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cocolog:95139886

(承前) スピノザ『神学・政治論』を読んだ。(つづき) (JRF 4118)

JRF 2024年11月13日 (水)

↓のつづき。

[cocolog:95139839]
《スピノザ『神学・政治論』を読んだ。破門されたとはいえユダヤ人のスピノザが「諸民族の憎しみがユダヤ人たちを存続させるにあずかって力があった」と言うことに、現代の戦争を見る私はモヤモヤした。 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/11/post-b88b9e.html

JRF2024/11/132274

……。

>前章に考察したようなヘブライ人たちの国家は、永続的なものであり得たとしても、もはやそれを模倣することは可能でもないし、また妥当でもない。なぜなら、人が自己の権利を神に委譲しようとすれば、ヘブライ人たちのやったように神と明白に契約せねばならぬのであって、それには権利を委譲する者たちの意志ばかりでなく権利を委譲される神の意志が必要なのであるが、神が使徒たちを通して啓示したところによれば、神の契約はもはやインキをもって書かるべきではなく、また、石の板の上に書かるべきでもなく、神の霊をもって心の中に書かるべきだからである。<(下巻 p.233, 第十八章)

JRF2024/11/130459

訳注によるとこれはこれはコリントの信徒への手紙二による。

>あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。<(2コリ3:3)

個々の心の中ということは、法とはなり得ず、直接の国家的形態は持ち得ない…ということか。

JRF2024/11/132190

……。

国家と宗教あるいは預言者との関係について、ヘブライ国家の盛衰から言えること…。

>第一に、神事の掌握者たちに何らかの指令を下す権利あるいは国務を司どる権利を与えることは宗教ならびに国家にとって極めて有害であり、これに反して彼らの権利を制限して彼らは諮問されたことについてのみ答えるようにし、不断は単に伝来的・慣例的な事柄をのみ教えかつ行うようにすれば一切ははるかに安定的たり得る。<(下巻 p.240, 第十八章)

基本的に二重権力にしてはいけない。…と。

JRF2024/11/136606

>第二に、純粋に思弁的な事柄を神の法に従属させたり、意見(人々は通常異なる意見を持っているし、また持って差支えない)について法律を設けたりすることは極めて危険である。各人の不可譲的権利たるべき意見を罪として取り扱う政治は甚だしい圧制政治である。のみならず、そうしたことが行われている所では最も幅を利かせるのは通常民衆の激情である。<(下巻 p.241, 第十八章)

キリストが内心にまで踏み込むのは、政治ではなく倫理・宗教だから許される。…と。

また、激情の民衆は煽動の教師のものとなる。これも二重権力的になってよくない。…と。

JRF2024/11/132391

>第三に知り得るのは、何が正当であり何が不正当であるかについて決定する権利を最高権力の保持者に帰属させるのは国家ならびに宗教にとって極めて必要だということである。なぜなら、行為について決定するこの権利が神の預言者たちに与えられてさえ国家ならびに宗教のために非常な害を及ぼしたのだとすれば、未来を預言することも出来ず奇蹟を行うことも出来ない者たちにはそれが一層与えられ得ないからである。しかしこれについては次章に改めて論じよう。<(下巻 p.242)

奇蹟を行える預言者たちでも正当・非正当を決めさせて益になることはなかった。…と。

JRF2024/11/138356

>最後に第四に知り得るのは、王の下に生活することに慣れない人民、またすでに出来上った法律を有する人民にとっては、君主を選ぶことは極めて不幸だということである。けだし人民の方でもそうした統治に堪え得ないし、また王の権威から言っても自分より権威の度の少い他者によって制定された法律や国民の権利に我慢することが出来ず、ましてやそうした法律や権利を擁護する気にはなれないからである。ことにそれらの法律や権利を制定するに当っては王のことは何ら顧慮されずにただ人民ないし議会 -- 支配権を保持すべく考えていたところの -- のことのみが顧慮され得たのであるから。

JRF2024/11/139206

したがって王は、国民の昔からの権利を擁護する場合、国民の主人というよりは下僕の観を呈するに至るのである。
<(下巻 p.242-243, 第十八章)

「押し付け憲法」の日本では、天皇の権利が制限され過ぎて、捕らわれの観があるのを思い出す。

JRF2024/11/134678

……。

>況[ま]してや<(下巻 p.243, 第十八章)

読めなかった。が、予想はできた。普通この字は「況[いわ]んや」で使う。

JRF2024/11/130810

……。

イギリスやローマの例を挙げて、圧制君主を追い出しても、国体が圧制君主を前提としているから、結局は圧制君主をいただくのに戻る。…といった論をスピノザは展開する。

>すなわち各々の国家は、自己の国家形式を必然的に保持せねばならぬのであり、国家形式は国家の全的滅亡の危険を伴わずには変えられ得ないのである。そしてこれが、余がここに注意するに価[あた]いすると考えた事柄である。<(下巻 p.247, 第十八章)

例えば、日本官僚の前例主義はゆえなきことではない。意外に古い国体にしばられているものだ。…と。

JRF2024/11/131386

この点、しばしば西洋はいまだにローマ法やゲルマン法が、特に支配層の中では信じられているのではないかという私の「陰謀論」を思い出す。

keyword: ローマ法

JRF2024/11/136866

……。

>穀物を搗[つ]かせる<(下巻 p.305, 第十八章 訳注)

読めず、ググった。

JRF2024/11/139574

……。

>まずさしあたり余は、宗教は命令する権利を持つ人々の決定によってのみ法的効力を得ること、神は統治権の保持者たちを通してでなくては何らの特殊な国を人間の間に持たないこと、なおまた宗教への崇敬と敬虔の実行とは国家の平和と利益を顧慮してなされなければならず、したがってそれは最高権力によって決定されねばならぬこと、かくて最高権力はまたそれに関する解釈者でもなければならぬことを示そうとする。<(下巻 p.249, 第十九章)

宗教の優越というとカノッサの屈辱とか思い出すね。前に『宗教学雑考集』《慰安婦像とカノッサの屈辱》という議論も書いた。

JRF2024/11/132969

……。

>自然状態においては我々は罪なるものを考えることが出来なかったし、また神をもって人間をその罪のゆえに罰する裁き主と考えることも出来なかった。<(下巻 p.250-251, 第十九章)

うーん、そこまで言ってしまうか。『宗教学雑考集』でトーテミズムとかを扱った私は自然な宗教性・神の概念みたいなものにこだわってしまうけれども…。

つづく部分…

JRF2024/11/131501

>むしろ一切は全自然の共通的諸法則に従って生起し、また同一運命が(ソロモン風に言えば)正しき者にも正しからざる者にも、純なる者にも不純なる者にも起り、正義とか愛とかの存する余地は全然ないと考えなければならなかった。

JRF2024/11/135411

しかし真の理性の教え、換言すれば(第四章に神の法に関して示したごとく)神の教えそのものが絶対に法的効力を有するためには、各人が自己の自然権を放棄して、すべての者がその自然権をすべての者に、あるいは若干者に、あるいは一人の者に委譲することが必要であった。かくして始めて我々には何が正義であり、何が不正義であり、何が公平であり、何が不公平であるかということが明らかになったのである。
<(下巻 p.251, 第十九章)

ゆえに…

JRF2024/11/135050

>正義と愛の法の中にのみ、すなわち真の宗教の法の中にのみ神の国は存るのであるから、これからして、我々の主張したように、神は統治権の保持者によって支配されるもの以外のいかなる国をも人間の間に持たないと言ことが帰結される。(…)この際我々が宗教を自然的光明によって啓示されたものと考えると、預言的光明によって啓示されたものと考えると少しも変わりはない。<(下巻 p.251-252, 第十九章)

JRF2024/11/139950

……。

宗教には国家が必要だが、それはヘブライ国家でなくても良かった。バビロン捕囚の際は、ヘブライ人の宗教によってもバビロンの国家の安寧がはかられた。

>しかし彼らはその国家の安寧を国家の役人としてではなく(彼らは俘囚であったから)ただ奴隷としてのみ計ることが出来たのであった。<(下巻 p.254, 第十九章)

JRF2024/11/130283

ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』([cocolog:94893189](2024年6月))を読んだときエステル記に言及した。そこでは多くの民族の中「知性」(または伝統)を維持するために、知の殿堂が必要とされていたのであろうし、結局はそこで愛が大きな役割を担ったとし、これを AI 下の政治に必要とされることの原型として [cocolog:94895713](2024年6月) で Gemini さんと論じている。

JRF2024/11/138699

……。

>今は、我々が神に正しく服従しようと欲すれば宗教への外的崇敬ならびに敬虔のすべての実行は国家の平和と維持を顧慮してなされねばならぬことを示す時である。<(下巻 p.256)

国家がなければ理性を発揮できない。隣人愛なども成立しない。だから…。

>マンリウス・トルクアツスは国民の幸福を息子への敬虔[愛]よりも上に置いたがゆえに称さんされる。<(下巻 p.256, 第十九章)

JRF2024/11/138959

親への愛ということになると、「孝か忠か」の問題になるところ。儒教は孝を選びがちだが、スピノザは忠を取るようだ。この辺は日本の武家国家に共通するもので、この時代の価値観なのかもしれない。

>何びとも敬虔と宗教を公の利益に適応させるのでなくては神の掟に従って隣人に敬虔を実践することは出来ないのである。

JRF2024/11/137430

しかるに何が国家に利益であるかを私人は公共の政務を司どる権能を持つ最高権力の決定によってのみ知り得る。だから何びとも最高権力のすべての決定に服従するのでなくては敬虔を正しく実践することは出来ないし、神に服従することも出来ないのである。
<(下巻 p.257-258, 第十九章)

このことについて、スピノザは聖書から例を挙げる。

>このことは実際の慣例によっても確かめられる。すなわち最高権力がある者を死に価[あた]いする、あるいは敵である、と判断した場合、その者が国民であると外国人であるるとを問わずまた私人であると支配者であるとを問わず臣民はその者に助力を与えることが出来ない。

JRF2024/11/130997

かくしてヘブライ人たちも各人は隣人を自己自身のように愛せねばならぬと命ぜられた(レビ記19:17-18参照)にかかわらず、彼らは律法の規定を犯した者を裁き人に告発し(レビ記5:1ならびに申命記13:8-9参照)、そしてその者が死に価いするとされた場合これを殺す義務があった(申命記17:7参照)。

JRF2024/11/137977

更にヘブライ人たちは、その獲得した自由を維持しその占取した土地を完全に支配するためには、第十七章に示したように、宗教を自己の国家に適応させ・自己を他の諸民族から分離することが必要であった。このようにして彼らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎むべし」(マタイ5:43参照)と命ぜられたのである。
<(下巻 p.258-259, 第十九章)

マタイ5:43 に確かにそうあるし、命ぜられていたのだから間違ってないが、つづきは「汝の敵を愛せ」になっている。

JRF2024/11/132412

>「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(…)」<(マタイ5:43-44)

JRF2024/11/138983

……。

>もし誰かが、キリストの弟子たちは私人に過ぎなかったのにいかなる権利で宗教を説くことが出来たのかと問うならば、余はこれに対して答える。彼らはキリストから汚れた霊を制する力を与えられた(マタイ10:1)ので、その力に基づいてそうする権利を持ったのである、と。

JRF2024/11/138905

事実、第十六章の終りに我々が特に注意したように、すべての者は圧制君主に対しても忠誠を守らねばならぬのであり、ただ神から圧制君主に反対するように特別の援助を確実な啓示を通して約束された者だけがこの限りではないのである。ゆえに何びとも奇蹟を行う力を持つのでなければこの例に倣うことが出来ないのである。
<(下巻 p.259, 第十九章)

オウム真理教の事件などを思い出しながらいうのだが、新興宗教が現代国家の敵…というのはこの辺りの思想から来ているのかな…。

JRF2024/11/138901

……。

>大司祭職の権利は常に最高権力の決定に依存し、大司祭たちはそれを牧伯的地位と併せてでなくては所持し得なかったのである。それどころか、宗教上の事柄に関する権利はもっぱら王たちの手中にあり(やがて本章の終末に言う所から明らかになる通り)、ただ一つ、神殿における聖なる営みにだけは手をつけることが出来なかったのみである。なぜなら、アロンの系統を引かぬ者は皆潔からぬ者と見做されたからである。<(下巻 p.261, 第十九章)

逆にいうと、スピノザには、神殿や教会内のことは決めさせていいという譲歩があるようだ。

JRF2024/11/135822

……。

ヘブライ国家において預言者は王の目の上のたんこぶで、おおむねうまく機能していなかった。…とスピノザは見るようだ。

>預言者たちは神的能力を賦与されていたにかかわらず、単に私人に過ぎなかったために、彼らの警告し・叱責し・非難する自由は人々を矯正するよりは苛ら立たせたのであり、これに反して同じ人々が王たちの警告や懲戒によっては容易に制御されたのであった。<(下巻 p.264, 第十九章)

JRF2024/11/133217

……。

教導権はしかし、キリスト教国では認められてきた。

>残るのは、余の知る限りヘブライ人たちはこの権利に関して決して争いを起さなかったのになぜキリスト教の国家においてはこれについて常に論争が絶えなかったのかの理由を示すことである。(…)キリスト教の最初の事情を考えてみるならば、このことの理由が極めて明白になるのである。

JRF2024/11/134770

キリスト教はもと王たちによって教えられたのではなくて私的立場にある人々によって教られたのであり、これらの私的立場にある人々は自分の主君たる統治権の保持者たちの意志に反して久しい間私的教会に集まり、諸々の聖職を設定し・掌握し、全然国家と関係なしに自分たちだけで一切を整備し・決定して来たのであった。しかし長い年月の後宗教が国家の中に導入され始めるや、教会関係者たちは宗教を当然自分たちが定めた形において皇帝たちに教えざるを得なかった。この結果として彼らは、容易に宗教の教師ないし解釈者として、更には教会の司牧者として、また神の代理として認められるようになることが出来た。

JRF2024/11/133942

その上キリスト教を奉ずる王たちが後でこの権威を横取りすることがないように、教会関係者たちは教会の高位聖職者たちと宗教の最高解釈者とに結婚を禁止するという巧妙な対策をたてた。加うるに彼らは宗教に関する教義を極めて数多くし、これを哲学と混同させ、このようにして宗教の最高解釈者は同時に最高哲学者ないし神学者でなければならずまた極めて多くの無益な思弁に耽らなければならないようにしたのであるが、こうしたことは私的立場にある余暇の多い人間たちにのみよくし得るところであった。
<(下巻 p.266-267, 第十九章)

独身制が大事なところだったんだね。

JRF2024/11/139603

……。

第二十章は結論になり、国家論を論じる。やや、詳しく引用していく。

>もし支配が精神の上にまで及ぶとしたらその支配は圧制的な支配と見做されることになるし、また最高主権が、人は何を真として認め、何を偽として拒[しりぞ]け、更にまたいかなる見解によって各人に規定しようとするなら、その最高主権は臣民に対して不法を犯し、臣民の権利を奪い取るものと見られることになる。こうしたことは各人の権利に属し、何びともそれをたとえ放棄しようと思っても放棄することが出来ないからである。<(下巻 p.271-272, 第二十章)

精神を規制しようとするのは圧制である。…と。

JRF2024/11/135817

>なるほど余は判断力が数多くの、そしてほとんど信じ難いような手段によって左右され得ること、かくて人はたとえ直接的には他者の支配のもとにあるのでないにしてもやはり他者の言葉に依存し、その限りにおいて当然その者の権利のもとにあると言われ得るのであることを容認しはする。しかしこの点に関していかに技巧が施され得ようとも、人間から、人は自己の考えに溢れておるという意識を、また人は趣味が異なると同様に考えも異なるという意識を取り去ることは出来なかった。

JRF2024/11/131428

モーゼは術策によってでなく神的能力によって人民の判断力を左右した(…)のであったが、それでも人民から色々の悪評や意地の悪い見方をされるのを避け得なかった。
<(下巻 p.272, 第二十章)

精神をいろいろな方法で動かすこと、判断力に影響を及ぼすことはできる。しかし、それはなかなかうまくいかないものだ。…と。

>余は、最高権力が極めて圧制的な支配をなし、また国民をごく些細な理由ででも処刑する権利を持つことを容認しはするが、しかしそうしたことが健全な理性の完[まった]き判断にかなうとは誰も思わないであろう。

JRF2024/11/137947

のみならずかかることは国家全体への大きな危険を伴わずにはなされ得ないのであるから、我々はこう言うことさえ出来る、最高権力はかかることならびにこれと類似のことに対して絶対の力を持たず、したがってまた絶対の権利をも持たない、と。

なぜなら、我々の示したところによれば、最高権力の権利は最高権力の実力によって決定されるからである。
<(下巻 p.273-274, 第二十章)

余談だが、神の全知全能性に関する議論を思い出す。神が自由意志を操作できるとしてもそうなさらないなら、人は自由意志を信じていい。そこに private 性があるというのが私の論調だった。スピノザはそれも認めるのだろうか?

JRF2024/11/139323

……。

>主権は行為によって侵犯されると同様に言葉によっても侵犯され得ることは疑いない。だから、この自由を臣民から全然奪い取ることは不可能であるとしても、これと反対に、それを全然許すことは極めて危険であろう。このゆえに我々は、国家の平和と最高権力の権利とを損うことなしにはこの自由がいかなる程度まで各人に許され得るか、また許されねばならぬかを探求することが必要になる。これは、第十六章の始めに注意したように、余の主要目的であった。<(下巻 p.274-275, 第二十章)

JRF2024/11/132940

……。

>我々が先に説明した国家の諸基礎から次のことが極めて明瞭に帰結される。すなわち、国家の究極目的は支配することでなく、また人間を恐怖によって制御して他者の権利のもとに立たしめることでもなく、むしろ反対に、各人を恐怖から解放し、かくて各人が出来るだけ安全に生活するようにすること、換言すれば存在と活動に対する彼の自然権を自己ならびに他者を害することなしに最もよく保持するようにすることである。

JRF2024/11/134124

あえて言う、国家の目的は人間を理性的存在者から動物あるいは自働機械にすることではなく、むしろ反対に、人間の精神と身体が確実にその機能を果し、彼ら自身が自由に理性を使用し、そして彼らが憎しみや怒りや詭計をもって争うことなく、また相互に悪意を抱き合うことのないようにすることである。ゆえに国家の目的は畢竟自由に存するのである。
<(下巻 p.275, 第二十章)

国家の目的が自由にあるというのはヘーゲルも同意し、私もポパーも同意するところだ(参: [cocolog:94987854](2024年8月))。

JRF2024/11/139220

……。

>我々は更に、国家を形成するためには次の一事が、すなわちすべての決定権をすべての者のもとになり、若干者のもとになり、唯一人のもとになり帰属させることが必要なことを見た。何となれば、人間の自由判断は極めて多種多様であるし、また各人は自分のみが何でも心得ていると考えるものであるし、それにまたすべての者が思考ならびに言説において完全に一致するということはあり得ないのであるから、各人が自己の精神の決定のみによって行動する権利を放棄しない限りは人間は平和に生活し得なかったからである。<(下巻 p.276, 第二十章)

JRF2024/11/139585

なぜ個人は全権(思惟し判断する権利以外)を国家に委譲するのかという点について、これまであまり納得のいく説明がなかったが、↑の部分はまずまず納得できる説明である。

JRF2024/11/138151

……。

>例えばここに人があって、ある法律が健全な理性に矛盾することを示し、そのゆえにその法律を廃止すべしとの意見を開陳する場合、もし彼が同時に自分の意見を最高権力の判断に服従させ(法律を制定あるいは廃止するのは最高権力のみに負わされた義務だから)、その法律を廃止されない間はその法律の規定に反するいかなる行為をもしないのであれば、彼は最良の国民の一人として国家に立派に貢献しているのである。

JRF2024/11/131321

だが反対に彼がこれを政府の不公平を非難して民衆に政府を憎ませるためにするか、あるいは政府の意向に反してその法律を叛逆的手段で廃止しようとするのであれば、彼は全くの平和攪乱者であり、反乱者である。
<(下巻 p.276-277, 第二十章)

JRF2024/11/130437

しかし、法が間違っているとき、または時代に合わぬようになっているとき、新時代を拓くためにグレーというよりは黒いことをやらねばならないときはあるように私は思う。そういうことができる特権が誰かにあるわけでもない民主主義国家にあれば、特にそうだと思う。Winny などの P2Pファイル共有ソフトのころのことを私は思い出すし、今なら生成 AI がらみがそういう領域だと思う。修士とか博士や資格者にそういう特権を認めるみたいな方向はあるだろうけど(例えば [cocolog:89675814](2018年7月) の構想)、基本はそういうのがないのが民主主義の前提だと思う。

JRF2024/11/136847

……。

>人間は最高権力の規定に従わずには一語も発しないように制御され得るものとしても、そのため人間を最高権力の欲することしか考えないような風にすることまでは出来ない。ゆえにこの場合人間は、毎日その思うところと違ったことを語らざるを得ない結果となり、したがって国家において最も必要な信義が破壊され、嫌悪すべき阿諛と背信が培[つちか]われ、かくて種々の欺瞞が生じ、またすべての善き風習が毀損されることになるであろう。<(下巻 p.281, 第二十章)

JRF2024/11/138109

現代においては、そういう言論規制は、科学の発展を押しとどめるのでダメだ、国家の競争において、得策ではない…みたいなのが、以前(平成のころ?)の論調であった。しかし、中国は、厳しい言論規制をしながら、科学を発達させており、その点の信憑性が問われている。

この点、もちろん、私は「表現の自由戦士」を自認するので、言論規制には反発するけれども、疑問は残る。

JRF2024/11/138814

……。

>およそ人間の性状は、自分が真なりと信ずる意見を罪と見做されたり・自分たちを神や人間に対する敬虔へ駆るところのものを悪と認められたりすることを何よりも堪え難く思うように出来ている。こうなれば彼らは法律を嫌悪し、政府に向って種々のことをあえてするようになり、またこうした理由に基づいて叛逆を企てたり色々の非行をなしたりすることを恥ずべきこととは思わずむしろ立派なことと思うようになる。

JRF2024/11/138334

人間の本性が疑いもなくこのように作られたのであるからには、意見に関して設けられる法律は、悪しき人たちをではなく自主独立的精神の持主を対象とすることになり、悪意ある者を拘束するよりは正しき者を刺激するために設けられることになり、また国家に対する大きな危険を伴わずには維持され得ないことになる。

JRF2024/11/136581

加うるに、そうした法律は全然無益である。なぜなら、そうした法律によって罪とされる意見を健全な意見と信ずる者はそうした法律に服従し得ないであろうし、これに反して、それを誤れる意見として拒ける者はそうした意見を罪と定める法律の中に自分たちに対する一種の免許を見出し、かかる法律に対して僭越な考えを持ち、後で政府がそれを廃止しようと欲しても廃止し得ないことにもなるからである。
<(下巻 p.282, 第二十章)

JRF2024/11/139883

……。

>あえて言う、人々が何らかの犯罪あるいは悪行のゆえにでなく単に自由な精神の持主であるという理由で敵と見做されて処刑され、また悪人たちの恐怖の対象たる断頭台が恐怖と勇気の見事な例と主権者の著しい恥辱とを示す美しい劇場となるほど有害なことがあろうか。

けだし自己の正しさを意識する人々は犯罪者のごとく死を恐れないし、また刑罰の許しを懇願することをしない。彼らの魂は恥ずべき行いから来る後悔によって暗くされず、かえって反対に大義のために死ぬことを苦痛とではなく名誉と考え、自由のために命を捨てることを光栄と考えるからである。

JRF2024/11/134255

その処刑の原因を遅鈍者、精神薄弱者は知らず、叛逆の徒は憎み、正しき者は愛するのであってみれば、一体かかる処刑によってどんな効果を挙げ得るであろうか。

実際、人は彼らの模倣者となるか、あるいはこれと反対に阿諛者となるか以外のいかなる教訓をもこの処刑から学び得ないであろう。
<(下巻 p.284, 第二十章)

JRF2024/11/133494

……。

>阿諛[あゆ]がでなく信義が価値あるものとされるためには、そして最高権力が統治権をしっかり手中に握り叛逆の徒に譲歩すべく余儀なくされないようにするためには、判断の自由が必然的に許容されねばならぬのであり、また人間はたとえ明白に異なれる、否、相反的なる意見を持っていても和合的に生活し得るように統治されなくてはならぬのである。<(下巻 p.285, 第二十章)

JRF2024/11/139392

……。

>思うに民主国家(それは自然状態に最も接近したものである)においては、すべての人間は、我々の示したように共同の決定に従って行動すべく義務づけられているが、共同の決定に従って判断し、思考するようには義務づけられていない。すなわちすべての人間が同一意見を持つというわけにはゆかないのであるから、人々は最多数票を得た意見に命令の効力を与える(ただしもっとよいものを見出した場合はこれを廃止する権能は保留して)ように協定したのである。<(下巻 p.285, 第二十章)

JRF2024/11/133993

……。

>他人の著作を誹謗して軽薄な大衆をその著作者へ使嗾[しそう]する者の方が、もっぱら学者たちのためにのみ書きかつ理性をのみ援用する著作者自身よりもはるかに背教者であること、次に、自由なる国家において判断の自由を -- 抑圧することの出来ぬ判断の自由を -- 奪い取ろうと欲する者こそ真に平和攪乱者であるということが火を見るよりも瞭[あきら]かになる。<(下巻 p.287, 第二十章)

ちなみに「使嗾[しそう]」は読めなかった。「そそのかす」意。

JRF2024/11/133084

……。

長くコメントほぼなく引用してしまったが、第二十章つまり『神学・政治論』全体の結論は次のようになる。

>ゆえに余はここに、かつて第十八章でしたと同様に、次のような結論をする。敬虔と宗教をただ隣人愛と公正の実行の中にのみ存せしめ、宗教的ならびに世俗的事柄に関する最高権力の権利をただ行為の上にのみ及ぼさしめ、その外は各人に対してその欲することを考えかつその考えることを言う権利を認めること、これほど国家の安全のために必要なことはないのである、と。<(下巻 p.289, 第二十章)

JRF2024/11/135615

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