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cocolog:95112803

スピノザ『知性改善論』を読んだ。神の真理から演繹的に得られた認識を社会に適用していくその姿勢に、現代では、経済における演繹的な定理があり(例えばヨーロッパなどには知られていて)、それを押し付けて、経済がコントロールされてるのではないかなどと妄想した。 (JRF 1610)

JRF 2024年10月26日 (土)

『知性改善論』(スピノザ 著, 秋保 亘 訳, 講談社学術文庫 2755, 2023年年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4065342767
https://7net.omni7.jp/detail/1107450961

JRF2024/10/263490

『知性改善論』は、『エチカ』([cocolog:95101663](2024年10月))と同じく、スピノザの生前には出版されず、スピノザの死(1677年)後すぐに出版された『遺稿集』に含まれる哲学書だが、書かれた時期は、前回([cocolog:95105758](2024年10月))の『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(『短論文』と略す)と同時期と見られている。『エチカ』と違って未完である。

『知性改善論』は『エチカ』の序文的性格があり、現代からすると自己啓発書的な題だが、基本的には、彼自身の唯一神的汎神論の神に連なる認識の完全性にいかに達するかを思考する本である。

JRF2024/10/269967

……。

『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2024/10/269253

『宗教学雑考集』、まずはアーリーアクセス版である第0.8版を2024年1月に出したのだが、そのとき、読むべきと買って積んでおいた本がいくつかあって、それをこれまでゆっくり崩してきた。その積んでいた本もあらかた崩してきた中で最後に残ったのがスピノザ『エチカ』関連の本だった。

100分 de 名著、エチカ、短論文の順で読んでいき、今回は『知性改善論』。あと買ってあるのは、『神学・政治論』で、それも近いうちに読む予定である。

JRF2024/10/269496

……。

前回までに知ったのだが、どうもスピノザは唯一神による汎神論を説き、ラプラスの魔の存在を認めるかのような決定論者のようだが、私は自由意志の存在を肯定するのに傾き、イデア界も割と肯定する有神論者でしかし東洋思想を基盤に持つシンクレティストである。私はスピノザの思想をそのような点から反駁を試みることが多い。

『エチカ』や『短論文』で出てきた議論は今回、基本繰り返さない。他の方が読む場合も、まず100分 de 名著 などの案内書を読んでからまず『エチカ』を読み、必要と感じたらこの『知性改善論』も読むという順序がいいのだと思う。

JRF2024/10/265199

……。

それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。

JRF2024/10/267425

……。

まずは最後にある「訳者解説」から読んだ。

>スピノザがこの著作で念頭に置いている読者は、ベーコンやデカルトの哲学に親しんだ人々であり、またこの著作固有の性格としては、こうした人々にも理解可能な仕方で、ベーコン的でもデカルト的でもないスピノザ独自の思想の領野に読者を招き入れ、さらにその領野を実際に歩ませるという性格を考えることができるだろう。<(p.139, 訳者解説)

JRF2024/10/263296

ここにも、カバーの裏表紙にも帯にもベーコンやデカルトを読んだ人が想定読者のように書かれていた。私はどちらもそれほど読んだことはないので、この本を読んでわかるのかと思ったが、ベーコンやデカルトの思想を「必要」とまでする部分はほぼなかったように思う。もちろん、私は大部分ちゃんと理解できてないので、ちゃんと理解したい人はそれらの哲学者の本も読んでおくべきなのかもしれないが、読んでないからこの本を読むべきでない…という感じではなかった。そう私は思った。

JRF2024/10/261379

そういう意味では、この新しい訳の本は、宣伝で、読者を減らしている面があるかもしれない。惜しい。

JRF2024/10/262218

……。

では、本編。

神(スピノザの汎神論的唯一神)を知り愛する最高の善、それがあれば、富・名誉・快楽の善も許されうるとするようだ。

>金銭の獲得や快楽、また名誉が害悪をおよぼすのは、それらがそれ自体のために求められる場合にかぎってのことであって、他のことがらへの手段として求められる場合には害悪とはならない、ということが分かった<(p.17)

スピノザの思想は割と功利主義的側面(や快楽主義的側面)を含むというのが、これまで読んだ本からわかっていたことである。現世肯定的なのだ。

JRF2024/10/264804

……。

人間の本性は、神=自然と合一して完全性を得ることができるという。

JRF2024/10/265212

>そのために必要なのは、[第一に]このような本性を獲得するのに十分なだけ、自然について知解することである。次に、できるだけ多くの人々が、できるだけ容易に、かつ安心してそこに至るために望ましい社会を形成することが必要である。加えて、[第三に]道徳哲学ならびに子どもたちの教育にかかわる理説に力をそそぐべきである。

JRF2024/10/265126

また、健康はこの目的に至る手立てとして取るに足らないものではないので、[第四に]医学の全面的な整備が求められる。さらに、技術によって多くの困難なことがらが容易になり、また私たちは生活のなかで多くの時間と便宜を技術のおかげで手にすることができるので、それゆえ[第五に]機械技術論も決して軽視されてはならない。

とはいえ、何よりも先に考え出されるべきなのは、知性がものどもを首尾よく、誤たずにそしてできるだけ最良の仕方で知解することになるように知性を治療し、また許されるかぎりはじめのうちにそれを浄化する様式である。
(p.19)

JRF2024/10/268354

『エチカ』で倫理は教育の強い影響を受けると述べていた。その教育を重視しながら、機械工業の資本主義社会で、福祉国家を目指す…という近代的な理想をすでにスピノザは持っていたということだろう。そこの道徳的理性宗教を新たに建てるというつもりもスピノザにはあったのかもしれない。

そのための生活規則としてスピノザは次の三つの原則を示す。

JRF2024/10/267154

>I 民衆の理解力に合わせて話すこと、また私たちのねらいを達成するさまたげにならないことなら、すべてこれを行うこと。というのも、できるだけ民衆の理解力に寄り添いさえすれば、私たちは彼らから少なからぬ便益を得ることができるし、そうすることによってさらに、彼らが真理を聞こうとしてより好意的に耳を傾けてくれることになるだろうからである。

II 歓楽は、健康を保つのに足る程度に享受すること。、

JRF2024/10/269542

III 最後に、貨幣その他いかなる財であれ、生と健康を維持し、また私たちのねらいに差し支えない社会の習俗に倣うのに足る程度にそれを求めること。
<(p.20)

「民衆の理解力に合わせて」または「啓蒙」について。「本当に頭がいい人とは、難しいことを易しく説明できる人だ」というようなことを否定する人が Twitter (X) にいた。

JRF2024/10/263680

《悠戯@迷宮レストラン:2024-08-21》
https://x.com/meikyu_R/status/1826221337247117349
>「本当に頭がいい人は素人にも分かりやすく説明できる」、あまりにもバカ側に都合の良い理屈すぎる。自分のバカさの責任を丸々相手に押し付けることができるこの論法、最初に考えた人は一周回って逆に賢いかもしれない<

JRF2024/10/262154

ただ、私は、「わかりやすく」説明することは大事だと思う。私はわかりやすくしようとしているのにできない愚か者なので、そう思う。また、わかりやすくなければ理解できない愚か者なので、また、そう思う。頭がいい人は、今後もわかりやすく説明していただけると大変ありがたい。そういう社会であって欲しい。どうか、お願いします。

とはいえ、すぐあとで疲労に関する議論が出てくるが、現代は SNS の活発なコミュニケーションのため、「わかりやすい」ようにしすぎると、疲弊してしまうという点はあるようには思う。難しい時代だ。

JRF2024/10/262499

……。

真なる認識のために別の認識が必要とされ、その認識には別の認識が必要とされ…といった無限後退に陥いる心配はないのだという。

>鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、そしてハンマーを手にするためにはそれをつくる必要があって、ハンマーをつくるためには別のハンマーと他の諸道具が必要であり、これらを手にするためにもまたさらに別の諸道具が必要となるだろう、といったように無限に続く。そして、誰かがこうした論じ方で、人間たちが鉄を鍛えるいかなる力も有していないことを証明しようとするなら、それは無駄な努力というものだろう(…)。

JRF2024/10/262178

実際のところは、しかし人間たちは手はじめに生来そなわった諸道具を用いて、いくばくかのきわめて簡単なものを苦労して不完全にではあるがつくることができたし、またこれらをつくりあげたのちには、それらに比してより困難な別のものどもを、より少ない労力でより完全につくりあげたのであって、このようにきわめて単純な作業から道具へと、またこれらの道具からさらに別の作業ならびに道具へと段階的に進んでいき、かくて[彼らは]多くの、そしてたいそう困難なものどもをわずかな労力で完成させるに至ったのである。

JRF2024/10/262500

それと同様に、知性もまた自らの生まれもった力によって、自分自身に対して知性的な諸道具をつくり与え、それらを用いて別の知性的な作業を遂行する別の諸力を獲得し、さらにこれらの作業からまた別の道具を、言うならば、なおいっそう探究を進める力を得て、かくて段階的に進んでいき、ついには智慧の頂に達するようになるのである。
<(p.31)

JRF2024/10/265667

100分で名著を読んだとき([cocolog:95075023](2024年10月))に、有限階の神という考え方を示した。神は無限であったとしても、超ひも理論が11次元なように、かつての天界が7天であったように、有限階で、この無限な世界すべてが操作可能とできるのかもしれない。我々が有限の手順で生来の知的「道具」から、神の認識に致るのは、その有限階の操作の現実的な(実存的な?)反映なのかもしれない。…と思った。

JRF2024/10/260745

[cocolog:95075023](2024年10月)
>神を創造した神を想像すると、そのまた神を創造した神を想像でき、これが無限後退に陥いる。逆に、そういった無限性の超越したところに唯一神を想定するということがある。

JRF2024/10/263125

しかし、[cocolog:95029217](2024年9月)で思い出したのだが、高階論理はどこまでも高階にする必要はなく二階で十分だということがある。[wikipedia:en:Pure Type System] でも、確かに、無限に型に型を付けたりできるようにもできるはずだが、しかし、別の階層から見れば、一つの固定された sort があればそういうことができたりする。そういう意味では有限階しか問題にならない。

JRF2024/10/260999

もしかすると二階とか有限階(7階?・11次元?)で、世界の創造(・管理)は記述できてしまうかもしれないのである。例えば、ある者がその下の階層をいじると、それがなぜかその者の上の階層もいじったことになる、その者自身をもいじったことになる…といったある種のループ構造を持つこともありうる。その者はある見方をすれば神であると言えなくもない。

JRF2024/10/260646

そういう「神」の中で、ある方向に階層が上の者が、本当の神かもしれない。

JRF2024/10/260602

……。

私たちが自らの完全性に至ることができるであろう最上の知得[様式]。そのために必要なことがいくつか挙げられるが、その一つとして…。

>第三に、私たちが諸々の無益なことによって疲弊していまうことがないように、順序を制定すること。<(p.42)

疲弊は若いころは無視しがちだが、大事な論点である。↓を思い出す。

JRF2024/10/261409

『宗教学雑考集 第0.8版』《レヴィナスの「他者」と「顔」》
>>
>師弟関係において目指されているのは、「主」そのものの来臨を願うことでも、「主」が語ったことばを「そのまま」再現することでもない。そうではなく、「主」のことばを「謎」として聴き取り、それによって点火された「モーセの欲望」を賦活させることなのである。始原の「欲望」を繰り返し再生させ、その「鎮めることのできない欠如」を媒介として「第三者」を召喚することなのである。(内田樹『他者と死者』p.93)

JRF2024/10/261801

私は《なぜ生きなければならないのか》で、二つの個体のうち一方が死んだとき、もう一方が「生きなきればならない」ようになると書いた。

この「生きなければならない」は疲れる。しかし、この「モーセの欲望」はそうではない。神が「生ける者の神」であるのは、このような「モーセの欲望」を点火し、人を生きさせるからかもしれない。

JRF2024/10/263050

《なぜ生きなければならないのか》の枠組みを延長しよう。安住の反作用の何かのパターンが「総体として生きたい」の根拠に最初はなっていたとしても、しばらくすると、それだけでは生きられなくなるため、別のパターンを根拠にしようとする者が出てくる。そのとき元のパターンに戻らないように新しい「他」のパターン=「別の仕方」にこだわったほうが生き残る可能性がどんどん増えていくだろう。このようなものが「総体として生きたい」を賦活する方法なのではないか。
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JRF2024/10/269668

……。

>キマイラ<(p.45)

『宗教学雑考集 第0.8版』《キメラ》ではトーテミズムと関連させて、キマイラ(キメラ)について語っている。

JRF2024/10/266576

『宗教学雑考集 第0.8版』《キメラ》
>ところで、スフィンクスについては、一つのなぞなぞがよく知られている。それは、「朝は 4本足、昼は 2本足、夜は 3本足。これは何か」という問題である。答えは「人間」である。

すなわち、このキメラ動物は、この謎によって対峙する者にこう答えているのである。

JRF2024/10/265678

「人間こそ道具を使うキメラ動物ではないか。人間という種が道具を使うに至るまでに長い時間が必要だったのではないか。」

「長い時間」というのは、進化に関わるほどの長い時間である。人の一生を一日で表す考え方の背後には、人の種が経た長い時間への示唆が隠れている。

JRF2024/10/269413

ところで、古代においてはもう二つ重要なキメラがあるように思う。それは、大地母神と馬である。

豊饒の女神の大地母神がキメラであるというのは、後に示すように大地母神デメテルが馬頭のキメラで表されたことをいうのではない。

それは、大地(地球)に女性器が付いて足があり又をひらいているというキメラのイメージだ。後にそれはイスラム寺院モスクのミナレットとしても残ったと思われる。それは、キメラ動物のもう一つの極、その最大のものである。

JRF2024/10/261236

「キメラ幻想遊び」のルールとしては、人であってはならない。そして、本当に産まれそうなものであってもならないが、「奥義」的には、大地もまた生命であり、そのルールに則している。そしてその意味するところは、大地(地球)こそすべての生物を産んでいるという思想である。しかも、それは頭がない=まるで考えない。しかし、様々な人生がそこにある。だからこそ、逆にそれが最も偉大な知恵と映る…。

そして異時間的なキメラ動物の幻想だったはずなのに、振り返ると「子宮墓」がすでに各地にある事実は、時間感覚を混乱させる。

JRF2024/10/262361

……。

>注意。神が実在するかどうかを自分は疑うという多くのひとがいるにしても、しかし彼らは[神という]名称以外の何ものも有していないか、あるいは彼らが神と呼ぶ何かを仮構しているのである。こうしたことは、私がのちに適切なところで示すであろうように、神の本性と合致しない(…)。<(p.47, 注)

仮構(想像)できるような神は神ではない…ということだろう。スピノザにとって。

JRF2024/10/264931

>ひとたび物体の本性を知ったのちには、私たちは無限に大きなハエを仮構することもできない。<(p.51)

「仮構」というのは、実体性を持って想像できることをいうようだ。猫がどういうものかわかっていなければ、羽の生えた猫という概念を示されると、そういう猫が「いるかもしれない」と信じこむことができる。実在性を持って信じこむとはそういうことで、それがスピノザのいう「仮構」であるようだ。

JRF2024/10/263475

だとすると、「こういう形や能力を持った神がいるかもしれない」という仮構は、神の本性である唯一性や汎神論性を知ったのちにはできない…というのが上で言いたいことだったのだろう。

JRF2024/10/266666

……。

>*48 デカルト『省察』の次の文を参照。「私の外ではおそらくはどこにも実在しないとするにもせよ、しかし[それでも]無であるとは言われることのできない或るもの[ども]の無数の観念[ども]を、私が私のうちにおいて見つけ出す(…)」<(p.114, 訳注)

私は『宗教学雑考集 第0.8版』《我思うゆえにありうるのは我々までである》でデカルトを批判したように思っていたけど、デカルトは当然のようにそのレベルを超えていた…ように読める。デカルト『省察』も読まないとダメか…。

JRF2024/10/266997

……。

神から出発した演繹を繰り返していれば、疑いは生じない。だから…

>疑いはつねにものどもが順序を踏まえずに探究されることに起因する、と結論づけられる。<(p.70)

しかし、私はそうは思わない。神の真理は演繹を無限に繰り返すような「無限論理延長」にあり、そこを窓から覗くようなことしか人にはできないと思う。ところどころ窓から覗いているだけなら、当然に、知る順序が逆になるようなことはある…と思う。

JRF2024/10/266876

そうでないとすれば、上で私が述べた「有限階の神」的なことが、自分もできる…少なくとも知るという面においてはできる…という想定が、スピノザにあるように思う。それは僭越に過ぎるのではないかと私は思うのだが。

JRF2024/10/269181

……。

>古代の人々が語っていたこと、すなわち真の学知は原因から結果に進むというのと同じである -- ただし、私の知るかぎり、彼らはここでの私たちのように、魂を一定の法則に従ってはたらきをなすものとして、またいわば一種の精神的自動機械として考えることが決してなかったという点を除くけれども。<(p.74)

スピノザは前から決定論者であったが、魂まで「自動機械」と言い切ってしまうんだね。

JRF2024/10/265965

……。

>私たちは、諸々の表象が産出される、右に見た様々なはたらきが、知性の諸法則とはまったくことなる別の諸法則に従って生じること、ならびに魂が表象にかんしてはもっぱらはたらきを被るというあり方のみを有すると知った(…)。<(p.75)

ここの引用とはあまり関係ないが、スピノザがいうような、演繹的思考について。世の中、特に技術は演繹的だということを私は思う。

JRF2024/10/260399

あたり前だというかもしれないが、そうだろうか? 核兵器が、ものすごいシミュレーションをもとに開発されているというとき、私たちは、何か、世界シミュレーションのものすごいものがあって、その中で、実際の爆発と寸分違わぬ爆発を起こさせて、仮想実験してる…みたいに思ってなかっただろうか? 私は思っていた。

JRF2024/10/263677

しかし、どうもそういうことではない。シミュレーション科学というのも案外発展していないし、コンピュータの計算量も実際の核実験が行われなくなった90年代・2000年代まではそんなに大きくなかった。

そこでなされているのは、経験則を含むかもしれないが、演繹的な方法に過ぎない。

JRF2024/10/268015

兵器などに使われる工学技術もそうだ。目標があって、そこから帰納的に何かができるというよりも、技術があって、それを演繹的に適用できる分野を発見して、それを詰み上げて、そのあとで需要を作り出している…というほうが実際に即した物の見方だと思う。50代、このトシになっていろいろ見てきた結果、もうそうだったとしか考えようがない。

JRF2024/10/263676

生命保険数理とかもそうなのだが、確かに秘密にされている方則はあると思う。陰謀論に近くなるが、経済における演繹的な定理があり(例えばヨーロッパなどには知られていて)、それに沿うように、経済がコントロールされてる面があるのではないか…と私はほとんど信じるようになっている。

JRF2024/10/268641

なぜなら、巷で市場に影響するはずの情報が出回っているのに、そういうものには少ししか反応せず、例えばアメリカにとって都合のよいときだけ、理論通りに反応するみたいなものをずいぶん見てきたからだ。例えば、昨今の物価安定の日本での円安もそうだ。今は金利差が問題になっているが、ちょっと前までは多少の金利差があっても円高になっていたりしたものだった。

JRF2024/10/268642

ここにも何か演繹的な定理があるのだと邪推する。もちろん、自然はそんなに演繹的でない。でも、経済とか演繹的にできる部分も大きいのだろう。そういうのがスピノザの時代から・産業革命の前から、はじまっているのかもしれない。

そういえば、カントにはじまるドイツ観念論(参: [cocolog:95043079](2024年9月))でも、自然に(演繹的に)法則を押し付けていくという方向性があった。

JRF2024/10/262385

ところで、AI (LLM) は、チョムスキーの普遍文法もすっとばして学習していく、帰納的知性であり、おそらく早晩その知性はあらゆる人間を超えるだろう。演繹にかならずしもよらない帰納的知性・機械を組み込んだ社会はどこに向かうのだろう?

JRF2024/10/268381

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