工業化されてはいるが見捨てられてしまった国を占拠したにひとしい。こうしたばあいでは、文明の物質的な形見もまた早急に消失してしまうであろう。
JRF2024/8/18249
<(2上 p.234-235)
JRF2024/8/13947
……。
マルクスにおいて…
>社会的諸関係は、生産過程と結びつく度合、言い換えると、生産過程に影響を与える、もしくは、与えられる度合に応じてのみ、歴史的かつ科学的な意義をもつのである。「未開人が、欲求を満たし、生命を維持し、繁殖するために自然と闘わなければならないのとおなじように、文明人もそうしなければならない。しかもどのような社会形態においても、また考えられうるどのような生産様式下においてもそうしなければならない。それらの発展にともなって、自然の必然性の王国も拡大する。つまり、欲求が拡大するからである。同時に、それらを満足させる生産力も拡大する。」<(2上 p.229-230)
JRF2024/8/17938
生産の拡大は、欲求の拡大によるというのは、私の先の「必需品と贅沢品」の議論からすると、必需品のみを考える見方に相当するのだと思う。「贅沢品」もすべて欲求の必要に応じて作られているということだから。と同時に、これは上で述べた「イノベーションの軽視」も示していると思う。
JRF2024/8/15908
マルクスの「自由の王国」は私とベルクソンの文脈において「開かれた社会」であり、私とベルクソンはそれは「必然の王国」=「閉じられた社会」と同時に存在しうるのに対し、ポパーとマルクスはそうは考えないということだろう。キリスト教神学では「救済」が「すでに」と「いまだ」の二つの相を同時に持つとすることがあるが、ポパーとマルクスは「すでに」を重視せず「いまだ」だけを見ているようにも感じる。
JRF2024/8/13918
……。
レーニンのスローガン。
>「社会主義とは、プロレタリアートの独裁プラス全土の電化である。」<(2上 p.235)
JRF2024/8/17763
……。
>『資本論』の最終章でわかるのだが、マルクスによれば、われわれが自由になれるのは生産過程から解放される度合いに応じてのみである。だが、これまで存在したどんな社会においても、そうした程度に応じた自由さえなかったという。というのも、マルクスは、われわれが生産過程から解放されるのはどのようにしてかと問い、われわれのために他の人間に汚い仕事をさせることによってのみであると答えているからである。とすれば、われわれは他人を自分たちの目的のために手段として利用せざるをえないのであり、かれらを貶めざるをえない。
JRF2024/8/10060
大きな自由を手に入れようとするならば、他の人間を奴隷化すること、つまり人間を階級に分割することによってのみである。
支配階級は、被支配階級である奴隷を犠牲にして自由をえる。だが、そこからして、支配階級の成員は、自由をえた対価として新種の依存をしなければならなくなる。かれらは、おのれの自由と地位を維持しようとすれば、被支配者を押さえつけ、戦わねければならない。
<(2上 p.242)
JRF2024/8/18003
生産過程からの解放に応じた利益を人は十分に得られない。なぜなら、生産過程からの解放は利益が等しくいきわたるのでなく、個人を順次解放していく形になりがちだから。それは分業の効率性があるからかもしれない。すると、解放された個人は、その地位を守るために武装しなければならない。その武装の分、生産過程に負荷がかかり、十分な利益が得られなくなる。…ということだろう。
JRF2024/8/13390
……。
>マルクスは『資本論』のなかでつぎのように書いている。「資本家とは、資本が人のかたちをとったものであり、歴史的な価値をもっている……そのかぎりでかれを突き動かす力は、[商品の]使用価値やそこからえられる楽しみではなく、交換価値とその増大である」(これが資本家の実際の歴史的役割である)。
JRF2024/8/13337
「価値の増大を目指す狂信者として、かれは情け容赦もなく生産のための生産に人類を駆り立てる……資本が人のかたちをとったものとしてのみ資本家は敬意にあたいする。そのようなものとして、かれは守銭奴と、絶対的な富裕化への衝動を共有している。しかし、守銭奴のばあいに個人の狂気として現れているものは、資本家のばあいには、かれがその駆動輪にすぎない社会体制である……資本主義的生産様式に固有の法則は……かれに資本を維持するために資本を継続的に拡大することを強制する。」
<(2上 p.245)
JRF2024/8/14406
ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき AI が支配するようになった未来社会では、「狂気の突破力」が人類の力になるという話をした。そもそも従来は資本家が「狂気の突破力」であったという話のようだ。
JRF2024/8/13623
……。
「階級を意識する」というマルクス主義の言葉は、特別にドイツ語においては「みずからの価値と能力を知っている」という意味もあるらしい。
>こうした理由から、マルクスやマルクス主義者は、この表現をほとんど労働者のみに適用し、ブルジョアジーにはほとんど適用していない。階級を意識したプロレタリアとは、みずからの階級的状況を認識しているばかりでなく、みずからの階級を誇りに思い、みずからの階級の歴史的使命をしっかりと確信し、たゆまぬ闘争がよりよい世界をもたらすと信じている労働者のことである。<(2上 p.248)
JRF2024/8/14073
……。
>支配階級における、また被支配階級内における利害の不一致は、しばしばたいへん広範であり、富裕層と貧困層のあいだの闘争はつねに根本的な重要性をもつと認めたところで、マルクスの階級論そのものは危険な単純化のやりすぎと見なされなければならない。<(2上 p.249)
その危険はたとえば…、
JRF2024/8/13708
>とくにドイツにおいてのことだが、第一次世界大戦のような戦争を、革命的な枢軸国、言い換えると「もたざる国」と、より保守的な「もてる国」からなる連合国とのあいだの戦争と解釈するマルクス主義者がいたわけだ。 -- これは、どんな侵略でも許容する解釈である。<(2上 p.250)
JRF2024/8/11920
……。
マルクスの国家論は一言でいうと…、
>政治は無力なのである。それは、経済の現実を決定的に変えることはできない。啓発された政治活動の唯一ではないにせよもっとも重要な課題は、法的および政治的外套の変化が社会の真の現実における変化、すなわち生産手段や階級間関係の変化と歩調を合わせるようにすることであり、そのようにして、政治がそうした発展に遅れをとったときに発生せざるを得ない困難を回避することなのである。<(2上 p.255-256)
JRF2024/8/12655
……。
>『共産党宣言』には「現代の国家権力は全ブルジョア階級の事務を管理する委員会にすぎない」と書かれている。したがってこの理論によれば、いわゆる民主主義なるものは、ある歴史的状況にもっとも適合的な形態をとった階級独裁以外のなにものでもないことになる。<(2上 p.258)
JRF2024/8/19249
>資本主義下で国家がブルジョアジーの独裁であるように、社会革命後には国家はさしあたりプロレタリアートの独裁となるであろう。しかし、そのプロレタリア国家は、旧ブルジョアジーの抵抗が壊滅したなら、その機能を喪失せざるをえない。なぜなら、プロレタリア革命は、ひとつの階級からのみなる社会、したがって、階級独裁が存在しえない無階級社会をみちびくからである。このようにして、国家はそのあらゆる機能を剥奪され、消滅せざるをえない。エンゲルスが言うように「国家は死滅する」。<(2上 p.258)
JRF2024/8/13513
……。
マルクスの「政治は無力」とする国家観は、明らかに政府機能の軽視があり、そこは批判されるべきであるが、マルクスが当時その考えに傾いたのには十分な理由があった。
当時は、自由主義と民主主義に支えられた「拘束なき資本主義」のもと、悲惨な児童労働すら蔓延していた。
>このような犯罪に対するマルクスの猛烈な抗議は、永遠に人類の解放者の地位をかれに保証するであろう。<(2上 p.262)
JRF2024/8/15330
>こうした経験に照らせば、マルクスが自由主義をほとんど重視せず、議会制民主主義にブルジョアジーの隠された独裁以外のなにものも見なかったのも、なんら驚くにあたらない。またかれにとっては、これらの事実を、法のシステムと社会体制の関係についての自分の分析を裏づけるものとして解釈することは容易であった。
JRF2024/8/13976
法のシステムのなかでは、平等と自由は少なくともある程度確立されていた。しかし、それは現実にはなにを意味したか! じっさい、経済的事実だけが〈現実〉であり、法のシステムは大きな上部構造、つまり、この現実を覆い隠す外套であり、階級支配の道具であるとマルクスがたえず繰り返すとき、かれを責めてはならないだろう。
<(2上 p.262-263)
JRF2024/8/17493
……。
マルクスは…、
>(ヘーゲルのことばで言うところの)形式的な自由と実質的な自由との区別を導入するに至った。形式的な自由、換言すれば法的自由 -- マルクスはこれを決して軽視していなかった -- は、かれが人類の歴史発展の目標と考えていた自由を保証するには、まったく不十分であることがあきらかになる。大事なのは、本当の、つまり、経済的または実質的な自由である。これは重労働からの平等な解放があってのみ実現できる。そして、その解放のためには「労働日の短縮が根本条件」である。<(2上 p.264-265)
JRF2024/8/11626
……。
マルクスは、政治を見くびっていたため、政治の理論化が十分でなかったため、後に(プロレタリアート以外の)経済的弱者を保護する根拠を失った。
>ここで到達した立場からすれば、マルクス主義者が見下した「たんなる形式的自由」と呼んだものこそ、他のすべてのものの基礎となることがわかるだろう。この「たんなる形式的自由」、つまり、人びとが政府を判断し、投票によって解職する権利としての民主主義は、われわれが政治権力の乱用に対して身を守る唯一の知られた手段である。それは被支配者による支配者の統制、統治される者による統治者の統制である。
JRF2024/8/15915
そして、政治の力で経済力を統制できるのだから、政治上の民主主義は被支配者が経済力を統制する唯一の手段でもあるということである。民主的な統制がなかったとしたら、政府が市民の自由の保護とはいささかの関係もない目的のために政治的・経済的な権力を行使することを禁じる根拠も考えられなくなるだろう。
<(2上 p.270-271)
JRF2024/8/17166
ブルジョワジーが経済力で投票に影響することは法律で汚職・腐敗を禁じれば良いということのようだ。ポパーのピースミール的手法であれば、法の積み重ねが一気に崩されることはないので、法を積み上げていけばいいということなのだろう。少しこころもとない気もするが…。
私は現代ではそのために最低でも憲法に投票の義務を明記することが必要に思う (参: [aboutme:108306](2009年08月) など)。
keyword: 投票の義務
JRF2024/8/13780
……。
経済への「介入主義」をポパーは認める。
>国家が経済に介入するにあたって使用できる二つのまったく異なった方法を区別できるだろう。第一の方法は、保護制度という法的枠組みを立案することである。(…)第二の方法は、国家機関に -- 一定の範囲で -- 支配者が設定した目標をある一定期間で達成するために必要と見なす行動をそのとおりにおこなう権限を委任する方法である。第一の手続きは、「制度的」または「間接的」な介入と呼べるであろうし、第二の手続きは、「属人的」または「直接」な介入と呼ぶことができよう。(もちろん中間段階もある。)
JRF2024/8/19420
民主的な統制の観点からすると、どちらの方法が選好されるべきかは疑う余地がない。民主的な介入は、可能なかぎり第一の方法を使用し、第二の方法の使用は、第一の方法が適さないと証明されたばあいに限定されよう。
(そのようなばあいも存在する。古典的な例は予算である。それは、財務大臣の自由裁量と、なにがただしく適切なのかについてのかれの理解のほどを表現するものである。そして、景気循環対策も、非常に望ましくないとはいえ、同様の性格をもたざるをえないと考えられる。)
<(2上 p.280-281)
JRF2024/8/12081
……。
>法が変更されたばあいには、法の恒久性を想定して計画を立てたことから個人が受けた損害は、移行期間中に補償されるであろう。<(2上 p.282)
画像生成 AI が絵師の仕事を奪っていることについて補償が必要かという議論を思う。これは法の変更ではなく、国の責任ではない経済的事象だから昔は補償はない…で良かったのかもしれないが、現代はそうもいってられないように思う。ただ、その補償は企業が個別にやるというよりも、国が制度として何かを設け必要ならば特別に企業に求償するという方向にすべきなのだろう。
JRF2024/8/12854
>>
○ 2024-07-12T03:47:13Z
画像生成 AI が絵師に一歩も歩み寄っていない…は言い過ぎだと思う。生成 AI から画像ツールを作るのは技術者の観点からは歩み寄りだと思う。絵師が努力して得た価値が暴落した(実際、依頼が減った)というのはあるので、その補償が必要というのは現代ではそうかな…とは思う。ある程度時間が経ちデータが集まり被害額(受益額を除き)が算定できるようになってから補償という話になると思う。
<<
JRF2024/8/10970
……。
>マルクスが奴隷制と〈賃金奴隷制〉のあいだには大きな相違はないという見解をいかに非としていたかに注目してもらいたい(…)。奴隷制の廃止(したがって賃金奴隷主義の導入)は、被抑圧者の解放に向けた非常に重要かつ必要な一歩であること、この点をこれほど明確に述べることのできた者はいないだろう。<(2上 p.509, 注)
奴隷制については、この「ひとこと」を書いているときにちょうど話題があった。
JRF2024/8/17267
[cocolog:94949593](2024年7月)
>Ubisoft の発売予定のゲーム『アサシン クリード シャドウズ』が炎上している。黒人奴隷の扱いについて、慰安婦問題に似た無視できない展開になってきたので、それをメモしておく。<
トーマス・ロックリー『信長と弥助 - 本能寺を生き延びた黒人侍』に次のような記述があるのが問題となっている。
JRF2024/8/17554
>イエズス会士は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対して(…いたが、日本の(九州の?)…)地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。(トーマス・ロックリー『信長と弥助』)<
いろいろ読んで、私の今のところの結論として、秀吉公が黒人を求める「流行」に乗った可能性はあるが、それでもその「流行」の規模は小さい…と考える。なぜなら、当時は一次資料もかなり残っているのに、黒人奉公人の存在を示す記載が数えるほどしかないらしいから。
JRF2024/8/18505
また、日本で一般的であった「奴隷的雇用形態」に「奴隷」という言葉を使うのが問題で、流行があったのが真だとしても、「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」ではなく単に「アフリカ人を雇用するという流行が始まった」で良かったように思うというのが私の意見。
JRF2024/8/12580
……。
マルクスの『資本論』執筆の目的の一つは…、
>「商業の法則は自然法則であり、それゆえに神の法則である」と宣言する経済学者たちを反駁することであった。<(2上 p.290)
アダム・スミスの神の「見えざる手」を反駁したいということなんだろうね。
JRF2024/8/15057
……。
労働者の勝利は階級なき社会を必然的にもたらすというマルクスの結論をポパーは否定する。
資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の…、
>二つのうちひとつの階級しか残らないからといって、階級なき社会が帰結するわけではない。二つの戦い合う階級があるかぎり、階級はほとんど個人のようにふるまうと認めたところで、階級は個人ではない。<(2上 p.294)
一つの階級が残ったあと、当然のようにそれは分裂しうる。…と。
JRF2024/8/17032
この点、最近書いた私は↓のメモを思い出す。↓では数の多い労働者に不利な結論が無視されることを問題視したが、↑は逆に、数の多さを無視するため労働者に有利な結論を導いてしまっているということだろう。↓は、労働者に不利な結論を導くというよりは、数の多さにより導きうる結論を導けなくなるのを批判すべきであったか。
JRF2024/8/13234
>>
○ 2024-07-11T15:15:30Z
ゲーム理論への批判。資本家側の「御用学問」だという批判ができる。ゲーム理論は回数を問題にできるが基本的に集団の大きさを問題にしない。そのため、弱者や労働者といった格差があって大きい集団に不利な結果を導きやすいと言えると思う。
この点は、かつて↓でも示唆した。
《環境保護などを想定したボランティアについてゲーム理論的なモデルを考え、所得税からNPOを支援するような「協力」の必要性を考えた。ゲーム理論の「御用学問」性を疑う。 - JRF のひとこと》
JRF2024/8/14631
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2020/03/post-23e291.html
《ボランティアについてのゲーム理論的なモデル - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2020/03/post-d45df8.html
JRF2024/8/13996
> ゲーム理論をよく複数の場合に単純に拡張して論じることがあるが、今回の結果をみるとそれは少しおかしいのではないか?…と感じる。競争によって高い全体効用から低い全体効用に滑り落ちることを「囚人のジレンマ」的な状況と言って、ゲーム理論を参照すべき示唆がなされうるが、むしろ、それを示すのはゲーム理論のほうが難しいというのが本稿の実験が示唆するところであった。<
<<
JRF2024/8/11749
……。
マルクスと共産主義の理論的側面をポパーは否定して、資本主義と民主主義が己を改善していった過程を称揚するが、しかし、マルクスなどの活動があったからこそ、修正資本主義の方向に社会が動いたという面は、認めざるを得ないように思う。ソ連崩壊後の新自由主義の「暴走」を知る氷河期世代の一員(1997年に大学院生だった私はぎりぎり入ると思う)としては。
JRF2024/8/13485
……。
>賢者の石<(2上 p.522, 注)
ど忘れで、この言葉が思い出せなかった。「哲学者の石」という言葉は浮かんだのだが別の言い方のほうが普通だが、それはなんだったか思い出せなかった。「賢者の石」だった。ノドのつかえが降りた。
JRF2024/8/15159
……。
合理的な政治の二原理。
>合理的な政治の第一原理のひとつは、地上に天国をもたらすことはできないということであらざるをえない。われわれは自由な霊や天使になる途上にはいない -- 少なくともつぎの数世紀のあいだくらいは。<(2上 p.522, 注)
>合理的な政治の第二の原理は、つぎのようになるだろう。(…)すべての政治はより小さな悪を選ぶことにある。そして政治家は、自分たちの行動が生み出す悪しき結果を隠すのではなく、熱心に探すべきである。そうでなければライバルの悪をただしく評価することは不可能になるのだから。<(2上 p.523, 注)
JRF2024/8/13550
……。
>連帯と労使交渉によって組合員に大きな利益をもたらした労働組合が、組合に加入する意思のない人をこれらの利益から遠ざけようとしたこと -- たとえば、労働組合員のみが一定の就業を許されるという条件を労働協約に盛り込むこと -- はたしかに理解できる。しかし、このようにして独占をえた労働組合が、新しい組合員の受容を可能にする公正な方法(待機者名簿の厳守など)を定めずに、組合員名簿を閉鎖して独占を維持することは正当化できない。
JRF2024/8/10607
こうしたやり方が可能だということのうちには、労働者であっても、被抑圧者との連帯を完全に忘れ、自分の経済的優位性を十二分に利用して、すなわち、仲間の労働者を搾取しうることが示されている。
<(2上 p.525-526, 注)
正規労働者が既得権益を守るために非正規労働者を締め出しているのが問題だとして、正規労働者の権利を弱めようとする勢力がいる。新自由主義者や経済右派だ。これは、ポパーの認識につらなる。ポパーの認識が正しくても、その勢力は容認できない。
JRF2024/8/17900
……。
>カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、(…)累進的な所得税をきわめて革命的な措置であると考えていたことに注目すべきである。K・マルクスとF・エンゲルスは、〈革命を永続的に!〉という鬨の声で最高潮に達する声明の末尾で、革命の戦術を記述しているが、そこでつぎのように言っている。「民主主義者が比例課税を提案するなら、労働者は累進課税を要求し、民主主義者が穏健な累進課税を提案するなら、労働者は大資本が破滅するほど急峻な増大率の課税を主張する。<(2上 p.527-528, 注)
JRF2024/8/13916
p.300 にあるが、マルクスが当初考えていた累進税率や高額な相続税は、資本主義社会に取り入れられていった。そのためマルクス主義者たちは、ある意味立場を先鋭にしていかざるを得なかったようだ。その際、労働者が先にしかけるか、資本家がしかける攻撃に反撃すると考えるかで、共産党と社会民主党に分かれたようだが。
JRF2024/8/16544
……。
新自由主義的な主張として累進所得税には問題があるというのにかつての私は共感していた。累進所得税は、資産を持っている者よりも、これから資産を持とうとする者を抑制するものだから。しかし、累進を緩めても、(金融)資産課税を強化できなかったその後の推移を考えると、累進強化はやはり必要という考えに私は傾いている。
JRF2024/8/13547
……。
そもそも資本家と労働者という二つの階級にはっきり分かれることもなさそうだとポパーはいう。
>かれ(…マルクス…)自身の仮定にもとづいてつぎのような階級状況が発展しうるかもしれない。(1) ブルジョア階級、(2) 大土地所有者、(3) その他の土地所有者、(4) 農村労働者、(5) 新しい中産階級、(6) 産業労働者、(7) ルンペン・プロレタリアート。(…)さらに、このような発展は産業労働者の結束を掘り崩すかもしれないことがわかるだろう。<(2上, p.314)
それら異なる階級は異なる利害によって動く。
JRF2024/8/16764
ちなみに、「新しい中産階級」とは、「賃金労働者のうちに、肉体労働者に対しては優越感を感じるが、同時に支配階級のお情けにすがる特権的集団」である。「ルンペン・プロレタリアート」とは、社会の最下層で「階級敵に身売りするような犯罪者の供給源」である。
JRF2024/8/16715
……。
>暴力の行使が正当化されるのは、暴力を行使しなければ改革ができない専制国家においてのみであり、その目的はただひとつ、非暴力的な改革がふたたび可能になる状態(…つまり民主主義…)の樹立であるべきである。<(2上 p.319)
政治腐敗は経済力による専制への傾きであるから、それに対しては暴力つまり直接行動としてのデモをするのがふさわしいのかもしれない。そういう直接行動を私は嫌うが。
JRF2024/8/14101
ただ、(例えば第1巻のところで述べたように学術会議が風が吹けば桶屋が儲かる式に)何らかの力でマスコミ(やSNS)を動かすのも直接行動の一種だから、その方向のほうが現代ではふさわしいかな?
JRF2024/8/13190
……。
マルクス主義の教説には「暴力についての曖昧さ」と「権力掌握の曖昧さ」があるという。
>「プロレタリア階級による政治的権力の奪取」(…は…)労働者の党は、他の民主主義政党とおなじように、過半数を獲得して政府を樹立するという無害で明白な目的をもっているという意味でもあるし、(…)しかし、それはまた(…)党は、ひとたび政権を握ったら、その立場を盾にとって、つまり、党は多数決を利用して、他の党が通常の民主主義的な手段で政権を奪還することを極度に困難にするということも意味する。
JRF2024/8/13315
この二つの解釈の違いには最高度の重要性がある。ある時点で少数派である政党が、他の党を暴力で、あるいは多数決で弾圧する意図を示すならば、それは現時点での多数派にもおなじことをする権利を与えることになろう。その党は、抑圧を告発する一切の道徳的権利を失うのであり、目下のところ支配的な党のなかで暴力によって野党を弾圧しようとしている集団を外側から手助けすることになるのだ。
<(2上 p.330-331)
きっと、プロレタリアート独裁がもし失敗すれば、自分たちに暴力が向くのを認めているのかいないのかという意味でも「暴力についての曖昧さ」があるのだろう。
JRF2024/8/18563
ただ、この点、ファシズムに付け入る隙を与えたということのようだ。
JRF2024/8/15862
……。
共産主義者は、ファシズムが現れたとき、それは歴史の発展段階で通らねばならない一里塚として受け容れた。
>かれらは無邪気だった。ファシストの権力掌握にとって「共産党の脅威」は決して存在しなかった。アルベルト・アインシュタインがかつて強調したように、社会のなかのすべての組織的集団のなかで、現実に本気で抵抗したのは教会(あるいはむしろ、その一部)だけであった。<(2上 p.346)
JRF2024/8/17856
……。
>ほとんどの政府は抵抗のもっとも少ない方向に進む傾向をもつこと、したがって、つぎのような結果が生じる可能性があることに留意すべきである。労働者と起業家は共同体のなかでもっとも組織化され、政治的にもっとも強力な集団であるから、現代の政府が消費者を犠牲にして両者を満足させることが容易に起こりうる -- おそらく罪悪感なしに、ということだ。<(2上 p.537, 注)
JRF2024/8/18481
だから消費税などが導入されたのだ…と。しかし、消費税はマスコミの大反発を受けたのだった。「マスゴミ」などとマスコミを攻撃する言説がネットでは流れたが、それは消費者の力を削ぐ試みだったのかもしれない…。まぁ、新聞の減税などもっとわかりやすい「腐敗」で消費税増がはかられたのも記憶に新しいが。
JRF2024/8/14811
……。
>フリードリヒ・エンゲルスは、戦線変更を余儀なくされたことを部分的に認識していた。なぜなら、かれが言っているように「歴史は、われわれおよびわれわれとおなじように考えた人すべてが間違っていることをあきらかにした」からである(…)。しかし、エンゲルスの目に留まった主な間違いは、かれとマルクスが発展のスピードを過大評価していたという一事だけであった。<(2上 p.546, 注)
ただ、スピード以外の部分にも違和感はあったようだ。
>「英国のプロレタリアートはますますブルジョア化している」というエンゲルスの逆説的な嘆き<(2上 p.546, 注)
JRF2024/8/19295
……。
……。
第2巻下
JRF2024/8/16874
……。
>「資本主義は改革されえず、破壊されるしかない」。<(2下 p.23)
資本家は低価格競争にさらされているため、労働者に妥協できない。…ということのようだ。ポパーは、労働者の団結が「自由」になされ得るため、民主主義がやがて機能して、介入主義が起こり、資本主義は改革された。…とみるようだ。
JRF2024/8/17524
……。
>需要と供給のメカニズム<(2下 p.33)
>価値論は搾取論にとってまったく余分なものである<(2下 p.35)
マルクスの労働価値説は、需要と供給によって決まる価格理論とは別のところの潜在生産力の議論、剰余価値説は、イノベーションを無視した乱暴な説というのが私の理解である。ただ、それとは別に搾取論は成り立つというのがポパーのようだ。
JRF2024/8/10224
>マルクスが観察した〈搾取〉現象は、かれが考えたように、完全競争市場のメカニズムではなく、他の要因 -- とくに低生産性と不完全競争市場との混在 -- に起因しているように見える。しかし、これらの現象の詳細で納得のいく説明はまだ見つかっていないように思われる。<(2下 p.36)
現在でもそうなのだろうか?
JRF2024/8/16481
……。
私は micro_economy_*.py という経済シミュレーションを作った。現代的というよりは、マルクスの経済学のころのレベルのシミュレーションである。マルクスの理論は参考にしたが、それに忠実というわけではない。
《ミクロ経済学の我流シミュレーション その1 基礎経済モデル - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2018/03/post.html
>ミクロ経済学に基づき、経済シミュレーションまたはゲームを作った。
JRF2024/8/13769
(…)
基本的なアイデアは、価格によって需要と供給を決め、その需要と供給が一致するように、つまり(需要-供給)の二乗が最小となるように、最適化関数を用いれば、経済シミュレーションができるのでは?…というものである。
(…)
マルクス経済学を参考に、商品は、必需品、贅沢品、原料の三種ということにした。労働者は必需品を毎期需要し、また、貯蓄を持ち、(マルクス経済学と違って)貯蓄等の余裕から贅沢品を需要すると考えた。必需品、贅沢品、さらに原料も、原料と労働から作られると考えた。
<
JRF2024/8/14350
ここから、先に説明した「必需品と贅沢品の宇宙的独立関係」のアイデアも生まれている。それをいつかもっとブラッシュアップしたいと考えているが、もうトシなので、難しいようにも感じている。
JRF2024/8/16779
……。
>過剰人口と景気循環にかんする改良された理論は、つぎのように素描できるだろう。資本の蓄積とは、資本家が利潤の一部を新しい機械に投資することであって、表現を換えると、資本家の実質的な利潤の一部のみが消費財にまわされ、他の部分は機械にまわされるということである。そうした機械は、それはそれで産業の拡大 -- たとえば、工場の新設など -- を目的としているか、既存の工場における労働生産性を高めることで生産の強化を目的としているかである。<(2下 p.42)
JRF2024/8/18170
ポパーは、機械への投資を、産業の拡大(需要のシェアの拡大)と、生産の強化(供給効率の上昇)の二種に分けることで、景気循環の説明をたくみに行っている。前者は労働者を多く必要とし、後者は労働者の数を減らすことができるとする。
産業の拡大→生産の強化→労働者の解雇→需要減→生産の縮小(恐慌)→労働者が低労賃の引き受け→産業の拡大(低い供給効率でOK)→… という循環と見るようだ。
JRF2024/8/19103
……。
植民地に低賃金を押し付けることで、イギリスではプロレタリアートがブルジョア化しているというのがエンゲルスの嘆き(2上 p.546, 注 にもあった)だったようだ (2下 p.56)。
JRF2024/8/16002
……。
マルクス理論の…、
>「内的矛盾」<(2下 p.64)
それは、貧困が広がることで革命への機運が高まるとしているのがマルクスの理論であったが、想定外に資本家が「妥協」することで、逆にどうすれば理論通りに貧困が広がるか…例えば植民地がなくなることで…を考えるようになった…という逆説のようだ。
>労働者の運命の直接的な改善のために戦うと同時にその反対を望まざるをえなくな(…った…)。<(2下 p.64)
JRF2024/8/17602
……。
>ロシア革命は、時期尚早と解釈されるべきではなく(…)むしろ、戦争のもたらす貧困と敗北の可能性によって複合化された、資本主義の幼年期に典型的な貧困および農民の貧困の産物として解釈されるべきである。<(2下 p.328, 注)
資本主義が改善されれば貧困は減る。そうなる前に、しかし、国策のために資本家が力を持っているような「拘束なき資本主義」段階こそ、共産主義革命が唯一可能な時代だった…ということかもしれない。
JRF2024/8/13473
……。
>介入主義の最大の危険は -- とりわけどんな直接的介入においても -- 間違いなく、国家権力と官僚制の強大化を招くという点にある。ほとんどの介入主義者は、この危険が拡大していることを気にしないか、目をつぶっている。しかしわたくしは、この危険は率直に直視されるや、克服可能なはずだと信じる。<(2下 p.66)
あと、財政の肥大もあるかな。それが求める増税が、経済を圧迫するという形で顕在化することもあるだろうと思う。ただ、じゃあ、それを避けるために…と、分配を法律でルール化する…例えば、ふるさと納税とか…のがいいかというと、それも熟考が必要に思う。
JRF2024/8/16852
……。
資本主義という…
>システムは、搾取する者を強制して、搾取される者を奴隷化し、それによって両者から自由を奪うゆえに弾劾されたのである。マルクスは富と戦ったのではないし、貧困を賛美したのでもなかった。かれが資本主義を嫌悪したのは、それが富を蓄積するからではなく、その寡頭制的性格のゆえであった。このシステムにおいて富は、他人を支配するという意味での政治権力を意味した。だからこそかれは嫌悪したのである。労働力は商品となる。その意味は、人びとが市場で自分自身を販売しなければならないということである。このシステムは、奴隷制に類似していたからマルクスは忌み嫌ったのである。<(2下 p.80)
JRF2024/8/13162
……。
マルクスとキルケゴールは当時のキリスト教道徳を批判した。そのキリスト教道徳の代表として高教会派の司祭 J. タウンゼントが挙げられる。彼は主張した…
JRF2024/8/11750
>「貧民はある程度まで無思慮であるから、かれらがいつでも、コミュニティのもっとも卑屈でつまらない職務を果たすためにそこにいるのだということは自然の法則のように思われる。これによって人間の幸福の貯えがおおはばに増加し、デリケートな人たちはつらい仕事から解放され、妨げられることなくより高い職業などに向かうことができるようになる……。」(…)この僧侶は、救貧法は、飢えている者を助けるので、「神と自然によってこの世に樹立されたこのシステムの調和と美しさ、対称性と秩序を破壊する」と付けくわえているのだ。<(2下 p.82)
JRF2024/8/15137
資本家の「御用宗教」としてのキリスト教。当然非難されるべきだろう。そしておそらくは後世に非難されるために、その時代の考え方を書き残した面も、司祭にはあったのではないか? (好意的に見すぎかもだが。)
JRF2024/8/16088
……。
マルクスなどに見られる…
>未来の権力こそ正義<(2下 p.94)
…という「道徳的未来主義」は、今日の支配者を絶対視するヘーゲルなどよりはマシだが、明日の支配者を絶対視するという点で思考停止だというのはその通り。…だとは思うが、例えば、未来を予想してそこから道徳を導こうとする考え方はある程度はありうると思う。
例えば遺伝子診断が広範にある未来という予想から、「男性一子政策」を私は提唱するに致っている。
JRF2024/8/15292
[cocolog:94909905](2024年6月)
>そこでアイデアとして、人工子宮を見据えてということであれば、男性が一子を適当な卵子を買って代理母的な産むだけのために雇った女性に産んでもらうのを認める、補助するという方向がありうるように思う。そして、二子以上産んだ元現地妻の運営する男性収容所に身を寄せて子育てを手伝ってもらうイメージを描く。この場合は、元現地妻と男性収容所の結びつきが強くなり、「非婚」でもよく働く男性も増え、うまくいく可能性も上がるのかもしれない。<
JRF2024/8/11328
代理母や親族(例えばトシの離れた妹)に子供を産んでもらうというのは、道徳的にかなりアクロバティックだ。未来予想からそういう道徳を導出しているとも言える。そこにならねばならないということも、いきなり広く認めるべきということもないが、ただ、未来を見越してそちらの方向に補助金を増やしたり(代理母を認容したり、卵子保存をすすめたり)というピースミールに進めることはやってよいように私は思う。
JRF2024/8/17107
……。
拘束なき資本主義という社会体制について…
>マルクスは、そのような社会体制自体がただしくないこと、システムの正義ならざるところから利益をえている個人すべての正義は、たんなる見かけ上の正義、たんなる偽善であることを示した。<(2下 p.104)
↑とはあまり関係ないが…。
『宗教学雑考集 第0.8版』《善》では、>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。<…とした。
JRF2024/8/17320
とはいえ、相対的な善はありうるように思う。しかし、相対的な善と言っても、善の全貌を知りようがない人間は、その判断でも誤ることが予定されているようなものだろう。人間にできるのは、「偏微分的な善」つまり、他のすべてを捨象するという人間に不可能なことをあえてできるとした場合にできる相対的な善の判断なのだろう。
そして偏微分が役に立つことがあるように、それも役に立つことがあるのだろう。
JRF2024/8/11932
……。
>変化を静止させようとするプラトンの願望は、変化は避けがたいとするマルクス主義の教説と結びついて、ヘーゲル風のジンテーゼとして、変化を完全に静止させることができないのであれば、その権力がいちじるしく拡張された国家によって少なくとも「計画され」統制されるべきであるという要求をみちびいた。<(2下 p.110)
なるほど計画経済をそのように見るわけか。
JRF2024/8/13432
自由な経済において、本質的な変化は(生成 AI のように)突然現れる。それは計画経済ではとらえ切れない…ということではあると思う。ただ、法の安定性などを考えると、計画経済的な要素は便利ではあるようにも私は思ってしまう。
他の国と競争がないならば、これまで考慮する必要がなかったことについて、5年、進歩を遅らせることが果たして正当化され得ないか…ということは問える問いである。
JRF2024/8/15170
……。
>カントは手ぶらで始めることはできないこと、課題に取り掛かるには、前提条件として体系を身につけていなければならず、それは科学の経験的な方法ですでに確定済みのものと見なしえないことを余すところなくあきらかにした。そのようなシステムは「カテゴリー装置」と呼ぶことができる。<(2下 p.113)
「カテゴリー装置」と数学の圏論(Category Theory)に関連はあるのだろうか?
JRF2024/8/18657
……。
>科学者にとって重要なのは、現実や実践と接触を保つことである。というのも、現実や実践を見落とした者は、代償として煩瑣主義に陥らざるを得ないからである。<(2下 p.129)
現実にできることを追及し、それで十分とすることで物事をシンプルにできることはある。理学に対する工学的関心もそれだろう。ただ、理学が大事であるように、煩瑣主義に陥っているからといって、いけないということはないと思う。特にコンピューター(定理証明 or プログラム)の補助があるなら。
JRF2024/8/18931
……。
>要するに、合理主義の態度あるいはこう言ってよければ、〈合理的である態度〉とは、科学の態度に非常によく似たものであり、真理の探求にあたっては協働しなければならないし、議論をつづけることで、時間を経ればともに客観性のようなものを達成できるだろうという信念に似たものである。<(2下 p.436)
弁証法という日本語の語感は、ここでいう「合理主義の態度」のことのようにも思える。もちろん、定義的には違うものになっているのだけれど。
JRF2024/8/12694
ポパーは、合理主義を「包括的合理主義」と「批判的合理主義」に分ける。前者は根源にまで合理性を求めるものだが、ポパーによると、それは、公理にまで論証を求めるようなもので、支持しえないもののようだ。逆に、ポパーが支持する「批判的合理主義」は、根源的なところに非合理性があるのを認める…つまり「理性は信じるもの」…ということのようだ。
JRF2024/8/16265
……。
非合理主義もそれなりに根拠はあるようだ。
>非合理主義の態度は、以下のような線に沿って語っていくことができるだろう。非合理主義者は、理性とか科学的な論証がものごとについての表面的な理解をもたらす道具であることは認める。かれはまた、それらは非合理な目的を達成するための手段として用いることができることも認めるであろう。しかし、かれは、〈人間本性〉は大要において合理的ではないと指摘する。人間は、理性的な生き物以上であるのだが、それ以下でもあるというのだ。
JRF2024/8/15235
以下であることを見るには、論証をなしうる人間がいかに少ないかを考えてみるだけでいいという。そこからして非合理主義者は、多くの人に訴えるには、理性に語りかけるのではなく、かれらの感情や情熱に呼びかける必要があると考える。
JRF2024/8/18251
しかし、人間はたんなる合理的な生き物にすぎないのではなく、それ以上でもある。なぜなら、人生において真に重要なことはすべて理性を超え出ているからである。理性や科学を真摯に受け止めている少数の科学者でさえ、それらを愛しているからこそ、合理主義的な態度に結びついているにすぎない。したがって、そのような稀なばあいであっても、かれらの態度を規定しているのは、人間の感情世界であって、理性ではない。さらに、偉大な科学者を作るのは、理性的な思考ではなく、直感、ものごとの本質への神秘的な洞察である。
JRF2024/8/13298
したがって、合理主義は、一見合理的に見える科学者の活動を適切に解釈することさえできていない。しかし、科学の領域は、合理主義的な解釈にとってはとりわけ好都合なはずである。としたら、それ以外の人間の活動分野では、合理主義の失敗がさらに目立つにちがいない。そして、この予期は完全にただしいことが証明されるのだと、非合理主義者はその議論をつづけるだろう。
JRF2024/8/19801
人間本性の低劣な面はわきにおいて、そのもっとも高邁な面のひとつ、人間の創造性を考えてみよう。唯一重要なのは、芸術家や思想家、宗教の創始者や偉大な政治家など、少数の創造的な人びとにすぎない。これらの少数の傑出した個人によって、人間の真の偉大さを見ることが可能になる。しかし、これらの人類の指導者たちは、自分たちの目的のために理性をいかに使うべきかを知っているが、決して純粋に理性的な人間ではない。かれらの根は深いところ -- 固有な本能や衝動、またかれらが属する社会の本能や衝動にある。創造の才は、完全に非合理な、神秘的な能力である……。
<(p.141-143)
JRF2024/8/10325
……。
非合理主義は、特定の人や集団に対する愛を肯定する代わりに、排他的になりがちで、奴隷制の是認にまで致りがちなのだとポパーはするようだ。
>人類を愛する非合理主義者がいること、非合理主義はどんな形態においてであれ犯罪的な態度を生むわけではないということ -- わたくしはこうした点を看過しているわけではない。しかし、理性ではなく愛が支配すべきであるという教えは、憎悪によって支配する者に門扉を開くものだと主張しておきたい。<(2下 p.158)
JRF2024/8/11063
理性が人を殺すこともあるのではないか。アイヒマン裁判を思う。あれも非合理的な公理を与えられたあと、合理的に行動したのではなかったか。ポパーは戦勝者の視点に立っているだけではないかという疑いを私は持つ。
>宗教的な侵略戦争は数知れずあったが、〈科学〉の目的のために企てられ、科学者に鼓吹された戦争をわたくしは知らない。<(2下 p.174)
でも、原爆の使用に通じた第2次世界大戦など、まさに、科学が火に油を注いでいたのではないのか。科学の差をかさに着て、戦争に突入したことはあったのではないか。薬を試すために医学の発展のために、小規模かもしれないが、人を支配したことはあったのではないか。
JRF2024/8/18987
……。
>実践的合理主義は、世界が合理的でないことを認めるであろうが、可能なかぎり世界を理性に服従させることを要求するであろう。<(2下 p.354, 注)
災害などを理性で科学で乗り越えようとすることは必要ではあると思う。起きてしまったとに愛を説いても限界があるから。
JRF2024/8/19247
……。
第23章はマンハイムの知識社会学が批判され、第24章はホワイトヘッドとトインビーが批判される。彼らの著作を私は読んだことがなく、よくわからなかった。ポパーはきっとそれらを読んでなくてもわかるように記述してくれてるはずなのだが、私にはわからなかった。
JRF2024/8/16300
……。
>ヒストリシストは、〈われわれはなにを自分たちにとってもっとも緊急な問題と見なすべきか、それはどのようにして生じ、どのように解決されうるのか〉という合理的な問いを、つぎのような非合理で、あきらかに事実的である問い、つまり〈われわれはどの道を進んでいるのか。われわれの時代は、どのような方向や傾向をたどっているのか。歴史がわれわれに果たすべく定めた本質的な役割はなにか〉という問いにおき換えているのだ。<(2下 p.223-224)
JRF2024/8/13408
>ヒストリシストは、歴史の事実を選択し、秩序づけているのはわれわれであることを認識していないのであり、〈歴史そのもの〉、つまり〈人類の歴史〉は、その固有の法則によって、われわれやわれわれの問題、われわれの未来、そしてわれわれの観点さえも規定していると信じているのだ。歴史解釈が、当面する現実的な問題や決定から生じてくる必要に応えねばならないことをヒストリシストは認識していない(…)。<(2下 p.224-225)
「ヒストリシズム」とは何か、結局私は理解できていない。ポパーの『ヒストリシズムの貧困』を読まねば究極的なところは理解できないということだろうか?
JRF2024/8/15420
時代によって観点が変わっていって歴史解釈が変わり、それは歴史予測を変えるというのはその通りだとは思うけれども、それは大まかな歴史予測が改善されていく過程ともとらえることができ、漸次のヒストリシズムを信じ行動することは是認しうるのではないだろうか? それが歴史の弁証法的過程なのではないだろうか? 行動がジンテーゼを呼ぶことを期待してはいけないのだろうか?
JRF2024/8/11697
……。
>歴史そのもの -- もちろん、ここで言及しているのは権力政治の歴史であって、人類の発展という存在しない歴史のことではない -- には、目標も意味もない。<(p.244)
「歴史」は権力の歴史であって人類の発展の歴史ではないとポパーはいうが、権力の歴史に人類の発展は痕跡を残しているように私は思う。「必需品と贅沢品の宇宙的独立関係」のアイデアのように、本質的変化をもたらす事実はあり、それは歴史を書くこと・そしてそれを学ぶことに意義をもたらす。歴史に意味はある。ポパーはヘーゲルを否定しすぎておかしなことになっているように思う。
JRF2024/8/18832
……。
ポパーは(知的)相対主義または懐疑主義を批判する。それらは、ある理論と別の理論の優劣を判定することはできないというものである。
>二つの誤りからひとつの正しさが生じてくるわけではないように、論争においてともに誤っている二つの党派があったら、それらはともにただしい二つの党派になるわけではない。<(2下 p.291, 付録)
ではどうするか? 可謬を認め、批判により真理に接近していくことが語られるのだが、しかし、それをどうやって記号論理に移せばよいのか、コンピュータに載せればいいのか、そこまではポパーは詰めきれてないように思う。私も詰めきれていないそこが、知りたかった。
JRF2024/8/13688
Gemini さんに聞くと、「非単調論理」という言葉を教えてもらった。
JRF2024/8/14330
……。
論理学的に倫理学の真理を構築することが仮にできたとしても、それに興味を持つことを強制することはできない。つまり…
>議論をもって、議論をまじめに受け止めるようにと -- あるいは、自分の理性を尊重するようにと -- 強制することはできない。<(2下 p.299, 付録)
だから、理性を信じるという点のみ非合理的である、「批判的合理主義」(実践的合理主義)の立場をまずとる必要があるということだろう。
JRF2024/8/11744
……。
>再度、相対主義に戻ろう。この付録の最初のテーマは、真理の探求者は、(たとえば)正確に南に行きたいと念じている船乗りの立場とほとんどおなじである。ということであった。かれはたえず方向を修正しなければならない。というのも、方向がほとんどいつでも南極点からずれるからだ。しかし、南極点は絶対的である -- たとえ航路が完全にただしいことはまれでしかなく、しばしば30度以上ずれることさえあるとしても、まったくおなじことが、真理探求におけるわれわれの誤り修正についても言える。<(2下 p.309, 付録)
JRF2024/8/13817
めったにないが、南極点の位置はずれることがある。ポパーはそれを否定しているわけではない。ヘーゲルやマルクスを批判しているのはそういう意味でではない。
「南極点がずれたのは自分たちが南を目指したせいだ」と思っていることをポパーは批判しているとすれば、それはヘーゲル批判になるのだろうか。
「南極点がそもそもずれることはない」と思っていたことをポパーは批判しているとすれば、それはマルクス批判になるのだろうか。
JRF2024/8/18875
↓のつづき。書誌データもそちらに。↓では、第2巻下の訳者解説と第1巻(上・下)について書かれている。
《ポパー『開かれた社会とその敵 - 1巻(上・下) プラトンの呪縛』を読んだ。ポパーはプラトンは全体主義を唱えたして非難とする。しかし、私はプラトンが「死んだほうがマシ」を押し付ける社会と対峙し、真の哲学者かもしれない奴隷も幸福に過ごすための人類愛を自由よりも大事にしたのだと思う。 - JRF のひとこと》
JRF2024/8/15436