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cocolog:95105758

スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』を読んだ。俗に『短論文』とのみ称される本。『エチカ』の前身でその劣化版と言えるが、『エチカ』にはない「悪魔の章」が含まれ長く正式な出版がされなかったという。 (JRF 8527)

JRF 2024年10月21日 (月)

『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(スピノザ 著, 畠中 尚志 訳, 岩波文庫 青 615-9, 1955年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003361598
https://7net.omni7.jp/detail/1101243141

JRF2024/10/213401

俗に『短論文』とのみ略される本。前回読んだ『エチカ』([cocolog:95101663](2024年10月))は、スピノザの死(1677年)後すぐに出版されたのに対し、この『短論文』は約200年たって、ようやく出版された。なお、スピノザの死んだ地は日本人には有名なスヘーフェニンヘン(スケベニンゲン)である。

JRF2024/10/218282

『短論文』は『エチカ』のほぼ前身であり、『エチカ』執筆によって『短論文』の完成はなくなったような性格の本らしい。幾何学的形式でラテン語で書かれた『エチカ』に対し、それより完成度は劣るが通常の文章形式でオランダ語で書かれた『エチカ』のような本があり、それは『エチカ』にない「悪魔の章」を含む…ことは長く知られていたが、なかなか出版されなかった、いわくつきの本である。私などはそう聞くと中二病的な関心を惹起されるが、『エチカ』で十分だから…というのが出版されなかった(表向きの?)理由らしい。ちなみに、現行の版で第二部第25章にある「悪魔の章」では悪魔の存在は否定される。…呪術だね。

JRF2024/10/218642

……。

『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/10/215572

『宗教学雑考集』、まずはアーリーアクセス版である第0.8版を2024年1月に出したのだが、そのとき、読むべきと買って積んでおいた本がいくつかあって、それをこれまでゆっくり崩してきた。その積んでいた本もあらかた崩してきた中で最後に残ったのがスピノザ『エチカ』関連の本だった。スピノザ『エチカ』と 100分 de 名著、そして、このスピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』である。

それを 100分 de 名著、エチカ、短論文の順で読んでいった。前回は『エチカ』で、今回、最後の『短論文』にとりかかった。

JRF2024/10/217764

ただし、途中、必要らしいのでスピノザ『知性改善論』も買って、それも今後読む予定である。また、読んだはずだったスピノザ『神学・政治論』も読んだ形跡がどうもないので、それも今後読む予定である。

JRF2024/10/216820

……。

前回までに知ったのだが、どうもスピノザは唯一神による汎神論を説き、ラプラスの魔の存在を認めるかのような決定論者のようだが、私は自由意志の存在を肯定するのに傾き、イデア界も割と肯定する有神論者でしかし東洋思想を基盤に持つシンクレティストである。私はスピノザの思想をそのような点から反駁を試みることが多い。

JRF2024/10/213000

『短論文』は『エチカ』のようには概念が整理されていないため、私は大変読みづらかった。『エチカ』の幾何学的形式に比べ、『短論文』は通常の形式なので読みやすいとされることもあるが、漢字が旧字であることも影響している可能性があるが、スッと入って来ず、また、『エチカ』と議論が似ていて新鮮味がなく、私にはあまりヒットする本ではなかった。

JRF2024/10/215011

これを先に『短論文』を読むということだと、相当理解しづらかったものと思われる。他の人も、読む順番としては『エチカ』のあと『短論文』を読んだほうがわかりやすいと思う。ただ、『エチカ』をいきなり読むのは難しいので私のように先 100分 de 名著 を読むか、他の案内書を読んでから読むのが吉だろう。

JRF2024/10/212707

……。

それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。今回は、『エチカ』でした議論の繰り返しはあまりせず、議論していこうと思う。なお、引用時に、漢字の旧字は新字に改めたり、かなに開いたりしたが、旧かな遣いは改めなかった(つい改めてしまったものを除き)。

JRF2024/10/218384

……。

まずは、他者によって記された『短論文』の概要、「便概」から。

>彼(…スピノザ…)はかう結論する。人間の自由は我々の知性が神との直接的合一に依って獲得する確固たる存在性にあること、従って人間の精神並びにそれから生ずる諸[もろもろ]の結果は何ら外的原因に隷属し得ず又外的原因に依[よ]って減されたり変化させられたりし得ないこと、故にそれは必然的に永遠恒常の持続を保持すること、さうしたことを結論する。<(p.49)

JRF2024/10/219743

この「他者」はスピノザの哲学のどちらかといえば信奉者ではなかったそうであるが、彼が注目したのは、汎神論的決定論ではなく、スピノザの神秘主義的部分であったようだ。スピノザは、決定論に立ちながら、魂の存在を(ほぼ)認めたのは前回『エチカ』で見た([cocolog:95101663](2024年10月))。

JRF2024/10/218300

……。

では、本文。

無限の神がすべての原因で、すべては神の「中」にある…という文脈で…。

>一、認識可能な物の数は有限である。

二、有限な知性は無限数のものを把握することが出来ない。

三、有限な知性は或る外部の原因に依って決定されるのでなくては自分自身で何物をも認識することが出来ない。

何故なら、有限な知性は一切を同時に認識する力がないと同様に又[外的原因なしには]例えばこれをあれより先に或[あるい]はあれをこれより先に認識しはじめる力を有しない。即ちその両者とも不可能なのだからそれは何ものをも認識することができないわけである。
<(p.59)

JRF2024/10/213101

ここで、3DCG で、物理現象のシミュレーションがとても難しいという話を思い出した。リアル世界ってどれだけポリゴン数やオブジェクト数があって、それが相互作用していて、それらをシミュレーションできるってどんなデカい GPU があるんだ…って冗談。

シミューレーション仮説またはシミュレーション・アーギュメントとかいう、このリアル世界はシミュレーションに過ぎないという科学哲学の議論…の付近で、こういうことが言われていた。

ちなみにシミュレーション・アーギュメントについては↓。同記事とほぼ同内容は『宗教学雑考集』にも所収。

JRF2024/10/210429

《シミュレーション・アーギュメントを論駁する - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/10/post.html

JRF2024/10/217309

……。

>二つの無限なものはあり得ずさうしたものはただ一つであること<(p.60)

奇数も偶数も無限個あり、それらは別のものだから、二つの無限なものはあり得る。…ということはスピノザがここでいう無限はそういう無限ではない。奇数には含まれてない数値があるという点で、有限だということだろうから、その「無限」はすべてを含むという意味での無限なのだろう。

ただ、すべてを含むというときに、カントールのパラドクスやラッセルのパラドクスなどに陥らないように制限する必要があり、その制限を実在性・実有に求めるということなのだろう。その実有の総称が神…といった感じか。スピノザの場合。

JRF2024/10/219354

……。

>何故なら無からは何ものもの生じ得ないからである。<(p.64)

いや、無があるからこそ生じるものはある。

この宇宙において、私がいる。または「あなた」がいる。ならば、無があったとしても同時に私(あなた)はある。それは厳密にいうと無ではない。ならば、そこに何かが生じても不思議ではないのだ。

JRF2024/10/215939

……。

>若干の人々は次のやうに論証しようとする。

もし神が一切を創造したとするなら神はそれ以上を創造することが出来ない。しかし神がそれ以上を創造することが出来ないというのは神の全能に矛盾する。故に[神は一切を創造したのではない]と。
<(p.67)

一方、スピノザは反駁する。

JRF2024/10/213713

>もし神がそれ以上は創造し得ぬだろうほどそれほど多くを創造し得ないとしたら神はその創造し得ることを決して創造し得ないことになる。しかし神がその創造し得ることを創造し得ないなどということはそれ自身に於[おい]て矛盾する。故に[神は一切を創造したのだ]と。<(p.69)

神学において神の全知全能性は公理であり、それを疑うことは本来許されない。しかし、有名な例だが、持ち上げられない岩を神は創造できるか…というとき、全能性には疑問が生じる。

「全知全能」については、さらに…、

JRF2024/10/211955

《神は至善か、暴君か - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html
>神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。

JRF2024/10/211206

(…)

前者の未来に対する全知性は、どれになるかはわからないが、無数の未来の可能性をすべて知っているという意味、または、未来の大まかな計画を知っているという意味での全知性であり、後者のは、未来はすでにただ一つに決まっており、それを知っているという意味での全知性である。

前者の救いに対する全能性は、現在でもすべての人々を救うことができるという意味であり、後者のは、創造の以前であれば救えた(または神の翻意でなす再創造による救いの可能性は神すら知らない)という意味である。

JRF2024/10/215843

また…、

《神の全知性 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_9.html
>全知性を強調して四次元上の全知性しか考えないことは、神が予測し得ない決定を行える者を神が「創造しえない」と考えていることを意味する。すなわち神の全能性に疑問を呈しているのである。もちろん、そのような創造をできるとした場合は、神の全知性は過去の事実と将来の可能性の認識や大まかな計画に限られることになる。

JRF2024/10/210023

全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。


このような全知全能性の問題に関し、私が近時たどりついたのが、次の見解である。

JRF2024/10/210533

『宗教学雑考集 第0.8版』《皇帝的神の全知全能性》
>神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。

…このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。

JRF2024/10/212322

皇帝は予想が違えても記録を書き換えることができ、それで人々を絶望に落とすことができた。もちろん、そんなことを何度も繰り返していれば、皇帝の権威は落ちていくのだが、そういうことができるということが人々を恐れさせた。


このような神は「あくどい」。だが、そこにも一面の真実の投影があるのではないかと私などは思う。皇帝にも名君がいるように、そのような神の中にも善良な神が成立しうる。

JRF2024/10/215670

皇帝的全知全能の神より力があれば、それはすべて全知全能性があるとできる。全知全能は矛盾を含みがちな概念だが、この意味の全知全能性であれば、矛盾を生じにくい。このような全知全能性のある神概念の中で、善性があるものの中に実在の神を示すものがあるのであろう。

また私は、神の善性については次のような考え方がある。

JRF2024/10/219208

『宗教学雑考集 第0.8版』《善》
>現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。

「神は善とされる」という部分には二重の意味がある。第一義的には神が足りない「善」でも恩寵[おんちょう]によって善と認めてくれるということだ。善であろうとした努力を認め、虚の世界でかもしれないが、報いてくれるのだろう。もちろん、報いがあるから善であるべきという話ではない。

JRF2024/10/211130

第二義としては、神が虚の世界を通してかもしれないが、偽善の足りないところを補って善となるようにしてくれるという意味も込めている。この場合は、現実においても我々の偽善的行為が神の助力によって結果的に善として結実していることがしばしばありうるとなる。「善は不可能」とまでは言えないということだ。


善は神が独り決めるから神は至善となる。人にとってそれが善と感じられるのは、バーチャルな世界(虚の世界・死後の世界)を通じて人が善いと思うことに報いてくれるからかもしれないし、偽善の足りないところを補って人の意志を尊重してくれるからかもしれない。

JRF2024/10/214861

上の《神の全知性》のところで「自由意志」に言及したが、スピノザは神がすべてを決定している物理現象だから、「自由意志」などというものはないとする。これは何を心配しているかというと次のような文脈がある。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html
>神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)

JRF2024/10/216114

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。

JRF2024/10/215230

自由意思を評価するものは、何らかの判断と行為の結果を、神の慈愛を証明するものと考える。もし、良い結果とならないならば、判断と行為が本当の良心から出たものではなかったからだと考える。そして、自由意思を認めなければ、人々は、神の行為を受動的に待つだけとなり、実務的な努力を怠るオソレがあると考える。また、「自分達が神の意に沿わないと考えている悪い結果を除去するだけで、良い結果が得られる」という革命的思考を危惧する。

JRF2024/10/215962

一方、自由意思を評価しないものは、人という存在がその努力によって何か絶対的に良いことができるというのは傲慢にすぎないと考える。もし、良い結果が得られないならば、それは、人が伺い知ることのできない神の深遠な意図によるものと考える。自由意思を認めることで、良心を勝手に解釈した者が、必ずしも神の意に沿わないことから利益を上げて、それを善行の現れだと慢心することを憂慮する。また、避けられない災害を特定の人の悪意に帰し、報復が報復を呼ぶ危険があると考える。

JRF2024/10/213665

この論争は、極端に単純化していえば、主観的「努力」と客観的「結果」のどちらを重視するかの論争であると言えよう。(「努力」を重視するのが「自由意思」支持派。)論争が解決しないことからもわかるように、両者はまったく違う概念のように見えて、その境界は曖昧である。

(…)


↑を書いてもうずいぶんたったが、私は自由意志の存在を信じて生きていればいいと思うようになった。

JRF2024/10/216155

自由意志がないという理論にも一理あるが、そう考えて「結果」にこだわって生きるには、人間の生ははかなく、酷[こく]なのだ。自分には自由意志があると信じて、罪を犯したことがあろうとも、たとえ結果が出なくても、今これからの意志で・行いで(よりよく)救われうると信じて生きるほうが、生きがいがあると思うようになった。それ以上の神の意志・恩寵は見えない…そこをきわめることは私を含む多くの人には必要とされていないと思うようになった。

JRF2024/10/216298

ただし、自由意志があっても、上で書いたように人間にできるのは偽善までだから、他の人の行いが良心に基づかないように見えたとしても、寛仁の心で接するべき…というのでバランスを取っているつもりである。

…まぁ、私に関しては、自分は地獄往きだと思っているからそれでよく、前回([cocolog:95101663](2024年10月))述べたような天国に行きたい人は、自由意志は本当はないと考えたほうがいいのかもしれないが…。

JRF2024/10/215223

……。

訳注で、スピノザの「内在的原因」「超越的原因」「自由原因」などが、17世紀のスコラ哲学者ブルヘルスダイクやヘーレボールドによる「起成原因」の八分類を受けた概念であることが語られる。訳注ではその八分類すべて載っている(と思う)が、そのうち「内在的原因」「超越的原因」について、前回『エチカ』でも説明がなかったところなので、載せておく。

>内在的原因とは自己の内に結果を生ずる原因であり、超越的原因とは自己の外に結果を生ずる原因である。例えば知性は諸概念の内在的原因であり、建築家は家の超越的原因である。<(p.233, 訳注)

JRF2024/10/212465

超越的方向はメタな方向である。「メタ概念」を示すのに、私は日本語で英語の説明をするときその日本語がメタ言語である…という例を出すことが多いが、建築家という例のほうがわかりやすいメタ方向だろう。

JRF2024/10/219042

……。

>自然の中に存在するすべてのものは事物か作用である。

善及び悪は事物でも作用でもない。

故に善及び悪は自然の中に存しない。
<(p.108)

評価もまた脳の中の物理現象に過ぎない。…と。奇妙な唯物論である。この部分はスピノザ以外のものが書いたとされる…と訳注にはあった。

JRF2024/10/210333

……。

>現実に存在するありとあらゆる個物は運動と静止とに依ってさうしたものになる。<(p.110, 注)

原子や素粒子といった基本単位は存在せず、(原子や素粒子さえ)どこまでも運動と停止の「流れ」に還元できる…ということだろう。そういう物理観。(Gemini さんによると「場」的な物理観。)

スピノザによれば、神の属性は基本的には二つだけ存在し、それは思惟と延長で、「延長」とは運動と停止のことに他ならない…とのこと。「思惟」は前回「無限論理延長」と語ったようなことで、神秘主義的にある種のイデア界・魂の世界をもスピノザは認めることになる。

JRF2024/10/213153

>精神は思惟的実体に於ける様態であるから、精神は又この実体並びに延長的実体をも識り且[か]つ愛することが出来る。そしてこれらの実体(それは常に同一で変わらない)(…つまりスピノザにとっては唯一の実体である神のこと…)と合一することに依って精神は自分自身を永遠ならしめることが出来きる。<(p.111, 注)

魂の不滅は、神との合一によりなるとスピノザは書き、それは精神が直観知によって真理を知ることで、私の言葉でいえば「無限論理延長」に精神が引き寄せられることによって成る。…ということのようだ。

JRF2024/10/211803

……。

>驚異は真の推理をなす人には決して生じ得ないのである。<(p.119)

>驚異は、無知からか或[あるい]は偏見から生ずるのだから、それはこの感情に捉[とら]われる人間に於ける一つの不完全性を示すものである。私は不完全性と言う。蓋[けだ]し驚異はそれ自身だけでは我々を如何[いか]なる悪へも導かないのであるから。<(p.127)

JRF2024/10/216003

デカルトは驚異を感情に含めるが、スピノザは感情に含めない。…と前回にもあったが、しかし、一切智者であっても、個々の状況は、シミュレートして確率的に知りうるだけで、それが極端な値として実現すれば、それはそれで驚くのではないか。前回私が「ブッダ自身の消滅」など語ったところと関連する考え方である。

JRF2024/10/215037

……。

>更に又我々は、理性に依って、如何なる人に対しても決して憎[にくし]みを抱き得ないといふことをも知る。何故といふに、自然の中に存する一切は、我々がそれについて何かを望むならば、それを常に我々のために、或は物自身のために、より善きものに変えねばならぬからである。<(p.135)

前回、「無恥」に関する議論で、敵が現れるのも神の必然であり、それに理性的に対応しようとする「警戒」は「勇気」に似た「妥当な認識」つまり神から理性的に来る「感情」であろうことを述べた。

敵対して、そこにあるのは「憎しみ」ではない…というのがスピノザの解釈なのか…。

JRF2024/10/214013

……。

>「短論文」に於てはデカルトの説に従って喜びと悲しみと欲望は上記の驚異、愛、憎みと共に根本的六感情とされているが「エチカ」では前三者(喜び、悲しみ、欲望)のみが根本感情とされ、「エチカ」に於ける感情論の機構は「短論文」のそれと全く異なるに至った。<(p.245, 訳注)

JRF2024/10/217530

……。

>執着(Jalousie)は既に手に入れてゐる或るものを自分ひとりで享受し保持し得るために抱く心配である。<(p.144)

「執着」は仏教では大切か概念だが前回『エチカ』には出て来なかった。なお、この「執着」の語には訳注がある。

JRF2024/10/217468

>これはデカルトが「感情論」167-169 で Jalousie (= zelotypia) として挙げたものと同一の感情であり「執着」の語があてはまるであらう。しかし「エチカ」ではこの zelotypia なる語はもっと強い特殊な感情に -- 悋気[りんき]とか怨慕[えんぼ]とかの語が当てはまるやうな感情に用ひられてゐる。「エチカ」三部定理35備考、五部定理20参照。<(p.247, 訳注)

『エチカ』三部定理35・五部定理20 は「嫉妬」に関する部分。

JRF2024/10/219676

……。

>無恥(Onbeschaamtheid)は、恥辱の欠乏又は廃棄にほかならない。しかもそれは理性に依ってさうなのではなく、小児や野蛮人などの場合のやうに恥辱に関する無知に依るか、それとも多くの軽蔑を受けたあげくもはや何者をも気にかけず一切を無視するやうになっったことに依るのである。

(…)

無恥はその定義だけでその醜さがわかるやうな性質のものである。
<(p.150-151)

JRF2024/10/218823

前回問題となった「無恥」。スピノザの思想では、個々の障害者も神から見れば完全な存在であって、障害は逆にある種の能力を示すことが予定される。しかし、そんな中で、無恥というのは、障害が知られるごとに感知されるプラスの能力ではなくマイナスの能力だとなる。本来知られるほうが周囲にとってより完全になるというのがスピノザの主張なのだけど、無恥はそうではないため、スピノザは説明に窮しているのかもしれない。…と考えたのだった。

Gemini さんに聞くと、この「無恥」とニーチェの「超人」とが対比できる…とのことだった。

JRF2024/10/215890

……。

>真理は同時にそれ自身と虚偽とを顕示するということになる。<(p.156)

前回『エチカ』の該当部分は↓である。

>実に光が光自身と闇とを顕[あら]わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。<(『エチカ』上巻 p.175, 第二部)

美しい言葉・信念だと思う。思い当たる経験は私にもある。完全な同意はできないが…。

JRF2024/10/213507

……。

>我々が当然臆見を罪と解し、真の信念を罪を知らせる律法と解し、真の認識をば我々を罪から解放する恩寵と解し得ることは誰が認めないであらう。<(p.173, 注)

「臆見」とは、意見や表象(想像や実際に見たもの)による感情が第一種の認識で、それが「罪」。

第二種の認識は理性で、それが「律法」。

第三種の認識は(神による真理の)直観知で、それが「恩寵」。

…ということのようだ。キリスト者・キリスト教を学んだことがある者にはわかりやすい言い換えだろう。

JRF2024/10/214021

……。

スピノザは思惟と延長を鋭く分け、精神と肉体も分けて考え、思惟が延長を、精神が肉体を動かすことはない…とする。そこには、おそらく超能力のテレキネシス(念動力)みたいなものがない…ということを言いたいのであろうが、しかし、その相互作用が何によるのかまでは、それほど明らかにしない…というよりは混乱がある。デカルトは動物精気という考えを、その相互作用の媒介にしたのであるが…。

第19章と第20章はその混乱が見られる章で、とても理解しにくかった。それは訳注で補われている。

JRF2024/10/216913

>本書に於てスピノザが心身の相互関係をどう見てゐたかは簡単には把握し難い問題の一つである。何故なら心身の関係が主として取り扱はれてゐるこの19章及び20章には、フロイデンタールやウォルフが既に指摘してゐる如[ごと]く、それについて大体三通りの見解が雑然と入り交ってゐるからである。即ち(一)、心身は或る程度の相互作用を為[な]し、これは動物精気の媒介に依って起るとする見解(…)。(二)、この相互作用は心身が同一物の両面にすぎないものである故に行はれるとする見解(…)。(三)、心身は絶対に相互作用せず一見作用するかに見えるのは心身に於ける平行現象にほかならぬとする見解(…)。

JRF2024/10/211673

このうち(一)はデカルト説の踏襲であり(三)は「エチカ」に見られるスピノザの最後的見解であり(二)はその中間をゆくものである。
<(p.255-256, 訳注)

なお、Gemini さんによると、(三)の心身平行説と現代物理学の「量子もつれ」の関連が指摘された。

JRF2024/10/214308

……。

最後に、「悪魔の章」について。

>このやうに我々が、若干の人々と共に、悪魔を、全く何らの善をも欲せず又なさず従って全然神に反抗する或る思惟するものであると仮定すれば、悪魔は確かに極めて惨[みじ]めなものであり、もし祈りが役立つものなら、彼のため改宗を祈ってやらねばなるまい。

JRF2024/10/210126

しかし又我々は、さうした惨めな物が一瞬間たりとも存在し得るかどうかを一応考察して見よう。さうすれば我々は、直[ただ]ちにその不可能なことを見出すであろう。何故なら、凡[およ]そ物の持続はその物の完全性から発生する。そして物がより多くの本質性と神性を自らの中に有するに従ってそれは一層多く恒常的になる。ところで悪魔は、些少[さしょう]の完全性すら自らの中に有しないのに、どうして存在し得ると考へられ得よう。

JRF2024/10/217783

これに加ふるに、思惟するものの各様態の恒常性ないし持続性は、その様態が愛に依って神と合一するその合一のみから発生するのであるが、この合一の正反対が悪魔の場合仮定されてゐるのであるのだから、悪魔は存在し得ることが不可能である。
<(p.202-203)

この引用から特に言うことはなく割愛しようかと思ったが、関心がある者もいるだろうから、一部、ここに載せておいた。

JRF2024/10/217577

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