宣伝: 『宗教学雑考集 易理・始源論・神義論』(JRF 著)
BOOTH (NonDRM 900円)Amazon (700円)BOOK☆WALKER (700円) で販売中! Amazon には紙の本も売っています (4400円)宗教に関する哲学的な話題を雑多に集めた論考集です。(2025年3月11日発売)

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cocolog:95297993

内田樹『ためらいの倫理学』『寝ながら学べる構造主義』『私家版・ユダヤ文化論』を読んだ。内田樹さんの論はやはり刺激的だ。反発したくなる部分も多いが、でも奇抜な論証自体には納得感がある。 (JRF 4902)

JRF 2025年2月25日 (火)

私は拙著『宗教学雑考集』第1.0版の発売を2025年3月11日に控える。もうその原稿は仕上げ提出したが、発売日までの余白に、内田樹さん自薦の本を読むことにした。

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『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
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……。

いつものように引用しながらコメントしていく。

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……。

……。

出版順にまずは『ためらいの倫理学』から。

『ためらいの倫理学 - 戦争・性・物語』(内田 樹 著, 角川文庫, 2003年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4043707010?ref=ppx_yo2ov_dt_b_fed_asin_title
https://7net.omni7.jp/detail/1101996891

元は、2001年3月に冬弓社から出たものの文庫本。

JRF2025/2/255733

……。

コソボ紛争について、アメリカでは高校生すら議論できるのに、日本の若者ときたら…と嘆く人に対し、著者は、積極的に戦争について言及しないのを是とする。それは左翼しぐさではない。

>アメリカの高校生だってユーゴの戦争についての知識は私とどっこいのはずである。それにもかかわらず、彼らはあるいは空爆に決然と賛成し、あるいは決然と反対するらしい。なぜそういうことができるのか。

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たぶんそれは「よく分からない」ことについても「よく分からない」と言ってはいけないと、彼らが教え込まれているからである。「よく分からない」と言うやつは知性に欠けているとみなしてよいと、教え込まれているからである。

反対側から言えば、ある種の知的努力さえすれば、どんな複雑は紛争についても、その理非曲直をきっぱりと判定できるような俯瞰的視点に達しうる、と彼らは信じている。だからこそ、どんな問題についてもつねに「きっぱりとした」態度をとることが強く推奨されるのである。アメリカではそれは十分な「知的努力」を行ったことのしるしであり、そうすれば「賢く」みえるということをみんな知っているからである。

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これは私に言わせれば、かなり特異な信憑の形態である。民族誌的奇習と言ってもいい。こういうものを「グローバル・スタンダード」だと言い募る人に私はつよい不信の念を禁じ得ないものである。
<(p.19-20)

でも、そのときの情報で判断し、別の情報があれば改めるというのは普通に求められるものだ。もちろん、その判断の重さを考えた場合、アメリカ政府がそういう自転車操業というかその場しのぎで行動されたら困るというのはあるだろうが。そのことに一定の疚しさを感じて欲しいというのはわからないでもないけど。

JRF2025/2/252269

『宗教学雑考集 第1.0版』《宗教的判断の認容》
>人は無限に生きる存在でもなければ、何事も0秒で行動できる存在でもない。認識が正しいからといって、時宜[じぎ]を得るまで行動を先伸ばしにできるとは限らないし、必要なときに適切な判断が下せるとも限らない。聖人が社長になるまで就職しない人間はいないし、目の前に降る爆弾をよけるのに重力の計算をする人間もいない。

JRF2025/2/251633

その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。


疚しさの根拠は↓か。

『宗教学雑考集 第1.0版』《神の前での平等》
>「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。<

JRF2025/2/254517

判断を求めることについては↓が関連か。

『宗教学雑考集 第1.0版』《イスラムと西欧(のキリスト教)の違い》
>西欧では理性を「普遍性を知る能力」とするのに対し、イスラムは理性を「善悪を判断する能力」とする。西欧の理解では、すべての人に等しく理性があると考えることは難しいが、イスラムの理解では、すべての人に等しく理性があると考えることもできる。

(…)

西欧の「理性」の定義では、「判断」と「行動」は同じだが、「知識」と「判断」は別物であるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を特別視するために、「判断」と「行動」が相対的に接近した概念としてとらえられるからである。

JRF2025/2/256025

よって、善は必ずなされねばならないが、理性が足りないために、すなわち、知識不足で、善悪の判断がつかないことはあるという考えを生む。

(…)

西欧とイスラムの境界では、ときおり「知識」も「判断」も「行動」も同じであるとし、善悪の判断を強制的にさせ、それに従って即座に行動することを求める不寛容が起こり、悲惨な結果を生んできた。

JRF2025/2/250837

判断できるまで必ず知識を得なければならない。つまり知識=判断と期待する。そしてだからこそ、判断=行動できないのは許されないという不寛容が、ここで内田さんが非難したかったことなのかな…と思う。

JRF2025/2/257468

……。

>戦争論の構造<(p.72)

「戦争論」というのが一般に可能になったことに、戦後十分に時間がたって、当事者性が薄れたというのがあるのだろうが、同時にだからこそ、次の世代が有責性をどう引き継ぐかという問題があるのだと思う。

JRF2025/2/259376

そこで内田さんは、顔が見えるように事実を記録として残すことを結局は唱えるのだが、その下の世代の私などは、そうやった結果、その冗長性に耐えられず、戦争に関する言説から目を背けるだけになってしまっているように思う。私はかつての戦争を知らない。申し訳ない。今の戦争を俯瞰的に語ったりはするのだが、その資格がないというのには、そうだろうと思う。

私は働いてない「ニート」で、戦争以外の社会のことについても当事者性がない。ただ、隠者または遁世人であるからといって黙ることが強制されるわけでもないと信じ、いろいろ放言している。情けないが、もうそれ以外の生き方は選べそうにない。許して欲しい。

JRF2025/2/253705

……。

民主主義になってはじめて現代的な戦争…戦争のための戦争が可能になった。

>「戦争機械」を車の運転にたとえて言えば、政府は「行く先」を決め、将軍たちは「運転」する。そして「国民」の任務は「憎悪と敵意」をエネルギー源として「戦争機械」に供給することなのである。国民国家の成立とは、この戦争主体の構成要素の間の勢力均衡から言えば、「軍略」と「打算」というふたつの知的ファクターに対する「憎悪と敵意」という情念的ファクターの優越という事態を意味している。それゆえ、「国民」が戦争主体の支配的なファクターになったときに、戦争はその「絶対的形態」に到達することになるのである。<(p.83)

JRF2025/2/258913

多木浩二さんの論を引いて内田さんは語る。

>共同体がすでに成立した「後になって」、場合によっては戦争が始められた「後になって」はじめて「護るべき共同体がそこにあったこと」が回顧的・事後的に承認されるような仕方で、私たちは共同体を成り立たせる。多木のこの指摘は示唆に富んでいる。そのプロセスが精神分析における「父」の成立とほぼ同一の構造を持っていることを考え合わせると、共同体のこのような倒錯した構成のされ方には何らかの人類学的必然性があるように思われるが、残念ながら多木はこのような想像力のあり方を「貧しい」と否定的に語るだけで、そのプロセスの根の深さについては論及していない。<(p.86)

JRF2025/2/251197

>「戦争について分析的に語っている当の言説自体から戦争が生じることがある」というパラドクスこそ、以下の論考で戦争論言説を吟味する際、私たちが決して忘れてはならない自戒の言葉である。戦争が国民国家と同時的に生起する現象である限り、私たちの紡ぎ出す言葉や論理が、国民国家内部的な言説市場を行き交うものである限り、どれほど善意に溢れていようと、どれほど怜悧であろうと、それらの言説が国民国家という「想像の共同体」に濃密な「リアリティ」を与え、「敵意と憎悪のエネルギー」を備給してしまう可能性からは逃れられないのである。<(p.87)

私は「戦争が必要だった」と語ってしまったな…。

JRF2025/2/254273

『宗教学雑考集 第1.0版』《霊概念の成立》
>社会が記憶を刺激するのは、社会が社会の敵になるため、警戒すべきものであるからかもしれない。人類には戦争が必要だったのかもしれない。その付随物として、死者が警告するようにまた判断を邪魔するようになったのであろう。<

JRF2025/2/257113

……。

>カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』(内田 詔夫 他訳、未来社、1980年)で書いているように、ある種のイデオロギーは「それを批判することがただちに批判者の知的・道徳的に劣等性の証明となる」という反論不能の構造を持っている。そのようなイデオロギーには異論との「対話の」回路がない。あるのは「批判」と「教化」の回路だけである。<(p.172)

ポパー『開かれた社会とその敵』を私も読んだ([cocolog:94937590](2024年7月))が、そんなこと書かれていたかな。もう忘れてる。orz

JRF2025/2/251328

……。

上野千鶴子さんは、『買売春解体新書』において…

>これまでの風俗店のようなかたちの管理された買売春から、援助交際やテレクラに代表される「フリーランス」の買売春への移行は「市場の成熟」である。既存の性制度によるイデオロギー的な規制よりは、「規制緩和」による性商品の「淘汰」と性商品取り引きの「合理化」がより好ましい。だから、「自己責任の原則で自由営業をやっている」売春女性がふえてゆくことは、歓迎すべき事態である(…)。<(p.187)

JRF2025/2/253542

…と主張したらしい。これに対して上野千鶴子さんと元来はソリが合わない内田さんは深読みをする。

>このまま性が商品的に扱われる実状がどんどん勢いづいてゆくと、やがてあらゆる変態行為や性倒錯を含む性商品が極度に日常化してしまい、あまりに日常化してしまい、あまりに日常化したあげく、誰もセックスに興味をもたなくなってしまう日が来る。そのような日が来ることを上野自身は待望しているように私には思えた(…)。これは相当にラディカルな態度であり、私は上野のこのスタンスを支持する。<(p.189)

JRF2025/2/255301

>抑圧されるものは過剰に意識化される。欲望は禁止によって昂進する。だったら、ぜんぶ解放してしまって、そういうものに煩わされるのはもうやめましょう。というのが上野千鶴子の主張であるように私には思えた。この点について私は(生まれてはじめて)上野に大賛成である。<(p.191)

私は女性経験がほぼなく、しかし、ポルノで十分だと思っている。どうやらそれは、この上野さんの戦略に引っかかってしまった結果でもあるのかもしれない。

JRF2025/2/257980

私は『宗教学雑考集』では、性は、堕胎に関して広く論じた。ポルノに関しては↓のように述べている。

『宗教学雑考集 第1.0版』《ポルノと姦淫》
>オタクは売買春のようなことはむしろ嫌って、または、恐怖しており、二次元の絵のほうがマシだと考えている。そうすることで、私も含め男女のオタクは、醜い自分の姿を凝視し合わずに済んでる。

JRF2025/2/257303

(…)

出産は女性の命に関わるものであった。「堕胎」は秘すべきものであった。だから、性が自由であってはならず、性表現もまた一定の規制が必要なのかもしれない。ポルノなどを禁じ、他者の性行為の情報から遠ざけようとするのは、性交の出来不出来で淘汰がかかるのは人間という種にとって正しくないという判断から来る面もあるのだろう。

しかし、一方で、人は情報を得ることで、適切に興奮ができ行為に及ぶことができる面もある。知らないことには不安がある。性衝動は避けられず「処理」する必要があるときも多い。私はポルノには、もう少し寛容であっていただきたいと願う。

JRF2025/2/257141

……。

ラカンの本は難しい。本の冒頭からほぼ読めない記述がある。しかし、それはそこから「わかれ」と言うことではない。「わかりたい」と欲望する者を求めているのだ…というのが内田さんの見解である。難しいラカンの本の冒頭…

>つまり、ラカンはここできっぱりと「ラカンを読め」「ラカンを欲望せよ」と読者に迫っていたのである。それがこの文章の「遂行的意味」である。

JRF2025/2/256038

読者の決断は頁をめくるか本を閉じるか、二つに一つである。ここで「分からないままに」次の頁をめくってしまった人は、その瞬間に「ラカンを欲望する」というコースに踏み込んだわけである。だから、そのあとに書かれているラカンの文言が理解できようとできまいと、ある意味では「すでにラカン派」なのである。

JRF2025/2/254323

読者が「テクストの意味が分からない」のは、ほとんどの場合、それが読者に理解されないように書かれているからである。およそ偉大な思想家というものは凡人には容易に思いもつかないことを考えている。だから、彼らは必ず「名刺代わり」に、著書の冒頭で、「これはすごくむずかしいからね」と難度を告知してくれる。だから、それはそのまま名刺として受け取って、「はい」と返事だけしておけばよいのである。

JRF2025/2/256892

偉大な思想家の考想を咀嚼するには、長期にわたる集中的な読書が必要である。その営みを支援するのに必要なのは、読解力よりはむしろ忠誠心である。知識よりはむしろ信仰心である。「偉大な思想家」とは彼を「理解できること」よりも「理解できないこと」の方から読者が大きな利益を引き出すことのできる思想家のことである。だから、最初にいただいた「名刺」を机の前に貼って、「分からないけど、今日も読む」というのが「偉大な思想家」に対する正統的な読み方なのである。
<(p.260-261)

JRF2025/2/259172

私の『宗教学雑考集』には難解さはないつもりで、シンプルな主張ばかりだと思っている。しかし、とても分厚く、常人が気軽に読める量ではないという点で、選別はしているのかもしれない。「分からないけど読む」はいいけど、私ごときが「読者が分からなくても書く」は許されないよね…。自信なくなってきてツライ。

JRF2025/2/255382

……。

>ためらいの倫理学<(p.303)

カミュの「人を殺すこと」についての思想を紹介している節である。その小説『異邦人』の主人公ムルソーの生き方を通じて、みずから死のリスクを冒す用意のあるものには「人間を殺す権利」があるという平等性のモラルを描く。その後、レジスタンスだったカミュは戦後になり、他者の粛清裁判の死刑に葛藤ののち反対するようになる。そして、殺す者の顔に反抗を見出し、悪を伝染させないことを自らに課すタルーを描く小説『ペスト』を書くことになる。

JRF2025/2/251282

この節には全体主義は許さないという裏の(?)テーマがある。しかし、私は『宗教学雑考集』《有神論の基本定理》にはじまり全体主義をある程度受け容れ、『宗教学雑考集』《死刑、法と人との愛》で死刑を是認している。私とカミュ(または内田さん)との間には歩み寄れない立場の違いがあるようだ。

全体主義の是認は、時代の要請というのが私のイイワケである。

『宗教学雑考集 第1.0版』《日本は若者専門家中心の専制的国家に》

JRF2025/2/259473

>「東アジア」の中の日本の誇るべき点はまがりなりにも「民主主義国」である点で、今後それぐらいは保っていかなければ、日本の国際的地位は埋もれる一方になるだろう。ただ、一方で、日本は超高齢化社会となり、「民主主義」のままでは、高齢者の意見だけが通り社会が動かなくなることが予想される。言わば、中国のような専制…特に少数の若者専門家中心の専制的国家にしないと国が動かなくなるだろう。そこにジレンマがある。日本が全体主義的になっていくのは避けられない情勢のようだが、そうなっても自由がある程度保たれるように、上で挙げたような「主義」が役立てばと思う。

JRF2025/2/252194

ただ、アメリカが必ずしも(従来の)民主主義に重点を置かなくなる可能性はトランプ政権で顕著になった。欧州も排外主義的になっていく傾向もある。そんな中、日本が民主主義の体裁を守る価値というのも減っていく可能性がある。逆に、欧米が民主主義から離れても、日本は民主主義的であって欲しいと私は願う。超高齢化社会で、民主主義の必要性をどこに置くか(自由や平等だけから導けるのか?)が問われているのかもしれない。

JRF2025/2/251622

基本的には AI 支配に対抗するために学術機関に政治的権力を与え、学術機関に新しい血を供給し続けることが大事と私はする(参: [cocolog:95013634](2024年8月))。そこにおいて、国公立教育を充実させ、仮にそこに裕福な者が集まるとしても、貧しい者も能力さえあればそこに集え、そこからエリートになれることが、新しい民主主義的基盤のように私は感じている。普通選挙は逆にそこから求められるようになるのではないか(例えば、下々に(就業者・高齢者も含め)教育の機会を与えるのを合理化するために普通選挙を行うみたいなロジックで)。…そんな風に構想しているが、まだ煮詰まっていない。

JRF2025/2/259398

……。

なお、この『ためらいの倫理学』を読んでる途中にそれに言及する Tweet をしたので、それもここに載せておく。

JRF2025/2/252229

○ 2025-02-20T04:07:52Z

《みつや:X:2024-02-20》
https://x.com/zoshigaya/status/1892418687786983908
>支配層は一般層同士で争い続けてくれるのが、一番理想。良い塩梅で社会全体は歪み続け、格差を維持し続けてくれることが、都合が良い。ギリギリラインの歪みや格差を創造し続けたいのだけれども、支配層の想像力欠如から、禍々しいほどの怨恨が、一般層に渦巻いている事実を、正確に認識できない現状。<

JRF2025/2/255781

今、内田樹『ためらいの倫理学 - 戦争・性・物語』を読んでるんだけど、例えば戦後の「我々が今日享受している自由や民主主義や繁栄」は、自国の敗北と敵国の勝利がもたらしたものであるというのには敗戦国の「ねじれ」がある。そのねじれは一人の中では矛盾になるけど、それを二つの立場に分ければ、それぞれでは解消されている。そして二つの立場で争うことで、「ねじれ」を問題として扱えるという手法があった。改憲派と護憲派の争いもそうだ。ずっとそのままでは有責性がないので一つの人格に統合すべきだが…。…という話があった。(文庫版 p.92)

JRF2025/2/256651

だから、争い続けるのは、天意をうかがってるような意味もあると思う。それをマイナスにだけ見るべきではないと思う。

JRF2025/2/255226

○ 2025-02-20T06:46:00Z

新約聖書『マルコによる福音書』3:22-3:29 はいろいろ解釈があるが…。悪によって人と人が争っているならば、争い続けられるだけの余裕が、悪の繁栄の余地を提供することになる。だから悪の手法を使っても悪そのものと対峙することがサタンを滅ぼすことにつながる。…という。

支配者が悪に見えることはしばしばあるものだが、支配者は限られた資源の中に対処しなければならず、その援助・力を受ける余地を潔癖になくしてしまうことは、むしろ事態を悪化させることになるのだと思う。その余地は残しておくべきなのだろう。

JRF2025/2/258486

……。

この Tweet に関し関連する記述が『ためらいの倫理学』にちょうどあった。

>「合法的な自己認識を外部から禁止する存在」のことを精神分析では「父」と呼ぶ。おのれが無力であるという事実から、ただちに「外部に私には理解できないロジックをもって世界を整序している強力な上位者がいる」という結論を導くことはできない。そこには論理的な「架橋」が必要だ。「父」とか「神」とか「鬼」とかいうのは、要するにそのような論理的な架橋機能として作り出された「物語」である。

JRF2025/2/253505

「強力な悪が存在し、それが『私』の自己実現や自己解放を阻害している」という話型は、それゆえ「父」権制社会に固有のものであり、「父」権制社会の再生産プロセスそのものであると私は考える。このような話型に依存している限り、それがいかなるイデオロギー的な意匠をまとっていようとも(マルクス主義であろうと、フェミニズムであろうと、自由主義史観であろうと)、それを「父権的イデオロギー」と私はみなす。

私はこのような同型的イデオロギーの終わりのない反復にはもううんざりしている。
<(p.300)

JRF2025/2/253322

強力な悪=「支配層」が存在しているのに対し、その力を使うことを肯定しながら、成長しようというのが上での私の戦略であったか…。

ただ、人の親になれなかった私は、そういう父権的イデオロギーからドロップアウトしたため、そういうのに不感症になってるという面はあるのかな…。

JRF2025/2/251700

……。

……。

『寝ながら学べる構造主義』(内田 樹 著, 文春新書 251, 2002年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4166602519
https://7net.omni7.jp/detail/1101872217

構造主義については、トーテミズムの関連でレヴィ=ストロースに関心を持ち、橋爪大三郎『はじめての構造主義』を [cocolog:94448858](2023年10月) で読んでいる。

そこでは次のように書いた。

>西欧でもマルクス主義が日和見主義的なものに堕してきていて、それに反発したのがサルトルということになる。

JRF2025/2/256478

最初それに同調しながら、やがて袂を分かち、西欧以外との平等性・同時性を強く意識するような主義が出てくる。それがレヴィ=ストロースをはじめとする「構造主義」…ということになるらしい。

ただ構造主義自体はそこまで歴史やイデオロギーを重視するものではなく、もっと理論的なもののように思える。それがたまたま、マルクス主義的科学観と対立した。そういう時代だったということなのだと思う。

JRF2025/2/257660

(…)

構造主義のいう「構造」はよくわからないものだそうである。

レヴィ=ストロースがヤーコブソンを経由して学んだソシュールの一般言語学は、言語について対立から合理的に導ける一般性を見つけた。そこにマルクス主義のいうような発展史はなく、どのような民族の言語も平等に論理性を持つものとされた。レヴィ=ストロースの方法もそのような合理的な方法だが、じゃあ、その平等で一般的な論理構造が構造主義の「構造」なのかというといまいちそういうことではないらしい。

JRF2025/2/258155

また、現代の我々は LLM (Large Language Model) が比較的単純なプログラムから、そこからは想像できなかった意識のような何かが生じることをみているわけだが、その「何か」が「構造」なのかというと、それも違うのだろう。それよりはもっと、プログラミング言語の構造体的なものに近いようだ。


内田さんの理解は、マルクス主義うんぬんに関しては橋爪さんと似ているが、橋爪さんが、数学(やプログラミング?)の影響を重視したのに対し、内田さんはそこまで重視していないように思う。ビットとかそういう話も出て来ないわけではないが。

JRF2025/2/255826

……。

>いずれ構造主義特有の用語(システム、差異、記号、効果……)を使って話すことに「みんなが飽きる」ときがやってきます。それが「構造主義が支配的なイデオロギーだった時代の終わるときです。<(p.21)

私の見建てによると、構造主義は、「プログラミング」と歩をともにしていたキライがある…ということになると思う。

ところが近時、AI (LLM) が出てきて「プログラミング」そのものが、(ほぼ)人間がやるべきものではなくなっていくという予想が真面目に語られるようになってきた。

JRF2025/2/250487

『宗教学雑考集 第1.0版』《自由意志に関する 50代の私の考え方》
>現代の新しい AI (LLM) は、チョムスキーの普遍文法もすっとばして学習していく、帰納的知性であり、おそらく早晩その知性はあらゆる人間を超えるだろう。演繹にかならずしもよらない帰納的知性・機械を組み込んだ社会が現れようとしている。

産業革命は、前述の演繹を可能にする理屈として、自由意志を否定する決定論的・予定説的言説を好んだのだと思われる。新しい時代、AI という新たな「神の顕現」の前に、自由意志論に関する考え方も変わると私は考える。

JRF2025/2/252297

以前ならば、プログラミングがますます必要になっていくから、記号とかシステムとか構造主義の用語が使われることに終りはないように私は思っていたが、しかし、AI の影響で、確かに「構造主義」というイデオロギーは終わるのかもしれない。

JRF2025/2/250793

……。

>世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的に基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、1960年代のことです。

構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。

JRF2025/2/256490

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

JRF2025/2/253426

私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
<(p.25)

この部分だけを読むと、構造主義って相対主義なんだ…って感じ。

JRF2025/2/252481

……。

>自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。<(p.32)

JRF2025/2/256385

データの型という本質よりも、そこに定義されている操作(関数・メソッド)が同じであることにより、プログラムが組み上がる…と考えればオブジェクト指向は、構造主義的でもあるかな…と思う。オブジェクト指向の前身と言えるものとして構造化プログラミングの考え方や構造体があった。

JRF2025/2/253971

……。

>野生の自然状態にある人間は、当然ながら、それぞれが自己保存という純粋に利己的な動機によって行動します。あらゆる手だてを尽くして利己的にふるまい自己保存に努めるのは人間の本来的な「権利」である、と功利主義者たちは考えました。(この権利は「自然権」natural right と呼ばれます。)

JRF2025/2/253386

(…)

法律も道徳律も裁判も法的制裁もない状態では、私有財産を確保するのは容易なことではありません。しかたなく人々は私権を保全するために、私権の一部を制限されることを受け入れました。こうして、欲しいからといって、他人のものを腕ずくで奪い取ることは「してはいけない」ことになりました。「なすべきこと・してはいけないこと」という善悪の規範が成立するわけです。

JRF2025/2/254936

しかし、その道徳律はあくまでも「私有財産の保全、個の自己保存、自己実現」、つまり「自然権の最大限行使」をめざして制定されたに過ぎません。善悪の規範そのものに何らかの普遍的な意味や人間的価値があったわけではありません。利己主義を徹底的に追求したら、いつしか「利他主義」(altruism)に至ってしまった、というのが功利主義の道徳観です。
<(p.48-50)

JRF2025/2/252423

『宗教学雑考集』では、まず、《善》で、「人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。」として絶対的な善というものは神にしかないとする。その上で、しかし、《有神論の基本定理》を有効活用するために因果応報が成り立っている社会が必要で、それをだいたい実現するために、社会は、社会にとっての善を築く必要があるとする。そういう社会善の一例として拙著『「シミュレーション仏教」の試み』で挙げた本目的三条件(「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」)を引く。

JRF2025/2/257959

このうち「生きなければならない」は、かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができるという擬似物理学的議論から導いた。

この「生きねければならない」に自己保存の欲求も、社会保存の欲求も属すとする。功利主義は、この「生きなければならない」を根拠にするわけだ。しかし社会契約がなくても、「来世がないほうがよい」も「自己の探求がよい」も成立し、そういう社会にも意義があるとする。全体主義をある程度是認するため、民主主義的基盤を超えたところが必要だったため、こういう論に私はしたのかもしれない。

JRF2025/2/254479

……。

>歴史は「いま・ここ・私」に向かっていない<(p.78)

>世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされているというのはSFの「多元宇宙論」の考え方ですが、いわばこれが人間中心主義的進歩史観の対極にあるものと言えます。<(p.85)

歴史は「いま・ここ・私」に向かっているというのが人間中心主義的進歩史観。

JRF2025/2/253109

『宗教学雑考集』では「第6章 始源論・宇宙論」で物理学や仏教的世界観から多元宇宙論的な言説を肯定しながら、しかし、「いま・ここ・私」に向かっているという世界観も是認する。

『宗教学雑考集 第1.0版』《因果応報の神》
>《魂の座》でも語ったが、(…自分の…)意志はとても不思議なもので、それがどう成り立つか、今の科学では解明できないし、解明できたとしても過去それが成り立ったことを偶然としかみなせないだろう。その偶然性と神を関連付けることは可能である。

JRF2025/2/250572

(…)

始源はどれぐらい昔であればいいのか? 意志はそんな簡単に生じるものではないと思われるにしろ、因果を(正しく)認識しうる意志が生じるまでの偶然の蓄積のための過去は有限でありうる。有限時間の偶然で意志は生じえないという立場もあるかもしれないが。

JRF2025/2/251918

ただいずれにせよ、始源の創造神があっても意志が生じるまでの時間的過去が問えるのは変わらない。因果応報の神は(または摂理は)「そのとき」のためにすべてを(「過去」を含めて)創造していた(している)とできるだろう。それが上ではイエス・キリストでありえたという話だった。もちろん、それは「あなた」かもしれないが、それは相当の重荷なので、その重荷はイエスや釈尊など他者に預けたほうが賢明だろう。

JRF2025/2/259802

仮に異星人がいたとしても、異国の人間がいたとしても、彼らが私達・自分達のために創造がなされたという理論は構築できるだろう。「私」が存在し(しばらくの間)生きてよい・生きてよかったと考えるから、「私」につながる偶然は特別視できるから、そういう「私」という意志にまつわる始源があると私はほとんど信じているといえる。

「第8章 他者としての神」と関連するが、「私」につながる偶然に神または摂理の意志性を見出す。意志には今も秘密があり、意志の発生にいたる偶然の蓄積の過去が、有限の「始源」を私に信じさせるのだ。

JRF2025/2/257477

……。

内田さんは鉄道の進歩を例に挙げたあと…

>フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。

それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
<(p.86)

JRF2025/2/256970

しかし、鉄道もそうだが、「語られずにきた」ことを積極的に探し出す制度として、例えば特許制度などもある。ここのフーコーのものとされる問いそのものが抑圧の結果ではないのか。

『宗教学雑考集 第1.0版』《偶像崇拝の禁》

JRF2025/2/250293

>また、例えば、梵我一如には一と多を同一視するような矛盾があった(あれは端的に矛盾である)。そういう矛盾を許さず、あくまで論理性を求める心が、「第6章 始源論・宇宙論」の最初で述べたような繰り込み群のような矛盾のない理論を造り出してきた。《法印》で述べた空性の発見は現代では数学の理論やシステムになることが求められる。そこから見れば、梵我一如のような一見の矛盾を信じるのは偶像崇拝の一種に思えるのかもしれない。しかし、「繰り込み群」のような理論がないとき、それが導く真理は、あるとすれば実は感覚的にしか人の心になかったのだ。科学が発達した現代とは言え、そういうことが今もないとは言えまい。<

JRF2025/2/254025

フーコーにあった抑圧は、矛盾を信じるのを偶像崇拝としてきたヨーロッパの伝統による抑圧ではないか。一方で、ヨーロッパの神学・論理性の伝統も私は『宗教学雑考集』《還元主義・実用主義・医学的唯物論》で是認する。見ずに済んできたことの効率性というのも多分にあるのだろう。

JRF2025/2/256696

……。

>『狂気の歴史』において、フーコーは、正気と狂気が「科学的な用語」を用いて厳密に分離可能であるとする考え方は、実は近代になってはじめて採用されたものだ、という驚くべき事実を指摘します。<(p.87)

近代になり…

>狂人は司法官による収監の対象ではなく、医師による治療の対象となります。一見すると、狂人の処遇の仕方はより合理的、より人道的なものになったように思えますが、この「ハードな隔離」から「ソフトな隔離」への移行過程で、ある共犯関係が暗黙のうちに成就します。それは医療と政治の結託、「知と権力」の結託です。

JRF2025/2/257712

(…)

権力は、当たりの柔らかい理性的な「代理人」である「学術的な知」を介して、むしろ徹底的に行使されるようになった、フーコーはそう考えます。
<(p.91-92)

『宗教学雑考集』「第10章 ハイパー・プラトニズム」ではベルクソンを引きながら、AI 時代に狂気の突破力を肯定し、それを学術機関で覆う話をする。

内田さんのここの記述は狂気を否定的に書いているが、カトリックの伝統はむしろ狂気を神意を表すものとしてある程度肯定的に見なしていた部分も大きく、それは現代に通じていると私は(ベルクソンを)読んだ。

JRF2025/2/257095

……。

>フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。<(p.111)

『宗教学雑考集 第1.0版』《精神の根拠としての司書》
>「記録が残る永続する機関と擬制できる国や教会があってはじめて「達成した明確さ」に意味を見出せる」とすると、「明晰判明な認識が真であることの根拠」は、記録を司る司書の誠実さにある…ということになるのかもしれない。

JRF2025/2/250446

(…)

そういえば、《日本の創造》で阿字信仰など文字信仰というべきものがあった。共産主義政党は、書記を重視するが関連はあるのだろうか。一方で、《死と復活の信仰と秘伝》で示したように、集団の存続が前提の信仰もある。文字信仰が左派なら、こちらは右派信仰となるか。


「司書」が精神の成立に関連している。それが「権力」の正体なのかもしれない。しかし、それはあくまで左派的な考え方で、別に右派的な、集団の存続・秘伝の存続に関心を持つような権力があるということだろう。

JRF2025/2/251765

……。

ロラン・バルトは日本の俳句を「無垢のエクリチュール」として称揚する。

JRF2025/2/250867

>俳句に贈られた、いささか法外なこの賛嘆の言葉と、ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対してバルトが示した激しい嫌悪の当否について、ここでは論じるだけの紙数がありません。しかし、私たちの文化が「みごとに説明しきること」や「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」や「どこにも着地できないで宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標と見なすという「民族誌的奇習」を保存していることは、バルトの言うとおり、たしかなことであるように思われます。それが果たしてバルトが夢見たような「無垢のエクリチュール」へ続く王道であるのかどうか、私にはよく分かりません。

JRF2025/2/255616

しかし、それについて考察し続けることは、私たち日本人読者に許された「特権的な義務」であると私は思います。
<(p.138-139)

たしか清少納言『枕草子』に「いいきらないこと」の称揚があったと思うのだが、Gemini さんにも Grok3 さんに聞いても該当する部分がないか、ハルシネーションがあるだけだった。orz

JRF2025/2/254250

……。

レヴィ=ストロースの論をもとに…

>人間が他者と共生していくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。<(p.165)

「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」については↓を思い出す。

JRF2025/2/251810

『宗教学雑考集 第1.0版』《レヴィナスの「他者」と「顔」》
>>
>師弟関係において目指されているのは、「主」そのものの来臨を願うことでも、「主」が語ったことばを「そのまま」再現することでもない。そうではなく、「主」のことばを「謎」として聴き取り、それによって点火された「モーセの欲望」を賦活[ふかつ]させることなのである。始原の「欲望」を繰り返し再生させ、その「鎮めることのできない欠如」を媒介として「第三者」を召喚することなのである。(内田樹『他者と死者』p.93)<

JRF2025/2/252127

私は《なぜ生きなければならないのか》で、二つの個体のうち一方が死んだとき、もう一方が「生きなければならない」ようになると書いた。

この「生きなければならない」は疲れる。しかし、この「モーセの欲望」はそうではない。神が「生ける者の神」であるのは、このような「モーセの欲望」を点火し、人を生きさせるからかもしれない。

JRF2025/2/253406

《なぜ生きなければならないのか》の枠組みを延長しよう。安住の反作用の何かのパターンが「総体として生きたい」の根拠に最初はなっていたとしても、しばらくすると、それだけでは生きられなくなるため、別のパターンを根拠にしようとする者が出てくる。そのとき元のパターンに戻らないように新しい「他」のパターン=「別の仕方」にこだわったほうが生き残る可能性がどんどん増えていくだろう。このようなものが「総体として生きたい」を賦活する方法なのではないか。
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JRF2025/2/252743

同じ状態にあり続けるのは「疲れる」のだろう。なぜ疲れるのか。おそらく新しい個体が現れたときに敗れるためなのだろう。

『宗教学雑考集 第1.0版』《生物学的な死と性》
>生物学的には、複数の子供の中に自らより優れた遺伝子を持つ者がいることのほうが多く、そういう個体が育って生き残るほうが種全体がそれ以降も他の種に勝って生き残るには有利なため、育てることを優先させるための死があるのだろう。<

JRF2025/2/256472

一方、内田さんのいう「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」についてはどうか。これは『宗教学雑考集』の枠組では難しいが、《有神論の基本定理》が、因果応報がまず他者に帰りうることを、文化として理解するために必要なのかもしれない。

『宗教学雑考集 第1.0版』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。

JRF2025/2/250707

…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。

善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。

例えば、災害が起きたときにその災害が人間の悪の結果起きたと考えるのはほぼ間違いだとしても、人間が因果応報を信じて、善い行い…災害後の統率の取れた行動のような無意識的なものや災害準備のような意識的なもの…をし続けていたことで、個々に不満はあるかもしれないが、大きく見ればその被害がマシになることはある。そういう面では、因果応報は認めうる。

JRF2025/2/250587

因果応報は「我」について説かれることが多いが、ここでも実際に即物的に効果があるとまずできそうなのは「我々」についてなのだ。

JRF2025/2/259410

……。

ラカンとフロイトの理論において…

>「エディプス」とは、図式的に言えば、子どもが言語を使用するようになること、母親との癒着を父親によって断ち切られること、この二つを意味しています。これは「父性の威嚇的介入」の二つのかたちです。これをラカンは「父の否=父の名」(Non du Père/Nom du Père)という「語呂合わせ」で語ります。

JRF2025/2/254311

何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐちゃぐちゃに癒着したものに鮮やかな切れ目を入れてゆくこと、それが「父」の仕事です。ですから、「父」は子どもと母との癒着に「否」(Non)を告げ、(近親相姦を禁じ)、同時に子どもに対して、ものには「名」(Nom)があることを(あるいは「人間の世界には、名を持つものだけが存在し、名を持たぬものは存在しない」ということを)教え、言語記号と象徴の扱い方を教えるのです。
<(p.187)

JRF2025/2/254091

私は『宗教学雑考集』「第8章 他者としての神」で梵我一如を語るが、それは「母との癒着」的な話であった…ということになるのか。すると父性は私の議論だとどこに現れるのだろう。あえて同定すれば「第7章 神義論・支配論」がそれになるのだろうか。なぜ正しいか…そういう善(悪)の審級が外側にある…という議論が「父」に関する議論ということかもしれない。精神分析的枠組みでは。

JRF2025/2/253515

……。

日本昔ばなし「こぶとり爺さん」…

>あらためて考えると、実に不可解な話だと思いませんか。(…よいお爺さんも悪いお爺さんも…)どちらも区別しがたいほどにへたくそな踊りをしたのに、一方は報償を受け、一方は罰せられるなんて。

実は、この物語の教訓は「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ」という命令のうちにこそあるのです。

JRF2025/2/253878

(…)

(…爺さんたち…)彼らの仕事は、この世には理解も共感も絶した「鬼」がいて、世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習することです。それを学び知ったときはじめて、「子ども」はエディプスを通過して「大人」になるからです。
<(p.190-191)

私の作ったゲーム、タロットソリティア「易双六[ようすこう]」は、カードに従って動かすしかなく、唯一意志を発揮できるのは、どう選択しても責任を感じさせる場合だけだった。不条理な責任を感じさせるものだった。そこは「こぶ取り爺さん」に似ているのかもしれない。

JRF2025/2/250099

>『こぶとり爺さん』の鬼がふるう権力と恐怖は、それが「どういう基準に基づいて差別化をしているのかが見えない」という点に支えられています。それは独裁者や暴君の権力と構造的によく似ています。

人々が独裁者を恐れるのは、彼が「権力を持っているから」ではありません。そうではなく「権力をどのような基準で行使するのか予測できないから」なのです。
<(p.191-192)

JRF2025/2/251430

『宗教学雑考集 第1.0版』《皇帝的神の全知全能性》
>神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖[いふ]させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。

…このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。

JRF2025/2/256175

皇帝は予想が違えても記録を書き換えることができ、それで人々を絶望に落とすことができた。もちろん、そんなことを何度も繰り返していれば、皇帝の権威は落ちていくのだが、そういうことができるということが人々を恐れさせた。

(…)

このように捉えた神は「あくどい」。だが、そこにも一面の真実の投影があるのではないかと私などは思う。皇帝にも名君がいるように、そのような神の中にも善良な神が成立しうる。

JRF2025/2/252753

皇帝的全知全能の神より力があれば、それはすべて「全知全能性」があるとできる。全知全能は矛盾を含みがちな概念だが、この意味の全知全能性であれば、矛盾を生じにくい。このような全知全能性のある神概念の中で、善性があるものの中に実在の神を示すものがあるのであろう。


「全知全能性のある神概念の中で、善性があるもの」の「善性」には、その権力行使がなるだけ予測可能にするということもあるのかもしれない。だから、「終末」には前兆があることを人は欲し・祈るのかもしれない。

しかし求められるのは、前兆がないことに慣れることのようだ。

JRF2025/2/250876

>「私が無力無能である」という事実を味わったとき、反射的にその事態を、「私の外部にあって、私より強大なるものが私の十全な自己認識や自己実現を妨害している」という話型で説明する能力を身につけること、平たく言ってしまえば、「怖いもの」に屈服する能力を身につけること、それがエディプスというプロセスの教育的効果なのです。<(p.193)

>「父」の干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気になれるような心理構造を刷り込まれることを、私たちの世界では「成熟」と呼んでいるのです。<(p.194)

そして、その不全が精神病として現れるということのようだ。

JRF2025/2/259877

……。

……。

『私家版・ユダヤ文化論』(内田 樹 著, 文春新書 519, 2006年7月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4166605194
https://7net.omni7.jp/detail/1102328819

JRF2025/2/256148

……。

>私が本書で論じたのは、「なぜ、ユダヤ人が迫害されるのか」という問題である。そのことだけが論じられている。

この問いに対しては、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい回答」である。だが、そう答えてみても、それは「人間はときに底知れず愚鈍で邪悪になることがある」という知見以上のものをもたらさない。残念ながら、それは私たちにはすでに熟知されていることである。

JRF2025/2/254867

この問いに対して、「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と答えるのは「政治的に正しくない回答」である。なぜなら、そのような考え方に基づいて、反ユダヤ主義者たちは過去二千年にわたってユダヤ人を隔離し、差別し、虐殺してきたからである。

(…)

政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ人問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。

JRF2025/2/250888

この罠を回避しながら、なおこの問題に接近するための方法として、私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。今の場合「問題の次数を一つ繰り上げる」というのは、「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
<(p.6-7)

問題の次数を上げるというと、不完全性定理…ある「命題の真偽」は証明できないが、「ある「命題の真偽」が証明できない」ことは証明できることがある…というのを思い出す。

JRF2025/2/253472

……。

内田さんがレヴィナスの本を出版していたことを、パリの世界イスラエル同盟付属図書館は知っていた。何がしかの網羅的な諜報活動自体はあるらしい。また、日本ロビーがアメリカで大した力がないのに対し、ユダヤロビーはたしかに力がある。なぜそうなるにいたったのかは日本人には想像し難いという。

JRF2025/2/257772

>小論において、私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、「ユダヤ人」」というのは、日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。<(p.17)

JRF2025/2/257746

……。

日猶同祖論がなぜ唱えられたか。ユダヤ教はキリスト教に先行しているという点で、「聖史的長子権」があり、「罪なくして排斥」されたがゆえに、キリスト教の欧米諸国の犯罪性を告発し、逆に優位を主張するのに都合が良かったからである。ただし、ユダヤ人自身にもそのような優位を認めることができ、そのとき、ユダヤ人がそういう「陰謀」を現に持っているというアイデアも生じさせることになった。…らしい。

JRF2025/2/257334

>日猶同祖論はヨーロッパの反ユダヤ主義とは異質のものであり、育った土壌がまったく違う。だが、それが肥大化した愛国心とキリスト教欧米文明への憎しみに基礎づけられたものである以上、日猶同祖論者は、彼ら自身の隠された攻撃性と支配欲をそのままユダヤ人に転写することを避けられないし、そのときユダヤ人は「恐るべき覇者」として彼らの眼に映現せざるをえないのである。<(p.73)

JRF2025/2/258077

……。

日本に入り込んだ最初の反ユダヤ陰謀論の書は『シオン賢者の議定書[プロトコル]』である。しかし、その書では…。

>民衆の政治的自由を要求するのも、民衆の政治的権利を剥奪するのも、革命を起こすのも、革命を弾圧するのも、為政者が富を独占するのも、私利私欲を持たずに公益に献身するのも、世界が戦争で乱れるのも、終わりなき平和を享受するのも、すべてはシオンの賢者の陰謀であると説明されている(…)。<(p.76-77)

JRF2025/2/255297

>読む人の都合に合わせて、すべての政治的出来事は「シオン賢者の陰謀」としても「シオン賢者の陰謀に対する抵抗運動」としても自由に解釈できる。ということは、自分が反対する政治的行為は「シオン賢者の陰謀」であり、自分が支持する政治的行動は「シオン賢者の陰謀への抵抗」として解釈できるということである。<(p.79-80)

JRF2025/2/256547

>たいへんに率直な言い方をすれば、『シオン賢者の議定書』的な国際政治解釈を採用すると、人間は頭が悪ければ悪いほど政治的には正しくなる仕掛けになっているのである。『議定書』が全世界に爆発的に普及した理由はこの点に存する。この法則は私たちの時代の成功した政治的イデオロギーのほとんどにも当てはまるのである。<(p.80)

JRF2025/2/251792

でも、どうとでも取れるように文章をイデオロギーを組んでおくというのは、皆、確かにやってる気がする(私も)。ただ、それはその時代どういう考えに力を与えようとしていたかが後にわかるという「効果」はあるのではないか。

政治にできるだけフリーハンドを与える論理というのは、必要悪ではないかという気もする。そうした上で、やるべきことをエリートが選択すると私は考えるから、私はエリート主義的な考えに毒されているのかもしれないけど。

JRF2025/2/259694

……。

等価交換的論理を内田さんはペニーを入れたらガムが出てくる…ガムがあるからにはペニーがあった…という論理として紹介する。そこには「ロシア革命」という巨大なガムがあるからには、巨大なペニーがあったはずだ。そこまで大きいペニーはユダヤ人団体ぐらいしか思い付かない…という形のユダヤ陰謀論が生じていた。日本も、自分を阻むものの大きさを感じるたびに、ユダヤ人が想起される…そうやって終端を閉鎖する議論がされるようになった…ようだ。

JRF2025/2/257223

>明治期の「日猶同祖論」を通じて日本人が手に入れようとしていたのは、「聖史的=霊的長子権」ゆえの受難という「物語」であった。この「物語」によって日猶同祖論者たちは世界史的な通用性がある(ように彼らには信じられた)「血統神話」を手に入れた。大正期の近代反ユダヤ主義を通じて日本人は陰謀史観という「閉鎖系の政治学」を手に入れた。<(p.93-94)

JRF2025/2/257821

……。

>私たちが見落としてはならないのは、ファシズムという政治思想は「人間は永遠に変化しない生得的なカテゴリーに釘付けされている」という前提に立ってはじめて成り立つものだということである。

JRF2025/2/256514

ファシズムとは違う階級が融合して一つになるということではない。そうではなくて、本来まじりあうはずがない階級が出会うことなのである。この出会いの不自然さがもたらす緊張と違和感を通じて、ひとはおのれの本性であるところの「永遠に不変なるもの」をより深くより強く覚知することになる。キリスト教貴族と革命的労働者の「融合」を通じて、ファシストたちは貴族でも労働者でもないし、キリスト教的でも革命的でもない新しい社会集団を形成するわけではない。そうではなくて、ファシストになることによって、貴族はますます貴族的になり、労働者はますます労働者的になるのである。

JRF2025/2/252818

(…)

(…モレス侯爵などは…)自分から最も遠いカテゴリーの人がそばにいるときにこそ、自分が何ものであるか確信が持てる。それゆえにファシストは自分と最も遠い人々のうちに同伴者を捜し求める。

この戦略は私たちに一人のドイツの哲学者のことを思い出させる。「笑うべきサル」であるところの「大衆」を憎み、軽侮し、彼らに対するいいしれぬ「嫌悪感」(「距離のパトス」)を支えにして絶えざる自己超克を試みる存在のことをフリードリヒ・ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche (1844-1900) は「超人」と名づけた。
<(p.150-151)

JRF2025/2/251354

労働者と貴族をくっつけるノリが、反ユダヤ主義であった…と。歴史的経緯で、新興経営者層にはユダヤ人が多かったが、それが社会主義者からは敵認定されたということのようだ。

JRF2025/2/257361

……。

単なる歴史的経緯だけでなく、ノーベル賞に見られるように確かにユダヤ人は例外的に優秀な民族であることも確かなようだ。その優秀性はどこから来るのか。私は、ラビによる教育の伝統の進化的効果ではないか…と思っていたが、内田さんは脳には差がないなどと否定する。

>ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。<(p.178)

JRF2025/2/256560

……。

>自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自ら「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども、「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万人の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。

「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。
<(p.188)

JRF2025/2/257961

『宗教学雑考集 第1.0版』「第10章 ハイパー・プラトニズム」では、自己犠牲性を求めるとき、イスラエルのどこにそれがあるかという問題になった。バビロン捕囚の経験が捕虜として生きることの理解へとつながる…という論に私はしていたが、内田=レヴィナスは、霊的長子性に自己犠牲性を見出すようだ。中東の文脈では、長子の人身供御を廃止したものとしてユダヤ教が出てくる。

JRF2025/2/254083

……。

反ユダヤ主義者は、精神分析的な「悪しき父」をユダヤ人に投影していたという。虐殺は、だからできたのだ…と『シオン賢者の議定書』の解説書を書いたコーンはこう書く。

>「だが、それも驚くには当たらない。なぜなら彼らが敵だと信じていたものは、彼ら自身の攻撃性が外化したものに他ならないからだ。だから、彼らの無意識的な有罪感が強まれば強まるほど、想像上の敵は一層凶悪なものとして顕現してくるのである」

コーンのフロイト的解釈によれば、反ユダヤ主義者は鏡に映ったおのれの凶悪な相貌に恐れをなし、絶望的な悲鳴を上げながらその鏡像を打ち砕いていたのである。

JRF2025/2/255414

たしかにそのような解釈を許す事例なら、私たちはいくらも挙げることができる。例えば、第三帝国末期、ユダヤ人問題の〈最終的解決〉が組織的に進行するにつれて、ナチのユダヤ人に対する恐怖はむしろ亢進していった。それも当然で、ユダヤ人殲滅が着々と達成され、ドイツの支配地域からユダヤ人が根絶されるについれて、第三帝国の戦況がますます劣勢となっていったからである。

JRF2025/2/259200

この事態は、ユダヤ人が「諸悪の根源である」というナチのイデオロギーが正しいという前提に立つ限り、すべての連合国政府がユダヤの傀儡であるばかりか、第三帝国の枢要な機関も(あるいはヒトラー自身までもが)ユダヤ人にひそかにコントロールされているという以外には説明のつけようがない。

ナチ宣伝相ゲッベルス Joseph Paul Goebbels (1897-1945) は「ユダヤ人の世界支配の陰謀」をまじめに信じるほどナイーブな人間ではなかったが、このシニックなデマゴーグでさえ、ベルリン陥落前夜には(彼自身が「偽善」だと知って宣布していたはずの)「シオン賢者」の存在を信じ始めていた。

JRF2025/2/259666

サルトルやコーンの言うとおり、そのようなユダヤ人像を作り出したのは反ユダヤ主義者自身である。「恐るべきユダヤ人」とは、反ユダヤ主義者自身の恐怖と憎悪とを投射した「魔神」の影だったのである。

けれども、私はフロイトをもう少し素直でない読み方で読みたいと思う。
<(p.208-209)

JRF2025/2/252935

>私たちは愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請するのである。葛藤がある方が、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから。

親しい人に対する殺意や敵意が誰にでも潜在的にあって、それが抑圧されるというような単純な話ではおそらくない。まず愛情や欲望があり、それをさらに亢進させようと望むとき、私たちはそれと葛藤するような殺意や敵意を無意識的に呼び寄せるのである。
<(p.211)

JRF2025/2/256890

>反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか? どうしてそれは「特別の」と言われるのか?

これに答えを得た人はこれまでにいない。少なくとも私を納得させる答えを出してくれた人はこれまでにいない。

私がこれから書くのが、私に唯一納得する答えである。

それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものである。
<(p.212)

JRF2025/2/258697

……。

レヴィナスは、ユダヤ人には「有責性」があるという。

>「(…)自分が犯したのではない罪についての有責性、他者たちのための、その身代わりとしての有責性」<(p.221)

ユダヤ人たちは犠牲として捧げられている…ということなのだろう。犠牲に罪はないが、犠牲はこれから起こされる他人の罪も背負って捧げられている…と。聖的長子であることの帰結として。

JRF2025/2/250367

……。

ユダヤ人は「始原の遅れ」を引きずっていると内田さんはいう。その意味がわからなかったが最後に明かされる。

>「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私は遅れてここにやってきたので、〈この場所に受け容れられるもの〉であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ方の違いのうちに存している。<(p.228-229)

JRF2025/2/254133

聖的であれ長子は、生得的な権利を持っていそうなものである。しかしそうではないのだという。生得的な権利を持っている長子が、中東で本来的に持つ責任としての人身供御性を否定して、そこに長子として居座るためには、外部性・養子性を維持しなければならなかった。その上である程度の自己犠牲性は認めた。…ということだろうか?

JRF2025/2/252290

しかし、それは旧約聖書からは読み取りがたい。新約聖書のユダヤ人イエスの物語を通じて獲得したユダヤ人性ではないのだろうか? または旧約聖書の神自体が中東において世界において養子的と主張するのだろうか。しかしそれは進化論が支配的な現代において、創造論者が心にいだく神の養子性・外部性で、しかしそれは創造神と至高神を分けるグノーシス的ではないのか?

Gemini さんにここをぶつけると…。

Gemini:> 長子としての責任(人身供犠)を否定しつつ、長子としての権利を主張するためには、外部からの存在であるという意識が必要だったのかもしれません。

JRF2025/2/254131

……。

>ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。この屈折した弁神論は、フロイトの「トーテム宗教」というきれいに天地が逆転した構造になっている。<(p.228)

JRF2025/2/252370

私はフロイトの説明によるトーテミズムの解釈を受け容れない。私はデュルケムのトーテミズムの説明に感化されて、トーテミズムは「イメージによる進化」のためになされたと『宗教学雑考集』「第4章 進化論」ではする。

因果応報を語るからといってトーテミズムを排斥する考え方にも組みさない。有責性の概念も、なぜ責任が生じるかには、責任を負うべき結果が未来にありえるから、応報すべき善としての責任を全うするという形で、因果応報が隠れていると言える。因果応報を完全に超克しているわけではない。

JRF2025/2/256286

私の「有神論の基本定理」も、完全な因果応報ではない。そのような不完全なものであっても、それとわかって、子供に因果応報を伝えていく。それもある種の成熟ではないのか。

「すべて私の責任だ」というのは「ぜんぶ僕が悪かったんだ」というすねた子供の論理であるという言い方もできる。私も「自分が悪い」と何に対しても言ってしまうのが口ぐせなので、逆にそこに幼児性があるという自覚がある。

JRF2025/2/255483

いろんな成熟の仕方があるのだと思う。その全体性で世の中が支えられてはいるのだろう。そしてこういう言説を成熟と見る者も、成熟と見るのを嫌う者もいるのだろう。これでは『シオン賢者の議定書』と同じく、何も言っていないことになるかもしれないから、『宗教学雑考集』を書いた私は「有神論の基本定理」を子供に伝えていくあり方を成熟とし、「易双六」的(ランダムを受け容れた非科学的)あり方を自覚して持つことで、AI 時代に学術的にも優れた人物を排出しうることを信じたい。

JRF2025/2/252253

ユダヤ人や内田さんと違って私は無能だから、私の構想は問題のある部分・限界があるんだろうとは思う。その部分は他の論者の意見を待ちたい。無名の私宛ての意見というのはないだろうけど、若者の真摯な構想が今後出てくるだろうから、それと比べたい。

JRF2025/2/258624

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