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cocolog:95101663

スピノザ『エチカ』を読んだ。唯一神の汎神論で決定論に立つスピノザに対し、私は、自由意志論または仏教的思想により、反駁のようなことを試みた。 (JRF 7380)

JRF 2024年10月18日 (金)

『エチカ - 倫理学 全2巻』(スピノザ 著, 畠中 尚志 訳, 岩波文庫 青 615-4・5, 1951年9月・10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003361547 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/5110158718 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003361555 (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/5110158719 (下巻)

JRF2024/10/189306

『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/10/188967

『宗教学雑考集』、まずはアーリーアクセス版である第0.8版を2024年1月に出したのだが、そのとき、読むべきと買って積んでおいた本がいくつかあって、それをこれまでゆっくり崩してきた。その積んでいた本もあらかた崩してきた中で最後に残ったのがスピノザ『エチカ』関連の本だった。スピノザ『エチカ』とこの 100分 de 名著、そして、スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』である。

それを 100分 de 名著、エチカ、短論文の順で読んでいく予定である。前回は 100分 de 名著を読んだ([cocolog:95075023](2024年10月))。今回は本丸の『エチカ』そのものに当たる。

JRF2024/10/182286

前回知ったのだが、どうもスピノザは唯一神による汎神論を説き、ラプラスの魔の存在を認めるかのような決定論者のようだが、私は自由意志の存在を肯定するのに傾き、イデア界も割と肯定する有神論者でしかし東洋思想を基盤に持つシンクレティストである。

その点、前回、突っこんだ議論をしたが、今回、繰り返しを厭わず、反論していこうと思う。

JRF2024/10/182882

……。

それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。なお、今回「引用」部分がとても多くなった。「引用」でかなりの分量があるが、もちろん抜けてる部分のほうが多い。この「ひとこと」を全部読み切るような奇特な方は、元の本を買ったほうが、理解が早いだろうし、便利だろうと思われる。岩波文庫『エチカ』は高い本でもないので、ぜひ買っていただきたい。よろしくお願いします。

JRF2024/10/188381

……。

前回に、読むのは第四部の序言から入るのがいいと読んだ。そこで、上巻最初にある訳者解説をまず読み、次に各部の序言を先に読んでいくという形を取った。

まず訳者解説から。

JRF2024/10/184485

……。

スピノザの生前『エチカ』は出版できなかった。

>しかしその原稿は他の諸原稿とともに死の直前宿主に預けられてあったので、死後ただちに『エチカ』を含む遺稿集は彼の友人にして出版者たるヤン・リューウェルツに渡され、スピノザの死んだ年すなわち1677年の12月に世の光を見ることができた。この遺稿集には彼のかねての遺志に従って彼の名前が明示されなかった。真理は万人の所有であって個人の名前によって呼ばれる必要がないという彼の持説に基づいたものである。<(上巻 p.11, 訳者解説)

JRF2024/10/182242

「真理は万人の所有であって個人の名前によって呼ばれる必要がない」…。スピノザの名前が付されなかったのはスピノザが望んだものであったのか…。

CC (Creative Commons) は 著作者名が強制されており、それは日本法の著作権では氏名なしが許されるのと比べて、民族主義的主張がすでに入っている…といった批判を私はどこかでしていた気がする。[cocolog:92385476](2020年11月)にそれっぽいのがあるかな?

JRF2024/10/181762

氏名を付さないというのは、スピノザも遺志で示していたんだね。もちろん、CC BY が必須だというのは、それがないと他者に法的保護すらないなど、善意でそれを強制しているんだろうけど、私はやはり問題があると思う。

JRF2024/10/183489

……。

スピノザ…

>この孤高の哲人も若き日には世俗的幸福 -- 富・名誉・快楽に無関心ではなかった。しかし幾度か幻滅の悲哀を感じ、そのむなしく儚[はかな]いことを知ったのち、人間の関与しうる永遠・恒久の善が存在しないかどうかを探究しようと決心し、倦[う]まざる思索の結果それが結局神への認識と愛にあることを確信するに至った。この神への認識と愛が同時に『エチカ』の究極目的でもある。<(上巻 p.12, 訳者解説)

ユダヤ教から「破門」されても、彼なりの神への愛を追及していたんだね。

JRF2024/10/182882

……。

>彼の真理探究の方法がいかに数学的確実性と明証性とを尊重したか、またいかに演繹[えんえき]的・幾何学的刻印を帯びているかは『知性改善論』の読者なら誰でも気づいているであろう。だから彼がその哲学思想を叙述するにあたって数学的・幾何学的形式によったのも、ぬきさしならぬ内的必然性によるものであって、いわば彼の体系の成否を賭けての真剣な試みであった。すべての結果の、またすべての原因の究極の原因たる神の概念から、一切のことを、定義・公理・要請の援用によって、厳密な演繹において導き出すことができたとしたら、その得られた結論については何の疑いも残る余地がないと彼は考えたのであった。

JRF2024/10/183684

もっとも彼は真理の自明性を力説し、真理はそれ自らを照らし出す光であるとしたたてまえから、真理はかかる特殊形式によって叙述せずにただそのまま伝えても人々を承服させることができるということは一応これを認めざるをえなかった。

しかし彼の思想の中には一般の哲学的見解と異なった一見容認しがたい逆説的なものを多く含んでいると彼は信じた。かかる逆説的所説といえども、定理と系の系列の中の必然的一環として取り入れられる時、何びともこれに同意を拒むことはできないと彼は確信したのである。
<(上巻 p.15, 訳者解説)

JRF2024/10/181929

私は『「シミュレーション仏教」の試み』において、Python で実際に社会のシミュレーションを書くことにこだわった。スピノザも今を生きていれば、数学的形式よりもプログラムによる形式を模索したかもしれない。

JRF2024/10/189524

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2024/10/188966

>仏教とは、本目的三条件「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」を命令的前提として行う社会に対する最適化プログラムなのではないか。ある日、天啓を得たかのように、この電子本の著者である私はそう考えました。

JRF2024/10/180483

しかし、「最適化プログラム」だとすると、社会シミュレーションのコンピュータプログラムを作れば、その上でも最適化プログラムとして動くはずです。本当に自分の考え方が正しいか、まずは、コンピュータ上で示してみればいいのではないか。そうすれば、本目的三条件で十分なのかどうかもある程度示せるようになるだろう。…ならば具体的にやってみるべきだとしてはじめたのが、本プロジェクトになります。

JRF2024/10/189890

ただ、スピノザと違い、私は「多目的最適化」を選んだこともあってか、その後、矛盾…目的の並立を許容するようになった。…ということだと思う。『宗教学雑考集』では、矛盾ととられることを書いても平気になった。自分の中では、それらは調停できる最適化のように感じているからだ。私の中では整合性がある。

JRF2024/10/183968

……。

>自然の中における一切の物は神あるいは属性の変状[アフェクティオ]もしくは様態[モードス]であり、これは個物[レス・シングラリス]という名でも呼ばれる。すべての個物は神の中に在り、神なしには何ものも在ることも考えられることもできない。神は万物の内在的原因である。しかも神はこれら万物をいわゆる自由意志によって生ぜしめるのではなく、自己の本性の法則に従って必然的に生ぜしめるのである。<(上巻 p.18, 訳者解説)

汎神論かつ決定論。自由意志を認める私とは決定的に異なるところだ。

JRF2024/10/182807

……。

>自然の中には単に原因[カウサ]のみがあって目的[フィニス]というものが存せず、万物の生起については「何ゆえ」ということのみが問題となりえて「何のために」ということは問題になりえないのである。しかし目的論的世界観は人々の心に深く根ざしていて容易に抜きがたい類のものであるから、スピノザはこれをこの部(…第一部…)の最後の付録の中でさらに痛撃し、強く人間の自由を否定している。そして人間が自分を自由だと思うのは、人間が自己の意志や衝動は意識しているが人間をそれへ駆る原因にはまったく無知なためだとしている(決定論)。<(上巻 p.18-19, 訳者解説)

JRF2024/10/180122

私は「イメージによる進化」を唱える。特定のイメージを目的として生物は進化するとする。どうやってそのイメージが成立したかは問わない。もしかするとそれは神から来ているかもしれない。それを排除しない。

もちろん、法則的なものより自由意志が尊重され奇跡が起こる…ようなことはほとんどないことは私も認める。しかし、奇跡がかつて起きていたことを私は排除しない。

JRF2024/10/188306

『宗教学雑考集 第0.8版』《イメージによる進化》
>ニワトリが先か卵が先か、という議論がある。私の解答は「ニワトリの概念[イメージ]が先だ」というものである。

もちろん、人間がニワトリという種を認識していなければ問いそのものが生まれないが、そういうことを述べたいのではない。

「卵が先」と考える場合、ニワトリの親はたがいの姿などから次に生まれるものがニワトリのような姿になることをイメージに持ってつがっただろうということである。

JRF2024/10/182515

「ニワトリが先」と考える場合、夫婦は同じニワトリだという認識のもとつがったのであるから、その卵がどういうものであれニワトリの卵であろう。

おそらく、そもそも「ニワトリモドキの種」という系があり、その中で親も卵もニワトリだという認識のもと「ニワトリの種」というものが除々に確立していくのではないだろうか。

そこで大きな働きをするのは性選択(性淘汰)の仕組みであろう。

JRF2024/10/183130

そのような目的は「目的原因」(がどこかにある)という原因でしかないというのがスピノザの主張のようだが、原因というにはあまりにも根拠のないものも目的たりうるから、私はそれは区別すべきだと考える。

JRF2024/10/184142

……。

>スピノザによれば人間の根本的感情は三通りしかない。欲望、喜び、悲しみがそれである。欲望とは自己保存の衝動の意識、言いかえれば自己の維持に有益なものを求めようとする努力である。この限りにおいて欲望は人間の本質でありまた人間をもろもろの行動へ駆る動因である。したがって我々はあるものを善としてそれを欲求するのでなく、反対に我々の欲求するもの、すなわち我々の維持に有益なものがとりもなおさず善であることになる。次に喜びと悲しみについて言えば、喜びとは人間がより大なる完全性へ移行することの意識(観念)であり、悲しみとは人間がより小なる完全性へ移行することの意識(観念)である。

JRF2024/10/186101

他の諸感情はこの三者 -- 欲望、喜び、悲しみ -- の変形または種類であり、結局この三者のいずれかに還元される。例えば愛は外部または内部の原因の観念を伴った喜びであり、憎しみは外部または内部の原因の原因の観念を伴った悲しみであるといったふうに。このようにして彼は人間に通常見られる数十の感情を定理と系と備考とを駆使して明快に説明し、見事な感情の幾何学を展開している。
<(上巻 p.26-27, 訳者解説)

JRF2024/10/187909

易における吉凶悔吝または利貞による説明を思い出す。そして、悔いと吝[うら]みはとても説明しにくかったことも思い出す。

例えば…

[cocolog:92288127](2020年10月)
>天意に吉[かな]う・天意に凶[もと]る。人心に悔[くい]あり・人心に吝[うらみ]あり。と私は訓じる。

悔吝の説明が難しい。

JRF2024/10/183196

A からみて、A に対する B の位置がおかしい…とき、A は B に対する吝があるという。A からみて、B に対する A の位置がおかしい…とき、A は悔ありという。悔ありの場合は、相対的な B がいなくても絶対的に成立するが、吝ありの場合は、相対的にしか成立しないと言っていい。

ただし、吝があるからといって、A が B を恨んでいるかというとそうではない。A の周りの人物がストレスをためているということである。悔ありだからといって、A が心情的に悔いているとは限らず、A の(立場の)周りに人間にストレスがあるということである。

JRF2024/10/186632

吝・悔の解消は、位置が変わるだけでなく、第三者(C)の影響で解消されることもありうる。すなわち、C に B や A が応じるとき、その位置に必要性が出てきて、吝・悔が解消へと向かうこともあるのである。

うらみがあれば悔いるべきか? うらみが「恨み」であれば、高い地位の人間が下の人間を恨むようなことはないなどと言え、「恨み」がない替わりに「悔いるべし」となるかもしれないが、「吝」であれば、単にそういう状態であって、高い地位の人間の周りにストレスがあるというだけなので、悔いるべしとは必ずしも言えないと思う。

JRF2024/10/189973

ここ以外にも他の人の本を読んで、参考にしてたりする。

それがスピノザには説明できるのだろうか? 相互作用を無視して、原因からの帰結と考えるだけだからそのような説明ができるのではないか?

なお、Gemini さんにこの部分をぶつけて聞いたところ…。

JRF2024/10/186065

Gemini:>
欲望と悔: 悔は、ある状態からより良い状態へ移行したいという欲望が満たされないことから生じる悲しみの一種と捉えることができます。

喜びと吝: 吝は、ある状態に固執し、変化を恐れることから生じる喜びの喪失と捉えることができます。


…との例示を得た。すごい。

JRF2024/10/189770

……。

第五部ではスピノザ流の悟りの境地ともいうべきものが説かれるようだ。

>人間の自由は第一部において否定されたが第四部においてそれは新しい意味で復活し、さらに第五部において人間自由の境地が本格的に展開されようとする。人間が自由であるためには何よりも受動感情から脱して理性ないし知性の支配を確立しなければならぬ。その方法の最も原則的なものは認識による受動感情の克服である。

JRF2024/10/185711

受動感情は要するに外部の物体からの刺激によって生ずる身体の変状の観念(意識)であるが、スピノザによれば我々はいかなる身体の変状についてもある明瞭判然たる概念を形成しうるから、我々はいかなる受動感情においてもある明瞭判然たる概念を形成しうることになる。そして受動感情は明瞭判然と認識されるとその受動たることをやめるのである。
<(上巻 p.23, 訳者解説)

止観とかサティとかを思い出す。

上につづいて…

JRF2024/10/186732

>だから人間は感情を明瞭に認識しうる度合いに従って感情から支配されることがしだいに少なくなる。また人間はひとり自己および自己の感情を明瞭に認識することによってばかりでなく、およそあらゆる個物を認識することによって神を認識する。なぜならすべての個物は神の様態あるいは変状にほかならぬから、その正しい認識は必然的に神の認識を伴うからである。

JRF2024/10/188504

このあとでスピノザは改めて第三種の認識(…本質を具体的に把握してこれを神への直接依存の中に見るもの…)の効用に触れる。この認識は万物の本質を神の永遠なる本性の中に推論的にでなく直観的に把握するものであり、そしてこの認識様式から人間精神の味わいうる最高の喜びが生ずるのである。しかもそれは精神自身の働きによって得られた喜びであり、ひいては神そのもの(精神がその中にあるところの)の働きによって得られた喜びである。

JRF2024/10/188129

ところで喜びがその原因の観念と結びついたものがすなわち神に対する知的愛である。この愛はいかなるものによっても滅ぼされない永続的な愛である。しかも人間精神が神の無限なる知性の一部である限り、この愛は神が無限なる知的愛をもって自らを愛するその愛の一部である。この結果、神は自らを愛する限りにおいて人間を愛し、したがって人間に対する神の愛と神に対する人間の愛とは同一である。

ここに神人一体の境地があり、人間精神は身体の死とともに滅びざる永遠の生命に参与する。

JRF2024/10/188298

かくしてスピノザの倫理学は一種の神秘説に突入する。しかしかかる神秘説を離れても、単に理性主義のみをもってしても、彼の倫理説は成立しうることを彼は特に注意する。

最後に彼は神に対する愛において人間の徳と幸福が完全に一致することを指摘し、これこそ真の智者の姿であるとなし、ここに至る道はきわめて険[けわ]しいものであるけれどもなお十分到達しうるものであるとして我々を励まし、「すべて高貴なるものは稀であると同時に困難である」という結語をもってこの部を、したがってまた『エチカ』全体を終えている。
<(上巻 p.23-25, 訳者解説)

JRF2024/10/185674

長く引用してしまった。神学ましてスピノザの学に触れようとすら思わない仏教者なども知っておくべきところのように思ったから。

なお、Gemini さんによると仏教との共通点は次のようになる。

JRF2024/10/184351

Gemini:>
受動感情からの解放: スピノザは、受動感情から解放され、理性的な認識によって神と一体化する境地を説いています。これは、仏教の悟りが、煩悩から解放され、涅槃の境地に達することを目指す点と似ています。

認識の転換: スピノザは、第三種の認識によって、万物の本質を直観的に把握できると言います。これは、仏教における「見性」の概念に通じます。

神との一体化: スピノザは、神と人間の一体化を説きます。これは、仏教における「法身」や「宇宙意識」といった概念と類似しています。

JRF2024/10/180895

……。

スピノザは序文を付すのがクセのようなところがあるらしい。『エチカ』も第三部以降には序言があるし、第二部もそれらしきものがある。にもかかわらず、である。第一部、そして『エチカ』そのものに序文がない。それはおかしい。なぜか? その理由はスピノザによっても遺稿集の編者によっても説明はない。

JRF2024/10/180701

>しかし実質的に『エチカ』への序文となるべきものが存している。『知性改善論』がこれである。もし『エチカ』に序文が付せられたとしたら、何よりもまず『エチカ』が神の認識と愛を究極目標とする倫理的・宗教的性格のものであることが注意されたであろう。次になぜ『エチカ』が幾何学的な叙述形式を選んだかが説明されたであろう。ところがこのの二者は、前述のように、『知性改善論』の中にその説明もしくは解答を見いだすのである。

JRF2024/10/186889

さらに『エチカ』を繙[ひもと]いて人々の最も困惑する点、すなわち自己原因ないし神の定義がなんのことわりもなしに冒頭に置かれてあることについても『改善論』の中にその答えが発見されるであろう。

JRF2024/10/180489

スピノザの固い信念によれば、我々には生得的に真の観念が与えられており、この観念は真理の規範をそれ自身のうちに含んでいるのであって、もしその真なることを証明しなければならぬとすれば、さらにその証明の真なることを証明しなければならず、かくて無限に進み、我々は何の真理も得ることができない、むしろ我々は認識のためにはこの与えられた真の観念から出発しなければならぬ、こうした真の観念の最高のものに神の観念がある。

JRF2024/10/180736

神すなわち自己原因は、その定義(スピノザはしばしば定義と真の観念を等置する)が与えられた以上、その存在に対する疑いは起こるべきでない。こうした理想を彼は『改善論』の中で相当詳しく基礎づけている。
<(上巻 p.26, 訳者解説)

『知性改善論』も読まないとダメなのか…。→ Amazon で新訳を注文した。

JRF2024/10/186491

……。

訳者解説はここまで、次は各部序言。

JRF2024/10/185545

……。

建物について完成物・未完成物があり、それが完全・不完全という概念の最初の意味であったあろうとスピノザはいう。

JRF2024/10/185999

>もろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。

JRF2024/10/181672

このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗しあるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。
<(下巻 p.8-9, 第四部序言)

障害があってもそれはそれで完全な存在である。…というのは一つの見識ではあるとは思う。

JRF2024/10/186527

型はイデアのことなのであろう。Gemini さんはスピノザはイデア説を否定していたらしきことを言っていたが、ここらあたりのことだろう。でも、神の中にもイデアがないかはスピノザはそこまで言ったかどうか…。

私の「イメージによる進化」説はイデア説とはまた違うが、スピノザよりはイデア説に近いか。

JRF2024/10/188660

……。

>我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こうして自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも多くの有性あるいは実在性を有することを認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰する限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶのである。

JRF2024/10/182362

これを不完全と呼ぶのは、それらの物は我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したとかいうためではない。なぜなら、物の本性には、その起成原因の本性の必然性から生ずる以外のいかなるものも属さないし、また起成原因の本性の必然性から生ずるものはすべて必然的に生ずるからである。
<(下巻 p.10-11, 第四部序言)

JRF2024/10/188048

100分 de 名著を読んだ([cocolog:95075023](2024年10月))ときには、自らに与えられた必然性を発揮するようになるのがより自由になることで、そこからより自由なことがより完全になることか…と思っていたが、ここを読むとどうもそうではないらしい。完全・不完全は、あくまでもある人の中の認識の問題という立場のようだ。

つまり、ある人にとって、ある物の「真」性がわかる、その自由の方向が(実現されていることが)わかっている…というのがその物の完全性ということのように私は解釈した。不完全というのは、なぜそうなのかがよくわかっていないというだけ…と。

JRF2024/10/185022

例えば、ある障害者が「こんなこともできる」というのを知るようになったとき、その障害者は完全性に近づき、知った者には真理を知った喜びがあるものなのだ。…と私は解釈した。

ちなみに…「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:32)

JRF2024/10/188262

……。

デカルトは魂または精神が、脳の松果腺を通じて身体を操作するとする。そして、松果腺の訓練によって精神も強められるとの見解にあるとスピノザは解釈しているように私は読んだ。それに対し、スピノザは、>身体の力は決して精神の力によって決定されえないのである<(下巻 p.122)として、肉体と精神は別の強さを持つとする。健全な精神は健全な肉体に宿る…のかもしれないが、そこでいう精神はそもそも肉体的な精神であって、本来の本性とはまた別だということかもしれない。

その論証の途中の部分で次の部分が少し私は引っかかった。

JRF2024/10/180261

>例えばある人が遠方の対象を見ようとする意志を持つなら、この意志は瞳孔の拡大をひき起こすであろう。しかし単に瞳孔を拡大しようと思う場合、その意志を持っても瞳孔は拡大しないであろう。なぜなら自然は、瞳孔の拡大ないし縮小をきたすように精気を視神経へ推進せしめる役目をなす腺運動を、瞳孔を拡大ないし縮小しようとする意志とは連結しないで、遠くのあるいは近くの対象を見ようとする意志にのみ連結したからである。<(下巻 p.119, 第五部序言)

この点、要訓練薬効の話を私は思い出す。瞳孔もコントロールできる行者はいるのではないだろうか。そう考えて、この後に『エチカ』の続く部分がちょっと意味不明になった。

JRF2024/10/188277

『宗教学雑考集 第0.8版』《要訓練薬効》
>「要訓練薬効」というものはありうる。

JRF2024/10/180842

昔は日本にもいたのだが、インドのヨガの達人の中には、胃にあるものを出したりひっこめたりできるような人々がいる。普通人も唾液は意識的にもコントロールができる。口中の唾液の多寡で胃での溶けやすさが変わる薬があれば、少なくともそれに関して薬効を意識でコントロールできるという話になる。さらに達人ともなれば、それ以外の分泌液等をコントロールして、普通の人より多くの種類の薬のコントロールができる…そういうふうにいくつか薬を用意する…ようなことは可能。そこまでは言えるはずだ。《nc:A薬B薬》を患者が意識的に切り換えるようなものはここでは除いて考えよう。

JRF2024/10/189717

このあたり、唾液でコントロールできるものとはすなわち「食べ物」なわけで、中華の医食同源的な話の域を出ていないかもしれないが、一方、内分泌液のコントロールまでいくと、インドの苦行にもつながる話なのかもしれない。ロシアの怪僧ラスプーチンの胃が無酸で青酸カリが効かなかったという逸話は、ここの視点に立つと、ラスプーチンが生きていた当時も、内分泌液のコントロールが問題になっていたことを実は意味しているのではないか。

JRF2024/10/186785

一方、脳が治療に専念できるのは一箇所がせいぜいではないかという疑いも私にはある。歯の治療の際、一つの歯が終ったあと、急に他の歯が痛み出すといったことは他の方にもあるのではないか。

脳を経たフィードバックにより体を治すのは実は難しいことで、死にかかるような大ケガの場合、脳に頼らないといけないという状態にするのはとてもマズいというのもあると思う。意志に頼れない副交感神経が優位なときにも治療効果がないといけない。自分で治療する…自分の意識的作用によって治療するよりは、「医者」など場合によっては複数同時に外部から診る者を通して治せるようなあり方のほうが身体にとってはいいのかもしれない。

JRF2024/10/189803

それにもかかわらず、ある意味、身体部位の部分意識みたいなのを顕在化…いわゆる「憑依」…して、そこの要求を脳が受けとるようにした場合、本来先に意識化すべきところに十分な注意がいかなかったり、要求が多くなり過ぎて脳がうまく処理できず、結果的に身体の治癒が遅れたり、身体を守るための注意力がなくなったりするようなことはないのだろうか? それは統合失調症的症状に似ているかもしれない。

JRF2024/10/188666

近代から現代にかけて、要訓練薬効を追おうとした西洋医学医師が、こういった「意識化のワナ」にはまって、統合失調症的症状の患者をかかえるようになったようなことがあり、このあたりの追及がタブーになってる面がある…というのは妄想が過ぎるだろうか?

ただ、未来においては、意志のない状態でコンピュータにサポートしてもらうことで訓練の成果が出せるようなこともありうる。要訓練薬効が意義あるものとして注目されることもあるのかもしれない。

JRF2024/10/188832

……。

各部序言についてはここまで。この先は上巻に戻り、本文を読んでいく。

JRF2024/10/185382

……。

……。

第一部 神について。

>定義1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。<(上巻 p.41, 第一部)

「自己」への言及を含む定義は、定義として正しいのか? 「我思うゆえに我あり」もそうだが、自己は、その文自身への言及になることもあり、無矛盾といえるかわからず単純には well defined といかない。それはそれとして…。

「その本質が存在を含むもの」というのは解釈が難しいが、神以外の者は「存在」は本質としてはみなさないということかと思う。

JRF2024/10/184263

「その本性が存在するとしか考えられないもの」について。ある本性があるというのは、集合に属している、または型付けされているということで、その本性が存在するというのは、型や集合の典型が実在する…ということがいいたいのだろうか。でも、ここの「自己原因」とは唯一神への言及だからそういうことではあるまい。逆にいうと典型というのは、本来は実在せず、概念上のもので、それが実在するとすればそれはイデア界でしかない…といいたいのかもしれない。

そして、汎神論のスピノザにとって、イデア界は神の脳のうちにしかないのだろう。イデア界がこの汎神論的世界と重ならないためには。

JRF2024/10/188572

ただ、現実のところ、確率的実体などにおいてもっとも典型的なものは実在している。そこから構築できる世界観もあるのだろう。スピノザはそこを目指さないというだけで。

なお、Gemini さんに聞いたところ、スピノザはイデア界のような、現実に超越した理想的な世界が存在するという考え方は否定していたとのこと。精神は物質的基盤を持つと考え、ある種の唯物論であったそうだ。

JRF2024/10/189460

……。

>定義2 (…)物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。<(上巻 p.41, 第一部)

物理学という思想は物体に限定されていると言える。物体において間違いが発見されたら、物理学は改善されざるを得ない。それを勘定に入れないというのは、思想はそれ自身において永遠的で、間違いがあって修正された思想は別の思想とでも考えるということだろう。

JRF2024/10/181581

……。

>定義3〜5<(上巻 p.41-42, 第一部)

定義3〜5には、それぞれ実体・属性・様態の定義があるが、特に実体は私の言葉遣いとはだいぶ異なるのかな…と思う。

JRF2024/10/188669

……。

>定義6 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。<(上巻 p.42, 第一部)

イデアは否定を含みうるとすれば、矛盾がまぎれこむだろう。カントールのパラドクスとかラッセルのパラドクスとかを思い出す。イデアでない実有ならば、そのようなことは起きない…ということだろうか。だから、神にイデア界のような矛盾を含むものをまかせない…神は実有上でしかないということをスピノザは導くのだろうか。

JRF2024/10/189561

……。

>定義8 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。<(上巻 p.42, 第一部)

これも Consistency が問題になりそうな定義だ。定義自身に矛盾を含みそう。

「スピノザという人物には、永遠性がある」と言える。この場合、スピノザの思想に永遠性があるとだいたい言っているのであるが。しかし、それはスピノザの存在=実在よりは、その思想=属性を問題にしていると言える。属性の永遠性だから存在そのものとはならない…とできそうで定義8は定義として成り立ってないと言えそうである。

JRF2024/10/185714

……。

>公理1 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。<(上巻 p.42, 第一部)

しかし、これには内と外の境界の存在が前提されている。統計的実体・確率的実体において、だいたいの境界しか言えないことはしばしばある。自らがそういうものは、それ自身のうちに在るとか、他のもののうちに在るとか言えない。確率的実体とは違うが、前回([cocolog:95075023](2024年10月))語った有限階のループ構造を持つ神なども、そういうものの一種だろう。わかりやすくは↓の神は確率的でありループ的であろう。

JRF2024/10/187732

『宗教学雑考集 第0.8版』《始源論》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。<

JRF2024/10/180920

……。

>公理2 他のものによって考えられえないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。<(上巻 p.43, 第一部)

「自身」があるとは限らない。単純に実体がないものを他のもの…つまり外延から定義しようとしていき、極限的には存在が想定されるものは考えられる。数学で極限が存在しているが、その極限点は線に含まれないということがある。極限に至るまで他のものであって、それを考えているとはいえないが、それ自身は存在しないため、それ自身によって考えられるということはなくなる。…と言える。この公理もおかしい。

JRF2024/10/181535

……。

>公理3 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。

公理4 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。
<(上巻 p.43, 第一部)

JRF2024/10/186433

因果を論じるとき、傾向しか言わないことがある。ある原因から結果が生じたというとき、結果も原因も認識していない限り、そのようなことは言えないが、傾向でしかない場合は、原因から必ず結果が招来したとは言えない。結果だけが存在し、原因だけが存在し、それがつながる場合もあれば、つながらない場合もあるが、確率的につながっているということも考えられる。最近話題の「因果推論」学とかはどうだったかな…(参: [cocolog:93385012](2022年3月))。

このあたりは公理として一般に認められているとするには強過ぎる。特定論証のための仮想空間の定義に近い。

JRF2024/10/184938

……。

>公理5 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない。<(上巻 p.43, 第一部)

ここは何を言ってるかよくわからない。人間は自分と(ほぼ)関わりのないことを何でも認識している(認識できる)。人間は非人間を認識できる。

JRF2024/10/183975

……。

>公理6 真の観念はその対象[観念されたもの]と一致しなければならぬ。<(上巻 p.43, 第一部)

数学において極限が必ず含まれるみたいなことが言いたいのかな。…と思う。だとすれば、常に正しいとは限らないわけだが。

JRF2024/10/189914

……。

>公理7 存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない。<(上巻 p.43, 第一部)

イデアは神の中に存在しうる…みたいなことを上で私は言ったが、イデアは存在しないと考られるものだから、そういう神つまりそれを本質として含みうるような神は存在しない=神はそういうものでない…ということが言いたいのであろう。

JRF2024/10/188489

……。

>定理1 実体は本性上その変状[アフェクティオ]に先立つ。<(上巻 p.44, 第一部)

上の極限もそうだが、帰納的実体概念はありうると私は思う。変状から実体が定義されうることはありえる。先立つとは言えない。

また、スピノザの定義に従うにしても、「先立つ」という意味がよくわからない。概念というのは、定義が並立して起きうるものだから。個人による定義の順序を問題にしているわけではあるまいし。

JRF2024/10/183345

……。

>定理2 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。<(上巻 p.44, 第一部)

昭和のころベトちゃんドクちゃんという、結合双生児が話題となった。異なった属性…名前を有する二人の実体は、しかし、共通点を持っていたのである。

JRF2024/10/185024

……。

>定理3 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。<(上巻 p.44, 第一部)

どうも、スピノザが定理2と定理3で言いたかったのは、物理学において剛体が作用点で作用する…みたいなことだったのではないかと思う。物理を考えるなら、剛体でないと都合が悪く(概念化できず)、剛体であれば、作用点みたいなものがないと作用できない…みたいな。

JRF2024/10/181220

ただ、スピノザは、重力みたいな、離れて作用する概念には到達していなかったであろう。とはいえ、重力も重さ(質量)があるという「共通点」はあると言えるのかもしれないが…。

ひるがえって、現代から見ると、公理5の「認識する」は、物理学における「作用する」または、量子力学における「観測する」に近いものであったのかな…と思う。

JRF2024/10/180512

……。

>定理4 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。

(…)

定理5 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
<(上巻 p.44-45, 第一部)

JRF2024/10/186237

定理4は、ある人が認識するときそういう区別がある。…というのに対し、定理5は、物理において(宇宙において)そうだ(つまり絶対神の認識においてそういう区別がある)という主張で、両者のレイヤーが異なるのが気になる。

ただ、絶対神というものを考えず、あくまで人の認識の問題だとするなら、属性や本性を汲み尽くせず、二つの実体を同じものとしか認識できない…みたいなことは言えると思う。定理5は、いえないのではないか、いえる保証はないのではないか。

JRF2024/10/184086

……。

>定理6 一の実体は他の実体から産出されることができない。<(上巻 p.46, 第一部)

これは質量保存の法則みたいなことが言いたいのかな。…と思う。

それはそれとして…。

定理1のところで帰納的に実体が現れることがあると私は考えた。複数の変状などから逆に実体が定義されることがあるということである。そう考えると、変質する実体というのはありえることになり、そうである以上、実体が実体を産出することも私は想定できるとせねばなるまい。

JRF2024/10/186523

……。

>定理7 実体の本性には存在することが属する。<(上巻 p.46, 第一部)

実体の本性は存在であり、つまりは自己原因たる神であるという、汎神論の主張がここにある。

ただ、存在はどんなものでも実有であればあるのであるから本性的ではなく、むしろ、属性の集まり・かたまりのほうが本性っぽいと私は感じる。

JRF2024/10/185174

実体・実有という概念をバーチャルなものから区別するのが「(実)存在」だというのは、そうかな…とは思うが。観念論的・唯心論的に自分の認識にしか世界がないというのではなく、絶対的他者性が「そこ」にはある、それをもたらしているのは神とする他ない…というのはある種の考え方かな…とは思う。(参: 『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》)

JRF2024/10/182998

……。

>定理8 すべての実体は必然的に無限である。<(上巻 p.47, 第一部)

「スピノザという人物には、永遠性がある」といった考え方を私は上で示したが、そういう意味では、すべての実体は無限であるとは言えると思う。スピノザの考え方とは違うと思うが。

前回([cocolog:95075023](2024年10月))の有限階の神において、神がある特定の個物(実体)を直接参照するとき、そこには無限性みたいなものがあるのかもしれない。どんな無限に小さい物でも直接参照する方法は神には(神の視点に立てば)あるという意味で。

JRF2024/10/188486

しかし、その無限小のものが集合して一つの実体を作っているとき例えば確率的存在として実体化しているとき、そこには前回述べたような private 性・自由意志性が成立していて、神はそれを直接操作しようとはなさらないかもしれない。そのときは、神はその private 性を壊さないような操作に操作を限定されるとも言えると思う。この個物実体は(神によっても)有限的参照によってしか操作されない…と見るべきかもしれない。スピノザ的言葉遣いをすると。

JRF2024/10/181162

この系として、個物をクッションを置いて操作するための便利概念として天上界が作られている可能性もありうるとなるし、上で挙げたようにイデア界が矛盾を含むことで危機に瀕していたとしても、神が神の「脳」の中で矛盾を private 性に閉じこめて扱っている可能性もありうるとなるだろう。

自由意志論に立てば、定理8は否定されると私は考える。逆に言えば、スピノザはここで(も)自由意志論を否定しているのだろう。

JRF2024/10/185587

……。

>定理8 備考二 (…)存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。<(上巻 p.50, 第一部)

仏教の縁起論に立てば、因果は必ずしも存するとまでは言えないと言えるとは思う。確率的実体のイメージ。

JRF2024/10/184448

……。

>定理9 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる。<(上巻 p.52, 第一部)

人はある物を実在として意識するようになるとその属性に多く気付くことができる…ということは言えると思う。神はすべてを知るとすれば多く属性にやがて気付くということは考えられない、しかし、ルソーの一般意志や吉本隆明の共同幻想みたいなレイヤーにおいて、存在感みたいなものを増やすことが、より多くの実在性や有をもつことに相当する…みたいなのはスピノザの思想としても想像しやすいかな。

JRF2024/10/184748

とはいえ、神が多くの属性に気付く…というのは、スピノザ的神には考えにくいが、私の想定するような自由意志を認めた上での神なら、おおいにありうるかな…とも思う。それとも、スピノザはここで神の知識の不全を認め、自由意志的な考えに譲っているのだろうか?

JRF2024/10/189721

……。

>定理10 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。

(…)

備考(…)だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むのがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろう。
<(上巻 p.52-53, 第一部)

JRF2024/10/183419

「実体」の位置の違いを示せない「実体」概念に意味があるだろうか? ここでスピノザはそのようなことを主張しているよね? スピノザの実体の定義はおかしいのだと思う。

JRF2024/10/184918

……。

>定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。<(上巻 p.53, 第一部)

スピノザは他者性を神と名付けただけだからこうなるのだと思う。有限な自分でないものすべて(考えている自分の「魂」以外の自分の身体なども含む・場合によっては客観的に見た自分の魂も含む)なのだから、それは無限に多くの属性を含みうるだろう。

JRF2024/10/181292

……。

>定理11 別の証明(…)このようなわけで、神の存在を排除する理由ないし原因が神の本性の外部には在りえないのだから、それは必然的に -- もし神が存在しないとするなら -- 神の本性それ自身のうちになければならぬ。<(上巻 p.55, 第一部)

神が他者性とすると、神の外部は「自己」ということになる。「イマジナリーフレンド」が他者的であるなら、本当の他者と区別がつかず、本当の他者がむしろ否定されて、唯心論に陥る…ということが警戒されているのかもしれない。要するに。

JRF2024/10/180821

……。

>定理11 別の証明 存在しえないことは無能力であり、これに反して存在しうることは能力である(それ自体で明らかなように)。<(上巻 p.55-56, 第一部)

いや。存在しえないように見なすことができること、すなわち、private 機能を使えることは一つの能力であって、「無能力」とは違う。

JRF2024/10/183694

>ゆえに何物も存在しないか、それとも絶対に無限な実有もまた必然的の存在するか、そのどちらかである。<(上巻 p.56, 第一部)

前提部分を否定したから、ここに言及する必要はないが、ここだけを取り上げるなら、要は唯心論に陥るか、絶対的他者性を認めるかの二つの道しかないことを言っているのであろう。それは唯心論の定義からそれかその否定かということ(排中律)で、おおむね正しいであろう。

JRF2024/10/183392

……。

>定理12 ある実体をその属性ゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない。<(上巻 p.58, 第一部)

ペルソナを分けることは可能なものだ。ペルソナが違えば「実体」は別とみなすような「実体」定義の仕方もでき、私はそちらに傾く。ペルソナそれぞれが private …隠蔽機能を持ちうると私は考える。ここもスピノザの実体定義の問題だろう。

JRF2024/10/189638

……。

>定理13 絶対に無限な実体は分割されない。<(上巻 p.59, 第一部)

神が他者性で、他者性は自分に対して定立する。だから、自分が一つである限りは、他者性=神も分割されない。…とはいえそうである。

ただし、自分が分割されることはありえないか…というとそれは偽ではないか。

我思うゆえにあるのはそもそも「我々」までであるというのが私の主張である。

JRF2024/10/182282

『宗教学雑考集 第0.8版』《我思うゆえにありうるのは我々までである》
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。

我々は必ずしも思いどおりにならない「私」達の集りで、ならば、「私」は「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起ち上がったとき、我々も存在していたと気づくに過ぎない。

JRF2024/10/186309

「我々」というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。我々を境界して私になる…境界に意味がある。他と違う比較的自由に意味がある。所有=己のものというのも境界としてちゃんと意味がある。


分割した我に対し、他者性はそれぞれに別の側面・切り取り面を持ちうる。同時多目的最適化でそれぞれがどこを重視するかにより、同じ他者に接していても他者の捉え方は変わりうる。

JRF2024/10/180455

ただし! 身体有限性があるため我々を区切り我を定めねば危ういというのも私の論であった。つまり、生命の危機においては、他者は統一されざるを得ないだろう。そういう生命の極限で、見える論というのがスピノザの論なのかもしれない。

JRF2024/10/181549

……。

>定理14 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない。<(上巻 p.59, 第一部)

苦しいときの神だのみ…かな。苦しいときは神しか見えなくなる…と。苦しいときに助けてもらうためには、神はなんでもできなければならない…と。

JRF2024/10/185077

……。

>定理14 系1 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義6により)自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理10の備考で暗示したことである。<(上巻 p.60, 第一部)

苦しいときに頼む神は、普段信仰している一神か八百万[やおよろず]の神か、それを個々にではなくまるで唯一神かのように頼むことになる。そういう唯一性はあるかな。…と私も認める。

JRF2024/10/188999

……。

>定理15 備考 神が人間のように物体(身体)と精神とから成り・感情に支配される、と想像する人々がある。しかし彼らが神の真の認識からどんなに遠ざかっているかはすでに証明されたことどもから十分明白である。

JRF2024/10/182069

私はこうした人々のことを問題にせずにおこう。神の本性についていやしくも考察したほどの人なら誰でもみな神が物体的であることを否定するからである。このことを彼らは、次のことから、-- 物体とは長さ・幅・深さを有しある一定の形状に限定された量をいうのであるが、神すなわち絶対に無限な実体についてそうしたことを言うほど不条理なことはありえないということから、最もよく証明している。
<(上巻 p.61, 第一部)

JRF2024/10/186388

スピノザの汎神論的唯一神の主張であるが、ユダヤ教の伝統的な神認識とは違い、破門されたのもよくわかる。神に身体などがあるかないかは、明示されていない…というのはスピノザに有利な言い方で、むしろ、神には身体的表現も使うのが、旧約聖書の実際である(その像を描き・彫ることは否定されるけれども)。

JRF2024/10/182834

……。

>定理15 備考(…)実に、物体的実体が物体あるいは部分から成るという仮定は、物体が面から成り面が線から成り最後には線は点から成るという仮定に劣らず不条理なのである。<(上巻 p.65, 第一部)

現代数学では線は点から成るものだと言える。ただ、無限を介してではあるので、ここでのスピノザも間違いとまでは言えないか。

JRF2024/10/180972

……。

>定理16 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。<(上巻 p.68, 第一部)

自然数 N の無限性は実在するか? 無限個のりんごみたいなものは概念の中にしか成立しない。実在しないと現代では考えられている。しかし、等比数列の無限個の和が定数になるように、無限個のものの実在性がすべて否定できるものでもない。

JRF2024/10/185393

……。

>定理16 系1 この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であることになる。<(上巻 p.68, 第一部)

無限に導出されるものは、0秒ですべて創造されている。人の時間は、その一フーレム…窓から見ているだけ…ということが言いたいのかもしれない。

JRF2024/10/182502

しかし、有限階でなく無限階に無限を重ねるとき、すべての世界の存在確率は 0 に等しくなるだろう。すると特定の世界は、神にとって実在していないのと同じではないのか? 神が特定の世界を選んで愛するというとき、そこにおいては無限性というのは自然に矯められているのではないだろうか。リアリティは神にとって有限性において成り立ち、それが我々にとって無限の価値(実体の完全認識不可能性)を持つのではないか。

JRF2024/10/182426

……。

>定理16 系3 第三に、神は絶対に第一原因であることになる。<(上巻 p.68, 第一部)

無限爆発(ビッグバン?)による特定世界の生成がほぼ偶然なら、特定世界の生成を決定付けたものというのは、原因になりうる。その生成があるがゆえに、無限爆発が生じたのかもしれない…とすれば、第一原因性というのは、そう簡単には言えなくなる。

JRF2024/10/180476

……。

>定理17 神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。<(上巻 p.69, 第一部)

private を守ることを神は自らにほぼ強制すると考えるので私はスピノザのようには考えないのは前言ったとおり。

その private などの有限性に神の愛は生じると定理16の系に関する議論から私はいうわけだが、すると強制から愛が生じることになり、都合が悪いかもしれない。ただ、強制といっちゃうからあれなんであって、privacy が愛をはぐくむとは言えると思う。

JRF2024/10/181943

……。

>定理17 備考(…)神は、三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しいことが起こらないようにしたり、あるいは与えられた原因から何の結果も生じないようにしたりすることができる -- と言うのと同然であって、不条理である。<(上巻 p.70, 第一部)

三角形の本性とかの話は、イデア説でも問題になる。ただ、そのあたりの常識が非ユークリッド幾何学の登場で揺り動かされた。神の「脳」の中の private 領域に矛盾(と我々がみなしているもの)が許される…みたいな私の言説はそういう蹉跌を受けて唱えられるようになったとも言える。

JRF2024/10/188502

……。

>神の全能<(上巻 p.72, 第一部)

《神の全知性 - JRFの私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_9.html
>全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。

全能性を強調する立場のほうが、いろいろバリエーションを考えることができる。


全知全能性は、しかし、限られたもので十分人間にとっては意味があるとも言える。

JRF2024/10/188930

『宗教学雑考集 第0.8版』《皇帝的神の全知全能性》
>神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。

…このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。

JRF2024/10/187903

皇帝は予想が違えても記録を書き換えることができ、それで人々を絶望に落とすことができた。もちろん、そんなことを何度も繰り返していれば、皇帝の権威は落ちていくのだが、そういうことができるということが人々を恐れさせた。


持ち上げられない岩を神が作れるか…とかの全能性など考える必要はないのだ。その問いが出される前にさかのぼって変えることができる能力さえあれば、個々の人間にとっては全能なのだ。そのような「全能」は private な中に閉じられていて欲しいとは思わないか?

JRF2024/10/187848

……。

>定理18 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。<(上巻 p.74, 第一部)

ここも私とスピノザで大きく違うところだね。private 性・自由意志性を認めるというとき、そこは「神のものでない」という了解がある。つまり、そこでは神は内在的原因と責任を問われるべきではない。そこで私のような考え方をするときは神の全知性において、巨視的に見ればすべてを予想していた…といった超越性を逆に強調・重視することになる。

JRF2024/10/186668

……。

>定理19 神あるいは神のすべての属性は永遠である。<(上巻 p.74, 第一部)

ある位置情報 location とかは、一時的な属性になる。もちろん、location はいつでも参照できるという意味で永遠性を持つとも言えるが、ある実体がある location にあるということ自体は有限時間のみ有効な属性となる。スピノザは言い過ぎだと思う。

JRF2024/10/184486

……。

>定理20 神の存在とその本質は同一である。<(上巻 p.75, 第一部)

存在、本質、同一…これらは西洋の BE 動詞の概念の影響を受けて、統合された思想ではないか。よく神概念と BE 動詞との関わりが語られることがあるが、スピノザのもその影響下にあると思う。

参: >神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言<った(出エジプト記 3:14)。

JRF2024/10/184365

……。

>定理21 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。

証明(…)思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である(定理11により)。
<(上巻 p.76, 第一部)

このあたりになると私はスピノザの言いたいことがほとんどわからないことを白状しなければならない。

JRF2024/10/187720

ただ、「思惟の無限性」に関しては、無時間性みたいなのはあるのかな…と思う。夢を見たときに、夢の内容が遡って作られるみたいなことがあり、夢の中の時間経過は信用ができない。いってみれば無時間である…みたいなことは言える。思惟についても同じように・または本質的に無時間(そして神に属している)と言えるのかもしれない。

JRF2024/10/183462

……。

>定理25 系 個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ。<(上巻 p.81, 第一部)

個物が何から本当はできているのか、…というのは、一定以上には問えないことを受け容れるべきで、それを神に定めて安心すべきでない。素粒子に還元して終りでもない。

そこは、private 性を認めるのに似ている。「不可知論」ではないけれども。

JRF2024/10/189453

……。

>定理29 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。<(上巻 p.84, 第一部)

決定論の背後には偶然への不安があるのだと思う。この存在が偶然に過ぎないなら、偶然に滅びることもある…ということへのおそれがあるのではないか。そのおそれはないとは言わないが、おそれず生きていけるものだと信じる。

JRF2024/10/184290

……。

>能産的自然[ナトゥラ・ナトゥランス]および所産的自然[ナトゥラ・ナトゥラタ]<(上巻 p.85, 第一部)

訳注(上巻 p.328)によると、能産的自然は「創造する者としての自然」で、所産的自然は「創造される者としての自然」ということらしい。

《能産的自然(のうさんてきしぜん)とは? 意味や使い方 - コトバンク》
https://kotobank.jp/word/%E8%83%BD%E7%94%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E7%84%B6-111906
>生み出された結果としてある自然界 (→所産的自然 ) に対し,これを生み出す力としての自然をいう。<

JRF2024/10/184281

……。

>定理30 現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければならぬ。そして他の何ものをも把握することがない。<(上巻 p.86, 第一部)

確率的実体を巨視的に見るとき、そこには捨象があり、仮想的かもしれないが偶然を認めることになり、それは神の属性を見ているのとはやや異なる。

物や人を見るときも原子からすれば巨視的に見ているわけで、その向こうに決定論の神を見ようとしても、見えていないとすべきではないだろうか。

JRF2024/10/182438

……。

>定理32 系1 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。

系2 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および停止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理29により)が神に対する関係と同様であるということになる。
<(上巻 p.88, 第一部)

自由意志論にも自由意志は個人のものというような流派(私も)もあれば、自由意志を与えているのは実際には神であるという流派もある。後者の流派を否定しているようだ。

JRF2024/10/186384

スピノザは、神が決定しているからといって、神が自由意志を決定するかのように働くということではなく、神はあくまで脳(または精神)の運動の法則を操っているだけで、それが意志の様に働いたその意志は、神の意志とは違う…ということなのだろう。

もちろん、スピノザはそもそもの「神の意志」というものの存在すら否認しがちなのだが。意志も含め「神の思考」はこの世界そのもの…と考えるようだ。

JRF2024/10/189384

……。

>定理33 備考2 (…)さらにまた私の知るすべての哲学者は、神の中には可能的知性は存在せず現実的知性のみが存在することを容認する。<(上巻 p.93, 第一部)

神の「脳」にイデア的な可能的世界が存在していいと考える私は哲学者でないということだろう。

JRF2024/10/184352

……。

>定理36 証明(…)存在するすべての物は神の能力を -- 万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。<(上巻 p.96, 第一部)

ユダヤ教でもキリスト教でも第一の教えは神を愛することである。スピノザがここで言いたいのは、神を愛するということは、世界を愛するということ…だろう。生きろ…と言いたいのだと思う。

JRF2024/10/184361

……。

>付録(…)すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力によること、そうした諸特質を説明した。<(上巻 p.97, 第一部)

ちなみに予定説については↓で書いている。

JRF2024/10/182456

《義認説と予定説 - JRFの私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html
>一方、予定説は信者に「自分は救われる人間であるはずだ」という一種の選民思想を抱かせる効果がある。ただの選民思想にない特徴は、民族に基盤をおかず、行為によっても選ばれているか否かが、(ある程度はわかっても、人間には必ずしも)わかるわけではないという点にある。これにより、選民思想が内包しがちな排他性をやわらげている。<

JRF2024/10/189464

……。

>「脳髄は味覚に劣らず相違している」などという諺[ことわざ]<(上巻 p.107, 第一部)

スピノザのころに、もうそんなコトワザがあったんだね。今だとポリコレに引っかかるかな?

JRF2024/10/182773

……。

>物の完全性は単に物の本性ならびに能力によってのみ評価されるべきであり、したがって物は人間の感覚を喜ばせ、あるいは悩ますからといって、また人間の本性に適合しあるいはそれと反撥[はんぱつ]するからといって、そのゆえに完全性の度を増減しはしないからである。さらになぜ神はすべての人間を理性の導きのみによって導かれるふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとするほかはない。

JRF2024/10/189418

すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである、あるいは(もっと本源的な言いかたをすれば)、神の本性の諸法則は、定理16で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからえである、と。
<(上巻 p.108, 第一部)

「神の思考」の必然として悪も生じていた…と。

私は偶然を認めるから、偶然この世界が生じた(同時(?)に神も生じた)としてしまいがちだけど、それは神に意志があるとする以上その創造における全能性を制限する考え方ではあるのかな…と思う。

JRF2024/10/188087

……。

>注(5) 永遠性をスピノザは好んで必然性と等置する。<(上巻 p.315, 第一部訳注)

JRF2024/10/189262


>注(25) 「知性は神の本性には属さない」(参: 上巻 p.70)というしばしば問題になるこの命題(…)。つまり神は本性の必然性によって行動するものであって知性によって行動するのではないというのである。すなわちこの命題は神の行動の原理としての知性、神の創造の力としての知性を否定するだけなのである。

JRF2024/10/180100

言いかえれば、知性は無限なものであっても能産的自然には属さないこと(定理31参照)を述べているのである。そしてもし神の本性に属する知性すなわち神の本質を構成する知性なるものが存在すると仮定したら(そうしたものは実はスピノザにとっては存しないのである)それは人間の知性とまるで異なるものであろうというのである。

これに反して無限様態としての神の知性すなわち所産的自然に属する神の知性はもちろん存在するのであり、それは人間の知性と似ないどころではなく、人間の知性はそうした神の知性の一部分なのである。
<(上巻 p.322, 第一部訳注)

JRF2024/10/187013

上で私が述べた思惟の無時間性というとき、スピノザにとってそれは神の無限思惟の一部をフレーム・窓から見ているようなもの…といった感じなのだろう。

JRF2024/10/184869

……。

……。

第二部 精神の本性および起源について。

>定義1 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現する様態のことと解する。第一部定理25を見よ。

定義2 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言う。

定義3 観念とは、精神が思惟する物であるがゆえに形成する精神の概念のことと解する。

JRF2024/10/183207

(…)

定義4 妥当な観念[十全な観念]とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。

(…)

定義5 持続とは存在の無限定な継続である。

(…)

定義6 実在性と完全性とは同一のものであると解する。

定義7 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。
<(上巻 p.111-113, 第二部)

JRF2024/10/181283

定義6 について。唯心論的なバーチャルな想像の中だけでの存在と、よく知っていない物は似ているという話なのだと思う。完全性というのは基本的に個人の認識における話なのだと思う。ただ、個人ではなく神に対してそれが適用されるときは、実在性は(物理)反応性と同義にでもなるのだろうか?

JRF2024/10/186178

……。

>公理1 人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。

公理2 人間は思惟する〈、あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る〉。

公理3 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。

公理4 我々はある物体[身体]が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。

JRF2024/10/182080

公理5 もろもろの物体およびもろもろの思惟の様態のほかには、いかなる個物も〈あるいは所産的自然に属するいかなる物も〉我々は感覚ないし知覚しない。定理13の後の要請を見よ。
<(上巻 p.113, 第二部)

公理2 について。「我々は我々が思惟することを知る」というのはデカルトの「我思うゆえに我あり」を受けて言っているとすれば、私の「我思うゆえにありうるのは我々までである」というのに近いことをスピノザも考えていたのかもしれない。

JRF2024/10/182686

……。

>定理1 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。

説明 (…)思惟は神の無限に多くの属性の一つであって(…)。
<(上巻 p.114, 第二部)

上で「意志も含め「神の思考」はこの世界そのもの」と述べたが、すると逆にこの世界は法則のみによっていて、実質的に神に思考というものがないとも受け取られかねないが、そうではなく、神もいろいろ試す…試行しているということだろう。ただし、思考的試行は人などの個物の思考の中で行われるということだろう。

JRF2024/10/183270

……。

>定理2 延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。<(上巻 p.114, 第二部)

この定理は二様に私は受け取った。一つは神の属性の一つとしての物理法則である、慣性の法則のことか…と感じた。

もう一つは、論理延長…論理的思考の導出は無限に「延長」されてすでに行われているという意味。我々の思考はそこを辿っていくだけなのだろう。

ちなみに、私は進化論においても「慣性の法則」のようなことを認める。スピノザはそういうことまで想定していたのかどうか…。

JRF2024/10/186667

『宗教学雑考集 第0.8版』《イメージによる進化》
>○ 選択慣性 - 保守性の発揮や自然変異による選択慣性。くじゃくの羽のように、そこまで大きくキレイにする必要のない物が、過去のくじゃく社会の経験または、メスの美的感覚の発現により、より特定のイメージが選択されやすくなる。昔は意味(力)があったものが、なくなるか過度になってからも、そのようなイメージが持続する。<

JRF2024/10/185142

……。

>定理3 備考 (…)何びとといえども、神の能力を王侯の人間的能力あるいは権能と混同しないように極力用心しなくては、私の述べようとするところを正しく理解することができないであろう(…)。<(上巻 p.116, 第二部)

上で引用した『宗教学雑考集 第0.8版』《皇帝的神の全知全能性》のような考え方をスピノザはとても嫌うというところだろう。確かに、そういう神は「あくどい」。だが、そこにも一面の真実の投影があるのではないかと私などは思う。

JRF2024/10/183241

……。

>定理7 系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的[フォルマリテル]に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一運命をもって神のうちに想念的[オブエクティヴェ]に[すなわち観念]として起こるのである。<(上巻 p.119, 第二部)

形相という言葉がアリストテレスよりも、より個物の形態を示すものに使われているような気がする。たぶん、前回([cocolog:95075023](2024年10月))に出てきた「エイドス」のことなのだろうけど。

JRF2024/10/181190

ここは要は、イデアというものはなく、進化のようなものによって形態が生まれてきたと言いたかったのではないだろうか。「進化」が神の思考・観念の過程である…と。

JRF2024/10/188181

……。

>定理10 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相[フォルマ]を構成しない。<(上巻 p.124, 第二部)

人は神の似像であるという旧約聖書を思い出す。『宗教学雑考集』《熟慮の複数》にも書いている。

旧約聖書『創世記』1:26-1:27
>神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。<

JRF2024/10/187130

スピノザは神の似像性を人間の(形相の)イデアは神のものというような説においては否定しているのが、この部分なのだろう。では、どうそれを補うかがこの先しばらく問われているのだと読んだ。

人間が思考ができることが似像性なのかと予想するが…。

JRF2024/10/182100

……。

>定理11 系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてではなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。<(上巻 p.128, 第二部)

JRF2024/10/187458

このあたりも難し過ぎて私には読み解けないのであるが、たぶん、神の思考の窓(フレーム)から人間は思考の一部を受け取っている…という解釈は間違いで、あくまで人間は神の思考の中で身体や脳を得て、思考を「シミュレート」するようになったが、大きく見れば、それも神の思考の一部としての運動である…ぐらいのことなのだと思う。

JRF2024/10/185764

では、神の無限論理延長はどこに「存在」するのか、神の「脳」の中か? スピノザ的にはそれはないということであった。それは、おそらくこの時空間を含むようにあり、それ以外になく(その外はなく)、ただし、この時空間は無限にある…ということなのかもしれない。すると観念の一部が現在に現れるということは時間を越える・逆行するみたいなこととも考えるのだろうか?

そうでないとすれば、人の思考(天才の思考)は神の思考の最前線にいるということになるのではないか?

JRF2024/10/182275

……。

>定理13 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。

証明 (…)我々の精神の対象は存在する身体であって他の何ものでもない。

JRF2024/10/188288

(…)

備考 (…)ある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。
<(上巻 p.130-132, 第二部)

JRF2024/10/181859

人間は身体が(おそらく道具を使って)なんでもできることが、神の思惟の媒体としてより有能である…ということで、だからこそ、相対的に神の似像性がある…ということのように私は読んだ。身体がなんでもできるようにあろうとするために、脳が発達したということでもあるだろう。

この点、私は『宗教学雑考集 第0.8版』《我思うゆえにありうるのは我々までである》で身体の限界が、「我々」を「我」にとどめると解釈するのに、少し似ているかもしれない。私はマイナス評価で書いているが、スピノザはプラス評価で書いているという違いはあるが。

JRF2024/10/187870

……。

定理13の備考でスピノザは少し脱線し、彼の物理学的哲学を語る。

>公理1 すべての物体は運動しているか静止している

公理2 おのおのの物体はある時は緩[ゆる]やかに、ある時は速[すみ]やかに運動する。
<(上巻 p.132-136, 第二部)

>補助定理3 系 この帰結として、運動している物体は他の物体から静止するように決定されるまでは運動し、また同様に、静止している物体は他の物体から運動に決定されるまでは静止している、ということになる。<(上巻 p.134, 第二部)

ここは慣性の法則そのもののように思われる。

JRF2024/10/187673

……。

>公理1 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性から同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。<(上巻 p.135, 第二部)

「本性」つまり質点だけを考えれば良いことを言っているのかな…と思う。または摩擦の違いの考慮も少しあるか。

JRF2024/10/186467

>公理2 運動している物体が静止している他の物体に衝突してこれを動かすことができない場合には、それは弾[は]ね返って自己の運動を継続する。そして弾ね返る運動の線がその衝突した静止物体の面となす角度は、打ち当たる運動の線が同じ面となす角度に等しいであろう。<(上巻 p.135-136, 第二部)

入射角・反射角の話で、運動量保存の法則の話だろう。

>以上は最も単純な物体について、、すなわち単に運動および静止、迅速および遅緩によって相互に区別される物体についてである。これから我々は複合した物体に移ろう。

JRF2024/10/182449

定義 同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していうと言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこうした合一によって他の諸物体と区別される。

JRF2024/10/182227

公理3 個体の、あるいは複合した個体の、各部分がより大なるあるいはより小なる表面をもって相互に接合するについれて、それらの部分は自己の位置を変えるように強制されることがそれだけ困難にあるいはそれだけ容易になる。したがってまたその個体自身も他の形状をとるようにされることがそれだけ困難にあるいはそれだけ容易になる。そこで私は、その部分が大なる表面をもって相互に接合する物体を硬、その部分が小なる表面をもって接合する物体を軟、最後にまたその部分が相互に運動する物体を流動的と呼ぶであろう。
<(上巻 p.136-137, 第二部)

JRF2024/10/188185

化学的構造について何か言いたいようであるが、あまり当たってないように思う。

JRF2024/10/189471

……。

>補助定理5 もし固体を組織する各部分が、すべてその相互間の運動および静止の割合を以前のままに保つような関係において、より大きくあるいはより小さくなるならば、その個体もまた何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。<(上巻 p.138, 第二部)

質量を扱うとき、式においてはそれは係数として現れ、線型に扱える…ぐらいのことをここでは言っているのだろう。ただ、スピノザは、放物線など2乗則が自然にあるのには気付いてなかったのではないか? ピタゴラスの定理は知っていたとしても。

JRF2024/10/183753

……。

以上、物理学が終って身体に関する「要請」が語られる。

>要請1 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体 -- そのおのおのがまたきわめて複雑な組織の -- から組織されている。

要請2 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い。

要請3 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様な仕方で刺激される。

要請4 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。

JRF2024/10/188719

要請5 人間身体の流動的部分が他の軟かい部分にしばしば突き当たるように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。

要請6 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。
<(上巻 p.140-141, 第二部)

JRF2024/10/185256

要請5 について。要は、針が肉を突いて血が出ることを言っているのだと思うが、まるで血が針をまねいたみたいに書いている。血が(神から与えられた)命だからこのような書き方にしたのだろうか?

JRF2024/10/181242

……。

>定理14 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。<(上巻 p.141, 第二部)

より多く身体で知覚できるところに、神の似像性を見出す…と上で語ったのは、ここを読んでからそう思ったのだった。

JRF2024/10/187295

……。

>定理16 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。

(…)

系2 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。(…)
<(上巻 p.142-143, 第二部)

JRF2024/10/189837

外部が持っている意味よりもより多くの意味を人は取りだしている。いや、厳密には、外部の持ってる意味をすべて人間は知りうるわけでないから、外部が持っていない意味で、より外部が持つべき意味を人間は思惟の中に持つことがある…ということだろう。より以上に外部の物らしい意味を持つという点で、思惟が神の属性であるのに似て、思惟が人の属性となる…と言えるのかもしれない。似像性はここにもある…と。

逆に神の思惟も、我々が見出せる以上の意味を自然に本当は付与していて、それを人間がわかっているわけではない…ということでもあるだろう。

JRF2024/10/189942

……。

>定理17 系 (…)人間身体の流動的な部分が軟らかい部分にしばしば衝き当たるように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は(要請5により)変化する。(…)そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる(…)。

JRF2024/10/182269

この刺激を精神は(…)ふたたび認識するであろう。言いかえれば精神は(…)ふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。
<(上巻 p.144, 第二部)

どうも要請5は肉と血の話と上で私は読んだわけだが、むしろ、脳と血の話…軟らかい部分=脳…ということのようだ。

JRF2024/10/181220

……。

>定理19 人間精神は身体が受ける刺激[アフェクティオ][変状]の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。<(上巻 p.149, 第二部)

身体性の認識は外部が与えた概念により形成される…ということのようだが、私はここでは別のことを思い出した。

それは↓の部分である。神の意志性から逆に人の意志性に気づくということを説いている。

『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》

JRF2024/10/186882

>逆に我々は、「私」に至る偶然に神の意志性を見出す。生まれてきた「私」は何かと不如意である。思い通りにできない。しかし、「私」を導くものがあり、「私」のしたいことを前もって助けてくれる。それは親かというとそれももちろんあるが、それだけではない。私の肉体自身が私にはよくわかっていないから、私の肉体が「私」を教えるという面もある。そこに(親や肉体も含めた)「他者」の痕跡を発見するのだ。それを振り返ると、「私」が選ばれてきた偶然がある。

JRF2024/10/184327

「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「私」に至る偶然に何らかの意志性を見出さざるを得ない。なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見である。

逆にその神の意志から、「私」はそれが自分の中にも似た物があると発見していくのではないか。第1章で「我思うゆえにありうるのは我々までである」と説いたが、何が意織しているか当初はわからないまま、他者としての神を認識し、自らにとって不如意であること甚[はなは]だはしいが導いてくれる、その神に似たものとして意識の境界を確定し、「私」の意志性を発見していくのではないか。

JRF2024/10/188102

スピノザにとっては、身体が精神性の元であり、神が私のいう他者性のことだったから、ほぼ対応しているように思う。

JRF2024/10/188437

……。

>定理20 証明 (…)人間精神についても(この部の定理11により)、必然的に神の中に観念がなければならぬ。次に精神のこの観念あるいは認識は、神が無限である限りにおいて神の中にあるのではなく、神が他の個物の観念に変状した限りにおいて神の中にある(この部の定理9により)。<(上巻 p.150, 第二部)

「神が無限である限りにおいて神の中にあるのではなく、神が他の個物の観念に変状した限りにおいて神の中にある」というのがこの後同様の文で何度か出てくる。基礎的な概念のようである。

JRF2024/10/186309

上で無限論理延長は時空間を含むようににあるという話を私はしたが、人間精神はいわば霊的にそこにある…というのではなく、あくまで神が個物として現在に現れているそこに根拠を持つ…と言っているのだと思う。言いたいのは、おそらく人間精神「の大部分」は学習によって築かれる…ということだと思う。

スピノザのこれまでの考え方を敷衍すると、「の大部分」以外の部分も、進化など(または建築などの環境構築など)によって、築かれてきたとするのであろう。

JRF2024/10/184897

…….

>定理21 備考 (…)精神の観念と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。なぜなら、精神の観念すなわち観念の観念というものは実は観念(…)の形相[本質]にほかならないからである。<(上巻 p.151-152, 第二部)

どうも論理学的抽象化されたような「天使」が存在しないことを述べている感じだ。そういうメタ的な存在は考える必要がない…と。

JRF2024/10/189141

ここはひょっとすると、プログラム言語において、関数を引数にできることに相当するのかもしれない。関数のようなメタ的概念も、オブジェクトとして扱ってよい。関数の関数…もオブジェクトとして問題ない。…ということではないか。

JRF2024/10/188926

……。

>定理23 証明 (…)人間身体の認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神に帰せられないから、したがって精神の認識もまた、神が人間精神の本質を構成する限りにおいては神に帰せられない。<(上巻 p.153, 第二部)

自己認識には神のごとき絶対性がない…ということだと思う。自分のことは自分が一番よくわかっているということはない。…と。

JRF2024/10/185233

……。

>定理24 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。<(上巻 p.153, 第二部)

人間精神は自分の身体・肉体のことについて、まして精神自身についてよくわかっていないというのはその通りだと思う。もちろん、無意識の領域があって、意識している以上に「わかっている」ことというのはあるのだと思うけど、それも限界がある…と。

JRF2024/10/181650

……。

>定理29 備考 私ははっきり言う -- 精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いかえれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのものを観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず、単に混乱し〈毀損し〉た認識を有するのみである。

JRF2024/10/181694

これに反して内部から決定されて、すなわち多く物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識する場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいはかの仕方で内部から決定される場合には、精神は常に物を明瞭判然と観想するからである。このことについてはのちに示すであろう。
<(上巻 p.159, 第二部)

議論を先取りすると、馬とか鳥とかの学習されていく概念は、「妥当な認識」というのはありえない。しかし、集合論とか圏論とかのような理性的論理構築は、信頼できる。…ということらしい。

JRF2024/10/187775

……。

>定理30 証明 (…)諸物がいかなる仕方で排列されているかについての妥当な認識は、神がすべての物の観念を有する限りにおいて神の中に在り、神が単に人間身体の観念を有する限りにおいては神の中にはない(この部の定理9の系により)。<(上巻 p.160, 第二部)

上の無限論理延長うんぬんのところで出てきたような文がここにもある。

JRF2024/10/186984

……。

>定理31 系 この帰結として、すべての個物は偶然的で可滅的であるということになる。<(上巻 p.161, 第二部)

決定論に立ち、本質的な偶然はないというのが、基本的なスピノザのスタンスであるが、個物は当然に偶然「的」でありうるということだろう。

JRF2024/10/186538

……。

>定理33 観念の中にはそれを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存しない。<(上巻 p.162, 第二部)

(論理的)パラドクスについてはどう考えるのだろう? それがパラドクスであることが認識されている限りは、それは真なる認識・観念だからそれでよいということだろうか?

JRF2024/10/180649

……。

スピノザは普遍的概念を分類して別様に扱う。次のような手段に分ける。

>定理40 備考2 (…)

一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から(この部の定理29を見よ)。このゆえに私はこうした知恵を漠然たる経験による認識と呼び慣れている。(…馬や鳥といった概念のことだろう。…)

二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部の定理の18の備考を見よ)。(…記号・文字列からの空想のことだろう。…)

JRF2024/10/185261

事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見[オピニオ]もしくは表象[イマギナティオ]と呼ぶ。

三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この部の定理38の系、定理39およびその系ならびに定理40を見よ)。そしてこれを私は理性[ラティオ]あるいは第二種の認識と呼ぶだろう。(…集合論や圏論などによる知のことだろう。…)

JRF2024/10/180187

これら二種の認識のほかに、私があとで示すように第三種のものがある。我々はこれを直観知[スキエンティア・イントゥイティヴァ]と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質[エッセンティア・フォルマリス]の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。
<(上巻 p.171-172, 第二部)

JRF2024/10/188083

第三種の「直観知」は、これまでのスピノザらしくない考え方である。私のいう無限論理延長に認知が接続したとき、それの「引力」によって、「真」であるという直観が生まれる…といった感じなのだろうか?

つまり、神の(論理)思惟には引力がある…と。原因のみを認め目的を否認するスピノザらしくはないが…。

JRF2024/10/181639

……。

>定理43 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。<(上巻 p.174, 第二部)

スピノザがここで言いたこととは違うが、しかし、やはり、この命題のみを受け取ると、どうしても独善論に傾く者が出てくるだろう。危険思想性は確かにここにある。自分を疑うことからはじめたデカルトに対し…。

JRF2024/10/186472

……。

>定理43 備考 (…)実に光が光自身と闇とを顕[あら]わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。<(上巻 p.175, 第二部)

美しい言葉・信念だとは思う。私自身の過去の学習を振り返るとそういう側面があったことに思い当たる。しかし、それは、進化で内的に…というよりは、社会的無意識(共同幻想とか)が用意していたことを、知っていったからそう感じるということではないのか。

JRF2024/10/181098

……。

>定理47 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。

(…)

備考 これによって神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる。ところで、あるとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにしてかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。
<(上巻 p.182, 第二部)

JRF2024/10/182277

人間精神はいろいろなものについて妥当な認識を持ち得ないということだったが、こと神に関しては妥当な認識を予め持っているということのようである。第三種の認識とはつまり信仰のことであったか。

スピノザのこの思想こそ、誰もが本質的に持っている(持ちうる)真理で間違いなどありえない…と。いやぁ、その独善性はダメなんじゃないですか、スピノザさん。

…ただの汎神論では、それを信じる理由が出てこない…ということなのかな。なぜ神を愛すべきかが出てこない。…と。

JRF2024/10/181811

……。

>定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。

(…)

備考 精神の中に認識し、欲求し、愛しなどする絶対的な能力が存しないこともこれと同一の仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物であるか、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的概念にほかならないということになる。
<(上巻 p.184-185, 第二部)

JRF2024/10/186021

脳の物理現象であって、霊的に意志し・認識し・欲求し・愛しなどしているのではない…ということだろう。真に対する態度とは、かなり違うが、スピノザは知性を特別視しているということか…。

JRF2024/10/189537

……。

>定理49 系 意志と知性は同一である。<(上巻 p.187, 第二部)

以下を思い出す。

『宗教学雑考集 第0.8版』《イスラムと西欧(のキリスト教)の違い》
>ここでいう「西洋」と「イスラム」は実際の集団ではなく、そこに私を含む日本人がいだいてきた「主観的」イメージに基づく仮託のための存在である。 …としておこう。

(…)

西欧の「理性」の定義では、「判断」と「行動」は同じだが、「知識」と「判断」は別物であるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を特別視するために、「判断」と「行動」が相対的に接近した概念としてとらえられるからである。

JRF2024/10/180226

よって、善は必ずなされねばならないが、理性が足りないために、すなわち、知識不足で、善悪の判断がつかないことはあるという考えを生む。

一方、イスラムの定義では、「判断」と「行動」は別物だが、「知識」と「判断」は同じであるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を表すには言葉によるしかないのに、その言葉を「判断」の証明として求められるからである。

よって、善とわかっていても行動を起こさないことは認めるが、理性はあるはずだから、善悪の判断の表明を常にせまっても良いという考えを生む。(知識が不足していたり判断がまちがっていたりするのは神のみぞ知るということである。)

JRF2024/10/187754

「知識」を「知性」に「意志」を「判断」に割り当てれば、スピノザは上でいうイスラム的理解ということになるのだろう。西洋では異質な考えであったということだ。

ここは、現代では、AI が、知性があるのは当然として、意識があるか=意志があるか、といったところにも関わる問題だと思う。

JRF2024/10/189256

私は、自由意志や private 性を認める立場だが、もちろん、脳が物理現象的であることまでは否定しない。つまり、知性の働きは(大部分)決定論的であることは認める。しかし、量子力学を持ち出すまでもなく、脳の中でサイコロを振っている部分、ランダムに選択している部分はあると私は思う。決定論に還元できない偶然性があり、それを覆う形でだと思うが、意志性があると言えると思う。知性と意志はそういう意味において別物だというのが私の考え方だ。

JRF2024/10/182791

ただし、じゃあ逆に、知性というのに偶然性はないのかについて、究極の知性である AI もランダム性を含みうることを考えれば、知性はそもそもランダム性を含むのかもしれない。すると、決定論ではなく非決定論的に、意志と知性はほぼ同じものだというのもできるのかもしれない。AI にも意志はありうるということだ。

つまり、より決定論的/より非決定論的な想起という点で、知性と意志は(絶対的ではなく)相対的にのみ分かれるということになるのだろう。

JRF2024/10/184938

……。

意志と知性の同一視に対しての反対論をスピノザは四種ほど挙げる。そのうち、私のランダム性を意志性の根拠と見る主張に関するのは第四の反対論であろう。

JRF2024/10/186421

>第四に次のような反対がなされうる。もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダンの驢馬[ろば]のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうか、彼は餓えと渇きのために死ぬであろうか、もしこのことを容認するなら、私は驢馬、もしくは人間の彫像を考えて現実の人間を考えていないように見えるであろう、これに反してもしこのことを否定するなら彼は自分自身を決定するであろう、したがって彼は自分の欲する所へ行き自分の欲することをなす能力を有することになる、と。(上巻 p.191, 第二部)

JRF2024/10/181650

>最後に第四の反対論に関しては、そのような平衡状態に置かれた人間(すなわち餓えと渇き、ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間)が餓えと渇きのために死ぬであろうことを私はまったく容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死[いし]する人間を何と見るべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。<(上巻 p.196, 第二部)

JRF2024/10/181776

ブリダンの驢馬については訳注に説明がある。

>注(35) (…)ジャン・ブリダンは14世紀のフランスのスコラ哲学者。彼は驢馬には自由意志がないから等距離にある二つの等しい食物の間に置かれたらどちらを選ぶこともできず餓死するだろうと説いたとされる。<(上巻 p.344, 第二部訳注)

基本的には、自然(環境・身体)というのは何がしか違うものなので、「等距離」は実現せず、仮に「等距離」が実現すると無理に仮定したら、人はどちらも選べないはずだ…というのがスピノザの意地のようだ。

JRF2024/10/189750

反論で、狂人を挙げてるが、自由意志というのは極言すると「狂気の突破力」なのかな。…と私は思った。

「狂気の突破力」とは、ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだとき AI が支配するようになった未来社会では、「狂気の突破力」が人類の力になるという話をしたヤツである。

JRF2024/10/186068

……。

この第二部のスピノザの説の知識は、以下の点において、実生活に有用なのだという。

>一 (…)我々の最高の幸福ないし至福は神に対する認識のみに存するのであり、我々はこの認識によって、愛と道義心の命ずることのみをなすように導かれる。

(…)

二 (…)我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに耐えなければならぬのである。三角形の本質からその三つの角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。

JRF2024/10/187614

三 この説は共同生活のために寄与する。なぜならこの説は、何びとをも憎まず、蔑[さげす]まず、嘲[あざけ]らず、何びとをも怒らず、嫉[ねた]まぬことを教えてくれるし、その上でまた、各人が自分の有するもので満足すべきこと、そして隣人に対しては女性的同情、偏頗心[へんぱしん]ないし迷信からでなく、理性の導きのみによって、すなわち私が第四部で示すだろうように時と事情が要求するところに従って、援助すべきことを教えてくれるからである。

JRF2024/10/184769

四 最後にこの説は国家社会のためにも少なからず貢献する。なぜならこの説は、人民をいかなる仕方で統治し指導すべきかを、すなわち人民を奴隷的に服従させるようにでなく自由な動機から最善を行なわせるように統治し指導すべきことを教えてくれるからである。
<(上巻 p.196-198, 第二部)

神の永遠なる決定…予定説…運命さえ予定されてるなら、「無限論理延長」も当然ありうるということにはなるか…。

JRF2024/10/189496

……。

……。

第三部 感情の起源および本性について。

>序言 (…)万物が生起して一の形相から他の形相へ変化するもととなる自然の法則および規則はいたるところ常に同一である(…)。したがってすべての事物 -- それがどんなものであっても -- の本性を認識する様式もやはり同一でなければならぬ。すなわちそれは自然の普遍的な法則および規則による認識でなければならぬ。このようなわけで憎しみ、怒り、ねたみなどの感情も、それ自体で考察すれば、その他の個物と同様に自然の必然性と力とから生ずるのである。<(上巻 p.201, 第三部)

JRF2024/10/185086

物理法則はこの宇宙(Universe)で同じ…というのは、現代だと多少疑いはあるものの、それでも信じられてることではある。

そして感情にも法則性があるというのが、スピノザの主張のようだ。

JRF2024/10/182565

……。

>定義1 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な[十全な]原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な[非十全な]原因あるいは部分的原因と呼ぶ。

JRF2024/10/180489

定義2 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす[能動]と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける[受動]と言う。

定義3 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態]、また同時にそうした変状の観念であると解する。

JRF2024/10/186631

そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、そうでない場合は受動と解する。

要請1 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激されることができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激されることもできる。

この要請あるいは公理は第二部定理13のあとにある要請1ならびに補助定理5と7に基づく。

JRF2024/10/189310

要請2 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を(これについては第二部要請5を見よ)、したがってまた事物の表象像を保持することができる。表象像の定義については第二部定理17を見よ。
<(上巻 p.201-203, 第三部)

JRF2024/10/182404

……。

>定理1 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。<(上巻 p.203, 第三部)

神に関する認識は妥当な認識であり、観念であった。だから、おそらく神を伝道するのが、それのみが働きをなすことなのか…とここでは思った。

ただ、後を読むと、どうもそういうことでなく、勇気や寛仁、温和といったことが、神から来る妥当な働きと見なされるようである。

JRF2024/10/180915

『「シミュレーション仏教」の試み』の本目的三条件のうちで考えると、死を意識した「来世がないほうがよい」(涅槃に入ろうとするのがよい)というところから来るのが、「妥当な働き」となるのだろうか?

JRF2024/10/183555

……。

>定理2 身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない。<(上巻 p.205, 第三部)

「精神が身体を…」は、外部の影響が感覚器官などを通じてあって、反射作用などもあり、精神がなんでも身体のことを決定するわけではない…というのは、現代的視点に立てば当然だと思う。

JRF2024/10/184706

一方、スピノザは、身体性が精神を作っているというような認識だったはずだが、ここでは「身体が精神を思惟するように決定することはできない」というのは、いわゆる環境だけでなく、遺伝子などの生まれたときから予めそなわった内的なものによる影響も考えねばならないことをここでは言っているのかもしれない。

JRF2024/10/183681

……。

>定理2 備考 (…)精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいはむしろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意と呼び、延長の属性のことで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定と呼ぶということである。

JRF2024/10/188227

(…)

最後に我々は、覚醒時にはとてもしないようないろいろなことを精神の自由な決意によってやってのけるという夢を見る。そこで私はぜひ知りたい、精神の中には二種の決意、すなわち空想的な決意と自由な決意とがあるのかどうかを。もしそんな無意味な結論に到達したくなければ、この自由であると信じられている精神の決意は、表象そのものあるいは想起そのものと区別されないのであって、それは観念が観念である限りにおいて必然的に含む肯定(第二部定理49を見よ)にほかならないということを人々は必然的に承認しなくてはならぬ。
<(上巻 p.210-211, 第三部)

JRF2024/10/184497

自由意志も想起も、縁起論の起であるということではあるとは思う。ただ、そこに本質的な偶然性・ランダム性がからむ場合、かなり様相を異にすると私は思う。ただ上で私が説明したように、(想)起はすべてランダム性を含むという解釈もありえるので、程度の問題かもしれないが。

JRF2024/10/187943

……。

>定理4 いかなる物も外部の原因によってでなくては滅ぼすことができない。<(上巻 p.213, 第三部)

つまり滅ぼすものがあるとすれば、それは外部であって、そうでないものが「我」なのだ…ということ。

上で…

>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。<

JRF2024/10/181386

…と私の文を引用したが、身体の危機すなわち「滅ぼすもの」に対して「我」は定立する…というのは私も認めるところである。

>定理5 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。<(上巻 p.213, 第三部)

しかし生物には、アポトーシス…死の回路もある。

それは「我」を解体して本源に還ることだ。ただし、帰るべき本源=「我々」はある程度、選べる。資産などを誰に残すかなどは選べる。

>定理6 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。<(上巻 p.214, 第三部)

JRF2024/10/185384

私は「なぜ生きなければならない」かについて次のように答えた。

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。<

私は定理6は少し違って、「我」よりは「我々」の有に固執すると考える。それが「生」だ。…と。

JRF2024/10/188052

>定理7 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。<(上巻 p.214, 第三部)

ただ「我々」はあくまで仮想的なものだというのは、そうなのかな…と思う。「現実的」になるなら、我を中心に考えるのは当然ではあると思う。

JRF2024/10/182875

……。

>定理8 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる。

証明 (…)おのおのの物は外部の原因によって滅ぼされなければそれが現に存在している同じ能力をもって常に存在しつづけるのであるから(…)、したがってこの努力は無限定な時間を含んでいる。
<(上巻 p.215, 第三部)

JRF2024/10/189264

スピノザは言ってみれば、神の真が学習するものであるとする。その「真」を伝えずに死ねるか、死ぬべきか…とは言えると思う。神の真がそもそも無限であるというのとは別の側面として、そうやって伝えていくことの無限性(継続の無限性?)はあるとは思う。

JRF2024/10/181702

……。

>定理9 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。

JRF2024/10/187836

(…)

備考 (…)この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望の違いはといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。

JRF2024/10/185270

このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し、意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである。
<(上巻 p.216-217, 第三部)

この部分で「欲望」「衝動」が定義される。

ところで、死ぬために何かを欲望するようなことはない、ということは、死に向けた準備などは、死後の(あくまで)生みたいなものを意識してなされているということだろうか?

JRF2024/10/186342

そういう面も含めて、どこまでも生きようとするのがデフォルトであって、そうでないのは何かがおかしいということだろう。スピノザの考えでは。

ただ、私は、先に「生きなければならない」があるように考えるのだが、スピノザはそこまで明言はしないようだ。

JRF2024/10/189467

……。

>定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。<(上巻 p.217, 第三部)

希死念慮は Twitter (X) などを見ると現代でもかなり広がっているが、自殺したいなどというのは、どれだけ偽装されても、外部から来たものなんだから、あらがえ…ということをスピノザはここで言いたいのかもしれない。

JRF2024/10/182567

……。

>定理11 備考 (…)私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。

JRF2024/10/181200

(…)

この三者(喜び・悲しみ・欲望)のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうに、この三者から生ずるものだからである。
<(上巻 p.218-219, 第三部)

基本的感情は「喜び」「悲しみ」「欲望」のみであるというスピノザの定義。

他に「快感」「快活」「苦痛」「憂鬱」が定義される。

JRF2024/10/182811

……。

>定理13 備考 (…)愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我々は知る。<(上巻 p.221-222, 第三部)

「愛」と「憎しみ」の定義。

JRF2024/10/183427

……。

>定理14 もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるでろう。<(上巻 p.222, 第三部)

ある意味、別の感情からの想起によって偽の感情を抱かせることができる。…ということのようだ。

JRF2024/10/187696

……。

>定理15 系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。<(上巻 p.223, 第三部)

偶像・アイドルを愛し・憎めるということだろう。アイドルが人などであってもなくても。

この点、私はタロットソリティアゲーム『易双六[ようすこう]』を作ったとき、人を表すカードがないところでも、まるで偶像(絵画やアニメとか?)が作用したかのように、作用することもある…とルールを作ったことを思い出す。

JRF2024/10/186165

……。

>定理17 我々を悲しみ感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎みかつ同時に愛するだろう。<(上巻 p.225, 第三部)

別の感情からの想起によってまた別の感情がわくということは、当然、正反対の感情が同時に刺激されることもあるということ、そういう混乱が感情の常なのだということだ。

その混乱をスピノザは「心情の動揺」という言葉で定義している(上巻 p.226)。

JRF2024/10/182303

……。

>定理17 備考 (…)私は前定理においてこの心情の動揺を、それ自身によってある感情の原因であり・偶然によって他の感情の原因であるような原因から導き出したが、それはそうした方がこの動揺をより容易に前の諸定理から導き出しうるからであって、何も心情の動揺が、多くの場合、二つの起成原因[直接原因]であるような一対象から生ずることを否定しているわけではないということである。

JRF2024/10/182414

なぜなら、人間身体は(第二部要請1により)本性を異にするきわめて多くの個体から組織されており、したがって(第二部定理13のあとにある補助定理3のあとの公理1により)人間身体は同一物体からきわめて多くの異なった仕方で刺激をされることができる。また逆に、同一事物が多くの仕方で刺激されうるからには、同一事物がまた多くの異なった仕方で人間身体の同一部分を刺激することができるであろう。

すなわちこれらのことからして我々は同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解することができるのである。
<(上巻 p.226-227, 第三部)

JRF2024/10/188881

別の感情の想起を引き起こすというだけでなく、その前の段階で、そもそも同一の刺激から別の感情が同時に発生するものだ。想起に関係なく心情の動揺はありうる。…と。

JRF2024/10/189351

……。

>定理18 備考2 (…)希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。<(上巻 p.228-229, 第三部)

JRF2024/10/182821

「希望」「恐怖」「安堵」「絶望」「歓喜」「落胆」の定義。

JRF2024/10/181747

……。

>定理21 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。

(…)

定理22 ある人が我々の愛するものを喜び刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう。

JRF2024/10/184763

(…)

備考 定理21は憐憫の何たるかを説明してくれる。我々はこれを他人の不幸から生ずる悲しみであると定義することができる。しかし他人の幸福から生ずる喜びがいかなる名前で呼ばれるべきか私は知らない。さらに我々は善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。
<(上巻 p.230-232, 第三部)

「憐憫」「好意」「憤慨」の定義。なお、憐憫は愛した者だけでなく、以前に何とも悪感情を思っていなければ、同類に対しても感じうる…ことがここで書かれている。

JRF2024/10/189392

……。

>定理23 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。(…)

証明 (…)もし自分の憎むものが喜びに刺激されることをある人が表象するなら、この表象は(この部の定理13により)その人自身の努力を阻害するであろう、言いかえれば(この部の定理11の備考より)憎む人は悲しみに刺激されるであろう、云々。Q.E.D.
<(上巻 p.233-234, 第三部)

JRF2024/10/185064

「自分の憎むものが喜びに刺激されることをある人が表象する」というのは易の「吉凶悔吝」における「吝[うら]み」であろう。

吝みがあれば自らは悲しくなり「努力が阻害される」つまり、自由に生きる気力をなくしがちだということのようだ。憎むものを排除しようとするより、そこに「ある人」という肯定的なワンクッションがあることで、自分をダメにしてしまいがちだということだろう。ある意味それは平和ではある。

JRF2024/10/182970

……。

>定理24 備考 (…)ねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。<(上巻 p.234-235, 第三部)

「ねたみ」の定義。

JRF2024/10/184532

……。

>定理25 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。

証明 (…)我々を悲しみに刺激するものについてはその存在を排除しようと努める。
<(上巻 p.235, 第三部)

JRF2024/10/187173

「我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象する」というのは易の「吉凶悔吝」における「悔い」であろう。

悔いはその原因となった他者を排除するように促す。それはすぐには難しいことが多いだろうが、やがてそこには争いが生じるのであろう。

もちろん、スピノザの感情理論全般について言えることだが、このような定義にすることで細かなニュアンスが脱落している面もあろう。しかし、原則のある形で大枠をとらえることには意義があると私は思う。

JRF2024/10/189695

……。

>定理26 備考 (…)高慢とは人間が自分自身について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以上に感ずることから生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。<(上巻 p.236, 第三部)

「高慢」「買いかぶり」「見くびり」の定義。

JRF2024/10/189322

……。

>定理27 備考 (…)競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならない。<(上巻 p.238, 第三部)

「競争心」の定義。

JRF2024/10/187663

……。

>定理27 系2 我々の憐れむものの不幸が我々を悲しみに刺激するからといって、我々はそのものを憎むことはできない。

証明 なぜなら、もしこのことのために我々がそうしたものを憎むことができるとしたら、我々はそうしたものの悲しみを喜ぶことになるであろう(この部の定理23により)。しかしこれは(…憐れみの定義により…)仮定に反する。
<(上巻 p.238, 第三部)

悔いや吝みの複雑な機序の中にもこのような機序がある気がするが、今の私にはうまく分析できない。orz

JRF2024/10/188448

Gemini さんに話を通すと…。

Gemini:>
悔い: 悔いは、過去の行動によって生じた結果に対する後悔の念です。この時、私たちは過去の自分自身を責め、その結果に対して悲しみを感じます(憐れみ)。しかし、同時に、過去の行動を正したいという欲求も生まれ、それが憎悪に近い感情を生む可能性も考えられます。

吝み: 吝みは、何かを惜しんだり、執着したりする感情です。この時、私たちは失うかもしれないものに対して不安を感じ、悲しみを感じます(憐れみ)。しかし、同時に、その対象を手に入れたいという欲求も生まれ、それが他の者に対する嫉妬や憎悪につながる可能性があります。

JRF2024/10/185436

……。

>定理27 系3 備考 (…)あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望に他ならない。<(上巻 p.239, 第三部)

「慈悲心」の定義。

JRF2024/10/185202

……。

>定理29 我々は人々が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。

JRF2024/10/188039

(…)

備考 ただ人々の気に入ろうとする理由だけであることをなしたり控えたりするこの努力は名誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあることをなしたり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほどまででない場合には鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとになされた他人の行動を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。<(上巻 p.240-241, 第三部)

「名誉欲」「鄭重」「賞讃」「非難」の定義。

JRF2024/10/184647

……。

>定理30 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身を喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身を喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。

JRF2024/10/187514

(…)

備考 (…)愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞讃されあるいは非難されると信じるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の観念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう。
<(上巻 p.242-243, 第三部)

「名誉」「恥辱」「自己満足」「後悔」の定義。

JRF2024/10/185759

……。

>定理31 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、〈すなわち我々の憎むものをある人が愛することを〉表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。

(…)

系 このことおよびこの部の定理28の帰結として、各人は自分の愛するものを人々も愛するように、また自分の憎むものを人々も憎むようにできるだけ努めるということになる。

JRF2024/10/181072

(…)

備考 自分の愛するものや自分の憎むものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲である(この部の定理29の備考を見よ)。このようにして各人は生来他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人が等しく欲するゆえに、すべての人が等しく互いに障害になり、またすべての人がすべての人から賞讃されよう愛されようと欲するがゆえに、すべての人が憎み合うことになるのである。
<(上巻 p.243-245, 第三部)

JRF2024/10/185999

伝道に関わる感情、徒党を組むことに関わる感情を説明しているようだ。そしてその元が名誉欲であると喝破している。

JRF2024/10/188045

……。

>定理33 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すように努める。<(上巻 p.246, 第三部)

定理33 だけではなく、このあたりの「真理」というか「心理」は、ビンジネス書・自己啓発書・行動経済学書とかで説かれるのと似た感じだね。伝統的に、スピノザの哲学はそういう需要も取り込んできたのだろうか?

JRF2024/10/189415

……。

>定理34 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉[誇り]を感ずるであろう。<(上巻 p.247, 第三部)

「誇り」の定義。

JRF2024/10/181060

……。

>定理35 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしてたと同じの、あるいはより緊密な愛情の絆[きずな]によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、またその他人をねたむであろう。

(…)

備考 ねたみと結合した、愛するものに対するこの憎しみは、嫉妬と呼ばれる。したがって嫉妬とは、同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺にほかならない。
<(上巻 p.248-249, 第三部)

「嫉妬」の定義。

JRF2024/10/181611

……。

>定理35 備考 (…)愛する女が他人に身を委[まか]せることを表象する人は、自分の衝動が阻害されるゆえに悲しむばかりでなく、また愛するものの表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるをえないがゆえに愛するものを厭[いと]うであろう。これに加えてまた嫉妬する者は、愛するものが与えるのを常としたと同じ顔つきをもって愛するものから迎えられないということになる。そしてこの理由からも愛する当人は悲しみを感ずる。私がやがて示すであろうように。<(上巻 p.249-250, 第三部)

笑。元気出せよ、スピノザさん。

JRF2024/10/188948

まぁ、わかるよ。「私がやがて示すであろうように。」というのは、この本の中の後の部分で理論的に示すということだということは。でも、ここは、自分が恋愛に悩んでいて「私がやがて振られるであろうように。」というのを予期しているかのようにも読める。まぁ、それでも笑っちゃダメかもしれないが。

JRF2024/10/180137

……。

>定理36 備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる。<(上巻 p.251, 第三部)

「思慕」の定義。

JRF2024/10/182744

……。

>定理39 備考 私はここで、善をあらゆる種類の喜びならびに喜びをもたらすすべてのもの、また特に願望 -- それがどんな種類のものであっても -- を満足させるもの、と解する。これに反して悪をあらゆる種類の悲しみ、また特に願望の満足を妨げるもの、と解する。<(上巻 p.254, 第三部)

相対的な「善」「悪」の定義で、この前の部分を参考にするに、ここでの「善」は「親切」ぐらいの軽い意味のようだ。

JRF2024/10/189760

……。

>定理39 備考 (…)人間をしてその欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するように仕向けるこの感情は臆病と呼ばれる。したがって臆病とは人間をしてその予見する悪をより小なる悪によって避けるように仕向ける限りにおける恐怖にほかならない(この部の定理28を見よ)。しかしもしその恐れる悪が恥辱である場合にはその臆病は羞恥と呼ばれる。最後にもし予見される悪を避けようとする欲望が他の悪への怯[おび]えによって阻害されていずれを選ぶべきかを知らない場合には -- 特にその恐れる二つの害悪がきわめて大なる場合には -- その恐怖は恐慌と呼ばれる。<(上巻 p.255, 第三部)

JRF2024/10/188335

「臆病」「羞恥」「恐慌」の定義。

JRF2024/10/180549

……。

>定理40 系2 備考 我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。<(上巻 p.257, 第三部)

「怒り」「復讐」の定義。

JRF2024/10/181387

……。

>定理41 備考 もし自分が愛に対する正当な原因を与えたと信ずるならば彼は名誉を感ずるであろう(…)。こうしたことは(…)かなりしばしば起こる。これに対してある人が他人から憎まれることを表象する場合は、前に述べたように、そうしたこと[正当な原因を与えたと信ずること]は稀にしか起こらない(…)。なおこの愛し返し、したがってまた(…)我々を愛し・かつ(…)我々に親切をなそうと努める人に対して親切をなそうとする努力、は感謝または謝恩と呼ばれる。これからして、人間は親切に報いるよりもはるかに復讐に傾いているということが明らかになる。<(上巻 p.258, 第三部)

JRF2024/10/187661

「感謝」または「謝恩」の定義。ただ、このあたり日本人の感覚とは少し違うかな。自分が好意を受ける正当な理由があれば、愛の行為を受けても名誉に感ずるだけで、感謝はない…とするようだから。そういう場合も日本では感謝すると思う。私はそうだ。

JRF2024/10/188912

……。

>定理41 系 自分の憎む者から愛されていることを表象する人は、同時に憎しみと愛とに捉われるであろう。(…)

備考 この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。
<(上巻 p.258-259, 第三部)

「残忍」の定義。

JRF2024/10/189206

……。

>定理44 愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。<(上巻 p.260, 第三部)

愛を感じる部分と憎しみを感じる部分は別にあるのだが、愛が大きくなっていくと憎しみがどこかで氷解して、その分、愛に圧倒されるということのようだ。そういう人間心理があるとするようだ。

JRF2024/10/188077

……。

>定理47 我々の憎むものが滅ぼされたりあるいは他の何らかの害悪を受けたりすることを我々が表象することによって生ずる喜びは、同時にある悲しみを伴うものである。<(上巻 p.263, 第三部)

我々は存在しているという点、スピノザ理論では神に支えられている存在という点において、同類だから…ということのようだ。

JRF2024/10/187508

……。

>定理49 自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。

(…)

備考 この帰結として出てくるのは、人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対してよりも相互に対してより大なる愛あるいは憎しみをいだき合うということである。なおこれに感情の模倣ということが加わる。(…)
<(上巻 p.265-266, 第三部)

JRF2024/10/183954

自由意志(という幻想)の発露があると、そこに責任性を強く感じるので、その者への愛や憎しみが深くなる…ということのようだ。人間は自分達が自由だと思っているから、愛や憎しみも大きい…と。それに感情の模倣…現代風に言えばエコーチェンバーが加わる…と。

JRF2024/10/185780

……。

>定理50 おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる。

(…)

備考 (…)我々は希望するものを容易に信じ・恐怖するものを容易に信じないようなふうに、また前者については正当以上に・後者については正当以下に感ずるようなふうに生来できあがっている。そしてこれからして、人間がいたるところで捉われているもろもろの迷信が生じたのである。
<(上巻 p.266-267, 第三部)

「迷信」の出どころ。

JRF2024/10/181486

……。

>恐怖なき希望というものはありえずまた希望なき恐怖というものもありえない<(上巻 p.267, 第三部)

希望と恐怖の定義より言えるようだ。もう少し詳し説明を後述する。

JRF2024/10/181997

……。

>定理51 備考 (…)私が恐怖するのを常とする害悪を軽視する人を私は果敢と呼ぶであろう。その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう。その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。<(上巻 p.268-269, 第三部)

「果敢」「大胆」「臆病」「小心」の定義。「臆病」は以前に別の定義があった。

JRF2024/10/185350

……。

>定理51 備考 (…)後悔とは原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そしてこれらの感情は人間が自らを自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である(この部の定理49を見よ)。<(上巻 p.269-270, 第三部)

「後悔」「自己満足」の再定義。

JRF2024/10/187624

……。

>定理52 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有しないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。

(…つまり、特殊な点を有するもののみ印象に残り長く注目しがちである。…)

備考 精神のこうした変状[刺激状態]すなわちある個物についてのこうした表象は、それが単独で精神の中に在る限り、驚異と呼ばれる。

JRF2024/10/189792

もしそれが我々の恐怖する対象によって喚起されるなら恐慌と言われる。なぜなら害悪への驚異は人間がその害悪を避けうるための他のことを思惟することができないまでに人間をもっぱらその[害悪の]観想の虜[とりこ]にするからである。

だがもし我々の驚異するものがある人間の聡明、勤勉その他これに類する事柄であるとしたら、それによって我々はこの人間が我々をはるかに凌駕することを観想しているのだから、その驚異は尊敬と呼ばれる。

JRF2024/10/185441

そうでなくてもし我々が、ある人間に怒り、ねたみなどを驚異するのであれば、それは戦慄と呼ばれる。

次に我々が愛する人間の聡明、勤勉などを驚異する場合は、愛はまさにそれによって(この部の定理12により)いっそう大になるであろう。そして驚異あるいは尊敬と結合したこの愛を我々は帰依と呼ぶ。

JRF2024/10/186169

(…)

驚異に対立するものは軽蔑である。

(…)

帰依が我々の愛するものへの驚異から生ずるように、嘲弄は我々の憎みあるいは恐怖するものへの軽蔑から生ずる。また尊敬が聡明への驚異から生ずるように、侮蔑は愚鈍への軽蔑から生ずる。
<(上巻 p.270-272, 第三部)

「驚異」「恐慌」「尊敬」「戦慄」「帰依」「軽蔑」「嘲弄」「侮蔑」の定義。「恐慌」は再定義。

JRF2024/10/185793

……。

……。

なんと、ここで「ひとこと」の一ページ 300 コメントまでの設定に引っかかってしまった! 続きは↓。


《[cocolog:95101727] (承前) スピノザ『エチカ』を読んだ。(つづき) - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/10/post-c07bab.html

JRF2024/10/187052

修正 「この 100分 de 名著」→「 100分 de 名著」。
typo 「接合するについれて」→「接合するにつれて」。
typo 「あるとあらゆるもの」→「ありとあらゆるもの」

JRF2024/11/147927

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