cocolog:95147227
B.U.シッパー『古代イスラエル史』を読んだ。ダビデやソロモンが、アーサー王のような伝説のたぐいでしかない…というミニマリズム歴史学の流れは否定されるが、その国の規模はかなり小さかったことなどが示される。 (JRF 5721)
JRF 2024年11月18日 (月)
Amazon評(ぱすと〜る):>旧約聖書に書かれていることの中で、聖書外資料によって史的事実と判断しうるものは「かなり少ない」。副題にある「ミニマリズム」(最小限主義)とは、こういう立場の歴史研究のことだ。
そのような研究者たちによれば、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモンなどについて旧約聖書が語ることは、「ペルシア時代からヘレニズム時代のユダヤの書記の創作」(上巻 p.170)であり、大国に支配されている自分たちのアイデンティティを確立するためのものであった。
JRF2024/11/187979
では、この研究者たちはその間の史実をどう考えるかというと、イスラエルが国の形をとりはじめたのは北イスラエルのオムリ王朝あたりで、ユダ王国はさらに100年以上あとのこと、そもそも統一王国は存在せず、ダビデ、ソロモンの実在性も低い、紀元前10世紀ごろのエルサレムは小村にすぎなかった、ということである。
JRF2024/11/186236
このようなミニマニリズムに対して、マクシマリズム(最大限主義)では、旧約聖書の描くイスラエル民族の物語は実際の歴史の流れを反映しているという前提のもとに、外部資料によって修正はしつつもおおまかには旧約聖書をなぞらい、族長物語、出エジプト、土地取得、士師時代、ダビデ・ソロモンの統一王国、王国分裂、南北王国並列時代という流れの古代イスラエル史を描く。訳者もこれに属する通史を書いたと「自戒」(同)する。
しかし、本書の著者シッパーは、ミニマリズムにも耳を傾け、聖書外資料や考古学的証拠を重視しつつ、旧約聖書をも無視しない、という立場である。
<
JRF2024/11/181999
この辺りの事情は「訳者あとがき」にも書いてあるが、↑の評のほうが必要な情報だけでわかりやすかった。
JRF2024/11/180161
……。
『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
その参考になれば…という思いもあったが、今回はあまり参考にならなかったかな。宗教というよりは、歴史の要素が強いので。もし、政治に関する本を今後書く機会があれば、この「ひとこと」を参照することがあるかもしれない。
JRF2024/11/188590
……。
それではいつものごとく引用しながらコメントしていく。特に旧約聖書の成立に関心を抱いていたため、前半部分の引用はとても多いが、後半はほとんど引用しない。とはいえ、新しい本なので、著作権等で文句を言われるリスクを減らすために、興味を持った方はぜひ、買っていただきたい。
JRF2024/11/181808
……。
>旧約聖書の諸文書は、過去を参照することを通じて現在を説明し、未来に向けて方向を定めようとする、神学的なテキスト群なのである。<(p.9, 序章)
直近で読んだスピノザ『神学・政治論』にも似た視点はあったように思う。そのとき引用したものから「ズバリ」というのを指摘できないが…。(もう読んだ内容を忘れてる。orz)
[cocolog:95139839](2024年11月)
>ヘブライ人=ユダヤ人の選民思想は、彼らがそう言えば、よく神の善に導かれるからそう告げられただけである…ということのようだ。<
JRF2024/11/182374
……。
前13世紀(前1200年代)ぐらいのメル・エン・プタハ碑文にはじめて「イスラエル」という民族の記述が出てくる。「それにはもはや種がない」という文とともに。その地は、ユダというよりはサマリア・エフライム山地と同定される。しかし、そこで使われている土器の特徴などから、それが「出エジプト」してきた者というよりは、カナンから生まれたことが示唆される。
JRF2024/11/186002
>イスラエルの諸端緒は、この地[カナン]自体の中にあると確言することができる。前1200年頃に「イスラエル」と名乗っていた人間集団は、-- 古代オリエント世界を横断した遊牧民というような形で -- 外部から侵入して来たのではなく、後期青銅器時代の都市文化の中から生じてきたのである。メル・エン・プタハの碑文で初めて「イスラエル」と呼ばれたこの集団は、おそらくエジプトが支配するある都市の周辺に生息していたのであり、しかも独自の道を歩んでいたので、エジプト人はこの「イスラエル人」を -- 碑文に名をあげるほどの重要性を持った -- 敵と見なしたのであろう。
JRF2024/11/184656
この経過を、次のように想像することもできるが、それはあくまで憶測にとどまる。すなわち、南レヴァント地方に対するエジプトの統制が揺らいでいるような状況の中で、かつてはエジプトにとって重要な一つの都市の周辺で労働に従事していた小農民たちが、そこから離脱して山地に移り、独立した生活を営み始めたことが注記されるに値したのだ、という推測である。
しかしながら、疑問の余地のないことが一つある。すなわちイスラエルは「カナン」から生まれたのであり、外部からこの地にやって来たのではない、ということである。
<(p.28-29, 第一章)
JRF2024/11/189801
どうもこの本が示唆するところでは、「出エジプト」というのはせいぜいエジプトの支配圏にあったカナンからのエジプトの支配を逃れた民族移動である…ということのようだ。
聖書に書かれる多人数が、マナがあったとは言え、兵站をどうしたのか、金なども保持してどう移動したのか、かなり私は疑問だった。しかし、中国の戦争の記述の多人数なども合わせて、そういうことも古代には可能なのか…とも思っていた。でも、やはり、そこまでの移動はできない…ということが正解のようだ。
JRF2024/11/186035
とするとその多人数は延べ人数、人月みたいなものだったのだろうか? 現地人(近隣都市の者)を多く雇ったのか、後代にそこに参加したものの裔であるという主張が多かったのか。
JRF2024/11/185232
……。
>メル・エン・プタハの碑文における南レヴァント地方に関する部分の記述が、ほんとうにこのファラオ(…ラメセス二世…)の遠征に遡ると想定する限り、「イスラエル」に属する成員の一部が戦争捕虜としてエジプトに連れてこられたということがあり得たであろう(E. A. Knauf)。もしそうであれば、出エジプトという「解放体験」は、そのような戦争捕虜たちが、もはや再構成できない事情のもとで再び自由を獲得し、パレスチナ/イスラエルに戻って行ったという事態として理解することができるであろう。<(p.31-32, 第一章)
JRF2024/11/184477
ただし、出エジプトを支持する証拠がまったくないわけではない。それは「モーセ」という名である。
>前二千年紀末に起きた出エジプトの体験が根底に存するということを支持する一つの根拠として、モーセという人物の名前を挙げることができるかもしれない。「モーセ」というのは、ラメセス時代の典型的な人名の短縮形なのである。<(p.32, 第一章)
JRF2024/11/188028
>次のように考えることは可能であろう。すなわち、(戦争捕虜の)小さな集団が、ラメセス時代のファラオたち(第19-20王朝)のもとでエジプトに行き、そこからもはや再構築できない事情のもとで再び南レヴァント地方に戻って来て、古い都市国家シケムのある山地に住んでいた例の「イスラエル人たち」と融合した。そして、エジプトからの奇跡的な逃亡と神ヤハウェによる加護についての彼らの物語(出20:2、申26:5-9 参照)が、その後、イスラエル全体にとっての自己同一性(アイデンティティ)を創設する役割を果たすようになったのである。<(p.32, 第一章)
JRF2024/11/184846
ところで、こことはあまり関係ないが、古代オリエントの人名にはしばしば神名が含まれ、ヤハウェの名も(部分的に)含まれる。
かつて、「ヤハウェ」は畏れ多くて発音されなかったため、本当の呼び方が失なわれたとされたものだったが、人名に残る部分からおよそ「ヤハウェ」と呼ばれていたことも確実なのだろう。呼び方が失われたというのは、細かなニュアンスが失なわれたぐらいの意味だったか。
JRF2024/11/184792
……。
ダビデやソロモンはアーサー王伝説ぐらいに根拠のないもの…という見方もあったが…。
>ダビデの王国を歴史的に把握するうえでのあらゆる困難にも拘わらず、疑問の余地のないことが一つある。ダビデという王が実在した蓋然性は非常に高い、ということである。聖書のダン(テル・エル・カーディー)から出土した一つのアラム語の碑文には、アラムの王ハザエル(在位前843-803年頃)が「ベトダウド(bytdwd)」の一人の支配者を打ち負かしたことが記されている(HTAT 116)。
JRF2024/11/185224
断片的な保存状態のこの碑文からは、それがどの王なのかは分からないが、「ベトダウド(bytdwd)」が「ダビデの家」[ベート・ダーウィード]と解釈できることは確実である。したがって、前九世紀に、ダビデという王にちなんで呼ばれる一つの支配者の家系が存在していたのである。
<(p.38-39, 第一章)
ただし、ユダは決して「大きな国」ではなかった。
>前10世紀のエルサレムを南東の丘ではなく、神殿の丘に位置づけたとしても、ダビデの時代のエルサレムが、最大限に見積っても人口2000人程度の小規模な支配者の居城にすぎなかったことに疑問の余地はない(H. Geva)。<(p.40, 第一章)
JRF2024/11/180129
……。
ソロモンについて。
>考古学的に見れば、たしかに前10世紀頃には国際交易の活発化が確認できる。しかし、ソロモンの王国がこれに参与した形跡はない。<(p.42, 第一章)
示唆するところによると、ソロモンの時代、全体として国際交易が盛んだったので、ソロモンのところも前時代に比べてはぶりがよかった可能性はある。しかし、ソロモンがレヴァント地方ほぼ全体を支配していたというようなことは考えられない…ということのようだ。
ソロモンの第一エルサレム神殿…。
JRF2024/11/182814
>そこでの数字を真剣に受け止めれば、それはレヴァント地方に存在した最大の神殿ということになる。(…)それほどの巨大建造物であれば、ソロモン治下の都市国家エルサレムの経済力をはるかに凌駕してしまったはずである。<(p.45, 第一章)
言えるのは、
>エルサレムをイスラエルの町としたのがダビデの功績であったとすれば、ソロモンのそれは、それまでの山の砦[エルサレム]を宗教的な中心地に発展させたことであった。<(p.47, 第一章)
JRF2024/11/188701
……。
>聖書の歴史記述は、その関心をもっぱらユダに集中させている(…)。前四/三世紀に成立した歴代誌ではこの傾向が極端にまで進み、イスラエル王国にはもはやまったく言及されないという事態に至っている。しかし、歴史的に見れば、事態は正反対であった。北のイスラエルは、一つの重要な王国であった。これに対し、南のユダが繁栄を謳歌するのは、イスラエル王国がもはや存在しなくなってから、すなわち前722/20年以降なのである。<(p.49-50, 第二章)
>イスラエルと(おそらくは)それに服属していたエルサレムのダビデの家<(p.53-54, 第二章)
JRF2024/11/182871
ユダが重要になったのは国際政治がからんだ後世の話で、その時代の価値観から当時のユダが重要視されているに過ぎない…ということのようだ。
JRF2024/11/182370
……。
>前八世紀から前七世紀にかけての新アッシリアの拡張政策の頂点の時期に、フェニキア人たちは、地中海を超えてスペイン南部にまで彼らの交易圏を拡大させた。<(p.52, 第二章)
かつての私にとってフェニキアとカルタゴは、古代へのロマンをかきたてる重要な存在だった。
JRF2024/11/186879
……。
新アッシリアの時代、サマリアのイスラエル王国が力を持ってきた。
JRF2024/11/186477
>イスラエル王国はオムリ王朝のもとで初めて、古代オリエント世界の「正会員」になったのであり、領土的な広がりということを考えあわせれば、旧約聖書がソロモンに結び付けているような、「地政学的なプレーヤー」になったのである。歴史的な事態がこのように誤って[ソロモン時代に]帰されたのは、オムリ王朝ということでは、エルサレムの書紀たちの歴史像にとって都合が悪かったからである。それゆえ列王記では、彼らの王朝はきわめて簡潔に、しかも対立王の存在した(王上16:21-22)不安的な時代として描かれているわけである。<(p.56, 第二章)
JRF2024/11/180300
「ソロモンの繁栄」はオムリ・イスラエル時代の反映である…と。
JRF2024/11/181165
……。
前7世紀ごろ、新アッシリアと新バビロニアの争いの中でユダの統治も難しくなる。その属国的国際政治状況の中、ユダでは、エルサレムより、その近辺のラマト・ラヘルが行政的中心となっていく。逆にエルサレムは、書記文化の中心になり、その示唆するところによれば、それが「政教分離」という神話の重視にもつながってくるのであろう。もしかすると、「政教分離」の神話があったから、そういう支配形態をやすやすと受け容れられたという面もあったのかもしれないが。
JRF2024/11/188811
>ラマト・ラヘルがペルシア時代以降まで存続したことを考え合わせれば、すでにヒゼキヤ(…在位前725-697年…)時代に、その後の約350年間を規定することになる二元性が成立していたことになる。すなわち一方には、ヤハウェ崇拝の場所であり、神殿に書記の学校を持つエルサレムがあり、他方には、まずアッシリア人が、そしてその後バビロニア人やペルシア人が統御する行政の中心地としてのラマト・ラヘルが並存していたのである。<(p.80, 第三章)
JRF2024/11/183079
ちなみに「政教分離」を決定付けたと思われる「申命記革命」は、前659年のヨシヤ王の時代とされる。ただし、この本には「申命記革命」という言葉は出て来ずわずかに「ヨシヤの改革」という言葉が見られるのみで、それはアッシリアの宗教的影響を排除する改革であったらしいことが書かれる(p.92 ぐらい)。
JRF2024/11/183790
>ことによると、ユダの書記文化の場としてのエルサレムの宗教的意義は、新アッシリア人がこの町を決して行政の中心地として用いなかったという事実に基づいていたとさえ考えねばならないかもしれない。<(p.100, 第三章)
新アッシリアとエジプトのつなひきが、海岸地方などであって、そこから離れたユダやイスラエルには少し政治的な自由(つまりどちらにつくかの自由)があった。エジプトと組もうとしているとき、ヤハウェ寄りの改革が進んだとされるようである。
JRF2024/11/181494
ただ、アッシリアの影響は、アッシリアの神の影響として現れたのに対し、エジプトの宗教は、その神(パンテオン)の影響としてはエルサレムに現れないのはなぜだろうと私は思った。ヤハウェの宗教は、我々が想像するエジプトの宗教ではないのだ。その意味は、ヤハウェの宗教がもっと多神教的であったか、エジプトの宗教にはかなり一神教的な要素があったか…。おそらく後者でアメン・ラーよりは唯一神のアトン神を信じる一派が伝統的に許されていたのかもしれない。
アッシリアにしてみればエジプトのメイン宗教そのものでないということで、逆にアッシリア治下でもヤハウェ信仰は生きる余地があったか。
JRF2024/11/182534
……。
エジプトのエレファンティネ島には、逃げてきた者か外交官か、ヤハウェ(ヤフ)の神殿があった。エレファンティネ島からエルサレムにうかがいをたてた手紙を送ったこと(前410年/409年)は、エルサレムが力を落としていたにもかかわらず、何がしかの権威がまだあったことを示す。
エレファンティネ島のヤフの神殿は、エジプトのその地の主神殿であるクヌム神殿の近くにあったが…。
JRF2024/11/180675
>ヤフの神殿の中庭で牛や羊の犠牲が捧げられたことは、エジプト人から、クヌム神の神殿での公式な祭儀と競合するものと見なされたのである。クヌム神の神官たちの教唆により、前410/409年頃、ヤフの神殿は略奪を受け、(部分的に)破壊された(HTAT 285, Z.5-8)。その後再建された[ヤフ]の神殿では、動物の犠牲は捧げられなくなった(HTAT 286)。<(p.119, 第四章)
犠牲を捧げるといった基本的な律法が破れていく様子がうかがえる。
JRF2024/11/181028
……。
ペルシア時代にはサマリアにも大きなヤハウェ聖所があった。それは、旧約聖書を作り上げているエルサレムの者には目の上のたんこぶ的なものであった可能性が高い。旧約聖書は彼らを意図的に無視している・または低めている…という。
JRF2024/11/189445
>(…サマリアの…)ゲリジム山上の聖所は前五世紀に建設され、エルサレムから直線距離でわずか45キロメートルの位置にある。それゆえ、エルサレムのヤハウェ祭儀がそれとまったく切り離されて存在していたということはありえない。むしろ、ここでは、イスラエルの初期の歴史について語る聖書テキストの場合と同じような印象を受けざるをえない。
JRF2024/11/189389
すなわち、そのようなテキストでは、「イスラエル」と「カナン」の間の関連性は一貫して組織的に否定されていた。それと同様に、捕囚後の時代のテキストでは、「エルサレム」と「サマリア」の結び付きが意図的に隠蔽されてしまっているふしがある (B. Hensel)。
<(p.122-123, 第四章)
それら多様なヤハウェ宗教の共同体の存在が旧約聖書に「影響」しているという。
>このような多様性は、第二神殿時代の文学創作をも決定的に刻印した。なぜなら、我々が旧約聖書の中で出会うものの少なからずは、ペルシア時代やヘレニズム時代の書記たちの筆によるものだからである。<(p.168, 第五章)
JRF2024/11/184910
……。
いろいろ飛ばして、新約聖書の時代にグッと近付く。
>ヨハネ・ヒュルカノスのもとで前112/111年、ゲリジム山上の神殿が破壊された(ヨセフス『ユダヤ古代誌』XIII, 254-258)。遅くともこれ以降、エルサレムのヤハウェ崇拝者たちとゲリジム上のヤハウェ崇拝者たちの間に信仰分裂(シスマ)が生じた。エルサレムの視点から見れば、北のヤハウェ崇拝者たちは背教者に見えた。このことから、「サマリア人」という呼び方は否定的なニュアンスを帯びるようになった(…)。<(p.158, 第五章)
新約聖書のサマリア人が「敵」のごとく書かれていたことを思い出す。
JRF2024/11/180745
……。
>それ以前の数百年間と同様、ヘレニズム時代になっても、エルサレムは比較的重要性の少ない一つの神殿都市にすぎなかった。事態が変わるのは、プトレマイオス朝の支配下で大祭司職が世襲制となり、エルサレム神殿の財政が独自の神殿税によって確かなものになってからである。<(p.166, 第五章)
JRF2024/11/180498
>ローマによる支配の直前に、古代ユダヤ教のいくつかの異なる形態が並存するようになっていた(…)。アレクサンドリアとクムランでは、ユダヤ人の自己同一性(アイデンティティ)に関する二つの異なる理念(コンセプト)が対立し合っていた。すなわち、一方にはヘレニズム化されたディアスポラ・ユダヤ教があり、これは文化的に開かれていて、ヘブライ語聖書のギリシア語訳である「セプチュアギンタ」という固有の聖書を持っていた。他方にはクムランのユダヤ教があって、これは律法、預言者・諸書の基準に従って生活していたが、それらを独自な仕方で解釈していた。<(p.168, 第五章)
JRF2024/11/183055
なぜクムランのような教団を財政的に政治的に維持しえたか? 私の回答は不十分かもしれないが↓にある。
JRF2024/11/189638
『宗教学雑考集 第0.8版』《救世主による救済論》
>なぜ「救世主」という概念が生まれてきたか? 平等への待望が広まり、革命を担う誰かを求めたからではないか? 《悪》では悪い心は進化に必要だったのだから元来の悪はないと書いた。しかし、社会は腐敗することはあり、怒りが必要なことはある。
JRF2024/11/186937
なぜ平等への待望が生まれたか? 教育の普及…学べば言葉をまたは文字をほとんど誰しもが使えたという人類の偶然が、能力の平等を意識させ、商業がチャンスを希求させ、さらに戦争が能力主義を求めたからではないか? 能力が同じなら分配も平等に…そうしなければ争いが起こるとできたのが原点ではないか。仮に能力が劣ることがあっても、それは障害者のようなもので、偶然であり、補うべきものとできた部分もあったか。
JRF2024/11/184539
征服された民族では、どうしても征服者と差が付き、そこに「平等への待望」が広まる…ということではないか。革命の方法は、まず征服者に面従腹背しながらテロを是認することがあり、それを経済的に支えるために、「救世主」宗教が出てきたのではないか。
その性質上、お上に睨まれないようあからさまに宗教の中枢に集金しないのが、支持を増やす秘訣でもあったろう。自由な経済と相性が良かったと思われる。どこから「救世主」が現れるかわからないことから、様々な拠点への教育などの分配も自然になされたのだろう。
JRF2024/11/185965
一方で山賊や傭兵を増やすより、征服者の支配に従うほうが商業にとっては効率的で、自由な経済を理由とする限りは「救世主」宗教は宗教にとどまることが求められるようになり、そうである限りは、征服者にとっても意義があるものとなっていったのかもしれない。
つまり「救世主」による救済はなくとも、それを待望することで、自由な経済と分配による経済的な救済がそこにあったのだろう。やがて、最初から「救世主」は宗教上の概念でしかないとなっていったということではないか。
JRF2024/11/181779
(…)
どこから現れるかわからない「救世主」を支えることが、人々に救済を、平等をもたらしているのかもしれない。
<
JRF2024/11/185999
……。
……。
ちょっと関係ないが、軍隊と神殿について少し考えた。
グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』([cocolog:94865920](2024年5月))によれば、都市は当初、平等主義・平和主義であった。それは、そうでなければ、その人口増大(が気候変動で崩れること)を恐怖する狩猟民族の攻撃を招いたからであろう。やがて狩猟採集民が、都市農業民を無視できなったとき、逆にその都市の工業力を背景に、武装した集団が、都市をのっとり君主になるようなことが現れた。生産物には傷付けないで。
JRF2024/11/184857
国家は軍隊を維持するためにたがいに攻撃しあったが、その君主には効率性が求められ、君主がたびたび変わった。格差が広がるほうが、金融制度のおかげで、経済的には豊かになった、様々な生産で生きられる者が増えた。もちろん、そこに没落は欠かせなかったため、不幸も多かった。
やがて、信用制度が、神殿を中心としても組織されるようになる。そのあたりのことがヘレニズム時代になるのだろうか。その反省が中世の「停滞」を導くのかもしれない。
JRF2024/11/183104
『古代イスラエル史 - 「ミニマリズム論争」の後で:最新の時代史』(B. U. シッパー 著, 山我 哲雄 訳, 教文館, 2024年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4764267624
https://7net.omni7.jp/detail/1107518580
ドイツで 2018年に初版、2023年に第二版。その第二版の翻訳。
Twitter (X) で存在を知った本。Amazon 評が印象に残る。
JRF2024/11/181517