cocolog:95139839
スピノザ『神学・政治論』を読んだ。破門されたとはいえユダヤ人のスピノザが「諸民族の憎しみがユダヤ人たちを存続させるにあずかって力があった」と言うことに、現代の戦争を見る私はモヤモヤした。 (JRF 2623)
JRF 2024年11月13日 (水)
『神学・政治論』は、『エチカ』([cocolog:95101663](2024年10月))と並んでスピノザの主著で、死後出版の『エチカ』と違って生前の 1670年に出版されている。ただ、この本は禁書になるまで話題となり、それが原因となって、『エチカ』が出版できなくなった…といういわくつきの本のようだ。『エチカ』の前身が『短論文』([cocolog:95105758](2024年10月))であったように、この本にも前身があって、それはスピノザがユダヤ教を破門されるときに書いた「弁明書」にあるらしい。
JRF2024/11/136192
『神学・政治論』は理性的な聖書批判を中心とし、当時のオランダで、正統カルヴァン派の王党派に対し、共和派(貴族派)のヨハン・デ・ウィットを支えるために書かれた政治的な書でもある。
なお、この本はたぶん表現の自由がらみもあって、かなり昔に買っていて、以前に読んだ形跡もないではないのだが、まったく覚えてなかった。
『エチカ』とは関連がないわけではないがかなり独立した本なので、『エチカ』を読んでないとわからないたぐいの本ではないが、スピノザの思想の概略は知っておいたほうが読みやすいと思われる。あと、聖書知識はあったほうがよいだろう。
JRF2024/11/138787
……。
『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
『宗教学雑考集』、まずはアーリーアクセス版である第0.8版を2024年1月に出したのだが、そのとき、読むべきと買って積んでおいた本がいくつかあって、それをこれまでゆっくり崩してきた。その積んでいた本もあらかた崩してきた中で最後に残ったのがスピノザ(主に『エチカ』関連)の本だった。
JRF2024/11/136163
100分 de 名著、エチカ、短論文、知性改善論の順で読んでいき、この『神学・政治論』でラストである。ちなみに前回の『知性改善論』は [cocolog:95112803](2024年10月)。
JRF2024/11/131481
……。
前回までに知ったのだが、どうもスピノザは唯一神による汎神論を説き、ラプラスの魔の存在を認めるかのような決定論者のようだが、私は自由意志の存在を肯定するのに傾き、イデア界も割と肯定する有神論者でしかし東洋思想を基盤に持つシンクレティストである。私はスピノザの思想をそのような点から反駁を試みることが多い。
JRF2024/11/136594
……。
それでは、いつものごとく「引用」しながらコメントしていく。『エチカ』や『短論文』や『知性改善論』で出てきた議論は今回、基本繰り返さない。引用時に、漢字の旧字は新字に改めたり、かなに開いたり、読点(、)を足したりした。旧かな遣いはおおむね改めた。
JRF2024/11/131028
……。
まずは凡例と訳者解説から。
>本書はスピノザがその生涯を通じ自ら進んで世に問うた唯一の書であり、彼に対する生前ならびに死後数十年間の毀誉褒貶は一に係って本書に基因する。彼が生前ついに「エチカ」を出版することが出来なかったのも本書が世に捲[ま]き起した囂々[ごうごう]たる論難に妨げられてであった。<(上巻 p.3, 凡例)
上でこのあたりのことは述べた。
JRF2024/11/139520
……。
>遮莫[さもあらばあれ]。<(上巻 p.14, 訳者解説)
ルビがなく読めなかった。
JRF2024/11/139217
……。
汎神論的スピノザが、この書では、通常の神の概念に寄り添っているように見えることがある。しかし…
JRF2024/11/138750
>彼の解釈方法に従って決定された聖書の多くの個所の意味が、たとえ全然理性に合致しないとしても、それは聖書の言おうとする真の意味がそうだというだけであって、スピノザがその内容の真理性を容認しているわけではないのである。例えば、神がイスラエル人たちに現実の声をもって十誡を啓示したことや、天使が実際にダビデに顕示されたことを、マイモニデスは否定しているに反し、スピノザがこれを文字通り受取っているのは、聖書の文句がそう解される、そうしか解されようがない、というのであって、そうしたことが果たして生じ得るかどうかということは問題外にしているのである。
JRF2024/11/138365
彼がこうした態度を堅持しているのは、聖書ないし神学は、哲学と異なり、真理の体系でなく、したがって聖書ないし神学と哲学とは厳密に分離されねばならぬ、とする彼の信念(そしてそれはウィットの信念でもあった)の一適用に外ならぬのである。
<(上巻 p.21, 訳者解説)
スピノザの合理的解釈の流儀は、現代の理性的聖書解釈に通じている…とのこと。
JRF2024/11/134283
……。
スピノザには独自の宗教観があったけれども、市井の人々の信仰は次善の物として守るべき…という認識があったようだ。
>彼の発見した人間最高の福祉は、結局、神(=自然)を識り愛すること、換言すれば認識によって神と合一することこれである。この意味において彼の哲学体系「エチカ」は彼の形而上学であり、倫理学であるとともに、また彼の宗教説でもあった。しかしこの宗教、すなわち理性的認識による神との合一は、誰にも出来る容易なわざではない。「すべて貴いものは稀であるとともに困難である」という「エチカ」の著名な結語もこのことに関連して解される。
JRF2024/11/138283
「神学・政治論」の中で、「理性の導きのみによって有徳の状態をかち得る人間は全人類から言って極めて少数しかない」と言っているのも結局同じことを意味しているのである。
JRF2024/11/138067
哲学的理性的宗教すなわちスピノチスムスが仮に人類の普遍的宗教となり得る日があるとしても、それはリヒテンベルクの言ったごとく、「無数の歳月の後」でなければならぬ。だからもし認識による神との合一が人を福祉に与[あずか]らしめる唯一の途[みち]であるとしたら、人類の大多数は自己の救霊に絶望せねばならなくなるであろう。しかるに多数の人々にとってはこの認識による途[みち]の代りに別の途がある。信仰による神との合一の途がこれであって、聖書の教えるのは実にこの途に外ならない。
JRF2024/11/138698
そしてそれは神への服従と隣人愛とに要約される。単なる服従が救霊の途であることを理性は教え得ないが、聖書はこれを種々の感動的な物語の例証をもって教える。この点に聖書または啓示宗教の特殊な意義があり、スピノザはこのゆえに聖書を高く評価する。
JRF2024/11/131371
「エチカ」において峻厳な哲学的宗教を説くスピノザは、同時にまたハーグにおける彼の宿の同居人たちに向って牧師の説教を精出して聞くように勧め、宿の家婦から彼女が彼女の宗教で幸福になれるかどうかと問われたのに対しては、「あなたの宗教は結構です。あなたは平和な信心深い生活をなさりさえすれば何もほかの宗教をお求めにならなくても幸福になれます」と答える(コレルスによる)スピノザでもあった。
JRF2024/11/139954
彼が本書の十四章の中で普遍的宗教に必要な基礎として挙げている七つの教義のごときも、彼の「神即自然」の原則につながる神観・宗教観を示したものでなく、それは専ら啓示宗教と神への服従とを問題とする限りにおいての教義に過ぎない。
JRF2024/11/134329
そして彼が信仰の規範を真または偽にではなく服従または不服従に置き、聖書に対して真理の認識体系を拒否し、宗教と哲学的真理とを峻別したことは、当時の神学者たちをして自己と宗教上の意見を異にする者を迫害するの口実を失わしめ、国家の目的たる市民的平和を保護し、あわせてまた政権に対する教権の干渉・圧迫を撃砕するための伏線ともなっているのである。
<(上巻 p.22-24, 訳者解説)
JRF2024/11/138409
長く引用してしまったが、スピノザが「無神論論者の大王」(上巻 p.33)と目されていた汎神論者であり、その主張はかなり「奇異」なものであったとしても、普通の生活者の信仰には穏健な態度で臨んでいたことがわかる部分なので、特に引用しておいた。これまで私の「ひとこと」では、スピノザにそういう視点を与えていなかったことを反省して。
JRF2024/11/137206
……。
>這般[しゃはん]の消息<(上巻 p.25, 訳者解説)
ルビがなくて読めなかった。「これらの消息」というぐらいの意味らしい。
JRF2024/11/132251
……。
>蠧毒[とどく]<(上巻 p.31, 訳者解説)
読めなかった。ググると「1. 虫が食い荒らして害を与えること。2. 物事を損ないやぶること。その害毒。」らしい。「精神を涜[けが」し、蠧毒する書」という形で用いられていた。
JRF2024/11/130901
……。
では本文。
>実に迷信を生み、保ち、かつ育む原因は恐怖なのである<(上巻 p.41, 緒言)
自分に自信があるときは、迷信など信じようとしない。…野球界とかでジンクスを気にするのは、まぁ、それなりに不安があるからかな?
JRF2024/11/139710
……。
>もし、人間を誤謬の中に留め置き、恐怖心を宗教の美名で彩って人間を抑制するに利用し、かくて人々をして隷属のために戦うことあたかも福祉のために戦うごとくならしめ、かつ一人の人間の名誉心のために血と生命とを捨てることを恥としてではなくかえって最大の誉[ほまれ]と思わしめるといったような、そういた事どもがもし君主政治の最高の秘訣であり、君主政治の最大の関心事であるとしたら、反対に、自由なる国家においては、これ以上に不幸なことが考えられることも出来ないし、試みられることも出来ないのである。
JRF2024/11/130848
各人の自由なる判断を諸々の先入見によって篭絡[ろうらく]したり、これを何らかの方法で制限したりするということは、一般的自由と全然矛盾するのであるから。
なおまた宗教に藉口[しゃこう]して惹起される騒擾に関して言えば、そうした騒擾は全く次のことからのみ、すなわち思弁的な事柄に関して法律を設けるということから、ならびに意見が犯行と同様に有罪視され、処罰されるということからのみ生ずる。要するにかかる意見の擁護者・追従者は、公共の安寧のためにではなく、むしろ反対意見者たちの憎しみと激昂とのために犠牲にされているのである。
JRF2024/11/130414
もしも国法が行為をのみ責めて言論はこれを罰しないとしたら、このような総状が法の名のもとに美化されることも出来ないし、また意見の相異が騒擾にまで発展するということもないであろう。
<(上巻 p.44-45, 緒言)
言論で炎上があったとき、敵を憎む者が、法律で言論をしばろうとする。しかし、それは公共の安寧のためになそうとしているのではない。…ということなのだろう。
JRF2024/11/134080
これまでの意見の永続性が問われるとき、問う側の事情があって、それを更[か]えようとしているのであるから、利益供与・分配の方法を変えるなりすることが本来求められることであって、言論はその付随物に過ぎない。…ということであろうか。
ただ、ある言論があるから納得している、慣例に従っている…というのは多々あるので、そんな簡単な話ではないように思う。立場的に言えない話となると現代にも多々あるだろうし。
JRF2024/11/133686
まぁ、私は最底辺の「表現の自由戦士」を自認するので、言論の自由を認めるべき…と現代政治においてはいうけれども。
JRF2024/11/134036
……。
>動物に転ぜしめる底のものである。<(上巻 p.48, 緒言)
「〜するテイで」って口語でよく使う。私もよく使う。その際の漢字は「体」か「態」だと思ってたんだけど「底」もあるんだね。
JRF2024/11/132189
……。
>余は、預言者たちの権威が単に行状および真の徳に関する事柄においてのみ重きをなすのであり、それ以外の点では彼らの意見は我々にあまりかかわりがないということを容易に決定し得た。<(上巻 p.50, 緒言)
聖書の言葉は絶対でなく、預言者の言葉といっても絶対ではない。…ということのようだ。
>神からモーゼに啓示された律法は単にヘブライ国だけの法規であり、したがってヘブライ人以外の何人もこれを受入れる義務がなかったこと、否、ヘブライ人さえも単に彼らの継続している間だけこれに拘束されるのであることを知った。<(上巻 p.50-51, 緒言)
JRF2024/11/138851
カルヴァン派正統派のように、モーゼの律法を現代(近代)の国にあてはめてはならない。…と。
>余は、聖書が理性に対して絶対に自由な立場を残していること、また聖書は哲学と共通する何ものをも持たずむしろ聖書と哲学とはそれぞれ自己特有の地盤の上に立っていることを確信するに至った。<(上巻 p.51, 緒言)
真の神の認識=スピノザ流の神の認識と、信仰とは別物である。哲学と信仰は別なので、哲学に属する政治は、信仰から独立してありうる…ということのようだ。
JRF2024/11/135604
……。
>なおまた人間の性向は極めて多種多様なものであって、ある人にはこの考え方が気に入るかと思えば他の人にはかの考え方が気に入り、またこの人を敬神にまでそそることがかの人を嘲笑にまで駆るといった有様であるから、これからして余は、上のことどもに附帯して次のような結論をしている。
それはすなわち、各人に対して判断の自由を認めかつ信仰の基礎を自己の意向に従って解釈する権利を認めねばならぬこと、また各人の信仰が正しくあるか正しくないかはもっぱらその人の行為からのみ判断すべきであるということである。
JRF2024/11/131060
このようにしてのみすべての人々は全き心、自由な心をもって神に服従することが出来ようし、またこのようにしてのみ正義と愛とがすべての人々から尊重されるであろう。
<(上巻 p.53, 緒言)
信仰の自由、良心の自由というものが、「各人の信仰が正しくあるか正しくないかはもっぱらその人の行為からのみ判断すべきである」(行為主義?)というところから出ていることがわかる文である。
内心や意志の理論を重視するドイツ的信仰義認よりはカルヴァン的な信条だと思う。
ちなみに、Gemini さんはカルヴァン的ということには否定的なようだが。
JRF2024/11/135462
……。
第一章以降で…、
>余は、最高の統治権を握る人々はそのなし得る一切をなす権利を持つこと、彼らのみが権利と自由の擁護者であること、他の人々は彼らの決定に従ってのみすべてをなさねばならぬことを示している。
JRF2024/11/130014
しかし何人も人間としての立場を失うまでに自己自身を護る力を奪われることは不可能なのだから、これから余は、何人も自己の自然権を完全には奪われないこと、むしろ臣民はある種の権利をいわば自然権によって保持すること、こうした権利は国家の大きな危険を伴わずには彼らから奪い取られ得ないこと、したがってかかる権利は臣民に対し暗黙的に認められるかそれとも臣民が統治権を握る人々と明示的にこれを契約するかであること、そうしたことを結論している。
<(上巻 p.54-55, 緒言)
国家に奪われない自然権…人権などの要請であり、自衛権の要請も当然視されている。
JRF2024/11/137427
……。
>もし余の言っている事柄のどれかが祖国の法律と矛盾しあるいは公共の安寧を外すると最高権力が判断した場合は、それを言わなかったと同様に見なして欲しい。余は一個の人間であって誤る可能性のある者であることを知っている。しかし余は誤らないように、また殊に余の書くすべてのことが祖国の法律・敬虔ならびに善良なる風俗に合致するようにひたすら努力して来たのである。<(上巻 p.57, 緒言)
JRF2024/11/132585
あくまでも自分は愛国者であって、革命的考えを抱いているわけでない…という表明のようである。まぁ、この点を述べて消滅の可能性を受け容れてるがゆえに、スピノザは自由にものを言っていると信用されたのであろうし、相手方も気兼ねなく禁書にもできたのであろう。
もちろん、禁書が売れる・資産価値が上がる…という当時の事情も勘案する必要はあるかもしれないが。
JRF2024/11/131871
……。
>預言あるいは啓示とは、ある事柄に関して神から人間に示された確実な認識である。預言者とはしかし、神から啓示されたことを、神の啓示について確実な認識を有し得ない・したがってまた啓示を単なる信仰によってのみ受容し得るそうした人々に代弁する人間である。
JRF2024/11/137023
(…)
上記預言の定義から、自然的認識も予言と呼ばれうるという結論になる。というのは我々が自然的光明(Lumen Naturale)よって認識する事柄はもっぱら神の認識とその永遠なる決定とにのみ依拠するのであるから。
しかしこの自然的認識はすべての人間に共通な諸基礎の上に立脚しており、したがってまたすべての人間に共通したものであるから、そのゆえに民衆からはあまり尊重されない。
<(上巻 p.58-59, 第一章)
JRF2024/11/139094
例えば進化の原理から神のメッセージを受け取るといったような、自然から神の意図を受け取るような解釈は、カトリックなどはあまり推奨していなかったはずである。そのもともとは、スピノザに見られる独自見解こそが自然だとする一派を警戒するがゆえであるのだろう。
スピノザは自らの流派のみを自然と見ているが、それはそうではない。それは前回([cocolog:95112803](2024年10月))までで私が語ってきたことである。
JRF2024/11/131380
……。
聖書において「神の」というのは、「大きな」「great」ぐらいの意味であることがしばしばある。ネフィリムが神の子といわれるのはそうだ。もちろん、「正しい」という意味で神聖でありえたことも書かれている。
>すなわち「神の霊」または「エホバの霊」とはある場所では極めて激しい、極めて乾燥した、物凄い風を意味するに外ならない。<(上巻 p.77, 第一章)
もちろん、そうでない用例もある。
JRF2024/11/134610
>次に「神の霊」とは人間の精神そのものあるいは人間の生命そのものを意味する。例えばヨブ記27:3 に「神の霊我が鼻にあり」とあるがごときであって、これは創世記の中に神が人間の鼻を通して生命の息を吹き込んだとあるのに呼応する。<(上巻 p.78-79, 第一章)
それはわかりやすさのためであるという。
JRF2024/11/139316
>さてまた聖書は一般民衆の理解力の弱さを考慮に入れて神を人間のように描き、神が精神、心、感情、更にはまた身体、気息をも有するものとしている。ゆえに聖書においては「神の霊」という後がしばしば神の精神、神の心、神の感情、神の力、神の気息のことに用いられる。<(上巻 p.80, 第一章)
スピノザ的な神はそういうものではない。
JRF2024/11/131332
……。
>以上のすべてから、聖書に出てくる次のような表現、すなわち「預言者は神の霊を有していた」「神はその霊を人間に降し給うた」「人間が神の霊または聖霊に満たされた」等々の表現の意味が極めて明白になる。これらの表現は要するに預言者たちが特別な・普通以上の徳を持っていたということ、また異常の操守をもって敬虔を実践したということに外ならない。さらにまた彼らは神の精神または神の思想を把握したということに外ならない。
JRF2024/11/135834
なぜなら、我々の示したように、霊とはヘブライ語では精神ならびに精神の思想を意味するのであり、またこのゆえに律法そのものも神の精神を説明している廉[かど]により神の霊または神の精神と呼ばれるからである。
ゆえに預言者たちの表象力も、神の諸決定がそれを通して啓示された限りにおいて、やはり同等の権利をもって神の精神と呼ばれ得たのであり、また預言者たちは神の精神を持っていたといわれ得たのである。
<(上巻 p.83, 第一章)
JRF2024/11/136124
「神の」はある種の形容詞であって、預言者は無謬というのではない。…と。
ところで「表象」という言葉、訳者の畠中氏はよく使うが、「表象」とは「想像や実際に見ること」のようである。「表象力」とは「幻視」や「奇跡遭遇」を含めたような「想像力」をいうのだろう。
JRF2024/11/130380
……。
>例えばソロモンは、周知のごとく、智慧にかけては他の人々に卓越していたが、預言的才能において卓越していたわけでなかった。(…)これに反して何ら教養のない農夫のごときに預言者があった。否、単純な女性 -- アブラハムの婢[はしため]ハガルのごとき -- にさえ預言的才能が与えられていた。こうしたことは経験や道理とも合致する。何故なら、表象力の極めて旺盛な者は純粋な知性的認識にはあまり適当しないし、これに反して、知性に勝れ知性に十分磨きがかけられた者は程々な・控え目な表象能力を持つのみであり、いわば表象能力を抑制してそれが知性と混同されぬようにすると言った有様である。
JRF2024/11/137250
だから自然的ならびに霊的な事柄に関する智慧と認識とを預言者の書の中に求めようとする者は全然道を誤っているのである。
<(上巻 p.88, 第二章)
知性ある者つまりインテリと、預言者は、人間が違う・役割が違う。だから、聖書の中に知性者の真実である「哲学」の真理を見出そうとしてはならない、それは別だ…もちろん、聖書には聖書の利点はあるが…というのがスピノザの見解のようだ。
JRF2024/11/131680
……。
>一籌[いっちゅう]を輸する<(上巻 p.91, 第二章)
読めない字。「一籌を輸する」で「ひけをとる」「一段劣る」ぐらいの意味のようだ。
JRF2024/11/133983
……。
預言者には、その預言者にふさわしい表象で、預言がなされる。
>ネブカトネザルの卜官たちには(エゼキエル書21:21 参照)犠牲[いけにえ]に献[ささ]げられた動物の臓腑[ぞうふ]の中にエルサレムの滅亡が啓示されたし、同王[ネブカトネザル]はそのことを神託ならびに空中高く投げた矢の方向によって知った。次に人間が自由意志と自己の力とによって行動すると信じた預言者たちには、神は人間の行動に影響力を持たぬ者・人間の未来の行動について知識を持たぬ者として啓示された。<(上巻 p.96, 第二章)
JRF2024/11/137587
逆に言えば、異教者が異教的に預言を受け取ったように、自由意志はあると信じる者にはそれにふさわしく預言が与えられたのであり、その預言があるからといって、人に「自由意志」があると聖書が示していると考えることはできない。…ということのようである。
スピノザは決定論に立ち自由意志を否定する。一方、前回までに私は自由意志はあると考えてよいとしてきた。
カルヴァン派も二重予定説によって自由意志を強く否定する。そこはスピノザにかなり近い。しかし、スピノザはむしろカルヴァン派の正統派を批判する立場だから、これでも自由意志が、信者レベルで信じるのを是認している…という譲歩なのかもしれない。
JRF2024/11/135754
……。
>人々は一般に不思議なほどの性急さをもってこう思い込んで来た、預言者は人間の知性の達し得ることなら何でも知っていた、と。そして聖書の多くの個所が預言者は種々のことを知らなかったことを我々に極めて明瞭に告げているにもかかわらず、人々は預言者が何かを知らなかったことを容認するよりは聖書のそうした個所が自分にはよく分らないと主張しようとするか、さもなくば人々は、聖書の言葉を歪曲して、聖書が全然言おうとしないところのことを聖書が言っているようにしようとする。全くのところこれらのどちらかでも許されるなら聖書全体は台なしになる。<(上巻 p.101, 第二章)
JRF2024/11/138731
預言者は無謬ではないとここでも言っている。
JRF2024/11/130217
……。
>徒爾[とじ]<(上巻 p.101, 第二章)
読めるが意味がわからない。「むだなさま」「無意味なさま」だそうで「徒[いたず]らに」から想像した意味でよいようだ。
JRF2024/11/134312
……。
>神が人類を滅ぼそうとしていることがノアに対して啓示されたのもノアの把握力に応じてであった。ノアはパレスチナの外には世界に人が住んでいないと考えていたからである。そしてただにこうした種類の事でもばかりでなく、もっと重大な事どもについても預言者たちはその敬虔を損うことなしに無智であり得たしまた事実無智であった。実に彼らは神の属性に関して何ら特殊的なことを教えず、むしろ神に関して極めて通俗な思想を持っていたのであり、彼らへの啓示もこうした通俗な思想に適応してなされたのである。<(上巻 p.104, 第二章)
JRF2024/11/133107
預言者の無知。神に関する通俗的な認識しか彼らは持っていなかったという。では、なぜ多神教ではダメだったのか? 神に関する通俗的な知識と言えば当時は多神教だったはずである。一神教こそが真理だから(より真理に近いから)というのがスピノザの答えのようだが…。
それはそうとノアに関するこの解釈はちょっとおもしろいと思った。ノアの洪水物語には矛盾がある。そこからむしろ、預言者の無知を読み取るべき…聖書とはそういう視点の神の物語だ…それでもその預言者に正しさがある…というのは、一つの真理かな…と思う。
JRF2024/11/131745
……。
>我々はこう結論する、我々は啓示の目的ないし主眼を構成する事柄についてのみ預言者を信ずべく義務づけられる、それ以外の事柄に関しては各人その好むままに信じて可なりである、と。
例えばカインへの啓示は神がカインに対して真の生活をするように勧めたということを我々に教えるのみである。そうしたことだけが啓示の目的であり主眼であるのであって、意志の自由や哲学的問題について教えるのが目的ではない。
JRF2024/11/138204
ゆえにたとえその勧告の言葉と論法との中に意志の自由ということが極めて明瞭に包含されているとしてもそれにかかわらず我々はその反対の意見[意志は自由でないという意見]を持つことも許される。その言葉と論法とはカインの把握力にのみ適応させられているのだから。
<(上巻 p.116-117, 第二章)
創世記でカインは弟のアベルを殺す。そこまでできるのは意志の自由を神が認めているから…というのが通常の解釈である。しかし、そこで言いたいのは「殺してはならない」だけだというのがスピノザの言いたいことなのだろう。
JRF2024/11/132594
しかし、そうすると上でノアに関して新たに受け取ったメッセージとこのカインのメッセージ、その取捨選択は、ある種の「意志の自由」の問題ではないのか…とか思い出す。スピノザの「意志の自由」はそういう問題ではないというのもわかる。しかし、それが思想の強制または選民思想を生んできたことを考えると、やはり、カインの(スピノザが否定した)メッセージの重大さを私は思う。
JRF2024/11/135498
……。
>各人の真の幸福・真の福祉は善の享受そのものの中に存するのであって、他の人々は除外して自分だけが善を享受するという栄誉の中に存するのではない。(…)例えば人間の真の幸福・真の福祉は智慧そのもの、真理の認識そのものの中に存するのであって、自分が他の人々より一層智慧があるとか、他の人々は真の認識を欠いているとかいうことの中には絶対に存しない。こうしたことはその人間の智慧を、換言すればその人間の真の幸福を少しも増大することがないからである。
JRF2024/11/137486
(…)
されば聖書が、ヘブライ人たちを律法の服従へ励ますためにいろいろなことを、-- 神は彼らを他の諸民族の中から選んだとか(申命記10:15)、(…)とか(…)、そうした事どもを言っているのは、彼らの把握力に適応して言っているのである。
<(上巻 p.120-121, 第三章)
ヘブライ人=ユダヤ人の選民思想は、彼らがそう言えば、よく神の善に導かれるからそう告げられただけである…ということのようだ。
JRF2024/11/130144
しかし、ユダヤ人には現代、ノーベル賞受賞者が多く、明らかな選民性がある。それはラビ制度から来る教育の重視が進化的に役に立ったということなのかどうなのか、よくわからないが。
JRF2024/11/135779
……。
>何人も自らのためにある生活法を選んだりある事をしたりすることは他の人間たちの中からその人間をその仕事あるいはその生活法へ選ぶ神の特殊な召命に依らずには出来ないということになる。<(上巻 p.124-125, 第三章)
召命…。「天職」というのもドイツのルター派からカルヴァン派に受けつがれた新教(プロテスタント)の伝統的な考え方だね。
《天職と召命 - 種村 剛》
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/te_beruf.html
JRF2024/11/130461
Gemini さんによると、スピノザの召命は、「個人が自分の能力や環境の中で、自然な流れの中で生きていくための、ある種の「使命感」や「生きがい」のようなものに近しい概念」で、「現代社会において、個人が自分の能力や興味関心に基づいて、生きがいを見つけるためのヒントを与えてくれます」…とのこと。一方で「天職」は、「職業倫理や社会貢献の重要性を教えてくれます。」…とのこと。違いがあるようだ。
JRF2024/11/133308
……。
>我々の端正な欲求の対象となり得る一切は主として次の三つに還元される。事物をその第一原因によって理解すること、感情を抑制しあるいは徳の習性を獲得すること、最後に安全にかつ健全な身体において生活することこれである。<(上巻 p.125, 第三章)
『「シミュレーション仏教」の試み』における本目的三条件を思い出す。順を↑にあわせるなら、「来世がないほうがよい」「思考と思念を深めるのがよい」「生きなければならない」にあたるだろう。
JRF2024/11/133315
「感情を抑制しあるいは徳の習性を獲得すること」が「思考と思念を深めるのがよい」にあたるとは少し考えにくいが、自分を探求していけば、そこに一定の落ち着きが自然に生ずる…といった感じだろうか。
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
JRF2024/11/134515
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2024/11/139607
……。
諸民族は環境に適応してそこにあり、適応した神認識を・「預言者」を持っている。それは律法などの違いとなる。
>諸民族が相互に区別されるのは諸民族がその下に生活しかつそれによって導かれる社会の事情や法律の点においてのみである。したがってヘブライ民族も知性や心の平安ということに関してい諸民族の中から神によって選ばれたのではなく、ただ彼らに国家を与えてこれをしかく長年の間保たしめた社会や運命の事情に関してのみそうなのである。<(上巻 p.127, 第三章)
JRF2024/11/133079
……。
パリサイ人達は預言の賜物はユダヤ人のみに特殊だとし、出エジプト記33:16などを根拠とする。しかし…
>モーゼは自国民の頑固な気質と精神とを知ったので、彼らは大きな諸奇蹟と神の特別な外的援助となしには始められた業を完成することが出来ないことを、否[いな]、彼らはそうした援助なしには必然的に滅びるであろうことをはっきり見てとった。そこで彼は神が彼らを確かに維持してくれるようにするために神のこの特別な外的援助を求めたのである。
JRF2024/11/136289
実際彼は34:9において、「主よ、我もし汝の目に恩寵[めぐみ]を得たらば願はくは主我らの中にいまして行きたまえ。こは頑ななる民なればなり云々」と いうているからである。
<(上巻 p.139, 第三章)
その地に合うように選ばれたが、たまたま頑なだったので、奇蹟と約束が与えられた。…と、スピノザによると、そういうことのようだ。
JRF2024/11/133682
……。
>諸民族の憎しみがユダヤ人たちを存続させるに与[あずか]って力があったということは過去の歴史の示すところである。<(上巻 p.145, 第三章)
今やってるイスラエル=ハマス戦争でも、もしかするとナチスによるユダヤ人虐殺も少しはそういう要素があるのかもしれないし、ユダヤ人に関する陰謀論があったりするのは、ユダヤ人が「諸民族の憎しみがユダヤ人たちを存続させるのに力がある」からあえて憎しみを買ってる面があるのではないか…とわだかまりを覚える。ユダヤ教からは破門されたがユダヤ人であったスピノザが、17世紀にすでにこういうことを述べているんだね。
JRF2024/11/131126
たまたま、この「ひとこと」を書いているときにスピノザのいたオランダで↓という事件があった。
《オランダでイスラエル人に集団暴行 反ユダヤ主義背景か - 日本経済新聞》
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR08E800Y4A101C2000000/
>欧州メディアが伝えた。集団暴行はオランダのサッカーチーム、アヤックスとイスラエルのチームのマカビ・テルアビブの試合後に起きた。双方のチームのサポーターが衝突し、暴行に発展したとみられる。5人の負傷者が病院に運ばれて治療を受けた。<
JRF2024/11/133481
《ガザで何百人ものアスリートが殺されていることが不問に付されるなか、アムステルダムで「暴徒化」したのは誰だったのか(英文法解説つき) - Hoarding Examples (英語例文等集積所)》
https://hoarding-examples.hatenablog.jp/entry/israeli_hooligans_in_Amsterdam_and_disinfo
JRF2024/11/135272
>「アムステルダムの衝突の別な面について、主流メディアは、故意に、私たちに見せずにいる。イスラエル人フーリガンが地元住民に襲い掛かり、ジェノサイドのスローガンを唱和し、パレスチナ旗を損壊している。
消去すること(伝えないこと、省略すること)によるプロパガンダと誤情報に続けて、選択的に(一方だけに)非難を加えるという、古典的なやり口である」
<
JRF2024/11/134601
……。
ユダヤ人をあえて他と違うようにしているシステム…
>余の考えによれば、割礼の印しはこの点においてかなり重大な意味を持つものであり、余はこれ一つだけによってもこの民族は永遠に存続するだろうと信ずる位である。<(上巻 p.146, 第三章)
割礼については↓。
JRF2024/11/131639
『宗教学雑考集 第0.8版』《割礼》
>私は、割礼は、むしろ単純に、改宗防止の「呪い」なのではないかと考えた。
つまり、包皮がないとオナニーがやりにくい。が、決してやれないわけではない。一方、包皮をなくした者は、常時刺激が起こって感覚が鈍くなり、性交を長く楽しむには有利ではあろうとは言える。しかし、包茎でない者はいて、もし、それが子作りに有利であるなら、むしろ、包皮は切除せず包皮がある者を自分の首族から淘汰していったほうがいいというのが、本来のヤコブ的考え方という理解が私にはある。
JRF2024/11/135786
ただ、これを、その子の(その母の)改宗問題を考えると様相が変わる。つまり、包皮がない状況を人為的に強制していれば、もし快感があること自体は子作りに有利であり続けるならば、包皮がない状況でも快感が得られるほうに「進化」するはずである。
そして、そのように進化した者でも、包皮があるほうが敏感であるとすると、非ユダヤ人となり非割礼となった時点で、オナニーに強い快感を得がちになるのではないか?
もし、これが「呪い」だとするなら、「性を大地にまく」ことに匂いかフェロモンか何かの大きなマイナスがあるということもまた、意味するのだろう。
JRF2024/11/131209
「オナニー野郎」になった時点で、「改宗」の報いを受け、例えば女性などから嫌われるようになるといった面があったのではないか?
<
JRF2024/11/135118
……。
>ラ・ペイレール Isaac de la Peyrère (1594-1676)(…は…)「先アダム的人間の仮説に基く神学体系」(…)の中で、アダム以前にすでに人類が存在し、それがイスラエル民族を除く一般人類の祖先であり、アダムは特別にイスラエル民族のみの祖先として創られている、という仮説を立てる。<(上巻 p.284, 第三章 訳注)
上でノアに関して、その逸話に預言者の無知をむしろ読み込むべきという話だった。ここにはアダムの無知を読み込むべきである…ということだろう。
JRF2024/11/134406
この点の「聖書の矛盾」は私は例えば↓などで取り上げている。
《『創世記』ひろい読み - アダムの再婚 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/08/post_2.html
>アダムとイブが楽園を追放されたとき、アダムの二番目の妻とカインの妻がいったい誰なのかという問題がある。
説 1.基本的に女性が生まれたことは記載されておらず、アダムの二番目の妻は、カインの末裔かアダムの娘で、カインの妻はイブかカインの姉妹である。
JRF2024/11/133756
説 2.彼女らは人ではなくどちらかといえば獣である。
説 2'.彼女らは 06:02 にある神の子である。
説 2''.アダムとイブは四次元的に最初に創造されたのであり、人間の時間では必ずしも最初の人間ではない。
説 3.アダムとイブは象徴的存在で、楽園を追放されたアダムとイブは、そもそも複数いた。
説 3'.楽園から追放されるとき複数になった。
<
JRF2024/11/131308
……。
>すべての物体はより小さい他の物体の衝突すると他の物体に伝えただけの運動量を自己の運動量の中から失う<(上巻 p.148, 第四章)
『エチカ』にも入射角・反射角の話として、運動量保存の法則が出てきたが、こちらはより普通の表現でそれが出てきている。入射角・反射角の話とつなげることはスピノザはしてなかったのかな…。
JRF2024/11/132904
……。
神の法(自然法?)と国が強制する法の違いをスピノザは言う。神の法を知ってまたは神を愛し認識して完全性に近づき、罰があるからでなく、それに納得して守ることになることをスピノザは求める。
>事実、絞首台を恐れるがゆえに各人に対して各人のものを認める者は、他人の権力によって、また禍[わざわ]いへの恐れに強制されて行動しているのであり、これは正義者とは呼ばれ得ない。
これに反して法の真の理由としてその必然性とを知るがゆえに各人に対して各人のものを認める者は、確乎たる精神によって、また他人の決定にでなく自己の決定によって行動しているのであり、したがって正義者と呼ばれるに値いする。
JRF2024/11/134221
パウロが、律法のもとに生活した者は律法によって義とされるわけにはゆかなかったと言っているのは、やはりこのことを教えようとしたのだと余は考える。
事実正義とは、一般の定義に従えば、各人の権利を各人に対して認めんとする確乎かつ恒常的意志だからである。
<(上巻 p.151-152, 第四章)
JRF2024/11/133873
……。
聖書(モーセ五書)の律法も国の法であり、神の法は理性で知るものとするスピノザであるが、では、その神の法は具体的にどのようなものか、例えば人権か…みたいに思うのだが、そういう持っていき方はせず、啓示に基づいた法…モーセ五書の律法もある程度は是認するという方向のようだ。
JRF2024/11/138755
>モーゼの律法は、普遍的なものではなくて専ら一民族の性格に応じまた特にその民族の維持のために定められたものであるとはいえ、やはりこの意味において神の法あるいは神法と呼ばれ得る。我々がそれを預言的光明に基づいて立てられたのであると信ずる限りは。<(上巻 p.156, 第四章)
ここでの「預言的光明」は、スピノザがよく持ち出す「自然的光明」と似たもので対称的なもののようだ。
JRF2024/11/136891
……。
>認識力の不足のゆえに、十誡[デカログス]はヘブライ人たちにとってのみ法であった。つまり彼らは神の存在を永遠の真理として認識しなかったがゆえに、彼らは十誡の中で彼らに啓示された事柄、すなわち神が存在することならびに神のみを礼拝すべきことを律法として把握しなければならなかったのである。もし神が何らの感覚機関を媒介とせずに直接的に彼らと語ったのであったとしたら、彼らはこのことを律法としてではなく永遠の真理として把握したであろう。<(上巻 p.161, 第四章)
子牛の像を作るような民は明らかに認識力・把握力が不足していた…と。
JRF2024/11/130650
……。
対してキリストのことばは神の法なのだという。
>実際キリストは預言者というよりもむしろ神の口であった。
(…)
殊にキリストはユダヤ人たちだけを教えるためにではなく、全人類に教えるために遣わされたのであり、したがってキリストの精神はユダヤ人たちの思想に適応させられただけでは十分でなく、むしろ人類に普遍的な思想と信念とに、換言すれば普遍的かつ真実なる諸概念に適応させられねばならなかったのであるから。
JRF2024/11/139865
(…)
キリストは啓示を真実かつ十全的に把握した。だから彼がこれをかつて法として命じたとしても、それは民の無智と頑迷とのゆえにそうしたのである。ゆえに彼はこの点において神と同じ行いをしたわけである、彼は自らを民の能力に適応させたのであるから。そしてこのため彼は、たとえ他の預言者たちよりは幾分明瞭に語っているとはいえ、やはり曖昧に、またしばしば比喩によって啓示を教えた。
<(上巻 p.162-163, 第四章)
そして、
>スピノザによれば、キリストは神を表象力によってではなくて認識力によって把握したのであるから預言者でなくて哲学者であったのである。<(上巻 p.285, 第四章 訳注)
JRF2024/11/133388
……。
神の法を知るべきという聖書根拠について、スピノザはソロモンの書(箴言)を挙げたあと、パウロの「ローマ人への手紙」を挙げる。
>ロマ書1:20節(…)そこでこう言っている(トンメリウスがシリア語のテキストから訳したところによる)。曰く、「それ神の隠れたるところとその永遠[とこしえ]の能力[ちから]と神性とは、世界の始めより、創られたる物により知性を通して知らるるがゆえに、人々は言い遁[のが]るる術なし」と。<(上巻 p.170, 第四章)
JRF2024/11/139164
新共同訳では次のようになっている。
>世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。したがって、彼らには弁解の余地がありません。 <
スピノザ的、自然=神の主張にも典拠はあるんだね。シリア語訳を特に引用しているのは、訳注によると、スピノザはそちらのほうが元になっていると考えていたふしがあるらしい。
JRF2024/11/133136
……。
>祭式は何ら福祉に寄与することがなくただ国家の一時的幸福にのみ関連するのであるということは、聖書そのものからも明らかである。聖書は祭式の遵守に対しては物質上の便益と悦楽とをしか約束せず、普遍的な神の法に対してのみ福祉を約束しているのだから。実際俗にモーゼ五書の中には、上に述べたようにそうした一時的幸福、例えば栄職ないし名誉、勝利、富、悦楽、肉体の健康等以外の何物も約束されていないのである。
JRF2024/11/132129
そしてこの五書はもろもろの祭式のほかに多くの道徳上の教えを含んではいるけれども、しかしそれは万人に普遍的な道徳法として存するのではなくてもっぱらヘブライ民族の把握力と性格とにのみ適応させられた誠命として存するのである。例えばモーゼは殺すなかれということを教師としてあるいは預言者としてユダヤ人たちに教えたのではなくて、これを立法者または君侯として命じたのである。
<(上巻 p.174-175, 第五章)
JRF2024/11/135593
これはそうなのか?…といったところ。そこは法として禁じておいたほうが許された者が生きやすい世の中になる…など、神の法としてそうあったほうがいいという側面もあるように思う、ぐらいだが…。
ただ、次を読むに及んで強く反論したくなってくる。
JRF2024/11/136632
>かくして彼(…モーゼ…)は、姦淫するなかれということを命令するに際しても社会または国家の利益のみを眼中に置いているのである。もし彼がこれを国家の利益のみにでなく各人の精神の平安と真の福祉とに関連する道徳法として説こうと欲したのであったら、単に外的行為をばかりでなく精神の同意をも罰したであろう。事実キリストはそうしたのである。<(上巻 p.175, 第五章)
JRF2024/11/135318
精神は内心は規定できない…private 性がある…というのも神の法のように私は思う。(private 性についての私の考えは直近で円城塔『コード・ブッダ』を読んだとき([cocolog:95112803](2024年10月))も引用した。)
ところで、ここのキリストの想像しただけで姦淫という意見には反対意見のようなものを私は持っている。
JRF2024/11/136370
『宗教学雑考集 第0.8版』《ポルノと姦淫》
>キリスト教では、性表現、性的妄想が禁じられる。それは新約聖書『マタイによる福音書』5:28 の「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 」…を典拠としており、強固なものだ。
私は(特に二次元の)性表現が認められるようこれを次のように解釈している。
エッチなことを想像するのも姦淫だという説があるけど、誰かが姦淫していると想像させる(噂話をひろめる)ほうがより重い「姦淫」だろう。
JRF2024/11/136932
つまり、「誰それがそれで自慰行為をしているから禁ずるべき」と言うこと自体も姦淫の一種ではないかということだ。または、人を罪に定めるため「不適切表現を好むものが犯罪的性行動にはしっている」という、一部の本性的逸脱を全体性に追いやる思想・運動は、彼らの男性性をみだらな者として心の中で犯したことになるのではないか?
私はそう批判して性表現禁止の強固さを緩めようとしているのだが、残念ながら理解を得られたことはない。
JRF2024/11/134465
ポルノは子供への悪影響があるというのだが、それなら離婚のほうがよっぽど悪影響がありうる。もちろん、離婚したからと言って、必ず悪影響があるわけではないが、ポルノも同じである。
(…)
二次元の性表現については、男女ともオタクは「性の解放」にむしろ恐怖している側面がある。現実の異性のポルノなどから、個人へ向けた欲望を過度に刺激されないよう「性的な目」をそらしあうために、萌え絵で発散することを選んでいる面もあると私は思う。
JRF2024/11/130001
リアルな人のポルノではなく、創造物であるがゆえに規制されるべきなのだという意見もある。極論すれば、売買春の商売がたきとして萌え絵がある…ということだろう。それに対し、オタクは売買春のようなことはむしろ嫌って、または、恐怖しており、二次元の絵のほうがマシだと考えている。そうすることで、私も含め男女のオタクは、醜い自分の姿を凝視し合わずに済んでる。
<
JRF2024/11/137019
……。
>キリストは国家を維持し法を制定するために遣わされたのではなくて、普遍的な法を説くためにのみ遣わされた(…)。そしてこれからして、キリストはモーゼの律法を決して廃止したのではないことが容易に理解される。なぜならキリストは、何らの新しい律法をも国家に導入しようと欲したのではないから。むしろキリストは道徳法を説きこれを国法から区別するということを何より意図したのである。<(上巻 p.176, 第五章)
モーゼの律法を廃止したのではないというのは普通いわれることであるが、その理由が、そもそもそれは律法ではないから…というのがスピノザの新しいところなのだろう。
JRF2024/11/134675
道徳法=自然法と国法の峻別、これがスピノザがオランダに求めたことだったのだろう。国法を定めるときのフリーハンド(法哲学の、教会からの自由)を求めた…と。
JRF2024/11/134345
……。
モーセ五書の律法が当時のヘブライ国家に限られたものであることの典拠は、エレミア書にあるという。
JRF2024/11/136589
>ヘブライ人たちがその国家の滅亡後は祭式の施行に義務でうけられていないことはエレミヤから明らかである。エレミヤは都市[エルサレム]の滅亡が目前に迫っているのを見てこれを預言しつつこう言っている、「神は己れが地に慈悲と裁判[さばき]と正義[ただしき]とを行う者なるを知りかつ曉[さと]る者のみを愛し給う。さればこれより後の日はこれを知る者のみ讃うるに値いすべし」(9:23 参照)と。これを敷衍すれば、神は都市の滅亡後はユダヤ人たちに対して何ら特殊なことを要求せず、また彼らに対して将来はあらゆる人間が拘束される自然の法以外の何ものをも求めないということになる。<(上巻 p.178, 第五章)
JRF2024/11/139359
……。
スピノザの国家論的理想。
>次のことが帰結される。まず第一に、全社会は出来る限り共同で支配権を握り、何人も自分と同等の人間に奉仕すべく義務づけられず、すべての人間が自己自身に奉仕されるようにされなくてはならぬ。もし数人または一人の人間のみが支配権を握るなら、その人間は普通の人間性以上の何物かを持つか、あるいは少くともそうしたものを持っていると民衆に確信させるように全幅の努力を払わねばならぬ。
JRF2024/11/130364
次に、法律はどの国家においても次のような風に -- 人間が恐怖によってよりはその最も欲求する何らかの善への希望によって抑制されるような風に制定されねばならぬ。かくのごとくにすれば各人は喜んでその義務を果すからである。
JRF2024/11/132210
最後に、服従とはある人間が支配者の権力のゆえにのみ命令を実行することに存するのだから、これからして、支配権がすべての人間の手中にありかつ法律が一般の同意に基づいて立てられるそうした社会にあっては服従ということが全然問題にならぬのであり、そしてそうした社会にあっては法律の数が増そうと減ろうと民は依然として同様に自由なのである。彼らは他人の権力のゆえにでなく自己自身の同意に基づいて行動するのだから。
JRF2024/11/138554
然るに一人の人間のみが絶対的に支配権を握る場合においてはこれと反対である。なぜならその場合すべての人間は一人の人間の権力のゆえにのみ国家の命令を実行することになるからである。そうした支配にあっては、人々が始めから支配者に盲従するように教え込まれているのでない限り、必要な場合に新しい法律を制定したり、一度認めた自由を民から奪ったりすることは困難である。
<(上巻 p.183-184, 第五章)
逆にいうと、自由平等社会であるがゆえに、法律や契約書は複雑に書かねばならない。そうならないためにはある種のパターナリズムが必要とされる。…というようにも読める。
JRF2024/11/135477
↓を思い出す。
ミルトン『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』を読んだ [cocolog:93979779](2023年1月) で…。
>>
自由をこころざしながら、ある程度の組織を必要とすれば、その組織のルール=法に気が向くようになる。しかしそれが「自然法」であっても、言葉による法は人のものでしかない。それには限界がある。
JRF2024/11/131044
日本国憲法ではその限界は天皇制の記述に現れていると端的にはできる。天皇が法を超えているのではない、あらゆる人間にとって、法はやり過ぎなところがあるというだけだ。たまたま、その人間の例として天皇が挙げられているというのが法から見た解釈になろう。
では、その「齟齬」がミルトンのいうように、「高い法の二つに仕えることはできない」ようなこともありうるのではないか? それはありうるかもしれないが、今は顕在化していない。その僥倖を多とするべきだ。
JRF2024/11/137757
以前、妄想的状態のとき、「日本國携帯用憲法」(素案)として次のような事を書いた。
《法を体現させる - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/10/post_2.html
>日本はほうち国家であり、法は守るべきです。しかし、法をつくった者と人との間にはスキ間があり、そこで争いはおこるものです。人のふりみて我がふりなおせといいます。忘れてはならないほうは、法でも人でもなく、「法が人を生かせる野ではなく、人が法をいかすのである」ということだと私は信じています。<
JRF2024/11/135746
人と法は組んずほぐれつしていくべきで、そこには言ってみれば愛のようなものが必要で、それは天皇制についてもそうなのだと思う。齟齬を顕在化させないためには、事前にそこに致らせない努力ももちろん必要だと思う。
AI が人を支配するようになれば、法がプログラムとなる。その非人間性または過度な人間性に対し、ますます人がどう組んずほぐれつすべきなのかを考える機会が増えるだろう。
<<
JRF2024/11/131225
……。
かつてのヘブライ人の祭式…
>これをもって見るに、もろもろの祭式は目的は次の点に、すなわち人々をして何事をも自己の決定によってではなく一切を他者の命令によってなすようにさせ、また人々をしてそのすべての行動、そのすべての思索に際し、自分は全然自己の権利のもとにでなくて他者の権利のもとにあることを意識するようにさせるにあったのである。<(上巻 p.186-187, 第五章)
JRF2024/11/138959
他者の命令によっているということが自覚できるようになっていた。…と。本当に自発的に守るべき何かは別にあることがわかるようになっていた。おそらくその自覚があるからこそ、あるべき自由を学ぶことができた。…と。スピノザはそう言いたいようだ。…ラビの伝統の不思議を思う。
JRF2024/11/130924
……。
>これら(…キリスト教…)の祭式は国家を顧慮して制定されたのではないとしても、やはり社会全体を顧慮したのであり、したがってそうした社会から離れて独り住んでいる者は少しもこれに拘束されないのである。のみならず、キリスト教が禁止されている国に住んでいる者はそうした祭式を差控えねばならぬのであるが、それにもかかわらずその人間は幸福に生活し得るであろう。<(上巻 p.187-188, 第五章)
キリスト教の祭式も違う文化のもとでは守る必要はない。この辺はイスラム教も、違う文化のもとでは、多少のタブーを破ってもしかたないとされること(カツ丼とか食ってもとがめられないこと)を思い出す。
JRF2024/11/130506
ところで、この文に続くところになんと日本に言及がある。
>こうした例は日本国において見られる。日本国ではキリスト教が禁止されており、同国に住むオランダ人たちは、東インド会社の命令によって、あらゆる外的礼拝を差控えなければならぬことになっている。<(上巻 p.188, 第五章)
1670年代といえば日本は鎖国がはじまっている。そういう時代だったんだね。
JRF2024/11/139087
……。
聖書の史的物語をすべて知ることは通常人にはできないし、期待されてもいない。そんな中で何を伝えたかったのか。スピノザが大切にしたい神の認識は聖書の史的物語には現れない…。
>神の何たるかを、あるいは神がいかなる風に万物を支えかつ導きまた人々のために配慮するかを教えることが出来ないけれども、しかしそれは人々の心に服従と敬神の念を植えつけるに足る程度には人々を教えさとすことが出来る。<(上巻 p.190-191, 第五章)
JRF2024/11/136688
国にとって大事なのは、服従と敬神の念であるということではあるだろう。でも…。
もしかして…と思うが、スピノザの考えには反するかもしれないが、神が人々に求めているのは、服従と敬神の念を持って幸せに生きることであり、神の認識を持つことはそれほど求められていないのかもしれない。一部の者は神の認識を高め、完全性を得ていく。それは人類からの神への愛の形の一つではある。でも、神が愛して人を幸せにしてくれようとしているとき、それに応えて幸せに生きてみるのも、一つの神への愛ではないだろうか?
JRF2024/11/134436
……。
>結論しよう。それはすなわち史的物語への信憑 -- その物語がどんな種類のものであろうとも -- は神の法と何のかかわりもないこと、物語への信憑はそれ自体では人間を幸福ならしめ得ないこと、またそれは教えを説くに役立つかぎりにおいてのみ有益性を持つこと、この見地においてのみある物語が他の物語よりすぐれているとされ得ることなどである。<(上巻 p.193-194, 第五章)
聖書は絶対に真…というわけではない。 …と。
JRF2024/11/135638
>しかしユダヤ人たちはこれと全く反対の考えを持っている。彼らはこう言う、正しい見解、正しい生活様式といえども人々がそれをモーゼに対して預言的に啓示された教としてではなく単に自然的光明にのみ基づいて抱懐しているのである限りは福祉に少しも寄与するところがない、と。<(上巻 p.194, 第五章)
この点は、ユダヤ人の言いたいこともわかるかな。教外別伝・不立文字…みたいな考え方だが、まねしてもまねしきれないものが伝統にはある…というのは、割と私は信じるな…。
JRF2024/11/138589
ユダヤ教の側に立ってということなら、内田樹さんもんもその辺のことを内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』([cocolog:94456795](2023年10月))にも書いてたように思う。
JRF2024/11/132857
……。
奇蹟は自然的光明により説明できる自然の法則によるものだというのがスピノザの主張である。もちろん、そもそも空想物語的なものとか、知られてない自然法則がありうることは認めるとしても。
>もっとも余は奇蹟をその原因が自然的諸物の原理 -- 自然的光明によって知られる限りの -- から説明され得ない事柄であると言うことは出来る、しかし奇蹟は自然的諸物の原理を全然知らない民衆の把握力に応じて生じたのであるから、古人は確かに民衆が通常自然的諸物を説明するように説明することが出来ないことを皆奇蹟と思ったのである。<(上巻 p.204, 第六章)
JRF2024/11/138005
私は奇蹟は割と素朴に信じるほうである。統合失調症だったころの経験があるから。
『宗教学雑考集 第0.8版』《奇跡》
>起きて欲しい奇跡が、まして起きて欲しいときに、起こるわけではない。それは旧約聖書でもしばしばそうであるように。
JRF2024/11/139285
さらに、起きた奇跡に関しても、旧約聖書『出エジプト記』のモーセの奇蹟も今では科学的に説明しようとする人がいるように、奇跡は時間が経てば、偶然性に埋もれてしまい、ほぼ証拠がなくなる。「証拠がある」ものでもそうなるのだから、大抵の奇跡のようにほぼ自分にしかわからない符牒などであった場合はなおさらになる。
科学的に矛盾した神の介入の証拠は出て来ないと信じていい。なぜなら、イエスの十字架からの復活やモーセの奇跡についてなどさえ、それらの神の介入の証拠は(証言以外)もうなくなってしまっているからである。
JRF2024/11/136106
奇跡については神の介入の証拠はやがてなくなり物理的・科学的な説明を邪魔できなくなるのだ。
(物理的)奇跡とはそのように証拠は残さない形でなら起こりうるのである。証拠を残す形で起こってもいいはずだが、なぜか、そうならないのである。
<
JRF2024/11/136717
……。
奇蹟によって神をより尊敬するということは生じず、むしろ自然が法則通りであることに神への感嘆が生じるというのがスピノザの主張である。
>奇蹟から、すなわち我々の把握力を超越する出来事からは、神の本質も存在も、否、およそ神と自然に関する如何なることも理解しえない。<(上巻 p.207, 第六章)
>我々は奇蹟によっては神および神の存在と摂理とを認識することが出来ぬ、むしろそれらは確乎にして不可変的な自然の秩序から遥[はる]かによく結論され得る(…)。<(上巻 p.209, 第六章)
JRF2024/11/133376
現に…
>イスラエル人たちはあれほど多くの奇蹟からも神に関する何らの正しい概念を形成することが出来なかった。<(上巻 p.211, 第六章)
手品のタネを見ていたから、逆に後世の人を信じさせるために聖書を書いた者が求めたようには神が尊敬できなかった…みたいなことも言えるのかもしれないが…。
JRF2024/11/134500
>聖書の中に語られているすべてのことが自然的経路において生じたのであること疑いない。それにもかかわらずそれらが神に帰せられているのは、聖書の意図するところが、すでに示したように、ものを自然的原因によって説明することにはなく、ただ表象力に深い感銘を与えるような事柄を語ること、しかも民衆を一層驚歎させて民衆の心に敬神の念を植えつけるのに最も適当な方法ないし表現においてそれを語ることのみにあるからである。<(上巻 p.216, 第六章)
自然的事物も奇蹟として描くことに聖書著者たちはインセンティブがあった。…と。
JRF2024/11/137115
>ゆえに聖書の中にその原因が我々に分からぬような事柄、また自然の秩序を外れて、否、自然の秩序に反して起ったかに見える事柄が書かれてあっても、我々はそのため躊躇すべきではない。むしろ我々は実際に起った事柄は自然的経路において起ったのであることを固く信じなければならぬ。<(上巻 p.217, 第六章)
自然的経路で起ったとすればどういうことか…というのは、これはこれで、聖書を読むとき必要な視点だろうと思う。奇蹟を信じる私もそういう視点は忘れないようにしたい。
JRF2024/11/138393
……。
聖書の奇蹟を自然的経路で解釈する例が短い文でいくつか書かれているが、中から二つだけ紹介しよう。
>神の(…)命令によって海はユダヤ人たちのために道を開いた(出エジプト記14:21参照)、これはすなわち夜もすがら激しく吹いた南東風によったのである。(…)このことは出エジプト記14:27からも明らかである。そこには海の潮がモーゼの指図だけによって再び満ちたことのみ語られており、風のことは何も言われていない。だが後の歌の中では(15:10)神が己の風(すなわち極めて強烈な風)を吹かせたゆえにそうしたことが起ったと述べられている。<(上巻 p.218, 第六章)
JRF2024/11/133434
海が割れる奇跡やノアの箱舟については、自然的経路で説明するのは現代の定番ではある。
>エリシャは死んだと思われた子供を蘇生させるためには幾度か子供の身体の上に乗らなければならなかった。かくして子供は段々暖かみが出て来てついに目を開いたのである(列王記略下4:34-35参照)。<(上巻 p.218, 第六章)
ここはそうかもしれないが、それでも死と表現されるからには何かあったとも考えるべきところだろう。むしろなぜ「死」と表現されたこと…たとえば、親権や給付の受給権や長子権などの問題があったとか…を問題とすべきところだと思う。
JRF2024/11/133556
……。
>もし自然の法則に矛盾することあるいは自然の法則の結果でないことが不可疑的に証明されるような何事かが見出されるとしたら、それは涜神の徒によって聖書へ付加されたものであることを我々は固く信ずべきである。<(上巻 p.220, 第六章)
本当の奇蹟があるのは決定論の神を信じさせなくするから涜神だ…と。でもそれが証明されたというなら、スピノザさん、それはヒドいんじゃない? ジョークか反語かな? そういうことは起こり得ないという。
JRF2024/11/137424
……。
>マケドニア王アレキサンダーの兵士たちに対しても、かつてパンフィリヤの海が二つに分れ、他に道がなかったままにそれが彼らに通路を提供したのであった、神がアレキサンダーを通してペルシヤ人たちの勢力を欲したがゆえに。<(上巻 p.231, 第六章)
知らなかったアレクサンダー大王にもモーセ類似の奇跡があったんだね。パンフィリア海に関する奇跡…。
でも、日本語でググっても見つからない。英語で↓にはそれらしき記述はあるけど…。
JRF2024/11/135772
《Flavius Josephus: Josephus: The Complete Works - Christian Classics Ethereal Library》
https://www.ccel.org/ccel/josephus/complete.ii.iii.xvi.html
JRF2024/11/135796
>while, for the sake of those that accompanied Alexander, king of Macedonia, who yet lived, comparatively but a little while ago, the Pamphylian Sea retired and afforded them a passage through itself, had no other way to go; <
JRF2024/11/138954
……。
>ある事柄がなぜ生じたかを理解しえない度ごとに「神の意志」を持ち出す人々をスピノザは「無智の避難所(Asylum ignorantiae)へ逃げ場を求める」者として笑っている(…)。<(上巻 p.287, 第六章 訳註)
「神の意志」=「無知の避難所」…ヒドイ悪口だ。
JRF2024/11/135598
……。
>すべての人は、口では、聖書は神の言葉であって人間に真の福祉や救霊への道を教えるものであると言っている。しかし彼らの行いの示すところは口で言うのと全く別である。実に民衆は聖書の教えに従って生きることなどはまるで念頭に置かないように見える。そして余の見るところでは、ほとんどすべての人が、自分の妄想に過ぎないものを神の言葉であると称し、宗教の口実のもとに他の人々を自分と同じ考えに強制することをのみこれ力[つと]めている。
JRF2024/11/132730
あえて言う、余の見るところでは、神学者たちはおおむね、いかにして自分の思い付きや自分の独断を聖書によってこぢつけるか、いかにしてそれを神的権威によって守るかということに心を砕き、聖書や聖霊の精神を解釈するに当っては何をするにもまして軽率かつ大胆にやってのける。
その際もし何か彼らの心配することがあるとすれば、それは聖霊を誤って解釈して救霊への道からそれはしまいかということではなくて、ただ自分の誤りを他人に指摘されて自分自身の権威を堕し・他の人々の侮蔑の的になりはしまいかということだけである。
<(上巻 p.232-233, 第七章)
JRF2024/11/130912
ヒドイ言いようである。が、一面の真理だろう。
JRF2024/11/136080
……。
>聖書を解釈するにはまず聖書の真正な歴史をまとめあげ、確実な所与ないし原理としてのその歴史から聖書の著者のうちの精神を正しき帰結によって結論するということが必要である(…)。<(上巻 p.235 第七章)
聖書の真正な歴史…。Twitter (X) で紹介されていた↓という本を 最近買った。近々、読む予定。
JRF2024/11/135372
『古代イスラエル史: 「ミニマリズム論争」の後で:最新の時代史』(B. U. シッパー 著, 山我 哲雄, 教文館, 2024年6月》
https://www.amazon.co.jp/dp/4764267624
Amazon評(ぱすと〜る):>旧約聖書に書かれていることの中で、聖書外資料によって史的事実と判断しうるものは「かなり少ない」。副題にある「ミニマリズム」(最小限主義)とは、こういう立場の歴史研究のことだ。
JRF2024/11/132402
そのような研究者たちによれば、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモンなどについて旧約聖書が語ることは、「ペルシア時代からヘレニズム時代のユダヤの書記の創作」(上巻 p.170)であり、大国に支配されている自分たちのアイデンティティを確立するためのものであった。
JRF2024/11/136354
では、この研究者たちはその間の史実をどう考えるかというと、イスラエルが国の形をとりはじめたのは北イスラエルのオムリ王朝あたりで、ユダ王国はさらに100年以上あとのこと、そもそも統一王国は存在せず、ダビデ、ソロモンの実在性も低い、紀元前10世紀ごろのエルサレムは小村にすぎなかった、ということである。
JRF2024/11/133617
このようなミニマニリズムに対して、マクシマリズム(最大限主義)では、旧約聖書の描くイスラエル民族の物語は実際の歴史の流れを反映しているという前提のもとに、外部資料によって修正はしつつもおおまかには旧約聖書をなぞらい、族長物語、出エジプト、土地取得、士師時代、ダビデ・ソロモンの統一王国、王国分裂、南北王国並列時代という流れの古代イスラエル史を描く。訳者もこれに属する通史を書いたと「自戒」(同)する。
しかし、本書の著者シッパーは、ミニマリズムにも耳を傾け、聖書外資料や考古学的証拠を重視しつつ、旧約聖書をも無視しない、という立場である。
<
JRF2024/11/131052
……。
ただし、スピノザはマイモニデスのような自然的光明で聖書を読めばいいという立場ではなく、あくまで聖書に書かれていることで聖書を判断すべきという立場を取る。「聖書のみ」の新教の影響がかなりあるだろう。
例えば、「神は火である」という聖書の記述については…
JRF2024/11/136886
>神が火であることをモーゼが本当に信じたかどうかを知るためには、そうした見解が理性に合致しあるいは矛盾するということからは絶対に結論さるべきでなく、むしろそれはただモーゼ自身による他の諸命題からのみ結論さるべきである。すなわちモーゼは神が天にあるいは水中にある可視的諸物と何ら類似性を持たぬことを極めて多くの個所で明瞭に説いているのであるから、これからして、この命題あるいはこれと同種のすべての命題は象徴的説明されねばならぬということが結論されるのである。<(上巻 p.240, 第七章)
ちなみに、ここで「神は火である」でモーセが表したかったのは「神は嫉妬深い」ということらしい。
JRF2024/11/131582
……。
先に『古代イスラエル史』の評でミニマルな物の観方を紹介したが、スピノザのいう「聖書の真正な歴史」とはそういうイスラエルの歴史ではなく、聖書という本の著述史・書肆情報のほうのようだ。
JRF2024/11/138072
>聖書の歴史は、我々が今日なお知り得る限りにおいてあらゆる預言者の特殊的事情を解明せねばならぬ。すなわちまず各巻の著者の生活、風習、意図について、またその著者が何者であり、いかなる機会、いかなる時に、誰のため、どんな言語でそれを書いたかについてである。次に各巻の運命について、すなわちそれがまずどんな風に認められたか、どんな人々の手に入ったか、またそれにはどれだけ多くの読み方があったか、またどんな人々の発議によって聖典の中に容れられたか、最後にまた人々が今日聖典と認めているすべての巻がどのようにして一体に結合されたか、等についてである。<(上巻 p.241-242, 第七章)
JRF2024/11/134573
……。
>我々は聖書の歴史からまずもっとも普遍的なもの、全聖書の基礎・根柢たるもの、聖書の中ですべての預言者が永遠の教え、生きとし生けるものにもっとも有益な教えとして薦めているところのものを探求せねばならぬ。
例えば万能な唯一の神が存在すること、人々はこの神をのみ尊崇すべきこと、この神はあらゆる者のために配慮すること、しかし神を尊崇し隣人を自己自身と同様に愛する者を何者にもまして愛すること等これである。
JRF2024/11/137261
あえて言う、これらのことならびにこれと類似の事どもを聖書は至る所において極めて明瞭に極めてはっきりと教えているので何人も未だこの点では聖書の意味について疑いを持ち得なかったのである。
しかし、神の本性がいかなるものであるか、また神はいかなる風に万物を見かつ万物のために配慮するのであるか -- こうしたことならびにこれと類似の事どもを聖書は明瞭にかつ永遠の教として説いていない。
JRF2024/11/130927
むしろ、我々が先に示したように、預言者たち自身にしてからがこれに関して一致した意見を持たなかった。したがってこうした問題については何事をも聖霊の教えとして建てるべきではないのである。たとえそれが自然的光明によっては極めて明瞭に決定され得ようとも。
<(上巻 p.243-244, 第七章)
スピノザがまず述べるのは以下の新約聖書の一節だろう。
JRF2024/11/130112
マタイ22:37-40
>イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」<
その上で大胆にもスピノザは、それ以外は相対的なものとしてしまっている。哲学によって国家がなすべきことは決定しうるかもしれないが、宗教にはそういうものはいらない…ということのようだ。
JRF2024/11/137666
……。
「人もし汝の右の頬を打たば左の頬をも之に向けよ」(マタイ5:39)について。(エレミヤ)哀歌3:30にも「打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。 」とあるが…、
>不法を堪え忍び悪しき者たちに万事につけて無抵抗であれというキリストやエレミヤのこの教えは、正義が無視される場所においてのみ、また圧制時代においてのみ適用されるのであって、健全な国家において適用されるのでないということである。<(上巻 p.246, 第七章)
JRF2024/11/133171
そうだろうか? もし圧制が本物なら、たとえ無抵抗でも虚しく殺されるだけである。そうではない、たとえ圧制でも、人間ならば通じることがある…と、アレーテイアを求めて驚きを投げかけること…それが左の頬も差し出すことではないのか。「人間を信じる」、そういう自己犠牲は健全な国家でもいろんな場所でできることだと私は思う。そこからはじまることもあると思うし、そのときはじまらなくても、深く心に刻まれたことが後に花開くこともあると思う。
JRF2024/11/137939
……。
言語上の問題は結構大きいので…。
>我々は聖書の多くの個所についてその真の意味を全然知らないか、あるいは確実性のない当て推量をしているかに過ぎないか、そのどちらかである(…)。<(上巻 p.261, 第七章)
しかし、
JRF2024/11/136212
>あらためて注意せねばならないのは、これらすべての困難が預言者たちの精神を捕捉するに妨げとなるのは、解し難い事柄・表象のみなし得る事柄に関してだけであって、知性で把握し得る事柄・その明瞭な概念を容易に形成し得る事柄に関してではないということである。なぜなら、その本性上容易に解し得る事柄は、理解し難いように不分明に表現されることは出来ないものだからである。<(上巻 p.261, 第七章)
不立文字的教えが、ファリサイ派やカトリックに残っている可能性自体は、スピノザも認めるのだが、どうもそういうのはなさそうだ…と結論している。
JRF2024/11/133149
哲学者だけが知りえる解釈というのもあるのではないか…という部分については、聖書はヘブライ語を読める普通人に向けて書かれたのだから、彼が読んで感じたことこそが、伝えたかったことなのだ…というような見解を取る。
自然的光明が通じないことはある。
>聖書を解釈する困難は自然的光明の無力に由来するのでなくて、人々の怠慢から -- 聖書の歴史を総括することがまだ可能であった時代にそれを蔑[ないがし]ろにした人々の怠慢(あえて悪意とは言わないまでも)からのみ由来するからである。<(上巻 p.264, 第七章)
JRF2024/11/133856
資料が残ってないのが問題なのだ…と。
自然的光明を超えるような神秘的な「超自然的光明」も必要ないという。
>超自然的光明は篤信者にのみ与えられた神の賜物である(余の思い違いでない限りすべての人がそれを主張する)とされる(…)。しかし預言者や使徒は一般に篤信者に対してばかりでなくもっぱら不信心者や冒涜の徒に対しても説教したのであり、これで見ればかかる人々も預言者や使徒の精神を理解する能力を持っていたのである。<(上巻 p.265, 第七章)
JRF2024/11/130570
ただ、これは新約聖書のイエスのことばには反する考え方かな。それによると、解釈ができない者にはそれなりの意味だけをもって教えていることがあるということだから。
《『新約聖書』ひろい読み - たとえで説く理由 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/04/post.html
JRF2024/11/132423
>マルコ 04:01-04:20 (マタイ 13:01-13:23、ルカ 08:04-08:15 に対応)ではイエスが説教そのものをたとえたあと、弟子達に群集に説いているのはたとえであることと、なぜそうするかの理由を述べ、イエス自らがそのたとえを解説している。
JRF2024/11/134913
(…)
『新共同訳 新約聖書略解』(以下『略解』)によると、これは元来「土地」である聴衆に力点を置いたものではなく、「種蒔く人」が宣教の苦労を甘受するように説いたものなのだそうだ。後の教会が、そのたとえに 4:14 以降の解釈を加えることで、選民思想的な言説になったという見解である。
<
スピノザのヘブライ語サークルであれば、自然的光明もあるので、ちゃんと解釈が伝わるという含意もあったのだろうか?
JRF2024/11/136294
……。
聖書外部の自然的光明に頼るマイモニデス…
>マイモニデスの考え方では、聖書の真の意味は聖書自身からは知られないことになり、また聖書自身から求められ得ないことになる(…)。しかしこのことも間違いであることは本章から明白である。<(上巻 p.270, 第七章)
上ですでに述べたことだが、マイモニデス批判はこの章ではここにある。
ちなみにマイモニデス『迷える者の導き』は以前私は英語で読んだことがある。
[cocolog:85424726](2016年6月)など。
>Moses Maimonides 著『The Guide For The Perplexed』を読んでいる。<
JRF2024/11/132307
……。
政教分離を説く…
>宗教は外的行為の中によりも魂の純朴と誠実との中に存するのであるから、公的法規・公的権能には従属しない。何となれば魂の純朴と誠実とは法律の支配や公的機能によってはぐくまれることが出来ないし、また何人も権力や法律に強制されて福祉の境地に至ることは絶対に出来ないからである。むしろこのためには敬虔と友愛とに基づく訓令、正しき教育、そして何よりもまず独立かつ自由なる判断を必要とする。
JRF2024/11/134542
かくてものを自由に考える -- 宗教に関しても -- 最高の権利は各人のもとにあるのであり、また何人もこの権利を放棄し得るとは考えられないのであるから、これからして宗教に関して自由に判断し、したがってまた宗教を自己に対して説明し解釈する最高の権利・最高の権能も各人のもとに在ることになる。
けだし法律を解釈し公の事柄に関して判断する最高の権能を政府が有するのは、そうした事柄が公の秩序に関する問題だからに外ならない。したがって同様の理由から、宗教を解釈し宗教に関して判断する最高の権能は各人のもとになければならぬ。
<(上巻 p.273, 第七章)
JRF2024/11/131618
宗教は、個人の魂の純朴と誠実との中に存するのだから、宗教に関して判断する最高の権能は各個人の中になければならない…と。
まぁ、純朴や誠実にも社会性があるとは言えるが、おおむねその通りかな…と思う。孤独なシンクレティストの私としてはそう信じたい。
JRF2024/11/135573
……。
下巻に入る。
JRF2024/11/132777
……。
>前章で我々は聖書を理解するための諸基礎・諸原理について論じ、それが聖書の真正な歴史にのみ存することを述べた。しかしこうした歴史が何より必要であるにかかわらず、我々の示したところによれば、古人はこれを等閑[なおざり]にし、また実際そうしたものについて書きあるいは伝えたとしても、それは時勢の非なるによって滅び、それによって同時に聖書を理解するための諸基礎・諸原理の大部分が失われたのである。<(下巻 p.7, 第八章)
部分が滅びたりするのも、ある種の神のおぼしめしであり、そこに神の意図があるとして読むべきこともあるように思う。
JRF2024/11/133331
ただ、それをスピノザのようにちゃんと例を挙げて主張できないのが、私の情けないところだが。
Gemini さんによると、例としては、新約聖書の「ヨハネの黙示録」が、「聖典や神託に隠された意味を探求し、そこに見えない力を探ろうとする」姿勢で挙げられる…とのこと。
JRF2024/11/138085
……。
>モーゼが五書の著者であるということは紀元前300年頃から一般に信ぜられ、この思想はキリスト教の学者たちのも受け継がれるに至った。<(下巻 p.291, 第八章 訳注)
モーセ五書の作者がモーセであるという説は現代では当然に否定される。スピノザもそれを否定し、その前にはイブン・エズラ(1090/1092-1164/1167)というユダヤ教のラビもそのことを示唆していたと語る。
そして、モーセ五書から列王記までの作者を一人であるとし、それを(イブン・エズラとは別の)聖書のエズラ記のエズラだとする。
JRF2024/11/132976
>(…モーセ五書から列王記までの作者…)これが誰であったかを余はそれ程明瞭に示すことが出来ぬ。だが余はそれをエズラであったと推定する。<(下巻 p.27, 第八章)
エズラだとする説は、スピノザも自信がなかったのであるが、現代においては(保守派以外には)否定されている。しかし、
JRF2024/11/137256
>エズラがモーゼ五書および他の七書の著者であろうとの説はスピノザ自身も大して重きを置かず、ただ「誰かもっと確実な著者を示してくれるまで」(第九章参照)の暫定的仮説として立てたのであるから、後世の批判の前に維持し難くなったのも当然であるが、これに反し五書や他の七書の間に存する統一性ならびに五書における申命記の特殊的位置の認識は、今日から見ても卓見と言うべきである。事実、申命記は、近代の研究によれば、大体において、大司祭ヒルキヤがヨシア王の時代に発見した特殊的文献であるとされる。<(下巻 p.292-293, 第八章 訳注)
「申命記革命」とか、現代の聖書読みには有名だね。
JRF2024/11/133311
……。
聖書(トーラー)に欄外注があって様々な読み方があるが…
>種々の読み方があるのは深遠な秘義の証拠であると彼ら(注釈者)は考える。二十八個所に亙[わた]って章節の中間に見られる星標についても彼らは同様のことを主張する。否、文字の模様の中にさえ深い秘義が包含されていると考える。彼らがそう言うのは愚昧ないし老耄的敬虔のためか、それとも自分たちだけが神の秘義に与[あずか]っていると人々に思われようとする僭越ないし奸計のためか、余は知らない。余の知っているのは彼らの書いたものの中には秘義めいた何物もなく、ただ稚愚な思想があるばかりだということである。
JRF2024/11/134852
なお余は若干のカバラ派の饒舌家たちの書いたものを読み、その上実際に彼らと識り合ったが、彼らの荒唐無稽さには余はいくら驚いても驚き足りない程であった。
<(下巻 p.46, 第九章)
カバラ派にも言及があるとは、彼らとも討論しているんだね。
私は、間違いにも神のおぼしめしを読み取るから、秘義があるというのは、やや信じがちかな。実際、規制や抑圧による無意識などが生んだ読みなどはありうると思う。そういう規制や抑圧を知っておくべきというのはあると思う。
JRF2024/11/136655
……。
>櫃[はこ]を舁[か]き上らん<(下巻 p.46, 第九章)
読めなかった。ググると、舁は舁[か]く、または、舁[かつ]ぐ…と読むようだ。「昇」に似た字なのでその異体字かな…それにしては送り仮名が「き」では読めないな…と思っていた。
JRF2024/11/138084
……。
スピノザは、旧約聖書の各書について、著者推定などをしていく。ヨブ記のみ私は特別に関心があるので、それだけは引用しておこう。
>ヨブ記ならびにヨブ自身に関しては聖書学者の間に多くの異見があった。ある人々はこれをモーゼの書いたもので全体の物語が一の比喩にすぎないと考える。律法博士たちのある者はタルムードの中でそう説き、マイモニデスもその著「迷える者の導き」の中でこれに賛意を示している。他の人々はこれを実際の物語であると信じ、その内のある者はこのヨブがヤコブの時代に生きていてその娘ディナを妻にしたと考えた。
JRF2024/11/132089
しかるにイブン・エズラは、前述のごとく、ヨブ記に関する彼の注釈の中で、ヨブ記は他の国語からヘブライ語に訳されたものであると主張する。余は彼がこの主張を我々に対してもっと明瞭に示してくれたのだったらと思う。なぜならそうなると我々は異邦人たちもまた聖書を有したということをそれから結論し得るからである。
とにかく余は事態を疑問の中に放置しよう。
しかし余はヨブが異邦人であって不屈な精神の持主であったこと、そして彼は始めは幸福であったが次に不幸になり最後にまた幸福になったことを推量する。事実エゼキエル書14:14は救われた義人の一人としてヨブを挙げているからである。
JRF2024/11/137691
それからヨブのこうした運命の転変と不撓の精神とは、多くの人々に神の摂理に関する論議の機縁を、-- 少くもヨブ記の著者に対話編集の機縁を与えたものと余は信ずる。というのは、ヨブ記の内容ならびに文体は、灰の中に惨[みじ]めに病んでいる者のそれよりも書斎の中に悠々思索する者のそれを思わしめるからである。
JRF2024/11/138781
そして余はここに同書が他の国語から翻訳されたものであることをイブン・エズラと共に信じたい。なぜなら同書は異邦人たちの詩作を模しているかに見えるからである。例えば神々の父は二度も神の集りを召集し、また悪魔(ここではサタンと呼ばれている)は神の言葉を極めて無遠慮に罵[ののし]っているからである。しかしこれは単なる推量であって十分確実な説とはいうのではない。
<(下巻 p.64-66, 第十章)
ヨブ記についての私の長い論考が↓にある。また、同論考は拙著『道を語り解く』に所収されている。
JRF2024/11/136680
《「ヨブ記」を読む - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
『道を語り解く 第2版』(JRF 著, JRF電版, 2016年3月11日第1版 2020年3月11日 第2版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CERFZLA
https://j-rockford.booth.pm/items/4381265
https://bookwalker.jp/deb3133bce-06b3-4150-a4e7-cc1816558bf2/
JRF2024/11/133928
……。
ネヘミヤ記には数字の間違いがある。それを何とかこじつけて解釈するのは間違っているとスピノザはいう。それは複数の典拠から書き写した際に生じた誤りなのだ。…と。
>彼ら(…他の注釈者…)は聖書のある個所を他の個所へ順応させることを敬虔と考えているが、明瞭な個所を不明瞭な個所に順応させ、正しい個所を誤れる個所に順応させ、健全なものを損なわれたるもので台なしにするとは何と滑稽な敬虔であろう。しかし余は彼らを涜神者呼ばわりする気は更々ない。彼らには神を涜そうという意志は全くないのだから。-- 誤ちというのは人間につきものなのである。<(下巻 p.74, 第十章)
JRF2024/11/136826
笑。なかなかの上から目線である。
JRF2024/11/131778
……。
スピノザのユダヤ人としてのヘブライ語の知識にしたがい旧約聖書を見てきたが、話が新約聖書におよぶにいたり、これまでとは論調を変える。
そこでは、まず、使徒が預言者であるか、教師であるかが問題となる。スピノザの結論としては、預言者でもありうるが、むしろ教師なのである。ヘブライ国家のためでなく、すべての人々に対し、自然的光明による神を哲学的に知らせる教師なのだということのようだ。
パウロを筆頭に新約聖書では推論がなされる。モーセ五書の推論と違って本物の推論がなされる。…という。
JRF2024/11/139347
>推論の上に立つことは預言者の権威と相容れない(…)。実際誰にもせよ自分の教義を理論によって確立しようとする者は、正にそのことによってその教義を各人の自由判断に委ねているのである。<(下巻 p.82, 第十一章)
自由判断。これは自由意志との関連で私は注目する。自由意志と違い、神の摂理の中でその判断がそれぞれに導かれる…ということであろうが、しかしその判断の結果が意志として現れるなら、それは自由意志と言って何がまずいのか…と思う。
JRF2024/11/135585
私のいうような「自由意志」は、神の恩寵を認めるから、ペラギウスの言った(と伝えられる)意味において「自由意志」ではないとも言える。キリスト教においてペラギウスの考え方が論争になったのは、「自由意志」という考え方が放縦な生き方を招きうるという注意が、まず記憶される必要があったのだろう。
…別の言葉で言ったほうがいいのかな。自由的意志?
Gemini さんは「自律的な判断」や「内的な自由」といった言葉はどうか…とのこと。
JRF2024/11/137436
……。
旧約聖書の預言者たちはヘブライ国家にのみ対していたが…、
>これに反して使徒たちは、ありとあらゆる民族に対して説教してすべての人を宗教へ転向せしむべく召されたのである。<(下巻 p.88, 第十一章)
>使徒たちがキリストの物語を極めて素朴に語りつつ説いた限りにおいての宗教は理性の領域外にあるけれども、しかしその本質的内容 -- それはキリストの全教義と同様にもっぱら道徳説から成り立つ -- は何びとも容易にこれを自然的光明によって捕捉し得るのである。<(下巻 p.90-91, 第十一章)
JRF2024/11/134457
……。
>最後にこのこと -- すなわち使徒たちが異なった基礎の上に宗教を建てたということから、数多くの争いや分裂が生じたこと疑いない。教会はこうした争いや分裂に使徒時代この方絶えず悩んで来たし、また将来宗教が哲学的思弁から分離され・かつそれがキリストが弟子たちに与えたごく僅少な・ごく簡単な教義に還元されるまでは恐らく永遠に悩むであろう。
(…)
実に我々の時代もあらゆる迷信から自由であると見做し得るならどんなに幸福であったろうに!
<(下巻 p.95, 第十一章)
ごく簡単な教義とは「神を愛し隣人を愛する」のようだが…。
JRF2024/11/132086
……。
>原初のユダヤ人たちに対して宗教は書かれた律法として与えられた。彼らは当時まだ小児のごとく取り扱われていたからである。しかし後になってモーゼ(申命記30:6)やエレミヤ(31:33)は、今に神がその律法を彼らの心に書き込む時が来るべきことを彼らに説いた。だからユダヤ人たちだけは、殊にサドカイ人たちだけは、かつて、板の上に書かれた律法のために戦う理由があったのであるが、律法を精神の中に書き込まれた人々にとってはそうしたことをする理由が少しもないのである。<(下巻 p.97, 第十二章)
JRF2024/11/138445
最初は書かれた律法が必要だったが、ヘブライ国家が滅んだときにヘブライ国家の歴史的役割りは終り、それまでの歴史およびそれ以降の歴史を通じて、ユダヤ人以外も含めて心に律法が刻まれていった…と。聖書は、他の人々が律法を心に刻むための一つのとっかかりになっていて、そのためにかつてのヘブライ国家の歴史があったのだ。…と。そう私は読んだ。ただ、スピノザはそこまでは(そういう目的論的解釈は)思っていないようだが…。
JRF2024/11/139931
……。
スピノザは聖書の欠陥を指摘する。そういう指摘は権威を失墜させるのではないか…という問いに対し…。
>もっとも、宗教を荷厄介視する卑俗の徒が罪を犯す自由を余の言説から掬[く]み取るかもしれぬこと、また彼らが何らの理由もなく、ただ欲望に耽[ふけ]らんがために、聖書が至るところ欠陥ありかつ改竄されたものでありしたがって何ら権威に価[あた]いしないものであることをそれから結論するかもしれぬことは余も認める。しかしこうしたことを防ぐことは不可能であり、これは「物はいかに正しく言われてもこれを曲げて解すればどんな意味にもなる」という意味の俚諺があるによっても明らかである。
JRF2024/11/131797
欲望に耽ろうとする人々はそれに対するありとあらゆる口実を容易に見出し得る。そして原典そのものや契約の櫃を有し、その上預言者や使徒たちを有した昔の人々がもっとよかったわけではなく、またもっと従順であったわけでもない。ユダヤ人たると異邦人たるとを問わずすべての人がみな同一であり、徳というものはどんな時代においても極めて稀であった。
<(下巻 p.99, 第十二章)
JRF2024/11/138153
……。
>三つの理由から聖書は神の言葉と呼ばれる。すなわちまず聖書は神がその永遠の創始者であるところの真の宗教を教えるからであり、次に聖書は未来の出来事に関する預言を神の決定として語るからであり、最後に聖書の実質上の著者たちは概ね人々に共通な自然的光明によってではなく自己に特有なある種の光明によって教えかつその教えを神の宣告として与えたからである。
もっとも聖書の中にはこの外に、単に歴史的な事柄・自然的光明によって把握された事柄がたくさん含まれているが、しかし聖書はその主要内容から神の言葉という呼名を得ているのである。
JRF2024/11/134315
これからして我々は、いかなる意味において神が聖書諸巻の創始者となされ得るかを容易に知りうる。それはすなわちその中に教えられてある真の宗教のゆえであって、神が人間に一定数の書巻を伝えようとしたゆえなどではない。
<(下巻 p.105-106, 第十二章)
聖書は編纂されたもので、取捨選択を経てきている。そこには偶然性もたぶんに寄与している。だからそのいちいちにこだわるのではなく、大事なのは「真の宗教」を伝えようとしていることだ…というのがスピノザの見解のようだ。
国家を作った経験を参考にするという「使い方」に関しては、スピノザはどう考えていたのかな…?
JRF2024/11/135894
……。
>三、旧約聖書の諸巻は多くの書の中から選抜され、かつ最後的にパリサイ人たちの会議によって集輯[しゅうしゅう]され・是認されたこと我々が第十章で示した通りである。また新約聖書の諸巻は、やはり若干の公会議の議決によって正典目録に容れられたのであり、一方、多くの人々によって神聖視されていた他の多くの書がそれら公会議の議決によって正統的ならざるものとして排斥された。
JRF2024/11/131285
しかしこれらの会議(パリサイ人たちの会議ならびにキリスト教徒たちの会議)の議員は預言者たちから成っていたのではなく、むしろ単に学者もしくは識者たちから成っていたのであり、しかもそれにもかかわらず我々は彼らがその選抜に当り神の言葉を規準としたものと認めざるを得ない。
これで見れば彼らは、これらすべての書巻を是とする以前に、必然的に神の言葉に関する認識を持っていたのでなければならぬ。
<(下巻 p.108, 第十二章)
JRF2024/11/135330
まったくの奇蹟として聖書が残ったのではなく、神の言葉とは何かというのを定義的に知った者による選択があった。…と。
そこには、その者たちに比べて、果たして「神の言葉」を知ることに今の人が劣るのか…という問いもあるのだろう。
JRF2024/11/139761
……。
>何となれば、聖書そのものから我々は、何らの困難・何らの曖昧さなしにその主要教義を把握し得る(…)。すなわち、神を何物にもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛するということこれである。<(下巻 p.111, 第十二章)
「神を愛し隣人を愛する」は、私の「理論」においては「有神論の基本定理」に関係するか。
『宗教学雑考集 第0.8版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。
JRF2024/11/138679
…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。
善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。
<
「神を愛する」のは、因果応報の神が確かにいると人々が思うためであり、それは集団として良いことのためだから、集団であることすなわち「隣人を愛する」ためだ…と。
JRF2024/11/134547
これは「有神論の基本定理」が「神を愛し隣人を愛する」よりも先にある・後者は前者から出る…という主張ではなく、「有神論の基本定理」は「神を愛し隣人を愛する」と両立する・矛盾しない・consistency がある…それが簡単に確認できる…ということだろう。
JRF2024/11/136796
……。
「神を愛し隣人を愛する」という基礎…、
>この基礎から異論なく結果しかつ同様に基礎的性質を有する他のことどもについても容認されねばならぬ。それは例えば神が存在するとか、その神が万物のために配慮するとか、神が万能であるとか、神の決定によって敬虔者は幸福であり不敬虔者は不幸であるとか、また我々の救いは神の恩寵にのみ依繋すると言ったことどもである。<(下巻 p.112, 第十二章)
基礎からいろいろ導けるというのは私もやった。
JRF2024/11/135374
『宗教学雑考集 第0.8版』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。
総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。
JRF2024/11/135760
その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。
すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。
<
JRF2024/11/133870
……。
「神を愛し隣人を愛する」という基礎から敷衍されたこういう基礎的な教え…、
>もしこれらのものが部分的に抹殺されたとしたら、それらのものの普遍的基礎は -- 殊に新約旧約両聖書の至るところに薦められている愛の教えは直ちにその復活を要求したであろう。加うるに、人間は考えられる限りのどんな非行もあえてするものであるとはいえ、何びともしかし自己の非行を正当化するために律法を抹殺したり・涜神的な事柄を救いに役立つ永遠の教えとして導入したりはしない。実に人間の本性というものは次のように出来たものであることを我々は見ている。
JRF2024/11/136377
すなわち各人(王者たると臣民たるとを問わず)は、何か恥ずべき行いをした場合は、自己の行為を諸々の事情によって美化し、その行為が正義あるいは端正に悖[もと]っていないように見えるようにするものである。-- 以上によって我々は、聖書が教えている神の普遍的な法は全体として損なわれることなしに我々に伝わったことを絶対的に結論する。
<(下巻 p.112-113, 第十二章)
露悪的というか…。虚栄心があるから、律法を書き換えるよりは、律法はそのままにそれに従っていた(というか促されていた)と見えるように事件のほうを書き換える…ということだろう。
JRF2024/11/137127
……。
>宗教の中にあれ程多くの哲学的思弁を導入して、まるで教会が大学ででもあり、宗教が科学ででもあり、あるいはむしろ論争ででもあるかのような観を呈せしめた人々<(下巻 p.116, 第十三章)
スピノザは神学を完全否定するわけではないが、カトリックのスコラ哲学は基本的に否定しているようだ。
神学についてはジェイムズ『宗教的経験の諸相』([cocolog:94838245](2024年5月))を読んで書いた↓を思い出す。
JRF2024/11/139441
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《還元主義・実用主義・医学的唯物論》
>ジェイムズは、神学のような宗教哲学は、神の存在を証明せず、無用なものだとする。確かにそれは、ゴシック建築がある種の人々を惹き付けるように、理論構築の豊かさ・衒学的趣味によって、人々を惹き付けることがあるのは認めるのだけれども。
しかし、私は神学について考える。神話は数々受け継がれてきたところで、その整合性が取れるというのは、神話の信憑性を高める。神学が神の存在を証明することはないとしても、神々の不存在を示さぬよう、整合性をとるのに論理性は役に立ってきたのではないか?…と。
JRF2024/11/133059
そして、矛盾を(相対的にほぼ)なくすことができたことが一神教の強みであったのだと思う。それは多神教では調整する部分が多くて難しかっただろうから。それは彼らの護教に役に立ったはずだ。
JRF2024/11/131830
また、逆側の作用もあったろう。論理性というものが、うさんくさく見られる状況というのを、理系の者は現代でもしばしば感じる。そういうことは過去にはよりしばしば見られただろう。神学の発達は、そういう論理性に、宗教的権威を与える。それにより科学がより発達できた面もあったのではないか。神学の発達していた中世を暗黒時代とする言説からはその逆を想像してしまうけれども。
<
JRF2024/11/136351
……。
出エジプト記3:6>わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。 <…を根拠に、モーセに神の認識が先にあったことを述べる。
>人間はいかなる誡令によっても神の属性を認識すべく義務づけられていないこと、かえってこの認識は若干の信仰者にのみ与えられた特殊的賜物であることが結論される。<(下巻 p.121, 第十三章)
>神への認識は神の賜物であって命令ではないのである。<(下巻 p.123, 第十三章)
モーセに従う族長たちには、命令権者としての名が知られ、ただ神の命令に従順であることのみが求められたということのようだ。
JRF2024/11/134732
……。
ところで、Gemini さんに「AI には完全な神の認識は可能そうですか?」…と聞いたところ、「しかし、AIが「神」を完全に理解することは、技術的な問題だけでなく、哲学的な問題も伴います。例えば、AIが「神」を理解したと主張した場合、その「理解」は、人間にとって意味のあるものと言えるのでしょうか?」…とのこと。
JRF2024/11/139397
……。
>神が自己に関して預言者たちを通して人々に要求している認識は自己の神的正義と愛との認識だけである、換言すれば神の属性の中人間が一定の生活方法によって模し得るような属性の認識だけである(…)。<(下巻 p.123, 第十三章)
神的正義は「有神論の基本定理」の中では因果応報をなすこととできるだろう。人が法を持ち裁くことは、神を模すことでもあるだろう。
一方で神の愛とは何か? 「有神論の基本定理」の中では、因果応報が直接的なものでなかったが、それでも、それを信じることが愛つまり隣人愛ということだろうか?
JRF2024/11/134290
議論を先取りするがスピノザにおいては、これはどうも違うようである。万人に服従による救いが開かれていること、それが神の愛であり、その意図を模倣すべき…つまり隣人を救うべき…ということのようだ。
JRF2024/11/136085
……。
>神への知的認識 -- それは神の本性をそれ自体において観るものであり、そしてこの本性は人間が一定の生活方法によって模することも出来ないしまた真の生活法を打ち立てるために取ってもって模範にすることも出来ない底のものである -- は信仰や啓示宗教には全然必要でなく、したがってまた人間はこれに関して極めて間違っていてもその故に必ずしも涜神的であるとはいえないのである(…)。<(下巻 p.124-125, 第十三章)
JRF2024/11/134206
『エチカ』が示すように、汎神論的決定論的唯一神の認識は、完全性へいたるためには必要であっても、それは、「救い」というものには関係がない。「救い」は啓示宗教がもたらす。…ということなのだろう。スピノザは新たな宗教を作りそこに勧誘しようとしたわけではなかった。…ということだろう。
JRF2024/11/136292
……。
>我々が今しがた述べたような事柄(…どの事柄か文脈よくわからない、「神を愛し隣人を愛する」ということか、それとも「神に手や足があるなどと信じる」ことか…)を敬虔にかつ素直に神について信ずることが、神を涜[けが]すことであるとしたら、預言者たちは確かに -- 少くも民衆の精神的な弱さのゆえに -- そうした表現法を極力避け、反対に、各人が容認せねばならぬ神の属性を何よりも先に明確にはっきりと教えなければならないはずであったが、しかしそういうことはどこにも行われていないのである。<(下巻 p.126, 第十三章)
JRF2024/11/131222
明瞭にはっきり教えられている神の属性は、「偶像崇拝の禁」つまり形を描けないことがそうなるか…。一神教信者にとっては、それがアブラハムの・モーセの達成ということになるのかもしれない。スピノザにとってみれば、それにより、自然的光明による神認識に近付いたとなるのであろう。
JRF2024/11/139931
……。
聖書の権威は濫用されがちで…
>この結果オランダでは、久しい以前から、geen ketter sonder letter (いかなる異端者も聖典に基づかざるなし)という格言が行われている程である。<(下巻 p.129, 第十四章)
宗教改革の時代を感じさせることわざだね。
JRF2024/11/136255
……。
>信仰に関して各人の思考の自由が奈辺まで及ぶか、また我々はいかなる人々(たとえそれが異なる意見の持主でも)を信仰者と認めねばならぬかを明らかにするためには、信仰ならびに信仰の諸基礎が規定されねばならぬ。余はこれを本章においてなさんとするのでありまたそれと同時に余は信仰を哲学から分離しようとする。これこそ本書全体の主要目的であった。<(下巻 p.130, 第十四章)
この章が大切なようだ。
JRF2024/11/134553
……。
>聖書の目的はただ服従を教えることにのみ存する。<(下巻 p.130, 第十四章)
「イスラム」という言葉も「服従」を意味するようである。カトリックよりもカルヴァン派は「服従」を強調するという印象が私にはある。
続く部分…
>これは何びとも否定し得ないところである。というのは、新旧両聖書が服従の戒め以外の何ものでもないこと、ならびに両聖書の目的は人間の心の底から服従させるようにすることにのみ存することを誰が知らないであろう。
JRF2024/11/133669
実際、前章に示したことどもはさておき、モーゼはイスラエル人たちを理性によって説得しようとしたのではなく、契約、誓い、恩恵によって義務づけようとしたのである。更に彼は、刑罰の威威嚇によって民を律法への服従へ駆り、また報酬の約束をもって民をそれへ励ました。これらすべては知識を促進するための手段ではなく、ただ服従を進めるための手段であった。
一方、福音書の教えも、人は神を信じ神を尊敬しあるいは -- 同じことだが -- 神に服従せねばならぬという単純な信仰以外の何ものも含んでいない。
<(下巻 p.130-131, 第十四章)
JRF2024/11/139162
……。
信仰とはどのようなものか。
>一、信仰が救いをもたらすのは信仰それ自体によってではなくてただ服従に関連してのみである。あるいは、ヤコブ書2:17にあるがごとく、行為を伴わぬ信仰それ自体は死にたるものなのである。これについてはヤコブ書の二章全体を参照して欲しい。<(下巻 p.133, 第十四章)
「服従のみ」…と。信じているだけではだめで、服従して「何か」を守るなどしてないといけない。その「何か」にモーセの律法(や戒律)を入れたくなるが、スピノザはそうではなく、「神を愛し隣人を愛すること」を入れるということのようだ。
JRF2024/11/136059
>我々は何びとをもその人の行為に従ってでなくては信仰者あるいは不信者と判断し得ぬ(…)。すなわち、その人の行為が善なれば、たとえ信条において他の信仰者たちと違っていても、やはり信仰者であり、反対に行為が悪なれば、たとえ言葉においては他の信仰者たちと合致しても、やはり不信者なのである。なぜなら服従の存するところ信仰も必然的に存し、また行為を伴わぬ信仰は死にたるものだからである。<(下巻 p.134, 第十四章)
緒言にあった行為主義(?)の部分。
JRF2024/11/134066
……。
ここで、聖書全体の精神となっている基礎的諸教理…スピノザも信ずべきとする諸教理が列挙される。ただし、その諸教理は次の一点に帰着するから信ずべきなのである。
>すなわち愛と正義を愛する最高実有が存在していて、すべての人は、救われるためにはこれに服従せねばならず、またこれを正義の実践と隣人への愛とによって尊崇せねばならぬ、ということである。<(下巻 p.137, 第十四章)
ここから出発して、神の存在や唯一性や遍在性などが定理として言えるという。
JRF2024/11/138307
>これらすべてのことは、人間 -- 何びとの例外もなく -- が上に説明した律法の掟によって神に服従し得るために何にもまして知らねばならぬ事柄であることは、何びとにも疑いのないところである。なぜならこれらのうちのどれをでも取り去れば、服従もまたなくなるからである。<(下巻 p.139, 第十四章)
どうも服従は律法のためになされるようだが…。
JRF2024/11/137520
「有神論の基本定理」の神は服従までは求めていないと言える。スピノザがここでいう神は服従を求めるからこそ、他に邪魔されずに頼れる保証であるところの唯一性を求めるのであるし、すべてを今監視しているほうが強いとなって遍在性を求めることになる。逆に「有神論の基本定理」の神においては、唯一性や遍在性は不明であることができる。
「服従」という言葉のニュアンスの違いも感じる。日本語で考えれば、服従を求める者は愛の神になり得ないのではないか。服従を求めるということは、本当の愛がそこにはないと思えてしまう。
JRF2024/11/139003
……。
そういった基礎的諸教理の他の枝葉末節は信仰にかかわりがないと言い切る。
>その他の点についていえば、神あるいはかの真の生活の典型がいかなるものであるか、すなわちそれが火であるか、霊であるか、光であるか、思惟であるか、などのことは信仰と何のかかわりもない。
JRF2024/11/135243
同様にまた神がいかなる理由で真の生活の典型であるか、すなわち神が正義と慈悲の精神を持っているためか、それとも万物が神を通して在りかつ活動し、したがってまた我々も神を通して認識しかつ神を通して真なるもの・正しきもの・善きものを見るためか、などということも信仰にかかわりがない。各人がこれらについてどう考えようと違いはないのである。
JRF2024/11/134414
更にまた神は本質によって遍在的なのかそれとも力によって遍在的なのか、また神は万物を自由によって導くかあるいは必然性によって導くか、また神は律法を君侯として規定しているかそれとも永遠の真理として教えているか、また人間は自由意志によって神に従うかそれとも神的決定の必然性によって従うか、最後にまた善人への酬[むく]いや悪人への罰は自然的なものかそれとも超自然的なものか、-- それらについてどう信じようとも信仰には何らかかわりがない。
JRF2024/11/138254
あえて言う、これらのことどもならびにこれと類似のことどもは、各人がそれをいかように考えようと信仰の点から言えば別に差異はない、ただその人間がそれによって罪を犯すより大きな自由を得たり、あるいは神に服従することがより少くなったりするような結論に至りさえしなければ。
それどころではない、各人は、すでに上に述べたように、これら信仰の諸教義を自分の把握力に適応させ、それを自分のため次のような風に、すなわちそれを何らの躊躇なく、むしろ十分の確信をもって易々と受け入れ、その結果心の完全な同意をもって神に服従し得るようになるような風に解釈せねばならぬのである。
JRF2024/11/139551
(…)
信仰は真理をよりも敬虔を要求し、また信仰は服従の度合に応じてのみ敬虔かつ救霊的なのであり、したがって何びとも服従の度合に応じてのみ信仰者なのであるから。
<(下巻 p.139-141, 第十四章)
どさくさにまぎれて(?)、スピノザは『エチカ』的信条…汎神論的決定論的信条でもよいとここに含めている。
JRF2024/11/137831
……。
聖書が理性に隷属すべき(マイモニデス的見解)か、理性が聖書に隷属すべき(アルパカール的見解)か…という問いに対し、スピノザは両者を否定し、明確な基準でどのようなときどちらを優先すべきかを述べていく。
>聖書は哲学的な事柄を教えているのでなくて単に敬虔をのみ教えているのであり、また聖書の全内容は民衆の把握力、民衆の先入的意見に順応させられたのである。だから聖書を哲学へ順応させようと欲する者は、確かに預言者たちに対して、預言者たちが夢にも考えなかった多くのことを帰することになり、もって預言者たちの精神を曲解することになる。
JRF2024/11/130990
これに反して理性と哲学を神学の婢僕たらしめる者は、古代の民衆の先入見を神聖なものと見做さざるを得なくなり、そうした先入見によって精神を囚にし・盲目にする結果となる。
かくして両者共、すなわち後者は理性なしに、また前者は理性をもって、不合理なことを主張しているわけなのである。
<(下巻 p.144-145, 第十五章)
JRF2024/11/136735
>むしろ、各者は自己の領域を保持せねばならぬことを、絶対の真理として主張する。すなわち、既言のごとく、理性は真理と叡智の領域を、神学は敬虔と服従の領域を保持せねばならぬのである。<(下巻 p.154, 第十五章)
JRF2024/11/130568
……。
スピノザによると、神学に求められる理性の働きは「心性的確実性」を得るために限られるようだ。
>神学の基礎、すなわち人間が服従のみによっても救われるということは、その真偽性が理性によっては証明され得ない事柄である(…)。神学のこの基礎的教義は自然的光明によっては究められ得ない、あるいは少なくともこれまではこれを証明した人はなかった、そしてそのゆえにこそ啓示が何よりも必要だったのである。
JRF2024/11/132373
しかしそれにもかかわらず我々の判断力を使用することはできる(…)。余は心性的確実性をもってという、なぜなら、我々はそれについては、始めに啓示された預言者たちよりも一層高度の確実性を持つことを期待してはならぬのであるが、その預言者たちの持った確実性は、すでに本書の第二章で示したように、心性的なものに過ぎなかったからである。
<(下巻 p.155-156, 第十五章)
JRF2024/11/135276
……。
>聖書は教説と主要な物語とに関しては損なわれぬ形において我々に伝わった(…)。<(下巻 p.159, 第十五章)
第十二章で同じことが述べられていたが、もう一度引用しておく。
JRF2024/11/131649
……。
>余が聖書ないし啓示をその有益性と必然性とに関して極めて高く評価していることを特に言っておきたい。
JRF2024/11/139114
事実、単純な服従が救いへの道であるということを我々は自然的光明をもってしては把握し得ず、だた啓示のみが、我々の理性では捕捉し得ない神の特殊的恩寵によって、そうしたことが起ることを教えてくれるのであるから、聖書は生きとし生ける者にとって極めて大きな慰めをもたらすという結論になるのである、けだし絶対的に服従するということはすべての人間に出来ることだが、理性の導きのみによって有徳の状態をかち得る人間は全人類から言って極めて少数しかない、だからもし我々が聖書のこの証言を持たなかったとしたら、我々はほとんどすべての人間の救いを疑わねばならなかったであろうからである。
<(下巻 p.162, 第十五章)
JRF2024/11/134802
>「換言すれば、救いまたは福祉のためには神の諸決定を法あるいは誡命として受け入れるだけで充分であるということを〈我々は自然的には知り得ない〉。また神の諸決定を永遠の真理として概念することを必要としないということを理性がでなく啓示が我々に教えてくれる。これは第四章に証明したことから明らかである」(付注第三十一)。<(下巻 p.301, 第十五章 訳注)
JRF2024/11/132155
服従することまでがなぜ必要であったかというと、その「対価」として救いがあるから…ということのようだ。服従したからといって救いが得られるかどうかは、自然的光明によってはわからない。それがわかるのは、啓示による。その救いに服従を求める神の愛がある。服従とは神を恐れて盲従するというよりは律法に「ただ従う」ことである。…ということのようだ。
スピノザの「律法」は先に紹介した通りだが、そうでない律法や戒律についても同じことが言えそうだ。
JRF2024/11/133860
自由意志で努力して、神などにその善性を認められるべきと私はするけれど、しかし、ここでいう神はリアルにはおらず、その努力が正しいという保証は一切ない。しかし、人はどんな人も一定の悪い部分を持っていて、それでも救われるという保証は欲しい。そのとき、これさえやっていれば、救いに近づくというものがあれば、許しの実感…心の平安を得られるものだ。
JRF2024/11/131035
それが戒律や律法になる。それらはどう説明されようと、それが正しいことは究極的には自然的光明によっては証明できない。しかし、啓示(ブッダの教えなどもここでは啓示とする)によれば、その正しさをもたらすことができる。スピノザは哲学と宗教を分けるから、この啓示による救いのみが宗教であるとするのだろう。
JRF2024/11/132394
「有神論の基本定理」から隣人愛を導くには、その間接的効果への「理解」ないしは「神の秩序へのゆるし・諦め」が必要だが、啓示により、万人に律法や戒律など「ただ従うこと」による救いが開かれていれば、それを神の愛と解釈でき、その神への模倣を求めることで、隣人愛を導ける。…ということのようだ。もっとも、神を模倣できるということが、ややキリスト教的ではある。
JRF2024/11/133297
……。
敬虔(ピエタス)について。
>本書におけるピエタスが、神を信仰し神に服従する人間のピエタスであるとすれば、「エチカ」におけるそれは、神を認識し神を知的に愛する人間 -- 哲人 -- のピエタスである。同様の相違が、本書と「エチカ」とにおける「宗教」の概念についても見られ得る。<(下巻 p.300, 第十五章 訳注)
JRF2024/11/131977
……。
>「(…)我々は、理性の指導下においては、神を愛することは出来るが神に服従することは出来ない。なぜなら我々は、理性によっては、神の法の原因を知らぬ限りこれを神的なものとして受け入れることができないし、また神を法を制定する君侯として考えることも出来ないからである」(付注第三十四)<(下巻 p.303, 第十六章 訳注)
ここでの「服従」は私の感覚での「服従」に近いのかなと思う。愛と服従を峻別しているから。
JRF2024/11/132465
……。
議論は国家論に移り、スピノザ流の自然権が説かれる。物理法則支配的な自然観・弱肉強食的な自然観を元にややホッブズ的な自然権となる。利害のないところには権利・義務の存続はない…と考える。
>智者が理性の一切をなす最高の権利を、あるいは理性の諸法則に従って生活する最高の権利を有するように、丁度そのように、無智者や精神的無力者もまた欲望がそそる一切をなす最高の権利を、あるいは欲望の諸法則に従って生活する最高の権利を有するのである。
JRF2024/11/137903
パウロは、律法以前には、換言すれば人間が自然の支配下に生活すると観られる限りにおいては、罪なるものを認めていないのである。(…ロマ7:7…)
<(下巻 p.165, 第十六章)
JRF2024/11/131622
>かくて自然の支配の下にのみ在ると観られる限りにおいての各人は、自分に有益であると判断する(健全な理性の導きによってにもせよまた感情の衝動によってにもせよ)ところの一切を最高の自然権に基づいて欲求し得るのであり、またこれをあらゆる方法で -- 暴力によって、あるいは欺瞞によって、あるいは懇願によって、あるいはもっと容易に思われる何かの手段によって、-- 自分の手に入れてよいのであり、したがってまた各人は自分の意図の達成を妨げようとする者を自分の敵と見做してよいのである。<(下巻 p.166, 第十六章)
JRF2024/11/136407
しかし、それでは人間にまともな生活ができない。そこで社会契約が必要になる。
>とはいえ、理性の諸法則・理性の一定命令に従って生活する方が人間にとってはるかに有益であることは何びとも疑い会ない。理性の命令は、すでに述べたように、人間の真の利益をのみ目ざすから。
JRF2024/11/130893
(…)
したがって彼らは理性の命令(何びとも無分別であると思われたくないために正面から理性の命令に反対することをあえてしない)のみから一切を導き、欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りはこれを抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守るということを固き取決めによって契約せねばならなかった。この契約が有効で確乎たるためにはそれがいかなる風に結ばれねばならぬかを余はこれから見ようとする。
<(下巻 p.168-169, 第十六章)
国家の必要性に論が移る。
JRF2024/11/134367
>いかなる契約も利益ということに関連してのみ拘束力を有し得るのであり、利益が失われれば契約も同時に崩れて無効になるということである。だから結ばれた約束の破棄から利益よりも損害が破棄者の上に及ぶようにしておくことなしにただ約束を永久に守るように人に要求するのは愚かなわざである。このことは国家の組織に際して特にあてはまることである。<(下巻 p.171, 第十六章)
自然状態で利害がなければ人は動かない状態だと契約が守られることは期待できない。一般に契約を守らせようとすれば、国家が必要になってくる。国家というものに多大な利益があることが理性によって結論され、人々は国家を作る契約をする。
JRF2024/11/132144
特に重罰への恐怖によって人を制御するため、最高権力を有する者に、権利を委譲するようになる。それより力が強い者がいれば契約を従わせられないのだから、より重い罰が使えるようますます最高権力に力を集めることになる。…ということだろう。
JRF2024/11/138268
>このようなやり方で自然権と何ら矛盾することなしに社会が形成されることが出来、またすべての契約が常に完全な信義をもって守られることが出来る。すなわち各人がその有するすべての力を社会に委譲すればよいのであり、かくて社会のみが万事に対する最高の自然権を、換言すれば最高の統治権を保持し、各人はこれに対して自由意志によってなりあるいは重罰の恐れによってなり従うべく拘束されることになるのである。
こうした社会の権利関係を民主制と名づける。
<(下巻 p.173, 第十六章)
JRF2024/11/134002
スピノザの未完の『国家論』には民主制について書かれることはなかったという。ここに民主制の項があるわけだが、しかし、それはかなり特殊な定義である。
このあたりは民主制論というよりは、むしろ、「暴力装置」論だろう。『エチカ』第四部([cocolog:95101727](2024年10月))にも「暴力装置」論的なものはあった。
keyword: 暴力装置
つづく部分…。
JRF2024/11/130601
>ゆえに民主制とはなし得る一切事に対しての最高権力は何らの法に拘束されないこと、かえってすべての者はすべての点において最高権力にしたがわねばならぬことが帰結される。なぜなら、すべての人間は、自分を守るすべての力を換言すれば自分のすべての権利を最高権力へ委譲した時に、そうしたことを暗黙的になり明示的になり契約せねばならなかったからである。実際もし彼らが何らかの権利を自分に保留したかったのなら、彼らは同時にそれを確実に擁護し得るような手配を講ずべきであった。<(下巻 p.173, 第十六章)
JRF2024/11/134908
最高権力にフリーハンドを与えるような、絶対君主論的なものは現代では支持されえない。また、権利の保留についても、労働者保護や消費者保護などの文脈で、交渉の難しいものへの一定の保護がなされるべきという点で、それは国民についてもなされるべきだったと言える。まぁ、現代では、政治(資金)規制法がいろいろあり、一定の保護はないわけではない。
JRF2024/11/138402
>この結果として我々は、統治権の敵となることを欲しまいと思えば、また統治権を全力を挙げて擁護すべく勧誘する理性に反対して行動することを欲しまいと思えば、最高権力のすべての命令を果たすべく義務づけられる。たとえ最高権力の命ずるところが極めて不条理なものである場合でも。なぜなら理性は二つの悪のうちでより小なるものを選ぶためにかかることを果すべく命ずるからである。<(下巻 p.174, 第十六章)
アイヒマン裁判とかがあった現代では、公務員ですらこの絶対権力論は通用しない。
ただ、スピノザには民主制の絶対権力は間違わないという「誤解」があった。
JRF2024/11/139307
>最高権力が極めて不条理なことを命ずるということは実際問題として甚だ稀にしか起らない。なぜなら最高権力は、用心して統治権を保持せんとすれば、公共の福利のために計り、万事を理性の命令によって導くことが何より大事だからである。まったくセネカが言う通り、何びとも圧制政治を永くやり続けた者はなかったのである。
なおその上に民主政治にあっては不条理なことが行われる心配は比較的少い。なぜなら一集団(それが大なるものであある限り)の大部分がある不条理なことに関して意見の一致を見るということはほとんど不可能だからである。
JRF2024/11/135830
次に民主政治の基礎と目的から見てそうした心配が少い。民主政治の目的は、前にも示したように不条理な欲望を排除し、また人々が和合と平和の中に生活するために出来るだけ人々を理性の限界内に制御すること以外にないのである。この基礎が除去されれば全機構が容易に崩壊するであろう。
<(下巻 p.174-175, 第十六章)
平和も民主政治の条件なのかもしれない。
JRF2024/11/138435
……。
>その諸法律が健全な理性の上に建てられる国家はもっとも自由な国家である。
なぜならそこでは、各人は、欲しさえすれば、自由であり得るから、換言すれば自己の完全な同意をもって理性の導きの下に生活し得るからである。
<(下巻 p.176, 第十六章)
スピノザのこの意見とはあまり関係ないが国家自由主義という考え方が私にはある。『エチカ』のところで紹介した([cocolog:95101727](2024年10月) の定理69 系)ので繰り返さない。
JRF2024/11/134804
……。
>子供も、たとえ両親のあらゆる命令に従わねばならぬとしてもやはり奴隷ではない。何となれば両親の命令は子供たちの利益を何よりも目指しているからである。
我々はそれゆえに奴隷と子供と臣民との間に大きな相違を認める。これを我々は次のように定義する。
すなわち奴隷とは命令者の利益をのみ目指す命令に従わねばならぬ者である。
子供とはしかし自分の利益になることを両親の命令に基づいて行う者である。
最後に臣民とは公共の利益になること、したがってまた自分の利益にもなることを最高権力の命令に基づいて行う者である。
<(下巻 p.176-177, 第十六章)
JRF2024/11/137877
臣民(国民)は、国家の奴隷というよりは子供である…と。
JRF2024/11/136407
……。
>法によって一切が許される最高権力の側からは臣民に対しいかなる不法も起り得ない。かくて不法は、法によって相互に侵害しないように義務づけられている私人の間にのみ生じる。<(下巻 p.179, 第十六章)
絶対権力的民主制…の時代だね。現代ではありえない考え方。ただ、この感覚を持っている者が現代の政治家にもいるのかもしれないな…。
JRF2024/11/132333
……。
外国との盟約についても…
>何びとも何らかの善への希望、あるいは何らかの悪への心配からでなくては契約もしないし、また契約を守るべく拘束もされない(…)。<(下巻 p.180, 第十六章)
でも戦争で敗れた際の、戦勝国と敗戦国の間でかわされる契約はこの原則には合わないだろう。まぁ、敗戦国の側からは時間がたてば、いつまでこの原則に復帰できないのかという不満は当然のごとく上がってくるわけだが。
JRF2024/11/130118
……。
>主権侵害罪(crimen laesae majestatis)は暗黙的あるいは明示的契約によって自己の権利全体を国家に委譲した臣民ないし国民にのみ起り得る。そして最高権力の権利を何らかの様式において奪いあるいは他者へ委譲しようと企てた臣民はかかる罪を犯したと言われる。
余は「企てた」という。なぜなら、もし犯罪の完遂を待ってのみ罰せられなければならぬとするなら、多くの場合、国家はその時を失するであろう。それはすでに権利が奪われるか、あるいは他者に委譲されるかした後になるから。
JRF2024/11/137143
次に余は単に「何らかの様式において最高権力の権利を奪おうと企てた者」と言う。つまり余は、そのことから全国家の損害が結果しようと、あるいは明白な利益が結果しようと、その間に何らの相違を認めないのである。なぜならどんな様式でそれを企てたにしても、その人間は主権を侵害したのであって、当然罰せられるからである。
<(下巻 p.181-182, 第十六章)
この辺は2000年代になってからの[wikipedia:共謀罪]の議論を思い出す。
keyword: 共謀罪
keyword: 反逆罪
JRF2024/11/138546
……。
>けだし国家は最高権力の決意のみによって維持され・指導されねばならぬのであり、そしてこの権利は契約によって最高権力にのみ帰属するのであるから、もし誰かが最高会議に諮[はか]らずに自己の意向のみに従って何らかの国務を果そうと企てたら、たとえそれから既言のごとく国家の利益が確実に結果したとしても、その者はやはり最高権力の権利を犯し、主権を侵害したのであって、法によって当然罰せられる。<(下巻 p.182-183, 第十六章)
JRF2024/11/133167
隣人愛などにおいて行為が正しければ正しい(行為主義?)であったのと対称的で、相手が国家であれば、行為が正しくても、従ったのでなければダメだとスピノザはいうようだ。
この点、逆に、日本の君主である天皇などがそうだが、神性君主・祭祀王を抱く立憲君主制の国の場合、行為が正しければ、正しいと見られる余地がある・そうなりやすい体制だということだろうか?
この後、この本は、宗教や神と、国家の関りを論じていくことになる。
JRF2024/11/134541
……。
>もし最高権力が神に対しその啓示された法において服従することを欲しないなら、それは彼の危険と損害において自由であり、そうしたからとてそれは国法なり自然法なりに何ら矛盾しないのである。<(下巻 p.185, 第十六章)
そのとき臣民はどうすべきか?
JRF2024/11/138694
>さて人はこういう問いを提起し得るであろう。もし最高権力が何か宗教に反することを、また我々が特別の契約によって神へ約束した服従に反することを、命じたらばいかん? その場合人は神の命に従うべきか、それとも人の命にか? と。しかしこれについては後で詳しく論ずるからここではただ簡単にこう言っておきたい。我々は確実にして不可疑的な啓示を持つ場合には、何ものにもまして神に従わねばならぬ、と。
JRF2024/11/136072
だが宗教に関しては人々は一般に極めて誤りがちなものであり、また、経験が十二分に証明するように、人々は智能の相違に応じて色々なことを負けず劣らず虚構するものであるから、もし何びとも自分が宗教の領域に属すると考える事柄については最高権力に従うべく法的に拘束されぬとしたら、国家の権利(jes civitatis)は各人のまちまちな判断と感情とに左右されるに至ること確実である。
JRF2024/11/133309
(…)
こんな風では国家の権利が全然侵害されるから、そのため最高権力 -- 彼のみが神の法ならびに自然法に基づいて国家の法を維持し・擁護する責任を持つ -- には宗教に関しその善しと判断する通りに決定する最高の権利が帰属することになり、またすべての人間は、彼に約束した誓約 -- これを神はあくまで守ることを命ずる -- に基づき、宗教に関する彼の決定と命令とに服従すべく義務づけられることになるのである。
<(下巻 p.186, 第十六章)
JRF2024/11/130796
「狂気の突破力」([cocolog:94893189](2024年6月))を認めないでもないが、基本的には国家が宗教に優越するというのがスピノザの見解のようだ。現実的な見解ではある。
一方…
>もし最高の統治権を握る者が異教徒であった場合は、人々は何ら契約を結ぶべきでなく、自己の権利をこれに委譲するよりはむしろ種々の艱難に堪えるべく決心すべきであり、しからずしてもし一旦契約を結んで自己の権利を彼に委譲したなら、それによって人々は自己ならびに宗教を擁護する権利を喪失したのであるから、彼に服従して誓約を守るべきであり、もしくはそう強制されるべきである。
JRF2024/11/139519
ただし神から確実な啓示によって暴君に反抗する特別の援助を約束された者、あるいは神が特に除外しようと欲した者はこの限りではない。
<(下巻 p.187, 第十六章)
JRF2024/11/130776
……。
>以上の原理は日常の経験によっても確かめられる。キリスト教国の統治者たちは、自分の国家のより大なる安全のためには、トルコ人や異教徒たちと盟約を結ぶことを躊躇しないし、また自分の臣民でそこに住んでいる者に対しては、人事あるいは神事に関して、彼らが明白に契約した以上の、あるいはその国家が認めている以上の大なる自由を要求しないように命じている。これは我々が先に述べたオランダ人が日本人と結んだ条約においても見られるところである。<(下巻 p.188, 第十六章)
このころ結んだ契約(条約)のおかげで、今の日本が守られている面もあるんだろうか…。
JRF2024/11/133193
……。
>もし人間が自己の自然権を全然奪われて、以後は最高権力を保持した者の意志に従ってでなしにはいかなることもなし得ないとしたならば、確かに最高権力は、臣民に対して憚[はばか]ることなくどんな圧制政治でも行うことが許されることになるが、かかることは何びとにも決して考えられないと余は信ずる。ゆえに我々は各人が自己の権利の中の多くのものを保留すること、かくてその保留された権利は他者の決定にではなく自己の決定にのみ左右されるということを容認せねばならぬ。<(下巻 p.191, 第十七章)
JRF2024/11/136351
現実世界においては、最高権力下の人々にも一定の自由がある。だから、最高権力も、力だけでなくて、さまざまなインセンティブで人を動かすし、そうしてよい…ということのようだ。
JRF2024/11/138308
……。
>もし最も多く恐れられている者が最も大なる支配権を握っているとしたら確かに圧制君主下の臣民がそうしたものを握っていることになるであろう。圧制君主下の臣民はその君主から最も多く恐れられるから。<(下巻 p.192, 第十七章)
逆説的だなぁ。リベラルらしい皮肉。最初読んだときは、訳者の間違いかと思ったくらい。
JRF2024/11/138961
……。
ここから第十七章はヘブライ国家の神政国家を問題にしていく。それはスピノザのオランダのカルヴァン派の支配と対照するためであろう。
その前にアレキサンダーが自己を神と見せようとしたことが述べられる。敵は内部の敵が多いことから、神と信じられることは自らを安全にするからである。内を固めることによって、外部の敵に強く出ることができた。…という。
JRF2024/11/133263
それに対し、ヘブライ人達は、神そのものを国家のトップに据えた。「神ならば安全」ならば、神をトップにする体制を組むということだろう。
>事実彼ら(…ヘブライ人達…)は神の力のみによって維持され得ると信じたればこそ、自己を維持する自己の自然的力 -- 以前には恐らく自分自身によって有していると彼らが考えていた -- を、したがってまた自己の権利を全部神に委譲したのであった。
JRF2024/11/131138
ゆえにヘブライ人たちの統治権は神のみが握っていたのであり、かくてまたこの国家のみが契約により当然神の王国と呼ばれ、神はまた当然ヘブライ人たちの王と呼ばれたのであった。したがってこの国家の敵は神の敵であり、統治権を簒奪しようと欲した者は神的主権を侵害する罪に当り、最後にまた国家の法は神の法ないし命令であった。
<(下巻 p.200, 第十七章)
JRF2024/11/137838
……。
神への全権の委譲は実際にはモーゼへの全権の委譲であった。モーゼには全権があった。ゆえに、モーゼには全権を持った後継者を選ぶこともできた。
>しかしモーゼはこうした後継者を選ばなかった。彼はむしろ、民主国家あるいは貴族国家あるいは君主国家とではなく神政国家と呼ばれ得るような組織の国家を後継者たちに遺した。すなわち律法を解釈し・神の応答を伝達する権利は一人の人間の手中に、また国家をすでに解釈された律法とすでに伝達された応答とに従って運用する権利と力とは別な人間の手中に置かれたのである。<(下巻 p.204, 第十七章)
JRF2024/11/130610
モーセ以降、神と顔と顔を合わせて語るような者はいなかった(申命記34:10-11)の意味がここにあるということだろうか。
JRF2024/11/130803
……。
政教分離の神政国家が現れ、そこには国民軍が成立した。傭兵は当初は避けられていた。
>牧伯[つかさ]たちならびに一般軍隊は戦争をよりも平和を願うべく駆られていたという事情が(…ある…)。というのは軍隊は、既言のごとく、国民からのみ成った。ゆえに戦いに関する仕事と平和に関する仕事とは同じ人間によって処理された。つまり、陣営において兵士たる者が市井においては国民であり、陣営において指揮者たる者が法廷において裁き人であり、最後にまた陣営において司令官たる者が国家において牧伯であった。
JRF2024/11/135478
このゆえに何びとも戦争のための戦争を欲せず、ただ平和と自由の守護のためにのみ戦争を欲し得た。また牧伯は恐らく、大司祭の許[もと]に行って大司祭の前に自分の権威を貶しむべく余儀なくされぬように、出来るだけ新しい出来事は回避しようとした。
<(下巻 p.217, 第十七章)
JRF2024/11/131508
……。
神政国家に国民が属すメリットとしては、借金帳消しの徳政令的な「ヨベルの年」の制度があったり、他にはなかっただろう安息日の制度があった。いわば福祉が充実していた。
JRF2024/11/137880
……。
しかし、その神政国家にも滅びがやって来る。「民が頑[かたく]なだから」というのが、聖書の見方だが、なぜ頑なだったのか。それにスピノザはレビ族を神事にあてたことを挙げる。神事に対する専門支族があったことは、神政を支える面があったのはもちろんだが、一方、弱点もあった。
JRF2024/11/133251
>国家滅亡の原因を正しく理解するために注意せねばならぬのは、最初の意図では聖職がレビ族の人々にでなく一般の長子たちに与えられるようになっていたことである(民数記8:17参照)。しかしレビ族を除くすべての者が犢[こうし]を礼拝してから後は長子たちが排斥され、かつ汚れたる者とされて、レビ族の人たちがその代りに選ばれたのであった(申命記10:8)。
JRF2024/11/134057
この変化を考えて見れば見るほど、余は、当時神が配慮したのは彼らの安全ということではなくて彼らに対する復讐ということであったというタキツスの言葉を繰り返さざるを得ない。
(…)
人民はレビ族の人たち -- 彼らも疑いもなく人間であった -- の行いを監視し、そして、よくあるように、個々人の非行のゆえに全階級を咎[とが]めるような気になったのである。これからして絶えざる不平、更には暇の多い・自分の好かぬ・しかも自分たちと血のつながりのない人間を養うことの嫌悪が生じた。ことに不作の年にはそうであった。
JRF2024/11/130916
ゆえに著しい奇蹟も起らなくなり・極めて権威ある人間たちも出なくなった平安の時代には、人民の苛ら立ったかつ欲の深い心が宗教的熱意を失い出し、遂には礼拝 -- 神的ではあるがしかし民衆自身にとっては不名誉な、また疑わしくもある -- から離反して新しい礼拝を欲したとしても不思議はなく、また常に国家の最高権利を独占しようと力[つと]めている牧伯たちが、人民を自分になつかせて大司祭から離れさすためにあらゆることを人民に許容し、新しい礼拝を導入したとしても何の不思議もない。
JRF2024/11/133326
もし国家が最初の意図通りに組織されたとしたら、すべての支族は常に同等の権利と同等の名誉を有したであろうし、また一切はもっとも安全な状態に保たれたであろう。
<(下巻 p.225-227, 第十七章)
ここから神政国家が普通の(王政)国家になり、崩れていった。
中東には長子を犠牲にする宗教的文化があったが、それを克服したものとして、ユダヤ教が成立していた。その点の忘却・意識の崩れもあったのかもしれない。
JRF2024/11/136421
……。
……。
なんと、ここで「ひとこと」の一ページ 300 コメントまでの設定に引っかかってしまった! 続きは↓。
[cocolog:95139886]
《(承前) スピノザ『神学・政治論』を読んだ。(つづき) - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2024/11/post-a4d684.html
JRF2024/11/136884
typo [精神を涜[けが」し]→[精神を涜[けが]し]。
typo 「総状が法の名」→「騒擾が法の名」。
typo 「誠命」→「誡命」。
typo 「威威嚇」→「威嚇」。
typo 「疑い会ない」→「疑い得ない」。
修正 「円城塔『コード・ブッダ』を読んだとき([cocolog:95112803](2024年10月))」→「円城塔『コード・ブッダ』を読んだとき([cocolog:95118413](2024年10月))」。
JRF2024/11/148581
『神学・政治論 - 聖書の批判と言論の自由 全二巻』(スピノザ 著, 畠中 尚志 訳, 岩波文庫 青 615-1・2, 1944年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003361512 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1101243132 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003361520 (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1101243134 (下巻)
JRF2024/11/135125