cocolog:95287974
末永高康 訳注『孝経・曾子』を読んだ。孝が人の根本にあり、他はすべて孝から出ると考える思想で「ニート」な私には一定の説得力はある。しかし、戦争で死ぬのを孝子とするなど、国家の御用思想的側面は認めざるを得ないように思う。 (JRF 6015)
JRF 2025年2月19日 (水)
……。
私は拙著『宗教学雑考集』第1.0版の発売を2025年3月11日に控える。もうその原稿は仕上げ提出したが、発売日までの余白に、この本を読むことにした。「孝」に関心があったからというより、Amazon の宣伝でたまたま新しい訳が目についたからである。
JRF2025/2/198222
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/2/197460
……。
それではいつものように引用しながらコメントしていく。この『孝経・曾子』は新しい本なので、著作権法違反や業務妨害にされる可能性を下げるため、興味を持った方は、ぜひご購入いただきたい。
JRF2025/2/193807
……。
……。
まずは巻末の訳者解説から読んでいく。
>われわれの数世代前くらいまでは、「孝は百行[ひゃくこう](すべての行い)の本[もと](根本)」とされ、親に「孝」を尽くすことが人としての当然の務めであると考えられていた。<(p.218, 解説)
JRF2025/2/193356
>「君子」とはすぐれた人物の謂[いい]であるが、この場合の「すぐれた」とは、血筋の良さや地位の高さ、財産の多さや技能の卓越さなどとは無縁である。そのようなものをすべて失ってもなお「すぐれた」と言われうる人物のことである。それは自己における勤勉、節制、慎重、勇敢、あるいは他者に対する親切、寛容、誠実、謙譲といったさまざまな「徳」を身につけた人物のことであるが、彼ら(…曾子など…)はそれをより具体的に描き出していくともに、いかにすれば自分がそのような存在になり得るかについて探求していく。もちろんこのような探求は孔子を受け継ぐものである。
JRF2025/2/191878
この探求において彼らが注目したのが「孝」である。「孝」とは、まごころを尽くして親につかえることであり、彼らはすべての徳の根底にこの「孝」を置く。「孝」であろうとすることによって、すべての徳を身につける力が養われると考えるわけである。同様な考え方の萌芽は『論語』学而篇1・2の「孝弟(=悌)なる者は、其れ仁の本たるか」などにも認めることができるが、彼らは「孝」を「愛」と「敬」とに分節することによってこれをより明確にしていく。
<(p.219-220, 解説)
JRF2025/2/191352
>「愛」が無ければ人と人とは結びついていかないから、そもそも人の世界が成り立たない。ただ、「愛」だけでは自他が切り分けられないから、秩序を形成することができない。「敬」によって人と人とが適切な距離を保つことで、そこに秩序を持った人の世界が生み出されることになる。これが彼らの考える人の世界である。これと対照的なのは、利害によって人と人とが結びつき、権力によって秩序が形成される世界であろう。<(p.222, 解説)
基本となる大事なところなので長く引用してしまった。
JRF2025/2/194238
『宗教学雑考集』では「孝」を扱っていない。ただ、親と子の愛が基礎になる…みたいなことは少し述べる。例えば次の部分…。
『宗教学雑考集 第1.0版』《梵我一如と解脱》
>もちろん、親という他者に関する認識もそれはそれで大切である。赤ん坊は、母親に対して操作しようとしてできなかった状況、その不如意を納得していくしかない。それは母親には母親の利害があることを学ぶことである。その利害をときに優先することは回り回って、赤ん坊の利益にもなる。
JRF2025/2/194317
その経験により、他者の利害を優先することが、自分も含めた集団の利益となり、それが自分の利益に必ずしも直接つながってなくとも、自分の利益と感じられるようになるということだ。
これは、利他主義の素地みたいなものを皆が持ちうるという主張、ある種の性善説になる。もちろん、子供は、無知・無邪気さから虫などへの残酷さなどを持ち、性悪説が成り立つ素地もあるけれども。
<
ただ、どちらかと言えば、私は親から子への愛を強調する。
JRF2025/2/193840
『宗教学雑考集 第1.0版』《親として生きること》
>>人の親になるとき、人は思ってもみないことができる一方、その責任感に押しつぶされることもある。そして子が生まれたあとも、親である限り責任感は残る。「責任感」という言葉では生ぬるいかもしれない。次のようなツイートを見た。
《朱野帰子:X:2024-07-30 - 親になること》
https://x.com/kaerukoakeno/status/1818095145134518318
JRF2025/2/197124
>親になれば子が死ぬかもしれないという生物最大の恐怖と生涯戦い続けることになる。母なる自然にインプットされたこの苦しみから逃れられはしないのだとわかったとき、古典文学や宗教や哲学書に書いてあったこととはなんだったのかがいきなり理解できることもある。
<
<<
JRF2025/2/199457
これは私が実質「ニート」で、今も親に頼っているため、そう考えてしまうという面もあるだろう。ただこういう「甘えた考え方」は近時多いようだ。Twitter (X) で「承認欲求も子を持てば子が親を愛することで得られるものだ。その補償なのだ。」…みたいな議論があった。ブックマークしたはずだが、どうしても元のツイートが出て来ないのだが。
似た考えは↓にもある。
JRF2025/2/199545
『宗教学雑考集 第1.0版』《還元主義・実用主義・医学的唯物論》
>>
JRF2025/2/196914
>これと同じ論法のもっと極端化した例は、今日、ある著者たちの間ではごく普通のことになっているものであるが、宗教的感情と性生活との関係を明らかにすることによって、宗教的感情を批判するというやり方である。回心は思春期と青春期との分かれ目である。聖者の難行苦行も、宣教師の献身的行為も、親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したものにすぎない。自然な生活に飢えているヒステリー症の修道女にとって、キリストは、いっそう地上的な愛情の対象の代理として想像に描かれたものにすぎない、などという論法で、同じような例はいくらもある。(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』上巻 p.24-25)
<
JRF2025/2/199814
自己犠牲とは、「親としての自己犠牲の本能が常軌を逸したもの」…。
<<
上の解説の引用>利害によって人と人とが結びつき、権力によって秩序が形成される世界<については『宗教学雑考集』では、概念の形成には、戦争が必要だったかもしれないというところに私は踏み込んでいた。ただし、そうでないものとして「孝」ではなく学術による発展に私は希望を託したのだった。
JRF2025/2/197487
『宗教学雑考集 第1.0版』《開かれた社会とエステル記》
>争いのない世界は、競争のない世界で、進歩がなく無為が支配する世界になるだろうか。そうではないだろう。そうではないこともできるはずだ。現代の学術界が別々の研究で互いに高め合うように、そこでは、助け合ってより良い生を気付かせあうことがありうる。>エラーからは学び、逆にそれを生かすようにもできるだろう。「遊び」から学ぶことも多いだろう。有限資源の問題がありうるが、現代社会が少子化しているように、学び合うことで有限資源の問題も緩和できるかもしれない。<
JRF2025/2/196301
なお、このあたりを Gemini さんにぶつけると「「孝」の概念も、単なる親孝行にとどまらず、他者との協力や共創を促進する倫理観として捉えることができるかもしれません。」と示唆を受けた。その点をさらに詳しく問うと…。
Gemini> これまで、「孝」は主に、親に対する尊敬や服従、親の世話をすることなど、親孝行の意味合いで理解されてきました。これは、家族制度が重視されていた時代においては、重要な倫理観であり、社会秩序を維持する上で大きな役割を果たしてきました。
JRF2025/2/190206
しかし、現代社会においては、家族のあり方や人間関係が多様化しており、「孝」の概念も、従来の枠組みにとらわれず、より広く解釈する必要があるのではないでしょうか。
例えば、「孝」を、親だけでなく、他者に対しても敬意を払い、思いやりの心を持つことと捉えることができます。また、家族や地域社会における協力や共創を促進する倫理観として、「孝」を捉えることもできるでしょう。
具体的な例
JRF2025/2/198957
● 地域活動への参加: 高齢者の介護や子育て支援など、地域社会における活動に積極的に参加することは、「孝」の実践と言えるかもしれません。
● ボランティア活動: 恵まれない人々や困っている人々を助けるボランティア活動は、他者への思いやりや共感を育み、「孝」の精神を体現する行為と言えるでしょう。
● 企業における社会貢献: 企業が社会貢献活動を行うことは、社会全体への貢献であり、「孝」の概念を企業レベルで実践していると解釈できます。
JRF2025/2/190600
……。
>(…『孝経』では…)自己の身体が父母の「遺体」であると考えられている。この場合の「遺体」とは、父母が伝え「遺した体」の意味で、これを大切に扱って傷つけないのが「孝」であるとされる。これは自分の身体を己が所有とし、己が自由に扱えるとする考えとは真っ向から対立するものである。もちろんこれは子の身体の所有権を親に帰するものではない。父母の「遺体」が自分であり、そのさらなる「遺体」が自分の子であるのだから、子の身体を親たる自分が自由に扱うことはゆるされない。
JRF2025/2/198565
(…)
自己を父母の「遺体」と見る思想においては、身体さらに生命は個に専属するものではなく、より大きな生命の流れのなかで個に分与されたものとなるのである。この生命観の構造を解明し、そこにある「孝の宗教性」を明らかにされたのが加地伸行氏である。
<(p.239-240, 解説)
『宗教学雑考集』では「総体として生きる」のも大事なテーマであった。それは全体主義につながりがちなものではあるのだが、それを含めてだいたい私は肯定したのだった。
JRF2025/2/199471
……。
>「人倫」の語は『孟子』滕文公篇に由来し、そこでは「父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り」の五者が「人倫」(「五倫」)として語られている。
(…)
「五倫」を語る者たちは、これらを「人」が定めるものではなく、「天」が与えたものであると観念していた。
独立した個人がまず存在していて、その個人と個人が自らの意志で結びついて人間関係が構築される
と考えるのではなく、
「五倫」に代表される人間関係がまず与えられていて、そこで踏み行われるべき「倫[みち]」を行うことを通じて「人」となる
JRF2025/2/197134
と考えるわけである。よって、この「人倫」を踏み行わない者は、姿形はひとであっても、もはや「人」の「倫[ともがら]」ではなく、「禽獣」と同等と見なされることになる。
(…)
現代のわれわれであれば、父子の関係と夫婦の関係は異なる人間関係であるから、良好な父子の関係を結んでいる者が、夫婦の関係においても必ず良好であり得るとは考えない。他方、「人倫」の考え方の下では、父子の関係において「孝」である者は、自らが「人」としてふるまえる者であることをすでに証し得た者であり、他の人間関係においても同様に「人」としてふるまえることが十分に期待されることになる。
<(p.240-242, 解説)
JRF2025/2/195226
赤子の段階からある孝が「人倫」すべての基礎になる…と考えるようだ。おそらく、仮に「五倫」のどれかに反することがあっても「孝」ができていたなら、その者に否はないのかもしれない…と想定される(推定無罪)ということでもあるのだろう。
JRF2025/2/190651
……。
……。
本の最初に戻って『孝経』。
JRF2025/2/196816
……。
>孝は親につかえることから始まり、君主につかえることを間にはさんで、[父母の名を辱めないよう]自分の身を築き上げることで終わるのだ。<(p.14, 孝経)
孝の仕上げに「立身」が必要なんだね。親と共依存みたくなってはならず、立身してやっと孝が完成する…と。親もだから子に頼り切りというわけにはいかないのだろう。親の在り方については、『孝経』は何も説かない感じだが。
JRF2025/2/195755
……。
>[父に対する]孝によって主君につかえれば[主君を思いやる]忠となり、[父に対する]敬によって年長者につかえれば[すなおに人に従う]順となる。この忠と順とを失うことなく上位の者につかえて[士としての任務を全うし]、そうして官位と俸禄とを保って、祖先への祭祀を絶やすことがないというのが、士の孝のあらましなのだ。<(p.23, 孝経)
忠順過ぎるのは、卑屈ではないかともちょっと感じるのだが、忠順をあっけらかんと肯定するのが孝経の自己啓発性なのかな…と思う。こういう経に依るとなれば、主君の責任もやや免れうるとなるのかもしれない。
JRF2025/2/194998
ただ、こういう曾子教団の孝の教えは、単純には、親からは人気があったろう…とは思う。逆にあからさま過ぎて、敬遠されていた…とかでないかぎり。
JRF2025/2/196943
……。
孝は天の常であり、地のめぐみであるから…、
>そうして天下の人々を教え導くのであれば、その教えは厳しくなくても[おのずと]成果を得ることになるし、その政[まつりごと]は厳しくしなくても[おのずと世は]治まるものだ。<(p.27, 孝経)
確かに孝を尊ぶ忠順な民ならば、支配しやすかろうとは思う。支配しやすければ、予算などに余裕が生じる好循環もあるのだろう。この辺は、有神論の基本定理の論理に似ていなくもない。
JRF2025/2/193246
『宗教学雑考集 第1.0版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。
…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。
善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。
JRF2025/2/191006
例えば、災害が起きたときにその災害が人間の悪の結果起きたと考えるのはほぼ間違いだとしても、人間が因果応報を信じて、善い行い…災害後の統率の取れた行動のような無意識的なものや災害準備のような意識的なもの…をし続けていたことで、個々に不満はあるかもしれないが、大きく見ればその被害がマシになることはある。そういう面では、因果応報は認めうる。
<
この忠順の強調は、「日本人が善良である」という言説で、民衆を慰撫するのに現代では現れてるかな。ただ、こういうのは現状追認の一種の愚民政策の一面とも言えるので、社会や科学の発展の肯定を欠くという側面はあるように思う。
JRF2025/2/190772
……。
>敢えて鰥寡[かんか]を侮[あなどら]ず -- 年老いて妻がいない者を「鰥[やもお]」、夫がいない者を「寡[やもめ]」と言う。
(…)
国を治める者[たる諸侯]は、[ふつうの]士や民はもちろんのこと、年老いた独り身の者のことさえも軽んじなかった。だから民衆たちはよろこんで[諸侯の祭祀を助け]、そうして先君[のみたま]におつかえしたのだ。
<(p.30, 孝経)
JRF2025/2/194098
独身者は、学ぶ時間がそうでない者よりあることがあり、そういうインテリをちゃんと飼うのが、国を治めるのにつながる…ということかもしれない。
ただ、現代、独身者が増え過ぎてる時代で、私も独身者だ。それに福祉がどうなるのか…とは思う。孝経がすすめるようにちゃんと養ってもらえるのならありがたいが、多くは望めないだろうというのも、感じる。この先、私はどうなるのか…。
JRF2025/2/192748
……。
>親につかえる者は上位に就いても思い上がらないし、下位に就いても反乱を起こしたりしないし、人々の間にあっても争ったりしない。(…)[親に心配をかけるこの]三つのことが除かれないならば、日々に三牲(牛、羊、豚肉を用いたごちそう)で[親を]養ったとしても、それでもなお不孝者なのだ。<(p.41, 孝経)
JRF2025/2/198128
親に心配をかけないのも大事な孝行…と。ただ、新しい時代に新しい働き方をせねばならないことはあり、それは心配させるものだ。…結果として心配をなくせば、それでいいのかな…? そうなるには社会がそういう働き方を(経済的にも)包摂していく必要がある。そういう社会であることが、そういう社会にしていくことが、全体として孝行である…とは言えるのかな。
JRF2025/2/196266
……。
諫言は必要という儒教の基本線は、孝経においても変わらないようだ。
>父に争子あるときは、則ち身、不義に陥らず。(…)
(…)
父に諫言する子がいるときは、その身が不義に陥ることはなかったのだ。だから[父や主君の]不義に対しては、子は父を諫めないわけにはいかず、臣下は主君を諫めないわけにはいかないのだ。よって不義に対しては諫めるものであって、[ただ]父の言いつけに従う[だけ]ならば、はたまたどうして孝であると言うことができようか。
<(p.50-51, 孝経)
JRF2025/2/199692
……。
>孔子は言われた、[すぐれた人である]君子が主君につかえるに際しては、主君のもとに進み出た時には[主君への]忠[まごころ]を尽くすことを考え、主君のもとから[家に]退いた時には[自分の配慮が足りなくて主君が犯してしまった]過ちを補うてだてを考え[つねに主君のことを心に思い]、主君の美点についてはそれを助け伸ばして従い、主君の欠点についてはそれを正して[その難から]救う。だから[君臣]上下ともに相い親しむことになるのだ。<(p.56, 孝経)
JRF2025/2/191316
主君の過ちを補う…というのは私の萌えポイントかな。昔↓みたいなことを書いた。
『宗教学雑考集 第1.0版』《信じるバカは恐ろしい》
>純朴な信心を持ったリーダーを頂く者は大変だ。
「バカ」はたとえ組織すべてが罪に定められようとも、
自らの罪を抱いて信じるところに人々を巻き込んで行く。
部下逹は「バカ」を操っていると思うしかない。
「バカが素直に間違いを犯し、指示を理解できないことがある。」
そう考えて「バカ」のせいにしないとやってられない。
自分が巻き込まれた罪の重荷を見たくないから。
自分がバカになるわけにもいかないから。
<
JRF2025/2/192822
……。
……。
『曾子』に入る。
JRF2025/2/195857
……。
>君子は必ず正しい典籍によって学び、必ず[問う]順序をわきまえて質問する。質問してよく分からなかった場合は、先生の時間がある時に様子をうかがってから再び質問し、[先生が再び]説明してくれなくても、無理に説明を請うようなことはしない。<(p.68, 曾子立事)
「正しい典籍」に私の『宗教学雑考集』が入るはずはないので、正しい典籍以外も興味を持って読んで欲しいと私は願うが、それはそれとして…。
JRF2025/2/192356
「先生が再び説明してくれなくても、無理に説明を請うようなことはしない」というのは、私には難しかったことを思い出す。私は「先生」に期待をし過ぎていた。概ねそれが応えられたからで、先生達は偉かったと言えるが、しかし、それが大きな負荷を与えていたことも事実だろう。先生となるなら、そういう負荷はごめん被りたいのが正直なところだ。もちろん、負荷があっても応えたい、応えられたら自己を誇れる…という気持ちはあるにせよ。
JRF2025/2/199920
……。
>君子は広く学ぶが狭く[絞った専門を]守り、言葉はひかえめにして[言ったことは」きっちりと行う。<(p.70, 曾子立事)
ネット黎明期かな、広く科学的知識を持って解説する人物が求められていた。私もそれを少し目指した感があったが、ぜんぜん理想とするところにいたらなかった。広く知識を得るというのを肯定するためには、専門性で落伍する自分を認め、ある種のトンデモを無碍に扱わない必要もあって、そこで時間が取られる…という面があったように思う。専門性に閉じこもるというのは、必要なことだったんだな…と思う。
JRF2025/2/195814
……。
>自分の善行は些細なこととして[取り上げず]、人の善行は些細なこととしない[で取り上げる]。<(p.72, 曾子立事)
『宗教学雑考集 第1.0版』《ダブルスタンダードの是認》
>私は、「自分に厳しく他人には甘く」というのは当然そうあるべきだと考える。自分には甘くしてしまいがちだから、それぐらいでちょうどいい。
もちろん、人によっては残業をすることが厳しさであったり、逆に定時に帰ることが厳しさだったり…といった具合に人によって「厳しさ」の定義が違うことに注意しなければならない。
JRF2025/2/193518
ある人から見たとき、自分にだけ甘い基準を適用しているように見えることがある。それをマネして良いという開き直りがあるとマズい。そういうことがないようシングルスタンダードのように見せるため、自分と他人とを同じ基準にしたほうがわかりやすい。シグナルとしてはシングルスタンダードを使ったほうが良いものと思われる。
ただ、基本は「自分に厳しく他人には甘く」のダブルスタンダードである。同じ基準で程度の違いを出せるなら、そこで自分を厳しめにしていくことはときに必要だろう。他人も守ることができる「建前」と自らに厳しくして搾[しぼ]り出される「本音」があるべきなのだろう。
<
JRF2025/2/195012
……。
>君子は禍[わざわ]いが降りかからぬよう配慮し、辱めを受けぬようおそれ慎む。善を見ればそれに関与できないことを恐れ、不善を見ればそれが身に及ぶことを恐れる。だから君子はおそれ慎んで一生を過ごすのだ。<(p.73, 曾子立事)
どうも『曾子』には小心翼翼として生きることの是認があるようだ。昔、豪放磊落を良しとするような例えば薩摩男児とかは、これをどう学んでいたのだろう?
JRF2025/2/198116
……。
>君子は(…)あらゆる場合に常に徳行を行うことを人に強いたりはしない。<(p.83, 曾子立事)
現実的な側面…ではあるだろうが、それが曾子教団にとっては良いことだったのかは疑問がある。原則が守られないように、または教団が弱く見えたことがあっただろうから。↓を思い出す。
『宗教学雑考集 第1.0版』《正教とロシア革命前夜 - 『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》を読んで》
JRF2025/2/197910
>歴史的にはカトリックと較べて、(…ロシア正教の…)教会は、安定を指向して自分達が悪をなすことを徹底的に否定する一方、外部の圧力に対し簡単に自分達の限界を受け入れてしまうように見える。それを人々が見て模範のように見えないとき、人々はどう判断するのだろうか。例えば、ロシア革命前夜、「解放」に向かったはずの社会で何もできない教会を人々はどう考えただろうか。<
JRF2025/2/194479
……。
>多くの人と知り合いはするが特に親しくする人がいない者、あれこれと広く学びはするが学ぶ方向性の見えない者、多くを語りはするが話にまとまりのない者、こういう人物を君子は認めない。<(p.90, 曾子立事)
「あれこれと広く学びはするが学ぶ方向性の見えない者、多くを語りはするが話にまとまりのない者」…私はまさにこういう人物で耳が痛い。orz
JRF2025/2/195058
……。
>三十、四十になって学芸が身に付いていないならば、学芸は[一生]身に付かない。五十になってよい評判が得られないならば、よい評判は[一生]得られない。七十になって徳が身に付いていないならば、[もはやどうにもならないから]多少の過ちを犯しても、許してやらねばならぬ。<(p.97, 曾子立事)
五十を過ぎてよい評判を得られてない私は…。いや、まだ五十代だから、その間に「よい評判」を得ればいい…と考えたい。orz
JRF2025/2/199045
……。
>君子は不善について、その身に行わないことはできるが、顔色にも出さないというのはなかなかできないものだ。顔色に出さないということはまだできるが、心にも思わないというのはなかなかできないものだ。<(p.106, 曾子立事)
『宗教学雑考集 第1.0版』《ポルノと姦淫》でも論じたが、新約聖書『マタイによる福音書』5:28 の「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 」を思い出す。曾子の場合は心の中で思っていたところで、君子性は失われない…とするようだ。
JRF2025/2/198915
……。
>君子は我が子に対して、愛しはするがそれを顔に出すことはなく、手伝いをさせた場合も態度で労うことはなく、[そうして親としての威厳を示しつつ]道義によって導くが、無理強いすることはない。<(p.114, 曾子立事)
「クソ親」とか「親ガチャ」とかネットでは話題になるが、前時代の親のハードボイルド性が理解されてない面もあるのかな…と少し思う。
JRF2025/2/192216
……。
>曾子は言われた、君子が孝道を成し遂げるにあたっては忠[まごころ]を用い、礼を貴ぶもの。だから子であって、自分の父に孝を尽くすことができない者は、自分の子を養うことができない父のことを責めたりしない。<(p.125, 曾子立孝)
この部分、意味不明である。
「自分の父に孝を尽くすことができないと言うのは、父が自分の子を養うことができないと言うことの婉曲表現であって、実際には養うに不十分だからとて孝を尽くさないというのはありえない。」…ぐらいの意味ならわかるのだが。
JRF2025/2/190787
Gemini さんに聴くと次のような解釈を教えられた。
Gemini> 「子が父を責めたりしないのは、父を許すからではなく、孝の道は親子の情を超えるものであることを知っているからである」
という解釈も考えられます。
JRF2025/2/191325
……。
>[弟子の]公明儀が曾子にたずねて言った、先生[ご自身]は孝[を体現している]と言えますか。曾子は言われた、何たることを言うのか、何たることを。君子が言う孝とは、[父母の]心の動きをあらかじめ察して、その意向に従いながらも、父母を道[から外れることのないよう]に導くもののこと。わたしは、ただ[父母の心身を]養う者に過ぎない。どうして孝[を体現している]と言えようか。<(p.134, 曾子大孝)
JRF2025/2/198298
謙遜ではあるが、曾子ですら「孝」ではなく「養」しかできなかった…と。「孝」は、それほど理想的なもの…「聖人」のように理想的なもの…ということでもあるだろう。孝ができなかったと惜しむ姿を子に伝えるべきものなのだろう。
JRF2025/2/199637
……。
>戦陣に際して勇敢でないのは、孝とは言えない。
(…)
君子の言う孝とは、国中の人が「なんとも幸運なこと、このような子を持てるのは」と称賛して[そのような子を持つことを]願うような形のもの。
<(p.136-137, 曾子大孝)
親が卑怯でも生きて欲しいと願うようにではなく、国中の人が「孝子」だとたたえるようにあるべきだ…ということのようだ。ここが、『曾子』の国の学としての、御用思想としての側面のもっとも顕著な部分だろう。
JRF2025/2/199105
……。
>孝子の諫は、善を達[いた]して敢えて争辨[そうべん]せず。
(…)
『礼記』曲礼下篇に「子の親に事うるや、三たび諫めて聴かれざれば、則ち号泣してこれに随う」とあるように、最終的には親に従うのが孝であるとされる。
(…)
自分が諫めることで親にわざわいが無いようにしようとするのであれば[親子の関係は]安寧であるが、[思い上がって]自分が諫めることで親を人よりすぐれるようにしようとするのであれば、[親子の関係は]混乱する。
<(p.150-151, 曾子事父母)
JRF2025/2/197214
『礼記』曲礼下篇では、この引用の前部分に、君子については、三度聴き入れられなければ逃がれる…とある。しかし、親の場合には従うしかない…と。厳しい。
《禮記/曲禮下 - Wikisource》
https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%A6%AE%E8%A8%98/%E6%9B%B2%E7%A6%AE%E4%B8%8B
>人臣たるの禮は顯[あら]はに諫めず。三たび諫めて聽かれざれば則ち之を逃[さ]る。 子の親に事[つか]ふるや、三たび諫めて聽かれざれば則ち號泣[がうきふ]して之に隨[したが]ふ。<
JRF2025/2/199043
……。
>士が仁義を堅く守っても人に知られないというのは、仁義を行うことがまだ十分ではないからだ。[十分であったならば]どうして人に知られないということがあろう。<(p.162-163, 曾子制言上)
人に知られるために仁義を守るではないにしろ、仁義を守っていれば人に知られる…そうだろうか? 逮捕とかされたときに「そんなことをやるような人に思えなかった」と噂になることができるぐらいではないのか? 顔の見えないネット社会で仁義を守ってる気になってるだけだから、こういう感想に私はなってしまうのかな…。
JRF2025/2/190603
……。
>裕福で恥をさらして生きるよりは、貧しくても誉れあるのがよい。生きて辱めを受けるよりは、栄[は]えある死を選ぶのがよい。辱めは可能な限り避ける努力をするが、どうしても避けられないとなれば、君子は[帰るべきところに]帰るかのように死を選ぶのだ。<(p.168, 曾子制言上)
かっこいい教えだが、これは現代、守らぬほうが吉だ。生活保護という制度があるからか、逆に人は救ってくれない。正しい者を守ろうとはしない面があると思う。今の時代、恥だと思っても最後のところではみじめにでも生きようとすべきだと思う。
JRF2025/2/199421
……。
>今の弟子たちは、人の下に就くのを嫌い、賢者につかえることを知らず、無知がばれるのを恥じて問うことをせず、[その結果]何かを行おうと思っても智慧が足りないことになる。<(p.171, 曾子制言上)
JRF2025/2/195865
最近の若者は、無知がばれるのを恥じているというのは Twitter (X) でも最近見た。しかし、Google や AI がある時代に、無知をそのままにするのは恥じているからではないように思う。もっと人のつながりを大切にして、人に教えられることを待ってる面もあるのではないか。そうやって関係を築くことの大切さを重視しているのでは…と思う。私は Google や AI に頼り過ぎて、人間関係という面がおろそかになっていて、余計そう思うという面もあるだろうけど。
JRF2025/2/193428
Gemini さんにこれをぶつけたところ…。
Gemini> AIに頼りすぎず、人との繋がりを大切にすること。
それが、現代社会を生きる上で、重要な智慧となるのではないでしょうか。
JRF2025/2/194521
……。
>君子は、自分の言葉が受け入れられなくても必ずまごころを尽くして語るのを「道」と言い、自分の行動が受け入れられなくても必ずまごころを尽くして行動するのを「仁」と言い、自分の諫めが受け入れられなくても必ずまごころを尽くして諫めるのを「智」と言う。<(p.180-181, 曾子制言中)
JRF2025/2/193101
諫 is a subset of 言葉。だから、智 is a subset of 道 なのか、というとそういう面もあるだろうが、智 is not a subset of 道 として、ここの 諫 is not a subset of 言葉と考えるべきなのだろう。つまり、ここの「言葉」は主に師や父が下々に説く言葉なのだろう。
また、諫言は「智」より出ねばならないということでもあるのだろう。
JRF2025/2/199080
……。
>いつもの自分からかけ離れたことは言わない、これが[自分が]言葉の主[ぬし][となっている]ということ。いつもの自分からかけ離れたことは行わない、これが[自分が]行為の根[となっている]ということ。<(p.197, 曾子疾病)
私の『宗教学雑考集』とか今の自分の立場からかけ離れた身のほど知らずの言いだよな…と反省する。でも、隠者的ではあるのではないか?
JRF2025/2/190084
……。
>いつまでも変わらずに学問を好み続ける人を、わたしは見たことがない。病気の子供に食事の世話をするように[献身的に人に]教える人を、わたしは見たことがない。[自分の行いについて]日々反省し、月々にそれを友人に正してもらう人を、わたしは見たことがない。学びに来る人を倦[う]むことなく受け入れて[その欠点を]改めてあげる人を、わたしは見たことがない。<(p.201, 曾子疾病)
これはそういう人を見てみたいので、あなたがたがそうなれ…という誘いではあるのだろう。ただ、そういう人がいないのにはワケがあるということでもあるだろう。
JRF2025/2/192145
学問を好み続けては、立身が成り立たない。競争社会に出れば、学問は脇に置かざるを得ないということもあろう。
教えるときは、自主性も促さなければならないから、「病気の子供に食事の世話をするように」しては相手のためにならないというのもあろう。
日々反省することがあっても、友人に指摘されるまで改めない…と受け取られてはならないという面もあろう。
学びに来る人の地位はさまざまで、平等に接すれば疎んじられることも出てくるし、逆に差を付ければ、信用されないことも出てくるので難しいという面もあるだろう。
JRF2025/2/192525
『孝経・曾子』(末永高康 訳注, 岩波文庫 青211-1, 2024年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003321197
https://7net.omni7.jp/detail/5111343704
孔子の弟子の曾子、それに連なる集団の作とされる『孝経』と『曾子』。「孝」を教える古典で、かつてはよく読まれたが、現代には存在感が薄い本。解説には「人工知能による人間の支配」が言及される新しい訳。
JRF2025/2/197083