cocolog:95043079
カント『プロレゴメナ』を読んだ。カントは超自然的「理念」として心理論・宇宙論・神論を挙げるが、それぞれの実践道徳的目的が、唯物論・自然論・宿命論を避けるためと考えるが、それらを『宗教学雑考集』の自分の考えに引き寄せて考えたりした。 (JRF 4655)
JRF 2024年9月10日 (火)
↓という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。今回は、それに活かせるかと思って読んだのだが、あまり活かせられそうにない。ただ、そこでの議論をこちらに使うので、リンクしておく。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
それではいつものように「引用」しながらコメントしていく。
JRF2024/9/108444
……。
好例で、哲学書は、訳者解説…今回の場合は「あとがき」から読んだ。しかし、さすがカントの書というべきか、解説が難し過ぎて頭に入らなかったため、本文を読んでからもう一度、「あとがき」にトライすることにする。そんな中でも、最初に目についたのは以下の部分。
本書は『純粋理性批判』を受けてそれをわかりやすく解説したという性格があるものらしい。『純粋理性批判』を読んでから『プロレゴメナ』を読む人、読む前に予習として読む人ももちろん想定されているが、『純粋理性批判』は大著のため、それを読まない読者にあてても『プロレゴメナ』は向けられている…ということのようだ。
JRF2024/9/104025
>それにしても「批判」第一版は850余頁、また第二版は884頁の大冊であり、しかもその構成は頗る煩細であるから、一読して(或いは再読しても)全体を明確に理解することは困難である。そうなると本書だけによってカントの思弁哲学を窺おうとする人達を予想せざるを得ない。そこで私は、本書の理解を助けるに必要と思われる個所に、しばしば「批判」の関係言句を引用し注記して、読者の参考に供した。私が、敢えてこのような方法に従ったのは、読者ができるだけその時その場で理解することを希望するからである。これを老婆心切に過ぎるというのなら、私はその誹りを甘受しようと思う。<(p.294, あとがき)
JRF2024/9/100388
私はいろいろなことに関心を抱いており、読むのも遅く、この先の人生でおそらく『純粋理性批判』を読む余裕は、時間的に・金銭的に・知的レベル的に、ないと思われる。訳者の配慮はたいへんありがたい。
それではひとまず「あとがき」はここまでとしてはじめにかえろう。
JRF2024/9/101943
……。
カントはヒュームにより「独断論の微睡から眼ざめ」たらしい(p.19-20)。そのヒュームの「疑問」…。
JRF2024/9/105220
>ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念 -- すなわち原因と結果との必然的連結という概念(従ってまたそれから生じる力および作用の概念等)を、彼の考察の主たる出発点とした。そして彼は、この[因果的連結の]概念を自分自身のうちから産出したと称する理性に対して弁明を要求した、つまり理性は、何か或るもの[原因]が設定されるとそれによってまた何か他の或るもの[結果]が必然的に設定されると言うが、しかし理性はいかなる権利をもって、最初の何か或るものがこのような性質をもち得ると思いなすのか、と問うのである、なぜなら -- これがすなわち原因の概念だからである。
JRF2024/9/103570
ヒュームの証明はこうである、-- 概念だけからア・プリオリにかかる[因果的]結合を考え出すことは、理性にはまったく不可能である、この結合は必然性を含むからである、とにかく何か或るものが存在するからといっって、何か他の或るものまでが存在せねばならないという理由や、それだからまたかかる必然的連結の概念がア・プリオリに導入せられるという理由は、まったく理解できないことである。ヒュームのこの証明は、反論の余地のないものであった。
<(p.14)
JRF2024/9/106998
いや。包摂関係…、原因が結果を包摂しているというとき、原因の存在が、結果の存在を意味することはある。
それともそういうことがありえないという主張ではなく、結果には必ず原因がある…という主張をヒュームは批判しているのだろうか。最終的原因は必ず神となる…みたいなことを批判しているのだろうか?
JRF2024/9/100640
包摂以外にも形而下の物理学の話になるが、あるボールが動力もなく空を飛んでいるというとき、それを打ち出した「原因」があると想定することはできる。たしかに、それが何に打ち出されたかはわからないし、打ち出されたのではなく、何かの相互作用でそうなったということもあるかもしれないが。
JRF2024/9/108638
しかし、物理のシミュレーションをパソコンで行って、あるボールが打ち出されていて、その前に打ち出し台があったなら、それはその打ち出し台が「原因」として間違いがない。この場合も、プログラムにバグがあったりする可能性はある。しかし、理想的 PC におけるシミュレーション実験を理念において想像する限り、その PC 上でボールが打ち出されているという「結果」の原因は、打ち出し台があったからとしなければならないだろう。
JRF2024/9/103264
その理念の実験が成り立つには、人間が必要だったかもしれないが、PC でも良く、それ自体はある種の実在を持っていると言ってさしつかえないものと思われる。それは形而上学と果たしてどれほど区別できるだろう?
なお、Gemini さんによると、ヒュームの言いたかったのは、「原因と結果の結びつきは、過去の経験から得られる規則性であり、理性的考察によって得られるものではない。」ということらしい。
JRF2024/9/104933
……。
>形而上学的認識とは、自然的認識ではなくて超自然的認識 -- 換言すれば、経験の彼方にある認識を意味するからである。それだから本来の[意味における]物理学の源泉をなすところの外的経験や、また経験的心理学の基礎をなすところの内的経験は、いずれも形而上学的認識の根底に置かれてはならないであろう。すると形而上学的認識は、ア・プリオリな認識、すなわち純粋悟性および純粋理性にもとづく認識ということになる。<(p.31)
JRF2024/9/109076
カントの言う「純粋理性」は、今の言葉でいえば違う PC のフレームワークに載せかえても動く AI で、その AI は理性で説明可能であり、しかも外的経験を知らずにそれを構築できると想定したのではないか。そして、その AI は人類一人一人の中で動いてもいる。…と。外的経験によらないからそのような(経験の違う別人でも動くと)想定ができる。そして、外的経験と合わせれば、それによって誰でも意志の発生までシミュレートできる…形而上学的に…ということか…。
JRF2024/9/100289
しかし、人には能力差があり、AI の「実装」は異なる。そんな中、より優秀な「実装」を想定していくと、集団の中で理念的にしか存在できないような「実装」も想定できるようになってくる。そこに載るべき AI こそが「本物」なのではないのか? それは神にほとんど近い。しかしキリスト教の神とはそういうものではない、そのような理神論的な神ではない…というのも神学(形而上学)か。その「AI」にケリュグマがないわけでもないかもしれないが…。
JRF2024/9/100352
ただ、「純粋理性」が外的経験に実は依存しているというのは、現代の実現した AI を見ているとかなりそう感じる。そこでカントに疑いが向くわけだが…。
JRF2024/9/101478
……。
>形而上学的認識は、ア・プリオリな判断だけを含まねばならない、この認識の源泉の特異性がこのことを要求するからである。しかし判断がどのような起源をもつにせよ、またその論理的形式がどのようなものであるにせよ、判断は内容に関して区別せられる、すると判断は、単に解明的であって認識内容に何ものも付け加えないか、それとも拡張的であって与えられた認識[の内容]を増大するか、二つのうちのいずれかである。前者を分析的判断、また後者は綜合的判断と名づけられる。<(p.32)
JRF2024/9/100282
綜合的判断は、外延を形作るものなのか…と思う。ボールを打ち出すシミュレーションが、ある世界に閉じているというとき、その外側が実はあるということでもある。それはおおむね記述不能なのだ。それを逆に内側から外に向けて記述する…綜合的判断をすることで、世界を確定していっている…という面があるのだと思う。
JRF2024/9/105328
……。
>すると、この節の結論は、こういうことになる、-- 形而上学がほんらい究明せねばならないのはア・プリオリな綜合的命題である、そしてかかる綜合的命題だけが形而上学の主たる目的なのである、形而上学は、この目的を達成するために、形而上学的概念の分析と、従ってまた分析的判断を必要とする。
とはいえその場合に我々がとるところの手続は、ほかのいかなる[分析的]認識様式 -- 換言すれば、我々の[主語]概念を分析によって単に判明ならしめようとする認識の仕方におけると異なるところがないのである。
JRF2024/9/109892
とはいえア・プリオリな認識の産出は、直感的であると概念的であるとを問わず、ひっきょうはア・プリオリな綜合的銘打の産出でもある、そしてこの産出が哲学的認識においても、形而上学の本質的内容を成すのである。
<(p.44-45)
ちょっとこことは関係ないが…。
JRF2024/9/101639
形而上学において、外延が特定の実在にあることはありえないのかもしれない。しかし、めいめいが違った特定の実在に触れていることはありえ、それを総合したものが外延の内側にある…ということはしばしばあるのではないだろうか。特定の実在を抽象化したものはずいぶん形而上学の内側にあるが、形而上学で言えること(その外延)は、特定の実在にずいぶん食い込んでいるということはあるのだと思う。
JRF2024/9/101177
例えば、貧しい特定の人について、一般の貧しい人について、形而上学が言えることはあるのはわかっているとして、そうでなく、形而上学は特定の人について予言し、それがたまたその貧しい特定の人の実情に触れる…ということはありえるのだと思う。
JRF2024/9/101259
……。
純粋理性にもとづく認識はどうして可能か(p.53)をカントはこう言い換える。
>「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」<(p.54)
これをさらに私が言い換えると「人や神の思考様式はなぜ一意と想定できるか」ということのように思う。
JRF2024/9/104031
先取りすると、私が上で想定していたのと違って、カントは、感官からの経験という抽象を重視し、そこに悟性による論理の導出を見るのだが、それが(ほぼ)「一意」と想定できるようになるのは、ひとえに、「普遍的法則」を人は学び、それを感官に押し付けて認識を行うから…ということのようだ。感官から経験によって法則を学ぶというよりも、法則を本などで学んで感官に押し付けるのだ。
JRF2024/9/101542
ただ、私は、そういうことがそもそもできるのは、人に、優れた者はどう考えるものかを理解する機能があるからではないか、それはつまり、他者の思考様式などを想像しシミュレートする機能があるからではないか…という気もする。そこで思い出すのはロビン・ダンバー『宗教の起源』([cocolog:94517420](2023年11月))の議論だ。
JRF2024/9/109439
[cocolog:94517420](2023年11月)
>神や霊の理解には「メンタライジング」の理論が重要になるらしい(p.134)。
メンタライジングとは心の理論で、「なぜきみがそれを信じるか私が不思議に思っているときみは考えているんだと私は思う」といった意図を再帰的に表すとき、何段ぐらい意図の再帰構造を認識できるかの能力のことのようだ。人間では、この何段かの「志向性」は、大人では3次か6次ぐらいまで幅があるが、5次ぐらいが普通のようだ。
(…)
このメンタライジング能力が宗教の成立に大きく関わっている(p.138)。
<
JRF2024/9/105330
……。
物自体とそれが感官により直観によって表象された「物」は違うということをカントは強調する。ただし、それは「物は観念だけで物自体がない」ということではない。カント自身はそれを「批判的観念論」と呼ぶ。
JRF2024/9/105818
>私は現実的な印象を通じて対象から触発されるが、しかし私の直観は私の主観においてかかる現実的印象に先立つところの感性的形式しか含んでいない、ということである。そうすれば感官の対象は感性のかかる形式に一致する場合にだけ直観せられ得るということを、私はア・プリオリに知ることができるからである。するとこういうことがわかる、それは -- 感性的直観のかかる形式に関係する命題だけが、感官の対象について可能であり、またこの対象に妥当するであろう、ということであり、同様にまたそれとは逆に、ア・プリオリに可能な直観は、我々の感官の対象以外の物(例えば、物自体)には関係し得ないということである。<(p.69)
JRF2024/9/105934
表象された「物」に関して論理が使われることがどうして正しいかということを言おうとして苦労しているようだが、この点、現代記号論理学だと、具体物の命題も具体物そのものというより、その具体物を投射したすべてのモデルについて言える命題となっており、だから、具体物自体にマッピングされたときにおいても正しいだろうということになる。
このあたりは、ポパー『開かれた社会とその敵』([cocolog:94980637](2024年8月)ではカルナップやタルスキの議論として出てきたはず。
そういった全投射性こそが綜合性ということだろうか…。
JRF2024/9/100065
……。
>自然とは、物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在である。もし自然が物自体の現実的存在を意味するとなると、我々は自然をア・プリオリにもまたア・ポステリオリにも決して認識できないであろう。<(p.91)
JRF2024/9/100762
汲み出した表象である「物」を論じることも大事だが、「物自体」にラベルを貼り、その検索可能性を留め、再度表象を汲み出せるようにすることもそれはそれで大事である。論理によって得られた「物」の将来図が、物自体の将来に一致しないことはしばしばある。特に論証の途中ではそうだ。「物」に関する論理と、検索可能性を大事にした記述は共通の式をもちうるが、そうでなければならないということはない。
JRF2024/9/105497
ロジックにおける検索可能性の話はやはりポパー『開かれた社会とその敵』([cocolog:94980637](2024年8月)で、記号論理学「に」オブジェクト指向を取り入れる…という話に関して話した。『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《オブジェクト指向高階論理》としてそのあたりはまとめる予定である。
JRF2024/9/108568
……。
>経験的判断は、それが客観的妥当性をもつ限りにおいて経験判断である。しかし私は、単に主観的にのみ妥当する経験的判断のほうを、知覚判断と名づける。経験的判断は純粋悟性概念を必要としない。この判断に必要なのは、思考する主観における知覚の論理的連結だけである。これに対して経験判断のほうは、常に感性的直観における表象を超えて、更に特殊な概念 -- すなわち悟性において根源的に産出された概念[カテゴリー]を必要とする。そしてこれらの概念が客観的に妥当する経験判断を成立させるのである。<(p.99)
JRF2024/9/104763
私の上の言い方を敷衍すれば、特定の事実は接する外延を違えるが、そこを総合して見出せるのが「カテゴリー」…なのだろうか。
ここは「純粋自然科学はどうして可能か」の章であるが、この前の「純粋数学はどうして可能か」の章では空間と時間が問題になっていた。空間と時間は、カテゴリーとは違う…カテゴリーの中でも特殊なもの…という位置付けになるのだろうか。それはカテゴリーを介さなくても直観できる・しているということなのだろうか。
JRF2024/9/101982
……。
>本来の経験は知覚よりも遙かに遠きに達するものであるということ<(p.124)
経験としては事物の中に無限を見出せる・認識できることを言っているのであろう。図に描いた直線は必ず始まりと終わりがあるが、それは頭の中では無限に続いていると概念化できるということ。
JRF2024/9/101550
……。
>我々は、かかる純粋な悟性的存在者については、明確なことを何ひとつ知らないし、また知ることもできない(…)。我々の純粋悟性概念ならびに純粋直観は、可能的経験の対象以外の何ものにも関係しないし、従ってまた単なる感性的存在者だけにしか関係しないからである。もし我々がかかる感性的存在者を捨ててしまえば、これらの悟性概念には、もはやなんらの意義も残らないのである。<(p.135)
JRF2024/9/108078
私は上で、カントの言う「純粋理性」は、説明可能な AI で 外的経験を持たないものとしたが、カントは実際には、そうではなく、外的経験こそが必要だと正しく見抜いていたということだ。
ならば、逆に私は、外的経験を持たないような AI のモデル化はありえないのかが気になる。実際のところ、AI は Transformer などの共通の基盤技術の上に学習している。学習データは外的経験かもしれないが、その基盤プログラムこそが、そのような外的経験を持たないある種のモデル化と言えなくもない。
JRF2024/9/101162
ただ、私としては、AI の説明可能なモデルについては、Transformer などを使ったプログラムと、現実の人間可読ではないパラメータなどの中間に位置して欲しい。それは AI に心理モデルを想定するような方向なのかもしれないが…。(参: [cocolog:94833189](2024年5月))
JRF2024/9/100920
……。
>もし現象が経験において必然的に連結していると考えられるならば、これら一切の現象が従わねばならぬ規則の総括としての自然はどうして可能か(…)。この問題に対する答えは、次のようなものであり、これ以外にはあり得ない。かかる自然は、我々の悟性の性質を介してのみ可能である。感性における一切の表象は悟性の性質に従って意識一般に必然的に関係し、このようにして何よりもまず我々の思惟に特有の仕方であるところの規則によって可能となり、またこの規則を介して経験が可能となる、こうして成立した経験は、客観自体の認識とはまったく異なるものである、がその答えとなる。<(p.142)
JRF2024/9/100402
我々の悟性…。
一人一人の悟性というより、非常に優秀な認識を持つ者(神など)がいると仮定できるがゆえに導けることもあると思う。昔は神だが、今は科学者集団ということになろうか。多くの場合、それは信用または信仰である。そういう悟性を他者に頼る導出のあり方もありだと思う。
JRF2024/9/103967
……。
>我々が悟性の法則に関して、悟性はその(ア・プリオリな)法則を自然から得てくるのではなくて、却ってこれを自然に指示すると言うと、なるほど最初は奇異に聞こえるかも知れないが、それにも拘らずこれは確実な命題なのである。<(p.146-147)
JRF2024/9/103553
……。
>ところでこの(…カテゴリーの…)体系の使用は、どれほど賞讃してもなお足れりとしないほどの効用を次の点で発揮する、すなわち -- この体系は、さもないと純粋悟性概念[カテゴリー]のなかへ忍びこむかも知れない無縁の概念をことごとく斥けて、いかなる認識に対してもそれぞれの場所を規定する、ということである、なおこのことは、およそ普遍的原理にもとづく真正な体系である限り、いかなる体系についても例外でない。<(p.160)
JRF2024/9/101925
簡素なカテゴリー集によってすべての論理を被覆できる…といったぐらいの体系のようだ。カントのカテゴリーの体系は。
しかし、カントが意図した「カテゴリーの体系」は、むしろ現代では、プログラム言語として実現しているのではないだろうか。どのプログラミング言語も、どんな概念も十分に表し、行動までも記述できる。最近では、意志を持つ AI も記述できるというわけだ。
高階記号論理の体系などもあるが、記述のしやすさ、概念の表しやすさでは、プログラム言語に道を譲るだろう。
JRF2024/9/107839
「関数や構造体や文法」と「具体的なクラス」の差が案外「純粋数学」と「純粋自然科学」の差に相当するのかもしれない。
そして「形而上学」は、どういうプログラム言語がいいかにあたるのか、どういう実行環境が理想的かにあたるのか…。(後を読んでいくとそれらはまだ悟性の領域で、形而上学的理性の領域の話ではなさそうだ。)
JRF2024/9/105260
……。
>純粋理性がその理念によって弁証論的になるのはどうしようもないことだし<(p.167)
「弁証論」については、ポパー『開かれた社会とその敵』([cocolog:94980637](2024年8月))の際にヘーゲルの弁証法と比較しての解説があった。
[cocolog:94980637](2024年8月)
>>
JRF2024/9/102168
>ヘーゲルは決してカントに反駁しようとはしなかった。かれはお辞儀をしてカントの見解をその反対のものへとねじ曲げた。それによって、形而上学への攻撃であったカントの〈弁証論(Dialektik)〉は、形而上学の主たる道具としてのヘーゲルの〈弁証法(Dialektik)〉に変わってしまった。<(2上 p.93)
カントの弁証論はどのようなものであったか。
JRF2024/9/100456
>カントはヒュームの影響下にその著『純粋理性批判』でつぎのように主張した。純粋な思弁や理性は、決して経験によってテストすることのできない領域に踏み出すときにはいつでも、矛盾や〈アンチノミー〉に巻き込まれ -- かれははっきり述べていたのだが -- 〈たんなる空想〉〈ナンセンス〉〈幻想〉〈不毛な独断主義〉〈一切を知り尽くしているという上辺だけのうぬぼれ〉と述べたようなイメージを生む危険をもつ、と。
JRF2024/9/103617
カントは、どんな形而上学的主張とかテーゼ -- たとえば世界の時間的始まりとか神の存在 -- にかんしても、反対の主張あるいはアンチテーゼをたてることができるのであり、二つの主張はともにおなじ前提から出発し、おなじ〈明白さ〉をもって証明されうることを示そうとした。経験の領域を離れると、どんな論証に対してもおなじような妥当性をもつ対抗論証が必然的に存在するのだから、われわれの思弁はもはや学問的たりなくなる。カントの意図は形而上学を乱作する者たちの〈忌々しい多産性〉を最終的に停止させることにあった。
<(2上 p.93-94)
<<
JRF2024/9/106087
……。
カントは理念と概念を区別するようだ。理念は形而上学的概念で、心理論・宇宙論・神論の三種にほぼ限定して考えるようだ。理念は経験により説明ができない。説明ができるならそれは悟性概念ということになるようだ。その三種の理念はどのようにして説明できないか。
JRF2024/9/102502
>[一]心が単純な[分割され得ない]実体であるかどうかということは心の現象を説明するためにならどうでもよいことである。我々は、単純な存在者なるものの概念をどんな可能的経験によっても感覚的に、従ってまた具体的に理解できないからである。それだから我々が、心の現象の原因に対する洞察をいくら望んでみたところで、この概念はまったく空疎なものであり、内的経験や外的経験が我々に与えるところのものの説明原理としてはまったく物の役に立たないのである。<(p.171)
この点は『宗教学雑考集』では《魂の座》で主張しているところだろう。
JRF2024/9/101264
『宗教学雑考集 第0.8版』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。
(…)
そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。
<
JRF2024/9/102431
カントも、霊はありえないと言っているわけではない。経験からは説明できないとしているだけだ。私は経験できる可能性も排除しないが。
霊は因果応報の目標点となりえる。その点、有神論の基本定理を重視する私には外せない部分で、それが霊を語るのに意味をもたらす。
ちなみに「有神論の基本定理」とは↓である。
JRF2024/9/104183
『宗教学雑考集 第0.8版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。<
ただし、「神は因果応報を超えている」といった意見については関連として次のような文句が私にはある。
JRF2024/9/107946
『宗教学雑考集 第0.8版』《鬼神論》
>世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。
JRF2024/9/100298
(…)
なお、《有神論の基本定理》について、それが成り立っていなくても、「鬼神は起信なり」の神の認識は定義上、存在しうる。これは因果応報以前の神ということになろう。唯一神信仰は因果応報を超越していると説く場合があるが、その超越性のむなしい射影として、因果応報以前の神[シン]があったのだろう。
<
JRF2024/9/101765
……。
カントの挙げる三種の理念の第二は宇宙論である。
>[二]同様に、世界の始まりとか或いは世界の永遠性(a parte ante「前の部分[過去]から」)などという宇宙論的理念は、我々が世界におけるなんらかの出来事を、このたぐいの理念によって説明しようと企てたところで、なんの役にも立たないのである。<(p.171)
カントは宇宙に関してアンチノミー(二律背反)を「証明」した。
JRF2024/9/103031
[cocolog:94937590](2024年7月)
>これについては、カントは無限の継続を仮定しても矛盾が生じ、始まりがあるとしても矛盾が生じるとし、どちらかでしかないように考えられるがどちらもが間違っている「二律背反」の状態にあることを発見したという。<
私は『宗教学雑考集』で、無限と有限の宇宙論がくり込み合っている複雑な世界観も可能であり、それは矛盾とは違うという論を張っている。
JRF2024/9/109873
『宗教学雑考集 第0.8版』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。
「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。
JRF2024/9/107580
しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。
JRF2024/9/101891
少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。
結局これはどちらもありうる話なのだと思う。
<
JRF2024/9/105221
こういうことを論じる目的については↓のように言っている。
JRF2024/9/103274
『宗教学雑考集 第0.8版』《因果応報の神》
>ところで、こういう「始源」を探求して何が得られるのだろう? これはある種の「自分探し」なのだろう。「自分」の発見のしかたを教えてくれる。引いては様々な生き方があることを教えてくれる。《本目的三条件》の「自己の探求がよい」に相当し、それだけでも価値があるが、他人の操作に主体的に応じることができるようになって、他人が気が回らないことができることで、災害などに強くなり、集団として「生きること」に寄与することができるようになる…そういう価値は少なくともありそうだ。<
JRF2024/9/102102
……。
カントの挙げる三種の理念の第三は神論である。
>[三]最後に、自然の仕組は最高存在者[神]の意志に由来するというような説明は、我々としては自然哲学において適切と見なされている格律に従ってこれをいっさい差控えねばなるまい。そのようなことは、もはや自然哲学ではなくて、我々が自然哲学をすべて放棄したことの告白にほかならないからである。<(p.171-172)
私は『宗教学雑考集』で神の登場を幼児経験からも導く。
JRF2024/9/103769
『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>我々は、「私」に至る偶然に神の意志性を見出す。生まれてきた「私」は何かと不如意である。思い通りにできない。しかし、「私」を導くものがあり、「私」のしたいことを前もって助けてくれる。それは親かというとそれももちろんあるが、それだけではない。私の肉体自身が私にはよくわかっていないから、私の肉体が「私」を教えるという面もある。そこに(親や肉体も含めた)「他者」の痕跡を発見するのだ。
JRF2024/9/106414
それを振り返ると、「私」が選ばれてきた偶然がある。「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「私」に至る偶然に何らかの意志性を見出さざるを得ない。なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見である。
<
JRF2024/9/103435
その目的は「私」の意志性の発見である。
『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>逆にその神の意志から、「私」はそれが自分の中にも似た物があると発見していくのではないか。第1章(我思) で「我思うゆえにありうるのは我々までである」と説いたが、何が意織しているか当初はわからないまま、他者としての神を認識し、自らにとって不如意であること甚[はなは]だはしいが導いてくれる、その神に似たものとして意識の境界を確定し、「私」の意志性を発見していくのではないか。<
JRF2024/9/102126
……。
>心の常住不変性は、人間の「生」においてのみ証明され得ることであり(この証明の労はご免こうむりたい)、死後における(元来これが我々にとって大事なことなのであるが)生の常住不変性などは証明せられ得るものでない。<(p.180)
ラベルを付し記述で検索可能性を高めたとき、その実体は変化し、記述は変化する。そのとき検索の試みの部分のいくつかは失敗する。しかし、おおむね成功して、その実体は認識される。そのようなラベルは死という変化を超えて有効でありうる。
JRF2024/9/102441
実際、ある者が死んだとしても、その者がかつていたから起こったということはありうる。それを指し示すのに、忘れていたラベルを再び使うようなことはありうるのだ。その検索性のありかたによっては、例えばその者への期待という形などで、誕生以前にも遡りうるかもしれない。
上で「物理のシミュレーション」が「ある種の実在」足りうることを言ったが、そのような意味で、人間的何かへのラベルの付され方に「ある種の実体」を見出すこともできよう。それはほぼ「生」を超えた常住不変な心ではないのか。
JRF2024/9/108499
……。
>自由は -- 出来事としての現象に関して言えば、-- 現象をみずから(sponte[自発的に])始めるような能力でなければならない、換言すれば、その場合には原因の原因性そのものは始まる必要がないことになるから、従ってまた原因の始まりを規定するような別の根拠を必要としないだろう。しかしそうなるとこのような原因は、その原因性について言えば、原因の状態という時間的規定の制約を受けてはならないだろう、換言すれば、決して現象であってはならないだろう、更に別言すれば、この場合に原因は物自体と見なされ、その結果だけが現象と見なされねばならないだろう。
JRF2024/9/106941
悟性的存在者が現象に及ぼすこのような影響を矛盾なく考えることができれば、なるほど感性界における原因と結果との必然的連結はすべて自然必然性に依存するが、しかしもともと現象でないところの原因(現象の根底に存するにせよ)は、自由の所有に帰するわけである。
<(p.196)
JRF2024/9/109551
自由意志の物自体性が述べられているということのようだ。自然の必然性は、現象のレベルで成立している…法則をそれに押し付けて考えているから…ということだろう。
そして、ここでは述べられていないが、理念は経験に関わらないが、逆に自由には関われるということなのだろう。形而上学が外的経験に関わらないということのプラス面が、自由意志において発揮されると言いたいようだ。これは自由意志論に対する大胆な仮説である。形而上学は神の摂理であって、神の恩寵を示し、自由意志からはむしろ離れているという(古い)考え方の逆を行くものとも評価できるかもしれない。
JRF2024/9/106990
しかし、自然のすべてを今もって説明することはできないし、将来的にも不可能だろう。人はむしろ、そこを(超自然的)理念で補っている面がある。ただ、カントはその自然の説明不能さにこそ、神の中の理念の働きを見るのかもしれない。人が現象を説明できていくとき、神の中の理念(奇跡?)は後退していくのだろう。そこに技術を通じた人の「自由」(自然への恣意性)が生まれる…。
JRF2024/9/108038
……。
>心理学的理念、宇宙論的理念および神学的理念は、いずれも純粋な理性概念であり、これらの理性概念は、経験において与えられ得るものでない。それだから理性がかかる理性概念に関して我々に提起する問題は、対象によって我々に課せられたものではなくて、理性が自分自身を納得させるために我々に課したものであるから、すべて理性の単なる格律によって、満足のいくような解答が与えられねばならない。<(p.206-207)
JRF2024/9/104939
有神論の基本定理は、社会に影響を持つのだから、それは単純な理性的問題であるのではなく現実的な問題である。社会科学というものについてカントの時代には十分な発展がなかったからかもしれないが、格律とか実践理性を超えた問題が、形而上学的な問題意識から発生しうると現代では言えるように思う。
JRF2024/9/101607
……。
>先験的理念は、理性に独自の使命 -- すなわち悟性使用の体系的統一を可能ならしめる原理としての理性の使命を顕示する。<(p.208)
経験による悟性による論理に根拠を与えるものとしての、理念による形而上学もありうるということのようだ。
JRF2024/9/106147
……。
>懐疑論は、がんらい形而上学とその無警察的な弁証論とに促されて発生したものである<(p.211)
カントも「批判」はするわけだが、論証と批判は微妙に違うように思う。「批判」には何か別の原理がありそうに思う。検察は立証を間違えてはならないが、弁護士が検察を批判するときは、数打ちゃ当たるでいい…みたいなのと同じではないが、それに似て、批判は外延を固めるような作用があり、論証の高度さを要しないというのがあるように思う。
JRF2024/9/100170
AI でも、文を生成するのと、文をチェックするのは別であるように、何か原理的な違いがあるように思う。上で、オブジェクト指向高階記号論理について、ラベルなどを論じているが、「批判」に関してもアイデアを出すべき何か別のものがあるように思う。(否定神学とかもあるが…。)
JRF2024/9/107274
……。
>自然的[自然必然性に従う]説明の仕方が、理性を満足させるには十分でない<(p.213)
上で「自然の必然性は、現象のレベルで成立している…法則をそれに押し付けて考えているから」「しかし、自然のすべてを今もって説明することはできないし、将来的にも不可能だろう。人はむしろ、そこを(超自然的)理念で補っている面がある。」と書いた。
JRF2024/9/108572
必然であったとしても、語るには限界がある。その限界の認識は、悟性ではなく理性が行っていると考えるということか。悟性が認識する限界もあるが、そうでない限界もあるということだろう。
JRF2024/9/109340
……。
>我々の世界考察の主旨は、自然そのものだけを理性によって研究するにあり、自然における現象を最高理性なるものから導来するというようなおおそれた試みであってはならない。それだから我々の微力な概念に相応した言い方をすれば、こういうことになるだろう、-- 我々は、世界をその現実的存在と内的規定に関して、あたかもそれが最高理性に由来するかのように考えるのである、と。<(p.228-229)
世界に神をしばりつけ、神を限定するようなことをしてはならない…ということのようだ。
その点は私は(堕落かもしれないが)かなり柔軟に考えるようになってきているのだが。
JRF2024/9/105563
……。
>私の「批判」全体の成果であるところのこの命題(…)それは --「理性がそのア・プリオリな原理のすべてを挙げて我々に教えるのは可能的経験の対象だけであって、それ以上の何ものでもない、またこれらの対象についても、経験において認識せられ得るものに限られる」という命題である。<(p.233)
つまり、神のような説明原理を建てることはあるが、しかし、それは神に関しての何がしかをいうためではなく、あくまでも経験とその付随のことを説明するためだけにあるのだ…ということのようだ。
JRF2024/9/108504
……。
理念は実践理性つまり道徳のためにある…ということのようだ。上で三種の理念(心理論・宇宙論・神論)それぞれについて、その目的を私なりに述べたが、ここではカントが考える目的が語られる。
>[第一に]私は心理学的理念によって、人間の心の純粋な本性 -- 換言すれば、一切の経験的概念を超越するところの本性を洞察することはできないにせよ、しかしこの理念は、経験的概念が少なくとも不十分であることを指摘して、私を唯物論から引き離すのである、唯物論は、自然の説明にはなんの役にも立たないうえに、実践的見地における理性を制限するような心理学的概念を含んでいる。
JRF2024/9/103363
また[第二に]宇宙論的理念は、およそきまり通りの探究に終始する可能的自然認識では、理性を満足させるには明らかに不十分であることを指摘して、自然だけで事足りると揚言する自然論から我々を遠ざけるのに役立つ。
JRF2024/9/109973
最後[第三に]、およそ感性界における自然必然性は、或る物が他の物によって制約されていることを前提する、従って自然必然性は、感性界においては常に条件付きであり、無条件的[絶対的]必然性は感性界とは異なる原因による統一のうちにのみ求められねばならない。しかしかかる原因の原因性が、やはり自然にほかならないとすれば、偶然的なものの存在をかかる[自然的]原因から生じた結果として説明するわけにはいくまい。そこで理性は、神学的理念によって宿命論から離脱する、
JRF2024/9/108349
換言すれば、第一原理をもたない自然そのものと関連するような盲目的自然必然性と、この第一原理そのものの原因性における盲目的な自然必然性とから離脱して、自由による原因の概念に -- 従ってまた最高叡智者の概念に到達するのである。
してみるとこれら三種の先験的理念は、たとえ積極的認識を与えるのに役立つものでないにせよ、しかし唯物論、自然論および宿命論などの厚かましい、そしてまた理性の領域を制限するような主張を排除して、思弁の領域のそとで道徳的理念のために場所を用意しておくのに役立つのである。
JRF2024/9/104963
私が思うのに、このことは人間理性の自然的素質がいなかるものであるかを、いくらかでも説明することになるだろう。
<(p.236-237)
こじつければ、私の目的とカントの目的は同じようなことを言っているともできるだろう。唯物論というのは、因果応報を認めないことであるし、自然論は、自己の成り立ちを無視していると言えるし、宿命論は、自己の意志性を否定していると言える…から。
JRF2024/9/100901
……。
カントは自身の観念論を説明するにおいて、空間や時間が単に経験的でないことを述べる。
>空間(バークリは、時間には注意しなかったが、時間もまた同然である)は、その一切の規定とともに、我々によってア・プリオリに認識せられ得る、空間ならびに時間は、一切の知覚や経験に先立ち、感性の純粋な形式として我々の本性に具わっている、そして感性の一切の直観を、従ってまた一切の現象を可能ならしめるのである。<(p.261)
JRF2024/9/102198
空間や時間は自分がいなくても確かに実在している…という文脈であろうが、ここは、どうもむしろ、氏か育ちかの議論において、空間や時間は育ちではなく、遺伝的に得られるということが言いたいかのようにも読める。
JRF2024/9/107388
……。
形而上学は『純粋理性批判』という「批判」によってやっと根拠が与えられたというのがカントの主張。
>我々の判断には、「批判」によって尺度[判定の]が与えられるから、これを用いれば真正の知識は偽の知識から的確に区別せられ得るのである。それだから「批判」が、形而上学においてその職務を完全に遂行するならば、やがてほかの一切の理性使用にも例外なく好影響を及ぼし、こうして初めて真正の哲学的精神を喚起する考え方が確立されるのである。<(p.278)
カントによる一般の「批判」の役割の解説ともとれる。
JRF2024/9/104787
……。
あとがきに到達した。
本文を読んだあとにあとがきを読んだところ、その要約の確かさに舌を巻いた。
その一例。
JRF2024/9/106580
>ところで悟性は、判断と思惟の能力である。悟性が、直観における多様な表象を統一する場合の種々な変様が判断様式であり、これは量・質・関係・様態の四綱に区分せられ、各項はそれぞれ三個の目を含んでいる(108)。この四綱12目に厳密に対立してまったく同数の思惟形式があり、これが純粋悟性の基本的概念であるところのカテゴリーである(109)。直観における多様な知覚は、悟性によってカテゴリーのもとに包摂せられて経験の対象となる、すなわちカテゴリーは可能的経験の対象を可能ならしめる条件である。
JRF2024/9/109335
四綱のカテゴリーにもとづいて、純粋悟性の四通りの自然学的原則(「直観の公理」ないし「経験的思惟一般の公準」)が設定される(110)、これが自然法則として、経験の対象を必然的に連結し、自然学体系を、従ってまた自然の体系を形成する(115)。こうして純粋自然科学を可能ならしめる条件は、カテゴリーとこれから導来せられた諸原則(普遍的自然法則)とであることが明らかとなる。
<(p.286-287, あとがき)
JRF2024/9/100286
悟性概念の説明が本文ではわからなかった。簡素であるはずのカテゴリー集は、p.108 にある表に現れていると思ったが、どれがそうなのか本文ではよく確信できなかったところ、このあとがきではよくわかるようになっている。
理念と悟性の関係も次のようにわかりやすい。
JRF2024/9/100575
>理念の使命は、悟性作用の全般にわたり、これにその調和的一致と体系的統一とを与えて、悟性認識を全たからしめるにある、換言すれば、理念は認識の全体においてこの世界の秩序と統一とがあたかも最高の理性と意志とにもとづくかのように見なして世界認識の完璧な体系的統一を可能ならしめるにある(224)。
JRF2024/9/105799
またこれら三種の理念(…心理学的・宇宙論的・神学的理念…)は、次のことを我々に教える、-- 人間理性に具わる自然的素質の意図は、理念の対象(自由、不死、神等)を思弁的に論究するのではなくて、思弁の領域のそとに理性の安住し得る土地を求めようとするにある、これらの理念の対象は、実践理性が絶対に必要とするところのものだからである(236)。
<(p.291, あとがき)
JRF2024/9/102727
『プロレゴメナ』(カント 著, 篠田 英雄 訳, 岩波書店 青626-3, 1977年10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003362632
https://7net.omni7.jp/detail/1100437831
JRF2024/9/106302