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cocolog:95177825

シュヴァイツェル(シュバイツァー)『キリスト教と世界宗教』を読んだ。ヘーゲルを読んだあとだからか、その敬虔主義的態度にモヤモヤした。 (JRF 6607)

JRF 2024年12月 8日 (日)

『キリスト教と世界宗教』(シュヴァイツェル 著, 鈴木 俊郎 訳, 岩波書店 青 812-2, 1956年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/400338122X
https://7net.omni7.jp/detail/1100352568

原著は Albert Schwitzer『Das Christentum und die Weltreligionen』(1924年)。1922年2月の英国バーミンガム郊外セリイ・オークにおいて行われた講演が元になっている。その講演の聴衆は宣教師またはそれを目指す学術機関の者だったようだ。

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著者は日本では「シュバイツァー博士」として知られ、神学を学んだのち医師に転身し、アフリカで医術的功績を上げたことは、伝記マンガにもなっている。

やや敬虔主義的な主張から、当時、キリスト教の障害になっていた神智学などの元であるインド宗教(ヒンドゥー教)への対抗的言論を形成した本になっている。

JRF2024/12/80826

……。

『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

2025年の3月から5月ぐらいに、第1.0版を出そうと計画している。電子書籍版のほかに紙の本(Amazon オンデマンド印刷)版も同時に出す予定。

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資料集めの読書としては最後の追い込みで、スピノザを読んでサーベイレポートをまとめたのち、デカルトの『省察』を読み([cocolog:95158388] 2024年11月)、ヘーゲル『宗教哲学講義』を読み([cocolog:95175021](2024年12月))、残る一冊として、このシュヴァイツェル(シュバイツァー)『キリスト教と世界宗教』を読んだ。この後、少し遊んでから、第1.0版向けの作業に入るつもりである。

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第1.0版のあとも宗教書・哲学書は読み続ける予定だが、第2.0版は、5年後とか10年後とかそれぐらいのスパンで考えているし、第2.0版は単に修正等に留め、『補遺』的な巻を別に出したほうがいい気もしている。だから『宗教学雑考集』正式版本書に大きく反映されうる本は基本的には、上で書いた本までとなろう。

スピノザのサーベイレポートは↓。この「ひとこと」で書いた記事を単に並べただけのものだが、ご興味のある方はぜひ。(今のところダウンロード数 0 !)

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《サーベイ: スピノザの思想 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6284877

JRF2024/12/84991

……。

それではいつもの通り、引用しながらコメントしていく。

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……。

まずは巻末の訳者解説を読み概要を掴む。

>キリスト教と諸宗教との対決において、彼(…シュヴァイツェル…)はシナ宗教思想に対してはその楽観的世界人生肯定的な性格に同情的であり、バラモン教・仏教に対してはその悲観的世界人生否定的な性格にもっとも対抗的であり、インド教に対しては一神教多神教の混在にきびしく批判的であるが、総じて言えば、東洋的諸宗教は世界を説明しようとする論理的宗教と考えられ、われいかに生うべきかという問いに答える倫理的宗教であると彼の考えるキリスト教と対置されている。<(p.82, 訳者解説)

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前回、ヘーゲル『宗教哲学講義』([cocolog:95175021](2024年12月))でも、ヘーゲルはキリスト教独善の態度を取った。シュヴァイツェルも違う視点からであるが、護教的態度を取る。

前回は、最後の審判と輪廻転生の違いが私[わたし]的には焦点となった。最後の審判は、「その生で答えを出す」ことを求めるのに対し、輪廻転生は「本人が犠牲になっても社会全体で発展する」ことを重視すると私は考える。輪廻転生の自らの死を許容する態度が、「悲観的」「否定的」に、最後の審判の信者たるシュヴァイツェルには映るのであろう。

JRF2024/12/86483

……。

シュヴァイツェルにおいて「世界観」が大事なキーワードのようである。

>世界観とは何であるか。「世界と本質と目的につき、また人類およびそれを構成する個人の位置と使命について、社会および個々の人間のいだく思想の内容である」(…)。「私の生きるこの社会また私自身は、この世界にあって何を意味するか。我々はこの世界にあって何を欲するか。またこの世界にあって何を希望するか。存在のこのような根本問題に対して多くの個人が到達する回答が、かれらとその時代が生きているところの精神を決定する」のである(…)。<(p.86, 訳者解説)

JRF2024/12/85222

>倫理とは何であるか。-- 「倫理とは自己の人格の内面的完成に向けられた人間の行動である。」それゆえ倫理は「それ自身では世界観が悲観的か楽観的かということには無関係である。」しかし「バラモン教徒やショーペンハウエルの思想におけるような徹底した悲観主義的世界観においては、倫理はただ世界および世界精神から内面的に解放されることによって実現されるような個人の自己完成を欲するのみである。」それに反して「倫理が世界人生肯定的の世界観に入る程度に応じて、それは自己を拡大」し、「人間および世界への活動」が倫理の目的となるにいたる(…)。

JRF2024/12/80831

このようにして「楽観的世界人生肯定的世界観とそして倫理とは、相協力して文化を生むことができる」ようになる。
<(p.88, 訳者解説)

JRF2024/12/82310

楽観的というのは、終末がいつきてもよい…自分の死を考えないのも正当化される…ということであろう。そこに、世界への死後の責任はあまりない。自己を完成することが誰かの救いとなるとは考えない、それが、その倫理が、自分の救いのために他者を現実的に救う意欲につながる。…と言いたいのであろう。しかし、それは現実の改変を強く求めることであり、そのことが争いを生むこともある。意図してなくても正義と正義の衝突が起こりうる。

JRF2024/12/88528

……。

「生命に対する畏敬」も大事なキーワードらしい。それは「世界人生肯定」と「倫理」とが共に包含される理念であるらしい。

>人間の意識のもっとも直接的な事実は、人間は自己および自己をめぐる世界について考えるあらゆる瞬間において、自己を、多くの「生きようとする意志」にとりかこまれた一つの「生きようとする意志」として感ずるということである。<(p.92, 訳者解説)

他の「生きようとする意志」に畏敬を感じ、それと譲り合い、しかし、昂揚し合う必要がある…。

JRF2024/12/83976

>「生命に対する畏敬」の倫理とは、すべての愛、献身、苦痛をともにし歓びをともにし努力をともにすることの一切をいうのである。<(p.93, 訳者解説)

どんな小さな命も皆が「その生で答えを出す」よう戦っていることを認め合うことが必要…といった感じであろうか。

JRF2024/12/85066

……。

シュヴァイツェルの本文に移る。

肉体を捨て精神を開放するのをよしとする思想がありえる。もちろん、それをキリスト教徒のシュヴァイツェルは批判する。

>ギリシャ・オリエント的敬虔心は人間に対して言う -- すでにプラトーにおいて、次に諸密儀宗教のなかにて、またグノーシス主義において -- 『汝自身を世界から自由にせよ!』と。イエスは人間に対して言う、『世界から自由になれ、汝自身を神の霊と愛によってこの世界のなかに活動させるために、神が汝自身をもう一つのより完全な世界に移すまで!』と。<(p.18)

前回もこのあたりが問題になった。もちろん、自殺教唆的な部分が大きな問題であった。

JRF2024/12/82665

ヘーゲル『宗教哲学講義』を読んだ([cocolog:95175021](2024年12月 7日))
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>人間は楽園にあっては罪もなく、不死と考えられていた。人間は永遠に生き続けることができるかのようであった。というのも、もしも外面的な死が罪の帰結にすぎなかったならば、楽園にくらす人間はもともと不死であろうからだ。しかし他方で、人間は命の樹から食べたときに初めて不死となることも考えられている。ただしこちらは禁じられていたのだから、罪を犯すことなく命の樹の実を食べることはありえない。そこで事態はこうだ。人間は認識によってのみ不死となる。<(p.520-521, 第三部)

JRF2024/12/81769

罪を犯さないならば不死であり、罪を犯していない精神は不死のままである。肉体が死にゆくものだ…とすれば、身体を捨てれば不死になるという、危うい思想になる。もちろん、ヘーゲルの言いたいのはそういうことではあるまい。

肉体の中に精神がある。肉体に精神は「汚染」されている。しかし、その「汚染」を削ぎ落して純化するのが不死に近づくことではない。(普遍性・権利・義務の)認識により精神に不死性を徐々に「復活」させることができる。ということではないか。
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ただし、プラトンがなぜこのようなことを考えるにいたったかについての考察も私にはある。

JRF2024/12/85899

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《人類愛と閉じられた社会》
>「閉じられた社会」が人類愛=「開かれた社会」の必要性に気づくときはどういうときだろう。

一つの解答として、敵に捕われたときでも、最低限の人としての尊厳は守られてほしいから、敵もその願いは理解でき、そこに共通の人権(または人類愛)理解が生じうる…ということができる。

JRF2024/12/89856

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《捕虜のように敵として生きる》
>「閉じられた社会」で、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが求められているのかもしれない。それが「閉じられた社会」で生きながら「開かれた社会」にも生きるということなのではないか。<

この「閉じられた社会」を「肉体」に、「捕虜のように生きる自分」を「魂」に割り当てると、プラトンの「肉体は魂の牢獄である」という説に近づく。普遍的理想である「開かれた社会」の必要性に気づくためには、自分が「閉じられた社会」=「肉体」に捕われている…という自己認識があったほうがよいのだ。

JRF2024/12/81980

それが自殺やテロリズムにつながらないためには、国家による自由が、消費者のための製品が発展するような自由が必要となる…という論陣を私は張ったのであった。そこには労働者もいなければならないが、ただ消費する者も許されなければならないはずだ。

JRF2024/12/83617

……。

シュヴァイツェルは、バラモン教や仏教をこう説明する。

>この不完全な悩み多き世界から人間そのものが救済されるのは認識による、また認識からくる行為による。たえずくりかえし人間の直面するのは、かれが見るものまたかれの周囲に起る一切のものはただ混乱した遊戯を意味するにすぎず、それからは何ものも期待されずまたそれはかれの参加してはならないものであるということである。

JRF2024/12/83211

かれの運命はただ感覚世界から純粋の存在の世界に還ることでありうるだけである。もはやかれは生に執着し世界に関心を有する人間であるべきではない。絶対の無行為状態と無関与状態にまでかれは自己を高めなければならない。世界においてはもはや何ものをも欲せずまた世界からはもはや何ものも望まない存在となるべきである。世界と自己自身の生に死ぬことこそが精神的使命である。ますます永遠の純粋の存在のなかに入って行ってかれはかれの生にその真の意味を与えるのである。

JRF2024/12/80417

一切の自然的存在は輪廻の循環において存続する。生への意志がもはや何の燃料も与えられない火焔のようにそのなかで消えていく神秘的認識行為によって、実存は輪廻の循環から脱け出る。瞑想によってひとはすでに純粋の存在に到達している世界脱却(出世間)の状態に移されるようもとむべきである。
<(p29)

私が大乗仏教的信念を持っているせいかもしれないが、悟り=「絶対の無行為状態と無関与状態」というのは少し違うように思う。ブッダになるということは法になるということでもあろうから。

JRF2024/12/83575

人を救いたいという菩提心=熱き心がありながら、悟り=静かな境地に至るには、その者がまたはその時代がなしたことで、何がしかの発展が世界にあることを予期できねばならないと考える。

その者がどういうふうに寄与するかはわからない。それは道徳的な部分=それを守る僧への尊敬を維持するだけで十分なのか、時代の罪を背負って教えを残すことまで必要なのか、それはよくわからない。

JRF2024/12/89806

この私の解釈はもちろん実用主義(プラグマティズム)的で、本当の仏教的なものにまでは至ってないだろうけど、方向はこう「でも」あるのではないか。もしかすると、本当の仏教的なものにまで至れば、それはそれで、悟り=「絶対の無行為状態と無関与状態」というシュバイツェルの解釈もむしろ正しいとされるのかもしれないけど。

JRF2024/12/89629

……。

老子の道教→孔子→墨子…と発展したという認識の中国の宗教について。

>シナの敬虔者たちよりはるかにわれわれは何が罪であるかを感ずる、かれらよりはるかに深く、神は認識され得るものではなくして、『それにもかかわらずわれわれはつねに汝のもとにとどまる』と語る信仰において把握されなければならないものであることを感ずる。

JRF2024/12/85178

バラモンたちに対しまた仏陀に対してわれわれは言った。「宗教は世界・人生否定の悲観主義よりより以上である」と。シナの敬虔者たちに対してわれわれは言う、「宗教は倫理的楽観主義よりより以上である」と。両者相互に対しては、「宗教は自然の観察において現れる神的なものの認識ではない」と。
<(p.47)

「悲観主義よりより以上」というのは「その生で答えを出す」に、「倫理的楽観主義よりより以上」というのは「普遍性に生きれば救いがある」という確信をだいたい指すのだろう…ヘーゲルになぞらえれば。確信できるというところに二元論的神の信仰がある…ということのようだ。

JRF2024/12/86665

[cocolog:95175021](2024年12月)
>ヘーゲル『宗教哲学講義』(山崎純 訳)を読んだ。最後の審判が「その生で答えを出す」主体性を求め、救世主イエスの無為の死が「どうしようもない」人生の一般人に、しかし、権利・義務という普遍性に生きれば救いがあると示した。…というのがヘーゲルの考えか…。<

JRF2024/12/83700

……。

東洋の宗教について…

>世界に関する思惟としてこれらの諸宗教は間然するところがない。すべての宗教的自然哲学は、悲観主義的或は楽観主義的傾向にあるにしても、東洋的自然哲学ととにかく同じ途をあゆむものである。ストイク主義者、グノーシス主義者、スピノーザ、思弁的ドイツ哲学の代表者たちは、かれらの究極の思想においては、東洋の宗教的思惟といかに近く相接触していることであろう。<(p.57)

それは哲学者がいろいろと止揚しようとしたからであろう。責めるべき事柄ではない。

JRF2024/12/84087

ちなみに「間然するところがない」は「非のうちどころがないこと。 少しも欠点がないこと。」の意味らしい。

>しかしながら宗教は世界を説明しなければならないだけではない。それは私が自分の人生について欲するものに対してもまた答えなければならない。<(p.57)

哲学者も倫理をもちろん語っていた。しかし、哲学者はまず大きなところに答えを出そうとする。細々としたものは、その後にそれ以外のものが導くことが期待されていたのかもしれない。

JRF2024/12/80604

……。

>いずれの思惟的宗教も、倫理的宗教であろうとするか或は世界を説明する宗教であろうとするかを選択しなければならない。われわれキリスト教徒は前者をより価値あるものとして選択する。論理的な、それ自体において完結した宗教心をわれわれは放棄する。「いかにしてわれわれは同時に世界にあり同時に神にあることができるか」という問いに対して、イエスの福音は答える、「汝が世界のなかに生きそして世界とは異なるものとして働く……ことによって」と。<(p.58)

この立場は、ヘーゲルが敬虔主義として批判したものだろう。

JRF2024/12/85610

……。

倫理の成り立ちを世界の在り方からは…

>キリスト教はもちろん説明することはできない。なぜなら無限の世界事象のなかで敬虔な人間の倫理的存在と倫理的行為は何を意味するか。そのなかでそれは何を遂行するか。われわれはそれに対しなんの答えも知らない、と。<(p.60)

しかし、最後の審判を教義として持つということは、救世主イエスの概念を持つことは、それは一定の、道徳を選択することを意味する。にもかかわらず、「説明できない」というのは、キリスト教の哲学性を隠蔽するに等しい。

JRF2024/12/87141

もちろん、シュヴァイツェルは善意で、その説明不能を認めているのはわかる。しかし、キリスト教全体として見れば、他宗教の信者に「説明不能」と「哲学」を場合に応じて使い分けていると映る。そこに「悪意」を見出すものがいるのは当然だろう。それは、シュヴァイツェルが、ここでインド宗教を混乱にあると批判したような、混乱にあると批判できる。…と私は思う。

JRF2024/12/81564

typo 「Schwitzer」→「Schweitzer」。
typo 「生うべきか」→「生くべきか」。
typo 「シュバイツェル」→「シュヴァイツェル」。

JRF2024/12/102303

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