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cocolog:95175021

ヘーゲル『宗教哲学講義』(山崎純 訳)を読んだ。最後の審判が「その生で答えを出す」主体性を求め、救世主イエスの無為の死が「どうしようもない」人生の一般人に、しかし、権利・義務という普遍性に生きれば救いがあると示した。…というのがヘーゲルの考えか…。 (JRF 4603)

JRF 2024年12月 7日 (土)

『宗教哲学講義』(ヘーゲル 著, 山崎 純 訳, 講談社学術文庫 2749, 2023年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4065303028
https://7net.omni7.jp/detail/1107358942

JRF2024/12/75690

>本書の底本はヘーゲルの「宗教哲学」講義の新版 G.W.F. Hegel, Vorlesungen über die Philosophie der Religion, Hrsg. von Walter Jaeschke, Hamburg 1983-85. である。このうち、1827年の講義録と1831年講義のシュトラウスによる要約の翻訳である。<(p.9, 凡例)

Hrsg. は「herausgegeben」の略で「編集された」という意味なので、イェシュケによる編集ということ。

この訳に関しては、2001年に創文社から刊行されたものの文庫化。一部、修正があるようだ。

JRF2024/12/71258

ヘーゲルに関しては、先に [cocolog:94987854](2024年8月)で、大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか - ヘーゲル「法哲学」入門』を読んでいる。情けないが私は『宗教哲学講義』がはじめてのヘーゲルの本著になる…といっても講義録だが。ただ、弁証法に関しては、PTS やオブジェクト指向論理に絡めるなどして、何度も言及はしている。

keyword: 弁証法

JRF2024/12/76560

……。

『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けてそのブラッシュアップの最中である。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論 第0.8版』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月)
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

2025年の3月から5月ぐらいに、第1.0版を出そうと計画している。電子書籍版のほかに紙の本(Amazon オンデマンド印刷)版も同時に出す予定。

JRF2024/12/72025

資料集めの読書としては最後の追い込みで、スピノザを読んでサーベイレポートをまとめたのち、デカルトの『省察』を読んだあと、このヘーゲル『宗教哲学講義』を読んだ。あと、シュバイツェル(シュバイツァー)『キリスト教と世界宗教』を読んで、その後、第1.0版向けの作業に入るつもりである。

第1.0版のあとも宗教書・哲学書は読み続ける予定だが、第2.0版は、5年後とか10年後とかそれぐらいのスパンで考えているし、第2.0版は単に修正等に留め、『補遺』的な巻を別に出したほうがいい気もしている。だから『宗教学雑考集』正式版本書に大きく反映されうる本は基本的には、上で書いた本までとなろう。

JRF2024/12/73090

スピノザのサーベイレポートは↓。この「ひとこと」で書いた記事を単に並べただけのものだが、ご興味のある方はぜひ。(今のところダウンロード数 0 !)

《サーベイ: スピノザの思想 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6284877

JRF2024/12/75044

……。

それではいつもの通り、引用しながらコメントしていく。今回の本は(文庫版がかなり)新しいため、著作権法違反等でややこしくなるのを防ぐため、少しでも興味のある方は、ぜひ購入していただきたい。

JRF2024/12/78444

……。

編者イエシュケによる宗教の定義。

>宗教は、精神が自己自身についての自己意識を獲得しようとする精神の一つの形態であるというものだった。この場合の精神とは、神話的な姿をしたものではなく、精神的な実在としてのわれわれ人間自身の本質を綜括した概念である。精神は宗教あるいは神観念のなかで、精神にとって何が真実であるかを表明するが、それとともに、精神が自分自身についていだく意識をも表明する。精神の自己意識のこのような形態として、宗教は芸術と哲学に並び立つ。

JRF2024/12/70714

(…ただし、…)宗教は哲学のレヴェルに達していないとヘーゲルは考える。みずからを概念で把握する精神にとって外的な諸契機、例えば時間的・空間的なしばりを哲学が克服しているという点で、哲学は宗教を超え出ているからだ。
<(p.15-16, 編者序文)

精神の自己認識の柱の一つが宗教だが、完全に反省的(reflexive)な哲学と違い、外部からの影響が強い…ということだろう。しかし、私は、精神の社会性もかなり重要だと思うので、それで「レベルが低い」という評価にはならない。

JRF2024/12/79301

……。

>哲学の内容とその要求・関心は宗教とまったく共通だと言うべきである。宗教および哲学の対象は永遠なる真理すなわち神であって、神と神についての説明をおいてほかにない。哲学が宗教を説明しているときは、ただ自身のことを説明しているだけで、自身のことを説明しているときには、宗教のことを説明している。<(p.35, 序論)

神に関する思考または指向を宗教とするなら、「哲学」こそが宗教であり、「外の宗教」を説明しようとするときその「哲学」が本当は何を指向しているのかがよくわかる。「哲学」が「哲学」自身を語るときこそ、本当の「心の宗教」を説明しているのである。…ということかなと思う。

JRF2024/12/77845

……。

>実際、哲学はそれ自身が宗教と同様、礼拝(祭祀)である。<(p.35, 序論)

哲学は祈りだというのはしばしば私も思う。特に何の役に立つわけでもなく、しかし、心の平安を得るために、理性の優越を祈るのだと思う。理性の優越が崩れたところに、戦争とか、(奴隷的)賃金労働などがあるのだろう。もちろん、そうしなければならないのならば、それをすることは尊いという側面はあり、そこに幸せも確かにあるのだが、そうせずに済むならばそうあり続けたい。そういう怠惰な心情を「理性の優越」でごまかしている面はある。

JRF2024/12/78091

その「ごまかし方」に何とか正当と思える理由を私なりに付けたのが、『宗教学雑考集』の僧に関する考察になるだろう。要は次の戦争をしないために、あぶれる者を「哲学」に収容し、「理性の優越」を説くのである。

JRF2024/12/70113

『宗教学雑考集 第0.8版』《本目的三条件の十分性》
>人口が増えそうなとき、僧は戦争が増えて人が死ぬのが増えるよりは、産児制限をする方向を選びがちなのが、「来世がないのがよい」という方向でもあるだろう。子=来世という考え方をできるからだ。産児制限をしてでも、僧は戦争を止めるのを優先する…といったほうが、適切かもしれないが。

JRF2024/12/75415

このプログラムでは、多く人が死ねば葬儀が増えるが、そこで得られた金銭は、僧は僧を増やすのに使うと考える。結婚しない僧を増やすのは、戦争のあと子供を産もうとするのを抑制する効果がある。戦争による人口減のあとの人口ブームによるその後の戦争を防ぐため…とも言える。

JRF2024/12/70619

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム 「捨て扶持」理論》
>僧が自らを増やそうとすることはある。

「来世がないほうが良い」が「堕胎」を導くおそれがある。しかし、子供が育ち、彼の成長を願うことで、自分の「霊」の来世の「物語」に期待する必要はなくなるという点では、子供ができ育つことこそが、「来世がないほうが良い」に資する…とも言える。名前を遺そうとするより、子供を残すほうが自らの「来世」への依存度は低いだろう。

JRF2024/12/70869

子供ができたときの「堕胎」はしない、しかし、集団が維持できるよう「妊娠」が起きないよう欲しい子供の数等に介入するのは許されるだろう。なぜか?

その「回路」を考える。

僧は自分が消えることを喜びながら、俗世の他の者が生き続けること…「生きなければならない」…をことほぐ。それは個々の死は受け容れることが正しく、全体の生を担う新しい生を喜ぶべきだから。

JRF2024/12/73470

僧でない者は僧を見て、僧自身ではなく法を受け継げば、僧の望みは達成できる。自発的に受け継がなくてもいい。僧が仏陀となっていたならば、法は自然にそこにある。…

ただし、仏陀にはなりがたし。僧が生きるために、僧の集団を自発的に支えてもらう必要がある。

JRF2024/12/72081

子供が増えたことで死者が増えるようなことがあれば、僧に葬儀で「祝って」もらう。そのことにより僧の集団を支えてもらう。僧以外の者は問うかもしれない、「死者が増えることで得をしたのではないですか?」…と。「いや、そうではない。」と、僧側は「子供を増やさない僧」を増やそうとする。人口が増え過ぎた社会で「子供を増やさない」ことは確かに社会にも求められていることだ。

JRF2024/12/75065

死者が増えれば、僧は財を増やすよりも、僧を増やす。そして、競争相手が増えることを考えても僧は多くなくてよく、そこからだけでも死が増えることは良いことではない。だからこそ、死につながる生を減らすために、まずは「欲しい子供の数の制御」等で、妊娠が増えることに介入する。(これにて「回路」が閉じる。)

JRF2024/12/70650

もちろん、僧は競争相手が増えることをさして気にしない。そういう俗気から離れているが、そういう俗気があるとしたとしても、死を減らそうとするのである。そこに人々が納得できる合理性がある。

JRF2024/12/79968

……。

神への信仰は「直接知」でなければならないとする向きもある。

>宗教的信仰はけっして外から由来するのではなく私のなかで直接に直観し知ることであるとする近年の定義の一般的な原理なのだ。<(p.44, 序論)

>この種の知の直接性は「神が在ることは知られるが、神が何であるかは知られない」というところに立ち止まるべきだと主張する。<(p.46, 序論)

JRF2024/12/72368

しかし、「外から由来する」のでないのは「心の宗教」である「哲学」こそが該当する。ここから、哲学と宗教の統合的理解が起こる。宗教は「外の宗教」であったことを、その社会性が重要であることを忘れはじめていた。…ということであろう。

JRF2024/12/70334

……。

>神と人とのつながりの直接性だけが、媒介というもう一方の規定を排除する形で受けいれられ、哲学に対しては、それは一つの媒介知だから有限なものについての有限な知にすぎないと陰口をたたいている。<(p.45, 序論)

私は↓において、梵我一如を赤ん坊の胎内経験という有限知から説明している。しかし同時に、梵我一如が先にあって、発達心理的にそうなるように神が創った、またはそれのみが「自然選択」されてきたということ…を述べており「無限」と接続している。

JRF2024/12/77882

『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>我々は、「私」に至る偶然に神の意志性を見出す。生まれてきた「私」は何かと不如意である。思い通りにできない。しかし、「私」を導くものがあり、「私」のしたいことを前もって助けてくれる。それは親かというとそれももちろんあるが、それだけではない。私の肉体自身が私にはよくわかっていないから、私の肉体が「私」を教えるという面もある。

JRF2024/12/74955

そこに(親や肉体も含めた)「他者」の痕跡を発見するのだ。それを振り返ると、「私」が選ばれてきた偶然がある。「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「私」に至る偶然に何らかの意志性を見出さざるを得ない。なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見である。

JRF2024/12/72721

逆にその神の意志から、「私」はそれが自分の中にも似た物があると発見していくのではないか。第一章で「我思うゆえにありうるのは我々までである」と説いたが、何が意織しているか当初はわからないまま、他者としての神を認識し、自らにとって不如意であること甚[はなは]だはしいが導いてくれる、その神に似たものとして意識の境界を確定し、「私」の意志性を発見していくのではないか。

JRF2024/12/76022

(…)

ただ、そのような素朴な意味での「他者」性の発見も含めるなら、それは、まず胎児の段階にあるのではないか。ある意味、胎児の段階でそのわずかな「世界」を「他者」と知るものと思われる。そしてそれは「他者」でありながら、自己と一体である。

…もしかするとそれが「梵我一如」の正体なのかもしれない。「梵我一如」は胎児であったことの記憶が残滓として残っていて、それを真実と感じてしまうところに真実性の担保がまずあるのかもしれない。

JRF2024/12/73132

もちろん、神を先に立て、発達心理学的にそのようになるのは「梵我一如」が先に真理としてあって、発達心理的にそうなるように神が創った、または、そう感じる場合に形作られる原理が先にあってそれのみが「自然選択」されてきたということかもしれないが。

他者性を重視すれば、「梵我一如」のときに発見される「他者」こそが原初的な「神」なのであろう。


このような有限知を無限に接続する論法は『宗教学雑考集』では頻出し、まず↓に現れる。

JRF2024/12/70945

『宗教学雑考集 第0.8版』《創造論と進化論》
>進化論が認められた現代。旧約聖書『創世記』のアダムとイブの話などを科学の側は笑う。実際、『創世記』などの創造論を信じるとしても、そもそもの『創世記』の中に、例えばカインの妻がどこから現れたかとか、ノアへの命令と実行が微妙に違うとか、いろいろ矛盾もある。

JRF2024/12/78576

しかし、いくら科学の証拠が挙がろうと、5分前創造説を信じることができるのだから、根本的なところで創造論を信じることもできる。そういう聖書に基づく創造論の場合、人類が生まれたのは 6000年前などになる。そこで創造が終ったのではなく上のバベルの塔の話のように改変的創造が続いていると考えることもできる。

JRF2024/12/79724

(…)

現代、進化論のほうが証拠がいろいろ積み上がっていることについては、創造論者も心穏やかではない。しかし、それについても、創造論を信じる側は、進化論が正しく見えることもそう見せることで神が何かを伝えようとしているという目的論を介してそれを受け容れることができるのだ。そうとはいえ、進化論を目的論のフィルターで見た場合、それはとても競争主義的な価値観を持っている。

JRF2024/12/77612

それを嫌うなどして、進化論は創造論を否定するための嘘、または悪魔の導きだと進化論を否定することはあいかわらず可能である。創造論者の多くは、「仮説としての進化論」でも説明できるように神は(再)創造したと考え、進化論が広まったからには進化論だけでも十分に生き残れる社会になるのか、不安に思いつつ、見守っているのかもしれない。

JRF2024/12/72773

……。

>さしあたってわれわれの意識に「精神とは何か」を問いてみるならば、精神とは自己を顕[あら]わにすることであり、精神自身にとってあることである。精神は精神に対してある。しかもたんに外的・偶然的な仕方でそうなのではなく、むしろ精神は精神に対してある限りでのみ精神なのだ。このことが精神自身の概念をなしている。あるいは、もっと神学的に表現すると、神の精神は本質的にその教団のうちにあり、神はその教団のうちにある限りでのみ、精神なのである。<(p.49, 序論)

JRF2024/12/71936

霊魂の成立とは別に「精神」の成立については前回、デカルト『省察』を読んだときに考えた([cocolog:95158388] 2024年11月)。『宗教学雑考集』にも書く予定なのでそれを見ていただこう。

JRF2024/12/73941

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《精神の根拠としての司書》
>《有神論の基本定理》の因果は、集団の他者に帰る。それを自分の因果応報に結び付けていくところに自我の強さがあるのかもしれない。それは集団が求めるものでもある。集団が求める自己責任性は、集団の未来・またはその集団が解消されて含まれる集団の未来も含めたもので、そこに精神の無限性、不滅性が成立するのかもしれない。

JRF2024/12/70660

ただ、その集団への帰依の利得が十分にないとき(それはしばしばある)、人は、不倫や殺人など、神に悖[もと]る判断をするのであろう。それが肉体性なのであって、逆にそれと峻別されるものとして精神が心身二元論的に成立するのだろう。

すると「精神」は集団の抑圧からなるとなる。デカルトのいた社会の「集団」はキリスト教会で、「精神」はそれが求めたもの、または、それ以前から求めたものだから、不死…となるのだろうか? もう少し分析する必要がありそうである。

JRF2024/12/74979

デカルトは同書(…『省察』…)でまた、神を知って、または、神が完全であるがゆえに欺瞞者でないと知って、はじめて純数学的「明確(明晰判明)」たる真理を真理として受け取ることができるとも述べていた。

JRF2024/12/75104

それを私の議論に持ってくれば、集団の抑圧による精神の成立に自覚的でない場合、「明確さ」の基準をもたないということになるのかもしれない。記録が残る永続する機関と擬制できる国や教会がないところで、「達成した明確さ」に意味を見出せるか…ということでもあろう。人間の真偽判定能力の限界から、いったん明確に思えるものに達してもすぐに判断に揺らぎが出るということだろう。それを内面化するとき、「唯一性」または主神への帰依みたいなものがないといけないのかもしれない。もちろん、それは「科学神」でもいいのだろうけど。この辺、AI はどうなっているんだろう?

JRF2024/12/78193

ところで「記録が残る永続する機関と擬制できる国や教会があってはじめて「達成した明確さ」に意味を見出せる」とすると、「明晰判明な認識が真であることの根拠」は、記録を司る司書の誠実さにある…ということになるのかもしれない。

もちろん、一人の司書の誠実ではない。文書が複数残っていって、その全部が書き換わることはないということへの信頼も含めて述べている。それは物理的根拠を持つ強固な信頼とは言え、「信頼」であるのに変わりはない。その「信頼」が神的なものにまで高まるのは、「信仰」によるのだろう。

JRF2024/12/74841

……。

>直接知が含んでいるもののなかに意識と神との不可分の統一が言い表されているとき、その不可分性のなかに、精神の概念のうちにあるものが含まれている。すなわち、精神は精神自身に対してあるということ、主観をただその有限的なあり方と偶然的な生活にしたがって一面的に考察してはならず、むしろ主観は無限な絶対的な内容を対象にもつということが含まれている。

JRF2024/12/71028

主観がそれだけで主観的な個体そのものとして考察されるならば、主観は有限なものについての有限な知のなかで考察される。同じように、神をそれだけ単独に考察すべきではない。そのようなことはできず、神は意識との関係においてしか知ることができないからだ。
<(p.50, 序論)

JRF2024/12/72273

スピノザを読んで(例えば [cocolog:95101727](2024年10月))、神の「無限論理延長」に精神を寄せていくことで、永遠の命に近付けるのであり、それは生きているこの世を天国としていくことだ…みたいなことを言っているように思ったのだった。ヘーゲルにはそこまで天国的な主張は見出せないのかもしれないが、そのようなことは述べているように思う。

JRF2024/12/73435

……。

>(…この時代の見方は…)神は信仰されるべきものであるが、神が何であるかは一般に知りえない、神についてはっきりした知識をなに一つもつことはできない、と主張する。はっきりした知識をもつことを認識と言う[から、神は認識できないというわけだ]。こうした理由から神学そのものが最小限の教義に切り詰められてしまった。<(p.51-52, 序論)

プロテスタントの成立からカントに至るまでの議論をヘーゲルはこう捉えるようだ。

JRF2024/12/75383

……。

>神学のこうした営みは他人の真理をあつかうから、これを[他人の財産を登記する]会計事務所の帳簿係の仕事になぞらえることができる。<(p.52, 序論)

こことはあまり関係ないが、罪価計算・魂の会計は、私が関心を寄せるところである。

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《罪価計算》
>ある見方によれば、イエスはその血により人類全体の罪を贖[あがな]ったとされる。イエスは神性を持ち、その血には無限の「価値」があったからである。

JRF2024/12/77673

罪に関しては罰や善行などで贖われねばならないというとき、その両者の「価値」を考えて複式簿記のように記録することも考えられる。悪徳とされがちな商売を扱う商人などが、彼から見て、そのバランスを取って寄進などをするところから、悪名高い免罪符にもつながっていったのかもしれない。

JRF2024/12/75799

このような「心の会計」「魂の会計」または「罪価計算」は、さまざまな人が試みたようである。ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』によると、ベンジャミン・フランクリンなども試みていたらしいし、少し違うが、ジェレミー・ベンサムは幸福計算を試みていたとして知られる。

JRF2024/12/70219

……。

>「文字は殺す」(2コリ3:6)等の格言が重要だとして引かれることもある。つまり言葉をそこに書いてあるがままに受け取り、言葉や文字を聖書の文字のままに理解するのではなく、その精神を理解しなければならないと言われる。<(p.53, 序論)

新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』は次のようになる。

>神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。<(2コリ3:6)

JRF2024/12/71869

……。

カントにもカテゴリー論があったが…。

>このようなカテゴリーを哲学に対抗して持ち出してきて、あたかもそれによって教養ある人々や哲学にむかって何か新しいことを言っているかのように思ったり、また少しでも教養ある人について、あたかも彼らでさえも、有限なものは無限なものでなく主観は客観とは異なり直接性は媒介性と異なるということを知りはしないかのごとくに語るのは、まったく的はずれであり悪趣味である。<(p.57-58, 序論)

JRF2024/12/79614

こことはあまり関係ないが、主観と無限について。↓のようなことを昔書いた。

《絶対性 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/08/post.html
>「絶対的真理」はありえます。それは個人が事実として観測したものをその者が「絶対だ」と述べ、我々がそれを反駁しようがない場合です。

JRF2024/12/77664

例えば、リンゴとリンゴ園で撮った写真を見せ、これは絶対同じものだと主張する者がいたとき、我々はそれをいくらでも疑うことができます。写真の偽造を疑ったり、写真の日付を疑ったり。しかし、そうして本人を反駁しても益ある結果は得られないでしょう。そして、彼はその二つがそろえばそのリンゴがそのリンゴ園から取られたと証明できていると思い込み、体験によって自らに対しては十分な証明ができているのです。

JRF2024/12/71599

概念の中では証明可能なものばかりで作った絶対的真理があります。むしろ証明可能という点では、日常的「真理」でないことを証明可能でないこと、すなわち、反駁可能でないことはいくらでもあります。コスト面からもそういうことがありますよね。しかし、当人は体験によって「証明」を得ているでしょう。

(…)

概念からサカノボっても
期待したような絶対性を知ることはないかもしれない。

JRF2024/12/72338

でも我々は絶対と呼ぶに十分な真理の獲得を
日々体験し学んでいる。


(この論考は『宗教学雑考集』の中にも所収されている。)

JRF2024/12/76359

……。

>概念における宗教はまだ真実の宗教ではない。概念はたしかにそれ自身のうちでは真実である。しかし、自己を身体化することが魂のなかに含まれているように、概念が自己を実現するということが概念の真理に含まれている。この自己実現が概念の当面の使命である。<(p.63, 序論)

私は、若い労働人口の少ない現代では「自己実現」ならぬ「社会実現」が求められていると論陣を張る。

JRF2024/12/79389

[cocolog:94936198](2024年7月)
>「ワークライフバランス」という言葉は、従来デフレ期にワークシェアリングを意識して、余暇に自己実現を目指す文脈があったと思う。しかし、インフレ期になり、自己実現という部分は余計になり、ヘルスと出産などのリプロダクトとワークのバランスを意味するようにシフトしてきているのではないか。自己実現は子供時代または老齢時代に目指すものとされていくのかもしれない。

だから、壮年期・中年期は自己実現ならぬ「社会実現」を目指すなどとこれからの時代、されていくのではないか?

JRF2024/12/76658

……。

>概念における宗教とは、精神である神に対する主観ないし主観的意識の関係である。宗教の概念を思弁的に取り上げるならば、宗教とは〈精神の本質を意識し自分自身を意識した精神〉ということになる。精神は意識的である。しかも精神が意識しているものは真実の本質実在的な精神である。

JRF2024/12/77078

この精神は精神自身の本質であって、けっして他のものの本質ではない。そのかぎりで、宗教はただちにそれだけで理念であり、宗教の概念はこの理念の概念である。理念は概念の真実の実在であるから、この実在は概念と同一であり、まったく概念によってのみ規定されている。この概念を精神と名づければ、概念の実在は意識である。概念としての精神すなわち普遍的な精神は、意識のなかで実在化する。その意識はみずからも精神的であり、意識にとってのみ精神がありうるからだ。

それゆえ宗教は意識のなかに自己を実現した精神である。
<(p.65-66, 序論)

JRF2024/12/70564

「心の宗教」であってもそれを書物にしたとき、それは共有できる理念となる。それが読まれているということは、概念の実在として、人々の間に意識として存在することになる。その意識は、読んでいる人その人の意識とは限らないが、それを教育により内面化する人が出るとき、それは「外の宗教」ともなるのであろう。これがヘーゲルの段階であると思われる。

JRF2024/12/72425

しかし、そうなったとき、それはすでに従来からある「外の宗教」の目指していたところと重なる。そこに従来からの宗教が復権する余地がある。その余地を認めた者たちの中に私がいるということであろう。デカルトからはじまる近代の個人化の流れに対して、社会化による抵抗を目指す…かつてはマルクスの共産主義もそのような流れで…だから、何度も出てきては挫折してきた。私の「思想」もそういうものなのだろう。

JRF2024/12/70621

……。

>宗教は万人のためのものであって、万人向けではない哲学とは違う。宗教はすべてのひとが真理を意識するようになる様式である。<(p.68, 序論)

哲学は小乗、宗教は大乗みたいな感じか…。

JRF2024/12/72579

……。

>第一部の第三[C 祭祀]は、主体と神とのこうした対立の廃棄であり、主体が神から分離・疎隔された状態を廃棄することである。それは人間が自分のなかで、自己の主体性のうちに神を感じ知るはたらきである。この具体的な主体としての人間が自分を神へと高め神を自己の心胸[むね]のうちにもち、神と合一しているという確信と享受と喜びを自己に与える働きである。これを神学的な言葉であらわせば、神によって恩恵のうちに受け入れられているという確信と喜びの享受である。これが祭祀である。

JRF2024/12/74156

祭祀の単純な形式、内的祭祀は一般に敬虔な祈りである。しかし祈りのなかでもっともよく知られているものは unio mystica (神秘的合一)という神秘なものである。
<(p.69, 序論)

神秘的合一にからんで。梵我一如という言葉を上で出した。ただ、それはたとえばイスラム教においては「克服」されていると私は考えたのだった。

JRF2024/12/77801

『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>キリスト教でも、私の梵我一如が胎児の感覚から来ているという理論からすると、梵我一如的なものを真理ととらえる感覚自体はなければならない。キリスト教では、それは、三位一体の「イエスと神の一致」に現れ、そのイエスに倣うことによって、個々がそれを(胎児のころから数えて再び)ものにする。…という形なのだろう。

JRF2024/12/72495

イスラム教の場合、神人一致というとスーフィズムがあるが、スーフィズムのないところもあることを考えると、そこ以外に、梵我一如的なものがあるに違いない。難しいが、それは、梵我一如の感覚が胎児という「過去」の記憶であると同様に、キリスト教という「過去」が梵我一如を「達成」しているとして、それを「大人」の宗教であるイスラム教が取り込んでいるということにするのではないか…と私は考える。ここから敷衍[ふえん]すると、逆にキリスト教を過去とできることが弱いところほど、スーフィズムが現れることが予想されるが、実際のところはどうなのだろう?

JRF2024/12/78058

……。

>神はこのように普遍的なものでありながら、自分自身において具体的で満ち足りたものである。ということは、神がただ〈一つのもの〉であって、多くの神々に対立しているのではなく、むしろただ〈一つのもの〉、神のみがあるということだ。<(p.83, 第一部)

普遍性を存在とする他者は、自分に対する全体性だから、一者でしかない。それが神の唯一性である。…ということのようだ。これはスピノザの議論を思い出す。

JRF2024/12/78399

スピノザ『エチカ』を読んだ ([cocolog:95101663](2024年10月))
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>定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。<(上巻 p.53, 第一部)

スピノザは他者性を神と名付けただけだからこうなるのだと思う。有限な自分でないものすべて(考えている自分の「魂」以外の自分の身体なども含む・場合によっては客観的に見た自分の魂も含む)なのだから、それは無限に多くの属性を含みうるだろう。
<<

JRF2024/12/78061

『宗教哲学講義』の後続する部分によると、ヘーゲルはスピノザ的汎神論を割と肯定し、自身にスピノザと同じく無神論者という疑いをかけられていたようだ。

JRF2024/12/76020

……。

ヘーゲルは明言しないが、神が汎神論的であることは、ある意味、『創世記』の混沌にある状態で、そこから『創世記』の天地創造を敷衍するようなことが哲学において起こるということを想像させたいように思う。

>この始まりをわれわれのうちにある内容、あるいはわれわれにとっての対象だと語る。これを対象としてもつのはわれわれである。そこでただちに「こうした内容を自分のうちにもつわれわれとは誰か」という問いが生じる。「われわれ、私、精神」と言うとき、それ自身きわめて具体的で多様なものである。<(p.86, 第一部)

JRF2024/12/70530

私はデカルトのコギト・エルゴ・スム…「我思うゆえに我あり」を(部分的に)否定して、「我思うゆえにありうるのは我々までである」しか言えないということをいう。主に『宗教学雑考集』で述べているが、このあたりのことについては直近でデカルト『省察』を読んだとき([cocolog:95158388](2024年11月))、詳細に論じたので、そちらをお読みいただきたい。

そちらに書き忘れたこととしてはそれは『宗教学雑考集』《熟慮の複数》に書いたように以下の部分も根拠として持つということである。

JRF2024/12/74915

>神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。<(旧約聖書『創世記』1:26-1:27)

そして上のヘーゲルも、この部分を想定していると思う。

JRF2024/12/76278

……。

神は普遍性の権化[ごんげ]であり、人がそこに近づくのは「思考」によってしかない…とそのようなことをヘーゲルは言う。上で書いたスピノザと無限論理延長の議論を思い出す。

JRF2024/12/70979

>人間が神のことを考えるということは、人間が感覚的で外面的で個別的なものを超えて高まっていくという歩みをも言い表している。つまり純粋なもの、自己と合一したものへと高まることが言い表されている。この高まりは、感覚的なものやたんなる感情を超えて純粋な境地へ歩み出ることである。そしてこの普遍的な境地が思考なのだ。以上が[宗教哲学の]始まりをなす内容である。しかも主観のあり方という面から見たこの内容にとっての基盤である。<(p.88, 第一部)

JRF2024/12/79058

なぜ思考を高めるのがよいのか。それは神に近付くためである。むしろ、知を愛するのが哲学だから、愛するべきとされる神は知の高まった先になければならない。…という関係なのかもしれない。

私は『「シミュレーション仏教」の試み』において、本目的三条件として「生きなければならない」「思考と思念を深めるのがよい」「来世がないほうがよい」を挙げた。そこで「思考と思念を深めるのがよい」は、災害の悪影響を減らすために、記録や記憶を残す必要性から来ると考えたのだった。もちろん、そこには記録や記憶だけでなく、災害分析などにつながる反省的知も含まれうる。

JRF2024/12/72655

『宗教学雑考集 第0.8版』《本目的三条件の十分性》
>「生きなければならない」から「思考と思念を深めるのがよい」を出すには、簡単には災害などを考えれば良い。「生きなければならない」から災害の影響を減らす必要がある。災害の影響を減らすには、記録や記憶が必要であり、それは「思考と思念を深めるのがよい」に含まれると考える。

しかし、知識階層は古代においては特に貴重であり、彼らを守るには格差が是認され、末端には死に近いことがあっただろう。「思考と思念を深めるのがよい」のために、「生きなければならない」が犠牲になったときもあったと思われる。

JRF2024/12/79868

「生きなければならない」のみが支配する世界では、そうでない世界に比べ、生きるための犯罪や戦争が起きやすいと考える。それは逆に生きにくい世の中になっているものと思われる。

JRF2024/12/79649

古代「思考と思念を深めるのがよい」を続けていると、それは非合理的な知識も含み、「輪廻転生」も自らの苦難を説明する「合理的な考え」として現れてくる。しかし、それはしばしば戦場において、狂信的な行動につながり、非合理的な作戦につながってくるとすれば、「生きなければならない」にも反するようになる。ここから輪廻転生の狂信を矯[た]めるために「来世がないほうがよい」が出てくると私は考える。つまり、「生きなければならない」から「思考と思念を深めるのがよい」を経由し、「来世がないほうがよい」が出た。

JRF2024/12/76103

しかし、「来世がないのが良い」はそれほど自明ではない。ブッダでないすべての修行者が導くとは限らない。仏教の理想からすれば、自己を探求するものは、自然に「来世がないのが良い」という「真理」に気付くとしたいかもしれないがそうではない。そのため、「来世がないのが良い」を死をもって守る者も必要になる。

JRF2024/12/70235

その議論において「思考と思念を深めるのがよい」は元は「自己の探求は良い」であったのを思い出す。「来世がないのが良い」が西洋では神に関する知識に相当するとすれば、「来世がないのが良い」と「自己の探求は良い」があわさって、ヘーゲル的な「神に近付く思考を高めるのが良い」とできるのかもしれない。

JRF2024/12/76235

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
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JRF2024/12/70778

……。

ヘーゲルはスピノザを肯定し「汎神論」批判を止揚するため、汎神論はあくまで普遍にとどまり、個物にまでは及ばないとするようだ。

>敬虔な人々がよく哲学に投げかける「汎神論」という非難については、そのいくつかの特徴をもっと詳しく見ておく必要がある。汎神論の本来の意味は、すべてのもの(alles)、全(das All)、宇宙、現存するあらゆるもののこうした複合体、こうした無限に多くの個別的な事物、これらすべてが神であるということだ。

JRF2024/12/79452

哲学は「何から何まで(alles)神だ」と主張しているという非難が哲学に対してなされている。ここで言う「何から何まで(alles)」とは個別的な諸事物の無限の多様性をすべてをいうのであって、絶対的に存在する普遍性のことではない。直接あるがままの経験的なあり方をした個々の事物であって、普遍的なあり方をした事物ではない。「神はあらゆるもの(alles)である、例えば、この神である」等々と言えば、それは汎神論だ。

JRF2024/12/79491

私が「類(Gattung)」と言えば、それもたしかに普遍性(Allgemeinheit)であるが、しかし「何から何まですべて(Allheit)」と言うのとはまったく別のものである。類は個々に現存するすべての綜括としてのみ普遍的なものであるからだ。[ところが彼らは]存在するもの、根底にあるもの、本来の内容までも、一切合切を個別的な諸事物だ[としてしまう]。
<(p.91, 第一部)

JRF2024/12/72227

もちろん、その普遍は個物に定義的に無限に迫れるのだろうけど、それは決定的に個物にはいたらないという含意があるのだろうから、上で「絶対性」というエントリで紹介した考え方と似た考え方をヘーゲルも持っているとは言えるだろう。

私は、スピノザと対しながら、自由意志論を支持し、神の人格神性を強く主張するようになった。そのような私からすると、ヘーゲルはやはり汎神論者だと思う。

JRF2024/12/79786

……。

>スピノザ主義は[無神論というよりも]むしろ世界が存在しないといとする無宇宙論(Akosmismus)である。<(p.94, 第一部)

スピノザより自由意志を認めがちなデカルトについても、無からの創造を否定する文脈が『省察』の「第三省察」付近にあったのだが、私は偶然からの創造という意味で「無からの創造」はありうるとしたのだった。そのあたりのことも、直近のデカルト『省察』に関する「ひとこと」([cocolog:95158388](2024年11月))をご参照いただきたい。

JRF2024/12/71018

……。

>善と悪との区別はそれ自体としては、すなわち唯一の真の現実性である神のうちでは廃棄されている、ということは実際に認めてもよいであろう。神のなかに悪はない。<(p.96, 第一部)

もちろんそれは「善と悪とは一つであり、その間にはなんの区別もない」ということを意味しない。それはヘーゲルもちゃんと説く。

スピノザ『エチカ』を読んだとき、『宗教学雑考集』における《善》と《悪》の議論を引用したあと、こう述べた。

JRF2024/12/72751

[cocolog:95101727](2024年10月)
>(…私も…)ある意味本来の悪はないとする。

しかし、スピノザに「人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろう」と言われるとき、決して妥当な観念だけを持っているとは口が裂けても言えない私は、上のように本来の悪はないといってのけてしまうことに、居心地の悪さを感じる。


私が人に本来の悪はないと言い切ってしまうのは、僭越に過ぎるのではないか…と。

JRF2024/12/76953

……。

>哲学に対するさらにいっそう浅薄な論難に、「哲学は同一性の体系だ」というものがある。<(p.98, 第一部)

哲学に関してはよくわからないが、論理学に関しては、「トートロジーだから意味がない」という批判は、あきらかに間違っているのはわかる。

命題論理とかに触れてるだけではわかりにくいかもしれないけど、トートロジーというのは恒真式のことで、いっぱい前提がいるものもそれを含意でつなげれば、恒真式にはなるから、相当高度なことがトートロジーとして言えるんだよね。

JRF2024/12/79831

現代ではコンピュータの補助により、相当、高度なことまで前提できるから、プログラミング言語の性質とか、高度な記号論理学で扱えるのだけど、それも出てくる定理とかは言わばトートロジーなんだよね。前提をすべてくっつけて一つの式にすれば。

同じことは哲学の「同一性」「統一一般」にも言えるのだと思う。

>統一ということに抽象的に固執すると、結局は混合という最悪のカテゴリーを、それよりも高次な結晶や植物や生物有機体などすべての形態に適用するはめになってしまう。<(p.99, 第一部)

哲学は、工夫して、高次の概念を言えるけど、要は「同一性」で論じていっているんだということなのだろう。

JRF2024/12/75832

……。

>宗教的な感情のなかで神との一体感を実感する。感情が信仰の源泉であり、感情から神の内容が導き出される。感情を真理の保証とする主張が近年 流行[はや]っているが、感情は主観性をまぬかれないために、感情だけにとどまると、どんな内容でも感情によって正当化されてしまう。宗教感情は宗教的な表象と思考を通じて純化され陶冶されなければならない。<(p.100, 第一部)

JRF2024/12/76300

「感情だけにとどまると、どんな内容でも感情によって正当化されてしまう」というのは感情の宗教のように思える「ファシズム」を思わせる。ファシズムはヘーゲル思想の悪用の面もあるとかないとか、巷ではいうね。

JRF2024/12/71612

……。

>宗教的な思考は有限なものから無限なものへと移行し両者を媒介する営みとして展開されてきた。これが神の存在証明である。ただし「神の現存(Dasein)の証明」という手続きは、有限な個物から出発してその帰結として神を導き出すという点で、ある歪みがある。むしろ有限な個物はそれ自身では真の存在をもたず、無限の絶対的な存在のなかで初めて存立しうるのであって、この否定的な関係がとらえられなければならない。神の存在証明はその意味で、自己が神へと高まることの記述、有限から無限な神へと高まる理論的な営みなのだ。<(p.101, 第一部)

JRF2024/12/71704

『宗教学雑考集』の《創造論と進化論》では、創造論者は、進化論が正しく見えることもそう見せることで神が何かを伝えようとしているとすることで、神の矛盾をなくす方向を出した。

JRF2024/12/74534

《オッカムの神概念とマナと悉有仏性》では、>キリスト教が、地上を「侵攻」していくとき、そこには「未開人」…上の私の言葉では「原始人」がいた。それはまるで、地理上に表われた形而上学的歴史としての神の顕現…であった。神はそういう形でも自己を開示したのだ。<…と述べた。原始人が残っていたのを神の配剤とすることで、キリスト教の独善性の矛盾をなくす方向で解釈してみせた。

JRF2024/12/71744

《骨食から埋葬へ》などで、骨食から霊の理論を導いたが、霊や神はそれ以前から存在しているだろうが、考古学的な真実から見れば、なぜか、霊の理論がそのように登場してきたように読めるとした。それは、考古学が様々なことを「解き明かす」時代になって骨を科学の発展に役立てていることへの許しでもあるだろうとした。これも時代の前後関係の矛盾をなくす方向に解釈し、神を正当化するものである。

JRF2024/12/78386

さらに上で紹介した《梵我一如と解脱》では、梵我一如を赤ん坊の胎内経験という有限知から説明しながら、発達心理的にそうなるように神が創った、またはそれのみが「自然選択」されてきたということ…を述べて、また神を正当化した。

このような、有限な現実が神の意図や目的と矛盾せぬように解釈することこそ、新しい「神の存在証明」の在り方なのかもしれない。それは神が存在することを論理学的に証明するものではないが、神の現実性または神の現実への根拠を帰納的に信じさせるような、いわば状況証拠を並べるだけの法的な「証明」になっているのかもしれない。

JRF2024/12/75364

……。

キリスト教には秘儀はあっても秘密はない…という。

>アテナイ人の間では、もしもある者が彼の灯から他人が灯をともそうとするのを許さなかったならば死罪となった。彼はそれを許しても何ひとつ失わないからである。それと同じように、神も思いを伝えても何も失わない。<(p.104, 第一部)

書物に書かれた啓示宗教性、または上述の(前回([cocolog:95158388](2024年11月))書いた)司書の伝統を思う。

JRF2024/12/71118

ただ、コピー自由な電子書籍を販売する私としては、灯を売る機会が失われることは気にせずにはいられない。

この逸話、喫煙者が多い時代にはもっと実感があったんだろうな…。

JRF2024/12/72398

……。

>精神は、本質的に精神にとってあるということであり、精神は精神に向きあっているかぎりにおいてのみ、精神である。<(p.104, 第一部)

レヴィナスの顏の議論を思い出す。ちなみにモーセは、神と顔と顔を合わせて語るような者だった(申命記34:10-11)。

『宗教学雑考集 第0.8版』《レヴィナスの「他者」と「顔」》
>>
>顔は本質的に不可視である。

JRF2024/12/72958

「あなたは私の顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と「主」は告げる。人が見ることを許されるのは「主」の栄光が通り過ぎたあとのその後ろ姿だけである。(内田樹『他者と死者』p.207)


見ることのできない顔は、自分の顔である。《熟慮の複数》で合わせ鏡のイメージが出てきたが、しかし、鏡を通して見ても主は写らない。なぜなら真なる(合わせ)鏡である神のイメージに写るのはせいぜい他者(他我?)だからである。

JRF2024/12/75311

そして、他者が写るイメージの「無限」を合わせても神の他者性には足りないのだろう。それと同時にそのイメージ一写でも人にとっては神を写すに十分なのだろう。対話する相手の顔は、確かに神のイメージを写してもいるのだ。
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JRF2024/12/74210

……。

>信仰の絶対的な厳密な意味での根拠、宗教の内容についての絶対的な証言は精神の証言であって、奇蹟を証拠にあげるような外的な歴史的な立証ではけっしてない。<(p.111, 第一部)

ちょっと関係ないかもしれないが…。

奇跡に惹かれて新興宗教等に導かれる者はある。キッチュな奇跡は客寄せとして使われる。でも客寄せでしかない。やがて手品のタネは知られ奇跡はほぼないと気付かれる。それでも新興宗教等に残る者がいるのは、(世間体的に足抜けできなくなってることもあろうが、)同時に、精神が救いをそこに見出してるからでもあろうとは思う。

JRF2024/12/70460

……。

ヘーゲルは、俗説のように感情は身体性のある温かいものだと認める。

>固定した目的をかかげ一生涯この目的を追求する性格のもちぬしは、とても冷たい人間でありうる。彼はただこの目的という事柄だけを追求しているにすぎないからだ。これに対して、感情の温かみは、私が私の特殊性を失うことなく事柄にかかわっていることを意味している。これは人間学的な一面である。われわれの人格の特殊性とは身体性である。<(p.113, 第一部)

JRF2024/12/78432

感覚から来る感情もあるが、道義心のような内からの感情もあり、それは持つべきだという。

>神、法(正義・権利)などについて知り、それらについて意識し確信するだけではなく、それらがわれわれの感情や心胸[むね]のうちにもあるということを要求する人々がいる。それはもっともな要求だ。その要求が意味するのは、神、法といったことが本質的にわれわれ自身の関心事であるということ、われわれは具体的な主体として自分をそのような内実と同化しなければならないということである。<(p.114, 第一部)

JRF2024/12/78659

しかし、感情こそが・感じるものだけが真実であるというのは違う。真実は別に(思考によって)見つけねばならない。

>言うまでもなく、感情は、そのなかでのみ神を真実に見いだすことができると言えるようなものではおよそないのだから、感情のなかに見いだすべきだと言われるこうした内容を、われわれはどこか他のところですでに知ることができるのではなければならない。しかも、感情のなかでのみ神を真実に見いだすということが、われわれは神を認識できず神については何も知りえないという意味だとするならば、神が感情のなかにあるなどと、どうして言えようか。

JRF2024/12/78304

われわれはまず、私とは違う内容の特質を意識のなかで、感情とは別のどこかで探し求めておかなければならない。その上で初めて、内容のこうした特質を感情のなかに再び発見したときに、感情を宗教的なものと証明できるのだ。
<(p.117, 第一部)

この点は、結局、精神病にならなければ、神を確信できなかった私は完全には同意しかねるところである。ヘーゲルはこの後、理性により神を認識できるよう「神の存在証明」的なものを論じるが、ただ、まだ感情論を続ける。

JRF2024/12/74424

>植物の一生は種子から始まるが、種子はたんに経験的なあり方と現象面からして最初のものである。種子はまた所産であり結果であり最後のものでもある。それゆえその種子は、すでに直接知(…または信仰…)について見たように、まったく相対的な源なのだ。木の本性の全体を包み込んでいるこの単一な種子は、樹木の一生の展開全体の所産であり結果である。感情についても同様で、真実の内容の全体がわれわれの主観的な現実性のなかに包み込まれている。<(p.118, 第一部)

JRF2024/12/72339

感情は真実の種子である。…ヘーゲルの言いたいこととはおそらく違うだろうが、私はこう受け取った。

仏教では十二因縁などを説き、感情を個人が制御してしまうことを説くと見える。しかし、感情をなくすことがよいことなどではない。ブッダも叱るからだ。

JRF2024/12/70016

感情は感覚から来るどうしようもないものはあるとは言え、道義心などはかなり後天的なもので、コントロールできる部分も大きいのだろう。感情は社会性を持ち、子らに模倣される。子らは出家者・哲学者になるとは限らないだから、感情によってのみ「真実」を見出すようになる。だから感情を種子として子に渡すために、単に感情を整えるだけでなく、豊かにそれを現すべきなのだ。温かみのある人間である意義はそこにあるのだろう。

JRF2024/12/78689

感情は社会的である。ところで、ネットの炎上は感情がもたらす。社会における感情の発展が時代の技術に追い付いていないということなのだろう。

>「悪口などの良からぬ思いは心から出てくる」と[マタイ15:19]。もちろん神に関する宗教的なことも感情のなかにある。けれども悪は心のなかにそれ固有の座をしめている。心というこの自然的な特殊性こそが悪の座なのだ。倫理的に善いことは、人間が自分の特殊性・利己性・自己性をそのまま貫くこととは違う。人間はむしろ悪である。<(p.121, 第一部)

性悪説…とは少し違うが。

JRF2024/12/73575

……。

>神について「神は慈愛に満ち公正だ」と言うとき、慈愛が公正さと矛盾するということに気づくのに、われわれは熟慮を要さない。「神は全能にして賢明である」と言うときも同じだ。全能の威力の前にはあらゆるものが消滅してなくなるが、具体的に規定された特質の一切をこのように否定することは賢明さとは矛盾する。なぜなら、全能というのは特定されていない漠然としたものであるのに対して、賢明さは何か特定されたものを欲し、ある目的をもち、特定されていない漠然としたものを制約するからだ。

JRF2024/12/70780

同じことが多くのことについても言える。表象においてはあらゆるものが安らかに併存している。例えば人間は自由でありながら依存している。世界には善もあれば悪もあるといった具合に。これに対して、思考においては併存するあらゆる規定が互いに関係づけられ、矛盾が姿を現す。
<(p.134, 第一部)

「全知全能」の矛盾は私も何度か扱っている。前回([cocolog:95158388](2024年11月))にも語った。それはそれとして。

JRF2024/12/70390

表象というラベル付けにおいてはおよそ何でも言える。その「矛盾」を弁証法によって思考が解決していく…ということであろう。

ポパー『開かれた社会とその敵』([cocolog:94980637](2024年8月)を読んだときに、私は、記号論理学「に」オブジェクト指向を取り入れ、弁証法を扱う…という話をしたことを思い出す。

その話は『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《オブジェクト指向高階論理》にも所収。

JRF2024/12/75331

……。

>神は本質的には、区別されたもの同士の関係であるととらえられる。ここに必然性がある。或るものが存在すれば、それとともに他のものも想定されるという事態を、われわれは「必然的」と名づけている。<(p.135-136, 第一部)

>神があるということを私が確実に知っている場合、その知は私が在ること(私の存在)であり、私と知の内容[神]とのつながりである。このように、私が確実に在るのに応じて神もまた確実に在る[と直接的な知は主張する]。<(p.139, 第一部)

JRF2024/12/71043

「私は在る」だから「他者も在る」はずだ…というのが必然性らしい。これは逆に「神が在る」のだから「私は在る」という確信になるのだと思う。「私は在る」に不安があるからこそ、「神が在る」ことを余計に信じ、その必然性から「私は在る」と確信したいということではないか。

なぜ「私は在る」にそんなに不安なのだろう? 自分が思っているほど人は自分を認めてくれないから、承認欲求が満たされないから…だろうか?

JRF2024/12/70695

……。

直接知と媒介知。宗教は直接知だという主張にヘーゲルは論駁する。

>媒介を排除して直接的な状態という規定だけしかもたないものは存在しない。むしろ直接的なものも媒介されている。直接的な状態そのものが本質的には媒介されている。有限な現存という意味はそれらが媒介されているということなのだ。<(p.141, 第一部)

>例えば、原因は結果をもつかぎりにおいてのみ原因であるから、原因も媒介されている。<(p.142, 第一部)

JRF2024/12/78902

ここで宗教も媒介知であると言いたいのは、要するに論理的導出によって(「神の存在証明」によって)神を知ることができるのを肯定したいのだろう。

しかし、直接知は必ず媒介知なのかは疑問に思う。関係ないかもしれないが、論理学の健全性と完全性を思う。命題論理の場合、真偽値の付値に対し、それを論理的導出で必ず求めることができる。これを完全性という。健全性は、論理的導出で真と出れば真偽値の付値は必ず真になる…というものである。

JRF2024/12/75890

ところがこれは高度な論理になると、健全性は言えるが、完全性は言えない…ということが起きる。

直接知というのは、真偽値の付値のようなもので、媒介知は、論理的導出により求めた真に相当するのだと思う。すると、完全性は普通成り立たないから、媒介知では求まらない直接知が存在しうることになる。ここのヘーゲルには見落しがあるように思う。

JRF2024/12/72344

……。

啓示や教育は、機械的に宗教心を起こさせるものではなく、呼び起こし(Erregung)であるという。

JRF2024/12/73300

>「人間は何ごとも学ばず、もともと自分のうちにもっていたものをただ思い出すだけだ」というプラトンの古い言葉[『メノン』81c-d]も、これと同じ意味である。これを哲学的でない外面的な言い方をすれば、人間は[前世など]以前の状態のなかで知った内容を思い出す、となる。神話的にはそう表現される。けれども、そこには次のような真意が含まれている。すなわち、宗教、法(正義・権利)、倫理など精神的なあらゆるものは人間のうちにただ呼び起こされるだけである。人間は精神それ自体であり、真理は人間のうちにあり人間のなかで意識にもたらされる。<(p.146, 第一部)

JRF2024/12/79819

輪廻転生を否定するのは、キリスト教においてかなり本質的なことであると私は認識する。私は輪廻転生に関する立場は今のところ中立である。ただ「ないとはいえない」と考えている時点で、近現代的なものの見方はしていない。

JRF2024/12/74746

『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム シミュレーション・キリスト教?》
>神性人性の議論(単性説など)において、まず、人が神に近しいものになれるとしても神でなかった者が神そのものにはなれない…というのは、唯一神信仰でそれを認めると、神が人になって天に帰るという構造になり、それはつまり何度もあって良いということになり、輪廻転生と変わらない。まずそこを避けるというのは、「最後の審判」のほうが絶対的な教えであるということだろう。「神を愛する」がキリスト教の第一の命題であるのは、神が「最後の審判」の神だからですらあるのではないか。

JRF2024/12/76592

救世主イエスを神と見ることを避ける道もなかったのだろう…真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度のこの世への「転生」という信仰理論が先にあったと私は思う。救世主キリストが三位一体の子でもあるというのは、神の終末におけるたった一度の転生をしたと神が認めるのがその子だけであるということになるのだと思う。

JRF2024/12/77088

なお「「神を愛する」がキリスト教の第一の命題であるのは、神が「最後の審判」の神だからですらあるのではないか。」は、「神が最後の審判をする」ことが第一の絶対だから、その神を愛する…が他をさしおいて第一とされるということである。

ちなみに、私は、地獄における輪廻転生を考え、最後の審判との不器用な調和をはかった小説も以前書いた。

JRF2024/12/73083

『神々のための黙示録 第二版』(JRF 著, カクヨム, 2016年6月)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881248563 (無料)
https://j-rockford.booth.pm/items/4514877 (有料)
https://bookwalker.jp/deced7b62b-a043-44d3-af3b-1bdf9b2f8a08/ (有料)

JRF2024/12/77029

……。

>「神の存在証明」の名誉回復をはかることが大事である。「神の現存(Dasein)の証明」という表現を聞くと、そこには何か歪んだものがあるのではないかとすぐに気づく。そこでは神とその現存とが語られているが、「現存」というのは特定された有限な存在のことである。Existenz(個別的な存在)という語もこのように特定された意味で用いられる。けれども神の存在(Sein)はいかなる仕方においても制約された存在ではない。神とその存在(Sein)、ないしはその現実性とか客観性とか言った方がより適切であろう。<(p.151, 第一部)

JRF2024/12/79169

その神の在り方(属性?)は現実性を持っているか・現実に根拠があるかという議論はできる。いや、むしろ、現実に神の目的を見出す議論はできるといったほうがいいのかもしれない。

自然は社会は何がしかの最適化をしているので、目的は見出せるが、それに神が制約されるのが、正しいのか…とは問える。そうやって制約してしまうと、「神のこころがわり」を考える必要なども出てくるが、それでいいのか。…とは問える。

でも、私は我々が悩むように「神も悩む」ほうが好きだ。そのような神こそ「現存」している感じがする。

JRF2024/12/74575

……。

「神の存在証明」は従来は、有限なものがあるがゆえに無限のものがある…という導出だった。それは無理だとヘーゲルはする。ヘーゲルの「神の存在証明」は次のようになる。

JRF2024/12/72579


>まず初めは、たしかに有限なものがある。第二にしかし、有限なものはそれ自身では存在せず、それ自身で真ではなく、むしろ自らを廃棄する矛盾である。そうであるがゆえに、有限なものの真理は、無限なものと称される肯定的なものである。(…)こちら側に世界があり、あちら側に神がある。世界についての知が神の存在の基礎にされる。われわれの考察では、世界は真なるものとしては放棄され、こちら側に存在し続けるものとはみなされない。この手続きの唯一の意味は、無限なもののみが存在し、有限なものは真の存在をもたず、神のみが真実の存在をもつということだ。<(p.161-162, 第一部)

JRF2024/12/75634

有限なものは本当の存在ではない。有限なものが自ら廃棄されていく中で、無限が立ち現れる。むしろ、有限はその無限の表現でしかない。本当の存在は無限でなければならず、キリスト教では無限なのはひとり唯一神のみであるから、唯一神のみが本当に存在している。…と言っているのだと思う。

JRF2024/12/75300

しかし、ここには、無限な存在が神であるというのが前提されていて、無限の存在の存在が自明ならば、神の存在を証明するにはその前提を論証する必要があり、証明として完成していない…と私は思う。逆に無限の存在の存在が自明でないならば、(ないように私は思うが)、神の存在も証明されていないことになると思う。具体的には、有限なものが自ら廃棄されていく中で、「無限」が立ち現れるとしても、その「無限」はある種の有限(無際限?)であり、神の無限には達していないと思う。

JRF2024/12/70869

……。

目的論的発展はヘーゲルにおいても基本的に否定される。あまりに些細な目的まで神が立てているとは思えないから…が理由の一つのようだ。

>あまりにも些事にわたるこうした考察は、ゲーテの或る風刺詩のなかでこうとらえられている。「創造主はビンを創り、それをふさぐ栓を得るためにコルクの樹を創った、と称讃されている」[シラー編『ミューズ年報 1797年』クセーニエ(二行詩)]。<(p.167, 第一部)

JRF2024/12/75944

……。

>生命は本質的に生きた主体的なものであるから、この普遍的な生も一つの主体的なもの、一つの魂、Νους (ヌース) である。<(p.168, 第一部)

『宗教学雑考集』《コラム なぜ生きなければならないのか》で「総体として生きたい」を重視したが、そのような考えは「ヌース」として似たものがあったんだね。ただし、私は「総体」は一つしかない…とは考えないけれども。

ただ、Wikipedia によると「ヌース」は「生きたい」よりは「直観理性」に相当するようだけど。

JRF2024/12/77754

《ヌース - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%B9

JRF2024/12/72243

……。

>有限なものはそれ自身が、自身を撤廃し否定する弁証法である。<(p.171, 第一部)

出た。ヘーゲル的「弁証法」。正直、かっこいい。

ここでは真理に向けて苦闘しているぐらいの意味かな。もしかすると、その苦闘全体が一つの真理になってるぐらいの意味もあるかもしれないけど。

JRF2024/12/73139

……。

>われわれが魂と呼ぶものは概念である。<(p.180, 第一部)

↓を思い出す。

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《霊概念の成立》
>>
「霊魂」という概念がなぜ生じたか。

JRF2024/12/70461

>諸社会(…が自らを組織…)に象って、物理界の力能が考えられたのである。であるから、人間は、自己に対して作った観念に、社会生活から借りた概念を導き入れないでは、力の宿っている身体を支配している力など想到[そうとう]しえなかったのである。事実、人は自己の物理的写しから自らを区別し、また、これに対して一種の高級な威厳を自らに帰せなければならなかった。つまり、自らを一つの霊魂であると考えねばならなかった。人が実際に存在すると信じている力を常に表象したのは、確かに、霊魂の形態においてである。

JRF2024/12/70347

しかし、われわれは、霊魂が、自ら動き、考え、感じる抽象的な機能に与えた名とは、まったく別物であることを知っている。それは、何にもまして、宗教的原理であり、集合力の特殊な側面である。要するに、人は、自らを霊魂と感じ、ひいてはまた、力と感じている。人は社会的存在だからである。(…)動物が霊魂をもたないのは、人間の社会に比すべき社会生活に参与していないからである。動物には文明に似た何ものもない。(デユルケム『宗教生活の原初形態』下巻 p.236-237)

JRF2024/12/70157

動物に霊魂がないということはない。人は動物に霊魂を認めうる。しかし、動物自身には霊魂という概念はないであろう。なぜなら、霊魂は社会があってはじめて生じる概念だから。そもそも「概念」というものが生じるのがどうも霊魂が現れたのとときを同じくするように思える。デュルケムは「概念」について上でそのようなことを述べていた。
<<

JRF2024/12/74669

……。

>倫理的共同態こそ祭祀のもっとも真実の姿である。その意味で、個人的な主観を払いのけ純粋な真理を探究する哲学も持続的な祭祀である。<(p.185, 第一部)

哲学も祭祀というのは序論 p.35 でも引用した。

JRF2024/12/77827

……。

>祭祀においては、神と人間との和解が端的に完成しているということが前提されている。<(p.189, 第一部)

>私は神の恩恵のうちにあり神の精神は私のうちに生き生きとしてあるという感情と享受、私と神とが合一し和解しているという意識。これが祭祀の最内奥にあるものだ。<(p.190, 第一部)

>社会的に実現された倫理状態こそもっとも真実な祭祀である。<(p.193, 第一部)

JRF2024/12/78069

社会の信じる神と自らの神が合一していることを示す行為が祭祀なのではないか。社会の信じる神に関する表象は特殊的であろう。普遍性では普通ないが、普遍的であるかのようにふるまわねばならない。社会から外れていても、社会と和解して祭祀に参加する必要があるのだと思う。

例えば、聖体が実体変化とするのは、かなり特殊的だと思う。

《聖餐論、聖体論争 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_15.html

JRF2024/12/73575

……。

>哲学は持続的な祭祀である。(…)哲学とはこの真なるものをただたんに単純な形態で神として知るだけでなく、神の作品のなかでも神によって産出されたものとして知り、そして理性的なものを理性を授けられたものとして知ることである。おのれの主観性、個人的なうぬぼれから生じる主観的な思いつきを払いのけ、思考のなかで純粋に真なるものに専心し、しかも客観的な思考にしたがってのみ振る舞うということもまた、真なるものを知ることに属す。個別的な主観性をこのように否定することは、本質的で必然的な契機である。<(p.193-194, 第一部)

JRF2024/12/75213

特定社会よりも普遍世界、国際的人権などを相手にするのが哲学という祭祀なのだろう。ただ、当人たちが思うほど普遍的でなく、流派が分かれているのが実情ではあるんだろうけど。

JRF2024/12/75448

……。

>第二部では(…)まず第一に A 直接的な宗教すなわち自然宗教をとりあげる。この場合の「自然宗教」とは「自然の光」である理性にもとづく宗教という意味ではなく、自然的な宗教すなわち原始的な宗教のことである。具体的にはエスキモーやアフリカの原始宗教、そして中国の国家宗教である。<(p.196, 第二部)

現代ではさんざん批判された、キリスト教こそ頂点とする進歩宗教史観である。

『宗教学雑考集』では、「イメージによる進化」に寄せることでトーテミズムなどの自然宗教を「評価」する。ただ、それもまた、現代的価値観で過去のものを美化(?)しすぎている面もあるのかもしれない。

JRF2024/12/71649

過去のキリスト教徒の独善性は現代では非難されるべきだが、ただ、人身供御などをやめさせた功績などについてはすなおに称賛せねばなるまい。アブラハムの宗教が、他に同様の宗教がかつてはあったとしても、大きくみて人身供御を廃絶するのに役に立ったのは事実だと思う。

また、病気を霊的仕業とすることは、衛生面で一定の合理性があったとは言え、ひどい差別をもたらしていた。西洋文明による医学が、その蒙を啓いたことも、やはり称賛にあたいするだろう。

JRF2024/12/78138

……。

キリスト教に対する異教を「特殊的な宗教」または「具体的に規定された宗教」と呼び…。

>規定された宗教そのもの、すなわち有限な宗教には、精神や宗教の下位の規定しか見あたらない。絶対的な真理の宗教はまだ姿をあらわしていない。<(p.199, 第二部)

一神教であるキリスト教だからこそ神学が生まれ、それが哲学に有利に働いた面は多分にあると私は思う。ヘーゲルは、その論理学的優位性という「巨人の肩」にたって、他を批判できているのだと思う。

JRF2024/12/77619

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《還元主義・実用主義・医学的唯物論》
>ジェイムズは、神学のような宗教哲学は、神の存在を証明せず、無用なものだとする。確かにそれは、ゴシック建築がある種の人々を惹き付けるように、理論構築の豊かさ・衒学的趣味によって、人々を惹き付けることがあるのは認めるのだけれども。

しかし、私は神学について考える。神話は数々受け継がれてきたところで、その整合性が取れるというのは、神話の信憑性を高める。神学が神の存在を証明することはないとしても、神々の不存在を示さぬよう、整合性をとるのに論理性は役に立ってきたのではないか?…と。

JRF2024/12/71038

そして、矛盾を(相対的にほぼ)なくすことができたことが一神教の強みであったのだと思う。それは多神教では調整する部分が多くて難しかっただろうから。それは彼らの護教に役に立ったはずだ。

また、逆側の作用もあったろう。論理性というものが、うさんくさく見られる状況というのを、理系の者は現代でもしばしば感じる。そういうことは過去にはよりしばしば見られただろう。神学の発達は、そういう論理性に、宗教的権威を与える。それにより科学がより発達できた面もあったのではないか。神学の発達していた中世を暗黒時代とする言説からはその逆を想像してしまうけれども。

JRF2024/12/71543

……。

>自然的な宗教の独特な形態を考察する前に、一般に流布している考えを取り上げてみよう。それは空想が思い描き、さらには妥当なものと主張され通用している次のような考えである。 -- 最初の宗教は真実の優れた宗教でもあった。のちの宗教のすべてはこの最初の宗教の堕落形態をあらわしているにすぎない。そして、この宗教の没落から夢や断片的な暗示がえられ、これらが後の諸宗教の根底にある。これらの痕跡はまだ認識できるし、その歴史的な認識はとりわけ興味をそそる。<(p.206, 第二部)

JRF2024/12/79617

過去の宗教形態が「理想的」でないのは、ただ人身供御があっただけからも肯定できる。しかし、トーテミズムが「イメージによる進化」であったとすると、進化論まで進化論的考えをキリスト教は失っていたことになり、確実に、宗教が失ってきた「真実」があるのも事実だと思う。また、キリスト教の表象が古代オリエントの表象を継いでいるのは事実で(例えば、十字架刑はイナンナの「釘に吊り下げられた死体」に似ているとか。参: 『宗教学雑考集』《イナンナの冥界降り》)、そこには歴史ロマンがある。

JRF2024/12/74992

……。

>無垢の状態とは動物の状態なのである。楽園(παραδεισος)はそもそもの初めは動物の園(ティアガルテン)にすぎない。それは責任のない状態である。<(p.212, 第二部)

まぁ、エデンの園から追い出されたところが、弱肉強食の「動物の園」ではないかという気はするが、ただ、現実の過去に楽園を見る考えというのは、確かに違うかな…とは思う。

JRF2024/12/72968

……。

>人間は自然のままでは本来あるべき状態ではない。人間は自分自身が精神となることを通じて、つまり何が正当かを知り欲する内面的な悟りによって、みずから〈人間であるもの〉にならなければならない。<(p.213, 第二部)

あまり関係ないが…。

最近、結跏趺坐に憧れて半跏趺坐の練習をしている。でもなかなかうまくいかない。女性は体が柔らかく結跏趺坐に至りやすい分、悟りに近いのでは?…と思う。そんなことが?…と思うかもだが、東洋の悟りは身体性のコントロールも結構重要な要素だと思うから。

JRF2024/12/72183

あと、結跏趺坐を会得するまで訓練できること、それを維持することには時間…余暇が必要で、それも悟りに近づくには必要なものなのかな…とも思う。それぐらいの時間をかけて身体性をコントロールする覚悟のないところに、悟り=静かな境地はないのだろうと思う。

その点、身体性のコントロールは、感情のコントロールだとすれば、ヘーゲルに近付けるのかもしれない。でも、それは、「人間になる」というよりは「人間以外になる」(ブッダになる)ということだと思う。それは自らが特別になるというよりも、他の人こそ人間的であることを認めるものだ。

JRF2024/12/75903

逆に、ヘーゲルは誰しもが「人間になれる」=「悟れる」とするわけだが、それも一つ別の考え方で、そこに、ヘーゲルのやさしさがあるのかもしれない。小乗大乗的違いかな…と思う。

JRF2024/12/77602

……。

創世記 第3章のところで…

>ヘビが言ったことは嘘でなかったばかりか、神自身がそのことを確証さえした。ところが、この節はふつうは見すごされる。ないしは話題にされることがない。<(p.216, 第二部)

《『創世記』ひろい読み - 知識の実 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html
>>
イブは蛇に対して次のようにいい、蛇はそれを否定する。

JRF2024/12/72904

>でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。<

ここでは表面上、神が嘘をつき、蛇が本当のことを言っていたことが後にわかる。これは、神が人にものごとを命令する場合には方便を用いることがあることの現れととらえる考え方もあるだろう。創造の方法として、人に罪を犯させることがあるという考え方もあるだろう。

ただ、これとは別に、人と人が殺しあって死ぬといけないという意味において真実であり、嘘はついていないという考え方もあり得る。
<<

JRF2024/12/72922

……。

>智恵の始まりとは、自分ひとりの利害関心や主観性がみずからを真実でないと感じ、個別化して無力を自覚したときに、否定を介して知という普遍的な絶対的なものへ移行すること、これである。<(p.227, 第二部)

エゴを捨てなければ、教わっても身につかない…というのはあると思う。ただ、「自己の探求」で得られるものも一つの智恵だと思う。

JRF2024/12/76663

……。

>外部世界をその性質と質的な連関に従って自由に放任するのは、文明人にして初めてできることだ。そのためには人間が自由であること、つまり自分自身において自由であることが必要である。<(p.229, 第二部)

産業革命前のスピノザにも、自然を人間が自由にしてよいという思想があった。ヘーゲルもそれを継いでいるのだろう。植民地支配・自然破壊…。「近代の野蛮」だね。この点もヘーゲルの思想は修正されるべきなのだろう。

JRF2024/12/76416

……。

>c 中国の国家宗教とタオ<(p.240, 第二部)

中国の宗教の記述は興味をそそるものだ。皇帝が祖先の死霊などを叙階することなどが書かれる。それは、『論語』からはじまる中国哲学の書にはあまり見られなかったように思う。ヘーゲルのころの旅行記などを参考にしているようだが、もしかすると、日本にはあまり伝わっていない、中国の歴史・宗教史があるのかもしれない。それを知れたという点で私には貴重であった。(キリスト教独善の歪んだ史観であるとしても。)

JRF2024/12/79964

……。

仏教とラマ教(チベット仏教)の記述に入る。

ヘーゲルは、ブッダになることを神になることと言い切ってしまう。そして、空と無を区別せずに無と言ってしまう。しかし、だから見るべきものがないかというとそうでもない。

JRF2024/12/78573

>「神は無限なものであり、本質であり、純一な実在、実在のなかの実在であって、しかも神のみがそのような実在である」。これが今日流布している神の定義であるが、しかしこれは「神が無である」というのとまったく同じか、ほとんど同じ意味だと言わざるをえない。ただしそれは、神が存在しないという意味ではなく、神は空虚であり、この空虚が神であるということを意味する。

JRF2024/12/72971

「人間は神については何も知りえず、何も認識しえず、神についてはどのような表象ももてない」とわれわれが言うとき、それは神はわれわれにとって無であり空虚なものであるということを穏やかに表現している。それはどのような種類のものであれ規定(特定化)はすべて捨象しなければならないという意味である。
<(p.263-264, 第二部)

ヘーゲルは唯一神の「人格神」性をほぼ否定してるようだ。

JRF2024/12/77890

……。

>魂は不死であり、死後もなお存続するが、しかしいつも[精神とは]別の感覚的な仕方で知られる。このような表象が輪廻である。魂は神と同じように、自己のうちにあるものとして抽象的にとらえられるから、魂が死後にどのような感覚的な形態に移るのか -- それが人間の形をとるのか、それとも動物の形をとるのか -- はどうでもよい。<(p.266, 第二部)

JRF2024/12/78510

スピノザにおける魂の不死性は、無限論理延長に自らが参与するものだった(と思う)。ヘーゲルの発展は、スピノザに捨象された個別性も無限論理延長に連なるとすれば、役割のある客体は無限に存在しつづける、そういう形の不死性もある、ということだろう。(人々にとって・理性的存在にとって)意味のある客体でさえあればいいので、それが自然の中でどのような形を取ろうが、人間だろうが、動物だろうが、どうでもよい。…と私の言葉で表せばそうなるのだろうか。

JRF2024/12/72020

私は「有神論の基本定理」において、因果応報を重視した。しかし、ヘーゲルを筆頭に因果応報という言葉は使わない。しかし、上で「客体」は因果応報の客体的であるから、私はそういう言葉を使った。ただ、私も「有神論の基本定理」の因果応報はそのまま本人の魂に帰る形ではないように説いている。その屈折が、「動物などへの輪廻」性と解釈できる…ということかもしれない。

JRF2024/12/72330

……。

ダライ・ラマのような人を神とするのを例に…

>「そんな宗教はまったくばかげた非合理なものだ」と言うのは簡単だ。難しいのはそのような宗教の必然性と真理を認識し、その必然性と真理が理性と結びついていることを認識することだ。そのことは、或るものを意味がないと宣言することよりも難しい。

* われわれがさまざまな宗教を考察するにあたっては、それらがばかげた非合理なものだけではないことを洞察しなければならない。
<(p.267, 第二部)

JRF2024/12/73156

この点は、『宗教学雑考集』の論旨の進め方に似ている。宗教は非合理と思われがちだが、人が広く信じているのだから、必ず何がしかの合理性があると信頼して、その根拠を探すべきだと私も考える。もちろん、本当の理由にたどりつかず、見当違いの推論をしている可能性は排除しない。しかし、野蛮だから単に非合理なのだというは、必ず間違いだと私は思う。

また、この点、ヘーゲルが、なぜ「見当違いの推論」をしばしばしながら、保守派・右翼に重視されるかもわかる。ヘーゲルは、保守的な信念について、近代的な解釈の可能性を拓いてみせた…そこが貴重だったのだろう。

JRF2024/12/73714

ただし、これがカントなどのドイツ観念論(参: [cocolog:95043079](2024年9月))における、自然などに(演繹的に)法則を押し付けていくという方向性と合わさると、西洋の定義に沿うように、現地文化が変えられてしまう危険はあるとは思う。

JRF2024/12/74226

……。

>例えば、人間は血液循環を自分で意志するわけでもないし、血液が循環するように指令を出しているわけでもない。でも人間はちゃんと血液を循環させている。しかもそれは彼の行為である。彼の有機組織[からだ]のなかで生じていることを行い働かせる力は彼自身なのだ。このように意識することなく働く理性、あるいは意識されることのない理性的な働き、つまり自然の働き、これを古代人はヌース(…)と名づけた。アナクサゴラスは「ヌースが世界を統治する」と言った。この理性はしかし意識的な理性ではない。近年の哲学はこの理性の働きを直観とも呼んだ。<(p.269, 第二部)

JRF2024/12/70345

上で「ヌース」が、ヘーゲルを読むと「総体として生きたい」に近いのに Wikipedia によると「ヌース」は「理性」に近いように説明している謎が、ここで解けた。

JRF2024/12/76735

……。

>西洋においては、個別性が主要な規定であって、個別的なものこそが自立的である。東洋的な意識では、普遍的なものが真に自立的なものであるというのが主要な規定であるが、われわれ西洋の意識では、事物と人間の個別性が上位に立つ。<(p.270, 第二部)

そうなんだね。「我思うゆえにありうるのは我々までである」とか言っちゃう私は、その時点で、東洋思想家になるんだろうね。

JRF2024/12/71125

……。

「生き神・現人神」を合理的に解釈していくその立場において…、

>この立場は、普遍的な実体性を現実的な形態において含んでいる。そこにある考えは、ひとりの人間が瞑想するなかで、すなわち自己と関わり自己へと沈潜するなかで、普遍的な実体であるということだ。ただし、彼がたんに生き生きとした状態にあるというだけではなく、ヌースは中心として立てられているけれども、彼のなかのヌースは、彼の特質と発展のなかで自覚されているわけではない。

JRF2024/12/70135

ヌースのこうした実体性、一個人のなかで想い浮かべられたこの深まりは、王国の行政を意識のなかに思い描いている王の瞑想ではない。このような自己沈潜、この抽象的な思考それ自体が活動的な実態なのであり、世界を創造し維持するものだと考えられている。

これが仏教とラマ教[チベット仏教]の立場である。
<(p.276, 第二部)

JRF2024/12/70519

自己沈潜においては、「生きたい」というヌースをも通り過ぎ、宇宙の理法にまで沈潜する。そうした者がしかし、人間として生きている。それは一つの「弁証法」である。…ヘーゲルは、そういう「弁証法」に無限(私のいうところの無際限)が現れるとしたのではなかったか?

JRF2024/12/71920

>ダライ・ラマなら多数いる。けれども、この精神的な働きは精神的な形式をみずからの特定されたあり方や形態としているにもかかわらず、その働きは実体の働きにすぎず、意識的な働きや意識的な意志ではない。<(p.277, 第二部)

「弁証法」は理性によってなされねばならない。だから、仏教・ラマ教的な無意識を使役するような「弁証法」は否定される。…ということなのだろう。

上で述べた、哲学が引き継いだ神学の論理的優越性に基づく主張だと思う。

JRF2024/12/77391

……。

ヒンドゥー教に話が移る。

ブラフマーという汎神論的一者があるのはヘーゲルは評価する。ただ、それは多神教の実体に分かれている。

>実体はまだ精神的ではない。もろもろの威力もまだ精神の外に設定されていもいない。もろもろの威力はまだ分析的な知性でもって考察されていないし、美的な想像による形象でもなく、たんに空想的なものにすぎない。<(p.284, 第二部)

JRF2024/12/71280

インドの多神教の不思議な絵画性は、自己沈潜したところの眼で見るような、無意識に訴える形なのだと思う。無意識を子らに引き継いでいくことを重視しているのではないか。

おそらくそこへは文字文化・司書文化への不信もあるのだと思う。過去に文字の弾圧があったのか、逆に文字さえ残ればいいとして生きる者が弾圧されたのか…よくわからないが。

JRF2024/12/76649

>ここインドではしかし、純然たる存在はまだ自己のうちにあるもののなかに集中している。思考はまだ思考全体に浸透していない。思考が一般的なものとなった散文世界で初めて、一般的な事柄について語られる。<(p.285, 第二部)

ヒトラーが画家であったことを思い出す。無意識を単純にコントロールしようとするのもいけないのではないか。表層的な無意識は深層的な無意識と違い(イド? エス?)、伝統や生物性に根拠をもつ深層的無意識はそれと「語る」ぐらいに留めないとまずいのかもしれない。その辺、ドイツのヘーゲルの伝統は、踏み外しがあったのではないか。

JRF2024/12/73590

……。

多神教でもギリシャのような美の様式でとらえられるものは違うのだという。

JRF2024/12/73894

>感覚でとらえられるようにみずからを外へと表し、感覚的な具体的な存在のなかに自身を示すような精神的なもの、しかしこの感覚的な具体的な存在に精神的なものが徹頭徹尾浸透して、感覚的なものがそれだけで在るのではなく、一貫して精神的なもののなかでのみ精神的なものによってのみ意味をもち、かくして精神的なものの徴[しるし]である。そのような精神的なもの、これが美である。感覚的なものがそれだけで存在するのではなく、それ自身を示すのでもなく、それ自身とは別のもの、自分自身とは別の何かを表現する。これが真実の美というものだ。

JRF2024/12/79098

生きた人間、生きた人間の顔には多くの外面的な作用が現れ、それらが身体的な感覚的なものを精神的なもののもとへ包摂してしまうのをくい止めている。このような[美的形態に見られる]関係はここ[インドの宗教]にはまだ現れていない。
<(p.286-287, 第二部)

病がないこと以外は平均的で特徴のない顔が美しい顔とされる…と以前どこかで読んだ気がする。ある意味それは抽象的な人間を示すのだろう。

JRF2024/12/71569

ただ、ギリシャ彫刻に見られるように、それを精巧に表現できるというのは、特別な観察眼が必要なように思う。ギリシャ彫刻の影響を受けたガンダーラの苦行する仏の仏像を思い出す。そこには死を賭する者、または死体への超然と向き合う態度があり、それは生きて無意識を感じることを重視する者には、抵抗ある態度のように思う。

その超然性は、ひょっとすると通貨の偽造と関係があるのかもしれない。

以前↓とつぶやいた。

JRF2024/12/70033

[cocolog:93181265](2021年12月)
>絵描きの賃金が安くてもやっていけるのは、贋札の論理があるから…みたいに私は邪推している。偽札まではいかなくとも絵画の贋作等で画商などの投資があり稼げるみたいな面があるのではないか。それが、NFT に変わる感じなのだろうか。<

それは実は以前の↓を受けていた。

《デジタル著作権の報酬請求権化に向けて - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2007/11/post_4.html

JRF2024/12/76601

>紙幣制度を維持するためには印刷工場をおさえられないといけない。ニセの版による「出版物」が出たとき報酬請求権があるとか悠長なことはいってられない。結局、独占権は必要とされるのだから、民間でもそれを認めてお互い監視させたほうがいいということになる。そういや最近紙幣に載せられるホログラムってDVDやCDのデータ面みたいな感じだよね……。<

JRF2024/12/78204

美術的精巧さがもっとも求められるのが、通貨の偽造、または贋作である。特に通貨の偽造の場合、血腥く守られる国家の主権をないがしろにすることになる。そこにはそれを悟らせない超然とした態度が必要になる。その超然さが、ギリシャの美にはあるのではないかと邪推する。

逆にインドの多神教…『宗教学雑考集』《ガネーシャ》で書いたように特に焼身自殺を称揚する法華経の仏教を「超えた」ヒンドゥー教…はそこまで習熟することを許さないという気概があるのかもしれない。

JRF2024/12/71586

……。

>トリムールティとは三つの本質実在である。(…)三一性(トリアス)(…)。<(p.290, 第二部)

三位一体については…[aboutme:104131](2009年06月27日)に「間接侵害の和解と「三位一体」説」があるが、これは三位一体論とはまた違うな。三位一体の聖霊論…ということだと『宗教学雑考集』《聖霊と撤退する愛》みたいなものも書いてるが…。あまりズバリの(神学)論考を書いてこなかったな…。まぁ、マクグラス『キリスト教神学入門』とか神学の入門書に書いていて、それ以上の何か変わったことは語れない、部分的に語れる部分は、先の聖霊論とかで語っている…という感じかな。

JRF2024/12/77538

三つで一つという構図自体は、『「シミュレーション仏教」の試み』の本目的三条件とか、↓の「分業・信用・保険」の三つ組で進めている論理とか、私は頻出させるのだけど。

《なぜ人を殺してはいけないのか - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

JRF2024/12/72181

……。

>義務や権利は思考のなかにのみある。これらの諸規定が普遍性の形式で立てられると、意識的な真理と洞察という点で理性的であり、また意志に関しても理性的である。けれどもブラフマンというあの〈一なるもの〉、あのような孤独な一体性(統一)はそのような具体的な統一とはならず、理性、合理性とはならない。それゆえ、ここでもまた、いかなる権利もいかなる義務も現存しない。というのも、意志と精神の自由は、規定のなかにあっても自身のもとにとどまることにほかならないからである。しかしこの自身のもとにとどまること、この統一はここでは抽象的で規定を欠いている。<(p.305, 第二部)

JRF2024/12/74242

ブラフマンと一体化することは、尊敬を求めることでもないのだから、ただ社会から超然とすることである。そこには社会に対する無責任がある。…ということだろう。ただ、権利と義務の思想は、「死ねばいい」…死以上の罰のない思想である。株式会社の有限責任に似て、それは、しかし、それで負えない責任をどうするのか…という問題はあるように思う。

負えない責任について、転生を信じさせる構図はあるのかもしれない。「最後の審判」は革命を志向させがちだが「転生」は、ゆっくりとした改革を求める傾向にある。

JRF2024/12/71593

『宗教学雑考集 第0.8版』《阿弥陀仏と最後の審判》
>「最後の審判」とは、神が歴史に突然現れ、そこで歴史が終了し、その最後において人々が復活して審判を受けさせられ、悪い者は地獄に落ちるという宗教思想で、「転生」という考え方とは基本的に対立するものである。「転生」がある身分に生まれたのを、前世によって説明することで、身分を固定しがちなのを、「最後の審判」は否定し、やや革命を是認する思想になる。「転生」には、もう一度生きたいと願うような世界を志向させる効果もあるが、素の「最後の審判」だと摂理にそういう動機付けはなく世界を良くするのは神の命令に頼りがちとなる。<

JRF2024/12/79893

……。

ゾロアスター教とエジプトの宗教に移る。ただし↓はインドの宗教について。

>先行する宗教形態(インドの宗教)における肯定的な連関、あるときは自己への純粋な沈潜のなかにのみ見られ、そのなかで主体は「われはブラフマンである」と言う。けれどもこれは絶対的で抽象的な連関であって、精神がもつあらゆる具体的な現実をあいまいに放棄してしまうことによってのみ成り立つ。つまり否定によってのみ成り立つ。無限なものと有限なものとの肯定的な連関は一本の純粋な糸である。さもなくば、その連関は抽象的で否定的な連関となって、[有限な主体の自己]犠牲や自死となってしまうであろう。<(p.320, 第二部)

JRF2024/12/79032

人身供御がないのはいいが、自死もいけないということだろう。「最後の審判」が求める革命を目指さないということは、究極的には、現在の自己を否定するところに追い込まれることを受け容れることだ…ということであろう。自殺も超然と見殺しにされたら、抗議の意味もないではないか…と。日本では自殺で政治的事件が幕引きされることがしばしばあるが、それは人を殺すインセンティブになるだけだ…と私も思う。自殺があればさらに追い込め…とは日本はしないようだ。

似たことは↓でも考えた。

JRF2024/12/79951

[aboutme:122258](2010年04月)
>だが、「自殺」に追い込むだけの力を「敵」に「私」も許している状況でそれを行うのは、「私」に対して憎しみを募らせるだけに終ると考えたほうが良いのかもしれない。<

keyword: 自殺

JRF2024/12/74617

……。

>「〜すべし (Sollen)」というのは、みずからを貫徹できない力であり、弱いもの、無力なものだ。<(p.321, 第二部)

ポパー『開かれた社会とその敵』を読んだとき([cocolog:94937590](2024年7月))、ポパーが「〈存在〉と〈当為〉の二元論を信じている」というのに対し、過去の「ひとこと」などから sein(ある) から sollen(すべき) は出ることがあると説明し、「道徳とは何か」を論じた。『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』に《存在と当為、そして道徳》として載せるつもりである。

JRF2024/12/76278

……。

ゾロアスター教(パーシー教)では…

>生きとし生けるすべてのものが崇拝される。太陽も星も樹も善なるものとして崇拝される。けれども、それらにおける善、ないしは、そのなかの光だけが崇拝されるのであって、それの特殊的な形態やうつろいゆく有限なあり方が崇拝されるのではない。<(p.326, 第二部)

この「光」を「普遍性」とすれば、キリスト教に近付く…という評価のようだ。

JRF2024/12/73815

……。

>インドの神話には多くの化身が見られた。例えばヴィシュヌは世界の歴史であって、いまでは第十一ないしは十二番目の化身である。同じように、ダライ・ラマもブッダも、また自然神であるインドラさえも死ぬ。その他の神々も死んで、そして再来する。けれどもこの死ぬということは、ここで話題にしている否定性とは異なる。というのは、ここでの否定性は主体に属するからだ。<(p.334, 第二部)

JRF2024/12/71779

神の死と復活にヘーゲルは意義を認める。おそらくそこには最後の審判が関係している。上で『宗教学雑考集 第0.8版』《阿弥陀仏と最後の審判》を引用し、最後の審判は、革命的であることを言った。同時にそれは「その生で答えを出す」ことを強く求めるものだ。これが「その生」たる「主体性」の強調とヘーゲルではなっているのだろう。

JRF2024/12/79705

上の『宗教学雑考集 第0.8版』《コラム シミュレーション・キリスト教?》で、神のたった一回の「転生」が真の救世主であるために必要とされたのだと述べた。その「救い」は、ヘーゲルにおいてはどこに現れているか?

JRF2024/12/73368

それはおそらく神たるイエスがほぼ無為に(救世主として期待されたことをほとんどできずに)死んだことで、「その生で答えを出す」ことがほとんどできない一般人にも救いがあることを示したという評価があるのだろう。それは無為であることが良いということではもちろんない。価値があるのは実存…生き方や人生の運不運…ではなく、普遍性に接続されていること…それだけが救いに関係している…。つまり、「普遍性に接続すること」=「権利と義務に生きること」が人に求められている。…というのがヘーゲルの理論なのではないかと私は思う。

JRF2024/12/73818

……。

オシリスの神話…。

>ナイルや季節のめぐりは直接的に現存するものであるけれども、それら自然の歴史は表象のなかで主体として綜括される。このように綜括された存在、一個の主体としてのこうした経過、そして主体そのものは、それ自身においては、このような還帰する運動である。こうした円環が主体であり、綜括されたものである。それは表象であり、しかも主体として直観されるものでなければならない。<(p.346, 第二部)

JRF2024/12/77191

驚いたことに輪廻転生的な「円環」のイメージをヘーゲルは肯定する。これは何なのか? 後に、ニーチェの永劫回帰に致る思想であるとは思うけど…。

ピラミッドの造成において…

>一国民の全体があのようにとてつもない労働に精を出したが、それはまだ端的に純粋な美的な芸術ではなく、美的な芸術へ向かおうとする衝動であった。<(p.347, 第二部)

上でギリシャ的な美と通貨の偽造を私は結び付けた。さらに最近↓のようなことを書いた。

JRF2024/12/77710

[cocolog:95165865](2024年11月30日)
>金融事象から経済を見た場合、銀行 X が、A に貸し出した金で Z から仕入れしたとき、それが X に預金されれば、次の日には、それを貸し出せる。それを貸し出した者 B が、A から全額買えば、A はその金でまた Z から仕入れでき、Z は X に預金ができる。こうしていくと次々に経済を成長させることができる。この図が最初のものである。

JRF2024/12/75714

ここでは給与を考えてなかったが、給与を考えると、給与は消費と預金だけに分けられるとする。銀行に預金はいくのでそれは経済に戻される。消費も経済に戻る。給与と消費の差額は、銀行によって経済に戻る。よって、最初の図から何の変更もない。

銀行は利子を取るとする。しかし、利子は銀行員の給与に化けるとする。ここでも給与は消費と預金だけに分けられるとする。そのうち、消費は経済に戻るからよいとする。次に預金は 1/4 なされるとする。しかし、1/4 分は再び給与になるとする、それが無限に続くとすると、結局、等比級数の和を計算することになり、結局全額が消費になるとして良い。結局最初の図に戻る。

JRF2024/12/75230

すると経済は無限に成長できるようになるが、これを制限するのが、法定準備金の制度である。再貸出を制限するのだ。これで昔はコントロールされていた。


ねずみ講・ポンジスキーム…そういった認められない商法もあるが、株式や銀行のような制度も同様に「ペテンに近い」という思いは、ヘーゲルのころにはあったのではないか。しかし、その「円環」商法が、経済を支え、文化を支えている…ということなのではないか。

JRF2024/12/74340

そういえば、昔の私は、釈尊が仏教を開いたのに、経済的発展をその理由の一つとしたのだった。仏教の成立にいたるまでに経済的発展があり、「転生」という円環概念がそもそも経済活動の一側面に影響を受けていた可能性はあるのかもしれない。(もっと大元をたどれば、経済は季節の循環に影響を受けている…ということかもしれないが。でも、インドはあまり季節のないところで、経済の円環のほうが概念として強かったかもしれない…。)

まぁ、プラグマティズム(実用主義)的な考えに傾き過ぎかもしれないが。

JRF2024/12/76204

……。

>あるきわめて重要で驚嘆すべき神話によれば、スフィンクスはひとりのギリシャ人[オイディプス]によって殺され、[朝は四本足で歩き、昼は二本足で歩き、夜は三本足で歩くものは何かという]謎がこう解かれた。「その中身は人間であり、自身を知る自由な精神である」と。<(p.351, 第二部)

スフィンクスについてはヘーゲルは自己の哲学に寄せた解釈をしているが、私もある種「行き過ぎた」解釈を持っている。

JRF2024/12/76041

『宗教学雑考集 第0.8版』《キメラ》
>ところで、スフィンクスについては、一つのなぞなぞがよく知られている。それは、「朝は 4本足、昼は 2本足、夜は 3本足。これは何か」という問題である。答えは「人間」である。

すなわち、このキメラ動物は、この謎によって対峙する者にこう答えているのである。

「人間こそ道具を使うキメラ動物ではないか。人間という種が道具を使うに至るまでに長い時間が必要だったのではないか。」

「長い時間」というのは、進化に関わるほどの長い時間である。人の一生を一日で表す考え方の背後には、人の種が経た長い時間への示唆が隠れている。

JRF2024/12/70767

……。

ギリシャの宗教に移る。

>ギリシャ人の宗教は汲めども尽きぬ題材である。とりわけわれわれの心をとらえる内容は、この宗教が人間性にもとづく宗教であるということだ。人間はみずからの正当な権利を得て、みずからを肯定するにいたり、そのなかで人間の具体的な姿が神々として描かれる。ギリシャの神々のなかには、本質的に人間に知られていないような内容はなにもない。<(p.357, 第二部)

JRF2024/12/78736

ギリシャ人は、経済・戦争をも無意識のものではなく、意識的な理性のもとにおいた…ということではないか。それは偽造=シミュレーションを精巧に行ったからではないだろうか。

『宗教学雑考集 第0.8版』《売春と貨幣》で貨幣を作ったリュディアには、ゲームがあったことを述べた。ギリシャは、それを引き継いだが、娯楽のゲームではなく、それをシミュレーションに高めたのだろう。

JRF2024/12/70314

そこでは神々がゲームのコマである。そして神話によってシミュレーションがなされたのであろう。現代のカードゲームが、そのときどきに物語をつむぐように、大きな物語としての神話がありながら、この具体的な力・抽象的な力を持つ神ならこうするといったシミュレーションがあったのではないか。

JRF2024/12/75949

……。

>倫理的共同体[ポリス]<(p.358, 第二部)

神々のアリーナの現実への適用が、倫理的共同体(倫理的共同態)だったのだろう。

JRF2024/12/78608

……。

>神々、とくにその頂点に立つゼウスは、戦争や暴力によって自分たちの支配を確立した。精神的な原理が巨人族、ティタン[ギリシャ神話のなかで最も古い神々]を王座から突き落とした。たんなる自然的な威力が精神的なものによって打ち負かされたのだ。精神的なものが自然的な威力を凌駕して、いまや世界を支配している。<(p.361, 第二部)

自然もシミュレートできるとしたということだろう。なかなか大層なことだが。しかし、そこまで大層なことが破綻しないようにするには、偶然性を導入するしかない。そのあたりが「運命」の起源か。

JRF2024/12/78992

「運命」とは、ゲーム(シミュレーション)において、偶然が定めたルールにしたがうこと…ではないか。

JRF2024/12/70584

……。

>[次に、盲目の必然性[さだめ]に対する]有限な自己意識の心構えの状態について述べる。神も人間も含めて、あらゆるものがこの必然性[さだめ]に服している。それは一面では鉄の威力であり、他面では自由なき盲目の服従である。それでも、少なくとも自由の形式はまだ現存している。しかも心構えの面において現存している。ギリシャ人は運命の定めを受けいれ、自分にこう言い聞かせることで心の平静を保っていた。「見てのとおりさ。どうしようもない。我慢して受けいれるしかないのさ」と。

JRF2024/12/79263

そこには「私は受けいれる(気に入っている es gefällt mir)」ということがある。したがって、この事態が私のものであるということのなかに、自由がある。
<(p.370, 第二部)

上でキリストという救世主の救いは「「その生で答えを出す」ことがほとんどできない一般人にも救いがある」と述べたが、その「「その生で答えを出す」ことがほとんどできない」に、「どうしようもない。」が対応しており、そこをヘーゲルは評価するのだろう。

JRF2024/12/79437

……。

>神々の形態を産み出したのは人間の精神なのだということを、ギリシャ人たちは意識していた。<(p.378, 第二部)

無意識を描いたのではない。…と、あくまで理性でわかろうとした。…ということだろう。

JRF2024/12/74885

……。

神々を「使う」とき…

>内面的な[心理]に対しても同じように一つの形態が与えられる。[例えば]アキレスが自身の怒りを抑える。この内面の思慮深さ・怒りの抑制を詩人はパラスの行為として、「パラスがアキレスを制した」と言い表す。われわれならば、物理学と心理学とではまったく別の説明の仕方をする。ギリシャでは、説明するとは事態を髣髴と意識させることなのだ。それは事態に対して一つのイメージとして形態が与えられることによって生じる。<(p.379, 第二部)

JRF2024/12/78242

かつては神々というコマを用いてシミュレーションするしかなかったが、ヘーゲルの時代には、「概念」を使ってシミュレーションできるところに優位性がある。…ということだろうか。

JRF2024/12/78644

……。

>自由がギリシャ人の祭祀を明朗なものにしている。祭祀のなかで称えられるのは神の名誉であるけれども、神への崇拝は人間自身の自己崇拝となり、人間は自分が神々と肯定的な関係を保ち神々と一体だという意識をもつようになる。人間が奉[たてまつ]っているのは自分たちの名誉(…主観性…)なのだ。<(p.383, 第二部)

>この宗教は一般に絶対的な明るさという性格をもっている。<(p.384, 第二部)

おどろおどろしい無意識に頼らない明るさ…か。

JRF2024/12/75951

……。

>ギリシャ人は、われわれが自由であるのと同じ意味で、彼らの自己意識のなかで自由なのではなかった。彼らは外から自分が決定されることを許したのだから。<(p.390, 第二部)

ギリシャ人はクジで公職者を選ぶこともあったという。シミュレーションにサイコロを使うだけでなく、神託というサイコロで、自らの行動も決めた。理性でシミュレーションしきれないところを偶然のルール=運命に委ねたということか。

JRF2024/12/75733

……。

ユダヤ教に移る。

>ギリシャではまだ純粋な思想が地盤とはなっていなかった。この点に[ギリシャの]美の宗教から[ユダヤの]崇高の宗教へと高まる必然性がある。すなわち、もろもろの特殊的で共同体的威力[ギリシャの神々]が、一つの精神的な統一[ユダヤの唯一神]へと統合される必要がある。特殊なものの真実は普遍的な統一(単一)性にある。<(p.393, 第二部)

私の「有神論の基本定理」では、唯一性までは求めない。

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《律法や戒律による救い》
>《有神論の基本定理》は「神を愛し隣人を愛する」に近いとは主張する。

JRF2024/12/74764

(…)

《有神論の基本定理》の神は服従までは求めていないと言える。スピノザは服従を求める神が、唯一性や遍在性を満たすという。しかし、スピノザがここでいう神は、服従を求めるからこそ、他に邪魔されずに頼れる保証であるところの唯一性を求めるのだろう。また、同様に、すべてを今監視し今介入できるほうが強いとなって遍在性を求めることになるのだろう。逆に、服従を求めない《有神論の基本定理》の神は、唯一性や遍在性は不明であることができる。


ただ、『宗教学雑考集』はそれとは別に、唯一神的な神も論じる。

JRF2024/12/75469

……。

>このユダヤ教で重要な点は、絶対的な威力が具体的で、それ自身のうちで明確に規定されているということだ。そのような場合に絶対的な威力は絶対的な知恵である。<(p.394, 第二部)

前回([cocolog:95158388](2024年11月))にも語った『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《神の全知全能性》では、全知性は至善性といっしょに、神がすべての法(何が善いか)を決めれるのだから至善で、そして裁くためには全知(何をやったかを知る)でなければならないから全知だとしたのだった。そこには法的絶対権力がある。

JRF2024/12/79997

……。

>神の主観性の真理は人間に対する動物の関係のようなものでもない。<(p.394-395, 第二部)

(どこかに書いたはずだが見当らない…。)

>神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 <(創世記1:28)

…とあるが、神が人を支配するように動物などを支配すべきなのであって、それは動物を人間のエゴで使っていいと解釈するのは、僭越に過ぎるだろう…と私は考える。ヘーゲルには賛成しない。

↓には私のその思想の痕跡はある。

JRF2024/12/76312

《『創世記』ひろい読み - 神の像・似像 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_1.html
>01:26 神は言った。「我々は、人に我々(の存在)を想わせる映しをさせ、我々の(行いの)まねをさせよう。そして彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地にあるすべてと、地の中から出て忍びよるものすべてを(神が支配するように)支配させよう。」<

JRF2024/12/74610

……。

>神は自身を自身から解き放し、自身の内容である絶対的な主体性という特性を、自身が絶対的に一つであるということからも解放する。(…)そこに有限性の総体である世界が存在する。このように存在するということが[神の]自愛[によること]なのだ。

これとは対照的に、[神の]義は、有限なものがむなしく観念的であることを顕わにし、有限な存在は真に自立的ではないということを顕わにする。このように[神が]威力として顕現することが有限な諸事物に権利を授ける。
<(p.401, 第二部)

JRF2024/12/76613

カントなどのドイツ観念論(参: [cocolog:95043079](2024年9月))における、自然などに(演繹的に)法則を押し付けていくという方向性を上で述べたが、人の属す精神は普遍界であって、そこは演繹的な世界で、認識は自然に押し付けられる。自然は人間の有限な演繹的思考に決して収まるものではないが、人間の法的関係は、そこを無理矢理収めていくしかない。そうやって収めてしまうから、権利・義務が厳密に成立する。…ということではないかとここの「神の義」を解釈した。

JRF2024/12/78594

……。

ユダヤ教においては自然的なものは神的なものからほぼ完全に切り離される。そこに自然を論理的に解釈する「自然法則」的な考えが成立する。

>それゆえここで初めて、事物の自然的な連関に反する「奇蹟」という規定が現れうる。<(p.404, 第二部)

なお、スピノザ『神学・政治論』([cocolog:95139839](2024年11月))では、あくまで「奇跡」は自然的光明により説明できる自然の法則によるものだとかたくなに主張されていた。

JRF2024/12/78176

……。

>人間は神との関係のなかで、神の栄誉のために義しいことを行う。<(p.408, 第二部)

ユダヤ教の神は崇高(erhaben)だという。「神は暴君」的解釈に傾いているということだろうか。

JRF2024/12/71914

《神は至善か、暴君か - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html
>神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。<

JRF2024/12/74495

……。

ユダヤ教では…

>義しいことを行った者は幸福な境遇に恵まれるべきだという明確な要求があらわれてきている。<(p.409, 第二部)

上でヘーゲルのキリスト教では「「普遍性に接続すること」=「権利と義務に生きること」が人に求められている」と私は書いた。しかし、権利と義務に生きるとき、そこには平等のシステムが機能していて、幸福な境遇に通常はめぐまれる…ということも前提されているのだろう。「どうしようもない」人生とはかなり違う。…と。

JRF2024/12/71836

……。

ユダヤ教の制約には選民思想がある。ただ、それはキリスト教も少しはある。そして…

>ところがユダヤ教にはもっと別の制約もある。つまり目的がまだ抽象的であるため、結果として、宗教固有のものとして妥当している掟、および祭祀にかんする掟がたんに神によって与えられたものとして現れ、指示された不変なもの、永遠に固定されたものとしてのみ現れる。<(p.415, 第二部)

この辺はスピノザの「モーセ五書の律法は当時のヘブライ国家のみ適用する」みたいな考えに連なるところだね。

JRF2024/12/73099

……。

ローマの宗教。目的に合わせた宗教とヘーゲルはする。

>これがローマの宗教の根本特徴である。ここで神々の内容を与えるものはさまざまな卑俗な欲求[生活上の必要]である。そこには多くのきわめて散文的な神々がある。これら神々の内容は実用的な功利性である。神々は実用的な効用に役立つ。<(p.430, 第二部)

私は上で私の解釈がプラグマティズム(実用主義)に冒されているかのようなことを書いた。ただ、それは具体物の功利性を重視しているというよりは、概念の実用的基盤に注目しているので、そこはローマの考え方とは違う。

JRF2024/12/70676

しかし、私のこの実用主義的態度は、「現代のローマ」であるところのアメリカの思想の影響を強く受けているのかもしれない。戦後日本にアメリカの影響は強かったから、それが私に及んでいるのかもしれない。

JRF2024/12/73809

……。

第三部に移る。ここでは、各宗教を論じた第二部が終って、いよいよ「完成された宗教」であるキリスト教が語られる。ただし、それは哲学を通して見たキリスト教である。

>現代の神学は哲学を敵視することで、三位一体説などキリスト教の根本教義の多くを消し去ろうとしている。キリスト教の根本真理はこれからは哲学のなかで保持されていく。その意味で、いま哲学こそがもっとも正統的なのだ。<(p.441, 第三部)

JRF2024/12/79888

……。

>宗教も、その教義の全内容にかんしては、実定的なものとして現れる。けれども宗教はいつまでも実定的なものにとどまっていてはならない。宗教はたんなる表象や記憶の事柄であってはならないのだ。<(p.448, 第三部)

犯罪が罰せられるのが理にかなっているというとき、実定法が、本質的なものとなる。律法も文字そのもので信じる場合は実定的な宗教を信じているに過ぎず、そうではなく思考によって本質的なところを得なければならない。…ということのようだ。

ところで「実定的」とは何ぞや?

JRF2024/12/71712

《法の存在論的構造と実定性 - 中村雄二郎》
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1973/0/1973_0_71/_pdf/-char/ja
>ヘーゲルの場合には、「実定的」(実証的)という言葉は、「自然的と対立し、制度としてうち立てられたもの」(意志によって設定、定立されたもの)と、「経験によって精神に課せられたもの」との両方の意味を持ちつつ、「事実的」、「現実的」という意味とも結びついていた。<

JRF2024/12/78413

……。

>しばしば信仰を思考に対置してこう言われることがある。人間は神や宗教の真理について思考という様式以外のもので確信することはできない、と。しかしながら精神の証言は多種多様でありうるので、すべての人間に対して真理が哲学的な方法でもたらされることを求める必要はない。人間のさまざまな欲求はその人の教養の程度や精神の自由な発達の度合いによって異なるので、権威に基づく信仰の立場もこの発達の度合いに対応する。この度合いに応じて奇蹟も入り込む余地がある。[精神の発達に応じて]奇蹟が最小限に切り縮められ聖書が物語る奇跡に限定されるのは興味深いことだ。<(p.452, 第三部)

JRF2024/12/76519

スピノザも理性で神を知る以外に信仰で知ることの救いを認めていた。ヘーゲルもだいたいそのようだ。

JRF2024/12/74020

……。

>精神は本質実在であるが、自分自身から出て自分自身へと立ち還るかぎりでのみ精神である。<(p.468, 第三部)

上で私は精神の円環と、経済を結び付けた。そういった大きな経済が精神のうちにある…または、集合的無意識に広がって、外も含めてある…それがヘーゲルにおける「「無限論理延長」への接続」的な考えなのかもしれない。

JRF2024/12/72461

ただ、経済はとても大きなものだが、しかし、無限ではない。ここを無限と考えるのは、もしかすると、経済よりも物理の世界を想像しているのかもしれない。原子や素粒子も超え、相互作用が無限に起こっている…そこに物質性が成立している。そういうものとして、精神は「物質的に」成立している…と考えているのかもしれない。もちろん、物質ではないが。

>概念は、この円環を通じてみずからを特定しこの円環を通過した場合にのみ、精神である。そのようにして初めて精神は具体的なものとなる。<(p.469, 第三部)

JRF2024/12/78744

「具体的」というのを上の「物質的」と読むのはあながち間違っていないのかも。

JRF2024/12/70475

……。

>神はさまざまな性質どうしの矛盾を解消する。それは抽象的にではなく、具体的な仕方で解消する。それが生きた神というものだ。<(p.472, 第三部)

私は神の「人格神」性を強く認め、「神が悩む」こともあると考えがちなのだが、ヘーゲルの「生きた神」性は、(政治的な)事件が起こり、それが法を弁証法に変えていく過程などを想像しているのかもしれない。「生きた神」性は、例えば、直近の韓国の非常戒厳令をめぐる情勢などに現れるなどとするのだろう。

JRF2024/12/70413

……。

神に対する主体のかかわり方の三つの様式…

>A 第一の場 -- 思想という普遍性の場にある神

B 第二の場 -- 感覚的な直観と表象という特殊性の場に現れた神

C 第三の場 -- 情感という個別性の場に現れた神
<(p.442, 第三部)

これらがそれぞれ父、子、聖霊の三位一体に割り当てられるらしい。

父は「最後の審判の神」として主体性をもたらし、子は「救世主」として権利・義務などをもたらすと私は考えた。

JRF2024/12/79135

残るは、聖霊だが、割り当てられてない中で、残っているのは、円環性、共同倫理体性である。円環は経済的であるというのが私の見立てだった。共同倫理体というのは国家であろう。それと上の「物質的」経済という洞察を合わせると、国家の有機的身体性…国体こそが、聖霊に相当するものよりもたらされる…と考えるべき…ということだろうか。

ヘーゲル自体は、国家よりも教団を聖霊に割り当てるという文は出てくるのだが…。それは教団的なものと権利・義務と主体性、すべてが揃うのが国家・国体ということだから、聖霊にはまず教団を割り当て、三位一体が揃って国家としたということだろうか?

JRF2024/12/75206

……。

「A 第一の場 -- 神の理念そのもの」の章は、とても難しくて理解できなかった。悪い意味で「哲学的」で、具体例なく進むから、「何言ってるかちょっとわかりません(チョットではない)」になる。もちろん、ちゃんと読める人は読めてる(訳者は少なくとも読めてる)ので、私の無能の証拠がまた積み上がったということであろうが…。

そんな中で、読んだあとから章の概要に戻って、自分の論に引き寄せて考えてみる。

>区別を立てながらそれを絶対的に撤廃する理念の運動<(p.477, 第三部)

JRF2024/12/75388

区別と撤廃がよくわからない。どうも、三位一体の三位に分けるのも区別で、そういう「三位一体」的なものはいろいろあるという話も少しあるようだ。

そこから考えると、私の場合、上で紹介した《なぜ人を殺してはいけないのか - JRF の私見:税・経済・法》の「分業・信用・保険」の三つ組が「区別」なのかなと思う。そして、区別の撤廃が、「なぜ人を殺してはいけないか」で、それが「理念」になるのかな…と思う。

「固定的な知」では分業・信用・保険が別々の概念として交わらないが、「弁証法的な知」では、それが動的に絡み合い、「なぜ人を殺してはいけないか」を構成していく…と。

JRF2024/12/79729

ただ、どうもここで「理念」というのは、神そのもののようにも読める文脈があり、上のものは、その一つの例化的なものなのかな…とも思う。

>第一の場では、永遠の理念のなかにある神を考察する。(…)区別されたもの自体が同一だとされる。その意味で、まだ世界へと発出していない永遠の理念なのだ。この事情を「神は愛である」と表現することができる。<(p.477, 第三部)

JRF2024/12/73453

私の論では、神が「愛される」のが第一なのはそれが「最後の審判」の神だからで、だからこそ、「その生で答えを出す」ことが重要でそこに主体性が定義される。「最後の審判」ではあらゆる「法」で裁くのだから、その多種の「法」が区別で、しかし、裁く一者に統合されるというのが、「区別の廃棄」ということだろうか。そして、その法のもとでも・もとだからこそ幸福に生きられるということに「神の愛」がある。…ということだろうか。

JRF2024/12/72862

《なぜ人を殺してはいけないのか - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

●分業

人は一人では生きられない。

(…)

誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。

だから人を殺してはいけないのである。

●信用

人はうたぐり深い動物である。

(…)

私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。

だから人を殺してはいけないのである。

JRF2024/12/77850

●保険

人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。

(…)

自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。

だから人を殺してはいけないのである。

JRF2024/12/71769

……。

「第三部 B 第二の場」の章に移る。だいたいキリスト論である。

>「最初の人間」というのはたまたまそこに居合わせた人間[アダムとイヴ]なのではなく、絶対的に最初の人間、つまり概念から見た人間と解すべきだ。それは、意識をもった人間一般が認識へと向かうことで必然的に分裂へと歩み出ていくことをイメージしている。そう解釈すれば、「ただ一人の最初の人間」という観念も、その修正としての「遺伝による伝達」という観念も不要になる。<(p.501, 第三部)

JRF2024/12/77105

原罪の「遺伝による伝達」の否定。カトリックは遺伝による伝達を肯定し、性交渉に厳しいのは今も維持していたと思うが、プロテスタントや正教はどうだったか…。

JRF2024/12/75678

……。

>b キリストが歴史のなかに登場するにいたる。これはキリストの人間的な側面であり、当時の状況によって制約されている一面である。例えばキリストは新しい宗教を新しい意識として打ち立てようとして、既成の倫理や習慣に対して論争的に振る舞い、現存するものを否定する姿勢を鮮明にした。それは現存する国家にまっこうから矛盾する革命的な振る舞いでもあった。また弟子たちをまったく新しい宗教へと導くために、みずからの人格を神の権威によって正統化しなければならなかった。これらはいずれも、歴史的な状況のなかにキリストという人間が登場する際の、時代に制約された仕方であった。

JRF2024/12/73764

c キリストの死とともに、このような人間的な感覚的な側面が廃棄され、精神的な現前へと移行する。
<(p.502, 第三部)

国家を重視するヘーゲルにとっては、イエスの国家への「反逆」は苦々しいものかもしれない。しかしそれは逆に「最後の審判」の革命指向を是認するという点で、「らしさ」をイエスの宗教が引き継ぐことにも繋っていると私は思う。

JRF2024/12/74444

……。

>自由な人間に対するときだけ、他方の[絶対的な]ものも自由である。<(p.506, 第三部)

円城塔『コード・ブッダ』([cocolog:95112803](2024年10月))のところでも引用したように、私は、神からの private 性を認めるが、それを認めるほうが自由だと私はしたいが、ヘーゲルはどちらかというとそうではなさそうに思う。

JRF2024/12/70838

……。

>人間は内省し意識をもつものであるから、区別の生じ、具体的な個別的あ主体が人間の概念から区別される。そして、この主体が概念からただ区別しているだけで、まだ主体と概念が同じ一つのものになっておらず、理性へと立ち還っていないときには、彼の現実は自然的な現実であって、利己心である。<(p.515, 第三部)

主体と概念が同じ一つになるのは、論理的理性こそが主体であるという主体認識が生じるときなのであろう。そして論理的理性が主体になれば、その平等などを望むようになるということなのであろう。ただし、「その生で答えを出す」ことが論理的であるという信仰があれば…だと私は思うが。

JRF2024/12/72716

……。

>「人間はその本性からしてもっぱら善なのか、それとも、もっぱら悪なのか」と問うことは間違っている。それは誤った問題設定である。同じように、「人間は善でも悪でもある」ということも皮相である。(…)両面が対立しあいながら関係しあっているのだ。<(p.515-516, 第三部)

カントは性善説らしい。ヘーゲルは性善説に傾きながらも「どちらとも言えない」説らしい。

JRF2024/12/71817

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《荀子と孟子》
>孟子は性善説、荀子は性悪説を唱えたとして有名である。荀子は孟子の時代より後で、孟子をかなり意識していた。孟子は、性悪説よりも、「生まれついての性は善でも不善でもない」という説に対して、性善説を唱えた。

人の本性が善か悪かというのは難しい。赤ん坊などでも、自分がやりたいことというのは世の事情とは独立にあるもので、世に反感を持つことが多いとしても何ら不思議はない。赤ん坊が悪いことをしないのは、彼らにその実力がないからだけかもしれない。このあたりのことは《悪》でも論じる。

JRF2024/12/73045

……。

>認識こそ悪の源泉である。<(p.517, 第三部)

理性的に生きず「自然」のままでいいというのが、悪い認識か。

JRF2024/12/72878

……。

>人間は楽園にあっては罪もなく、不死と考えられていた。人間は永遠に生き続けることができるかのようであった。というのも、もしも外面的な死が罪の帰結にすぎなかったならば、楽園にくらす人間はもともと不死であろうからだ。しかし他方で、人間は命の樹から食べたときに初めて不死となることも考えられている。ただしこちらは禁じられていたのだから、罪を犯すことなく命の樹の実を食べることはありえない。そこで事態はこうだ。人間は認識によってのみ不死となる。<(p.520-521, 第三部)

JRF2024/12/78853

罪を犯さないならば不死であり、罪を犯していない精神は不死のままである。肉体が死にゆくものだ…とすれば、身体を捨てれば不死になるという、危うい思想になる。もちろん、ヘーゲルの言いたいのはそういうことではあるまい。

肉体の中に精神がある。肉体に精神は「汚染」されている。しかし、その「汚染」を削ぎ落して純化するのが不死に近づくことではない。(普遍性・権利・義務の)認識により精神に不死性を徐々に「復活」させることができる。ということではないか。

JRF2024/12/70321

……。

>人間が意識と意志を欠いて自然のままでいるというのは、あってはならないことである(…)。その状態は、私が絶対的な真理として知る純粋な統一(単一)性・完全な純粋性に直面して、悪と宣告された。意識と意志とを欠く者は本質的に悪とみなされるべきだということは、すでに述べたことのなかに含まれている。<(p.525, 第三部)

私は悪を↓のように語った。

『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《悪》
>罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、悪人はいるが、仮に生まれたときから悪人だったとしても、彼が悪人になったのは長い目で見れば偶然なのだ。

JRF2024/12/79683

地獄は「心」のうちにあるのであって救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なようにも私は思う。本当の意味での悪というのは人間には不可能なのではないか…という思いがある。

(…)

誰か一人の人間が悪をすることはできない。一人一人が悪に関与していることはあるけれども、悪は大きなシステムとして現れる。それが個人的殺人などであっても。ただし人は人を裁かねばならない。人の世を守るために。一人に悪を押し付けて裁くことが必要な時もある。

JRF2024/12/74765

(…)

悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。


「悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた」と私が書くとき、そこには「自然」に生きて悪をなしたことへの許しがある。それをヘーゲルは許さないと読める。ここに反論の契機がある。

JRF2024/12/74854

哲学者だけが善なのか…と問おう。哲学は善に近いことは認めよう。しかし、仕事をする人々が、哲学をアウトソースして、「自然」に生きていることにそれほどの悪があるのか。政治家を含めた哲学者がその人々の分まで、よく考えるべきだとは言える。彼らを社会が基本的なところで支援できなければならないとは言える。しかし、だからと言って、彼らが哲学を「理解」しえなかったとしても、それを悪というのは間違いだ。「理解」されないのは、哲学者に問題がある…と考えるのが、哲学者のヤセ我慢ではないのか。

JRF2024/12/70991

「哲学への怠惰」も所詮は、「(人に)悪とされる心」でかつて「善い贈り物」だったものの一つに過ぎないと思う。

これは哲学の否定ではない。ただ、哲学を否定する者とも生きて社会を作っていくのが、「弁証法的に生きる」ことだと思う。

JRF2024/12/73672

…。

「意識と意志とを欠く者は本質的に悪とみなされるべきだ」ということ…

>以上が[神という]一つの極への関係である。この苦痛の帰結やその具体的なありかたは私の自己卑下であり、後悔に打ちひしがれた状態である。その状態は、私が自然的なもの一般としては、私自身が自分の本質と心得るものにふさわしくなく、自分はかくありたいと私が知り意欲するものにふさわしくないという苦痛なのである。<(p.525, 第三部)

JRF2024/12/73425

>あの苦痛、あの抽象的な卑下を含んでいて、そこで最高のものとは主観が普遍的なものにふさわしくないということであり、補償も調停も不可能な分裂のほころび<(p.527, 第三部)

「どうしようもない」人生の中で、権利・義務を建てる。それは魂の不死性にふさわしい善には全然達しないけれども、弁証法的に生きるその方向性において、善とされる。または、その方向が継がれて、経済が大きくなるように善の方向に大きくなる、その円環性が善とされる。…ということかもしれない。

JRF2024/12/70734

……。

「第三部 C 第三の場」の章に移る。だいたい聖霊論である。

>教会は本質的に教育施設である。それは教義を講じことが託された教導職である。<(p.559, 第三部)

弁証法的に生きることを円環的に継いでいく具体的施設として教会がある…ということか。

JRF2024/12/79677

……。

>真理をわがものとするこのような教育においては、善にして真なるものに慣れさせ習慣づけることだけが肝要である。その際、悪を克服するということは課題にならない。悪はすでに絶対的に乗り超えられているからだ。子供は教会のなかに生まれるかぎり、自由のなかで生まれ、自由に向かうように生まれついている。その子供にとっては、絶対的に〈他であるもの〉はもはやない。<(p.562, 第三部)

上で「哲学者だけが善というわけでない」ことを問題にしたが、教会に属する者は哲学をしていなくても善である…それは、教会に属すれば、哲学者を支援するようなシステムもあったということなのであろう。おそらく。

JRF2024/12/70355

……。

ヘーゲルは改悛と懺悔の効果を認める。そこに悪は克服されている。

>起こったことを起こらなかったことにするのは、感性的な仕方では生じない。けれども、精神的な仕方すなわち内面的には、起こったことを起こらなかったことにすることができる。<(p.562-563, 第三部)

精神的には克服されている…円環的発展の中では、すでに克服の道筋に入っており、それが大事なのだ…という視点はあるのだろう。しかし、歴史修正主義ではないが、被害者はなかなか、こうは言えないというのが、特に(被害者が発言権をもった)ネット時代に前景化してきたことではある。

JRF2024/12/78897

……。

主体がそれぞれ無限性に高まるべきで、それが自由なのだから…、

>奴隷制がキリスト教と矛盾するのは、奴隷制が理性に反するからだ。<(p.566, 第三部)

あ、この部分は聞いたことがある。ヘーゲルのここにあったのか。

JRF2024/12/73736

……。

ヘーゲルは、啓蒙主義と敬虔主義の両方を否定し、哲学の優位を説く。

>啓蒙主義というものは、思考が外面的なものに立ち向かい、精神の自由を主張する。[しかし]精神の自由は[本来]和解のなかにある。<(p.569-570, 第三部)

啓蒙主義こそこれまで批判されてきた「固定的な知」であるらしい。

JRF2024/12/76174

>敬虔主義も(…)敬虔な感情生活に限定され、客観的な真理をいっさい受けつけず、宗教の内容である教義に歯向かう。なるほどキリストへのかかわりという媒介(仲介)の要素は手放さないけれども、このかかわりたるや単なる感情にすぎず、内的な情感のうちにとどまっているとされる。そのような敬虔は、主観性の虚栄と感情と同様に、認識しようとする哲学に論戦を挑む(…)そこには神についての展開はなく、ついには神は無内容になものになってしまう。<(p.572, 第三部)

JRF2024/12/76371

p.100 で、>感情を真理の保証とする主張が近年 流行[はや]っている<>感情だけにとどまると、どんな内容でも感情によって正当化されてしまう<…と批判されていたのの、具体的対象は「敬虔主義」ということのようだ。

上で引用したが…

>現代の神学は哲学を敵視することで、三位一体説などキリスト教の根本教義の多くを消し去ろうとしている。キリスト教の根本真理はこれからは哲学のなかで保持されていく。その意味で、いま哲学こそがもっとも正統的なのだ。<(p.441, 第三部)

JRF2024/12/75102

……。

……。

これまでは 1827年の講義録だった。ここ以降は 1831年の講義録の要約になる。

これは要約ということもあってか、あまり私にはピンと来なかった。少しだけ引用しコメントするだけにする。

JRF2024/12/77492

……。

序論。

宗教の発展において、東洋の宗教は…

>個別的な意識と本質的実在とが分離して、本質的実在が有限な精神を超える威力として知られる。この威力はさしあたって (a) 実体であり、そのなかで有限性は消失している。ここでは有限な事物の偶然性から神へと上昇するのであるから、これは宇宙論的証明の段階である。(b) この実体はしかし因果性へと自己を特定化する。そのなかでもろもろの有限性は消失するのではなく、因果性によって設定され、因果性に奉仕するものとして存在する。そのようにして実体が主人である。東洋の宗教はこれらの二つの形態に属する。<(p.582, 1831年要約)

JRF2024/12/70459

私の「有神論の基本定理」も因果性を強調していた。因果性を強調するという点で、私の考えは、東洋的なのかもしれない。

JRF2024/12/76227

……。

第一部。

>かくして神は人間のうちに自己を知り、人間は精神として精神の真実態において自己を知るかぎりで、神のうちで自己を知る。<(p.586, 1831年要約)

「神は人間のうちに自己を知り」というのは、イエスになって人間としての自己を知ったということであろう。そうでないとすれば、神にもともと自己がなかったとすれば、とてつもないことだ。

JRF2024/12/74826

……。

>人間の幸不幸は人間の善悪の行いによるという正しい宗教的な思想は一般に見られることだ。しかしながらこれを特定のケースに適用すると、誤解を招く。<(p.594, 1831年要約)

例えば、災害が起きたときにその災害が人間の悪の結果起きたと考えるのはほぼ間違いだとしても、人間が因果応報を信じて、善い行い…災害準備や災害後の統率の取れた行動…をし続けていたことで、個々に不満はあるかもしれないが、大きく見ればその被害がマシになることはある。そういう面では、因果応報は認めうる。

JRF2024/12/79961

……。

>宗教的自由と(国家)共同体における自由との間の連関が人間に意識されるのは、法律が神に由来するという表象においてである。それはあらゆる民族に見られる表象である。法律は自由の概念の展開であって、この自由の概念は宗教においてその真実態をもつということ、これが真理である。<(p.596, 1831年要約)

人が作ったきまりはそのしもべにしか通用しない。だから、神が作ったことにするのであろう。王のきまりは、まだ反乱の余地がある、特に「最後の審判」の宗教においては。…ということか。転生を認めるところは…神(唯一神)自体がないことが多いのであったか。

JRF2024/12/77375

……。

理性はキリスト教を背景に自由を求め、国家が自由をもたらす…はずであるが、必ずしも現実にはそうなってないことが多々ある。

>一方に国家が他方に宗教が立つがままにほっておくならば、国家の諸原則は、究極の根拠にまで遡っていない思考から生じるために、確実に歪んだものとなる。<(p.598, 1831年要約)

ただ、「究極の根拠にまで遡」れないのは、それは人間の限界から当然ではないか…とも思う。国家の諸原則がある程度歪むのは必然なのだろう。

JRF2024/12/75969

しかし、仮に皆が「究極の根拠にまで遡」れる場合、国家の諸制度は一つに収斂するのだろうか? それも危うい思想のように私は思う。ならば、各国家は各民族は「究極の根拠」を別にする…とすべきか。

↓を思い出す。

JRF2024/12/73039

『宗教学雑考集 第0.8版』《日本の創造》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない…と書いた。そのとき、創造神として複数の者が同時に創っていた…ということはありうる。創造神が「唯一神」でないことはありうる。

複数の始源が、始源であるという意味において正しく、それが必ずしも多神教的上下関係を持たない…それらは尊卑・前後という概念を超えている…ということは私は考えられるとしたい。

JRF2024/12/79212

科学的には日本の土地は大陸移動によって何億年かけてできたのかもしれないが、日本人が日本という国を認識したときそこにあったのはイザナギ・イザナミの神話であり、イザナギ・イザナミの神話が成り立つよう日本がはじまっていたのであり、世界がはじまったのは、日本がはじまっていたから…と考えること自体は、国家宗教としてはありうる方向である。日本にいる者にとってはイザナギ・イザナミがなければ世界が創造されていないのと同じことだったのかもしれない。

JRF2024/12/73127

……。

「第一部 付録 国家に対する宗教の関係 -- バウアー編『ヘーゲル宗教哲学講義』より」から…。

>実体的な現実における第一の倫理は結婚である。神である愛は、現実では夫婦の愛である。この愛は、現存する現実における実体的な意志の最初の現れとして、自然的な側面をもつ。しかしそれは倫理的な義務でもある。この義務に対して、結婚の断念すなわち[司祭の]独身制が神聖なものとして対置される。<(p.604, 1831年要約)

JRF2024/12/71763

うーん、この部分を読んで…というわけではないのだが、(Twitter (X) での)無意識的な影響から次のようなことを書いた。

>>
○ 2024-12-05T11:04:10Z

JRF2024/12/72279

昔、若いというより幼い女性のほうが、簡単に性欲は刺激されるが、年齢が高い女性に対しては性癖に合うことが大事(参: [cocolog:71701861](2012年2月)とか)…といって、一般に年齢が同程度の相手がよいという方向性を示唆した。しかし、そういう男性の態度が女性の晩婚化・男性選別をもたらしているとすれば、男性が「若い女性がいい」と述べ、女性の早婚化を促すことにも一定の合理性があると思うようになった。私はもう結婚はありえないと思ってるが。

JRF2024/12/70780

○ 2024-12-05T11:56:21Z

男は「一般に若い女性のほうがいい」、女性は「一般に若い男性の方がいい」と言う。男性に経済力があるほうが妊活がしやすいから「ジジイやオジサンはいやだ」ぐらいが無難かもだが。…そのほうがむしろ、早婚が促され、少子化の現代では「政治的に正しい」と言えるのではないか。

私は結婚しなかったから「若いうちの結婚のほうがいい」とまではいえない。でも「一般に若い女性のほうがいい」ならだいたい事実なので言える。

JRF2024/12/70237

○ 2024-12-06T05:15:28Z

若者の労働力が不足してそれを酷使しがちだから、企業外・組織外の人々が、意識的に人口の再生産に向けて作用しないといけないのはある。ただ、謎なのは闇バイトでなんでそこに流れる労働力の余裕があるのか? 若者をできるだけ安く使うため借金などを負わせて労働力化する力が強すぎるということなのか…。
<<

JRF2024/12/76380

あと…。私が独身であることには何かイイワケが必要なのかな…と思う。経済的に失敗して、結婚できなかったのであるが、でも、もっと努力して結婚するのが「普通」求められることではあっただろう。

宗教の創設みたいなのに傾くほうが、理由は付けやすいが、しかし、それも難しいし、一時期それもよいかと思ったが、もうやりたくない。これからどう生きれば、もしくは死ねばよいのか…? 例えば、他者への結婚の推奨が罪ほろぼしになればよいのだが…。

JRF2024/12/74428

……。

第二部のインドの宗教。

>インド人がなんらかの神の栄誉のために祈り目を閉じて合掌し無心の境地に入るとき、これがブラフマンなのだ(…)。これこそ祭祀の至高の境地である。これは肯定的な救済ではなく、意識の有限性と鈍麻と無化からの純粋に否定的な救済である。それは開放ではなく、ただ特殊性からの逃走にすぎない。<(p.629-630, 1831年要約)

ブラフマンとの一致には、文化固定作用がある…みたいなことを私は↓で述べた。

JRF2024/12/71044

『宗教学雑考集 第0.8版』《梵我一如と解脱》
>「梵我一如」が私のいうように素朴な胎児経験の感覚に由来しているといった場合、そうであることの「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当するのだろう。「真実」は普通人が思い出せない胎児経験であり、それは他人でも似てはいるが違うものだ。それを説明しようとすると、幼児の印象に与える文化の違いが明らかにならざるを得ない。逆にそれを言葉にしていけば、文化を固定化・保守化することになる。そこには、権威が生じやすい。<

JRF2024/12/71663

「最後の審判」に比べ「輪廻転生」は社会を安定化させやすい。それと同時に個人ではなく社会全体の(幸福な)発展をよりはかるよう促されることになる。社会全体が発展していくことが、長い目で見れば救済であり、また、戦争がないことがまず大きな救済なのだ…とは言える。「特殊性」つまり個人の救済からは一歩引くかもしれないが、「逃走」ではないと思う。

JRF2024/12/71532

……。

第二部のギリシャの宗教。

火を盗んで人々に与えたプロメテウス…。

>プラトンはプロメテウスについてこう言う。プロメテウスは政治を人間に与えることができなかった。それはゼウスの城砦に隠されていた、と。<(p.664, 1831年要約)

政治は普遍に関する思考と軍事的実践が合わさったもので、感覚的文化のシミュレーション=モノマネでは到達できない…といった感じだろうか。

JRF2024/12/71698

……。

第三部のキリスト教の奇跡について。

>奇蹟に対しては可能なかぎりのあらゆる種類の反駁を考えることができる。キリストが活動した時代は奇蹟信仰の時代だったとか、キリスト以外の他の人々も奇蹟を行っていたという反駁などである。だが信仰にもとづく考察はこれとは別だ。もしキリストが神人ならば、奇蹟はもはや何ら難しいものではない。他面しかし、奇蹟は信仰にとってのみある。信仰にとっては、奇蹟は再びあたり前のもので、大した意味をもたなくなる。<(p.690, 1831年要約)

JRF2024/12/76232

ヘーゲルの奇蹟解釈とはあまり関係がないが…。

「あなた」がまたは「あなた」たちが、奇跡という「ボーナス」を受け取ることがあっても、いずれそれはほぼなかったと同様になるのだから、それまでに精神的な構築物を築く必要があるのだと思う。

JRF2024/12/76897

typo 「できるのではなければならない」→「できるのでなければならない」。
typo 「区別の生じ、」→「区別も生じ、」。
typo 「個別的あ」→「個別的な」。
修正 「限らないだから、」→「限らず、多くの者は」。
修正 「人の属す精神は」→「人の精神が属すのは」。
修正 [円城塔『コード・ブッダ』([cocolog:95112803](2024年10月))]→[円城塔『コード・ブッダ』([cocolog:95118413](2024年10月))]。

JRF2024/12/107413

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