cocolog:95158388
デカルト『省察』(山田弘明 訳)を読んだ。精神は集団の抑圧により成立し、精神が内面的に「明晰判明さ」を得るためには、外側で、司書の誠実な伝統が必要であろう…と私は考えた。 (JRF 6254)
JRF 2024年11月25日 (月)
直近までスピノザをいろいろ読んできて、やはりその「源流」たるデカルトを読まねばなるまいと手に取った。
私は拙著『宗教学雑考集』の第1章を「我思うゆえにありうるのは我々までである」という題ではじめてあり、それはデカルトの「我思うゆえに我あり」…この本では単に「コギト」と呼ばれる命題を踏まえてのものである。…にしては、デカルトの本は『方法序説』しか読んだことがなかった。そして『方法序説』もすでに忘却のかなたにあり、何か読むべきだと思ったのもこの本を読んだキッカケである。
JRF2024/11/250615
「我思うゆえにありうるのは我々までである」については、スピノザ『知性改善論』を読んだとき([cocolog:95112803](2024年10月))、その訳注で、デカルトも同様なことには到達していたと取れることも書いていたので気になっていた。
JRF2024/11/255987
……。
『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
2025年の3月から5月ぐらいに、第1.0版を出そうと計画している。電子書籍版のほかに紙の本(Amazon オンデマンド印刷)版も同時に出す予定。
JRF2024/11/258642
資料集めの読書としては最後の追い込みで、この『省察』の次は、ヘーゲル『宗教哲学講義』、シュバイツェル(シュバイツァー)『キリスト教と世界宗教』を読んで、その後、第1.0版向けの作業に入るつもりである。
第1.0版のあとも宗教書は読み続ける予定だが、第2.0版は、5年後とか10年後とかそれぐらいのスパンで考えているし、第2.0版は単に修正等に留め、『補遺』的な巻を別に出したほうがいい気もしている。だから『宗教学雑考集』正式版本書に大きく反映されうる本は基本的には、上で書いた本までとなろう。
JRF2024/11/251764
……。
なおスピノザに関しては↓という電子書籍も書いた。というか、この「ひとこと」で書いた記事を単に並べただけのもの。ご興味のある方はぜひ。(今のところダウンロード数 0 !)
《サーベイ: スピノザの思想 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6284877
JRF2024/11/254423
……。
それではいつもの通り、引用しながらコメントしていく。
JRF2024/11/259815
……。
まずは巻末の訳者解説から。
第四省察に関して。神が完全であるのに、人には誤謬があり、不完全であるのはなぜか。
>私を全体のうちの部分と見れば、私は必ずしも不完全ではないだろう。<(p.232, 訳者解説)
予定説的な価値観または、スピノザ的汎神論に似た価値観だと思う。要は、(誤謬などの)悪が起こるのは、全体として見れば、それが必要だから…ということになる。
JRF2024/11/251421
私はこの点は、人に自由意志はあるとし、神に対して private な領域を認め、そこに介入しなかったりすることを認める。当然そこには悪の余地もあることになる。ある意味、(人から見た)神の不完全性を認める立場を取る。
private 性についての私の考えは直近で円城塔『コード・ブッダ』を読んだとき([cocolog:95112803](2024年10月))も引用した。繰り返しても良いのだが、そちらのひとことも読んでいただきたいので…。
JRF2024/11/252583
……。
第六省察に関して。
>精神は分割されないが、物体は分割される。<(p.235, 訳者解説)
「我思うゆえにありうるのは我々までである」という私の主張は次のようなものである。
『宗教学雑考集 第0.8版』《我思うゆえにありうるのは我々までである》
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。
JRF2024/11/250447
我々は必ずしも思いどおりにならない「私」達の集りで、ならば、「私」は「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起ち上がったとき、我々も存在していたと気づくに過ぎない。
「我々」というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。我々を境界して私になる…境界に意味がある。他と違う比較的自由に意味がある。所有=己のものというのも境界としてちゃんと意味がある。
JRF2024/11/251666
人は産まれてくるものだから、最初は己はないんだとというのは多くの人は合意できると思うし、永遠はなかなか想像できないから、アートマン=常住不滅の真我みたいなものがなければならないみたいなことはない…というのも合意できると思う。しかし、実体が現にある以上、己に実体がないというのはなかなか合意できないものだ。生物として常に危機にさらされている「実体」という規制が己を形作る。それがデカルトの根拠になっていたのだろう。
<
JRF2024/11/250443
ここで我々から我を彫刻していくとき、そこでは精神を「分割」ではないかもしれないが、自他の区別をしていく。「精神は分割されない」というのも正しくはないと思う。
JRF2024/11/250498
『宗教学雑考集 第1.0版』では、多目的最適化を「私」がさまざまなレイヤーで実行していることも述べる。その核となる部分が分割しえないかはよくわからない。つまり、あるときは「我」というのは、子が継いでいってくれる部分の「我」を重視することもあれば、本などに教えとして残る「我」を重視することもあろう。そのときどきに重視するものが違うとき、本当にそこに「核」があるとすべきなのか、それも明確ではないと私は考える。「分割可能」とは違うが、「我々」から「我」への違う「彫刻」のしかたはあるように思う。
JRF2024/11/253801
……。
デカルトはなぜわざわざ『省察』のような論争になる書を世に出したのか…。
>『省察』はオランダに定住してから10年余、デカルト45歳の渾身の著作である。自費出版であり、多大の時間と労力を費やしている。デカルトは、哲学することが一生の仕事であり、天職と考えていた。かれは貴族の出自であり、職に就くことなく父祖の残した財によって生計を立てていた。日々みずから学んでさまざまなことを知って行くことが喜びであり、その成果を世に発表することを説明責任と感じていたのだろう。自著の出版は哲学者の心意気の現れでもあった。<(p.238, 訳者解説)
JRF2024/11/250284
私は父の遺産などで食いつないで、「哲学」をしている。ずっと以前、介護職で働くのも断わられた。福祉就労の作業も難しい私は、哲学やプログラムをして、それを公開するほうが世の中のためになるとやってきたが、私の書が読まれたりプログラムが使われたりすることはほぼない。炎上も含めて注目されたことがない。デカルトなどとの差を感じる。
私は、直近で、紙の本をオンデマンド印刷ながら出した。『宗教学雑考集』をオンデマンド印刷で出すのの練習も兼ねて、まず拙著『道を語り解く』をオンデマンド印刷で出版してみた([cocolog:95148998](2024年11月))。
JRF2024/11/255198
そして、それを地元の図書館に寄贈した。しかし、寄贈しようとしてはじめて気付いたのだが、図書館は自費出版には厳しい。デカルトも自費出版だったらしいが、そのころは貴族がやるものだから、周りの目も多少はあたたかかったのかもしれない。今は、誰でも自費出版できるからか、目が厳しくなっているように思う。わが街には寄贈できたが、大阪府立図書館は、自費出版は基本的に受け付けてないらしく、寄贈できなかった。わが街も、古紙回収行きになるかもしれないことを同意せざるを得なかった。
JRF2024/11/257230
地元の図書館に電子書籍の寄贈もできないかと聞いたところ受け付けてないとのこと。気になったのは、その図書館では電子書籍の扱いも試験的にやってるようなのだが、少しでも、「引用」(スクショ等)がネットにあるのがバレたら、電子書籍すべての扱いがなくなるような旨の「脅迫」があったこと。正当な引用の容認の留保もないヤクザ的なもののように感じ、個人的には、かなり憤りがある。地場ではこんなことがまかり通っているのか。
JRF2024/11/253616
ただ、著作物の慣行というのは、スピノザとかデカルトとかの西洋文明がやっと築きあげてくれたがゆえに、比較的、公正になっているのであって、そこから離れた世界になると、「脅迫」がまかりとおる世界になるのかもしれないな…とそこで実感した。
そういう慣行の断絶みたいなのは、きっと、カトリックの写本の世界から、プロテスタントの印刷の世界に変わったときでもあったのだろうし、インターネットの時代には、また、または、まだ一波乱ないといけないのかもしれないけど。
JRF2024/11/252947
……。
スピノザの神は、汎神論的決定論的唯一神で、聖書の神と重なる感じではなかった。しかし、スピノザ自身は、自身の神の一つの現れが聖書の神であるという立場を持っていたように思う。どうもデカルトはその辺は違うのかもしれない。
>ここでの神とは宗教的意味での神ではない。デカルトの神は信仰の対象としての超越者ではない。ものごとの究極原理を神と呼ぶのであり、これはいわゆる「哲学者の神」である。<(p.243-244, 訳者解説)
JRF2024/11/250882
至高神と創造神を分けるグノーシス主義があるが、当然、スピノザもデカルトも異端であるグノーシス主義と受け取られないようにする必要がある。その配慮はあっただろうから、訳者はここで多少、言い過ぎがあるのかもしれない。または、「哲学者の神」は空想的なもの・理論的なものという理解があるのか。
JRF2024/11/258361
……。
>(…デカルトは…)「もし神を畏れず、来世も期待しないならば、利得よりも正義を選ぶ人はわずかしかいなくなる」(「ソルボンヌ宛書簡」)。それゆえ第一に神の存在を知り、第二にわれわれの精神の不死なる本性を知ることが世界観として最重要である(エリザベト 1645.0.15)。精神の不死は哲学によって最終的には保証はされないが、十分「期待される」(同 1645.9.1)ので、「死を恐れずに生を愛して」生きるのがよいであろう(メルセンヌ 1639.1.9)と結論した。<(p.245, 訳者解説)
JRF2024/11/251389
私には「有神論の基本定理」という議論があり、それを思い出す。
『宗教学雑考集 第0.8版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。
…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。
善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。
<
JRF2024/11/259786
スピノザの思想を読んで、この「有神論の基本定理」が、「神を愛し、隣人を愛する」に近いとも考えたのだった。
JRF2024/11/258171
「有神論の基本定理」の体制に参画するには、まず神(・天意・摂理)を信じる必要があり、因果応報があると信じなければならない。そうすることで、>利得よりも正義を選ぶ<ことが可能になる。因果応報は、「有神論の基本定理」では現実には少しは影響するのであるが、それで満足できないことが多いであろうから、それが死後に精算されることを求めることが多かろう。すると、死後も魂が滅しない必要が出てくる。「精神の不死」を「期待」する必要があるのであろう。
JRF2024/11/256968
とすれば、私の「有神論の基本定理」からも最後の結論、「「死を恐れずに生を愛して」生きるのがよい」が出るのであろう。
JRF2024/11/259755
……。
訳者解説はここまで。この本の最初に戻ろう。
>『聖書』は、神から得られたものであるがゆえに信じるべきである、ということはまったく真であります。というのも、信仰は神の賜物でありますので、他のものを信じさせるために恩寵を与えた神は神自身の存在をも信じさせるために恩寵を与えることができるからです。<(p.014, ソルボンヌ宛書簡)
JRF2024/11/252228
神自身が神を信じるように与えた恩寵こそ『聖書』である…と読める。そこまで言って良いものか。『聖書』を読んで信じている者に与えられる恩寵はあろう。しかし、『聖書』自体が恩寵なのか? 例えば『聖書』を読むのを拒否したものは、恩寵を無碍にしたと言えるのか? 逆にお守りのように『聖書』さえ持っていれば恩寵が得られイイコトがあると考えるようなことを許さないか?…といったことは言えると思う。
まぁ、個人的には、そこまで言っても問題はほぼないように思うが。
JRF2024/11/257758
……。
>私は、あなた方はじめ他のあらゆる神学者たちが、神の存在を自然的理性によって証明しうると主張しておられることに気づいただけでなく、『聖書』からしても、神の認識は他の被造物について得られる多くの認識よりも容易であり、その認識をもたない者はとがめられるほどにまったく容易である、と推論されることに気づきました。
それは「知恵の書」第13章の「かれらも許されるべきではない。かれらがこの世を評価できるほどのもの知りでありえたなら、なぜこの世の主をより容易に見出さなかったのか」という言葉から明らかです。
JRF2024/11/253320
そして「ローマ人への手紙」第1章には、「かれらは言い逃れできない」と言われています。また同じ箇所にある「神について知られることは、かれらにおいても明らかである」という言葉は、神について知られうるすべてのことは、ほかならぬわれわれ自身の精神のうちに求められる論拠によって示されうることを告げているように思われます。
<(p.014-015, ソルボンヌ宛書簡)
『聖書』がなくても、神の認識がない者は、とがめられる…と。日本人には厳しい言葉だ。それともここは多神教の神々でもいいのかな?
JRF2024/11/252430
……。
>われわれはどんなに小さな物体でもその半分を考えることができるが、どんな精神についてもその半分を考えることができない(…)。<(p.028, 概要)
上で私は精神の「分割」のような「彫刻」は考えうることを示した。ただ「幾何学的」に半分みたいなものは考えにくいのは、そうかな…と思う。多目的最適化のパラメータで、スコアに 0.5 を付すみたいなのは、考えることはできるかもしれないが。
JRF2024/11/254698
……。
>もし精神のすべての偶有性が変化して、別のものを理解し、別のものを欲求し、別のものを感覚するなどのことがあるとしても、そのための精神そのものが別のものになることはないが、しかし人間身体は、そのある部分が変わるということだけから別のものになるからである。ここから、物体は容易に消滅するが、精神はその本性からして不死であるということが帰結するのである。<(p.028-029, 概要)
私は、精神の不死性を「有神論の基本定理」のための因果応報の必要性から説明するのであるが、しかし、デカルトは因果応報を本質的なものとは見ないだろう。
JRF2024/11/256069
「有神論の基本定理」の因果は、集団の他者に帰る。それを自分の因果応報に結び付けていくところに自己性の強さがあるのかもしれない。それは集団が求めるものでもある。集団が求める自己責任性は、集団の未来・その集団が解消されて含まれる集団の未来も含めたもので、そこに精神の無限性、不滅性が成立するのかもしれない。
ただ、その集団への帰依の利得が十分にないとき(それはしばしばある)、人は神に悖る判断をするのであろう。不倫など。それが肉体性なのであって、逆にそれと峻別されるものとして精神が・心身二元論が成立するのかもしれない。
JRF2024/11/255340
すると「精神」は集団の抑圧からなるとなる。デカルトのいた社会の「集団」はキリスト教会で、「精神」はそれが求めたもの、または、それ以前から求めたものだから、不死…となるのだろうか?
JRF2024/11/257652
……。
>無神論者とともに懐疑論者を駆逐することがデカルト哲学の目標の一つであった(レイドン大学評議員 1647.5.1. V, 9)。<(p.156, ソルボンヌ宛書簡 訳注)
…が、しかし、デカルトは「懐疑」を否定していたわけではない。ガッサンディの反論に対して…
>「懐疑だけではどんな真理をうち建てるにも十分でないことはなるほどその通りですが、それは精神に後日真理をうち建てる準備をさせるのにやはり有益であり、ただそれゆえにのみ私は懐疑を用いたのです」(「第五反論について」IX-1, 205)としている。<(p.158, 概要 訳注)
JRF2024/11/257833
……。
懐疑論でも普通は、三角形の特徴などの普遍性までは疑わない。しかし、デカルトはあえて神ならばそれも騙せるとして省察(瞑想?)してみるようだ。
>かくして、何か真なるものを認識することが私の能力のうちにはないとしても、しかし、少なくとも偽なるものに同意しないことは私にできるのであり、この欺き手が、いかに力があろうと、私に何も押しつけることができないよう、決然たる精神でもって用心するであろう。<(p.41, 第一省察)
JRF2024/11/251691
「偽なるものに同意しない」というのは、プログラミング言語の文法みたいなものを自分は持ち続けるぐらいの意味だろうか。もっとあやふやかな…。むしろ、精神の外から来るあらゆる真とされるものをただちに真としないということかな…。
Gemini さんによると「偽なるものに同意しない」は、むしろ自己保存の本能に近いかもしれない…とのこと。つまり「人間は、自分にとって有害なものを避けるという本能的な欲求を持っているため、明らかに誤っていると思われるものには同意しない、ということです。」
JRF2024/11/256474
……。
訳注では、神が出てくる第三省察以降の議論を先取りするが、神を知る以前には「真の知識」はないという。
JRF2024/11/258685
>「「無神論者が明晰に三角形の三つの角の和が二直角に等しいことを認識できる」ということを…私は否定しません。彼のそうした認識が真の知識 vera scientia ではないということを私は肯定しているのみです。それというのも疑わしくなりうるところのいかなる認識も知識と称せられるべきではないと思われるからです。彼が無神論者であると想定されているからには、彼にとってきわめて明証的と思われるものそのものにおいて自分が欺かれることはない、ということを彼は確知することができないのです」(「第二答弁」VII, 141)。
JRF2024/11/255463
「無神論者の知識について言えば、それが不変で確実でないことを論証するのは容易です。…彼は、真なる神…によって自分が創造されたということを知るのでないかぎりは、(明証的なものにおいても誤るかもしれないという)その疑いからけっして解放されないでしょうから」(「第六答弁」VII, 428)
<(p.165-166, 第一省察 訳注)
JRF2024/11/256049
上で集団の抑圧による精神の成立を私は論じたが、その成立に自覚的でない場合、「明確さ」の基準をもたないということになるのかもしれない。記録が残る永続する機関と擬制できる国や教会がないところで、「達成した明確さ」に意味を見出せるか…ということでもあろう。人間の真偽判定能力の限界から、いったん明確に思えるものに達してもすぐに判断に揺らぎが出るということだろう。それを内面化するとき、「唯一性」または主神への帰依みたいなものがないといけないのかもしれない。もちろん、それは「科学神」でもいいのだろうけど。この辺、AI はどうなっているんだろう?
JRF2024/11/254309
Gemini さんに聞くと AI については煮え切らない答えだったが、「集団は、個人が持つ知識や価値観を共有し、強化する場となります。しかし、集団が持つ価値観は必ずしも客観的なものではなく、時には誤った信念を強固にすることもあります。」…と指摘された。
JRF2024/11/251368
……。
第二省察に入り、私はコギトを部分否定するわけだが、その際に身体性を重くみる。上で引用した部分で言えば、「私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危うい」という部分である。この点を、第一省察の訳注では、デカルトも考えていたらしいことはわかる。
JRF2024/11/254888
>実生活の行為と真理探求における認識とは区別される。懐疑を実生活には及ぼすべきではない。「この疑いはただ心理の観想の場面にのみ限られるべきである。というのは、実生活に関するかぎり、われわれが疑いから脱却しえないうちに、行動する機会が去ってしまう場合がはなはだ多いゆえに、たんに真実らしいというだけのものを受け入れざるをえないこともまれでない…」(『原理』I-3)。<(p.168, 第一省察 訳注)
観想といえども実生活を完全に離れることはできないというのが私の立場になるのかもしれない。
JRF2024/11/258291
ただ、ヨガ的瞑想において、死に片足を突っ込んでする奥義のようなものはありうる。拙著『「シミュレーション仏教」の試み』において、「来世がないほうがよい」が死をかけて「生きなければならない」を超えることはありうる…と私もしたのだった。そのような観想においては、実生活を離れているとすべきなのかもしれない。
JRF2024/11/254073
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2024/11/257875
……。
第二省察のここまでのところで、感覚や記憶も幻想とされる。
>それでは何が真なるものか? おそらく確実なものは何もないという、このことだけであろう。<(p.044, 第二省察)
それでも確実に言えることはあると思い付くのだという。
JRF2024/11/251284
>何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるがかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは私を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。<(p.045, 第二省察)
JRF2024/11/256820
『省察』における「コギト」はこの部分のようだ。
私はそこに在る「私」が「私」そのものである保証はどこにもないと考え、そこで得られる自己認識を仮に「我々」でしかないとしたのだった。
JRF2024/11/259158
『宗教学雑考集 第0.8版』《デカルトとアンサンブル学習》
>「我思う」ぐらいで指し示すのは、そういったあいまいな情報源(いわば「我々」)のうちに一つを主体性を持って選べるということを示すのみであって、具体的な「我」を指し示すには、我がどういう思考を好むか、または、どういう身体性を持っているかなどで規定される必要があるだろうと考える。
JRF2024/11/252920
「我思う」だけではそこに確実な身体性はない。仮に、私の外に「霊」があって、それが実際には思っていたことを脳が「私は思っている」と解釈しているだけとすれば、「我思う」としたところで、外の霊なのかそれとも身体にある「私」なのかは判別できないはずだ。逆に、確かに、「我思う」とすることが、身体の外にあるものも含めた「我々」という具体的複数者が指せるわけでもない。それは認める。しかし、「我思う」で示せるのは「我」そのものではなく曖昧模糊とした「何か」のみなのだとは言える。身体が確かにありそれが「我」だとすでに決まっていたならば、「我思う」でも「我」が示せただろうというだけの話だ。
<
JRF2024/11/253664
……。
この省察において、物体の本性を何か所持するということはありえない。眠っているときに感覚したことも、起きればそれはなかったことになる。この省察はそのようなものだ。しかし…
>考えることはどうか? ここに私は発見する。思考がそれであると。これのみは私から切り離されることができない。私は在る、私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。<(p.047, 第二省察)
JRF2024/11/253446
考えることをいったんやめても再開できる。そこには脳のような身体性があるからではないかとも思うが、AI を考えると、記憶または記録のデータがあれば十分なのかもしれない。その場合、身体性(身体の固有性)は、PC というよりそれが乗る Transformer などを使ったプログラムのほうになるのだろうか。
JRF2024/11/256971
……。
>しかしまた、この私は想像する私と同じ私である。というのは、私が想定したように、想像されたものはどれもみな真ではないということがおそらくあるのにせよ、しかし想像する力そのものは実際に存在しており、私の意識の部分をなしているからである。<(p.050, 第二省察)
JRF2024/11/255783
「私」が「想像する私」と同じでない可能性がある(「私」でなく「我々」でしかない)…というのは私が述べたところである。しかし、デカルトがここで言いたいのは、ここで「想像する私」は、「考えてる私」以上のものでないから、それは「私」と一致しているということであろう。(ここで reflexivity と symmetricity が成り立つ「私」の同値性を定義しているような印象を私は持つ。)
JRF2024/11/258680
……。
「蜜蝋」の例をデカルトは出す。いろいろ変化しうる「蜜蝋」をしかし「蜜蝋」と認識できるのは、「私」の知性が行っているのであり、逆にそれを認識することでそれを思考できる「私」が存在しているという確信が増す…といったことをデカルトは主張しているように思う。
JRF2024/11/259561
>物体そのものは本来、感覚や想像の能力によってではなく、ひとり知性によって認識されること、そして触れたり見たりすることによってではなく、ただ知性で理解することによってのみ認識されることが、いまや私に知られているので、私は、私の精神ほど容易にまた明証的に、私によって認識されるものは何もないことを明らかに知る(…)。<(p.057, 第二省察)
JRF2024/11/257445
デカルトには見落としがあるというのが私の意見である。つまり、蜜蝋が私の一部ではないということが、ここでは・思考だけでは明らかではないのだ。そこにはすでに感覚が入り込んでいる・身体性が入り込んでいると私は見る。デカルトは身体性の前に私の思考があるとしたいようだが、そうではない。そこにあるのはせいぜい「我々」の思考だ。
JRF2024/11/259481
……。
訳注。「コギト」命題。『省察』では上述の通りだが、有名な「コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum」はどこにあるのか?
>他のテキストでは次のような言い方になっている。
JRF2024/11/255688
「そうするとただちに、私は気づいた、私がこのようにすべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」je pense, donc je suis というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した」(『序説』VI, 32)。
JRF2024/11/250521
「神も天空も物体もないと想定することは容易であり、また、われわれ自身が手も足も、さらには身体をももたぬと想定することさえ容易である。しかしながら、だからといって、このようなことを考えているわれわれが無であると想定することはできないのである。なぜなら、考えるものが、考えているまさしくそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである。したがって「私は考える、ゆえに私はある」ego cogito, ergo sum という認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学するものが出会うところの、最初の最も確実な認識である」(『原理』I-7)。
<(p.171-172, 第二省察 訳注)
JRF2024/11/256712
…ということでデカルト『哲学原理』にそれはあるようだ。
JRF2024/11/250329
……。
ところで、このコギト命題。これは公理なのか、定理なのか。どうも直観から得られる公理的なものというのがデカルトの元々の考えのようだ。
>コギトからスムへの導出手続については、それは「直観」であると説明される。
JRF2024/11/251911
「「私は考えるゆえに私はある、あるいは存在する」と言う場合、存在を思考から三段論法によって演繹しているのではなく、あたかも自明なものであるかのごとくに、精神の単純な直観 simplex mentis intuitus によって知るのです。そのことは、存在を三段論法によって演繹するのであれば、あらかじめ「すべて思考するところのものはある、あるいは存在する」という大前提を知っていなければならなかったことからして、明らかです。
JRF2024/11/257390
けれども、かれはまさしくかれの存在を、存在するのでなければ思考するということはありえないと経験することから、知るのです。というのも一般的命題を特殊なものの認識から形成するのがわれわれの精神の本性だからです。
」(「第二答弁」VII,140)
<(p.171, 第二省察 訳注)
脳に推論機能がある程度備わっている可能性はあるにしろ、真理は学んでいくしかなく、その最初のものであるコギト・エルゴ・スムが、当然に経験的真理なのだということだろう。
JRF2024/11/255563
ただし、他のところでは大前提からの導出も否定していないようだ。
JRF2024/11/256350
>「「私は考える、ゆえに私はある」という命題は、あらゆる命題のうち、順序正しく哲学する者ならだれもが出会う、最初の最も確実な命題であると私が言ったとき、だからといって、「思考とは何であるか」「存在とは何であるか」「確実性とは何であるか」ということや、「思考するものが存在しないということはありえない」などということを、上述した命題よりも前に知っておかねばならないことを否定したわけではなかったけれども、しかし、これらは、きわめて単純な概念であり、またそれらだけでは、なんら存在する事物の知識を与えてくれないのであるから、それをわざわざ数えあげるにはおよばぬ、と考えた」(『原理』I-10)。
JRF2024/11/253244
要するに、一般的な単純概念が暗黙裡に前提されているとはいえ、はじめにコギトの直観があり、事後の分析によって大前提からの推論が可能になるということだろう。
<(p.173, 第二省察 訳注)
この点、私には、「我」の発見については、他者性と絡めて、「我思うゆえにありうるのは我々までである」とは別様に語っている部分がある。
JRF2024/11/255291
『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>我々は、「私」に至る偶然に神の意志性を見出す。生まれてきた「私」は何かと不如意である。思い通りにできない。しかし、「私」を導くものがあり、「私」のしたいことを前もって助けてくれる。それは親かというとそれももちろんあるが、それだけではない。私の肉体自身が私にはよくわかっていないから、私の肉体が「私」を教えるという面もある。そこに(親や肉体も含めた)「他者」の痕跡を発見するのだ。
JRF2024/11/250860
それを振り返ると、「私」が選ばれてきた偶然がある。「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「私」に至る偶然に何らかの意志性を見出さざるを得ない。なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見である。
JRF2024/11/256974
逆にその神の意志から、「私」はそれが自分の中にも似た物があると発見していくのではないか。第一章で「我思うゆえにありうるのは我々までである」と説いたが、何が意織しているか当初はわからないまま、他者としての神を認識し、自らにとって不如意であること甚[はなは]だはしいが導いてくれる、その神に似たものとして意識の境界を確定し、「私」の意志性を発見していくのではないか。
<
JRF2024/11/253356
……。
>もし神がその気になれば、私が精神の目でこの上なく明証的に直観していると思うものにおいてさえも、私を誤らせることは神には容易であると認めざるをえない。<(p.060, 第三省察)
神はその気にならない。神は、人間に private 性を認め、介入可能だが介入なさらない。神は自らにそういう不能性を与えているという点で、全能性は制限を受けている。…とは言える。デカルトもこのような全能性の制限ならば認めるということだろう。
JRF2024/11/252488
……。
これまで神が欺きうるとして省察を進めてきたが…。
>できるだけ早い機会に神があるかどうか、もしあるなら欺瞞者でありうるかどうかを吟味しなければならない。<(p.061, 第三省察)
そして神が欺瞞者でないなら、明晰判明たる真理は、そのまま真理としてよい。…ということらしい。
JRF2024/11/258186
……。
>観念が無から生じることはありえない(…)。<(p.068, 第三省察)
自由意志とは、private 性に隠されたランダム性(サイコロのようなもの)であると私はする。
[cocolog:95118413](2024年10月)
>スピノザが決定論に立ち自由意志を否定するのに対し、私は自由意志の存在を認める立場にたって語った([cocolog:95105758](2024年10月)から辿っていただきたい)。
そこでの自由意志は、private 領域に隠されたランダム性のことだった。神も冒さない心の中でサイコロを振っているイメージである。
<
JRF2024/11/253920
このことについて最近、次のようにも書いた。
>
○ 2024-11-21T03:01:13Z
目的論的発展を否定する方々がいる。スピノザもだいたいそうだった。それに対し私は「イメージによる進化」論などで肯定する。しかし、偶然で選んで発展することは AI などにも普通にある。それを認めるなら、偶然に得られたイメージ=目的を目指す社会や進化の発展は当然あるとすべきように思うのだが。
<
JRF2024/11/253374
最適化などに偶然の要素を使うことは常識である。偶然得られた解といっても、実際の身体などを使って試す解は、偶然得られた解の中でも吟味された解である。さらにその解が、体で試すことでさらに吟味される。だからそれは通常の「偶然」や「ランダム性」とはずいぶんかけ離れたものとして私は想像している。しかし、吟味するとき、そこには信仰的要素が入りうるし、実際に神が介入していたとしても、または、無意識により社会からの示唆があったとしても、それを偶然を積み重ねた吟味と区別することはできないと思われる。
JRF2024/11/255930
それが神からの介入を受けてなかったとしたなら、偶然がその大元にあったというなら、それは、無から生じたとも言えるのではないか。AI の強化学習などを考えれば、それが実際に役立つことがあるのは明白である。そのとき得られた方策は観念の一種と言ってもいいはずである。
観念が無から生じることもありえる。(もちろん、神から生じることもありえる。)…と私は考える。
JRF2024/11/252341
《イメージによる進化 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html
>ニワトリが先か卵が先か、という議論がある。私の解答は「ニワトリの概念が先だ」というものである。
もちろん、人間がニワトリという種を認識していなければ問いそのものが生まれないが、そういうことを述べたいのではない。
「卵が先」と考える場合、ニワトリの親は違いの姿などから次に生まれるものがニワトリのような姿になることをイメージに持ってつがっただろうということである。
JRF2024/11/250778
「ニワトリが先」と考える場合、夫婦は同じニワトリだという認識のもとつがったのであるから、その卵がどういうものであれニワトリの卵であろう。
おそらく、そもそも「ニワトリモドキの種」という系があり、その中で親も卵もニワトリだという認識のもと「ニワトリの種」というものが除々に確立していくのではないだろうか。
<
(↑は『宗教学雑考集』にも所収されている。)
JRF2024/11/252023
……。
>もし私のもつ観念のうちで、あるものの表象的実在性がたいへん大きく、その実在性が形相的にも優越的にも私のうちになく、したがって私自身がその観念の原因ではありえないことが確かであるほどなら、そこから必然的に帰結することは、ひとり私だけが世界に在るのではなく、その観念の原因となる何か他の事物もまた存在するということである。<(p.069, 第三省察)
JRF2024/11/257908
上で『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》で引用した部分、すなわち、親が肉体が他者性をまず示す、それが「なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見」であるということであった。これは誕生からの身体史からの神の発見だが、進化史・宇宙史からの神の発見もありうる。
JRF2024/11/259257
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《因果応報の神》
>では始源はどれぐらい昔であればいいのか? 意志はそんな簡単に生じるものではないと思われるにしろ、因果を(正しく)認識しうる意志が生じるまでの偶然の蓄積のための過去は有限でありうる。有限時間の偶然で意志は生じえないという立場もあるかもしれないが。
JRF2024/11/250529
ただいずれにせよ、始源の創造神があっても意志が生じるまでの時間的過去が問えるのは変わらない。因果応報の神は(または摂理は)「そのとき」のためにすべてを(「過去」を含めて)創造していた(している)とできるだろう。それが上ではイエス・キリストでありえたという話だった。もちろん、それは「あなた」かもしれないが、それは相当の重荷なので、その重荷はイエスや釈尊など他者に預けたほうが賢明だろう。
<
JRF2024/11/258844
……。
>無限な実体においては、有限な実体においてよりも、より大きな実在性があり、したがって無限なものの認識が、有限なものの認識よりも、つまり神の認識が私の認識よりも、ある意味で先行して私のうちにあることを、私は明らかに理解している(…)。<(p.073, 第三省察)
JRF2024/11/253573
スピノザ『エチカ』を読んだとき([cocolog:95101727](2024年10月))、神が自然を創造している「途中」であったとしても、論理的帰結は、すべて導出し終っている。つまり、「無限論理延長」はすでに存在しているとスピノザは考えていると考えた。その「無限論理延長」に参与する形で、「私」の真理認識をそこに寄せることが、魂の永遠性になるのだ…ということのように私は解釈した。
デカルトのこの部分は、スピノザのその考えの元になっているというか、似ている部分のように思う。
JRF2024/11/259208
……。
上に続く部分、無限の神に関し…
>この神の観念はおそらく質料的虚偽であり、したがって少し前に熱と冷などの観念について私が認めたように、無から生じうるのではないかと言うことはできない。<(p.073, 第三省察)
神は奇跡をなすが、「奇跡は証拠を残さない形でなら起こりうる。しかし、証拠を残す形で起こってもいいはずだが、なぜか、そうならない」ものである(参: 『宗教学雑考集』《奇跡》)。
JRF2024/11/255548
ここからの帰結として、神は神が存在しないと帰結されることもあえてお認めになるように思われる。特にその無限性に頼ることを嫌っておられるのではないか。
神の観念が無限でないということは、その観念が一度消滅して、無から生じうることもお認めになるのではないだろうか。(円城塔『コード・ブッダ』を読んだとき([cocolog:95118413](2024年10月))、ブッダの消滅の可能性を考えたのだった…。)
JRF2024/11/251354
……。
>私が神と言っているのは、その観念が私のうちにあるのと同じ神、つまり、私は把握することはできないが、ある仕方で思考によって触れることはできるところのすべての完全性をもち、どんな欠陥からもまったく免れている神である。これらのことから、神は欺瞞者ではありえないことは十分明らかである。<(p.082, 第三省察)
神が欺瞞者でないのは、しかし、欺瞞があれば、その欺瞞は自分の・社会のものとして神を免責してしまうからではないだろうか?
JRF2024/11/257003
ともあれ、これで、明晰判明たる真理は、そのまま(欺瞞であることはありえず)真理と認めるということのようである。
JRF2024/11/251549
……。
>「第四省察」17にあるように、明晰判明な認識が真であることの根拠は神の誠実にある。<(p.181, 第三省察 訳注)
上で私は、精神の成立に関して、「記録が残る永続する機関と擬制できる国や教会がないところで、「達成した明確さ」に意味を見出せる」ことを述べた。すると、私の場合「明晰判明な認識が真であることの根拠」は、記録を司どる司書の誠実さにある…ということになるのかもしれない。
JRF2024/11/255877
もちろん、一人の司書の誠実ではない。文書が複数残っていって、その全部が書き換わることはないということへの信頼も含めて述べている。それは物理的根拠を持つ強固な信頼とは言え、「信頼」であるのに変わりはない。その「信頼」が神的なものにまで高まるのは、「信仰」によるのだろう。
文書がすべて失われたとき、神の観念が消滅するともできるのかもしれない。そこからでも、ほぼ同じ神の概念は復活しうるし、するはずだ。それを担うのは人間ではないかもしれないが…。という「信仰」までもあるのかもしれない。
JRF2024/11/250352
そこまで信仰してはじめてデカルトのいう「明晰判明さ」が出てくるのかもしれない。
そういえば、阿字信仰など文字信仰というべきものがあったのを思い出す。
『宗教学雑考集 第0.8版』《日本の創造》
>日本は『古事記』『日本書紀』にあるイザナギ・イザナミの夫婦神の生成によると同時に、室町前期の『神道集』には、日本の国土は原初の海底にあった大日如来の印つまり「阿」字から始まった…ともあった。
JRF2024/11/257575
イザナミ・イザナギとは(ある意味)別に、宇宙が存在するのは大日如来の働きがあるということになるのだろう。その両者がつながるところに梵字の神話があり、それが記紀の過去においてまったくその徴候がなかったとは言えない面もあるのではないだろうか。例えば記紀の文をある法則で並べると梵字相当になるとか。(逆にどうやってもならないとか。)
JRF2024/11/256669
《「捨て扶持」理論》を逆にいうと、僧の階級は経済的な危機においては消えていく階級ということになる。自分達が消えていく中で最終的には物として残るしかないとなり、その信仰が文字信仰や偶像信仰になったのだろう。「阿」字信仰は、文字信仰の究極のものか。
<
もちろん、集団の存続が前提の信仰もある。文字信仰が左派なら、こちらは右派信仰となるか。
JRF2024/11/253514
『宗教学雑考集 第0.8版』《死と復活の信仰と秘伝》
>王権の周囲に秘伝がなかったかというとそんなことはなかったであろう。少なくとも金属器の登場によって、金属の利用法や、宝石・鉱石の採掘について、秘伝はあったと思われる。もちろん、歴史や法律に関する秘伝もあっただろう。そういう秘伝を伝える者は、冬の死により失なわれてはならないと主張しただろう。
JRF2024/11/258456
死を当然予想しなければならないというのが死の儀式である。それで社会的プレッシャーをかけて、秘伝を守ろうとする者に王権に庇護を求めさせる、そのような、王権集中の制度が季節の信仰だったのではないか。
《「捨て扶持」理論》では「捨て扶持」の存在が僧の階級につながったとして《聖》で聖職者階級の登場を説くが、そちらは文字信仰や偶像信仰など最終的に物として残る信仰で、季節の信仰による王権の庇護とはまた別だったのではないか。(《日本の創造》では文字信仰に少し言及した。)
<
JRF2024/11/250809
……。
>「われわれのなかに何らかの事物の観念あるいは映像があり、しかもそれによってあらわされているすべての完全性を現実に含んでいる原型 Archetypus というべきものが、われわれ自身の内であろうと外であろうと、どこにも存在しないなどということは不可能である…」(『原理』I-18)。<(p.188, 第三省察 訳注)
ユングの元型は有名だけど、ずっと前からその概念自体はあったんだね。
JRF2024/11/258299
……。
>神は把握 comprehendo されないが、思考によって触れられ、知性によって理解 intelligo されることができる、とするのがデカルトの本意である。「有限な精神は無限である神を把握することはできませんが、しかし神を知ることを妨げません…。ちょうど人が山を両腕で抱えることはできなくとも、山に触れることは十分できるように」(「第五反論について」IX-1, 210)。(…)「無限はいかなる仕方でも把握されないが、…それが無限であると明晰に認識するかぎりにおいては、…理解される」(「第一答弁」VII, 112)。<(p.191, 第三省察 訳注)
JRF2024/11/253227
……。
>無際限 indefinitum と無限 infinitum とは区別される。「いかなる面からも制限が見つけ出されることのないもののみを、本来的に無限と称するのですが、この意味では神のみが無限です。しかし、ある根拠のもとでのみ私がその限界をそのなかに認知しないもの、たとえば想像的空間の延長、数の多、量の部分の可分性…を私は無際限とこそ称しますが、無限とは称しません。…それらはすべての面から限界を欠いているというわけではないからです」(「第一答弁」VII, 113)。<(p.196, 第三省察 訳注)
スピノザに関しても「無限」という言葉に関しては私が問題にしたのだった。
JRF2024/11/256698
スピノザ『短論文』を読んだ([cocolog:95105758](2024年10月))
>>
>二つの無限なものはあり得ずさうしたものはただ一つであること<(p.60)
奇数も偶数も無限個あり、それらは別のものだから、二つの無限なものはあり得る。…ということはスピノザがここでいう無限はそういう無限ではない。奇数には含まれてない数値があるという点で、有限だということだろうから、その「無限」はすべてを含むという意味での無限なのだろう。
JRF2024/11/255342
ただ、すべてを含むというときに、カントールのパラドクスやラッセルのパラドクスなどに陥らないように制限する必要があり、その制限を実在性・実有に求めるということなのだろう。その実有の総称が神…といった感じか。スピノザの場合。
<<
JRF2024/11/256954
……。
>神が私を欺くことはおよそありえないと私は認める。というのは、すべての詐欺や欺瞞のうちには、何らかの不完全性が見出されるからである。そして欺くことができることは、何らかの明敏さあるいは能力の証拠であると見えるかも知れないが、しかし欺こうと欲することは、疑いもなく悪意あるいは弱さを示すものであり、したがって神には適さない。<(p.085, 第四省察)
神は完全であるがゆえに、欺く理由がない…と。
ところで、欺くことができるのは何らかの明敏さ…ということに関して↓を思い出す。
JRF2024/11/257301
トケイヤー『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』([cocolog:86365513](2016年11月))
>要領のいい人間と賢い人間の差 -- 要領のいい男は、賢い人間だったら絶対におちいらないような困難な状況を、うまく切り抜ける人のことである。<(p.129)
JRF2024/11/258326
……。
私はなぜ誤謬しうるか。神が完全であるのに。最初の訳者解説のところでも述べたが、本文ではここからのようである。
>私が最高存在者によって創造されたかぎりは、私を誤らせたり誤謬に導く何ものも私のうちにはないが、しかし私はまた何らかの仕方で無すなわち非存在者をも分けもっているかぎりは、つまり私自身は最高存在者ではなく、きわめて多くのものが私に欠けているかぎりは、私が誤ってもなんら驚くには当たらないということにも気づいたのである。<(p.086, 第四省察)
JRF2024/11/252921
上で偶然を吟味して解を導くとき、神から介入もありうるが、そうでない場合は、無から解を導くのだとだいたい述べた。デカルトはここで、無から解を導いている可能性…ゆえに誤謬しうる…を述べていると言えよう。
JRF2024/11/252695
>われわれが神の作品が完全であるかどうかを探求するときはいつも、ある一つの被造物を切り離して見るのではなく、すべての事物の総体を見なければならないということである。というのは、単独ではきわめて不完全に思われてもおそらく不当ではなものでも、この世界の部分の役割をもつものとしては、きわめて完全であることがあるからである。<(p.088, 第四省察)
ここは、「私を全体のうちの部分と見れば、私は必ずしも不完全ではないだろう。」という訳者解説に出ていた部分。
JRF2024/11/252876
……。
>私の誤謬(…)がどういうものであるかを探究してみると、それは同時にはたらく二つの原因によっていること、すなわち私のうちにある認識の能力と、選択の能力あるいは自由意志に、言いかえれば知性と同時に意志によっちることに私は気づくのである。<(p.089, 第四省察)
デカルトは、自由意志は完全なものが人に備わっていると考えているようだ。しかし、知識は当然に足りない。その足りない知性の中で自由意志を発揮するから誤る…と考えるようだ。
JRF2024/11/252623
……。
スピノザは自由意志そのものを否定するのだが、デカルトはカトリックが認めるぐらいには自由意志の余地を認める…またはそれ以上に認めるようだ。
>私は十分に広く完全な意志、つまり自由意志を神から授からなかった、と不満を言うことも出来ない。というのも、意志はいかなる限界によっても限られていないことを私は実際に経験しているからである。<(p.089, 第四省察)
JRF2024/11/256965
>(…理解の能力、…)記憶の能力、あるいは想像の能力、あるいは何であれ他の能力を調べてみると、私においては弱く、制限されているが、神においては広大であると私が認めないようなものは何ひとつ見つからないのである。ひとり意志つまり自由意志だけは、それ以上大きなものの観念が考えられないほど大きいものであることを、私において経験している。したがって、私が神のある像と似姿を担っていると理解しているのは、主として意志を根拠としてである。
JRF2024/11/259756
(…)
意志は[私におけるよりも神において]より大きいとは思われない(…)。というのも意志は、われわれが同じことをしたりしなかったりできる(つまり肯定または否定すること、追求または忌避することができる)という点にのみ存しているからである。あるいはむしろ、知性によってわれわれに示されるものを、肯定または否定し、追求または忌避する際に、何ら外からの力によって決定されていると感じないでそうする、という点にのみ存するからである。
<(p.090-091, 第四省察)
JRF2024/11/253500
仮に不可能なことでも意志だけはできる。…と。認識は小さいが、判断は十全である。…と。
private 性…ここでは「隠せる」という意味ではなく、完全な自己決定性(責任性)があるという意味で、それが自由意志にはあり、それは神の意志に見られるものと等しいのだ…というのがデカルトのようだ。
JRF2024/11/253544
……。
>私の誤謬はどこから生じうるのであろうか? すなわちそれは、意志は知性よりもより広範囲に広がるので、私が意志を知性と同じ範囲内に限らないで、私が理解していないものにまで押し及ぼすという、ただこの一つのことからである。そうしたものに対して意志は非決定であるので、容易に真と善から逸れ、かくして私は誤り、罪を犯すのである。<(p.092, 第四省察)
JRF2024/11/254021
……。
>また私は、神が知性よりも広く及ぶ意志を与えたことに不平を言う理由もない。というのは、意志はただ一つのもの、いわば不可分なものからなっているので、意志から何かが取り去られうることを、意志の本性が許すとは思われないからである。<(p.094-095, 第四省察)
「意志はただ一つのもの」というのにスピノザ的汎神論を想像するが、ここはむしろ三位一体において、意志たる聖霊が、神の位格と一致することを想像すべきなのだろう。
JRF2024/11/251913
……。
>しかし私が自由のままで、有限な認識をもつままであっても、それでも神は、私がけっして誤らないようにすることが容易にできたはずであると思われる。すなわち神は、いつか私が熟慮するであろうすべてのものについて、明晰判明な認識を私の知性に与えてくれるか、あるいは、私が明晰判明に理解しないものについてはけっして判断することのないよう、忘れがたいほどに強く私の記憶に刻み込んでくれるだけでもよかったのである。そして、もし神によって私がそのように作られていたなら、私がある全体という役割をもつかぎり、私は現在そうであるよりもいっそう完全であったであろうことを容易に理解する。
JRF2024/11/250662
しかし、だからといって、事物の全総体においては、ある部分は誤謬を免れていないが他の部分は免れているという場合のほうが、すべてがまったく似ている場合よりも、ある意味でいっそう大きな完全性があるということを否定することができない。
<(p.095-096, 第四省察)
この記述から、神は最初に、人に欠陥あるよう「彫刻」したというイメージを私は持つ。
ちなみに、私は神がこの世界を欠陥だらけに見えるようにしたことについて、次のような説明をする。
JRF2024/11/258004
『宗教学雑考集 第0.8版』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。
総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。
JRF2024/11/256046
その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。
すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。
<
JRF2024/11/257531
……。
>私が判断を下すにあたって、知性によって意志に明晰判明に示されているものだけに及ぶように意志を制限しさえするなら、私が誤ることはまったくありえないのである。なぜなら、明晰判明な認識はすべて疑いもなく[実在的な]何かであり、したがって無から出てくることはありえず、むしろ必然的に神をその作者としているからである。<(p.097, 第四省察)
外部は刻々と状況が変わるものだから「行動」をしようとするなら、明晰判明に示されてない知識は当然ある。すると、ここの部分が適用できるのは、脳の中で、論理導出するようなことのみに限られてくる。
JRF2024/11/251072
いや、まぁ、そういうことが言いたい、この本ではこの先、そういうことをするということなのかもしれないが。
それに意味があるのか?…とは正直な感想である。
JRF2024/11/258758
……。
>「よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しい」(『序説』VI, 2)。<(p.198, 第四省察 訳注)
どうもデカルトの「自由意志」は「理性」とだいたい同値なようだ。「理性」こそ神の似像であるというのは、ままある見解ではある。
JRF2024/11/257354
……。
>アリストテレスの目的因 causa finalis が排除されている。(…)「すべて神の目的は私たちに隠されており、そこまで飛び込んでいこうとするのは向こう見ずです」(『対話』V, 158)。自然的事物においては目的因でなく作用因を追求すべきである、とする見解は『原理』I-28, III-3 にも見られる。<(p.199, 第四省察 訳注)
私は「イメージによる進化」で、イメージに神の介入がありうることを認める。そういう意味では自然的事物においても目的因を部分的に認めている。
JRF2024/11/257698
……。
>なお、(…デカルトの…)若い時代の断片には「神は三つの驚異をなした。無からの創造、自由意志、神人」という言葉が記されている(『思索私記』X, 218)。<(p.200, 第四省察 訳注)
デカルトは若いころからの自由意志論者だったんだね。スピノザが自由意志を否定したのは、デカルトの反照という側面もあったのかな。
JRF2024/11/251272
……。
>自由の意味として二つが区別されている。一つは非決定 indifferentia の自由である。これは選択は自由だが、A よりも B を選ぶ理由がない場合をいい、認識の欠如によるもので「ビュリダンのロバ」に等しい。他は、自ら一方を選びとる自発性 spons の自由である。これは外からの力による決定や強制によるのではなく、内発的に一方を自由に選択することである。
JRF2024/11/250106
(…)
『省察』の時期では非決定の自由の評価が低い。だが後のメラン宛書簡(1644.5.2.IV, 118, 1645.2.9.IV, 173)や『原理』I-39, 41 では、逆に非決定の方が評価されるようになる。
<(p.201, 第四省察 訳注)
非決定の自由と自発性の自由…。
ビュリダンのロバ(ブリダンの驢馬)は、スピノザ『エチカ』を読んだときも出てきた。
JRF2024/11/259344
スピノザ『エチカ』を読んだ ([cocolog:95101663](2024年10月))
>>
ブリダンの驢馬については訳注に説明がある。
>注(35) (…)ジャン・ブリダンは14世紀のフランスのスコラ哲学者。彼は驢馬には自由意志がないから等距離にある二つの等しい食物の間に置かれたらどちらを選ぶこともできず餓死するだろうと説いたとされる。<(上巻 p.344, 第二部訳注)
基本的には、自然(環境・身体)というのは何がしか違うものなので、「等距離」は実現せず、仮に「等距離」が実現すると無理に仮定したら、人はどちらも選べないはずだ…というのがスピノザの意地のようだ。
<<
JRF2024/11/250512
……。
第五省察の神の存在の証明は、訳者解説に戻らねば理解できなかった。
>この数日、私が省察してきたことのすべてがたとえ真ではないとしても、私において神の存在は、これまで数学の真理がそうであったのと少なくとも同じ程度の確実性をもつはずである。もっともこのことは、一見しただけではまったく明白であるわけではなく、むしろある詭弁の相を呈しているかもしれない。<(p.101, 第五省察)
JRF2024/11/257396
>翼のある馬や翼なしの馬を想像するのが私の自由であるのとは違い、存在を欠いた神(つまり最高の完全性を欠いた最高に完全な存在者)を考えることは、私の自由にならないからである。
また、ここで次のように言うべきでもない。すなわち、神はすべての完全性をもつと想定した後では、存在は完全性の一つであるから、神を存在するものと想定することはたしかに必然的ではある。しかし最初の想定は必然的でなかった。
<(p.103, 第五省察)
JRF2024/11/250316
いや、結局、神の完全性から、存在を導いているように私は思ったのだが…。
訳者解説にはこうある。
>存在を欠いた神を考えることは私の自由にはならない。神がすべての完全性をもつという想定は必然的である。神の観念は虚構のものではなく生得観念であり、真なる本性をもつ。<(p.233, 訳者解説)
JRF2024/11/251870
「最初の想定は必然的でなかった」というのは、省察での最初は必然的でなかったが、その後、神の完全性はデカルトによって必然的に証明されて、ここに至っている…と受け取るべきだった…ということだろうか?
神の完全性がどうして生得概念なのか。完全性を「全知全能性」と読み換えたとき、それがどこから出てきたかについて、次のような論考が私にはある。
JRF2024/11/250861
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《神の全知全能性》
>ところで、神が未来にわたって全知、あらゆることに全能というのはどこから出てくるのか? 古代の神々はそれほど全知全能でなかったことが知られている。
因果応報のためには、人のなしたことをすべて知っていなければならない。応報がいつも機能しているためには、いつでも介入できる能力があり、いつでも介入していなければならない。(…) でも、それらは「神が未来にわたって全知、あらゆることに全能」とは少し違う。
JRF2024/11/253954
それが未来にわたって全知となるには、応報がその人のためになっていることがわかっていることが必要だから、未来もわかっていなければならないからだろうか。ただ、神が公平な裁判を行うという概念は古代にもあったが、しばしば神は至善(常に人にとって善いことをなす)ではなく、そこに全知性は成立してなかったと思われる。どこから至善で全知が導き出されるのか?
JRF2024/11/252182
…善は法として人が決めるものだから、神も決める、神の「法のように決めたこと」が善だから、それを決めれる神は至善なのだ、そしてそのために人のすべての行動を知る全知があるはずだ…という展開だとすると、ハンムラビ法典のような 法律の成立が至善性・全知性の淵源なのかもしれない。
JRF2024/11/254353
人に言うことを聞かせるには「全能」を信じさせたほうが良い。しかし、なぜそれを信じることができるのか? 奇跡信仰との関連だろうか…。なぜ奇跡を信じることができたのか? 世界が広まり伝聞が重要になったからだろうか…。ピラミッドのような 公共事業や科学技術の驚異が、奇跡のあり方を空想させ、人にその延長線上の全能がありうることの信仰を生んだのかもしれない。
<
ただし、全能性には「持ち上げられない岩を作ることができるか?」などのパラドキシカルな問題もある。それを制限するのが↓になる。
JRF2024/11/256520
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《皇帝的神の全知全能性》
>「法で人が応報すること」・「技術などの知識の蓄積」は、人が神に近付こうとしているとも言える。最高に人が全知全能の神に近付いたところに皇帝がいた。
神の全知全能性には別の解釈がありうる。
神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。
JRF2024/11/257279
…このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。
(…)
一方、このように捉えた神は「あくどい」。だが、そこにも一面の真実の投影があるのではないかと私などは思う。皇帝にも名君がいるように、そのような神の中にも善良な神が成立しうる。
皇帝的全知全能の神より力があれば、それはすべて全知全能性があるとできる。全知全能は矛盾を含みがちな概念だが、この意味の全知全能性であれば、矛盾を生じにくい。このような全知全能性のある神概念の中で、善性があるものの中に実在の神を示すものがあるのであろう。
<
JRF2024/11/253508
……。
完全性から存在を導くのには、中世哲学の伝統があったようだ。
JRF2024/11/255404
>存在がなぜ完全性といえるのか。中世哲学においては、ものが無でなく存在することが完全性[実在性]の一つと数えられていた。「ものは現実態にあるかぎりにおいて、完全である(完全性のあり方に応じて何ら欠けるものがない)といわれる。…「存在」そのものは、すべてのものに対して現実態の位置にあるので、すべてのうちで最も完全なるものである。…あるものが完全であるのは、そのものが存在を何らかの仕方で有するかぎりにおいてである」(Thomas Aquinas, Summa Theologiae. Pars Prima.Q.4.a.1&2)。<(p.205, 第五省察 訳注)
JRF2024/11/254178
……。
>「神があることを知るのはむずかしい…と信じる人々が多いのは何によるかといえば、それは彼らが彼らの精神を、感覚的事物より上に高めることがけっしてない、ためである。彼らは、ものを想像することによってしか考えぬという習慣にとらわれており、しかも想像とは物質的事物にのみあてはまる思考のしかたなのであるから、けっきょく、想像されえないものはすべて理解されないものであるかのように彼らには思われるのである」(『序説』VI, 37)。<(p.207, 第五省察 訳注)
一神教の偶像崇拝の禁を思う。偶像崇拝の禁は、感覚的想像の禁でもあったか。
JRF2024/11/251936
>「もしわれわれの精神が、前もって先入見から完全に離脱していたとするなら、以上のこと(神の存在)は容易に信じられるであろう、と私は思う。
JRF2024/11/257927
ところがわれわれは、他のすべての事物において、本質と存在とを区別することに慣れており、また現にどこにも存在せず、かつて存在しなかった事物を、勝手につくりだすことにも慣れているので、最も完全な存在者の観想にまったく専心していない場合には、もしかするとこの存在者の観念は、われわれが勝手に作為した観念の一つであるかもしれないとか、あるいは少なくとも、その本質に存在が属していない観念の一つであるかもしれないなどと疑うことがよくあるものである
」(『原理』I-16)。
<(p.207, 第五省察訳注)
JRF2024/11/254718
余計な知識がなければ、神の存在を論理的に導ける…と? そうだろうか。
確かに知識が増えるごとに神の存在証明は難しくなっている…とは言えるのかもしれない。でも、それは神の存在証明がことごとく論理学的に成り立っていないからでもある。私は神の存在証明は論理学的にはありえないとみなす。
JRF2024/11/252115
『宗教学雑考集 第0.8版』《神の存在証明を論駁する》
>アンセルムス(1033年-1109年)は神の存在証明をしたことで有名である。最大の存在というものが存在するはずで、それは神でしかありえない…という証明であると私は解釈している。しかし、この「証明」は、数学において順序に最大値が一意に定まらないものがあることなどから反駁可能である。
JRF2024/11/257777
数学にはこれに似た議論として Zorn の補題があり、そこではその補題が成り立つとしても成り立たないとしても論理体系を築けるという性格がある。もし、神の存在証明がそれに関していたとすれば、その神学は、とても微妙な問題を扱っていたことになる。ただ、基本的には関係なかろう。
神の存在証明は、「奇蹟」によって証ししようと思えばできるはずのものを論証することである。むしろ、それを「証明」と言ってしまうことで、神の在り方を限定するものになってしまっている。それよりも証明には「伝聞」という「愚かな方法」があり、それが尊いのだろう。
<
JRF2024/11/254932
……。
物体の実在性について。物体は自分の中にない何かを感覚に投げかけるので、単なる想像とは違うが、しかし感覚に基づく判断は誤ることはある。それでも物体が実在するとして考えてよいのはなぜか。
>神はそうしたことを認識する(…表象的実在性などを直接認識させるような…)いかなる能力をもまったく私に与えず、むしろ反対に、それらの観念が物体的事物から送られてくると信じる大きな傾向性を与えたので、もし物体的事物以外のものから送られるとするなら、どうして神が欺瞞者ではないと理解されうるのか分からない(…)。したがって物体的事物は存在する。<(p.120, 第六省察)
JRF2024/11/250749
神は欺瞞者でないのだから、物体は実在するし、感覚を通じてしか認識できないのは、そうした理由があるのだろう。我々は神の意図を完全に推しはかることはできない。…と。
つづく部分…。
>しかしおそらくは、物体的事物のすべてが、私の感覚で捉えるとおりに存在しているのではない。それら感覚による把握は多くの場合、きわめて不明瞭で混乱しているからである。<(p.120, 第六省察)
JRF2024/11/256335
>それら(…太陽の大きさなど…)はきわめて疑わしく不確実であるにしても、神は欺瞞者ではないということ、それゆえ私の意見のうちに虚偽が見出されるとしても、また必ずそれを訂正するための何らかの能力が私のうちに神によって与えられているはずであること、まさにこのことがそれらにおいても真理に達する確かな希望を私に示しているのである。<(p.120-121, 第六省察)
認識は誤っても、例えば科学などによってその誤りをいずれ訂正しうるであろう。神は欺瞞者ではないのだから…と。
JRF2024/11/258361
↓を思い出す。私は「神も試みる。自らをも試みる。しかし、偽りとしない。」としたのだった。
《救いの無力さ - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/05/post_1.html
>
「
かつて奇跡があったという。
それを見た者がどれほど特別だったというのか。
」
「
神の住まうところは人の住まうところと異なる。
神も試みる。自らをも試みる。しかし、偽りとしない。
お前も神を責め、
「私はあれであった」と告げることを求めるのか。
」
<
JRF2024/11/257765
……。
水腫症の人は水を飲めば悪化するようだが、にもかかわらず、水腫症の人は喉[のど]が渇くことがある。それは自然が裏切る例となる。
>喉の乾きが、それが普通であるように、飲み物が身体の健康に利するということから生じるのでなく、水腫症の人において起こるように、何か反対の原因から生じることがあるとするなら、その場合に欺かれる方が、逆に身体が健全な状態にあるときにいつも欺かれるよりも、はるかによいことである。<(p.132, 第六省察)
JRF2024/11/255084
普通の場合にうまくいくように身体は作られており、異常なとき異常な動作がまぎれこむのは、普通の場合にうまくいくようにするためにはしかたない側面がある…ということのようだ。
デカルトは人間を機械に例えることもするが(p.126)、そういった連関として自然があり、感覚はそれがうまくいっているときのみ誤謬なく機能するということもあろうし、誤謬があること自体が大きくみて何らかの機能を持っていることもありうる。…ということであろう。
JRF2024/11/255488
……。
>「…哲学者たちでさえ、学院において「まず感覚のうちに存しなかったものは知性のうちには存しない」ということを格率としてとってりう。しかし、神の観念と精神の概念とが感覚のうちにまず存しなかったのではないことは確かなのである」(『序説』VI, 37)<(p.212, 第六省察 訳注)
???。「神の観念と精神の概念も感覚のうちにまず存した」…と? まぁ、書物を学ぶのも感覚を介してだから、それは確かにそのような面はあると思うが、デカルトの主張らしくない感じもする。
JRF2024/11/258466
……。
>その(…精神の身体からの…)実在的区別を「第六省察」においてようやく私は完成したのです」(「第四答弁」VII, 226)。<(p.214, 第六省察 訳注)
上の第二省察の蜜蝋の部分で、「デカルトには見落としがあるというのが私の意見である。つまり、蜜蝋が私の一部ではないということが、ここでは・思考だけでは明らかではないのだ。そこにはすでに感覚が入り込んでいる・身体性が入り込んでいると私は見る。デカルトは身体性の前に私の思考があるとしたいようだが、そうではない。そこにあるのはせいぜい「我々」の思考だ。」と書いた。
JRF2024/11/259363
ただ、どうもデカルトは私の批判したいことは重々承知で、あえてわかりやすくするためにそこでは「蜜蝋」を使ったというだけで、「我々」から「私」の実在的区別が完成するのはやっと最後の第六省察においてだ…ということなのだろう。
JRF2024/11/259680
……。
>公理VIII より大きなこと、あるいはより困難なことをなしえるものは、より小さなこともまたなしえる。<(p.144, 諸根拠)
これは偽であると主張したくなる。私にこだわりがある部分。困難さというのは人によって違うから。↓では「困難さ」を「厳しさ」に読み換えれば、残業の困難さにおいて、ダブルスタンダードはありえる。
JRF2024/11/256976
『宗教学雑考集 第0.8版』《ダブルスタンダードの是認》
>私は、「自分に厳しく他人には甘く」というのは当然そうあるべきだと考える。自分には甘くしてしまいがちだから、それぐらいでちょうどいい。
もちろん、人によっては残業をすることが厳しさであったり、逆に定時に帰ることが厳しさだったり…といった具合に人によって「厳しさ」の定義が違うことに注意しなければならない。
JRF2024/11/257805
ある人から見たとき、自分にだけ甘い基準を適用しているように見えることがある。それをマネして良いという開き直りがあるとマズい。そういうことがないようシングルスタンダードのように見せるため、自分と他人とを同じ基準にしたほうがわかりやすい。シグナルとしてはシングルスタンダードを使ったほうが良いものと思われる。
ただ、基本は「自分に厳しく他人には甘く」のダブルスタンダードである。同じ基準で程度の違いを出せるなら、そこで自分を厳しめにしていくことはときに必要だろう。
<
JRF2024/11/258000
……。
>定理IV 精神と身体とは実在的に区別される。<(p.150, 諸根拠)
ここでの精神は「霊魂」のことかな。「霊魂の不死的実在」が示されるということだろう。スピノザもそのようなことは述べていた。
JRF2024/11/256577
スピノザ『短論文』を読んで([cocolog:95105758](2024年10月))
>>
>精神は思惟的実体に於ける様態であるから、精神は又この実体並びに延長的実体をも識り且[か]つ愛することが出来る。そしてこれらの実体(それは常に同一で変わらない)(…つまりスピノザにとっては唯一の実体である神のこと…)と合一することに依って精神は自分自身を永遠ならしめることが出来きる。<(p.111, 注)
JRF2024/11/254238
魂の不滅は、神との合一によりなるとスピノザは書き、それは精神が直観知によって真理を知ることで、私の言葉でいえば「無限論理延長」に精神が引き寄せられることによって成る。…ということのようだ。
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JRF2024/11/258648
『省察』(ルネ・デカルト著, 山田 弘明 訳, ちくま学芸文庫 テ 6-1, 2006年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480089659
https://7net.omni7.jp/detail/1102277403
原著は René Descartes『Meditationes de prima philosophia』で、第1版は1641年パリでラテン語にて出版され、第2版は1642年にアムステルダムで出版された。
JRF2024/11/255900