cocolog:95075023
國分功一郎『100分 de 名著 2018年12月 スピノザ「エチカ」』を読んだ。高階論理が二階で十分なように、神は無限といっても有限階(七天? 11次元?)で創造や管理を記述できるのではないか…とか私は考えた。 (JRF 2565)
JRF 2024年10月 1日 (火)
『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2024/10/10732
『宗教学雑考集』、まずはアーリーアクセス版である第0.8版を2024年1月に出したのだが、そのとき、読むべきと買って積んでおいた本がいくつかあって、それをこれまでゆっくり崩してきた。その積んでいた本もあらかた崩してきた中で最後に残ったのがスピノザ『エチカ』関連の本だった。スピノザ『エチカ』とこの 100分 de 名著、そして、スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』である。
それを 100分 de 名著、エチカ、短論文の順で読んでいく予定である。今回はその最初の 100分 de 名著。テレビ番組の解説として書かれた『エチカ』案内といったおもむきの本である。
JRF2024/10/10289
正直なところ、この解説が、少ない紙面ということもあってか、かなりスピノザの思想に偏り、そこからの客観性が薄れているように感じて、かなり反感を持って読んだ。特に自由意志論は、かつては私は、中立的な立場だったが、年齢を重なって細かな論証が難しくなるにしたがい、自由意志を認める立場に軸足を移していることもあって、著者らの反自由意志論については、苦々しく読んだ。
JRF2024/10/15472
もし、奇特な若い読者が私のこの「ひとこと」を読んだなら、私の論証よりも著者の論証のほうがもっともらしくきっと感じるだろうが、しかし、自由意志論争というのは古代から続く決着のつかない論争で、この著者やスピノザ「ごとき」の意見で決定できるものでないことは知っておいて欲しい。
JRF2024/10/16223
自由意志論争に対して以前私が書いた論考は↓。
《自由意思と神の恩寵 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html
それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。
JRF2024/10/15318
……。
>『神学・政治論』。スピノザが『エチカ』の執筆を中断して書きはじめ、1670年に匿名で出版した著書。最初の15章(神学の部)は、聖書を学問的に研究することで、信仰の本質は神への服従であり、真理の探究は理性に委ねるべきだと示した。残りの5章(政治論の部)では国家の目的は自由であり、最善の国家は最高権力を担う会議体が全民衆によって構成される民主国家であると主張した。<(p.10, 注)
JRF2024/10/13261
「国家の目的は自由」とは私もよく主張するところである。ところで私は『神学・政治論』は読んだことがあったはずだが、過去のメモに残ってないことを考えるとかなり以前に読んだのかもしれない。そして、そのことを忘れたにもかかわらず、「国家の目的は自由」というのを自分の主張にしてしまったのかもしれない。よくあることではあるが…。
「国家の目的は自由」ということについては↓など。
JRF2024/10/16764
大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか』を読んで([cocolog:94987854](2024年8月))
>>
国家は自由と敵対するものではなく、むしろ国家により自由が保障されるのだ…ということについては、「国家自由主義」的な価値観として次のような話をよくする。
JRF2024/10/19141
[cocolog:91758418](2020年3月)
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<
JRF2024/10/11248
これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。国家自由主義。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。
これがポパーの場合、『開かれた社会とその敵』において、ウォークマンではなく自転車を買う自由が問題となったようで、「国家自由主義」に相当する主義はまぎらわしい名前だが「保護主義」と呼ばれていた。
JRF2024/10/17204
ヘーゲルの場合は、「欲求の体系」を問題として自由を語り、国が自由のためにあるとするのは私やポパーに似ている。ポパーはヘーゲルを全体主義の御用学者として強く非難するけれども。
<<
JRF2024/10/18727
……。
エチカの最後の部分に書かれた「無知者」に関して。
>「無知者」は外部から何か「働き」を受けるとぞろぞろ動き出すけれども、それがいったん終わればすぐにいなくなります。そのことを指してスピノザは、彼らは「存在することをやめる」と言っているのです。この一節を読むたびに私は、誰かが批判され始めると、どこからともなく湧いてきた連中が事情もよく分からないままそのトレンドに便乗して罵倒の言葉を吐き、すばらくすると何ごともなかったかのように消えていく -- つまり「存在することをやめる」 -- インターネット上の炎上のような現象を思い起こさずにはいられません。<(p.20)
JRF2024/10/17922
アサシンクリード シャドウズについての・弥助問題についての最近の炎上を思い出す。そこには私も参加して、その経緯を↓にまとめている。
《サーベイ: 弥助問題: 日本で黒人奴隷が流行した? - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6052557
JRF2024/10/18405
その炎上では「学者」も批判されていた。学者は目立つから批判される側になりがちで、だから炎上を苦々しく思うのだろうが、しかし、炎上の一員としてしか議論に参加できない私などからすると、そこには一定の理があり、批判としてまともなものも相当数含まれる。そして炎上の中で「仲間」のような人を発見しフォローする大事な機会ともなる。
JRF2024/10/10026
上記炎上も、学者が実際に議論に現れた後は、すみやかに炎上が収束していった。理はかなりの範囲に通ずるのである。もちろん、理の通じない者もその後もいたけれども。それを「炎上」とだけ捉え、すなわち悪ととらえられるのみなのは、悲しい。
JRF2024/10/10660
……。
スピノザは一神教的汎神論に立つ。
>スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。<(p.22)
JRF2024/10/11053
『宗教学雑考集 第0.8版』《聖霊と撤退する愛》で紹介したモルトマンの自発的に収縮した神を思い出す。私は神に外部がないとは思わない。神は人の自由意志をおかすことを思い留まることがある。そこを神は外部として留め置くのだ。この辺はエックハルトにも似た思想があった([cocolog:94778956] 2024年4月)。
無限というのも現代数学では決して一つではない。まぁ、スピノザの有限・無限の概念は現代数学とはずいぶん違うが。だから無限だからあらゆる面で限界がないということにはならない。無限の可能性を持っているからといって、実際に無限に介入しはしない。
JRF2024/10/12777
端的にスピノザは間違っていると思う。または、一つの信仰に過ぎないと思う。
JRF2024/10/13169
……。
神を創造した神を想像すると、そのまた神を創造した神を想像でき、これが無限後退に陥いる。逆に、そういった無限性の超越したところに唯一神を想定するということがある。
しかし、[cocolog:95029217](2024年9月)で思い出したのだが、高階論理はどこまでも高階にする必要はなく二階で十分だということがある。[wikipedia:en:Pure Type System] でも、確かに、無限に型に型を付けたりできるようにもできるはずだが、しかし、別の階層から見れば、一つの固定された sort があればそういうことができたりする。そういう意味では有限階しか問題にならない。
JRF2024/10/14506
もしかすると二階とか有限階(7階?・11次元?)で、世界の創造(・管理)は記述できてしまうかもしれないのである。例えば、ある者がその下の階層をいじると、それがなぜかその者の上の階層もいじったことになる、その者自身をもいじったことになる…といったある種のループ構造を持つこともありうる。その者はある見方をすれば神であると言えなくもない。
そういう「神」の中で、ある方向に階層が上の者が、本当の神かもしれない。
JRF2024/10/11548
ただ、原理上、そういう「神」は、お互いに意志をもって触らない部分があったりすると共存できるため、多神教的(多天使的)でもあってもよい。その上の者が唯一神ともできるが、そういうのはユダヤ教のスピノザは嫌ったであろう。
または、そういう多天使的な中で、人類や自分を構成するキッカケとなった者は特別視できる。それはイエス的で、キリスト教に傾くから、それもスピノザは嫌ったであろう。
JRF2024/10/10189
このような記号論理学的な神ではなく、『宗教学雑考集 第0.8版』《鬼神論》でいう「鬼・神は起・信なり」の神が、しかし、言語的に一つの実体としてあまり矛盾を生じないところに偶然現れる神というのもありうる。このような、言語上の神は上の有限階の神の亜種と言えよう。ユダヤ教の神はここに本来は近いのかもしれない。しかし、それはスピノザのいうような(数学的・幾何学的)無限性・無機性を必要としないと思われる。
JRF2024/10/12297
……。
>エチカの語源はギリシア語の「エートス ethos」なのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。<(p.24-25)
「倫理」にはそもそも一所懸命的な意味が含まれるということか…。
JRF2024/10/11869
……。
『エチカ』第一部「神について」の冒頭の定義は次のような文からはじまる。
>一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する<(p.26)
「自己」への言及を含む定義は、定義として正しいのか? 「我思うゆえに我あり」もそうだが、自己は、その文自身への言及になることもあり、無矛盾といえるかわからず単純には well defined といかない。それはそれとして…。
JRF2024/10/17370
ある本性がある…というのは、集合に属している、または型付けされているということで、その本性が存在するというのは、型や集合の典型が実在する…ということがいいたいのだろうか。でも、ここの「自己原因」とは唯一神への言及だからそういうことではあるまい。逆にいうと典型というのは、本来は実在せず、概念上のもので、それが実在するとすればそれはイデア界でしかない…といいたいのかもしれない。
そして、汎神論のスピノザにとって、イデア界は神の脳のうちにしかないのだろう。イデア界がこの汎神論的世界と重ならないためには。
JRF2024/10/17353
ただ、現実のところ、もっとも典型的なものは実在している。そこから構築できる世界観もあるのだろう。スピノザはそこを目指さないというだけで。
なお、Gemini さんに聞いたところ、スピノザはイデア界のような、現実に超越した理想的な世界が存在するという考え方は否定していたとのこと。精神は物質的基盤を持つと考え、ある種の唯物論であったそうだ。
JRF2024/10/12868
……。
『エチカ』第一部「神について」冒頭の定義のすぐあとの公理の第一。
>一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。<(p.27)
しかし、これには内と外の境界の存在が前提されている。統計的実体・確率的実体において、だいたいの境界しか言えないことはしばしばある。自らがそういうものは、それ自身のうちに在るとか、他のもののうちに在るとか言えない。確率的実体とは違うが、上の有限階のループ構造を持つ神なども、そういうものの一種だろう。わかりやすくは↓の神は確率的でありループ的であろう。
JRF2024/10/14690
『宗教学雑考集 第0.8版』《始源論》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。<
JRF2024/10/18166
……。
>岩波文庫版だと上下巻で、下巻は第四部から始まっています。私が提案したい読み方は、下巻から読むことです。第四部の序文が、ちょうど『エチカ』全体の序文として読むこともできる内容になっているからです。ここを出発点にすると読みやすいだろうと思います。<(p.28)
私が『エチカ』をこの後読むときは、上巻の訳者解説を読んだあと、序言のない第一部・第二部を除き、第三部・第四部・第五部の序言を先に読むことにしよう。そののちは第四部ではなく、第一部に戻るであろう。
JRF2024/10/15291
……。
障害がある者も存在としては完全であるから、完全/不完全というのはないというのがスピノザでそれはそれで一つの見識ではある。
>自然界に完全/不完全の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは言います。<(p.31)
しかし、それでは倫理は構築できない。一人の人間にとってまたは集団にとって善い悪いを次のように定義する。
JRF2024/10/14917
>我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるもの[…]、言いかえれば[…]我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。<(p.34)
活動能力を増大すると言えば軍拡などはどうなるのだろう? それは必ず善とは言いがたい。むしろ、減少させるのが善となる。増大も減少も善なら、それは善の基準にはなりえないのではないか。
JRF2024/10/18145
スピノザ的自由がこの先説明されるが、より自由なのがより完全であることとしても、何が完全なのか、「私の完全性」がどのように仮定されているで話が変わる。そのようなものを集団に適用するのに「社会契約」を持ち出せるのだろうか? 先に何が善というのが決まらないと社会契約もできないのではないか?
私の場合、まず、善については…、
JRF2024/10/19591
『宗教学雑考集 第0.8版』《善》
>現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。<
…として自然に本来の善がありうることを認める。
JRF2024/10/14023
逆に悪は
『宗教学雑考集 第0.8版』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<
…としてある意味本来の悪はないとする。
JRF2024/10/12971
しかし、善も上のままでは何の基準もない。そこで私は仏教的立場という特種な立場ではあるが、そこにおいて「本目的三条件(「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」)」が社会の最適化の基準つまり何が善いかという基準になりうることを唱えている。
JRF2024/10/17071
……。
本質を形として捉えた「エイドス eidos」に対し、スピノザは本質を「コナトゥス conatus」と捉えた。
>コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオタシス)の原理に近いと考えればよいでしょう。<(p.39)
JRF2024/10/15971
おそらく原子論よりも、すべての物を尽き詰めていくと(脳の意識の働きも)、力の流れが作用しあっているような還元主義的世界観をスピノザは持っていたのではないか。ラプラスの魔のように究極的には「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」([wikipedia:ラプラスの悪魔])と考えていたのだろう。
JRF2024/10/18597
しかし私は確率や乱数こそ本質的だという世界観を持っている。量子力学を持ち出すまでもなく、サイコロは完全にランダムなもので、そのランダムさは、そのすべてを記述する方法が現実的に存在せず隠されていることによる。その「隠蔽」が世界構造を作ると考える。
JRF2024/10/17769
……。
>スピノザは、力としての本質が変化しながらたどり着く各々の状態が、欲望として作用すると言っているわけです。<(p.45)
散逸構造とかストレンジ・アトラクターの図などを思い浮かべる。
JRF2024/10/12843
……。
>人間が反応できる刺激の数は限られています。あらゆる刺激に反応していたならば、精神はパンクしてしまいます。しかし他方で、多くの刺激に反応できるようになれば、それは必ずや人生を豊かにしてくれます。<(p.49)
ネットの炎上という刺激についてもそうなのだろうか? ここでは著者はそれを想定してないと感じる。炎上対象になったことのない私は私が参加できる炎上もプラス評価するのだけれども。
JRF2024/10/15966
……。
p.67 のスピノザの自由の定義。そのポイントは二つある。
>一つ目は、必然性に従うことが自由だと言っていることです。(…)自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。
(…)
(…例えば…)腕は可動範囲を持ち、その内部には一定の構造がある。これらの条件によって、腕の動きは必然的な法則に課されています。それを飛び越えることはできません。むしろ、腕を自由に動かしていると言えるのは、その必然的な法則にうまく従い、それを生かすことができている時です。
JRF2024/10/17667
(…)
実験を重ねる中で、自らの身体の必然性を知り、すこしずつ人は自由になっていくのです。
<(p.68-69)
>自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対の概念が「強制」であることです(…)。
(…)
強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。(…)外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。
<(p.71)
JRF2024/10/15284
>自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。<(p.79)
例えばカツアゲは、受動的であっても、能動的な部分がないわけではない。
JRF2024/10/17306
>ここから分かるのは、行為における表現は決して純粋ではないということです。ですから、純粋に私の力だけが表現されるような行為を私が作り出すことはできません。つまり私は完全に能動的になることはできません。いつもいくばくかは受動であるのです。なぜなら私たちは周囲から何らかの影響や刺激を受け続けているからです。完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけです。神は完全に能動です。<(p.79-80)
完全に自由な神に近付くゆえに自由は善いこととも言えるということだろう。
JRF2024/10/17228
>完全な自由はありえません。しかし、これまでよりすこし自由になることはできる。自由の度合いをすこしずつ高めていくことはできる。<(p.80)
JRF2024/10/12159
……。
スピノザは自由意志論を否定する。
>例えば人間が自らを自由であると思っているのは、〈すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、〉誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。<(p.83)
JRF2024/10/14908
知らないということ・「隠蔽」ということが本質的なのだ。本質的というのは、神は知りうるがお知りになろうとしない部分があるということだ。サイコロの目がどうなるかということまで神は知れるが知ろうとしない。そこに自由意志の余地がある。
JRF2024/10/10880
……。
オブジェクト指向プログラミング言語の中には、private の機能があるものがある。通常クラスの変数は public で、誰からも参照できるが、private 変数は、他者からは参照できず隠蔽される。しかし、違いはそれだけなので、作ろうと思えば private を使わずとも同じプログラムは作れる。private があるかのように「シミュレート」はできる。
JRF2024/10/10507
しかし、private がない前提で作ったプログラムより、private が使われたプログラムは手続きの考慮が必要となり、複雑になることが多い。にもかかわらず private 機構が使われるのは、プログラムの見通しが良くなり、間違いが減るなどするからである。
サイコロの実際の動作は、この private な領域にあると考えることができる。もちろん、隠蔽された外から、確率的なものとしてシミュレートはできる。巨視的にはそれで問題ないことも多いが、しかし、その個々のサイコロを使う者にとっては、隠蔽されて得られた結果のみが重要になる。
JRF2024/10/14017
世界はシミュレートで顕わになる部分ではなく、隠されたものを隠されたものとして扱うところに構成される。量子力学を持ち出すまでもなく、世界の「記述」または「操作」は、記述的・命令的でさえあれば、原理的に隠された領域・汲み尽くせない領域を含むのだ。上で有限階の神を語ったが、有限階の神の操作も記述的・命令的である限り、隠された領域・汲み尽くせない領域を含むだろう。
JRF2024/10/11715
……。
神が自由意志というプライヴァシーを人に認めるように、人は、神がやろうとしていることがわからず隠されているという意味でのプライヴァシーをしばしば神に認める必要がある。
神は人を通じて、または被造物を通じて事物を表される。被造物が神に関しての予言・預言をするとき、その成就は神と被造物を上げ、失敗は、被造物を下げる (参: 『宗教学雑考集 第0.8版』《易の小集団主義》)。それによって神の本当の創造意図は隠される。つまりある種の private 変数、神のプライバシーが成立する。
JRF2024/10/12875
論理学的・数学的な表記は難しく、それを人に読みやすくするためにシンタックス・シュガー(構文的糖衣)がしばしば使われる。有限階の神に関する記述もシンタックス・シュガーがあってはじめて一般人に理解できるものとなるであろう。王を卑下しないような言葉遣いがシンタックス・シュガーとなって、神が隠していることを隠すことを可能にするなどするのだろう。神のプライヴァシーが「言葉の上で」または「言語上で」成立するというゆえんである。
JRF2024/10/12865
……。
旧約聖書的な唯一神性はどこから出てくるか?
無限階を有限階に縮めたのが良いことであったとすると、有限性を最小にしたものとして一神に縮めて解釈することはそれが可能なら良いことであるという価値観があるということだろう。
JRF2024/10/10924
その一神は本来は論理学的・数学的に抽象度の高い概念としてしか表現できないのかもしれないが、それを『宗教学雑考集 第0.8版』《鬼神論》でいう「鬼・神は起・信なり」の神[シン]的なものとして現象させるために、上の神のプライヴァシーで述べたような private 的な言語上の技術が用いられたのだろう。private を使えるプログラミング言語が作られるプログラムの性質を決めることがあるように、言語の制約が、神を彫刻した面もあるのだろう。
JRF2024/10/10346
……。
>意志が一元的に決定しているわけではない<(p.87)
意志は決して一元的ではない。個人にも多元的な意志の発生源がある。
JRF2024/10/17183
……。
スピノザは真理が真理自身の基準であるという。自由になっていく人が能力を付けていくように、真理を知る能力を付けていくことが想定されている。真理を知れば自由になるということでもあるだろう。
JRF2024/10/13913
>では真理が真理自身の基準であるとはどういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないということです。ここだけ聞くと納得できないかもしれません。しかし、先ほどの簡単な思考実験で分かったのは、真理の真理性を証し立てるものを真理の外側に見出すのは不可能だということでした。<(p.98)
JRF2024/10/17669
Pure Type System ぐらいの高階論理になると、一階述語論理で言えた完全性などが言えなくなってくる。つまり、真理性は不明になると言える。しかし、そのシステムは方法・法則的であって、その手続きによって、得られるものに有意味性を見出せる。真理の真理性ではなく、方法的有用性があれば十分なことはしばしばある。著者に言わせれば、それは近代が選んだデカルト的な方向で、スピノザはオルタナティブだということのようだが。
JRF2024/10/19133
……。
スピノザより36歳年長のデカルトは主張した。
>「我思う、ゆえに我あり Cogito, ergo sum」<(p.99)
この近代の基礎については私は反論があって、『宗教学雑考集』の最初で取り上げることになる。
JRF2024/10/12200
『宗教学雑考集 第0.8版』《我思うゆえにありうるのは我々までである》
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。
我々は必ずしも思いどおりにならない「私」達の集りで、ならば、「私」は「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起ち上がったとき、我々も存在していたと気づくに過ぎない。
JRF2024/10/18105
「我々」というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。我々を境界して私になる…境界に意味がある。他と違う比較的自由に意味がある。所有=己のものというのも境界としてちゃんと意味がある。
<
JRF2024/10/10007
……。
>「主体の変容」が自分を高める
スピノザの哲学が何かを理解する体験のプロセスをとても大事にしていることが分かるでしょう。何かを認識し、それによって自分の認識する力を認識していく。このように認識には二重の性格があります。スピノザはそこに力点を置きました。このような真理観はある意味で密教的と言えるかもしれません。真理とそれに向かう自分との関係だけが問題にされているからです。
<(p.106)
JRF2024/10/15664
自分そのものがそれほどハッキリした存在ではないというのが私の言いたいところだろう。確率的にしか捉えられないもの、隠蔽があるとしか言えないもの、がある。しばしば、確率的なもの・偶然的なものは隠蔽を通して抽象的にしか捉えられないということもある。隠蔽されているものは、シミュレーションすれば確率的ということになる。
だから何だと言われると、まだ困るだけなので、今後考えていきたい。
JRF2024/10/11326
『100分 de 名著 2018年12月 スピノザ「エチカ」』(國分 功一郎 著, NHK出版, 2018年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/414223093X
https://7net.omni7.jp/detail/1106938003
JRF2024/10/18655