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(承前) スピノザ『エチカ』を読んだ。(つづき) (JRF 9986)
JRF 2024年10月18日 (金)
……。
……。
>定理55 精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。
(…)
備考 我々の弱小の観念を伴ったこの悲しみは謙遜[自劣感]と呼ばれる。これに反して、我々自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。そしてこの喜びは人間が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから、したがってまた各人は、好んで自分の業績を語ったり、自分の身体や精神の力を誇示したりすることになり、また人間は、このため、相互に不快を感じ合うことになる。
<(上巻 p.274-275, 第三部)
JRF2024/10/180825
「謙遜(自劣感)」「自己愛(自己満足)」の定義。
自分語りはダメなんだが、私はよくやってしまう。その辺、変にプライドがあるのと自劣感があるのとが同居している。プライドがあるのにそれを支えるものが脆弱だからプライドがある分、逆に自劣感も生じている…ということかな?
高田純次さんの名言として「年を取ってからやってはいけないことが3つある」それは「説教」「昔話」「自慢話」。…というのを Twitter (X) ではよく見るね。
JRF2024/10/180682
……。
>定理55 系 備考 (…)我々はある人の聡明、強さなどを驚嘆するためにその人を尊敬すると言った場合、そのことは(その定理自身によって明らかなように)それらの徳がその人に特有であって我々の本性に共通したものでないことを我々に表象するゆえに起こるのである。したがって我々はその人をそれらの徳のゆえにねたみはしないであろう。あたかも樹木をその高きがゆえに、また獅子をその強さがゆえにねたまないと同様に。<(上巻 p.277, 第三部)
JRF2024/10/181255
我々より優れた者はねたむものなのであるが、ねたみを生じない場合がある。それは、その者を自分と同等でない者と見る場合である。住む場所が違うと思っていれば、ねたみは生じない…ということのようだ。
JRF2024/10/184671
……。
>定理59 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。<(上巻 p.283, 第三部)
定理1で妥当な・能動的な感情というのは、だいたい神に関する感情であるということを言った。それら以外は受動的な感情で働きを受ける一方なのに対し、それらのみが能動的に働きをなすのだ。…と。
そこには自らの完全性を毀損するような「悲しみ」はありえない…ということのようだ。
JRF2024/10/184436
……。
>定理59 備考 妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を、私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁に分かつ。勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する。
JRF2024/10/182118
かくのごとく私は、行為者の利益のみを意図する行為を勇気に帰し、他人の利益をも意図する行為を寛仁に帰する。ゆえに節制、禁酒、危難の際の沈着などは勇気の種類であり、これに反して礼譲、温和などは寛仁の種類である。
<(上巻 p.284, 第三部)
「精神の強さ」「勇気」「寛仁」の定義。「節制」「禁酒」「沈着」「礼譲」「温和」に定義とまで言えない言及がある。
JRF2024/10/182630
……。
以上でだいたい感情理論は出そろったが…。
>愛についてまだ注意することが残っている。(…)例えば、その味が我々を楽しませるのを常とするある物を我々が表象する時(…)食うことを欲する。ところがそれをこうして享受する間に胃は充実して、身体は別様な状態に置かれる。(…)さきに我々の衝動の対象であった食物の現存が今は厭わしくなるであろう。これは我々が飽満および厭悪と呼ぶところのものである。
JRF2024/10/181153
そのほかもろもろの感情において見られる身体の外的諸変状、例えば震え、蒼[あお]ざめ、すすり泣き、笑いなどは割愛した。それらは単に身体のみに関係し、精神とは何の関係も持たぬからである。
<(上巻 p.285-286, 第三部)
「飽満」「厭悪」の定義。その他、身体的な変状は割愛するとのこと。
JRF2024/10/187197
この前の部分に書かれているが身体的感情以外にも、感情はスピノザが挙げた以外にも無数にあるとスピノザはちゃんと書いている。名前のない感情も感情理論からはいくらでも導ける。そのうち名前のあるもののいくつかで目ぼしいものをスピノザは挙げた。…ということのようだ。
ここから第三部は諸感情の定義をおさらいしていくことになる。だいたい割愛するが、新しい記述は言及しよう。
JRF2024/10/188390
……。
新奇な物は、他の感情から離されてある。他の感情がないがゆえに驚異が起こる。
>定義4 説明 (…)この理由によって私は驚異を感情の中に数えないし、また数える理由も認めない。<(上巻 p.289, 第三部)
この点、訳注によるとデカルトなどは「驚異」を基礎的感情と位置付けていて、そことの異同の説明がスピノザに求められ、こういう説明になっているようだ。私は「驚異」は「喜び」「悲しみ」「欲望」とは別の「感情」であるというほうがわかりやすい気はする。
JRF2024/10/184765
……。
>定義8 好感とは偶然によって喜びの原因となるような物の観念を伴った喜びである。
定義9 反撥とは偶然によって悲しみの原因となるようなある物の観念を伴った悲しみである。
<(上巻 p.291, 第三部)
「好感」「反撥」の定義。
JRF2024/10/187224
……。
>定義12・13 説明 これら(…希望と恐怖…)の定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる。なぜなら、希望に頼ってある物の結果につき疑っている人は、その未来の物の存在を排除するあることを表象し、かくてその限りにおいて悲しみ(この部の定理19により)、したがって希望に頼っている間はその物が出現しないことを恐れもしている、と認められるからである。
JRF2024/10/182272
これに反して恐怖の中に在る人すなわち憎むある物の結果について疑う人は、同様にその物の存在を排除することを表象し、かくて喜び(この部の定理20により)、したがってその限りにおいていまだその物の出現しないことを希望してもいるのである。
<(上巻 p.293, 第三部)
恐怖と希望の共起性の関係について、後述すると述べた説明がここにある。
JRF2024/10/184480
……。
>希望していたことが実現する見込みのついたのが安堵であり、希望と反した悪いことが起こったのが落胆であり、恐怖していたことの実現することが明らかになったのが絶望であり、恐怖していたのと反対の善いことが起こったのが歓喜である。<(上巻 p.355, 第三部訳注)
「安堵」「落胆」「絶望」「歓喜」の訳注によるわかりやすい対比をここに挙げておく。
JRF2024/10/187156
……。
「ねたみ」の定義の再掲載のあと…。
>定義23 説明 ねたみには通常同情が対立させられる。しかたって同情を言葉のもともとの意味から離れて次のように定義することができる。
定義24 同情とは他人の幸福を喜びまた反対に他人の不幸を悲しむように人間を動かす限りにおける愛である。
<(上巻 p.296, 第三部)
「同情」の定義。
JRF2024/10/188661
……。
>定義27 説明 (…)ここに注意すべきことがある。それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。
JRF2024/10/181774
このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって涜神[とくしん]的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このように各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもし誇りもする。
<(上巻 p.297-298, 第三部)
教育が作る善悪や感情。当然それらに文化的違いがある。
JRF2024/10/184242
……。
>定義28 説明 (…)何びとも自分への憎しみのために自分について正当以下に感ずることはない(…)<(上巻 p.298, 第三部)
これは、「できない」からといって比較対象がなければ、その「できなさ」について気に病むことは本来ない…ということのようだ。たぶん。だから、他者が絡んでくると事情が変わってくる。
JRF2024/10/184755
>定義28 説明 (…)しかし単に他人の意見のみに関する事柄を眼中に置くなら、我々は、人間が自分自身について正答以下に感ずるということもありうることを考えうるであろう。例えばある人が悲しみをもって自己の弱小を観想し、他の人々が少しも彼を軽蔑しようと思わないのに自分がすべての人から軽蔑されるように表象するということはありうるのである。
JRF2024/10/186351
そのほか人間は不確実な未来に関して現在の瞬間にある事を自分自身について否定する場合に、自分について正当以下に感ずることができる。例えば自分は何も確実なこをと考えないし、また悪いこと賎[いや]しむべきことしか欲しあるいはなすことがっできないなどという場合のごときである。
最後にある人が自分と同等の他の人々のあえてなすようなことも、恥辱に対する過度の恐れからあえてしないのを我々が見る時に、その人が自身について正当以下に感じていると我々は言うことができる。
JRF2024/10/185223
そこで我々はこうした感情を高慢と対置させることができる。この感情を私は自卑と名づけるであろう。すなわち自己満足から高慢が生ずるように、謙遜から自卑が生ずるのである。したがって我々はこれを次のように定義する。
定義29 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。
JRF2024/10/189584
説明 (…)なおこれらの感情、すなわち謙遜と自卑とはきわめて稀である。なぜなら人間本性は、それ自体で見れば、できるだけそうした感情に反抗するからである(この部の定理13および54を見よ)。こんなわけできわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわめて名誉欲が強くきわめてねたみ深いものである。
<(上巻 p.299, 第三部)
「自卑」の定義。「(自己)卑下」は普通に使う日本語のように思うが、スピノザがいたところにはない概念だったのかな…。
JRF2024/10/188002
……。
>定義31 説明 (…)恥辱と羞恥との相違をここに注意しなくてはならぬ。すなわち恥辱とは我々の恥じる行為に伴う悲しみである。これに対して羞恥とは恥辱に対する恐怖ないし臆病であって、醜い行ないを犯さぬように人間を抑制させるものである。羞恥には通常無恥が対置されるが、無恥は、適当な場所で示すだろうように、実は感情ではない。<(上巻 p.300-301, 第三部)
JRF2024/10/186869
恥辱と羞恥の違い。無恥は、無能力または障害ということかな? スピノザの思想からは障害は逆にある種の能力を示すことが予定される。しかし、そんな中で、無恥というのは、障害が知られるごとに感知されるプラスの能力ではなくマイナスの能力だとなるのかもしれない。本来知られるほうが完全になるというのがスピノザの主張なのだけど、無恥はそうではないため、スピノザは説明に窮しているのかもしれない。「悪名高い」という能力も善用の方法はある…のかもしれないが。
JRF2024/10/188937
無恥は、気質なのかな? ヒポクラテスの四体液説の、陽気で活発な性格の多血質、短気で怒りっぽい胆汁質、鋭く冷静、知的な粘液質、陰気でメランコリックな憂鬱質…あたりから考えるべきなのだろうか?
悪名をなす者には警戒する。それが敵のように攻撃されない・できないのは、住む場所などが違い、ある種の尊敬があるからだろう。そして、その警戒により、本当の敵に対する防御が強化されるとすれば、悪名の高さも善用でき完全性に近づく…となるのだろうか。しかし、そこに「喜び」があるかというとないだろう。
JRF2024/10/183245
「警戒」とは何か? それはある種の「勇気」ではないか? 自己の有を守るために、敵を警戒すること、それは、神の必然に近いのかもしれない。敵が現れるのも神の必然であり、それに理性的に対応しようとすること、それが妥当な認識であり能動的な働きということかもしれない。もちろん、敵と争うより、それを許す「寛仁」が大事だけれども。
敵がいるときにちゃんと警戒することは自由が増すということだろう。敵がまだいない状況でもそれを想定して警戒することもまた自由なのかもしれない。「無恥」は周りにとって、神の予言のようなものかもしれない。
JRF2024/10/182425
……。
>定義39 説明 残忍には温和が対置される。しかし温和は受動ではなく、人間が怒りおよび復讐を抑制するような精神の能力である。<(上巻 p.303, 第三部)
「温和」は、神に関する能動の働き…寛仁の一種であった。
JRF2024/10/185381
……。
>定義44 説明 名誉欲はすべての感情をはぐくみかつ強化する欲望である(この部の定理27および31により)。したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何らかの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲の囚われているからである。キケロは言う、「最もすぐれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にすら自己の名を署する云々」。<(上巻 p.305, 第三部)
JRF2024/10/182796
……。
>感情の総括的定義 精神の受動状態[アニミ・パテマ]と言われる感情は、ある混乱した観念 -- 精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。<(上巻 p.308, 第三部)
「大なるあるいは小なる存在力を肯定」というのは「喜び」と「悲しみ」で、「いっそう多く思惟するように決定される」のが「欲望」ということであろう。
JRF2024/10/185118
……。
……。
第四部 人間の隷属あるいは感情の力について。
>定義1 善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。
定義2 これに反して、悪とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する。
(…)
定義3 我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。
JRF2024/10/182197
定義4 その個物が産出されなければならぬ原因に我々が注意する場合に、その原因がそれを産出するように決定されているか否かを我々が知らぬ限り、私はその同じ個物を可能的と呼ぶ。
(…)
定義5 相反する感情ということを、私は以下において、人間を異なった方向へ引きずる感情のことと解するであろう。これは共に愛の種類である美味欲と貪欲のごとくたとえ同じ類に属するものであってもかまわない。この場合は本性上相反するのではなく偶然によって相反するのである。
JRF2024/10/180440
定義6 未来・現在・および過去の物に対する感情ということを私がどう解するかは第三部定理18の備考1および2(…希望や恐怖などの定義…)において説明した。そこを見よ。
(…)
定義7 我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する。
定義8 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理7(…自己の有に固執する能力…)により)、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。
<(下巻 p.13-15, 第四部)
JRF2024/10/180379
……。
>公理 自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもと有力な他の物が常に存在する。<(下巻 p.15, 第四部)
最後には神が控えていて、神による実現は何よりも強力だから…ということなのだと思うが、ただ、本当にそうだろうか? 局所的に人間にとって、その人の現在において、それ以上が望めないことというのはあるのではないか。それ以上を与えられても意味がない、ちょうどそれだけ与えられることが、感情をもっとも刺激する…ということはあるように思う。
JRF2024/10/183678
例えば、苦しんでいる条件下で、ショスタコーヴィチの音楽に触れてとても感動する、それ以外の音楽でも感動したかもしれない、しかし、それ以上に感動するのは、その人にとって意味が違い、そのときその曲が特別になった…それだけに意味がある…ということはあると思う。人を愛するというのもそういうことがあるのではないか。
JRF2024/10/182714
……。
>定理1 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない。<(下巻 p.15-16, 第四部)
太陽が月と同じような距離だろう…と漠然と思っているとして、その後、ちゃんと太陽の正確な距離を教わったからといって、「太陽が近くにある」という表象(つまり想像・認識)は変わらない。太陽が暖いから。
だが、太陽に実際旅立とうとすれば、その距離を痛感するようになるだろう。
JRF2024/10/181339
>表象は、真なるものが真であるというだけで真なるものの現在によって消失するのではなく(…)我々の表象する事物の現在する存在を排除するより強力な他の表象が現われることによって消失するのである。<(下巻 p.17, 第四部)
一方で「部分否定」というのも忘れがちな方法で意味のある手法である。『宗教学雑考集 第0.8版』《シミュレーション・アーギュメントを論駁する》では、この現実世界がシミュレーションに過ぎないのではないか…という説を随所に部分否定していくことで反駁していく。
JRF2024/10/186813
……。
>定理7 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。<(下巻 p.21, 第四部)
自己の喪失がありうるなら、感情主体がなくなるということはある。死までいかなくとも忘却はある。リアルな感情には持続があるから、忘却のチャンスがある。定理7 は偽のように思う。
JRF2024/10/187789
……。
倫理(理性)と感情は別ということが一連の定理で語られる。例えば…、
>定理14 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。<(下巻 p.29, 第四部)
結局…
JRF2024/10/183931
>定理 18 備考 以上少数の命題をもって私は人間の無能力および無常の原因、ならびに人間が理性の命令に従わないことの原因を説明した。今や残るのは、理性が我々に何を命ずるか、またいかなる感情が人間理性の規則と一致し、いかなる感情がこれと反対するかを示すことである。<(下巻 p.33, 第四部)
スピノザは広く言えば「功利主義」に立つということらしい。
JRF2024/10/188076
>定理18 備考 (…)理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、-- 一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めることを要求する。
(…)
徳は(…)自己固有の本性の法則に従って行動することにほかならないし、また各人は自己の有を維持しようと努める(…)。
<(下巻 p.33, 第四部)
JRF2024/10/183384
この点は、本目的三条件の第一に「生きなければならない」を私が持ってきたのと似ているのかもしれない。
スピノザはあえてこういう言い方をしている面もあるようだ。
>定理18 備考 (…)「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および同義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私に引きつけたい<(下巻 p.35, 第四部)
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出す。カルヴァン派的価値観の擁護だろう。スピノザはカルヴァンのあとの時代の人。
JRF2024/10/183339
……。
>定理18 備考 (…)自殺する人々は無力な精神の持ち主であって自己の本性と矛盾する外部の諸原因にまったく征服されるものである、ということになる。<(下巻 p.34, 第四部)
自殺する人は、本人が意識していなくても、外部の原因によってそうさせられるのだ…ということのようだ。
JRF2024/10/187295
……。
>定理18 備考 (…)理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。<(下巻 p.35, 第四部)
「端正」とは「正直」ぐらいの意味のようだ。
善悪を自己の利益として判断しながら、しかし、それが他の人々のためになる…という構図は、私が「有神論の基本定理」と呼ぶものに目的が似ていると思う。
JRF2024/10/182567
『宗教学雑考集 第0.8版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。
…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。
善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。
<
JRF2024/10/185662
……。
>定理22 系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理により)、またこの原理なしには(この部の定理21により)いかなる徳も考えられえないからである。<(下巻 p.39, 第四部)
上で本目的三条件の第一は「生きなければならない」と述べた。そこはスピノザと共通していると言えると思う。
しかし、私は本目的三条件の他の条件(「思考と思念を深めるのがよい(自己の探求がよい)」「来世がないほうがよい」)のために「生きなければならない」が停止または軽視されることもあることを認める。
JRF2024/10/184146
『宗教学雑考集 第0.8版』《本目的三条件の十分性》
>「生きなければならない」から「思考と思念を深めるのがよい」を出すには、簡単には災害などを考えれば良い。「生きなければならない」から災害の影響を減らす必要がある。災害の影響を減らすには、記録や記憶が必要であり、それは「思考と思念を深めるのがよい」に含まれると考える。
しかし、知識階層は古代においては特に貴重であり、彼らを守るには格差が是認され、末端には死に近いことがあっただろう。「思考と思念を深めるのがよい」のために、「生きなければならない」が犠牲になったときもあったと思われる。
JRF2024/10/182396
「生きなければならない」のみが支配する世界では、そうでない世界に比べ、生きるための犯罪や戦争が起きやすいと考える。それは逆に生きにくい世の中になっているものと思われる。
JRF2024/10/189862
古代「思考と思念を深めるのがよい」を続けていると、それは非合理的な知識も含み、「輪廻転生」も自らの苦難を説明する「合理的な考え」として現れてくる。しかし、それはしばしば戦場において、狂信的な行動につながり、非合理的な作戦につながってくるとすれば、「生きなければならない」にも反するようになる。ここから輪廻転生の狂信を矯[た]めるために「来世がないほうがよい」が出てくると私は考える。つまり、「生きなければならない」から「思考と思念を深めるのがよい」を経由し、「来世がないほうがよい」が出た。
JRF2024/10/189634
しかし、「来世がないのが良い」はそれほど自明ではない。ブッダでないすべての修行者が導くとは限らない。仏教の理想からすれば、自己を探求するものは、自然に「来世がないのが良い」という「真理」に気付くとしたいかもしれないがそうではない。そのため、「来世がないのが良い」を死をもって守る者も必要になる。
人口が増えそうなとき、僧は戦争が増えて人が死ぬのが増えるよりは、産児制限をする方向を選びがちなのが、「来世がないのがよい」という方向でもあるだろう。子=来世という考え方をできるからだ。産児制限をしてでも、僧は戦争を止めるのを優先する…といったほうが、適切かもしれないが。
JRF2024/10/188211
このプログラムでは、多く人が死ねば葬儀が増えるが、そこで得られた金銭は、僧は僧を増やすのに使うと考える。結婚しない僧を増やすのは、戦争のあと子供を産もうとするのを抑制する効果がある。戦争による人口減のあとの人口ブームによるその後の戦争を防ぐため…とも言える。
<
JRF2024/10/189759
……。
>定理26 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない<(下巻 p.41, 第四部)
ここでの「認識」は思惟を含んでいる。これはスピノザ版の「思考と思念を深めるのがよい(自己の探求がよい)」の部分ではないか。
JRF2024/10/189029
……。
>定理28 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。<(下巻 p.43, 第四部)
ここはスピノザ版の「来世がないほうがよい」に相当するのかもしれない。
西洋哲学は「哲学」と言いながら、神に言及し、信仰・宣教の側面を持つことが多い。それに反感を抱く者も日本にはそれなりにいるのかもしれないが、私は慣れてしまった…。
JRF2024/10/184624
……。
>定理37 備考1 (…)神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。<(下巻 p.56-57, 第四部)
「宗教心」「道義心」「端正心」「端正」「非礼」の(ほぼ)定義。
JRF2024/10/186200
……。
>定理37 備考1 (…)動物の屠殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいていることが明らかである。
(…)
私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第三部定理57の備考を見よ)。
<(下巻 p.57-58, 第四部)
JRF2024/10/182778
動物愛護なんてクソ食らえ…ヴィーガンなんてやっつけろ…とまで言ってるわけではないが、スピノザは「こちら側」の人物で、その時代から「あちら側」の人間はそれなりにいたということでもあるだろう。西洋のそれらの思想の歴史は古そうだ。
keyword: ヴィーガン
JRF2024/10/181801
……。
>定理37 備考2 (…)もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自己のこの権利(…自然権…)を享受しえたであろう(…)。ところが人間は諸感情に隷属しており(…)しかもそれらの感情は人間の能力ないし徳をはるかに凌駕するのであるから(…)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引きずられ(…)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(…)相互に対立的であることになる(…)。
JRF2024/10/183125
それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。
JRF2024/10/188875
しかしこのこと、すなわち諸感情に必然的に隷属し(…)かつ不安定で変わりやすい(…)人間が、相互に保証を与え相互に信頼しうるということがいかにして可能であろうかといえば、それはこの部の定理7および第三部の定理39から明らかである。そこで述べたところによれば、どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に害悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。
JRF2024/10/189187
そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が胸中の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(…)によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。
<(下巻 p.59-60, 第四部)
JRF2024/10/180080
「暴力装置」論だね。なお、スピノザには未完の『国家論』がある。
>正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性ではない(…)。しかしこれらのことについてはこれで十分である。<(下巻 p.61, 第四部)
私には法以前の社会正義の成立について次の論考がある。
JRF2024/10/185297
《なぜ人を殺してはいけないのか - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
>理想化された経済史的解答 - まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。
分業 - 人は一人では生きられない。すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。
JRF2024/10/189538
(…)
信用 - 人はうたぐり深い動物である。誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。
(…)
保険 - 人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。
(…)
<
なお↑は、『宗教学雑考集』にも抜粋で収録してある。
JRF2024/10/183447
……。
>定理41 証明 喜びは(…)身体の活動能力を増大しあるいは促進する感情である。これに反して悲しみは身体の活動能力を減少しあるいは阻害する感情である。<(下巻 p.65, 第四部)
「完全性」という難しい概念を使った第三部定理11の「喜び」「悲しみ」の定義より、こちらの「定義」のほうがわかりやすいね。
JRF2024/10/186667
……。
定理38または定理39で、節制または中庸の徳のようなものが説かれる。バランスが取れてないものは害悪だという論である。第四部公理のところの私の論は、中庸を求めながらの感情という考え方もできるかもしれない。
>定理44 愛および欲望は過度になりうる。
JRF2024/10/188449
(…)
備考 (…)人間は数多くの感情に従属するものであって、常に同一の感情に捉われている人間は稀にしか見られないけれども、それにしても同一の感情に執拗にまといつかれている人間もないではない。すなわち人間がただ一つの対象から強く刺激されて、その結果それが現在していない場合にもそれを自分の前にあるように信ずるのを我々はしばしば見かける。もしこうしたことが眠っていない人間に起こるならば、この人間を我々は狂っているとか気違い沙汰だとか言うのである。また恋に焦がれて夜も昼もただ恋人あるいは情婦のみを夢みる者も同様に気違い沙汰と思われる。
<(下巻 p.87-88, 第四部)
JRF2024/10/189764
特定の物に執着するというのは、物から得た快感のために、物類似のものでも快感を覚えるみたいなふうに考えるのがスピノザ風だが、恩とか愛とかは、徳から理性で考えて行うからいいということだろうか? それはいかにも打算的だろう。
その恩とか愛が、神の賜物とし、そこに「真」性を感じるから、そこから理性で行動を導く…そこに徳がある…のではないか。その感覚を尊いものとするのは、スピノザの汎神論・決定論からは出て来ないのかもしれないな…。
JRF2024/10/187389
……。
>定理47 希望および恐怖の感情はそれ自体では善ではありえない。
証明 希望および恐怖の感情は悲しみを伴うことなしに存しえない。なぜなら恐怖は(…)悲しみであるし、また希望は(…)恐怖を伴うことなしには存しえないからである。
JRF2024/10/186807
(…)
備考 これに加えて、これらの感情は認識の欠乏および精神の無能力を表示するものである。そしてこの理由から安堵、絶望、歓喜および落胆もまた無能な精神の標識である。(…)だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し、我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く努める。
<(下巻 p.72-73, 第四部)
仏教の、悪因だけでなく善因も作らないようにする、悟りへの導きに似ているかな…?
JRF2024/10/186167
……。
>定理50 憐憫は理性の導きに従って生活する人間においてはそれ自体では悪であり無用である。<(下巻 p.73, 第四部)
本当に理性ある人(悟った人?)は救うべきは救うのであるから、あわれみという感情的悲しみは判断をにごらせるだけで不要であるということのようだ。
>しかし私はここで明らかに、理性の導きに従って生活する人について語っているのである。というのは、理性によっても憐憫によっても他人を援助するように動かされない者は非人間と呼ばれてしかるべきである(…から…)。<(下巻 p.75, 第四部)
JRF2024/10/188398
……。
謙遜と後悔も徳ではないとするが…、
>定理54 備考 人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつかあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。
なぜなら、もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されようか。民衆は恐れを知らない時に恐るべきものである。
JRF2024/10/184901
ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した予言者たちが謙遜、後悔および恭順をいたく推奨したのは怪しむに足りない。また実際に、これらの感情に支配される人々は他の人々よりもはるかに容易に、ついには理性の導きに従って生活するように、言いかえれば自由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである。
<(下巻 p.79, 第四部)
愚民論というか…。在家と修行者を厳しく分ける小乗の道…という感じがするね。
JRF2024/10/181191
……。
>定理58 備考 (…)恥辱もまた、憐憫と同様に、徳ではないけれども、それは、恥辱を感ずる人間には端正な生活を営もうとする欲望が存している証拠である限りにおいて善であるということである。あたかも苦痛が身体の損傷部分のまだ腐敗しない証拠である限りにおいて善と言われるのと同様に、ゆえにある行為を恥じる人間は実際は悲しみを感ずるけれども、端正な生活を営もうとする欲望を有しない無恥の人よりも完全なのである。<(下巻 p.84, 第四部)
上で私は、無恥というのはある種の障害であるという説を唱えたあと、いろいろ考えたが、スピノザもある種の障害という説にここでは立つようだ。
JRF2024/10/189434
……。
>定理59 我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。<(下巻 p.85, 第四部)
しかしこれが常にできるのは、ブッダかそれに準ずる者だけだろう。
>証明 (…)もし喜びを感じている人間が自己および自己の活動を妥当に認識するほどの完全性にまで達しえたとしたら、彼は、いま受動という感情によって決定されるのと同一の活動をなすことがでいるだろう。否いっそう多くできるであろう。<(下巻 p.86, 第四部)
JRF2024/10/181464
進化の理法を知り、起きてきたことを頭で完全にシミュレートし、それはあたかも頭の中に完全な世界がもう一つある…ような者なら、もしかするとあらゆる喜びを「妥当な認識」でシミュレートすることができるのかもしれない。
しかし、そういう者は、進化から来たような「悪」の必要性もシミュレートするだろう。オウム真理教がかつてなしたように、「慈悲殺」などと言って、大量殺人も「徳」として「善」としてなすことがありうることを認めることになるのではないか。
本当のブッダならば、そこは踏み留まれるのだろうが…。
JRF2024/10/180029
……。
>定理63 系 理性から生ずる欲望によって我々は善に就き、間接に悪を逃れる。<(下巻 p.92, 第四部)
定義上悲しみがない「理性」ならば、人を悲しみに落とすようなことはありえないため、その善かれとすることをしていれば、例えば、法も守り、悪は自動的に避けられる。…ということのようである。
しかし世の中に悪法もある。それを守ることで、助けるべき人を助けられないようなこともある。法を無視するというのであれば、法的・国家的悪になることはありうるということになろう。
JRF2024/10/187795
……。
>定理64 悪の認識は非妥当な認識である。
(…)
系 この帰結として、人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる。
<(下巻 p.92-93, 第四部)
私の場合、まず、善については…、
JRF2024/10/182709
『宗教学雑考集 第0.8版』《善》
>現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。<
…として自然に本来の善がありうることを認める。
JRF2024/10/189084
逆に悪は
『宗教学雑考集 第0.8版』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<
…としてある意味本来の悪はないとする。
JRF2024/10/181252
しかし、スピノザに「人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろう」と言われるとき、決して妥当な観念だけを持っているとは口が裂けても言えない私は、上のように本来の悪はないといってのけてしまうことに、居心地の悪さを感じる。
JRF2024/10/189132
……。
>定理66 備考 (…)感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うる(…)。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。
JRF2024/10/184857
定理67 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
<(下巻 p.95, 第四部)
自由人の定義。第四部の序言のはじめに>感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。<(下巻 p.7)…とあったが、その伏線回収のような箇所。
JRF2024/10/186128
……。
>定理68 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。
(…)
備考 (…)神は自由な人間に対して善悪の認識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとって彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理27を見よ)して自分の自由を失い始めた。
JRF2024/10/183490
この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念 -- 神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(この部の定理37により)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である -- に導かれて再び回復したのであった。
<(下巻 p.96-97, 第四部)
スピノザの「知識の実」の解釈はこのようなものなんだね。
私の考えは↓でまたは『宗教学雑考集 第0.8版』《知識の実 - 『創世記』ひろい読み》に書いている。
JRF2024/10/180224
《『創世記』ひろい読み - 知識の実 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html
>人は「善悪の知識」を手に入れたという。これは神が善悪を判断した命令(神にとっての善悪)だけでなく、人が自分にとっての善悪を判断するようになったことを意味する。しかし、それは神への「欲望」に基づくものではない。
人は「善悪の知識の実」を得ることで、人が人に生をもたらすことも死をもたらすこともできる存在であることを知った。人は神に対してだけでなく、人に対しても恐れ、欲するようになったのである。
JRF2024/10/188759
そして、すべてを見通せない人間から隠しごとをするために、体を隠すことを覚えた。快楽への欲望を遮り、憎しみから身を守ることを覚えた。
<
ところで、神の観念が、「利他主義」を導くということについて。『宗教学雑考集』《本目的三条件》に次のような文を足そうと思っている。
JRF2024/10/187181
>なお、私の本目的三条件をパッとみると、個人に関するものばかりで、共同体原理のようなものがないように見える。しかし、後に示すように「生きなければならない」は「総体として生きなければならない」とするので、そこに「我々」という概念を含ませているから、そこでまず補っていると言える。残りのものも単に個人的な目的とはしていないことは、この後を読めばご納得いただけると思いたい。<
JRF2024/10/185567
神の観念が「利他主義」ということだと「来世がないほうがよい」が「利他主義」も導けるということだろうか…。来世がないことはいってみれば自分が消えることで、自分がなくても世の中がよくあって欲しい…ということで利他主義が導ける…とはいえるかな…。
JRF2024/10/181601
……。
>定理69 自由の人の徳は危難を回避するにあたっても危難を克服するにあたってと同様にその偉大さが示される。<(下巻 p.97, 第四部)
↓を思い出した。
トケイヤー『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』([cocolog:86365513](2016年11月))
>要領のいい人間と賢い人間の差 -- 要領のいい男は、賢い人間だったら絶対におちいらないような困難な状況を、うまく切り抜ける人のことである。<(p.129)
JRF2024/10/183618
……。
>定理69 系 このゆえに、自由の人にあっては、適時における逃避は戦闘と同様に大なる勇気の証明である。すなわち自由の人は戦闘を選ぶ時と同じ勇気ないし沈着をもって逃避を選ぶ。<(下巻 p.98, 第四部)
[wikipedia:良心的兵役拒否]の話かな…。
「逃げた先に自由があるとは限らない」とは昔の私の信念であった。そのあと「国家自由主義」に辿り着いた。
JRF2024/10/181411
[aboutme:137553](2011年03月)
>昔ネットのどこかに書いたが、逃げた先に自由があるとは限らず、例えば「エロ本を買う自由」を得るためにさえ印刷技術の発展等いろいろな仕事が必要だったし、今も不断に必要なのだ。「自由」とはどちらかと言えば築いていくものだ。<
JRF2024/10/185985
大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか』を読んで([cocolog:94987854](2024年8月))
>>
国家は自由と敵対するものではなく、むしろ国家により自由が保障されるのだ…ということについては、「国家自由主義」的な価値観として次のような話をよくする。
JRF2024/10/180563
[cocolog:91758418](2020年3月)
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<
JRF2024/10/188795
これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。国家自由主義。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。
これがポパーの場合、『開かれた社会とその敵』において、ウォークマンではなく自転車を買う自由が問題となったようで、「国家自由主義」に相当する主義はまぎらわしい名前だが「保護主義」と呼ばれていた。
ヘーゲルの場合は、「欲求の体系」を問題として自由を語り、国が自由のためにあるとするのは私やポパーに似ている。ポパーはヘーゲルを全体主義の御用学者として強く非難するけれども。
<<
JRF2024/10/182568
……。
>付録 第9項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって(第7項により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで個物の中で理性に導かれる人間ほど価値のあるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆[ぎりょう]と才能を証明することがでいきる<(下巻 p.107, 第四部)
(国家における)教育の大切さ、教育者の聖人性について…だね。
JRF2024/10/185098
……。
>付録 第20項 結婚に関して言えば、もし性交への欲望が外的美からのみでなく、子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら、その上もし両者 -- 男と女 -- の愛が外的愛のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら、それは理性と一致することが確実である。<(下巻 p.110, 第四部)
私も結婚は人間としての完成…ある種の「悟り」に必要だろう…と言っている。私は結婚できる見込みはないが。
JRF2024/10/186747
『宗教学雑考集 第0.8版』《結婚》
>ツイッター(X)で見たのだが、35歳までで産める女性は間違いなく子供を産もうとする話、密教では女性が悟っていた話、そしてインドでは四住期を経て悟るとする話…を考えると、人間の完成=涅槃となるには本来は結婚を経る必要があるのかな…と私は思うようになった。
性を通じて異性とその関係を理解し子供を持つことの自らへの本能的意味を体得するのが必要なのかなと思う。
JRF2024/10/186838
涅槃=悟りは一味といってもいろいろあって、人間の完成=涅槃はそのうちのある種の考え方に過ぎないかもしれないけれども、そういうのが少なくとも大乗仏教のブッダまたは涅槃には必要なのかもしれない。
私は、昔は、純粋に修行する者が(結婚しようがしまいが)悟りに近いものだと思っていたけれども考えを改めるべきなのだろう。釈尊もそういえば結婚していたのだった。(私のような学ぶばかりの)独身の修行者は、学徒・寺男・(ある種の)僧どまりなのかもしれない。
<
JRF2024/10/188248
……。
>付録 第26項 自然の中で我々は人間のほかに、その物の精神を我々が楽しみうるような、また、我々がその物と友情あるいはその他の種類の交際を結びうるような、そうしたいかなる個物も知らない。ゆえに我々の利益というものを顧慮すれば、人間以外に自然に存するものをすべて保存するようなことは必要でない。むしろそれらをその種々多様な用途に従って保存したり、破壊したり、あるいはあらゆる方法でこれを我々の用に順応させたりするように我々の利益への顧慮は要求するのである。<(下巻 p.112, 第四部)
来たる産業革命を匂わせる思想だね。反環境保護・反自然保護。
JRF2024/10/183723
今は AI が人間を凌駕するのが見えてきて、逆に人間を保護してもらうために、自然保護にも軸足を置くみたいなことが必要になってきている。
森林保護などは私も訴える。(参: [cocolog:95019688](2024年8月)など。)
メタン抑制の文脈で家畜への批判もあるが、それも私は家畜を是認する方向を出す。(参: [cocolog:94828661](2024年5月) など。)
JRF2024/10/186152
……。
>付録 第32項 (…)我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものも欲求しえず、また一般に、真なるもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力[欲望]は全自然の秩序と一致する。<(下巻 p.115, 第四部)
妥当な認識を得るには思惟が必要…つまり、「思考と思念を深めるのがよい(自己の探求がよい)」のであるが、それが正しい認識になるとは限らない。それは…上で私の文を引用した…
JRF2024/10/186771
>しかし、「来世がないのが良い」はそれほど自明ではない。ブッダでないすべての修行者が導くとは限らない。仏教の理想からすれば、自己を探求するものは、自然に「来世がないのが良い」という「真理」に気付くとしたいかもしれないがそうではない。そのため、「来世がないのが良い」を死をもって守る者も必要になる。<
…と同じくである。そのために、スピノザは「来世がないのが良い」の代わりに神の観念を持ってきたのであろう。
JRF2024/10/184261
……。
>注(7) (…)スピノザが必ずしもタームを統一的に用いない一例である。<(下巻 p.170, 第四部訳注)
現代では Google などの検索に引っかかりやすいよう、わざと別の表現で表すこと…タームを統一しないことが、意図的になされうる。私も結構意識している。
それとはまた別の話として、スピノザは幾何学的方法などというが、それを現代にやる意義はあるか…と問える。タームに拘るのも幾何学的方法的こだわりだろう。
JRF2024/10/189905
というのは、現代においては、コンピュータという新たな基準があるからである。タームに拘るなら、その論理式などはコンピューター上でも展開可能でないといけない。思想は、シミュレーションなどのプログラムで書けるまで厳密でなければならない…と言える。それが書けないというなら、もちろん、そういうことはありうるが、なぜ書けないかを、できるだけプログラムを書き上げてから論じる必要がある。…みたいな立場もありうる。
私はそれを完全に是認するわけではないが、それを意識して作り上げたのが『「シミュレーション仏教」の試み』であったとも言える。
JRF2024/10/188616
……。
スピノザは、理性による感情の代替が完全に可能な境地があるかのように語る。
私の考え方では private があるため、感情にも隠された部分があり、完全に理性でコントロールできない可能性を認めることになるだろう。private で覆われた部分は、シミュレートはできるかもしれないが、本当にそうかはわからない。そういう意味ではスピノザ的な悟りは不可能と考えることになる。
JRF2024/10/182576
しかし、神が無限小のものを private 性を守りつつ「外」から操作するように、操作して無限小のものへアクセスするのと同等なような思惟のしかたというのは存在するのかもしれない。それがブッダの悟り…となるのかもしれない。ただ、その場合、ブッダ本人の偶然性を超えるために、ブッダが複数いて、たまたまその世界にそのブッダが含まれない可能性がある…つまり、そのブッダ自身の消滅の可能性を含むような思惟になるのだろう。
JRF2024/10/183987
……。
……。
第五部 知性の能力あるいは人間の自由について。
訳者いわく(下巻 p.183)「第五部の後半は一種の神秘説」になる。神に関する言及の増える章である。
>公理1 もし同じ主体の中に二つの相反する活動が喚起されるならば、両者が相反することを止めるまでは、両者の中にか両者の一方の中にか必ずある変化が起こらざるをえないであろう。
公理2 結果の本質がその原因の本質によって説明され・規定される限り、結果の力はその原因の力によって規定される。
<(下巻 p.122-123, 第五部)
JRF2024/10/186221
……。
>定理3 系 (…)我々が感情をよりよく認識するに従って感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、また精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。<(下巻 p.124, 第五部)
上で私が…>外部が持っている意味よりもより多くの意味を人は取りだしている。いや、厳密には、外部の持ってる意味をすべて人間は知りうるわけでないから、外部が持っていない意味で、より外部が持つべき意味を人間は思惟の中に持つことがある…ということだろう。<…と書いたのを思い出す。
外部のものより精神がより多くの意味をそこに思惟によって構築していることがあるということだろう。それは感情を超えている…と。
JRF2024/10/180369
……。
>定理4 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない。<(下巻 p.125, 第五部)
進化の理法まで思惟していれば、感覚のよって立つ根拠も知れる。…と。
しかし、第五部の前で私が述べたように、private 的なものに隠されて単にシミュレートできるだけではないか。そのときその場所での、感情(身体的変状)というのは、受動するしかない場合があるのではないかと私は思う。
JRF2024/10/180449
……。
>定理4 備考 (…)人間はその本性上他の人々が己れの意向通りに生活することを欲求[衝動]するものであるが(第三部定理31の備考を見よ)、この衝動は、理性によって導かれない人間にあっては受動であって、この受動は名誉欲と呼ばれ、高慢とあまり違わないのであり、これに反して理性の指図によって生活する人間にあってはそれは能動ないし徳であって、これは道義心と呼ばれる(第四部定理37備考1およびその定理の第二の証明を見よ)。<(下巻 p.126, 第五部)
名誉欲と道義心、または、衝動と徳は、外部から見ると(ほぼ)見分けのつかないものであることが、述べられているようだ。
JRF2024/10/189887
……。
>定理6 精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有し、あるいは感情から働きを受けることがより少ない。<(下巻 p.128, 第五部)
世の理を悟っていれば物事に動じない…ということだが…。でも、世界に驚嘆を持って喜ぶことは、神を愛するはじめではないのかな…とも私は思う。哲学者の田島正樹さんがいうアレーテイア…驚きの真実の発見のようなものも大事ではないかとは思う。
《ララビアータ - livedoor Blog(ブログ)》
http://blog.livedoor.jp/easter1916/
JRF2024/10/187829
……。
>定理9 証明 感情は精神の思惟する能力を妨げる限りにおいてのみ悪あるいは有害である(第四部定理26および27により)。<(下巻 p.131, 第五部)
通常は思惟は感情を凌駕できるから…と。
JRF2024/10/185553
……。
>定理10 備考 (…)我々の感情について完全な認識を有しない間に我々のなしうる最善のことは、正しい生活法あるいは一定の生活律を立て、これを我々の記憶に留め、人生においてしばしば起こる個々の場合にたえずそれを適用することである。このようにして我々の表象力はそうした生活律から広汎な影響を受け、その生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。
JRF2024/10/189606
例えば我々は憎しみを愛もしくは寛仁によって征服すべきであって憎しみ返しによって報いてはならぬことを生活律の中にとり入れた(…)。しかし理性のこの指図が必要ある場合に常に我々の眼前にあるためには、人間が通常加えるもろもろの不法を思い浮かべ、これを再三熟慮し、かつ寛仁によってそれが最もよく除去されうる方法と経路とを考えておかなくてはならぬ。このようにすれば我々は不法の表象像をこの生活律の表象と結合することになり、そして(…)我々に不法が加えられた場合に、この生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。
<(下巻 p.132, 第五部)
JRF2024/10/184399
戒律のススメと、そのちょっと高度な例。
八正道を思い出す。
《十二縁起と八正道:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html
Gemini さんによると、>定理10で具体的に挙げられている「憎しみを愛で克服する」という考え方は、八正道の「正語」「正業」に関連します。言葉遣いや行動を正しくすることで、憎しみといった負の感情を克服しようとするのです。<…とのこと。
JRF2024/10/189909
……。
>定理14 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。<(下巻 p.137, 第五部)
ここからスピノザは神(へ)の愛を説いていく。
JRF2024/10/183795
……。
>定理18 何びとも神を憎むことはできない。
(…)
備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識するのだから、まさにそのことによって我々は神を悲しみの原因と見るものである、と。だがこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる(…)。言いかえればその限りにおいてそれは悲しみであることをやめる(…)。したがって我々が神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。
<(下巻 p.139-140, 第五部)
JRF2024/10/185708
神義論…なぜ悪人が栄え、善人が苦しむのか、なぜ神がいるのに悪があるのか…を思い出す。悲しみは神の試練であり、それを知れば、悲しみも燃える感情(愛や喜び)に変わる…ということなのだろう。
《「ヨブ記」を読む - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
JRF2024/10/181277
……。
>定理22 しかし神の中にはこのまたはかの人間の身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。<(下巻 p.145, 第五部)
人間に永遠の魂があるかという問いに、スピノザはほぼイエスで答えるようだ。上巻からは予想できなかったが、どうもそうらしい。
JRF2024/10/189282
『宗教学雑考集 第0.8版』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。
その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。
JRF2024/10/182713
○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。
(…)
○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。
<
JRF2024/10/181770
スピノザは神の記憶モデルに近いが、神の中に完全な(アッパーコンパチブルな)コピーがあるというよりは魂のみが存在すると考えるようである。
上で私は「無限論理延長」を考え、思惟の永遠性みたいなものを語ったが、スピノザの考えではそこに人間の魂は含まれうる…ということのようだ。そして、「より」永遠に近い魂みたいなものを考えることができ、魂にランク付けも認めるようだ。ランクが高い魂は死を恐れなくなる・恐れる必要がなくなる…とするようだ。
JRF2024/10/183505
……。
>定理25 精神の最高の努力および最高の徳は、物を第三種の認識において認識することにある。<(下巻 p.148, 第五部)
「第三種の認識」とは第二部のところで出てきた「直観知」である。それは私の解釈では無限論理延長に重なった・到達した「真」認識であった。
JRF2024/10/181206
……。
>定理30 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。<(下巻 p.151, 第五部)
上巻では私はスピノザの汎神論はイデア界は否定しているかのように読んだが、どうも、ある種の永遠の世界という意味でのイデア界はスピノザも認めるようだ。
あと「神によって考えられる」という部分、↓の「生きて考えられることは礎石である。」を思い出す。
JRF2024/10/182907
《救いの無力さ - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/05/post_1.html
>
「
人の目に死と映る物も神にとっては生きている。
左の手にあるものを偽りと言えというなら、
右の手にあるものをなぜ偽りとしてはいけないのかと問おう。
礎石を無力というなかれ。
生きて考えられることは礎石である。
お前は力ある者だ。
」
<
JRF2024/10/189125
……。
>定理34 備考 もし我々が人々の共通の意見に注意するなら、彼らは自己の精神の永遠性を意識してはいるが永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶に永遠性を賦与し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じているのを我々は見いだすであろう。<(下巻 p.155, 第五部)
ここで厳密には「神の記憶モデル」は否定されている…ということのようだ。
JRF2024/10/181495
……。
>定理38 備考 (…)精神のもつ明瞭判然たる認識が大になればなるほど、したがってまた精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有害でなくなるということである。さらに、第三種の認識からおよそ存在しうる最高の満足が生ずるのだから(…)、この帰結として -- 人間精神は、その中で身体とともに滅びることを我々が示した部分が(…)その残存する部分と比べてまるで取るに足りぬといったような本性を有しうるものである。-- いうことになる。<(下巻 p.159-160, 第五部)
JRF2024/10/187727
「残存する部分」があるつまり魂があるということになる。そして「より残る」ことがあるということは、それにはランクがあるということになる。
JRF2024/10/186406
……。
>定理42 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。<(下巻 p.165, 第五部)
徳のある生活をするとき、その報いで天国があるのではなく、その生活こそが永遠性のある天国で生きているということ…なのだろう。そしてある意味、天国という「場所」は(地獄のようには)存在しないのだろう。その辺は↓を思い出す。
JRF2024/10/184764
『神々のための黙示録 第二版』(JRF 著, カクヨム, 2016年6月)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881248563 (無料)
https://j-rockford.booth.pm/items/4514877 (有料)
https://bookwalker.jp/deced7b62b-a043-44d3-af3b-1bdf9b2f8a08/ (有料)
JRF2024/10/189656
……。
なお、上でリンクした《「ヨブ記」を読む》《なぜ人を殺してはいけないのか》《救いの無力さ》は『道を語り解く』にも所収している。ぜひそちらもご参照・ご購入いただきたい。
JRF2024/10/186789
『道を語り解く 第2版』(JRF 著, JRF電版, 2016年3月11日第1版 2020年3月11日 第2版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CERFZLA
https://j-rockford.booth.pm/items/4381265
https://bookwalker.jp/deb3133bce-06b3-4150-a4e7-cc1816558bf2/
JRF2024/10/188659
typo 「正答以下に」→「正当以下に」。
typo 「がっできない」→「ができない」。
typo 「がでいきる」→「ができる」。
JRF2024/11/149638
↓のつづき。
《[cocolog:95101663] スピノザ『エチカ』を読んだ。唯一神の汎神論で決定論に立つスピノザに対し、私は、自由意志論または仏教的思想により、反駁のようなことを試みた。 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/10/post-37f8c3.html
JRF2024/10/180297