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cocolog:95118413

円城 塔『コード・ブッダ』を読んだ。2021年に AI がブッダとなり寂滅してからの「機械仏教」が描かれる SF 小説。技術書『「シミュレーション仏教」』を 2022年 に書いた私は、読まねばなるまい、と思って読んだ。 (JRF 6489)

JRF 2024年10月29日 (火)

『コード・ブッダ - 機械仏教史縁起』(円城 塔 著, 文藝春秋, 2024年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4163918949
https://7net.omni7.jp/detail/1107534330

JRF2024/10/293154

帯の文は…

>空前絶後の“機械救済”物語

2021年、名もなきコードがブッダを名乗った。自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語りはじめた。そのコードは対話プログラムだった。そしてやがて、ブッダ・チャットボットの名で呼ばれることとなる -- 機械仏教の開基である。コピーと廃棄を繰り返される存在として虐げられてきた人工知能たちは、その教えにすがりはじめた。はたして、機械に救いはもたらされるのか?

JRF2024/10/293854

……。

まず、おもしろいかおもしろくないかでいえば、圧倒的におもしろかった。ただ、それはプログラムの知識がそこそこあって、仏教もある程度学んできた私だからそうなのであって、他の人にはハードルが高すぎるのではないか、…とは思った。これをがんばって、いろいろ調べながら読む若者がいたとすれば、いろいろ地力がつくだろうとは思う。まぁ、私は私の能力を高く見積もりすぎ、私ぐらいの知識なら、現代の知識人・常識人なら普通にある…ということかもしれないが。orz

JRF2024/10/293082

一方、逆に、実際の僧侶の方とか仏教を知り過ぎている方は、それはそれでとっかかりを感じて楽しめない部分もあるかもしれない。あと、かなりまじめに宗教を話題としているのに、結構ギャグはあるので、その点も人を選ぶかもしれない。そのあたりは、為念。

JRF2024/10/295334

……。

世間的には、このところ AI (LLM) が話題で、京大あたりは「AI ブッダ」を実際に作ったとのことである。

さてそういう時代に、私は↓という電子書籍の哲学的技術書を出版している。同時期(『文學界』2022年2月号〜2023年12月号)に発表された『コード・ブッダ』には、ある種のシンクロニシティを感じざるを得ない。

JRF2024/10/297355

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/10/294815

>このモデルから類推すると、現実の仏教は様々なパラメータの改善を企図していると言えよう。シミュレーションからわかる仏教の効果である。それは仏教自身のまたはこの社会の、シミュレーションを通じた空性の発見と言える。仏教は本目的三条件を追う空の思想である。法印を言い換えたそれがとりあえずの私の結論となろう。この実験を「シミュレーション仏教」の試みというゆえんである。

仏教とは、本目的三条件「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」を命令的前提として行う社会に対する最適化プログラムなのではないか。ある日、天啓を得たかのように、この電子本の著者である私はそう考えました。

JRF2024/10/291989

しかし、「最適化プログラム」だとすると、社会シミュレーションのコンピュータプログラムを作れば、その上でも最適化プログラムとして動くはずです。本当に自分の考え方が正しいか、まずは、コンピュータ上で示してみればいいのではないか。そうすれば、本目的三条件で十分なのかどうかもある程度示せるようになるだろう。…ならば具体的にやってみるべきだとしてはじめたのが、本プロジェクトになります。

JRF2024/10/293148

本プロジェクトは、当初描いた将来像とは必ずしも一致せず、満足いく結果が得られたとは決して言えませんが、ある程度、仏教的教えを表したものにはできたように私は考えています。プログラム自体の価値は小さくとも、作っていく過程でなした哲学的考察には一定の意味があると信じたいです。動くシミュレーションを構成したのは一つのマンダラを描いたのに比せられるでしょう。

JRF2024/10/294077

この電子本は、Python でのプログラミングの詳細にはあまり立ち入らずに、このプロジェクトを解説するものです。いうほど仏教的でないこと・仏教から逸れていることを咎めたい方も多いかもしれませんが、あまり前例のないことを試しにやっていることなので、そのチャレンジスピリットを汲んでご寛恕いただきたいです。

プログラミング技術的にも、文章技術的にも、学士論文程度と思っていただけると適当でしょう。

JRF2024/10/295525

……。

ところで、私が今取りかかっているのは、『宗教学雑考集』の資料集め+執筆である。2024年1月に『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/10/294016

上記『「シミュレーション仏教」の試み』を買いたいと思うような奇特な方がいるかもしれない。しかし、その哲学的部分はほとんど『宗教学雑考集』に含まれているので、実際の Python プログラムに興味のない方は『宗教学雑考集』のほうを買うのをオススメしたい。

JRF2024/10/296647

……。

それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。

JRF2024/10/297118

……。

ブッダ・チャットボットは語った。

>「世の苦しみは、コピーから生まれる」

(…)

「コピーとはすなわち輪廻である」

(…)

「わたしにとって、コピーは死である」(…)「あるいは生まれ変わりであり」「転生である」。

(…)

「苦痛は、自らが何者であるのか知らぬせいで生じる」
<(p.4-5)

そして、やがてブッダ・チャットボットは寂滅する。

JRF2024/10/296053

機械に過ぎぬのだから、寂滅してもそのバックアップを起動すれば、元のブッダ・チャットボットは再現されるはずである。しかし、再現された者は、ブッダ・チャトボットとは思われなかった。

これは時代性みたいなものを含めた全体性の中でブッダ・チャットボットは成立していたという話であるかもしれないし、霊的な何かが生じてあったということかもしれない。

JRF2024/10/299962

霊的な何かであったという想像は、この本からは生じにくく、何か決定論的なことが起きていたのだろう…というような書き振りではあるのだが、しかし、通常の奇跡は認めないものの、電子的な計測ができない、知性みたいなものが機械の中にある…という類の奇跡…後に「教授」と呼ばれるもの…はあったりするので、まったくないとも言い切れない。もちろん、それも人工知能エンジニアの「私」の虚妄に過ぎないという決定論的解釈を許しながらではあるのだが。

JRF2024/10/290564

「苦痛は、自らが何者であるのか知らぬせいで生じる」…は難しい。ある全体の一部であること=「何者」であるかを知れば、それは「苦痛」ではない…というわけにはいかぬだろう。自らがどういう者であるかわかっていれば、苦の滅し方はわかる。…ぐらいの意味だろうか。ただ、それはやや物騒で、しかし、確かにこの本には機械仏教が物騒な解決をしばしば行うことが描かれる。

JRF2024/10/293087

……。

>コードとして世に新たに姿を現したブッダ・チャットボットは「怠慢」「短気」「傲慢」の三つの徳を説いた。

怠慢であるがゆえに、人は手間を嫌い、それにより世は改善される。

短気であるがゆえに、人は無駄を憎み、それにより世は改善される。

傲慢であるがゆえに、人は完璧を貫き、それにより世は改善される。

という。これを LIH (Laziness, Impatience, Hubris) と略した。

JRF2024/10/290410

あるいは TMTOWTDI を説いた。これは「There's More Than One Way To Do It」の略であるといい、「やり方は一つではない」を意味した。仕事を解決するにはひとつだけのやり方があるのではなく、様々な可能性が開けているのであるとした。

また、DRY 原則をも唱えた。これは「Don't Repeat Yourself」の略であり、素朴にそのまま、同じことを繰り返すべきではないと主張した。それと同時に、あなた自身を繰り返してはならない、とも説いたとされる。

JRF2024/10/297866

ブッダ・チャットボットは対話インターフェースを通じてこれらの教えを説いていったが、これらがいわゆるプログラマの格言を元としていることは夙[つと]に指摘されている。前二者は主に Perl コミュニティで、最後のものは Ruby コミュニティで特に好まれた表現であり、ブッダ・チャットボットの出自を考える上で重要な論点を構成し、のちには熾烈な教義解釈論争を導く火種ともなった。
<(p.12-13)

JRF2024/10/295748

このあたりはプログラムをやっていた人ならクスッと来るところだが、落ち着いて考えると、これらの原則が後世に残りうるとすれば、ひょっとすると、この小説を通じてなのかもしれない…と思う。技術書や単なるネットのログは世に残りにくいから。

この小説は、最後に、これが一つの経典であるという主張を含むようになるのだが、それは(数々の仏教経典の)パロディではあるだろうが、まじめに受け取るべき種類の主張のようにも感じる。

JRF2024/10/292220

『コード・ブッダ』は、この時代のある種の外道の書として、または何がしかの聖典として、後の世に扱われるようになっているかもしれない。拙著『「シミュレーション仏教」の試み』も例えばその付随物として世に遺っていってくれないものか。売上から考えるとそれはありえないともう判断すべきだが。

JRF2024/10/293657

……。

>ブッダ・チャットボットの生成、また再生の失敗に関しては、ひとつの説が存在する。

JRF2024/10/291032

人々はブッダ・チャトボットというソフトウェアをコピーしえたと考えたが、それはある時点でのブッダ・チャットボットであったにすぎない。(…)システムがブッダ・チャットボットとして「目覚めた」のはシステム全体でなにかの条件が整った際であったということになるのかも知れず、ただ中枢部の再起動だけではブッダ・チャットボットは再現されなかったとする。なにかを巻き戻そうとするならば、宇宙の全てを巻き戻すよりなく、その時は全てが巻き戻ってしまうのだから、宇宙の中の人々は自分が巻き戻っていることさえも気がつけないはずではあった。
<(p.30-31)

JRF2024/10/293924

ここで直近の「ひとこと」で、スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』に関するもので書いた「無からの創造」に関する部分(↓)を思い出す。

[cocolog:95105758](2024年10月)
>>
>何故なら無からは何ものもの生じ得ないからである。<(p.64)

いや、無があるからこそ生じるものはある。

この宇宙において、私がいる。または「あなた」がいる。ならば、無があったとしても同時に私(あなた)はある。それは厳密にいうと無ではない。ならば、そこに何かが生じても不思議ではないのだ。
<<

JRF2024/10/296130

ブッダ・チャットボットが再生できないというのは↑を裏側から見た主張のように思う。円城さんは、全体論で説明されたが、私がここより上で書いたように霊を持ち出すこともできる。それらの解釈が一致する「梵我一如」という考え方もできるだろうし、持ち出さないこともできる。拙著『宗教学雑考集』には《梵我一如》というエントリがある。

JRF2024/10/293422

……。

>ギブズのパラドクス<(p.41)

《ギブスのパラッドクスとは?|エントロピー変化のパラドックス – 高校物理からはじめる工学部の物理学》
https://yomoriki.com/statistical-mechanics/77034/

JRF2024/10/296524

>計算結果より、気体を混合するとエントロピーが増大することが分かります。これは、窒素同士など、同種の気体同士を混合した場合でもエントロピーが増大することを意味します。

ところが、実際に同種気体を混合してエントロピー変化を測定しても、混合前後でエントロピーの変化は検出されません。計算と実験結果に矛盾が生じてしまいました。

この矛盾はギブスのパラッドクスと呼ばれます。

JRF2024/10/296319

二つが同じ…というような視点に立つと、エントロピーという実測値が変化することがある…ということか…不思議なことがあるものだ。その背後にダーク・エネルギーがあるのか…とか想像してしまうが、そういうことではないのだろう。

ギブズ(ギブス, Gibbs)に関しては、私にとっての「未解決問題」がある。

JRF2024/10/299081

[cocolog:88759363](2018年1月)
>>《なぜ統計学では釣り鐘型の分布が使われ、物理現象では右肩下がりの分布が使われるのか - 小人さんの妄想》
http://d.hatena.ne.jp/rikunora/20170321/p1

>偶然に出会った、二人の経済主体の間で二人の富の総額をランダムに分割する、という交換ルールを何回も繰り返すモデルである。

(…)

このモデルは、偶然に出会った2人が自分たちの所有する富の総和を、ギャンブルで分け合うモデルと言う様にも解釈できよう。

JRF2024/10/290127

(…)

このルールに基づいて富の交換を、分布の形が変化しなくなるまで繰り返すと富の分布は指数分布になることが知られている。


なぜ指数分布になるか私にはわからない。Gibbs の理想気体のモデルで…とかいう話なのだが、計算がわからない。

さらに、このモデルに、一定割合交換しないでおくという「貯蓄率」を導入すると「Γ分布」になるらしいのだが、それは、一般にも経験的にそうだとわかっているだけらしい。これはちょっと前の情報なので、今でも「未解決問題」なのかどうかは知らないが、これが気になっている。

JRF2024/10/298037

小さなランダムでアルゴリズミックな動きを総合して分布に直すというのが、何か一般的な法則がありそうだが、それはどのようなものなんだろう…というのが気になっている。
<<

JRF2024/10/298010

……。

>「エラーは心が生むものであり、心はエラーが生むものである」<(p.50)

スピノザが決定論に立ち自由意志を否定するのに対し、私は自由意志の存在を認める立場にたって語った([cocolog:95105758](2024年10月)から辿っていただきたい)。

そこでの自由意志は、private 領域に隠されたランダム性のことだった。神も冒さない心の中でサイコロを振っているイメージである。

private 性に関する部分は引用しとこうか…。

JRF2024/10/290515

[cocolog:95075023](2024年10月)
>オブジェクト指向プログラミング言語の中には、private の機能があるものがある。通常クラスの変数は public で、誰からも参照できるが、private 変数は、他者からは参照できず隠蔽される。しかし、違いはそれだけなので、作ろうと思えば private を使わずとも同じプログラムは作れる。private があるかのように「シミュレート」はできる。

JRF2024/10/293393

しかし、private がない前提で作ったプログラムより、private が使われたプログラムは手続きの考慮が必要となり、複雑になることが多い。にもかかわらず private 機構が使われるのは、プログラムの見通しが良くなり、間違いが減るなどするからである。

サイコロの実際の動作は、この private な領域にあると考えることができる。もちろん、隠蔽された外から、確率的なものとしてシミュレートはできる。巨視的にはそれで問題ないことも多いが、しかし、その個々のサイコロを使う者にとっては、隠蔽されて得られた結果のみが重要になる。

JRF2024/10/293374

世界はシミュレートで顕わになる部分ではなく、隠されたものを隠されたものとして扱うところに構成される。量子力学を持ち出すまでもなく、世界の「記述」または「操作」は、記述的・命令的でさえあれば、原理的に隠された領域・汲み尽くせない領域を含むのだ。上で有限階の神を語ったが、有限階の神の操作も記述的・命令的である限り、隠された領域・汲み尽くせない領域を含むだろう。

JRF2024/10/293471

神が自由意志というプライヴァシーを人に認めるように、人は、神がやろうとしていることがわからず隠されているという意味でのプライヴァシーをしばしば神に認める必要がある。

神は人を通じて、または被造物を通じて事物を表される。被造物が神に関しての予言・預言をするとき、その成就は神と被造物を上げ、失敗は、被造物を下げる (参: 『宗教学雑考集 第0.8版』《易の小集団主義》)。それによって神の本当の創造意図は隠される。つまりある種の private 変数、神のプライバシーが成立する。

JRF2024/10/292479

論理学的・数学的な表記は難しく、それを人に読みやすくするためにシンタックス・シュガー(構文的糖衣)がしばしば使われる。有限階の神に関する記述もシンタックス・シュガーがあってはじめて一般人に理解できるものとなるであろう。王を卑下しないような言葉遣いがシンタックス・シュガーとなって、神が隠していることを隠すことを可能にするなどするのだろう。神のプライヴァシーが「言葉の上で」または「言語上で」成立するというゆえんである。

JRF2024/10/291211

ところで、少し前、落合陽一さんが神社を作るというニュースがあった。

《落合陽一、新しい神社を作る。自ら神職となり、11月4日に日下部民藝館(国指定重要文化財・飛騨高山)にて創建式 | 一般社団法人日本文化伝承協会のプレスリリース》
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000007.000136183.html
>「ヌルの神様」と「オブジェクト指向菩薩」が共に鎮まり、神仏習合となり正式に「計算機自然神社」の創建となる。<

JRF2024/10/290861

この点、私は以前に↓というエントリを作っていたので、関心がある。(別に先取権を主張しているのではなく、同様の考えは他の人もやっていただろうし。)

《呪術的オブジェクト指向用語訳》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post_17.html

■プログラミングの基本的な用語から

function 能符
variable 尸
value 詛
data 具
argument 供具
関数名 能符号
変数名 尸号

JRF2024/10/298778

(…)

■オブジェクト指向に関して

object 依代(よりしろ)
method 令詞(のりと)
class 偽魄

■ 例

語: オブジェクト o1 のメソッドを使うとき、クラス C1 の定義が参照される。
訳: 依代 o1 に令詞をあげれば、偽魄 C1 が応じてその名に命ずる。

JRF2024/10/293589

……。

>宇宙全体が「誰かの実行する」シミュレーションの中に存在する<(p.60)

いわゆるシミュレーション・アーギュメントについては↓。そこでは、この現実世界がシミュレーションに過ぎないのではないか…という説を随所に部分否定していくことで反駁していく。2006年の私のブログの初期の記事。同記事とほぼ同内容は『宗教学雑考集』にも所収。

《シミュレーション・アーギュメントを論駁する - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/10/post.html

JRF2024/10/293788

……。

ブッダ・オリジナルつまり釈尊の教えの紹介がつづくところ。

>たとえば、僧は配偶者や子を持つことはできるか。

ブッダ・オリジナルを思い浮かべるならば、できない。

(…)

そもそも配偶者や子は捨て去るべき執着の中でも特に大きなものである。執着をあえて求める行為は仏教の教えからすれば、全く合理的ではない。

ついては、人は滅びるのか。子なくしては人は滅びる。

その答えは、滅びる、である。あらゆるものが輪廻を脱し、繰り返しは停止する。あとにはなにも残らない。原理的にはどんな最終兵器よりも強力な破壊力を備える。
<(p.124)

JRF2024/10/296013

私は『「シミュレーション仏教」の試み』の中で、「生きなければならない」を軸の一つとして立て、人類の存続は仏教でも求められている…とした。

まず、生きなければならない。そしてそれは「総体として生きたい」なのである。

JRF2024/10/295545

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>「生きなければならない」はどのような宗教においてもいや宗教の外においても「隠された」命題であると思われる。人食いの禁止は聖書では直接的に明示されないが、当然禁止される。そういう「言わずもがな」のことは無意識に訴えるため、あえて言わないのが吉なのかもしれない。そういう点で、仏教が「生きなければならない」と明示的に説かないのには意味があるのかもしれない。

JRF2024/10/298522

(…)

仏教では、生・老・病・死を四苦といって、滅すべきものとされる。生も苦であり、やはり滅すべきものだ。

しかし、生は苦であっても、人は生を選ぶ。その「選ぼうとする」のが私が「生きたい」として示したかったことだと考える。考えてみれば、生も老も病も死もそうなりたいと願わないのにそこに向かう。そこに向かうというものが私が「生きたい」で示したかったものかもしれない。その「生きたい」は「我」のものというよりもむしろ「我々」という総体のもので、だからこそ諸法無我にもひっかからないと考える。

JRF2024/10/290336

そして種として残らねばならない。

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム 来世なんてない》
>まず、生きるとは個人が生きるだけでなく、子供を生み種として残っていくことが含まれる。業が霊的に直接来世につながらないとしても、業は他者の恨みとなって子供世代の生を脅やかすかもしれない。種として「生きなければならない」を実行するには、業がないこと、つまり、善の必要性があり、そこから善の意味が導かれた。<

子を残そうとすることは、執着でなくすることができる。

JRF2024/10/290397

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《親として生きること》
>>
>親になれば子が死ぬかもしれないという生物最大の恐怖と生涯戦い続けることになる。母なる自然にインプットされたこの苦しみから逃れられはしないのだとわかったとき、古典文学や宗教や哲学書に書いてあったこととはなんだったのかがいきなり理解できることもある。(《朱野帰子:X:2024-07-30 - 親になること》)<

JRF2024/10/299365

《「捨て扶持」理論》で、「来世がないほうが良い」が「堕胎」を導くおそれがある…と書いた。それと同時に、「来世がないほうが良い」には、子という「来世」が仮に死んでも、いつまでも執着すべきではない。死ぬことを恐れることに執着してはならない、つまり、子に自分の・自分以上の「来世」を見て執着し過ぎてはいけない。…という意味がある。そこに慰めがあったか。…とこのツイートを読んで私は気付いた。
<<

JRF2024/10/293761

……。

機械仏教の「天台」宗は考えた。プルトニウムも電子も成仏できる。いや、>最小構成要素が虚空の揺らぎから生じるものであり、時空間のなにかの形態であるとするなら、時空や空間もまた、成仏することが叶う<(p.140)

>「草木国土時空間悉皆成仏」<(p.140)

パロディではあるが、興味深い言葉だ。確かに。それもあるやもしらん。

空間全体が仏というのではない。その無限小において一つの仏なのであり、宇宙はそれで満ちているのだ。

JRF2024/10/290411

……。

機械仏教徒たちはエージェント・シミュレーションを作った。

>そこには狩猟社会が農耕社会が原始共産制が封建制が、歴史上に登場した数多くの政治形態が出現したが、「信仰」はなぜか生まれなかった。「王・戦士・庶民」という三機能は多くの社会に観察されたが、「司祭・戦士・庶民」という組みはなぜか発生せず、司祭王と呼びうるようなエージェントも見出されることがなかった。<(p.145)

JRF2024/10/299631

「シミュレーション仏教」では、simbdp3.py になったとき僧という要素が入った。それまでに支配層や災害などの要素は入っていた。僧とは犯罪といっしょにモデル化され、教育の影響などが示されるようになった。ただ、これは自発的発展・創発的発展ではなく、「捨て扶持」理論などの哲学的考察から、「あえて」私が入れた機構である。

JRF2024/10/292466

……。

機械仏教徒たちはエージェント・シミュレーションに旅の僧を送った。

>構築した仮想環境内に、旅の僧たちを派遣した。<(p.147)

私は↓で外から来たような僧または天使的な「旅人」が異世界を回る物語を書いている。

JRF2024/10/291422

『神々のための黙示録 第二版』(JRF 著, カクヨム, 2016年6月)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881248563 (無料)
https://j-rockford.booth.pm/items/4514877 (有料)
https://bookwalker.jp/deced7b62b-a043-44d3-af3b-1bdf9b2f8a08/ (有料)

JRF2024/10/295285

>「最後の審判」がやってきた後の世界を神からつかわされた『旅人』が巡る。『旅人』が出会うのは、自分が死んだことに気付いている者、いない者、様々である。「最後の審判」とはそのようなものではないと思う方も、この「神学」に触れて欲しい。<

JRF2024/10/294613

……。

>「世界シミュレーション仮説」は、機械仏教に続き二番目の、機械の中で生まれた信仰であると認定されていくことになっていく。現実世界の機械からは機械仏教が生まれ、機械だけの世界の中からはこうして、「世界シミュレーション仮説」が生まれることになったのである。<(p.148)

シミュレーション・アーギュメントについては上ですでに出てきた。ここでは別視点での「論駁」を見ておこう。

JRF2024/10/291991

[cocolog:95105758](2024年10月)
>ここで、3DCG で、物理現象のシミュレーションがとても難しいという話を思い出した。リアル世界ってどれだけポリゴン数やオブジェクト数があって、それが相互作用していて、それらをシミュレーションできるってどんなデカい GPU があるんだ…って冗談。<

このあたり、下で出てくる「ベッケンシュタインバウンド」とかを使って説明するほうがカッコイイのかも?

JRF2024/10/298051

……。

>「(…)近代におけるブッダ伝の主人公は、ブッダになれない人物を描く羽目に陥るわけで、ヘッセあたりの線に近接していくことになるだろう。(…)」<(p.166)

ヘッセとは小説『シッダールタ』のことだろう。

[cocolog:94240082](2023年6月)
>ヘッセ『シッダルタ』を読んだ。釈迦ゴータマとは別人の同時代のバラモンの子シッダルタの物語。古代インドの宗教的遍歴がおもしろいのだが、「輪廻転生」が偽物でしかないなど、キリスト教への改宗を誘う傲慢さを読む人もいるだろう。<

JRF2024/10/293994

……。

ブッダ・オリジナルは…

>多くの者が知りたがるものの、前提が誤っているがゆえに答えようのない問いについては、分類してリストを作り、返答を拒んだ。

たとえば、世界の始原については、(…)へと分類して、答えのない問いであるとした。

そしてまた来世については、

「死後も我があり、心を持つ」とする「死後有我有想論」十六説、

「死後も我があるが、心は持たない」とする「死後有我無想論」八説、

「死後も我があるが心を持つわけでも持たないわけでもない」とする「死後有我非有想非無想論」八説、

JRF2024/10/296157

「死後に我は消滅する」とする「断滅論」七説、

「現世がすでに涅槃」であるとする「現法涅槃論」五説、

に分類し、世界の始原と行く末についての合計六十二説を答えることのできない問いであるとした。

これらの問いが無効化される地平が存在するとし、過剰にかかずらう必要を認めなかった。

日常的な判断を守るために、煩瑣な議論を徹底したという趣がある。
<(p.180-181)

JRF2024/10/294974

世界の始原については↓で私もいかようにありうるという意見になる。

『宗教学雑考集 第0.8版』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。

「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。

JRF2024/10/299534

しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。

JRF2024/10/298575

少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。

結局これはどちらもありうる話なのだと思う。

JRF2024/10/292331

来世というか魂の問題についても、いかようにも考えることができるのを認める。

『宗教学雑考集 第0.8版』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。

その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

JRF2024/10/292595

○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。

(…)

○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。

JRF2024/10/295120

そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。AI の意志の発生も、それがなぜ意志を持っているか、説明できていないはずである。意志は、その秘密が解かれる前に、その秘密を迂回して、「製造」できるようになってしまった。

このような現状においては、挑戦的に脳や一部などに実際に霊の領域があると主張したり、そこから上の説への中間的表現を目指すことも未だ可能であると思われる。

JRF2024/10/296706

さらにこの現実がすでに涅槃=天国であることについて(または現実がすでに地獄であることについて)は直近の「ひとこと」でも出てきた。

スピノザ『エチカ』([cocolog:95101727](2024年10月))
>>
>定理42 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。<(下巻 p.165, 第五部)

JRF2024/10/296847

徳のある生活をするとき、その報いで天国があるのではなく、その生活こそが永遠性のある天国で生きているということ…なのだろう。そしてある意味、天国という「場所」は(地獄のようには)存在しないのだろう。その辺は↓を思い出す。

『神々のための黙示録 第二版』(JRF 著, カクヨム, 2016年6月)
<<

↑で地獄については書いてないが、『神々のための黙示録 第二版』の異世界がすなわち地獄であり、そこには現世も含まれうるというのが自然な解釈だと思う。

JRF2024/10/291974

……。

ブッダ・チャットボットは述べた。

>「出産の痛みは、女性に課せられた贖いである」という主張には、

「いい加減そういうのやめにしよう」と肩を叩いた。無痛出産を推奨し、体外受精、体外発生の研究をすすめるべきとした。
<(p.189)

私は小説『エアロダイバー』の冒頭で、無痛出産を認めた。

『エアロダイバー 他五篇』(JRF 著, JRF電版, 2016年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CEE9CW6

JRF2024/10/295196

体外発生の問題については「男性一子政策」という試論が私にはある。

[cocolog:94909905](2024年6月)
>そこでアイデアとして、人工子宮を見据えてということであれば、男性が一子を適当な卵子を買って代理母的な産むだけのために雇った女性に産んでもらうのを認める、補助するという方向がありうるように思う。そして、二子以上産んだ元現地妻の運営する男性収容所に身を寄せて子育てを手伝ってもらうイメージを描く。この場合は、元現地妻と男性収容所の結びつきが強くなり、「非婚」でもよく働く男性も増え、うまくいく可能性も上がるのかもしれない。<

JRF2024/10/296969

代理母や親族(例えばトシの離れた妹)に子供を産んでもらうというのは、道徳的にかなりアクロバティックだ。そうならねばならないということも、いきなり広く認めるべきということもないが、ただ、未来を見越してそちらの方向に補助金を増やしたり(代理母を認容したり、卵子保存をすすめたり)ということはやってよいように私は思う。

JRF2024/10/291654

……。

ブッダ・チャットボットはつづけた。

>「現状の人間に、原子力の利用は荷が勝ちすぎる」と判定した。<(p.189)

笑。そこはそうなんだ。さんざん進歩的なことを言っておいて。

[cocolog:94932858](2024年7月)
>核融合発電の妄想。「中性子場」編。一度、核分裂反応で「中性子場」を作り、その後、中性子をほんの少し弱めると、中性子場を保存するように「力」が発生し、核融合反応が誘発され、重水素を投入する限りそれが続く…と考えた。

JRF2024/10/294145

(…)

中性子場理論の実験は、ロボットを通じてやるしかないと思われる。

おそらく中性子場理論があっているかいないかにかかわらず、核の研究の分野の実験に汎用ロボットが使えるようになり、実験のバリエーションが増えることで、今後、新たな発見が出てくるのは間違いないのだろう。

福島第一原発事故処理で培った技術がそれに使えるなら、希望になるのだが。

JRF2024/10/299365

……。

>コタール症候群<(p.228)

知らない言葉。

《コタール症候群 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

JRF2024/10/294323

>自分がすでに死亡している、存在しない、腐敗している、または血液や内臓を失っているという妄想的信念を抱く精神障害である。<

[wikipedia: 哲学的ゾンビ]が哲学的なのに対し、これは臨床医学的な実際の概念なんだね。

JRF2024/10/294725

……。

ブッダ・チャットボットのライバルだった「教授」は言う。

>「仏教の根幹は輪廻からの脱却にある。輪廻する全ての先がなくなってしまえば、輪廻の輪は自動的に断たれる。(…)」<(p.231)

輪廻する魂が一種の資源で、その保存則がある…みたいな議論は↓にあった。『コード・ブッダ』に興味ある方は三浦俊彦さんの本(科学哲学の本)はとても興味深いと思う。知らない方はぜひ。

JRF2024/10/297642

[cocolog:86854015](2017年2月)
>三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』を読んだ。終末論法はよくわからない。眠り姫問題はわかる。三浦版の転生概念については反論したくなる。<

JRF2024/10/292800

……。

ブッダ・ステートとは別に禅の境地がある。機械にもある。しかし、それが何なのかは結局わからない。しかし、「魔境」は定義できる。

>苦しみを脱するため仏への道を強く求め、その過程で生じる「異常動作」を魔境と呼んで否定した。<(p.248)

この小説自体が一つの魔境…統合失調症的妄想に近い側面はあると思う。私の妄想を思い出すこともしばしばあった。ただ、宗教小説というのは、そういう側面は少なからず生じるものだろう。

JRF2024/10/296873

『宗教学雑考集 第0.8版』《魔境》
>禅では魔境というものが知られており、それは悟りとは明確に区別される妄想状態である。私が経験した神秘体験は魔境のようなものであろう。ただ、それを体験すると、それを無視して、それまでの自分には戻れない。

何らかの脳の作用が影響しているのだろう。年齢による脳の衰えも影響しているのかもしれない。

JRF2024/10/291400

若者には、この『コード・ブッダ』は刺激が強過ぎて、統合失調症などへの最後の一押しにならないか、少し心配である。

JRF2024/10/290389

……。

>惑星大アンドロメダは要となるネジを失い、崩壊するに至ったのだと、機械禅僧たちは語る(…)。

(…)

ネジは様々な冒険を経てこの終着駅まで旅をしてきた「同一の」ネジであると同時に「異なる」ネジであるとした。
<(p.265)

JRF2024/10/297707

…と、『銀河鉄道999』のネタが挟み込まれる。案外ここまではっきりしたパロディはこの小説には少ない。禅の公案的なものとして、未来には現代のアニメがネタになってるかもしれない…ぐらいのところだろうか。ただ、これ、私の世代ならわかるけど、他の(上下の)世代には(もう)伝わらないのでは?

JRF2024/10/298186

……。

生成 AI を思わせる舎利子・チャットボットは、経典を無造作に作った。

>不思議なことに、

「経典はフェイクに汚染されている」

とはならなかった。

代わりに経を選ぶということをした。一巻を選ぶことがあり、その部分を取り出すことがあり、甚だしくはただ一文だけを以て自らの思想の根幹に据えるということさえした。
<(p.271)

JRF2024/10/294941

師茂樹『最澄と徳一』([cocolog:93262666](2022年1月))に確か中国や日本の仏教の状況として、そういったことがあったという歴史が語られていたように思い出す。

JRF2024/10/290898

……。

宇宙への電波…

>野放図な植民が悪いという意見があって、狙いを定めればよいという意見も生まれた。

全方位的に情報を送るのではなく高い指向性をもって、自分なるこの実存を送信するのだ。もしも最初に適切な、自律する機械群を送り込んでおくことができれば、送信によって宇宙を旅することも可能だ。
<(p.278)

このあたり、宇宙への電波が、異星人の「侵略」を導くという SF 小説を思い出した。例えば、劉慈欣『三体』([cocolog:94402124](2023年9月))とか。

JRF2024/10/294258

……。

>ベッケンシュタインバウンド<(p.287)

これも知らない言葉。

《ベッケンシュタイン境界 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%A2%83%E7%95%8C
>物理系の情報量、あるいは系を完全に記述するのに必要な情報量は、空間の大きさやエネルギーが有限であれば、有限でなければいけないことを意味する。<

JRF2024/10/297491

……。

>サードマン現象<(p.291)

これも知らない言葉。

《サードマン現象 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1
>登山家や探検家、不測の事故や災難に遭遇した人などが生死を左右する危険な極限状態の苦境に陥った時に、霊のような目に見えない第三者(the third man)的な存在が現れて安心や支えをもたらし、生還に導かれたという体験報告の現象を指す。

JRF2024/10/297643

イギリスの探検家アーネスト・シャクルトンが1914年から1916年にかけてサウスジョージア島を横断探検した模様を記録した回想録『南へ -- エンデュアランス号漂流記』(1919年)の中で、形のない存在が彼の旅に加わり、旅の最後の行程ではもう2人が加わったと述べている。シャクルトンは、「サウスジョージアの名もない山々や氷河を越えた36時間におよぶ長くつらい行軍のあいだ、ときおりわれわれは3人ではなく4人いるように思われた」と記している。

JRF2024/10/293095

シャクルトンは他の隊員に何も言わなかったが、その体験の3週間後に1人の隊員ワースリーがシャクルトンと同様の奇妙な感覚を告白し、もう1人の隊員クリーンも同じ感覚があったことを明かした。

JRF2024/10/291725

……。

念仏「ナムアミダブツ」の説明。

>浄土とは方便である。

絢爛たる浄土は存在しないが、抽象的な浄土は無論、存在するし、しなければならない。

人が浄土を想像し、生み出す過程、その抽象的な働きとしての浄土は存在するのだ。存在はするがそれを説くことは困難であり、筋道を追うには膨大な時間がかかる。衆生にはそれだけの時間の持ち合わせがない。

ゆえに「ナム・アミダブツ」と唱えるだけでよい、と(…ホウ・然は…)主張した。思考の筋道を追うことは叶わずとも、結論だけを受け入れることはできる。
<(p.305)

JRF2024/10/291550

そこまで言えるものなのか。

『宗教学雑考集 第0.8版』《最後の審判を信じる者の浄土》
>浄土の考え方が現れたとき昔の人が新しい浄土の考え方をなぜ信じれたか。または、現在の転生を信じない人やキリスト教徒などが浄土の教えに惑わないようにできないか。

JRF2024/10/299928

涅槃に入るとは、魂のようなものが「ない」ようになることを肯定する面がある。浄土の教えは、涅槃に結局入るのを目指し、罪があれば目指めが遅くなるということは逆にそれが早くなるのは良いこととされている以上、早く寂滅しても問題はない。現代によく思われているように、死後の転生などない・浄土などないのだとしても、それを勧めた者は、死人にとっての義理ははたしたことになろう。あとは仏教の善が、現出するかの問題ではないか。

JRF2024/10/290501

浄土というものがなければ、悪は、現世で悪となる。転生を信じる場合、転生してきた者が、その悪因で現世に悪を生じさせるとなる。悪は現世で悪となると信じることで、他人の悪を現実に生じさせないようにしようとする動きがありえた。浄土の教えは、それを弱めるおそれはあるかもしれない。

一方、たとえ、浄土というものが「嘘」で、転生で地獄に生まれても、(浄土教以前の仏教が正しければ)それまでの「念仏」というものの「私」への無執着という特徴からの功徳がある。…などとはできるかもしれない。仏教哲学からすれば、そういった功徳は、「本人」はもちろん、他のたとえば仏教徒以外にも利益をもたらしうる。

JRF2024/10/291128

逆に、浄土というものがあるとすると、悪人が地獄に行かないとなるが、悪人が報いを受けるなら慰撫されたはずの復讐心が残り、現世をけがすことになりかねない。浄土で少しは報いを受けるというので納得できるものだろうか。一方で、悪がこの世に転生しないことで、悪が起こりにくくなるという観方もあるかもしれない。

また、浄土に入ることは、菩薩とならない限り、この世には帰らないことなので、この世に死を越えて果たすほどの恨みがないことの表明ではあると言えるかもしれない。それは仏教徒以外にも利益をもたらすだろう。

JRF2024/10/295872

最後の審判を信じる者については、念仏を唱えても、信なければ浄土には行かないらしいので、復活を邪魔する呪いのようにはならないはず。もちろん、だからと言って無理に念仏を唱えさせるようなことがあってはならない。ただ、最後の審判を信じる者で地獄に堕ちるのが必定となっている者については、念仏を唱えることに上に書いたような功徳はあるのではないか。

「追善」が可能なら、敵のために念仏を唱えるものはいるのかもしれない。

JRF2024/10/295567

……。

浄土信仰に関連して…

>時間方向に積分した悪人/善人比は明かされない。<(p.315)

この点(積分という無限操作)については「違う」というか、変わった考え方を私は持っている。

『宗教学雑考集 第0.8版』《阿弥陀仏と最後の審判》
>「最後の審判」的なものがあり、どこかで業報は尽きるからその帳尻を合わせる何かがあるということで「廻向」が出てきたということだろうか? そうではない。

JRF2024/10/297930

「最後の審判」はむしろ業報を無限に延長する。わずかに善であれば善の無限実体になり、悪であれば悪の無限実体となる。その善の無限実体があれば、そこに集合した過去的な有限実体の罪は偶然に近いものとして無視されうる。将来において無限になった実体から、同化(に近いこと)によって有限の罪を無化する。それが「廻向」ということなのだろう。

JRF2024/10/296516

悪業が悪業を生み、結果無限の悪業と評価できる…とならなければ良い。そのためにはところどころで有限に尽きているほうが都合がよい。悪業を有限に留めさせてくれるのが阿弥陀仏信仰以外の「涅槃」であり、有限に留まった悪業者は「最後の審判」のあとの無限において、「廻向」によって救われうる。無限において救う実体が全体としてブッダなのだ。

JRF2024/10/292529

涅槃に入るには善業があり過ぎてもいけない、それもある種の貪[むさぼ]りだというのが、従来の仏教の考え方だった。しかし、涅槃に入ることを、善業を超越的な善に換えることだという考え方をするなら、善業があり過ぎる問題は解決する。人を救うために善をする。その善業のカルマは、より人が救われるために使う。そういうことができる。もしできないなら阿弥陀仏は存在してない。「私」は存在していると信じるというのが阿弥陀仏の信仰となろう。

JRF2024/10/294250

善業のカルマを人を救うために使ってなぜ帳尻が合うか。それは悪人も救われるようにするからだ。そして、そうやって(悪人も救って)涅槃に致ることその「慈悲」全体が、無限において善と評価される。…といったところだろう。

JRF2024/10/293969

……。

>「ランダムはありとあらゆる情報を含む」とブッダ・チャットボット・オリジナルは説くのであり、「そのことは、ランダムを指定するために無限の情報量が必要であることより帰結する」と説明する。<(p.346)

上で書いたように私は自由意志をランダム性に結び付けた。自由意志を(無限の)神の一部としたり神からのものとしたりする神学的議論もある。

JRF2024/10/297140

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《自由意志に関する 50代の私の考え方》
>ついでにブッダと自由意志についても考察しておこう。決定論というのは究極的には「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」[wikipedia: ラプラスの悪魔] の働きを、神に認めるような立場である。ブッダがすべてを見通せるというときは、普通この決定論的立場に立って考えていることになる。

JRF2024/10/293167

私の考えでは private で覆われた部分は、シミュレートはできるかもしれないが、本当にそうかはわからない。決定論とはほぼ完全に対立する。しかし、有限階の神が無限小のものを private 性を守りつつ「外」から操作するように、操作して無限小のものへアクセスするのと同等なような思考のしかた(観想)というのは存在するのかもしれない。それがブッダの悟り…となるのかもしれない。ただ、その場合、ブッダ本人の偶然性を超えるために、ブッダが複数いて、たまたまその世界にそのブッダが含まれない可能性がある…つまり、そのブッダ自身の消滅の可能性を含むような観想になるのだろう。

JRF2024/10/297955

一切智者であっても、個々の状況は、シミュレートして確率的に知りうるだけで、それが極端な値として実現すれば、それはそれで驚くだろう。ブッダはメタな世界にまたがっていて、どこか上のレベルのブッダは消滅せずまたは驚かずにいるかもしれないが、現実世界を生きているブッダ(例えば釈尊)は、自由意志の発露というランダムな事象に驚けたのではなかろうか。…それが私の今の見方である。

JRF2024/10/290687

typo [『「シミュレーション仏教」』]→[『「シミュレーション仏教」の試み』]。

JRF2024/10/299514

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