cocolog:95233837
清水俊史『ブッダという男』を読んだ。著者は、これまでの「歴史のブッダ」を描く試みは結局は現代の「神話のブッダ」を描くに過ぎなかったとする。「神話のブッダ」に意味はないとはしないけれども。著者の、自分こそが真の「歴史のブッダ」を描けるとする自負はすごい。 (JRF 5690)
JRF 2025年1月14日 (火)
《サーベイ: 弥助問題: 日本で黒人奴隷が流行した? - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6052557
私はこの新書よりも氏の他の単行本に興味があったのだが、それらはどれも値段が高く、まずはこの新書に手を出すことにした。
JRF2025/1/147146
……。
『宗教学雑考集』という電子書籍を私は書いて、正式版(第1.0版)に向けて残りは誤字脱字の修正という最終段階にある。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/1/145890
第1.0版の発売は 2025年3月11日。BOOTH はまだだが、Amazon や BOOK☆WALKER では電子版の予約がはじまっている。電子書籍版のほかに紙の本(Amazon オンデマンド印刷)版も同時に出す(ただ、その予約ページはまだアクセスできないようだ)。
その作業の休憩としての余白にこの『ブッダという男』を読んだ。
なお、『宗教学雑考集』の第2.0版は、5年後とか10年後とかそれぐらいのスパンで考えている。しかも、第2.0版は単に修正等に留め、『補遺』的な巻を別に出すような感じになるだろう。安心して、第1.0版を、ぜひご購入いただきたい。
JRF2025/1/145102
……。
それではいつものように引用しながらコメントしていく。今回の『ブッダという男』は新しいため、著作権法違反等でややこしくなるのを防ぐため、少しでも興味のある方は、ぜひ購入していただきたい。
JRF2025/1/141364
……。
>ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。結果として、これまでの専門書や一般書の多くが、歴史のブッダを探求しているはずが、彼が2500年前に生きたインド人であったという事実を疎かにして、現代を生きる理想的人格として復元してしまうという過ちを犯してしまっている。
JRF2025/1/140018
これを受け、本書の第一部では、これまでの仏教研究の方法論を振り返り、仏教学者たちが語る「歴史のブッダ」と称されるものは、現代に創作された“新たな神話”にすぎなかったことを明らかにする。
続く第二部では、現代の専門書や一般書において力説される、「ブッダは戦争や暴力を否定する平和論者であった」とか、「ブッダは男女差別を否定するジェンダー平等を説いた」などの言説を再検討し、初期仏典から読み出されるブッダの実像を再構築する。
そして第三部では、ブッダの教えがそれまでのインドをどのように否定したのかという観点から、ブッダの先駆性を歴史のなかに位置づける。
<(p.8-9)
JRF2025/1/140318
ブッダの「奇跡」にもそれなりに意味があり、それがなぜ信じられたか、なぜそういう奇跡が必要となったか…という目的論などを論じることができる。この辺は聖書解釈と同じである。
ただ、それはそれとして、ブッダに現実的歴史性がなければならないというのは、現代理性が求めるところなのだろう。そういった研究がイエスの歴史性の研究などからも影響を受けてることは著者もちゃんと書いている。
JRF2025/1/141633
中村元さんなどの「歴史のブッダ」が現代なりの「神話のブッダ」に過ぎないと著者は述べるのだが、著者が述べる「歴史のブッダ」もある程度「神話のブッダ」たることを免れえない。それは著者もわかっているだろう。原典を虚心坦懐に読んでかなり矛盾のないブッダ像を描き出しているとしても。
JRF2025/1/146832
私もここで折々示していくように「神話のブッダ」の教えを描き出しがちだ。選び抜かれた聖書(といっても分厚いが)と違い、仏典をすべて読むことはほぼできないので、人は「神話としてのブッダ」に頼りがちなのだと思う。頼っていいという許しを感じるのだと思う。そこを原典に矛盾なく…とできる著者(清水さん)みたいなのはかなり特別だと思う。
JRF2025/1/146642
……。
近現代の「歴史のブッダ」を求める研究…
>この「歴史のブッダ」を追い求める研究がその成果として報告した内容は驚くべきものであった。たとえば、ある研究者は「ブッダは輪廻や迷信を否定した」ことを発見した。別の研究者は「ブッダは男女平等を唱えた」ことを、また別の研究者は「ブッダは一切智者などではなく、経験論者であり不可知論者だった」ことを発見した。
JRF2025/1/148110
しかし、このような現代人のごときブッダが、2500年前に本当に実在したのだろうか。そして、古代の仏弟子たちや在家信者たちも、そのようなブッダ像を描いていたのであろうか。その答えは否であろう。近代になって始まった「歴史のブッダ」を描き出す試みは、確かに“批判的”ではあったが、“客観的”であったとは言いががたい。
<(p.14)
批判的かつ客観的なのが、この本のウリのようだ。自分だけが客観的だとはなかなか言えないものだが、それを言い切るのが Twitter (X) で見る著者(清水さん)らしいと感じる。
JRF2025/1/148961
……。
>初期仏典の韻文と散文を分けて考え、韻文から散文に思想の展開がみられるという資料論もとらない。(…)しかし、ドゥ・ヨングや櫻部[さくらべ]建[はじめ]によって指摘されているように、そして初期仏典自身が証言しているように、韻文の多くは仏教やジャイナ教など沙門宗教の間で共有されていたものであり、仏教そのものの思想を訊ねるのに必ずしもふさわしくない。(…)これを裏付けるように、当初の仏教教団は、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』など特に古いとされる韻文資料の聖典性を認めていなかった。<(p.20)
JRF2025/1/148118
大乗仏教中心の日本において、あえて初期仏典に注目するというときは、もっとも古いとされる資料である韻文に価値を認めざるを得ない…のがこれまでだったが、初期仏典に関する宗教意識が醸成され、上座部的価値観(原上座部的価値観)を強く持つ者が生じ、上座部的価値観において、仏典を評価すれば、韻文はそれほど価値がないとされるにいたったということだろうか。
ちょっと関係ないかもしれないが、私は次のようなことを述べる。
JRF2025/1/141819
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《教義の内発性と外部の影響》
>特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。
多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。
JRF2025/1/144711
しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。
ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
<
JRF2025/1/141890
逆に内発的な教義でないから価値はないということはない。オリジナリティ(特許性)を重視する昨今の科学的価値観の影響が強いのかな…と思うが、そうでない部分に価値がないということはない。まぁ、紙面の都合があるから、オリジナリティに注目せざるを得ないということはあろうが…。
JRF2025/1/148189
……。
>仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)と認められていなかったのだと考える。<(p.36)
JRF2025/1/146319
上に書いたように、教えが自分達のものでないから真実ではないという考えをしたとはあまり考えにくい。そうではなく、そこに自分達の教えと協調できないものを感じたから、三蔵と認められなかったのであろう。それを認めるには対抗言論の発達など、理論発達が必要だったのかもしれない。三蔵と認められてからは、それを補う教えもきっとそこに含まれているのだろう。
JRF2025/1/149516
……。
>我々の個体存在は五要素(五蘊=色・受・想・行・識)に分解され、そのいずれもが無常なものであるから、したがって恒常不変の自己(アートマン)は見いだされない。これが無我説である。
JRF2025/1/140420
そして、個体存在(五要素)は恒常不変ではないにもかかわらず、どうやって自己一貫性を保ちながら輪廻するのかといえば、これは縁起という教えに集約される。縁起とは「原因によって生ずること」を意味する。つまり、過去の個体存在(因)が現在の個体存在(果)を生み出し、現在の個体存在(因)が未来の個体存在(果)を生み出す -- そのような無常なる自己が、因果の連鎖によって、延々と個体存在を再生産し続けていくことが輪廻である。したがって、輪廻説と無我説は調和しており、そこに矛盾はない。
<(p.69)
JRF2025/1/140823
因果と縁起は似ていても違うものというのが私の理解だが、初期仏典においては同じものだったか。よく覚えていない。
まず、無我説については私はこう書く。
JRF2025/1/140042
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《諸法無我》
>仏教には「諸法無我」の思想がある。しかしこれも「我思う」ときの思う「何か」が有ることは否定できない。それがアートマンを否定しながらも転生などを認めることにつながったのだろう。バラモン教におけるアートマンは、デカルトを逆転したかのように、先に常住不滅の真我があると柱を立て、その柱の反映として個々の我があるように見なす。仏教はそれは否定した。
JRF2025/1/147118
拙著『「シミュレーション仏教」の試み』のシミュレーションを作ったとき、仕様を作るときは「自分」であることは何かとても大事なことのように思うのに、問題を解いてプログラムを作ってみると、案外「自分」はいらないことに気付いた。確かに、プログラム用語として、self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。
我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…(我がとらえている)世界に我の必要なくせしめよ…そこまで世界を「理解」せよ…とは言えるのかもしれない。「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができる。
JRF2025/1/144189
ただ、「諸法無我」であったとしても、宗教は、宗教である以上、因果応報はある程度説かねばならない。応報の対象となる「我」はなければならない。
<
輪廻転生については「グローバル共有メモ」に に書いたことを繰り返す。
JRF2025/1/142997
>>>
○ 2025-01-03T08:58:05Z
『宗教学雑考集』に入れるかどうか迷って、おそらく入れない…と判断したもの。
輪廻転生に対するヘーゲルの説と私との対話…
ヘーゲル『宗教哲学講義』(山崎純 訳)を読んだ [cocolog:95175021](2024年12月)
JRF2025/1/140185
>>
>魂は不死であり、死後もなお存続するが、しかしいつも[精神とは]別の感覚的な仕方で知られる。このような表象が輪廻である。魂は神と同じように、自己のうちにあるものとして抽象的にとらえられるから、魂が死後にどのような感覚的な形態に移るのか -- それが人間の形をとるのか、それとも動物の形をとるのか -- はどうでもよい。<(p.266, 第二部)
JRF2025/1/140778
スピノザにおける魂の不死性は、無限論理延長に自らが参与するものだった(と思う)。ヘーゲルの発展は、スピノザに捨象された個別性も無限論理延長に連なるとすれば、役割のある客体は無限に存在しつづける、そういう形の不死性もある、ということだろう。(人々にとって・理性的存在にとって)意味のある客体でさえあればいいので、それが自然の中でどのような形を取ろうが、人間だろうが、動物だろうが、どうでもよい。…と私の言葉で表せばそうなるのだろうか。
JRF2025/1/143043
私は「有神論の基本定理」において、因果応報を重視した。しかし、ヘーゲルを筆頭に因果応報という言葉は使わない。しかし、上で「客体」は因果応報の客体的であるから、私はそういう言葉を使った。ただ、私も「有神論の基本定理」の因果応報はそのまま本人の魂に帰る形ではないように説いている。その屈折が、「動物などへの輪廻」性と解釈できる…ということかもしれない。
<<
JRF2025/1/141918
このような輪廻理解は唯物論的過ぎるのだと思う。仏教はそのような見方を否定はしないがそれだけとはしない。私は次のように書いた…。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《梵我一如と解脱》
JRF2025/1/147306
>しかし、(…十二因縁論など…)こういった精緻化は、輪廻転生を一方においてかかげるからという側面があるようだ。なぜなら、キリスト教の正統などでは、個人においてそういう精緻化はあまり行わないからだ(キリスト教でも神秘主義になるとそういうものはある)。もしかすると、そこには、輪廻の理論が無意識に与える「死後、(自己が残り続け)感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」という不安を断ち切る必要があるかないかが問題として横たわっているのかもしれない。十二因縁論などには、解脱者の中では、その無意識的不安を断つ効果が、もしかするとあるのかもしれない。まるで臍[へそ]の緒[お]でも断つかのように。<
JRF2025/1/146086
逆にいうと転生に関して臍の緒を断つぐらいの急迫性を感じないのならば、唯物論的考えに傾き過ぎているのだと思う。
これがアートマン説にまで至ると、霊肉二元論がかなり強固になり、肉体は簡単に捨てられるもので、それはそれで「臍の緒を断つ」必要はなくなるのだろうけど。
<<<
JRF2025/1/140663
……。
>無記とは、一般の概説書において、「世界は時間的に有限であるか、無限であるか」とか、「完成者(如来)は死後に生存するか、あるいは生存しないか」といった形而上学的な問題について、ブッダが解答を与えることを拒否して沈黙を守ったこと、として紹介されている。
(…)
しかし、ブッダの無記から輪廻否定論を見いだす考え方は誤りである。そもそも、これら諸研究は、無記の意味を誤解している。
JRF2025/1/147341
無記とは、「形而上学的な問題について沈黙を守った」というものではなく、「異教徒によって間違った立てられ方をした質問に対して、ブッダは回答しなかった」というだけのものである。無記が現れる初期仏典においては、「異教徒が投げかけた質問に対しブッダは沈黙をもって対応し、その後、無我などの教えを説く」という流れが基本であることを考慮すべきである。
<(p.70-71)
JRF2025/1/149385
私の↓の態度は、「無記」を「不可知論」とする考え方に影響されているのだろう。「神話のブッダ」の教えとして、私自身が「仏教はそうであってほしい」という考え方をブッダに仮託して語ってしまっている。私の中でかなり古い論考だが、反省すべき点はあるとは今では感じている。
JRF2025/1/149174
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《仏教は無神論か》
>仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定はしない。ただ、出家者は、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。<
少し関係ないかもしれないが…。
JRF2025/1/144506
直近の [cocolog:95231675](2025年1月) でやったように私は道徳的な発言をしたりする。しかし、じゃあ、私は人に教えられるほど正しい人間かというとそうではない。(過去の悪事には目をつぶって正しく生きているとしても、) 私はかなり間違いを犯す人間だ。ただ、間違いは気付けばすぐに修正したいとは思っている。そうできているかはわからないけど。日々、正しいところに向かっているとはしたい。
何かを尋ねられて、答えられないことはもちろんあるが、不可知論に逃げることはあまりせず、旗幟鮮明にすることが多い。その点は美点だと自負している。
JRF2025/1/140641
ただ、そういった姿勢が許されるのは、可能なのは、私が立場のない、ただの「ニート」だからという面も大きい。間違いを謝罪して気楽に修正できるのも、不可知論で煙に巻く必要がないのも、立場が軽いからと言える。
JRF2025/1/149175
……。
>カースト制度撤廃に影ながら大きく寄与したのが、意外にもインドで滅びたはずの仏教であった。
JRF2025/1/145926
インド国憲法の草案を書き上げたビームラーオ・アンベードカル(1891-1956)は、身分制度の最下層である不可触民として生まれ、差別撤廃のためにヒンドゥー教を批判する原動力としてブッダの教えに根拠を求めた。アンベードカルの仏教理解は、「真の仏教はいかなるものでなければならないかという立場から、仏典の語るところを離れた自由な解釈を加えている」と評される(『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004、山崎元一のあとがき)。このような解釈された「神話のブッダ」こそが、インドにおいて滅びたはずの仏教復興につながった。
<(p.94)
JRF2025/1/146900
「神話のブッダ」の効用を、ちゃんと著者は認める。
JRF2025/1/140013
>だが、今を生きる我々が、伝統的解釈を否定して、初期仏典から「歴史のブッダ」と名づけられた「神話のブッダ」を新たに構想することは、決して無意味な営為ではない。インドでカースト制度の撤廃に尽力したアンベードカルは、差別撤廃の思想的根拠をブッダの教えに求めた。アンベードカルの仏教理解は、必ずしも公平で客観的なものではなかった。
JRF2025/1/144222
しかし、彼が構想した平等主義者という「神話のブッダ」は、たとえ歴史上存在したことがなくても、間違いなく現実世界を動かす原動力となったのである。このように考えるならば、古代から現代に至るまで、「歴史のブッダ」ではなく「神話のブッダ」こそが、我々にとって重要なのであり、必要とされてきたのである。
<(p.112-113)
では、著者の「歴史のブッダ」の構築の目的は何なのか? アカハラの撲滅ではあるまい。著者がエライことを示すためでもあるまい。
JRF2025/1/142787
……。
>初期仏典には、ブッダが女性を蔑視している資料が複数確認される。<(p.97)
私は仏教の女性蔑視については次のように書いている。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《変成男子》
>仏教には「変成男子[へんじょうなんし]」という教えがある。女性は死後すぐに成仏することはできず、一度、男子として転生(変成)してからでないと成仏には致れない…というものである。
JRF2025/1/143674
もちろん、初期仏教は女性が僧になれるという点で、画期的な宗教であったし、『勝鬘経[しょうまんぎょう]』のシュリーマーラーは、ブッダと同等の智慧をもつ者として扱われているなど、仏教の中には女性を低く見ない伝統も確かにあった。しかし、それは逆に例外的な部分で、昔の宗教にありがちな女性を一段下に見る伝統のほうが、仏教にはよく見られる。
ただ、それはそれとして、私は変成男子の教えに別の解釈を与え、女性の納得を得たい。私は、「変成男子」についてある種の予定説をもたらすものとして擁護する。
JRF2025/1/144366
(…)
女性は、今生で成仏が決まらないのは、来世で成仏できるほどの因縁を積むその忍耐力が期待されてもいるからではないか。その残りの生で菩薩のように周りに良い影響を与えることができると考えるのである。
(…)
なぜ女性はすぐに成仏できないか。
(…)
女性が淫乱だからとかそういう理由ではない。子供を得るために必要なのだ。この世が地獄的であってもそれをなくすのが正しく善いわけではないから、生を肯定するために必要なのだ。
<
JRF2025/1/144584
……。
>ヴェーダ聖典が古層では「生天」が宗教目的だったのが、業と輪廻が前提になった新層では「解脱」こそが究極の目的であると再定義されることになる。
(…)
ヴェーダ聖典の古層では祭祀によってしか天界に再生できなかったが、新層では、この構造が業(カルマ)の理論によって飲み込まれる。なぜなら、善悪の行為が来世を決定づけるのならば、祭祀に頼らずとも善い行いさえすれば天界に再生することが可能だからである。したがって、ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、皮肉にもヴェーダ聖典自身であった。
JRF2025/1/143396
祭祀に頼らずとも、来世の自由を手にすることができるならば、司祭階級の支配にいつまでも隷属する必要はない。この流れを受け、ヴェーダ聖典の権威を認めず、司祭階級を核とするバラモン教を公然と非難する自由思想家たちが、前七世紀から前四世紀ごろにかけて次々と現れた。彼ら自由思想家たちは沙門(努力する人)と呼ばれる。仏教やジャイナ教も、この沙門宗教の一つとして、バラモン教に対抗する形で生まれた。
<(p.118-120)
JRF2025/1/147205
いちおう、業による転生では生天までしかできず、祭祀によってのみ解脱できる…という言い逃れ方はできる。ただ、瞑想による解脱なども説かれ、著者の言い方のほうが正しそうな雰囲気ではある。
祭祀と解脱の関係について、私は次のように書く。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《梵我一如と解脱》
JRF2025/1/148011
>仏教は、バラモン教に対しては、悟りは「わかるものではない」ということを示したかったのかもしれない。祭祀・祭式によって神秘的な力が付くというものではない。祭祀・祭式の伝承が常住の霊(アートマン)に解脱という「味」を付けるわけではない。「解脱」は霊が何かをわかることではない。…ということだろう。見方によれば、祭祀に金が使われることに依存しているうちは、バラモン階級が社会から真に解脱することはなく、それがブラフマン=社会全体の解脱を示すことはない…例えばいつまでも鬼神や転生の理論に頼ることになる…ということかもしれない。<
JRF2025/1/147507
……。
著者は、六師外道の説から逆に、ブッダ独自の説を探っていく。そのようなやり方は、私は田上太秀さんの本でも見た。著者はここでは割と仏教概説本の伝統に沿って、その上で著者なりの見解を示しているのだろう。
>ジャイナ教は苦行によって業を滅することを目指したが、仏教では知恵による煩悩の滅を目指し、苦行による修行を無意味であると批判した。
JRF2025/1/145940
ところで、仏教は、業による輪廻を信じていた以上、煩悩を断じても、過去世で積み上げてきた業は依然として残っているはずであるが、これがどうして不活性化するのであろうか。実はこの問いの答えこそが、ブッダの先駆性の一つであると考えられる。
<(p.137)
ジャイナ教と仏教の違いは理解が難しかったように記憶している。特に戒律面ではなく教えのレベルでそれは難しかった。それをスパッと切って見せるのは著者の力量だろう。
JRF2025/1/144417
……。
>一部の沙門や遍歴行者たちが、解脱そのものだと主張する無所有処や非想非非想処などの瞑想の境地もまた、仏教からしてみれば解脱ではない。そのような高度な瞑想を完成させたとしても、死後にはその瞑想に応じた天界に再生できるだけであり、その天界も不死の世界ではなく、業報輪廻の枠内に留まっている。
JRF2025/1/149852
ここからわかるように、仏教では、この無所有処や非想非非想処を、最も深い瞑想の境地として位置づけながらも、それは解脱の境地ではないと考える。むしろ、深すぎる瞑想の境地は、鋭い洞察力が鈍ってしまうため、悟りを得るのに適していないとするのである。初期仏典の記述によれば、ブッダは、初禅から非想非非想処(…第八禅…)に至るまですべての瞑想に自在でありながらも、第四禅に基づいて悟りを得たと理解されている(『中部』四経「恐怖経」)。
JRF2025/1/144549
(…)
日本における上座部仏教の伝播に伴い、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想というセットに、一般人も触れる機会が多くなっている。このうち、サマタは「精神集中」を深める瞑想そのものであり、これを通して初禅から非想非非想処に至ることになる。これに対し、ヴィパッサナーは、「悟りの知恵」であり、厳密には瞑想そのものではなく、瞑想を通じて起こす洞察力(知恵)である。つまり、サマタ瞑想を深めるだけでは悟りを得ることはできず、解脱するためにはヴィパッサナー瞑想で知恵を磨く必要がある。
<(p.153)
ブッダは、第四禅に基づいて悟りを得た…というのは知らなかった。
JRF2025/1/140496
……。
>インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論者と仏教だけであった。唯物論者が、物質からのみ個体存在が構成されると説き、業報輪廻の存在を認めず、結果として道徳否定論者であったのに対し、ブッダは、感受作用(受)や意思的作用(行)などの精神的要素も個体存在を構成していると説き、無我を説きながらも業報輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功した。これは他にはない、ブッダの創見であると評価できる。<(p.173)
輪廻転生を説明するとき、五蘊のうちで、特に受と行の名前を前の部分でも著者は挙げていた。なぜだろう?
JRF2025/1/148982
私の霊魂論は次のようなものである。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《魂の座》
>霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。
○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆[ひふく]して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。
JRF2025/1/140633
○ 説 1'.自然の霊的記憶モデル - 人の霊は、他人や自然物の霊の中に記憶として残る。それは、単に人の記憶や物理的根跡をいうのではなく、いってみれば、目に見える事象を根拠としそれを包むように霊的次元が存在し、その霊的次元の中に「縁」の局所的集積として「人の霊」のようなものが弱く定義できる。この霊的次元を時間軸に拡張することで輪廻も説明できよう。
JRF2025/1/141895
○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。
JRF2025/1/141699
(…)
中国には霊を魂と魄に分ける考え方がある。インドにはプルシャとプラクリティに分ける考え方がある。この《魂の座》とそれらの関係は判然としないが、説1 と 説2 は、どちらかしかありえないというものではなく、どちらも同時にありえてきたのかもしれない。神の記憶モデル的なものとと霊的肉体モデル的なもの、どちらも可能性があり、どちらかでしかないように考えられるが、どちらもありうる「神秘」があるのかもしれない。
JRF2025/1/147564
例えば、道教などにおいては、死んで閻魔[えんま]大王に会うというとき、人は「霊的肉体」を得ていると言えるだろう。一方で、閻魔帳が自分以上に自分を知っているというのは「神の記憶」に近い。
<
著者(清水さん)では、受と行が、プルシャとプラクリティにあたるというわけでもないが、まったく関連がないわけでもないのかもしれない。
JRF2025/1/144776
「受」は「霊的肉体モデル」に近く、「行」は「神の記憶モデル」に近く(逆かもしれないが)、それを、説1を説1'にしたように、神的構成を摂理的構成に変えると、清水さん的解釈になるのだろうか?
JRF2025/1/145971
……。
>インド思想一般の公理としては、輪廻の直接原因は煩悩ではなく業である。この公理を仏教も受け入れており、来世を生み出すのはあくまで業である。ゆえに仏教は、どうして煩悩を断じることで、(A)今後、業を積むことがなくなり、(B)過去の業も不活性化するのか、という二点に答える必要がある。
このうち(A)に関して、「煩悩が原因となって業を積んでしまうので、煩悩を断じれば新たに業が積まれなくなる」という構造は、仏教のみならずインド思想一般で見られるものであり、理解しやすい。
JRF2025/1/145789
一方、(B)の過去の業について(…『増支部』三集七六経のブッダの譬え…)。
ここでは、業=田、識=種子、無明・渇愛=湿潤という関係が説かれる。つまり、種子が芽を吹くためには田に蒔かれるだけでは不十分であり、湿潤という環境も揃わなければならないのと同じように、個体存在が来世に再生するためには業があるだけでは不十分であり、煩悩という条件も揃っていなければならない。裏を返せば、干上がった田で種子が芽吹かないのと同じように、いくら業が残っていても煩悩さえ断てば来世は生まれず、そのれこそが解脱である、というのである。
<(p.182-184)
JRF2025/1/146156
私は↓でむしろ煩悩は避けられないと考えた。そこはブッダと完全に道を分かつ部分であったか。
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《四諦:仏教教義の提案的解釈》
>煩悩に対して否定的であっても、煩悩を無くそうという表現がないことに注意していただきたい。すべての行為は煩悩に基づくとし、煩悩に原罪としての意味を加えることで、煩悩を必要悪として解釈する余地を与えている。これにより革新に必要だが、仏教にはない必要悪の論理を提供する。
JRF2025/1/140227
通常は、まず功徳を積んでそれを回向すべきと教えるが、それは、修行者だけが善をできるという論理になってしまう。これでは、普通の人に公共への参加意識や責任感は生まれない。
そうではなく、普通に生きる人間が救いを得られるように、功徳によって回向ができるのではなく、回向によって功徳が生まれるとし、回向を可能にするのは、すべての人が生まれながらにして心の奥底に持っている永遠の仏性であるとした。
<
JRF2025/1/142441
……。
>ジャイナ教においては、業は霊魂に付着する物質であると考えられ、過去につくった業物質を苦行によって破壊し、新たに業物質が付着しないように煩悩を抑え感官を抑制することっで輪廻から抜け出すことができる、とされる。<(p.187)
なるほど、ジャイナ教は過去世の業報を破壊するために、苦行を必要とするわけか。
ちなみに業報については、偶然によると考えられれば消えるというのが私の『「シミュレーション仏教」の試み』における理論である。
JRF2025/1/145607
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《コラム カルマと偶然》
>本システムでは、具体的な犯罪についてのみカルマが生じ、捕まって刑期を終えるとカルマはなくなり、それ以上報いがあるとはされない。カルマに自然減少があり、それは、軽い罪の場合は、それを犯したのが時間がある程度たてば偶然であったことと見分けがつかないとなるからで、重い罪の場合は、長い時間スパンにおいてもなかなか偶然となし得ないことを表しているからとできると思う。
業は偶然と見分けがつかなくなって消えうる…。このカルマと偶然の関係をどう考えるか。
JRF2025/1/147023
(…)
偶然が本質なら、因果応報の「必然」をそれほど追わず、カルマを「偶然」のついえる今生で終わらせても問題ないのではないか?
このシステムのカルマの定義の妥当性がかかるところである。
<
JRF2025/1/140696
『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《大乗仏教的議論》
>先に「応報すべき善悪が釣り合う」といったが、レッセフェール(自由放任)で釣り合うということではなく、刑罰なども導入した上で、なお、バーチャルな地獄とかの概念で、釣り合うということである。殺人を犯した者を死刑にしなくても釣り合うと考えるのは、そこに偶然の要素を認めるからという見方ができる。現代に近づき罰が軽くなるのは、技術などによって偶然の偏りが変わり、偶然と認めるラインを前進させることができたからといえよう。昔のほうが偶然を認めがたく、応報すべき善悪を必要としたといえる。
JRF2025/1/145365
(…)
「仏国土」にも善や悪はあり、応報は「ブッダ」がしようとせずとも「仏国土」が自然になす。全体としては善悪が報われる。…ということではないか。「仏国土」がどう応報し応報しないか決め、その決め方に釣り合いがある場合、その「仏国土」はリアルになる。ある種の大乗仏教者はそう信じる。…ということではないか。
<
JRF2025/1/141066
……。
>拙著『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版, 2021)は、馬場紀寿氏(東京大学教授)を批判する内容を含んでいたため、刊行準備中、馬場氏より版元に出版妨害がなされるなど盤外戦術が繰り広げられた。<(p.219)
著者(清水さん)によるアカハラの告発は界隈では有名になった。
最近次のように書いた。
JRF2025/1/149273
>>
○ 2025-01-06T09:19:36Z
私はアカハラの逆で、私の側に問題ありまくりだったからなぁ。orz
私のような奴がいるから、アカハラっぽいことをせざるを得ないのだと思う。アカハラで被害にあってる人がいるのは、私に遠因があるともいえるのだろう。申し訳ない。
<<
JRF2025/1/143242
いろいろ悪事はあるが、書けるものを二・三書くと、修士論文に指導教官の名前を書かなかったり、研究室が移転したのに前の場所に居座ったり、これは私が悪いのではないが、研究会に「放送」してるところでそれを知らずに先生の悪口を言ったり…とやってしまった。反省している。それにも関わらず、私が精神病で入院したあとも、援助してくれて、今では感謝しかない。(感情的なわだかまりがないと言えば嘘になるが、理性的に考えれば明らかに悪いのは私だ。)
JRF2025/1/140012
……。
ところで、著者の建てる真の「歴史のブッダ」。つまり著者なりの「神話のブッダ」により何を目的としたのだろう? 煩悩をなくすのを説いたことこそブッダの独自性とするわりには、著者自身は Twitter (X) でかなり煩悩を肯定している。
JRF2025/1/148121
…もしかすると、時代から超越しようとすることには限界があると示したいのかもしれない。知識人は、本を読む人間は、物を書く人間は、知を愛すことに一定の自負を持たなければならない。その時代にその時代なりのオリジナリティを持って、自分はエライと信じれるだけ人の心を救うべきだということなのかもしれない。そのこと自体が人に希望をもたらしまた人の心を救う…と。
JRF2025/1/148232
著者にはそれが可能なのかもしれないが、これまでの経験(出版しても読まれない、プログラムを作っても使われない…という無能の証拠が積み上がっていること)から、私にはできそうにない。ツライ。せめて『宗教学雑考集』がこれまでより多くの人に読まれれば…と思う。
JRF2025/1/148959
『ブッダという男 - 初期仏典を読みとく』(清水 俊史 著, ちくま新書 1763, 2023年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480075941
https://7net.omni7.jp/detail/1107450380
Twitter (X) でも積極的な発言をしている清水俊史さん(@AKBhVis)。アカハラ問題で話題となって知ったが、投資に関する強気な発言をしたり、アサクリ問題でも発言をしてらして、ユーモアがある。アサクリ問題の発言は↓にも収録している。
JRF2025/1/143781