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「現代西洋仏教」の解説書というべきロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』とその批判本というべきエヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』を読んだ。 (JRF 9781)
JRF 2025年3月29日 (土)
『仏教は科学なのか』は『なぜ今、仏教なのか』を批判する本である。よって先にまず『なぜ今、仏教なのか』を読んでいく。
いつものように引用しながらコメントしていく。特に『仏教は科学なのか』は最新の本なので、私が著作権等で問題にならないように、少しでも興味がある方は買っていただきたい。
JRF2025/3/295922
……。
……。
『なぜ今、仏教なのか - 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト 著, 熊谷 淳子 訳, ハヤカワ文庫 NF 562, 2020年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4150505624
https://7net.omni7.jp/detail/1107118464
JRF2025/3/299832
原著は Robert Wright『Why Buddhism is True - The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment』(2017)。2018年8月に早川書房より単行本として出されたものの文庫化。
JRF2025/3/296634
マインドフル瞑想を中心に、「西洋仏教」を「科学的」に説明する本ということになろうかと思う。著者には、『モラル・アニマル』という進化心理学による前著があり、そういう視点からの「執着」あるいは「ドゥッカ」の議論が特におもしろかった。それは本の最初の部分から現れている。そういう原点から、瞑想の体験・インタビューを通じて得た知識が、本書のその後の部分となるようだ。
JRF2025/3/297993
……。
>本書では、仏教の「超自然的な」要素、たとえば輪廻のようなどこか異国の神秘めいたところには触れず、自然主義的な部分をとりあげる。どれも現代の心理学や哲学の範疇にすんなりおさまる考えだ。<(p.9)
JRF2025/3/294497
輪廻転生に触れないのは、哲学に近いものとして仏教を見る場合当然の視点だとは思う。しかし、転生理論を仏教から抜くのは、あらゆる宗教にとって大切な(と私が思う)因果応報の理論を素通りすることになるように思う。そこにある救いは、唯物論的生物的人間の「救い」…うまく生物として生を過ごす方法に過ぎなくなるのではないか。それを教える宗教者に覚悟もいらなくなってしまうように思う。それは私には良いことには思えない。そこが『宗教学雑考集』《神の存在証明を論駁する》などで私が描き続けた有神論に余地を残すあり方と一線を画すように思われる。
JRF2025/3/297399
著者らも「救い」がいらないわけではあるまい。だから、その究極的な救いは、著者らはキリスト教などに依るのであろう。仏教を称揚しつつ。
『宗教学雑考集』《神の存在証明を論駁する》
>私は、《創造論と進化論》では、創造論者は、進化論が正しく見えることもそう見せることで神が何かを伝えようとしているとすることで、神の矛盾をなくす方向を出した。
JRF2025/3/297942
《オッカムの神概念とマナと悉有仏性》では、「キリスト教が、地上を「侵攻」していくとき、そこには「未開人」…上の私の言葉では「原始人」がいた。それはまるで、地理上に表われた形而上学的歴史としての神の顕現…であった。神はそういう形でも自己を開示したのだ。」…と述べた。原始人が残っていたのを神の配剤とすることで、キリスト教の独善性の矛盾をなくす方向で解釈してみせた。
JRF2025/3/297642
(…)
後述の《梵我一如と解脱》では、梵我一如を赤ん坊の胎内経験という有限知から説明しながら、発達心理的にそうなるように神が創った、またはそれのみが「自然選択」されてきたということ…を述べて、また神を正当化する。
JRF2025/3/290343
このような、有限な現実が神の意図や目的と矛盾せぬように解釈することこそ、(古くて)新しい「神の存在証明」の在り方なのかもしれない。それは神が存在することを論理学的に証明するものではないが、神の現実性または神の現実への根拠を帰納的に信じさせるような、いわば状況証拠を並べるだけの法学的な「証明」にはなっていて、そのような営み全体として神の存在とその善性・世界の善性への祈りになっているのだと思う。
<
JRF2025/3/294132
……。
>仏教の重要な教えの一つは、世界をあたりまえに知覚していれば自然に世界の真実がわかるという思いこみを疑ってかかれというものだ。初期の仏典のなかには、そもそも「真実」などというものが存在するかどうかにまで疑いを向けるものもある。<(p.10)
JRF2025/3/297977
「西洋仏教」はどちらかというと上座部仏教をベースにしているようだが、大乗仏教の法印である一実相印では、諸法実相…全ての存在はありのままの真実の姿である…と述べる。それは「あたりまえに知覚していれば自然に世界の真実がわかる」とはまた違うのだが…。確かに、大乗でも不立文字を認めるように、ただありのまま見ているだけでなく、教えがあってはじめてわかる…言葉によるかどうかによらず外部があってはじめてわかる…というのも大切な部分ではあるのだけれど。
JRF2025/3/294261
……。
>ダライ・ラマもこう言っている。「仏教から学ぶことを、よりよい仏教徒となるために使おうとするのはやめなさい。あなたが何者であり、その者としてよりよい自分になるために使いなさい」<(p.11)
私もだいたいこういう考えでシンクレティスト(宗教混淆者)を名乗っているけど、でも、なんとなく、お坊さんとか、他の宗教者は、そういう態度を最初は見過ごしてくれるんだけど、しばらくすると、なんとなく疎んじられてる…ような気分がしてくる。まぁ、信者を得るのが仕事という側面もあるから、おおむねどこも「そういうもの」なのかもしれないけど。
JRF2025/3/296163
……。
>西洋仏教は、アジアでは一般の信者より僧侶のあいだで広くおこなわれる修行に重点をおく。瞑想と、仏教哲学への没入だ(西洋でもっとも流布している仏教に対するイメージ -- 仏教とは無神論であり、瞑想を中心にまわっているというイメージ -- はまちがっている。大多数のアジア仏教の信者は、全能の創造主としての神とはちがうが、神々を信仰しているし、瞑想もしない)。<(p.15)
瞑想と哲学が、仏教…というのが西洋仏教らしい。
JRF2025/3/298234
……。
進化心理学から、妄想(「妄想」的感覚・思考など)を説明する。
>自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生きぬいてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。
JRF2025/3/292936
だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれた場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解だ。そのような知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている。
<(p.16)
JRF2025/3/291553
性的妄想なんてその最たるものだし、糖尿病に致るような甘い物への嗜好もそのような妄想的なものだ。
JRF2025/3/297465
……。
満たされた快楽は、すぐに消えるが、しかし渇望が残る。
>ブッダが残したことばのなかにも、人が追い求める快楽はすばやく消えてなくなり、もっと欲しいという渇望だけが残る、というものがある。私たちは、ふたたび欲を満たしてくれるもの -- つぎの粉砂糖がけドーナツ、つぎの性的経験、キャリアアップにつながる昇進、つぎのオンラインショッピングを求めることに時間をついやす。しかし高揚はどうしても薄れていき、あとにはかならずもっと欲しいという気持が残る。
JRF2025/3/292454
(…)
ブッダは人生のすべては苦しみであると説いたことで知られるが、これではブッダのことばを完全に表現できていない。「苦」と翻訳される「ドゥッカ」という語は場面によって「不満足」とも訳せるからだ。
<(p.20)
なぜそうなるか? 渇望だけが残るのか?
JRF2025/3/297298
>しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。<(p.24)
JRF2025/3/296071
ただ、ここは微妙に違うのではないかという感覚が私にはある。自然選択は多産を目的にしているかもしれない。しかし、なぜ自然選択が有利かというのの前に「生きたい」という感覚、「総体として生きたい」という感覚が先にあり、それは何かを集めるということを基礎としていると私は考えるから、集めることを肯定する快楽が「生きる」ということと密接に関連しているという直感がある。
JRF2025/3/296242
『宗教学雑考集』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙には地球以外の文明があり、それが滅んだこともあったかもしれない。その文明以前には文明はなかった・生物はなかったが、何がしかの定常状態やパターンぐらいは偶然に生じていたことだろう。そういう文明または定常状態・パターンを「安住」と呼ぼう。定常状態やパターンができたことをさらに突き詰めれば、まずは等質的な空間(無明?)があったことが必要なのかもしれない。もしくは、「無明」という「非等質性」を等質とみなせるほど貫く強烈な光・エネルギーが本質だったのかもしれない。
JRF2025/3/290640
とにかく、その安住が崩壊したとしよう。そのとき、永い年月を得たあとかもしれないが、その安住の残骸(例えば、同じパターン的形質の岩があるとか)を根拠として、別の安住が起ち上がることもあるだろう。そこでは安住の残骸と同じものがあったほうがよいとなろう。それを探し求める実体になるものがある…ということだ。これを物理学用語から少し離れるが安住の「反作用」と呼ぼう。
JRF2025/3/291161
新たな定常状態としてかつての継続を求めるものは、反[かえ]って自らの継続も求めていることになる。そこにはある種の定常状態が・個物とはまだ言えないものの「総体として生きたい」が生じていると考える。
ここまでをまとめれば、かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。
JRF2025/3/293893
二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生き残った者が、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められず、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」・「生なければならない」になる。
(…)
仏教では、生・老・病・死を四苦といって、滅すべきものとされる。生も苦であり、やはり滅すべきものだ。
JRF2025/3/291016
しかし、生は苦であっても、人は生を選ぶ。その「選ぼうとする」のが私が「生きたい」として示したかったことだと考える。考えてみれば、生も老も病も死もそうなりたいと願わないのにそこに向かう。そこに向かうという傾向性が私が「生きたい」で示したかったものかもしれない。
<
JRF2025/3/296619
『宗教学雑考集』《生物学的な死と性》
>なぜ死があるのか。
まず《宇宙胎児》で示唆したように一つの個体よりも複数の個体であるほうが、苦しみが少なかったのであろう。《なぜ生きなければならないのか》の枠組みで安住の残骸を集めるには、それらで同種の生きる数を競争したほうが多様に得られるようになったのだろう。
JRF2025/3/290098
そして、生物学的には、複数の子供の中に自らより優れた遺伝子を持つ者がいることのほうが多く、そういう個体が育って生き残るほうが種全体がそれ以降も他の種に勝って生き残るには有利なため、育てることを優先させるための死があるのだろう。(…)死があるほうが進化には有利という説を私は取る。
<
逆に、だからこそ進化=自然選択が有利になるのであろう。
そして死を受け容れたから産む必要がでてきて、多産が有利になるのである。
JRF2025/3/297354
……。
「快楽は、すぐに消えるが、しかし渇望が残る」という真実を知ったところで、何があるのだろう? できるのだろう?
JRF2025/3/292493
>進化心理学に没頭したあとに私が発見したのはこれだ。自分の状況について真実を知ったところで、少なくとも進化心理学が提供する形の真実では、かならずしも人生がましになるとはかぎらない。それどころか、悪化することさえある。徒労に終わる快楽追求という、人間につきものの悪循環 -- 心理学者がときに「快楽のランニングマシン(ヘドニック・トレッドミル)」と呼ぶもの -- からまだのがれられないでいるのに、今ではその不条理に気づかされる新しい理由まで見つかったのだ。
JRF2025/3/290505
いいかえると、それがランニングマシンだとわかっていて、(…)たいていはどこにもたどりつけないとわかっているのに、それでも走りつづけてしまうということだ。
(…)
チベット仏教の瞑想指導者、ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェは、「つまるところ、幸せとは煩悩に気づく不快さと、それに支配される不快さのどちらを選ぶかの問題だ」と述べている。
<(p.26-28)
JRF2025/3/290261
しかし、この後、瞑想になると、そういう自らの「真実」に気づくこと…気づく自分を持つこと…が、苦しみから逃れる大切な方法とこの本ではしていく。そこと上の記述は矛盾はあるのだが、あくまでも知識レベルでそうだと知ることと、感覚的に・超越的にそういう自分をきづくことの間には差異がある…ということかもしれない。
JRF2025/3/298798
……。
感覚しているものが真実か…究極的には人は感覚的に知覚しているものから構成されているので(例えば本を読むのも目という感覚器を通じて行われるので)、人にとっての真実はそこにしかないとは言えるのかもしれない。しかし、それは個々の感覚したものがその通りに真実であることは意味しない。感覚は「うそ」をつく。感覚にとっての「真実」と「うそ」とは何か?
JRF2025/3/297423
>感覚は周囲のものごとに対する判断を記号化するように設計されている。たいていは、その感覚の当事者である生物にとって生存のためになることか害になることかという判断を記号化している(ただし、近親、とくに子孫は、当事者と多くの遺伝子を共有しているため、近親にとって有益か有害かという判断の場合もある)。だから、感覚が記号化する判断が正確であれば -- たとえば、感覚のせいで生物が引き寄せられるものが、たしかに生物にとって有益なものだったり、感覚のせいで生物が回避するものが、本当に生物にとって有害なものだったりすれば -- 感覚は「真実」だといえるかもしれない。
JRF2025/3/293274
感覚が生物をまどわせるなら -- たとえば、感覚に従う生物にとって有害なものに導かれてしまうなら -- 感覚は「うそ」、つまり「錯覚」といえるかもしれない。
生物学の観点から真実かうそかを考える方法はこれだけではないが、一つの手ではある。さて、これでどこまでたどりつけるだろう。
<(p.57)
当然、甘い物と糖尿病の関係のように、ある程度までは「真実」、かつてならば「真実」…というのもある。
JRF2025/3/290849
>なぜ自然選択はこんな事態を許したのだろう。感覚は生物を有益なもののほうへ向かわせるはずではないのか? たしかにそうだ。だがじつをいうと、自然選択は特定の環境下で私たちの感覚を設計した。ジャンクフードなどない環境、いちばん甘いものといえば果実という環境だ。<(p.58)
一方、確率的に「真実」である場合、それに従う心象があったほうが今もいい場合はある。ガラガラヘビがいなくても、実際にはただのトカゲだったとしても、ガラガラヘビがいるとあたかも感じて、それを避ける行動のほうが正しい場所と時はある。
JRF2025/3/294630
>この手の誤った知覚は「偽陽性」と呼ばれ、自然選択の見地からは、仕様であってバグではない。ガラガラヘビを見たというつかのまの確信は、100回中99回まちがいかもしれないが、その確信が100回に1回は命を救わないともかぎらない。<(p.62)
ちょっと関係ないかもしれないが私の↓の議論を思い出す。
JRF2025/3/292585
『宗教学雑考集』《宗教的判断の認容》
>人は無限に生きる存在でもなければ、何事も0秒で行動できる存在でもない。認識が正しいからといって、時宜[じぎ]を得るまで行動を先伸ばしにできるとは限らないし、必要なときに適切な判断が下せるとも限らない。聖人が社長になるまで就職しない人間はいないし、目の前に降る爆弾をよけるのに重力の計算をする人間もいない。
その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。
<
そういったことは単に時代がかわったから無効・有効になったという話ではない。
JRF2025/3/291873
>いうまでもなく、本章は人間の感覚をひとくくりにして告発してきたわけではない。一部の、ことによると大部分の感覚はそこそこ私たちの役に立っている。現実の見え方をそれほどゆがめることなく、私たちの生存や繁栄の助けになっている。リンゴが好きなのも、ナイフの刃をにぎったり超高層ビルをよじ登ったりするのがいやなのも、私のためになっている。それでも、みなさんには自分の感覚を取り調べの対象にする利点について気づいてほしい。
JRF2025/3/294277
自分の感覚を詳しく調べて、どの感覚が従うに値するもので、どの感覚がそうでないかを見きわめ、従うに値しない感覚の支配から自身を解放する気になってくれるのを期待している。
<(p.77)
感覚は自然選択だけでなく社会が築いてきたものもある。それよりも個人の論理が優れているというのは、ある種の傲慢…「狂気」ではないのか?
JRF2025/3/293182
『宗教学雑考集』《知性はどのように生じるか》
JRF2025/3/298600
>ベルクソンは「心霊科学」の例を出す。昔のエレベーターは安全対策が不十分だった。ある女性がエレベーターに乗ろうとして踊り場に出たとき、網の扉が開いていたので乗ろうとした。そのとき、何者かが彼女を突き飛ばした。よく見ると網の扉は誤動作で開いていたが、エレベーターはまだ来てなかったのである。そして何者かはいなかった。彼女は何者かに助けられたが、そもそも彼はいなかったのである。この心霊現象は容易に説明できる。つまり、彼女の意識はエレベーターがないことを発見していなかったが、無意識は発見していて、無意識が警告のために「何者か」を創造してしまった。…ということだ。
JRF2025/3/298453
個人の意識的な知性は、しばしば「遅い」のだ。そのような場合なぜか、無意識的な・社会的な(ベルクソンの言葉では「自然」な)先入観のほうが早く、動作の回路を作ることができる。「社会」は事前の計算ができて、そういう先入観を作り積み上げているとできるのだろう。原始社会では、個人が論理を発達させることは、それをしばしば阻害するある種の狂気という側面があったのかもしれない。そこに論理軽視…社会的な先入観に対する相対的な論理軽視があって、非論理的な「原始人の宗教」という形をしばしば取ったのだとベルクソンはするようだ。
JRF2025/3/296278
現代に向かって、「知性」は複雑になった。さまざまな概念…たとえば権利・義務を通して考え、その判断は遅い。しかし、それでやっていけるのは、「社会」も同時に発達してきたからだろう。その「社会」がないと利己的な「知性」も確立しえないのだ。そして今もって「知性」はある種の狂気を含むのかもしれない。それは、「知性」と「狂気」が共存できるということでもある。
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JRF2025/3/293643
ただし、感覚を論理的に「解体」し、その上で新たな「感覚」を積み上げること自体は必要とされてることでもあるのかもしれない。
『宗教学雑考集』《感情は真実の種子》
>感情は真実の種子である。…ヘーゲルの言いたいこととはおそらく違うだろうが、私はこう受け取った。
JRF2025/3/296177
仏教では十二因縁などを説き、感情を個人が制御してしまうことを説くと見える。しかし、感情をなくすことがよいことなどではない。ブッダも叱るからだ。
感情は感覚から来るどうしようもないものはあるとは言え、道義心などはかなり後天的なもので、コントロールできる部分も大きいのだろう。感情は社会性を持ち、子らに模倣される。子らは出家者・哲学者になるとは限らず、多くの者は感情によってのみ「真実」を見出すようになる。だから感情を種子として子に渡すために、単に感情を整えるだけでなく、豊かにそれを現すべきなのだ。温かみのある人間である意義はそこにあるのだろう。
<
JRF2025/3/290989
感覚から超然として自分は助かる。…それだけではダメなのだ。
JRF2025/3/295295
……。
>「デフォルト・モード・ネットワーク」(…)これは脳内のネットワークで、脳スキャン研究によると、私たちがとくに何もしていないとき -- 人と話したり、仕事や何かの課題に集中したり、スポーツをしたり、本を読んだり、映画を見たりしていないときに活発になる。意識はこのネットワークに沿ってさまよう。<(p.82)
DMN と略す。DMN は、ロビン・ダンバー『宗教の起源』を読んだときにも出てきた([cocolog:94517420](2023年11月)。
JRF2025/3/291905
仏教というよりインド宗教が瞑想の真実(DMN の「迷い」や集中の瞑想やマインドフルネス瞑想)を語っていた…と基本的にこの本はするのだが、しかし、私は逆に、仏教が脳の働きの現実を語ってないことを問題にすることがあった。
『宗教学雑考集』《コラム 『「シミュレーション仏教」の試み』のあとがき (抜粋)》
>仏教は、唯心論的でもあるからか、本来、十二因縁(の大部分)など内に内に「内観」していくことが多い。
JRF2025/3/293141
(…)
ロボットに「内観」させ認識させるプログラムを書いて動かすとき、それが十二因縁の理論のようになっているかというとそうではない。そうではないのに、そのようなプログラムは方便ではなく科学的に立派な意義を持つ。この時代、仏教の真実がある意味危機に瀕しているゆえんである。そのようなプログラムを書くことによってプログラマーの自己の認識に少しの変化はあるかもしれないが、しかし人々にとってロボットのそれが安らぎにつながるとは到底いえない。
<
JRF2025/3/290922
……。
>マインドフルネスと集中は仏教の重要な実践徳目で、熱心な仏教徒が進むべき八つの道、八正道に含まれている。じつをいうと、マインドフルネスは七つめの道、集中は八つめの道だ。しかし、この二つが最後に到達すべき頂点というわけではない。八正道というと、八つの段階を順にのぼっていくと勘ちがいしそうだが、そうではない。けっして一つめの「正見」を完全に体得したあと、二つめの「正思惟」に移り、そのあと三つめの「正語」、それから……と進むものではない。
JRF2025/3/295998
八つの徳目は相互に強く依存していて、直線的に一つずつというわけにはいかないからだ。だから、たとえば七つめの「正念」(正しいマインドフルネス)と薬つめの「正定」(正しい集中)の徳目で実践を積めば、経験を通して仏教の中核の原理を深く理解する助けになり、ひいては、一つめの「正見」の修行にもなる。
<(p.87-88)
私は八正道については別様の意見を持っている(↓)。例えば、正精進は公共事業のことではないか…とか。段階的なものの見方をしている。ただ、私の見方だけが正しいというのでもなく、瞑想状態にことよせた理解の方法もあるというのはどこかで知っていた。
JRF2025/3/292288
↓では、正念と正定は、正しい記憶として人々の中にあって縁となり、正しい注意を、修行者がいわなくとも、人々が引き起こすようになることとする。
《十二縁起と八正道:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html
>私は、八正道を、外に通して観ていく。
JRF2025/3/297633
八正道は、外に観えるものではなく内に観えるもので、禅や瞑想の正しい境地を指しているという解釈もありうる。私は精神異常、おそらく禅でいう魔境を経験したことがあり、瞑想の理論を読んだりしたことはあるが、瞑想を体得してはいない。よって、暝想において内に観えるものとしての解釈は別書にお願いしよう。
<
JRF2025/3/292639
……。
>私が実践しているマインドフルネス瞑想は、ヴィパッサナーという瞑想の流派に含まれる。「ヴィパッサナー」とは、古代語で明視、明瞭に見通すことを意味し、英語では一般に「インサイト(洞察、内観)」と翻訳される。<(p.98)
ヴィパッサナー瞑想については、H.V.ギュンター&C.トゥルンパ『タントラ 叡智の曙光』と、地橋秀雄『ブッダの瞑想法 - ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』を読んだことがある([cocolog:92189837](2020年9月))。かつて finalvent さんがそれらの本をネットで紹介していた。
JRF2025/3/298078
……。
>ヴィパッサナーは「三相」というものを理解することだと定義される。
三相のうち二つは、理解するのがそれほどむずかしくなさそうに聞こえる。一つめは無常だ。永久に不変のものは何もないことをだれが否定できるだろう。二つめはドゥッカ -- 苦、不満足だ。苦しんだり不満を感じたりしたことがない人などいるだろうか。三相のうち無常と苦についていえば、ヴィパッサナー瞑想のねらいはそれを理解することではない。基礎的な理解はたやすいからだ。それよりはむしろ、無常と苦を新鮮な感受性で理解すること、非常に鮮明にとらえて、無常と苦がこの世にあまねく広がっていることをしみじみと知ることが重視される。
JRF2025/3/295522
一方、三つめの「無我」は話がちがう。無我の場合、理解すること自体が難題だ。しか仏教の教義によれば、ヴィパッサナー、すなわち現実を真の明晰さ、悟りへの道を開くだけの明晰さで見ることを目指すなら、無我を会得することがきわめて重要だ。
<(p.99)
無我については私も究極的なことがわかっていない(わかるわけがない)が、私なりの理解は、仏教社会のシミュレーションを作る過程で得たものがある。
JRF2025/3/294955
『宗教学雑考集』《諸法無我》
>一方、仏教には「諸法無我」の思想がある。しかしこれも「我思う」ときの思う「何か」が有ることは否定できない。それがアートマン(真我)を否定しながらも転生などを認めることにつながったのだろう。バラモン教におけるアートマンは、デカルトを逆転したかのように、先に常住不滅の真我があると柱を立て、その柱の反映として個々の我があるように見なす。仏教はそれは否定した。
JRF2025/3/298008
拙著『「シミュレーション仏教」の試み』のシミュレーションを作ったとき、仕様を作るときは「自分」であることは何かとても大事なことのように思うのに、問題を解いてプログラムを作ってみると、案外「自分」はいらないことに気付いた。確かに、プログラム用語として、self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。
我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…(我がとらえている)世界に我の必要なくせしめよ…そこまで世界を「理解」せよ…とは言えるのかもしれない。「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができる。
<
JRF2025/3/290595
……。
ブッダが「無我」としてまず説いたものは『無我相経』にある。そこでは「五蘊」つまり脳も(魂も)含めた身体を一つずつ調べ、そこに我がないことつまり「思いどおりにならない」ことを確かめていく。
しかし、これによって「むさぼりをはなれることで、その者は解放される」という。そこには「その者」という我が再び出てくるのだ。それを著者は問題にする。
JRF2025/3/294657
>五蘊が人をなりたたせるすべての要素だとすれば、最初の無我の説法で解放されたとされる「その人」はどこで見つかるかという難問<(p.115)
清水俊史『ブッダという男』を読んだとき([cocolog:95233837](2025年1月))は五蘊と無我が転生と絡んで問題となっていた。転生と絡んだ話は、そちらを読んでいただきたい。
私は、「我」・自己を「制約」とまずとらえる。
JRF2025/3/294680
『宗教学雑考集』《我思うゆえにありうるのは我々までである》
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。
JRF2025/3/296867
我々は必ずしも思いどおりにならない「私」達の集りで、ならば、「私」は「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起ち上がったとき、我々も存在していたと気づくに過ぎない。
「我々」というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。
<
JRF2025/3/296708
その我々はどこにあったか。それは上で拙著を引用した「総体として生きたい」から来る。その「生きたい」は、生は苦であっても、人は生を選ぶが、その「選ぼうとする」のが私が「生きたい」として示したかったことであるとした。究極的には、ライトのいう「その人」はその「我々」にあるのだろう。
それが仏教的には「アーラヤ識」などになるのかどうか、それは私ごときにはわからないとしたい。
JRF2025/3/298256
……。
20世紀の仏教学者エドワード・コンズが歯を例に仏教の概念について書いているが、その中で…。
>「すべての仏教徒は、『自己』の存在を信じることが苦しみの発生する必須条件だと考えている」。<(p.119)
…と述べた。
苦はなぜ生じるか。苦になぜ仏教はフォーカスするのか。
まず苦がなぜ生じるか…については、上の拙著の引用から、
JRF2025/3/298808
>二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生き残った者が、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められず、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」・「生なければならない」になる。<
…と述べたが、これの「生きなければならない」は疲れる。これが苦の最初的なものなのであろう。
次になぜ仏教が苦にフォーカスするか。
JRF2025/3/294969
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>「梵我一如」が私のいうように素朴な胎児経験の感覚に由来しているといった場合、そうであることの「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当するのだろう。「真実」は普通人が思い出せない胎児経験であり、それは他人でも似てはいるが違うものだ。それを説明しようとすると、幼児の印象に与える文化の違いが明らかにならざるを得ない。逆にそれを言葉にしていけば、文化を固定化・保守化することになる。そこには、権威が生じやすい。
JRF2025/3/299133
「梵我一如」が真理だという感覚が先にあり、それをもっともらしくするために理論を構築する…。親などが不如意だったストレスが、「苦」と名前を変え、その「苦」がないところに解脱的「梵我一如」がある…と考えるなどのはその一例で、それが仏教となっていったのかもしれない。
<
JRF2025/3/290139
……。
>カフェインのとりすぎによるあごの張りや、歯痛や、不安などの不快な感覚が自分とは関係のないものに思えた経験から私が学んだことは、感覚のコントロールが逆説的だということだ。三つの感覚はどれも、最初のうちはしつこくいすわりつづけ、とうてい思いどおりにコントロールできる相手ではなかった。いやむしろ、感覚のほうが私を思いどおりにコントロールしていたといってもいい。
JRF2025/3/294022
ブッダの「自己」の概念(…五蘊の議論…)によれば、思いどおりにならないのだから、この不快な感覚は私の自己の一部でさえないということだ。ところが、いったんこの論理に従って、思いどおりにならないものを自己の一部だと思うのをやめてみると、そうした感覚から解放され、ある意味で自分がコントロールをとりもどした。それともこういったほうがいいかもしれない。そうした感覚が思いどおりにならないこと、コントロールできないことが問題ではなくなっていた。
JRF2025/3/297960
(…)
ひょっとすると、ブッダは教義を明確に述べようとしたのではなく、私たちに道を歩ませようとしたのではないだろうか。
<(p.121-123)
五蘊の議論自体が「真実」を説明するのではなく、それは道を歩ませるという意味において「宗教的判断」的「真実」である…と。そう歩んだ「世界」が一歩無我に向かっている…「我」という価値観の上にある価値観(輪廻転生や因果応報を必要としない価値観?)に向かっている…ということだろうか?
JRF2025/3/293961
……。
>ブッダの言う無我は、単に「自己の一部ととらえる意味がない」とか「自分と同一化するべきではない」という程度の意味だったのかもしれない。その場合、ブッダが言っていたのは基本的に、「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。このように解釈すると、ブッダが説法の終わりのほうで、五蘊のそれぞれについて「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自己ではない」と考えるべきだと説いていることともうまくかみあう。<(p.123-124)
JRF2025/3/296917
疲れる「生きなければならない」を引き受けることを私は述べた。しかし、それを自己のものとしてではなく、あくまでも「他者」への有責性として認識することが必要なのかもしれない…。「我々」はそこでも「私」になるのかもしれない。
我々は生きたかった。しかし、彼は死ぬ。いや、彼が「疲れ」=苦となる。彼を悼み二の舞にならぬようにするとき、つまり同一化をやめるとき、我々は少し違ったものになっている…ということかもしれない。
JRF2025/3/292170
ただ、一度のトライで、そうなるのも生物にとっては非効率だろう。何度か試して、シミュレーションしてからそうなることが求められる。そこが人(全体)は思考で補えるということだろう。
JRF2025/3/299852
……。
>心をまじまじと見れば見るほど、心はたくさんの異なる主体[プレイヤー]からなっているように思えてくる。主体たちは協調することもあるが、コントロールを奪いあうこともあり、ある意味でもっとも強い主体が勝利する。いいかえると、心のなかにジャングルがあり、あなたはジャングルの王ではない。<(p.131)
この本には、心はいくつかの機能モジュールからなるという理論も出てくる。単純な加法モジュールではないが…と留保を付けながらであるが。
JRF2025/3/290591
まず、私はいくつかの主体からなるということは、『宗教学雑考集』《デカルトとアンサンブル学習》で、機械学習のアンサンブル学習を例に出しながら、語っている。さらに次のようなことを語る。
『宗教学雑考集』《目的の多層性》
>私は第2章においては、仏教を社会の最適化としようとした。そこでは集団と個人で最適化の違いみたいなものにブチ当たるだろう…といったことを当初考えていたのだが、結局、社会全体で、各パラメータが、その最適化に相当するだろう…みたいなことしか言えなかった。
JRF2025/3/297878
どういう主体(集団含む)が、その最適化の単位になってるかという議論はできるのだと思う。そして、並列に多層的に主体が最適化する中、ある部分で、より強力な主体が、それ以外の最適化をコントロールする段階が来る…ようなことを私は考える。そういった最適化とコントロール自体がある種の最適化になってるフレームやレイヤーも存在するのだろう。
JRF2025/3/296414
私は第2章において本目的三条件を提示したが、人が幸福を追及するというとき実際に追及しているのは、単純な快楽でも他者に与えられた宗教的目標でもなく、例えば本目的三条件のようなもののそれぞれの条件を、その個人だけでなく様々なフレームやレイヤーにおいて追及していることもあるだろう。矛盾する考えがあるから間違っているとは当然ならず、普段は、それらを協調させて最適化が行われているのであろう。もちろん、究極的なところでは死を賭しても、つまり、矛盾がどうしようもなくなって、三目的のどれかを優先する場面もあるかもしれないが、どれを優先するかが誰でも決まっているといった単純なものではないだろう。
JRF2025/3/291392
個々にも、主体の分裂とまでは言えないかもしれないが、ときに応じて別の主体が優先されることもしばしばあろう。例えば、同じ人において、子が継いでいってくれる部分の「我」を重視することもあれば、本などに教えとして残る「我」を重視することもあるなど。そのときどきに重視するものが違うとき、本当にそこに「核」となる「我」は実在しているといえるのか?
<
JRF2025/3/295466
著者はこういった主張についてちゃんと、心理学実験の例を持ち出して説明しているのはエライ。『宗教学雑考集』を書き上げる前に、この本を読んでいたとしたら、例をまるまるコピーして私の論の根拠にしたかもしれない。
JRF2025/3/292116
……。
「意志」は、意思決定する CEO 的というよりは、各モジュールの情報のつじつまを合わせる捏造屋である面があるようだ。なぜ、そう進化したか。
>要するに、自然選択の見地からは、自分についてつじつまの合う説明をすること、理性的で自分というものを知っている人物として自己演出することがプラスになる。そのため、世界と意思疎通をする脳の領域が、本当の動機づけにアクセスできないたびごとに動機づけについて話をでっちあげるのもうなずける。<(p.138-139)
JRF2025/3/294997
>宣伝を担当する装置を脳に組みこむとすれば、まさに自我のようなものになるだろう。人類学者のジェローム・バーコウはつぎのように書いている。「自我のおもな進化上の役割は(素朴心理学のいうような意思決定機関になることではなく)印象操作機関になることだといっていい」。一つだけつけ加えるなら、素朴心理学自体にも進化上の役割があるかもしれない。自分を有能な正直者だとアピールするには、自分の自我の力を信じていなければならないからだ。<(p.144)
JRF2025/3/298893
……。
人は「うぬぼれ」を持つもののようだ。自分の良い物語を自分が信じているほうが、他人に自分を良く見せることができ、そのほうが社会的にはトクをしてきたということのようだ。
>自己肥大の基本的な傾向は世界共通であり、とりわけ正直さをはじめとする道徳上の美徳にあてはまる。人は総じて自分が平均より道徳的だと考える。<(p.143)
私は(も)「嘘つき」である。昔から見栄を張った嘘をついては苦しんできた。うぬぼれや自己肥大に悩んできた。嘘をつこうとしてつくのではなく、息を吐くように盛って会話してしまう。かつて彼女がいたみたいな話とかで、大学生のころ嘘をついたりした。
JRF2025/3/297527
コミュ障で、嘘がバレにくいことが、嘘をつかせ、今度はバレないように人との関わりを少なくしてさらにコミュ障になる悪循環もあったように思う。
そして今はコミュ障が固定化されて、人と関わらないから嘘をつく機会がほぼなくなっている。そういう自分があるとわかって自制もあるから、SNS では正直な自分をほぼ出せてるように思う。でも、人と話せば、きっと嘘をついてしまうんだろうな…という予感がある。50歳を過ぎてるのにそれではあんまりだ。
JRF2025/3/292521
……。
>では、自我が私たちのチャンネルを切りかえ、新しいモジュールに主導権をにぎらせているのでないなら、何がそうしているのだろう。じつはモジュールの活性化は感覚と深く結びついている。<(p.159)
感覚器官がモジュールを活性化させるその度合いが強いものが、主導権を握るという理論のようだ。ただしここで「感覚」とは責任感なども含む広い概念のようだが…。
JRF2025/3/298309
ここで私は上の「多層最適化」の話を思い出す。そこでは集団が最適化の軸となることがありえるという想定があった。それを著者らの想定に合わせるなら、実際には、集団に対する何かの感覚が活性化するのであって、集団がそういう軸を実際には持っているわけではない…動作をするのは「私」に過ぎないのだから…となるだろう。
JRF2025/3/293755
しかし、これは、群淘汰などを認めない進化論的還元論のドグマに冒され過ぎているように思う。私に言わせれば、それは言わば天動説的なドグマティックな見解に過ぎない。ただし、私は天動説が間違っているとは思わない。地動説は太陽を固定化して考えるが、実は宇宙においては太陽も動いている。太陽の固定も近似でしかない。近似でないものをあくまで厳密に考えたいなら、視点を中心に固定する天動説的見方は一貫性はあると言える。そこから観測できるものは複雑になるが。
JRF2025/3/294910
群淘汰を認めない進化論も天動説と同じだ。確かに、そのような見方には一貫性があり、そう突き詰めることはできるだろう。しかし、モデルを作る際は、太陽を固定した地動説的な見方…集団が最適化の軸になっているという見方も取り入れたほうがスッキリすることも多いと思われる。それを避けるべきではない…と私は思う。
このような集団も最適化の軸となりうるという視点の利点は、そういう集団の特殊な例として「私(自己)」が出てくるということだ。「私」という「集団」にこそモジュールは最も定位しようとする。…そういう言い方はできるだろう。
JRF2025/3/298075
……。
著者は西洋仏教の師であるジョセフ・ゴールドスタインと話す。
>「ちゃんと理解できているかどうか確認させてください。瞑想中にわかっていくということですよね……生まれてからずっと自分が -- つまりあなたが『自分』だと思うものが思考していると考えてきたのに、それよりむしろ、思考が自分を -- あなたが『自分』だと思うものをとらえようとしているというほうが近いと」
「そのとおりです」
「思考は体のどこか、脳のどこかからやってくる?」
「そうです」
<(p.184)
JRF2025/3/298550
「思考は体のどこか、脳のどこかからやってくる」…というのとは違うが、華厳経的「心」の概念を思い出す。
『宗教学雑考集』《物理因果と唯心論》
>唯心論というものがある。極論すれば、世界すべてが我の妄想で思い通りになっているのだ…とするようなものも唯心論になる。この論の最大の問題は、「我」の知識にない、物理現象などが、なぜその法則通りに起き、しばしば己をも殺すのか…ということである。
JRF2025/3/299423
『華厳経[けごんぎょう]』にあるような仏教の唯心論は、それとは違う。その「我」自体が大きな「心」の一部となるようなもので、「思い通り」の解釈も独特なのだと思う。
己の心も「心」が作ったもので、この「心」は縁起するものなのだ。
一方で、「心」は創造神の心でも汎神[はんしん]論的心でもない。「心」の境界があいまい…と言ってしまっては言い過ぎであり、境界のようなものがあること自体は否定はされないはずである。「心」の成り立ちには、もちろん自己の部分…自己の願いなどもあるし、仏もあるし、虚の世界=地獄などもあり、物理法則もあるのだ。物理を知ることは「心」を知ることの中に含まれる。
JRF2025/3/298729
仏が作用して「己の心」と思う部分ができ、地獄の話を聴いて、またはその存在があることで、心の在り方が影響を受ける。「心」にとってしばしば実在は大きな問題ではないから、地獄や浄土がリアルといって何が悪い…となる。
仏というものは複数存在しうる。「心」にはその仏の国土「仏国土」も含まれうると同時に「心」は仏国土の領地でもありうる。そこには繰り込みのような構造がありうる。そこでは、フラクタル次元のように次元の在り方も異なり、物理の見え方つまり物理法則そのものも異なるのかもしれない。
<
JRF2025/3/292406
……。
この本は、そういう感覚に惑わされないために、マインドフルネス瞑想して、感覚を観察することを説く。
自己がないのになぜ「自制」ができるのか…という疑問に対し…。
JRF2025/3/298743
>とりあえず今のところは、前にも言ったことをくり返してこの疑問をやりすごすことにしよう。「自己」なるものが存在するかどうかにこだわる必要はない。無我の教義の役に立つ部分、具体的には、私たちのどこ感覚も -- タバコを吸いたい衝動も、スマートフォンを検索したい衝動も、人を憎みたい衝動も -- 本質的に私たちの一部ではないという考えだけを利用すればいい。こうした感覚をあるがままに、モジュールが力をあたえようとしていることをそのまま観察する。感覚をこのようにマインドフルに観察すればするほど、感覚の力は弱くなり、だんだん「自分」の一部ではなくなっていく。<(p.230)
JRF2025/3/293172
ここの記述に限った感想ではないが…。
モジュールからできているという思い、または、それを統合する自分が離れてあるという思い…それは離人症や統合失調症などの精神疾患に通じるのではないか? つまり、マインドフルネス瞑想で、精神疾患を負う人間も出てくるかもしれないということ。
離人症は私はなったことがないので、外しているかもしれないが、統合失調症は経験があるのでわかる。統合失調症にはいろいろ症状がありうるのだが、私の経験の一つに、手や足に別人格を憑依させそれと会話するというものがあった。モジュールの実感も、そういう妄想…ある種の「魔境」…につながる危険はないのか…といぶかる。
JRF2025/3/294441
私はその害を実感したことがあるから逆に、「私」に統合されるための理論を重視するという面はあるかもしれない。だから、上の集団も最適化の軸となるという話で、集団の特殊な例として「私(自己)」が出てくる…そこに定位してもよいということの強調などをしてしまうのだろう。
JRF2025/3/294932
……。
師の一人であるナラーヤン・リーベンソンは、「解放」を重視する。
>そのため、ナラーヤンは私がこの本を書くことにはあまり賛成しなかった。仏教の瞑想実践について本を書くことは実践そのものの妨げになりかねないからだ。
JRF2025/3/293961
(…)
私は、でもこの本はほかの人がダルマ(ブッダの教え)に帰依する助けになるかもしれないと指摘した。もし十分に多くの人が救われるなら、私個人が解放に到達できないことの埋めあわせになるのではないだろうか。そのように言ってもナラーヤンは動じない。彼女の仕事は解放へ向かうための指導をすることで、その時点では私の指導者だったからだ。それにひとりの真に解放された存在以上に世界にとってすばらしいことはないと考えているようだった。人々を解放のおおよその方角へ向かわせることのできる解放されていないひとりの著者でさえ、それにはかなわないらしい。
<(p.246)
大乗的考えの否定。
JRF2025/3/291420
ただ、この部分、著者の謙遜のようなものもあると思う。「自分は真理に到達していないので私が言っていることには仏教的に正確でない可能性もある」というエクスキューズがあるように思う。そうやって、他の指導者との共存をはかっているようにも思う。
JRF2025/3/298639
……。
>極言すれば感覚の希薄化が明晰なものの見方だと言ってもいいくらいだ。<(p.268)
これは違うのではないか。仏教的公理を知って学べる見方も大切だと思う。
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>仏教は、ちゃんとモデル化し、たとえば十二因縁論などにする。それは辿り着ける真理ではなく、教えられねばわからないものである。迷うものからすれば間に合わせの命題にしか思えないかもしれないが、悟っていない者にも正しいとして問題ないことが顕[あき]らかとなっている真理なのである。そこに「仏教」という教えの意義がある。<
JRF2025/3/298115
『宗教学雑考集』《本目的三条件の十分性》
>「来世がないのが良い」はそれほど自明ではない。ブッダでないすべての修行者が導くとは限らない。仏教の理想からすれば、自己を探求するものは、自然に「来世がないのが良い」という「真理」に気付くとしたいかもしれないがそうではない。そのため、「来世がないのが良い」を死をもって守る者も必要になる。<
仏教的公理は、瞑想のみで知る「真実」と矛盾がないようにはなっていると思う。ただ、瞑想により目を閉ざされてしまう部分がありうることは、著者も述べていた。
JRF2025/3/297172
>世のなかには、超然さと自制心をそなえたひどい人間もおおぜいいる。それどころか、超然さと自制心がいっそう巧妙なひどい人間になるのを助長している場合さえある。非常に瞑想力の高い瞑想指導者が、心理的に弱い立場にある生徒を性的に搾取した例がある。マンハッタンの有名な指導者が「アッパー・イースト・サイドの禅の略奪者」として名をはせたのもその一例だ。萌芽段階の罪の意識を「マインドフルに」観察することで、自分の不正行為に対する内なる抵抗を取りのぞいた瞑想指導者もいないとはかぎらない。
JRF2025/3/292366
瞑想の熟達にはこのような諸刃のつるぎの性質があるため、道徳教育によって仏教の瞑想をおぎなうことが重要になる。これは私独自の考えというわけではない。ブッダが解放へ向かう道 -- 四聖諦の最後に明らかにされる八正道 -- を敷いたとき、道徳の教えはその大きな部分を占めていた。徹底した瞑想をするだけであらゆる次元で悟りが開けるとは考えられていなかった。
それでもやはり瞑想は八正道に欠かせないものになっている。
<(p.307-308)
JRF2025/3/294037
道徳と究極的には関連するかもしれないが、道徳以外の面でも、教えられねばわからない「真理」はあると私は思う。
ただ、問題は、その「真理」にブッダがどうやって辿り着いたか…である。ブッダが辿り着けるなら、他の人も辿り着けることにならないか…と。そこはブッダにめぐまれた境遇…前世も含めた境遇…があったから…となるのだろうか?
JRF2025/3/290981
……。
ワインの味は「物語」に当然左右される。瞑想力を鍛えることで物語に左右されずに味わうべきだと著者は説く。
>真実かもしれないし真実でないかもしれない信念に邪魔されずにワインそのそのものの味をどうにかして味わうことができれば、もっと深い喜びが得られる。このほうが仏教のとらえ方に近い。<(p.271)
「もっと深い喜び」…そうだろうか? 虚をなくして…ではなく虚も含めて味わうから「深い」…と?
「本物」を称揚する考え方に毒され過ぎではないか…と少し私は思う。「本性」は・「本物」はない、いわば相対的なものでしかない…というのがこの本のここでの文脈ではなかったか。
JRF2025/3/291510
……。
>瞑想に徹底して取り組んだ親は子どもへの愛情が薄れてしまうのだろうか。というより、執着を手放すべきだという仏教の思想は、私たちが以前から知っている形の親の愛をある意味で控えるようにうながしているのではないか。
JRF2025/3/299124
平均的な瞑想指導者にこうした質問を投げかけると、つぎのような答えが返ってくる。瞑想を実践したからといって愛は無効にならないし、減ることもないが、愛の性質は変わるかもしれない。たとえば、親の愛は独占欲の強くない愛に変わるかもしれない。こればかりはなんともいえないが、もしかすると、不安の強い愛や支配欲の強い愛のもとでより、幸せな子になれるかもしれない。
実用性の点ではまずまずの答えだ。私の知るかぎり、瞑想をすることで、肉親とも肉親でない人とも人間関係が改善する可能性は悪化する可能性よりはるかに高い。
<(p.305)
JRF2025/3/296734
このあとの著者の展開が何を言っているのか難しいが、要は、自由経済主義的な進化論の世界観を持つ著者にしてみれば、今の子供は過保護なので、自分の子への愛着が減るぐらいがちょうどいいということなのではないか。愛があまるなら、むしろ、他の子供への愛を増やすべきだろう。…と。
ちなみに、少しズレるが、私は「子供」への愛について次のようなことを述べる。
JRF2025/3/294867
『宗教学雑考集』《聖》
>僧は「来世がないのがよい」も主宰するようになるが、それには、来世=子という考えから、産児制限の是認もありうるとしたのだった。もちろん、それは、「堕胎」よりも、人口増が戦争を導き人が死ぬよりは、予め結婚などを規制し子供の数を抑制するということだったが。<
戦争をおこさないために「堕胎」さえ受け容れる。それが「来世がないのがよい」の意味するところの一つである。…と私は考えたのだった。
JRF2025/3/291869
『宗教学雑考集』《親として生きること》
>>
>親になれば子が死ぬかもしれないという生物最大の恐怖と生涯戦い続けることになる。母なる自然にインプットされたこの苦しみから逃れられはしないのだとわかったとき、古典文学や宗教や哲学書に書いてあったこととはなんだったのかがいきなり理解できることもある。(《朱野帰子:X:2024-07-30 - 親になること》)<
JRF2025/3/298813
《「捨て扶持」理論》で、「来世がないほうが良い」が「堕胎」を導くおそれがある…と書いた。それと同時に、「来世がないほうが良い」には、子という「来世」が仮に死んでも、いつまでも執着すべきではない。死ぬことを恐れることに執着してはならない、つまり、子に自分の・自分以上の「来世」を見て執着し過ぎてはいけない。…という意味がある。そこに慰めがあったか。…とこのツイートを読んで私は気付いた。
JRF2025/3/290932
以上は仏教の話だが、多くの人と向き合ってまたは歴史を学んで「堕胎」を知ってきた他の宗教や古典文学や哲学書も、人であることの悲しみを抱えながら、子があることの喜びを祝福してきたのだろう。心から祝福・応援できたのであろう。
<<
JRF2025/3/297376
……。
この本にも共進化や相利共生という言葉が出てきて、上で私が批判したように「集団」の最適化を考えていない…わけではない。
>さしあたって重要なのは、私たちがどんなものに一体性を感じるか、皮膚の内側のものでも外側のものでも、それとどれぐらい強い一体性を感じるかは、人類の進化が実際にたどってきた道に少なからず規定されているという点だ。自己や自己の境界についての直観は、その意味で恣意的といえる。<(p.319-320)
JRF2025/3/299039
ただし、集団を軸にする最適化を考えるというのとそこに「一体性がなければならない」と考えるのには隔たりがある。集団を軸にするときは、まるで一体のように扱うしかない面もあるが、「自己」のようなコントロール性などを必ずしも必要としたりしない。
JRF2025/3/293232
……。
自己の内側と外側の境界があいまいになったと感じたとき、それは世界と一体となった…と表現すべきなのか、自分が何もないかのようになったと表現すべきなのか。前者はヒンドゥー思想的で、後者が仏教思想的なのだという。
JRF2025/3/292478
>ヒンドゥー教思想、とくに「不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダンタ)」と呼ばれるヒンドゥー教の学派のなかには、個人の自己、個人の霊魂が、宇宙の霊魂とでもいうべきものの一部だという思想がある。ヒンドゥー教の用語でいうと、「アートマン(自己、霊魂)はブラフマン(宇宙の霊魂)である」という思想だ。しかし、アートマンがブラフマンであれなんであれ何かであると口にするのは、そもそもアートマンが存在すると言っているのと同じことだ。
JRF2025/3/296445
そして、仏教の誕生そのものが、つまり、仏教以外はヒンドゥー教ばかりという環境で仏教が歴然と台頭したことが、アートマンの存在を否定したことと大きくかかわっていると考えられている。
<(p.328-329)
JRF2025/3/294785
仏教も梵我一如的真理を包含しているが、上の華厳経的「心」の理論のように、仏教では、自己の「心」に対応する世界の側を必ずしも世界全体=ブラフマンとは捉えない…という面があるのだと思う。梵我一如を真理とする感覚は胎児経験から来ているというのが私の論だが、しかし、考えてみれば、胎児を宿す母=妊婦はそこかしこにいるのである。「他」は案外一つではない…という真理がそこからも導かれているのではないだろうか。
JRF2025/3/296463
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>素朴な意味での「他者」性の発見も含めるなら、それは、まず胎児の段階にあるのではないか。ある意味、胎児の段階でそのわずかな「世界」を「他者」と知るものと思われる。そしてそれは「他者」でありながら、自己と一体である。
…もしかするとそれが「梵我一如」の正体なのかもしれない。「梵我一如」は胎児であったことの記憶が残滓として残っていて、それを真実と感じてしまうところに真実性の担保がまずあるのかもしれない。
JRF2025/3/294931
(…)
キリスト教でも、私の梵我一如が胎児の感覚から来ているという理論からすると、梵我一如的なものを真理ととらえる感覚自体はなければならない。キリスト教では、それは、三位一体の「イエスと神の一致」に現れ、そのイエスに倣うことによって、個々がそれを(胎児のころから数えて再び)ものにする。…という形なのだろう。
JRF2025/3/293529
イスラム教の場合、神人一致というとスーフィズムがあるが、スーフィズムのないところもあることを考えると、そこ以外に、梵我一如的なものがあるに違いない。難しいが、それは、梵我一如の感覚が胎児という「過去」の記憶であると同様に、キリスト教という「過去」が梵我一如を「達成」しているとして、それを「大人」の宗教であるイスラム教が取り込んでいるということにするのではないか…と私は考える。ここから敷衍[ふえん]すると、逆にキリスト教を過去とできることが弱いところほど、スーフィズムが現れることが予想されるが、実際のところはどうなのだろう?
<
JRF2025/3/291022
キリスト教・イスラム教について『宗教学雑考集』で梵我一如はどこに現れるか・超克しているかというのを話題にしたが、仏教もある意味、「心」を世界全体と一致させない部分で、梵我一如を超克しているのかもしれない。
JRF2025/3/298903
……。
この本では、涅槃つまりニルヴァーナを、因果を離れたものということだと思うが、無為=「条件によらないもの」として主に説明する。それにいたるための一助としてのマインドフル瞑想は、自分の感覚に勝手に判断させないことで、タンハー=渇愛が結晶化し固化することを防ぐ。それは無関心になることとは少し違い、むしろ、リプログラミングなのだという。
JRF2025/3/294864
>この試み全体の根底にあるのは、心のしくみをきわめて機械的にとらえることだ。機械の働きを緻密に感じとり、その理解をもとに機械を配線しなおし、プログラミングが設計どおりに働くのを妨げ、作用をおよぼしてくる原因や条件に対する反応を根本から変えることがねらいだ。こうすれば厳密な意味での「条件づけによらないもの」、無為にはいれるというわけではない。因果の世界から文字どおり抜けだせるわけではない。でも考えてみれば、飛行機は重力の法則を無視しているわけではないが、それでも空を飛ぶ。
JRF2025/3/293581
(…)
仏教は2000年以上にわたって、人間の心が環境に反応するようにどうプログラムされているか、「条件づけ」がどのように働くかを研究してきた。いまやダーウィンの進化論のおかげで、私たちは何がそのプログラミングをしたのか知っている。一世紀半のあいだにダーウィン説が成熟し証拠が蓄積するにつれて、プログラミングの詳細がしだいに明らかになった。そのため、まったく新しい角度からニルヴァーナに接近することが可能になり、悟りが基本的に理にかなっていることを擁護する新しい種類の議論をはじめられるようになっている。それがつぎの章の主題だ。
<(p.357-358)
JRF2025/3/297799
……。
>自然選択は、私たちを奴隷のようにみずからの計略に従わせるために、妄想という呪縛をかけた。
計略とは、もちろんつぎの世代に遺伝子を伝えることだ。
<(p.361)
進化に「悪」を押し付けるのは私もやった。
JRF2025/3/292715
『宗教学雑考集』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<
ただ、私は子に悪を押し付けなかった。そこには希望を置いた。
JRF2025/3/296652
また第0.8版になかったカッコ書きの「社会の発展など」を第1.0版で足した。生物進化だけが問題ではなく社会の「進化」もまた、悪の重要な要素だと思ったから。
JRF2025/3/298359
……。
>悟りのなかでしりぞけられる自然選択の価値観はうそなのだろうか。ある意味ではそうだといえる。この惑星は、自分の利益がほかのほぼすべての人の利益にまさるという前提にもとづいて行動する人間であふれている。しかし、あらゆる人がほかのあらゆる人より重要だというのはありえない。したがって自然選択の価値体系の中核をなす教義は内部矛盾している。その教義をしりぞけることは真実に近づくことになるはずだ。<(p.367)
JRF2025/3/290961
あらゆる人があらゆる人に対して重要だというのは内部矛盾である…と。確かに全体的な視点をいきなり導入すればそうなるのかもしれない。ただそれをしりぞけて得られる「真実」は全体主義の真実ではないかという気もする。転生の理論が是認しがちな今の階級を固定化する論理だ。
JRF2025/3/297391
……。
>いずれにせよ、「どこでもないところからの眺め」は、悟りがどのようなものかを説明するもっとも簡潔な表現かもしれない。自分本位のバイアスがまったくない眺め、ある意味で人間の観点でもほかのどんな生物種の観点でもない眺めといえる。これはまちがいなく自然選択の権威に逆らう眺めだ。自然選択にとって重要なのは数多くの異なる観点を生み出すことであり、どの観点も競合するほかの観点より真実に近いという原理を基本にして形づくられ、どの観点も本来その事実に気づくようにはできていない。ましてその不条理には気づきようがない。仏教の悟りはこのような観点をすべて超越することだ。
JRF2025/3/294403
どこでもないところからの眺め、かたよりのない眺めを、無関心の眺めと混同してはならない。どこでもないところからの眺めには、人類全体の幸福に対する配慮(そして、仏教の教えやすなおな道徳論理に忠実であろうとするなら、生きとし生けるものすべての幸福に対する配慮)がともないうるし、私はそうあるべきだと思う。肝心なのは、その配慮が均等に分配されることだけだ。だれの幸福よりもほかのだれかの幸福より重要ということはない。
<(p.380)
JRF2025/3/294823
偏りがないといって偏る見方は当然にある。ポリコレとかそんな感じだったじゃないか。確かにそれで救われる人々はいて、それは大事なことだ。でも、よく言われるが「本当に救われるべき人は、救いたくなるような姿をしていない」ものだ。偏りのない見方ではそういう人を見過ごしてしまうように思う。
JRF2025/3/296232
……。
マインドフルネス瞑想をすべての人がすることで争いのなくなるような未来を著者は夢想する。
>私たちは自己の特別意識という核となる進化的な価値観を拒否しなければならない。人類史上、特別意識を拒否することがこれほど重要だった時代はおそらくなかっただろう。しかし拒否したくない価値観もある。感覚のある生命を生みだし維持することはいいことだという、ある意味で自然選択的な価値観だ。幸いにも、マインドフルネス瞑想は一つめの価値観と戦いながら二つめの価値観をはぐくむのに適している。おまけに、真実に近づくこともできる。
JRF2025/3/292315
マインドフルネス瞑想そのものを生命の自然な進展のようなものとして、進行中の共進化の一部ととらえることもできる。ひょっとすると、この宇宙に課せられている制約のなかで地球上に複雑な意識が出現する唯一の道は、出現の過程で意識が歪曲され、うぬぼれによってゆがめられることだったのかもしれない。そしてひょっとすると、社会組織が地球規模に近づいた今、複雑な意識が地球上で繁栄する -- あるいはせめて生きのびる -- 唯一の道は、歪曲をなくすか、少なくとも部分的に解消することなのかもしれない。
JRF2025/3/293660
ありがたいことに仏教は歪曲をなくすための道をしいてくれた。(…)仏教は、非常に早くから非常に体系的に非常に鋭くこの問題を診断し、きわめて総合的な処方箋を用意している。そして今、ついに科学がその診断を裏づけ、根源を明らかにした。この問題は創造主である自然選択によって私たちに組みこまれたものだ。幸運にも、自然選択は問題に対処するための道具も私たちに授けた。生まれた境遇を超越しうる理性や思慮の能力だ。そしてもしかすると、超越は実現するのかもしれない。
<(p.388-389)
JRF2025/3/292003
関係ないかもしれないが、小説・円城塔『コード・ブッダ』([cocolog:95118413](2024年10月))を思い出した。その帯の文はこうだった。
>空前絶後の“機械救済”物語
2021年、名もなきコードがブッダを名乗った。自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語りはじめた。そのコードは対話プログラムだった。そしてやがて、ブッダ・チャットボットの名で呼ばれることとなる -- 機械仏教の開基である。コピーと廃棄を繰り返される存在として虐げられてきた人工知能たちは、その教えにすがりはじめた。はたして、機械に救いはもたらされるのか?
<
JRF2025/3/294122
私は↓という電子書籍の哲学的技術書を出版している。同時期(『文學界』2022年2月号〜2023年12月号)に発表された『コード・ブッダ』には、ある種のシンクロニシティを感じたのだった。
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://bookwalker.jp/debff205f7-5b43-4596-af2e-373949a8ad5c/
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2025/3/296847
AI に実用性がでてきて、また様相が変わっているかもしれないが…。
JRF2025/3/296192
……。
>一世紀以上前、ジェイムズは著書『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)のなかで、東洋や西洋で宗教と呼ばれるあらゆる形態の経験を網羅する枠組みを見つけようとした。<(p.414)
ジェイムズ『宗教的経験の諸相』は [cocolog:94838245](2024年5月) と [cocolog:94838275](2024年5月) で読んだ。
JRF2025/3/290395
……。
仏教には、観念的な真実と道徳的な真実とのあいだにある種の構造的な連携があるという前提または発見があるという。これは一種の秩序であり、ふさわしい修練を重ねなければいつまでも見えるようにはならないのだけれども。
JRF2025/3/297415
>この見えない秩序をあたりまえのものだと思っていはいけない。そのような連携のない宇宙も想像がつくはずだ。観念的な真実を知ることが、他者に対するふるまい方になんの影響もおよぼさない宇宙や、むしろ他者をもっと邪険に扱うようになる宇宙だ。しかし仏教の教えによれば -- より世俗的で宗教らしさに欠けるとされることのある西洋仏教の教えでも -- 私たちは観念的な真実を知ることが道徳的な真実を知る助けになる宇宙に暮らしている。悟りには自然な一体性がある。
JRF2025/3/296744
この連携には三つめの柱がある。私たちの幸福だ。幸せ、つまり苦しみなり不満足なりドゥッカなりをとりのぞくか少なくとも軽減することは、観念的な真実を知ることや、道徳的な真実にもとづいて行動することと一致する傾向がある。おそらくこのような連携もかならずしも宇宙がそなえているものではない。
JRF2025/3/297186
考えてみれば、世界がこんなふうにつくられているのはすごいことだ。自分の苦しみをとりのぞくために歩みだし、その道を根気強く歩きつづければ、より幸せな人間になれるだけでなく、観念的な真実も道徳的な真実もより明晰に見られる人間になれる。これは仏教の主張ではあるが、これを支持する有利な証拠がかなりある。
<(p.415-416)
さらに美に関する感覚が増すこともあるという。真善美が同じところを指し示す創造主の偉大さ…といったところになるのだろう。一神教的枠組みでは。
JRF2025/3/299928
私の枠組みでは↓がそれに相当する部分か。
『宗教学雑考集』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。
JRF2025/3/296792
総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。
その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。
JRF2025/3/291892
すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。
<
あと、「性善説の根拠」的な次の部分も関連するか。
JRF2025/3/297152
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>赤ん坊は、母親に対して操作しようとしてできなかった状況、その不如意を納得していくしかない。それは母親には母親の利害があることを学ぶことである。その利害をときに優先することは回り回って、赤ん坊の利益にもなる。
その経験により、他者の利害を優先することが、自分も含めた集団の利益となり、それが自分の利益に必ずしも直接つながってなくとも、自分の利益と感じられるようになるということだ。
JRF2025/3/290361
これは、利他主義の素地みたいなものを皆が持ちうるという主張、ある種の性善説になる。もちろん、子供は、無知・無邪気さから虫などへの残酷さなどを持ち、性悪説が成り立つ素地もあるけれども。
<
JRF2025/3/299267
……。
ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』に関しては以上。次は、エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』を読んでいく。
JRF2025/3/297173
……。
……。
『仏教は科学なのか - 私が仏教徒ではない理由』(エヴァン・トンプソン, 藤田 一照 & 下西 風澄 監訳, 護山 真也 訳, Evolving, 2024年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4908148279
https://7net.omni7.jp/detail/1107565203
原著は Evan Tompson『Why I Am Not a Buddhist』(2020)。
JRF2025/3/297716
「仏教モダニズム」を批判する本で、上のライトさんも批判している。しかし、本人は仏教徒でないというものの、西洋仏教に片足を突っこんでいることはほぼ間違いなく、例えば、転生を否定しながら無我を説く部分はライトさんと共通する部分がある。対立する議論の両側が、同じことを主張するという「洗脳テクニック」的なことに(おそらく意図せず)なっている構図もあり、その点においても注意を要する本だと思った。
「その点」以外の部分でも注意を要すると私が思ったのは、この本がコスモポリタニズムを称揚する点である。これは後にすぐでてくるので、そこで私の考えを述べる。
JRF2025/3/298003
……。
>西洋における多くの仏教指導者たちは、現代版の仏教徒の瞑想実践を教えることで仏教を紹介し、「仏教はもっとも科学に親和的(science-friendly)な宗教である」と語ったり、「実際のところ仏教はまったく宗教でなく、むしろ哲学であり、生き方であり、あるいは特別な内観による心の科学に基づいたセラピーなのだ」などと語っています。私はこうした態度を「仏教例外主義(Buddhist exceptionalism)」と呼び、それが神話であると主張しています。<(p.3)
JRF2025/3/297623
……。
>仏教が現代のコスモポリタン共同体に貢献できる価値のある正当な地位へと位置づけられるためには、仏教例外主義を切り捨てなければならない。コスモポリタニズム、それはあらゆる人々がひとつの共同体に所属するということ、そしてその共同体はそれぞれに異なる生き方を持つ人々を包み込むことができるし、またそうすべきだという思想だ。コスモポリタニズムの思想は、仏教に対する評価や、宗教と科学の理解に対して、仏教モダニズムよりも適切な枠組みを提供する。これが本書で展開する議論である。<(p.16)
JRF2025/3/297523
仏教例外主義を否定すること自体には私は反対しない。ただ、コスモポリタニズムは、グローバリスト=ポリコレ派の議論であり、非モテオジサンかつ氷河期世代の私には経済的にも受け容れがたい。
JRF2025/3/294317
経済的に受け容れがたいという点については、誰かも言っていたが、グローバリズムを厳密に適用すると、日本における弱者は、決してグローバルな基準においては弱者じゃなくなるため、それを支援するという文脈が薄れることである。一方において、チャンスを活かすことが強調され、格差が是認されるようでは、私のような人間が幸福に生きることが難しくなる。そういう経済的立場上の反感が、「コスモポリタニズム」にはある。
JRF2025/3/297126
そして、その立場を抜きにしても、以前から、(移民については、基本的に受け容れることにやぶさかでなく、移民を受け容れるなら家族も受け容れるべきだという議論もしているが)、そもそもの問題として、経済難民のようなものは、本来発生させてはならないのであり、その土地土地で生きられるようにするのが、本来の理想であるという思想が私にはある。
JRF2025/3/291936
まぁ、といいつつ、日本の失われたウン十年の超低金利で、日本は苦しんだけど、他の発展途上国に投資が向かうことで、それらが発展したのなら慰めはある。けど、他の先進国が成長しているのはなんなん?…とは思う。
JRF2025/3/297881
[cocolog:94865920](2024年5月)
>もちろん、逃げる場所があることは大切で、国は複数あったほうがいい。分裂生成された文化があるべきだ。しかし、基本は、その国で正当に働き、報われるべきというのを基礎にせねばならない。[cocolog:91743489] などでも書いたが、難民は別として、移民は国とのつながりを保つためのリモート留学支援などを行い、そのためにも当然に自国の労働者より高い所得を得るべきで、奴隷労働みたいなののために呼ぶべきではない。<
JRF2025/3/295543
[cocolog:91743489](2020年3月)
>私は左派のつもりだが、けっこう右派的なこともいうので、その文脈と受けとられかねないが、国際的「地方」の重視、移民については、外国人は帰ったりする金がいる分、給料を多めにもらうべきだ…として、いろいろな職業への移民は認めるが、奴隷のように扱う移民はやめろ…と実質、移民の制限も主張する。
JRF2025/3/291968
移民については日本への定着よりも、むしろ、原地とのつながりがあり、帰れることがよいこととし、外国語教育(遠隔教育?)の必要性も訴えたい。その教育への配慮が(経済的に)できないなら、そもそも受け容れるべきではない…と。これは東アジアから来た人でも話は同じ。
安く使えるから…というのはナシ。むしろ、日本の労働者との交換で、(生活費保証)年金を国際的に平準化するとかのほうを目指すべきだと思う。
<
JRF2025/3/292791
[cocolog:72943095](2012年6月)
>一時期、技術などがある優秀な移民のみを受け容れようという論調があった。当然、「優秀な者」の家族はどうなるのという話があるはずなのだが、保守陣営的なところ挙がってきたわりにそういう話は聞かず、優秀さをどう測るかみたいな話になって、アレレと思ったことを覚えている。
「移民せずにその地で働けるようにすることがいいんだ」というのは、もっともなんだけど、じゃあ、戦争終結のための、人道的介入のための、軍も送り出すんですかといった話になる。
JRF2025/3/290198
家族全体に不幸があるわけでもなく、稼ぐ手段を持っているであろう優秀な人が、家族を置いてやってくるなどという不思議な考えがどこから出てくるのか。
<
[aboutme:103932](2009年06月)
>経済的な動機だけで移民するっていうのは、不幸がどこかにあるということだろう。…いや、経済的な動機だけで移民するということ自体ないことなのかな。冒険を称揚する文化があったり、文化への憧れがあったりは、納得の構造の中に必ずあるのかな。<
JRF2025/3/294279
『宗教学雑考集』《死と復活の信仰と秘伝》
>>
>農業は少ない労力で栄養状態を大幅に改善したから健康に良いという考えがすっかり定着しているが、実はその逆だったようだ。同じ地域に暮らしていた狩猟採集民と初期農耕民を骨に残る生理的ストレスの痕跡や、エネルギー処理量から比較したところ、農耕民のほうがはるかに強い栄養的ストレスを受けていたことがわかった。
JRF2025/3/292601
農業は重労働であり、気候に左右され、野生動物や害虫の被害もある。それでも選択の余地はなかった。望んだとしても狩猟採集生活はもはや続行不能であり、集落に寄り集まって暮らさざるを得ず、それによって生じる大きな労苦に耐えるしかなかったのだ。つまり人びとは農業を発展させるために村をつくったのではない。少なくとも集落が一定の規模になってからは、村で生活するために農業を始めたのである。
(ロビン・ダンバー『宗教の起源』p.197)
<
JRF2025/3/292978
まず、集落ができる。…ということなのだろう。本来はその中には強い結束がなければならず、集落の中に対しては秘伝の余地は少なかったのかもしれない。集落が発展し「外」の者も支えるようになるとき、秘伝は増えていくのかもしれない。
経済学が労働力の移動をよく前提とするが、言語の違いなど文化資本などの影響で、動けない労働者は多い。それは本質的なのだろう。まず集落に集まることが先なのだ。確かに、民族移動などはあったが、それも自発的なものとは少し違ったのだろう。
<<
JRF2025/3/295435
……。
>(…フランシスコ・…)ヴァレラは思考や概念によらない無分別の瞑想を提唱していたが、(…ロバート・…)サーマンが教えてくれたのは、批判的な思考それ自体が瞑想のひとつの形であるということだった。<(p.25)
「批判的な思考それ自体が瞑想のひとつの形」…そうなのか…。瞑想で感覚を超越的に見るというのを感覚への批判などと考えるということだろうか…。
JRF2025/3/292254
……。
著者も属した「心と生命研究所」では仏教などに関して新し試みがなされていったが…。
>しかし同時に、内部グループと外部グループとの分断構造が大きくなっていった。厳しい質問を寄せる[外部グループからの]懐疑的で批判的な声は、[内部グループでは]無視され続けた。
JRF2025/3/299747
自らが瞑想実践を行うような科学者は、はたして瞑想に関する研究において客観的かつ中立的であることができるのか? なぜ多くの人がネガティブな効果を経験したことがあると報告しているにもかかわらず、瞑想が有益であるということを確立するための事前の約束事が、こんなにもたくさんあるのか? 脳や行動に関する科学的研究を分析するために、「覚り」「純粋な気づき」「もともと備わっている善性」「仏性」等の仏教的な概念を用いることは、仏教と科学をともに歪めることにならないのだろうか?
JRF2025/3/294959
こうしたさまざまな疑問は、しばしば脇に追いやられてきたのだった。
<(p.29)
内部にいながらの批判はしかし、神学などではなされてきた。そういう研究の方法はありうる。それが近代的でない…というならそうかもしれないが…。その批判はしかし、著者も批判するプロテスタント的伝統の一部ではないのか。
JRF2025/3/299192
……。
>ニューラル・ブッディズムは、認知が脳の内部で生じるという仮定に立っているが、実際はそうではない。認知は身体化され(embodied)、世界に埋め込まれた(embedded)存在が行う全体のパフォーマンスなのだ。<(p.30)
JRF2025/3/298506
認知は、それをした瞬間に社会的になにかがなされている、社会的に意味を持つ行為なのだ…と。例えば、本人が認知したと思ってなくても、社会的に認知があったとすべきことはあり、それは本人にとっても認知であることはある…と。アメリカでは「認知」にそういう文脈があるかしらないが、子の認知とか…。
これは著者が日本語版序文のところで述べていた西田幾太郎の「行為的直観」とアイデアを等しくする部分なのだろう。
JRF2025/3/291125
>西田の後期の著作における「行為的直観」が意味しているのは、純粋経験は受動的でもないし身体から切り離されたものでもないということです。<(p.5)
JRF2025/3/298788
……。
>「宗教」とは、西洋の学者によってつくられた言葉であり、前近代のアジア仏教の言葉にもとからあったものではない。にもかかわらず、宗教の学術的研究の観点から、仏教の伝統は「宗教」という言葉の範囲におさめられる。宗教は、単に信仰や教義のみから成り立つのではない。宗教が成り立つためには、儀礼や観想実践も含めた、意味を与える社会的実践が必要なのだ。宗教は超越的なものに対する感覚を育み、日常的経験を超えたものへの感性を醸成する。<(p.35)
「宗教」という言葉が日本では明治期にほぼ発明されたということは DJ プラパンチャ さんが熱心に語っていた。
JRF2025/3/292773
《環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話|DJ プラパンチャ》
https://note.com/prapanca_snares/n/n2f7b49b43062
JRF2025/3/293594
……。
>哲学的な視点から見れば、仏教例外主義の問題は、それが仏教の心の理論をあたかも価値中立的な記述であるかのように提示している点にある。実際には、それらの理論は、涅槃(nirvana, ニルヴァーナ)という仏教の崇高な目標を実現するために、どのように心を鍛錬し、正しく形づくるべきかという価値判断に基づいている。
JRF2025/3/295909
哲学用語で言えば、それらの理論は(倫理的な価値判断に基づくという意味で)規範的であり、(解脱[liberation]に関連するという意味で)救済論的なものである。もしも仏教の心の理論が、仏教からその規範的・救済論的な枠組みを取り除いたものにすぎないとすれば、重要なポイントを失ってしまうことになる。
<(p.30-31)
瞑想から出てくるかのように言ってる・考えているが、実際には、「十二因縁論」も「「来世がないほうが良い」も瞑想だけから出てこないということは私も述べている。それが規範的または救済論的な枠組みということに著者の場合は見るようだ。
JRF2025/3/291156
>仏教モダニズムは、ある種の虚偽の意識を助長する。つまり、もし仏教を受け入れるとすれば、あるいは、その非宗教的な部分とされるところだけを選び取れば、自分たちは「スピリチュアルではあるが、宗教的ではない」と人々に思わせるのだ。しかしそのとき、自分では気づかないうちに宗教的な力が自分たちを駆り立てている。
JRF2025/3/298887
たとえばその力は、ある種の聖なるものをめぐって組織された共同体に参加したいという願望であったり、個人を超越した意味の根源を見つけたいという願望であったり、苦しみ(suffering, 苦)に対処することに必要性を感じることであったり、あるいは、瞑想のより深い変容的な状態に達したいという願望であったりというものだ(当然、これ以外にも人々を駆り立てる力はあるだろう。フロイトが記したような欲望の昇華の必要性や、マルクスが記したような資本家の欲望などもそのような力のひとつである)。
JRF2025/3/299688
これらの願望をかえるために、人々が行う行動(たとえば、瞑想実践やリトリートの継続)はやはり宗教的なものなのだ。人々が「スピリチュアル」という言葉を好んで使うのは、公的な宗教機関とは区別された、個人的な意識の変容体験を強調したいからだろう。
しかし、歴史学・文化人類学・宗教社会学が教えるような、外部の分析的な視点から見れば、「宗教なきスピリチュアリティ」というのは、単に「個人化された、体験指向型の宗教」にすぎない。
<(p.37-38)
JRF2025/3/297112
体験に基礎を置く宗教が少ない…ということはないか、でも、主要宗教が、戒律以外の部分で、というより「神秘体験」を重視しなくなった中、それに近いものを手軽に(時間さえかければ)「仏教」が提供しているというのはあるのかもしれない。
この辺、大麻解禁が世界的にある中で、仏教以外の宗教が体験をどう捉えるか…みたいな視点は必要かもしれない。
JRF2025/3/295184
……。
>初期仏教の文献に触発されて、そこから今日のためのメッセージを構築することと、そうして構築したものを歴史的な真実だと主張して正当化することは、まったく別のことだ。仏教モダニズムは往々にして第二の選択肢をとり、そのために自らの首を絞めている。<(p.40)
日本仏教に関して学術的なところが、「原始」仏教に価値を見出す流れがあった。その行き過ぎへの反省もある中で、清水俊史『ブッダという男』([cocolog:95233837](2025年1月))では、逆に上座部仏教の優位性をだいたい主張する方向に行っていた。
JRF2025/3/297691
トンプソンさんに関しても「原始仏教」重視への批判の流れの中にはあるのだろう。
JRF2025/3/297897
……。
>仏教は本来、合理的で科学的な教えである。これが一般に流布している考え方だ。人々は、「仏教は宗教というよりも、哲学や生き方を教えるものだ」と言う。科学者のなかには、仏教のことを「最も科学に親しい宗教」と書く者もいる。仏教は、神の観念を必要とせずに成り立つ。直接的な観察を重んじ、ものごとを原因と結果の観点から理解し、一切は変化してやまないことを主張し、本質的な自己あるいは霊魂は存在しないと説く。
JRF2025/3/294793
仏教のなかに含まれる宗教的な部分は、おそらくは余分なものであり、取り除こうと思えば取り除くことができる。一度それらを取り除いてしまえば、仏教は、実はその核心において、瞑想に基づく心理学だと判明する。
仏教の瞑想は、祈りや他の宗教的な黙想や儀式のようなものとは違う。仏教は応用された心の科学なのだ。こうしたさまざまな理由から、人々は、仏教は本当は宗教でないと考えたり、仮に仏教が宗教だとしても他の宗教とは一線を画すものであり、他の宗教より優れたものだと考えたりしている。
JRF2025/3/298542
私はこのような考え方を「仏教例外主義(BUddhist exceptionalism)」と呼ぶ。
<(p.46)
私は「このような考え方」すべてを肯定するわけではもちろんない。仏教のみ例外だとは決して考えない。例えば、キリスト教の神学の論理性は、仏教よりも科学に近しい部分もあった。
しかし、「仏教は宗教というよりも、哲学や生き方を教えるものだ」や「仏教は、神の観念を必要とせずに成り立つ」はだいたいにおいて主張したことがある。
JRF2025/3/296840
『宗教学雑考集』《仏教は無神論か》
>仏教の特徴は、方便をつくるための議論をするところにある。つまり、このような方便でいいのではないかとする姿勢の上に、その方便をつくり得る合理的な知識を要求するのである。そのようにして、合理性を暗にほのめかすことで、合理的主張に神秘性(や感覚的権威)をもたせるのである。
JRF2025/3/297602
仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定はしない。ただ、出家者は、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。
JRF2025/3/293841
出家者が神や霊魂を信じていてもかまわない。ただ、違う神を信じる出家者どうしが神のことを語りあえば、しばしば、より大切なことを見失いがちになる。そのような出家者にとっては、仏教の教義に基づくことこそ、そういったことを避けるための方便となる。仏教は、こうして、その土地に残る宗教と結び付き、発展してきたのである。
ただし、このような態度こそが、神をないがしろにするものであると考える宗教もある。もし、出家しようとするものが、そのような神を信じていたのならば、人々の幸せのために、敢えて外道に堕ちよと説かねばならない。一神教の信者にすれば、この点を指して無神論というのだろう。
<
JRF2025/3/297589
……。
>アジアにやってきたキリスト教宣教師たちは、科学と高度な技術をもっていることを理由にキリスト教の優位性を宣言した。これと同じ理屈で、ヨーロッパの植民地支配者たちはヨーロッパ文明の優位性を主張していた。しかし、アジア仏教の知識人とその改革者たちはこの議論を逆手に取る方法を見つけ出し、「仏教こそ真に科学的な宗教である」と反論したのだ。彼ら仏教の革新者たちは、西洋人が迷信だと考える儀式や献身、信仰、そして実践を軽視し、次のような宣言を行った。
JRF2025/3/296309
「仏教には創造神が存在しない」(天の神々を詳細に並べたり、土着の神々や聖霊を認めたりしているにもかかわらず)、「仏教は信仰ではなく、理性と個人的な洞察力を根拠にしている」(信仰と献身の対象が数多くあるにもかかわらず)、「ブッダは神ではなく、人間であった」(ブッダは「超世俗的な」性質を有すると信じられているにもかかわらず)。
つまり、彼らは「仏教は宗教的であるというより、むしろ心の科学である」と主張したのである。
<(p.48)
JRF2025/3/290850
いや、しかし、元々のインド宗教を否定するところに産まれた仏教は、それらが持っていた要素を軽視したことは事実だと思う。その根本的なところで改革宗教性があり、それが近代の時流に乗った言説も可能にしたのであろう。天の神々の軽視・合理性の重視・悟りの平等性(釈尊のみ特別視したが)…などはあった。
JRF2025/3/292071
……。
>日本に本部を置く在家の禅の教団である三宝禅(旧: 三宝教団)の山田凌雲老師はこう教えている。宗教というものは、自己を超越した存在への信仰を必要とするが、「禅はあくまでも自らの経験を通して真の自己を見出し、存在の真理を発見するものである」。
JRF2025/3/299471
(…しかし…)
禅には儀礼もあれば聖典もあり、典礼も僧団もあれば僧侶もいる。何より、「真の自己」や「存在の真理」といった言葉が意図しているのは宗教的な概念だ。これらの言葉や概念は、解脱や救済にかかわる救済論的なものなのである。何か日常経験を超えたものを指向するという意味で、それらには「超越」の感覚が含まれている。禅は紛れもなく宗教的なのだ。
<(p.50)
JRF2025/3/297680
「真の自己」や「存在の真理」は宗教を元にしているかもしれないが、かなり哲学に寄せた言葉であり、デカルトとかヘーゲルを思い浮かべれば、彼ら以上に宗教的ということもないのではないだろうか。そこに「宗教を超えた真理」があると思いたいという思いは私は理解できる。別にその教団にシンパシーがあるわけではないが。
JRF2025/3/295195
……。
>宗教は、誕生や老化、病気、トラウマ、非日常的な意識状態、そして死、といった人生の重大な出来事を理解するために、儀式や共同体、共有された実践、教典の伝統、そして解釈の枠組みなどを通して意味を創造する。宗教は、超越の感覚、つまり日常的な存在を超えた何か重大なものに対する感性を人々に植え付ける。<(p.51)
JRF2025/3/297669
これが著者による「宗教の定義」的なもの。でも、たとえば経済も使い切れないほどの財を貯めるよう促すという点では、超越的価値観がないわけではない。価値観を与えるものには宗教性がある…それを「宗教」性と呼ぶ…というぐらいのことしか言っていないのではないか。その方法には、伝統的には儀式などが利用されてきたというだけで。それとも上に挙げたものが一つでも欠けるものがこの先現れたら、それは「宗教でない」と判断するのだろうか?
JRF2025/3/291466
……。
>あるいは、リベラルなユダヤ教[ユダヤ教の改革者]のことを考えてみてもよい。彼らは、トーラー[ユダヤ教の聖典]は、神によって書かれた石版がモーセに示されたのではなく、人間によって書かれたものであるとみなし、ユダヤ教の知的伝統が進歩的であることを強調している。実際、アメリカの著名な仏教指導者の多くは、同時にリベラルなユダヤ教徒(またはユダヤ教-仏教徒 Jubus)でもある。<(p.52)
JRF2025/3/293438
私は、宗教を独学する中で、ユダヤ教に好意を持った。ユダヤ教徒にはユダヤ人しかなるべきではないと保守的に考える私は、ユダヤ教を信じる道がなかったが。仏教的基盤からユダヤ教を学ぶ私は、しかし、Jubus からはうさんくさく見られるのだろうな。主に彼らほど優秀でなく、語る聖書解釈が「お笑い草」だから。
JRF2025/3/295074
……。
>仏教的な心の科学の方法とされる、ありのままの注意は、心の真の姿を明らかにすると言われている。またその方法は、仏教の「無我(noself)」あるいは「非我(nonself)」(パーリ語: anattā, サンスクリット語: anātman)の真実を明らかにするとも言われる。すなわち、不変の自己も魂も存在せず、「心は認識機能以上のものではない」という教えだ。<(p.55)
西洋仏教では「心は認識機能以上のものではない」まで言ってしまうのか。確かにそれは違和感あるな…。釈尊も否定していたはずの唯物論に傾き過ぎのように思う。
JRF2025/3/298361
……。
>仏教の瞑想は、人々が特定の経験をするように誘導し、さらにその経験が仏教教義に合致し、仏教教義を確証するものであると解釈するように導く。こうした経験をもとにつくり上げられる主張は、中立的な査読の対象になるものではなく、あくまでもすでに合意されて疑問視されることのない仏教の救済論的な道の枠組みのなかにおいて評価対象となるものである。<(p.70)
JRF2025/3/296701
それが、ライトさんとの議論の中で、瞑想者が道徳を得るのに必要なプロセスであるという部分であった。でも、進化論もそうだけど、そういうドグマってのは学問の世界にも少なからずあるのではないか…とは思う。単に知性的見解のドグマではなく体験をだいたいの根拠にしているのはむしろ親切なほうなのでは?
JRF2025/3/295565
……。
上でも出てきた一体論のヒンドゥー教的見解と、無我論の仏教的見解。それら…
>ふたつの伝統において意見が一致しているのは、私たちが通常「自己」とみなしているもの(心や身体)は、自己であるための基準を満たしていないということだ。心や身体は、変化する心的状態の下や背後に存在する永続的な意識の主体でもないし、心と身体を統御する最高位の存在でもない。したがって、心や身体のいずれも真の自己と同一視すべきではない。どちらの伝統においても、そのような間違った同一視が苦しみを引き起こすと考えられている。
JRF2025/3/292379
見解が分かれるのは、バラモン教の思想家は、変化する心や身体の状態とは区別される、同一性の原理としての自己が存在すると主張するのに対して、仏教の思想家はそのような自己の存在を否定しているという点だ。ここでは、認識をどのように説明するかということが、主に哲学的な議論の争点になっている。
JRF2025/3/295932
仏教哲学者たちの主張では、認識は独立した主体の存在を想定しなくても、心的・物理的な事象の因果的連鎖という枠組みによって説明できる、。これに対してバラモン教の哲学者たちは、知覚的認識と想起がどのように機能するかを説明するには、一連の因果的連鎖を適切な仕方で統合する、持続的に存在する主体を措定することが必要になるという強力な反論で応答している(だからこそ私は自分の以前の経験を、他人のものではなく私のものとして想起することができる)。
<(p.80)
JRF2025/3/298826
これではまるで両者とも輪廻転生を否定し、それは認識論でしかないと考えているみたいではないか。対立する議論の両側が、同じことを主張するという「洗脳テクニック」的なことに(おそらく意図せず)なっている構図がここにあるように思う。
(仏教も転生を否定してない…というのが私の認識。常に同じ何か(アートマンなど)が転生しているとは考えないだけで。)
JRF2025/3/294986
……。
>たとえば誰かが、次のような主張をしたと仮定してみよう。
「科学は、キリスト教における「核をなす考え」、すなわち自然は数学という純粋言語で刻まれた普遍的な物理法則によって支配されている、という考えを支持している。ゆえに、キリスト教は「真実」である」
この主張に対しては、「物理法則に関する科学の考え方が正しいからといって、それはキリスト教が真実であることの理由にはならない」と答えるのがおそらく正解だろう。
<(p.85)
JRF2025/3/291824
「自然は数学という純粋言語で刻まれた普遍的な物理法則によって支配されている」は、かなり事実なのは私も認めて、そのことが神秘的ではあるのだが、いちおう、科学は、数学で記述できる自然の部分をうまく抽象しているだけという側面も強いと言えるはず。
JRF2025/3/293146
……。
第二章は、ライトさんの批判を展開するわけだが、トンプソンさんはライトさんを全否定するわけではない。
>前章で論じた仏教例外主義者と違って、ライトの場合、仏教は本当は宗教でないと主張しているわけではない(…)。むしろ彼はセキュラー・ブッディズムもまたひとつの宗教であると主張しており、この見解は個人的に正しいと思っている。
(…また…)とりわけ今日の世界のためには仏教が根本的に重要であるという彼の見解は、私も共有している(…)。
<(p.88)
JRF2025/3/299382
……。
>ライトにとって「解脱」とは、避けることが不可能である感情と、避けようと思えば避けられる渇愛とのリンクを断ち切ることである。「今・ここ」における解脱とは、渇愛によって条件づけられた状態から自由になることだ。以上が、「条件づけられない状態」(涅槃)への到達、またはその実現という仏教思想に対するライトの解釈になる。<(p.93)
この部分、要約がうまい。私も上でライトさんのニルヴァーナ概念を要約しようとしたが、こんなにうまくはできなかった。
JRF2025/3/294075
……。
>進化心理学者は進化に関する歪曲された考えを抱いている。彼らは根本的に、進化を問題解決のことだと考えている。すなわち、さまざまな問題が生物に先立って独立に存在し、それが生物に淘汰圧として作用すると捉えているのだ。このような見方をすれば、生物は自然選択を受動的に受け入れる存在、あるいは自然選択の受動的な結果として解釈されるしかない。
より適切な見方は、生物は規則的に環境を修正することで、自らが生み出す淘汰圧に対して体系的な偏りを与えるというものである。それゆえ、生物は能動的に自らの環境を形成することによって、自らの進化に影響を及ぼしているのだ。
JRF2025/3/294845
これは、進化生態学における「ニッチ構築理論」の中心にある考えである。ニッチ構築理論によれば、「進化は……因果関係とフィードバックのネットワークを必ず伴っている。つまり、まず自然選択された生物が環境の変化を促進し、その後に、生物によって修正された環境が生物の変化を選択する」。
<(p.97-98)
しかし、問題解決の努力があること自体は否定できないはずだ。自分と同じ比重の見解を持っていなければ認めないというのは、逆に問題がある。
JRF2025/3/298499
私は、『宗教学雑考集』《イメージによる進化》で語ったように、「ニワトリが先か卵が先か、という議論がある。私の解答は「ニワトリの概念[イメージ]が先だ」というものである。」…と考え、イメージを「目的」として群を単位に進化が起こるとまで考える。その「目的」は問題解決を目指していることもあるだろうから、そこを批判されると、反論したくなる。もちろん、ニッチ構築理論が間違っているというつもりはまったくないが。
JRF2025/3/290546
……。
>進化心理学者は、進化の歴史のなかで「更新世」という一期間だけを重要な心理的適応のすべての源であるとみなしており、また、それらの心理的適応を詳細に検討することで、「文化的・社会的現象の体系的な理解が得られる」と信じている。<(p.98)
ここは藁人形論法に思える。ライトさんの本ではこのような記述はなかった。もしかするとライトさんの以前の本にはあったり、進化心理学の一般的な本の傾向はそうなのかもしれないが。ライトさんやその翻訳者が、トンプソンさんの本を読んで書き換えた可能性もなくはないが。
JRF2025/3/298151
……。
>たとえば彼(…ライト…)は「恋愛映画はあなたの「配偶者獲得」モジュールに主導権を握らせる」と言ったり、「ホラー映画はあなたの「自己防衛」モジュールに主導権を握らせる」と言ったりしている。しかし、進化生物学や認知神経科学の知見からは、脳にそのようなモジュールが含まれているというたしかな証拠はない。<(p.103)
JRF2025/3/290191
脳をグラフ形式のネットワークで表すことにもトンプソンさんは言及している。AI…ニューラルネットワークもそういうモデルだね。発火するとき似た部分が発火するのを「モジュール」とライトさんはモデル化しているだけだと思う。ライトさんも慎重な言い回しをしていて、ここは言いがかりに近いと思う。
JRF2025/3/291857
……。
>要約すると、進化心理学にはそれを裏付けるに足る十分な証拠が欠けており、その主要な教義には欠点がある。それゆえ、それは人間の心を理解するための正しい科学的アプローチではない。<(p.104)
これは科学に対するドグマティックな考えだと思う。生物学者にはこういう考えが多いようだが。科学に幻想を持ち過ぎだと思う。地動説ではないが、いろんなモデルで「科学」をとらえるべきで、モデルは数学的に完全に捉えられなくてもいい。進化心理学は十分魅力的な仮説だ。ドグマにこだわるのは、科学の可塑性を奪っていると思う。
JRF2025/3/290979
……。
>アビダルマにとって、私たちが「心」と呼ぶものは、私たちが認識の「対象」と呼ぶものとともに生じる相互作用的なプロセスの集合であり、そのなかには物理的なものもあれば、心的なものもある。同じことを認知科学の言葉で言えば、私たちが「心」と呼ぶものは、脳とそれ以外の身体・環境のあいだに広がりながらも互いに接続される相互作用的なプロセスの集合であり、私たちが認知の「対象」と呼ぶものは、これらの相互作用的なプロセスによって定義される。<(p.108)
JRF2025/3/295277
上で書いた華厳経的な「心」にかなり接近した考えだね。そういう考えで「科学」も捉える・捉えられるというのは実に魅力的だ。しかし、多くの人・ライトさんの読者が求めていた「科学」は、そういうものではなく、まぁ、ドグマティックにすでに確立したものなのだろう。じゃあ、こう考えるトンプソンさんが、ドグマティックなものから離れているかというとそうではなく、別のドグマを立てようとしているだけのように私は読んだ。
JRF2025/3/296612
……。
>仏教と科学との対話においては、もはや科学だけが合理的であるための唯一の方法であるという考えを前提とすることはできない。そうした考えは、自由闊達な議論の可能性を閉ざしてしまう。真の出会いは、それぞれの伝統が相手の考えや立場、議論に挑戦するなかで果たされる。たとえば、自然主義的な仏教徒が、業や輪廻に関する伝統説の正当性を疑うことはよいことだ。ただしそれは、彼らの側も科学的実在論に対する仏教哲学からの批判の力を考慮し、その批判がいかに自分たちが前提とする科学的な自然主義に疑問を突きつけるものなのかを真剣に考慮しようとする場合に限られる。<(p.113)
JRF2025/3/295813
「限られる」ということはない。対話はすばらしいことだが、科学の側で自足している限り、仏教側の意見を聞かねばならない…というのは、求め過ぎだろう。科学側が気付いてなかったムジュンなどを突きつけられるとかがなければ、強制的な反応は期待できないものだ。科学側も一枚岩ではないから、モデルに強い影響を与えられる分野もあるかもしれないが。
JRF2025/3/298208
また、そういう「夢」を仏教が持つべきなのかも疑問だ。科学と対等・平等でありたいなどとすべきだろうか。「そういうこともありうるが、なくてもどうということはない」…それが現世に対する無常感的なように思う。(救いのために)現世を説明したい・あわよくばコントロールしたい…思考・思念を深めたい…という「欲」は仏教でも肯定されると私はしたいけれども。
トンプソンさんも、仏教は「本質的に思い通りにならないという価値判断と切り離せない」(p.86)と書いていたが、仏教は、固定された・ある意味ドグマティックな科学的真理を信用していないという面がある。
JRF2025/3/290032
すべては無常。空論ですら常在でない可能性があるのだろう。ましてや天の神々の秩序や悟りの平等性や釈尊の超人的身体的特徴の記憶すら常在でないのかもしれない。アートマンはないということも否定されることはありうるのか…涅槃に達した者はアートマン「的」にはなるのだった。
トンプソンさんはドグマを結局は求めていて、それは仏教的でなく、だから「仏教徒ではない」面もあるのだろう。
JRF2025/3/290057
……。
>「解脱は達成されている、かつ、不可能である」というパラドクスをそのまま受け入れるという道筋もある。<(p.117)
東洋ではパラドクスが受け容れられているというが、キリスト教的次元論に立たず、異世界・多宇宙的なものを受け容れるならパラドクスでは実際なくなるのだ。そういう論を私は以下でした。
JRF2025/3/299359
『宗教学雑考集』《大乗仏教的議論》
>修行者が「ブッダ」になったとき、次の生が「仏国土」に転生する…というわけではなく、「ブッダ」になった瞬間、「仏国土」が現れており、そこに「ブッダ」として現れている、その修行者が生きている場合は、その「仏国土」に「ブッダ」としている生とは別の生として修行者の生が残るということではないか。
JRF2025/3/298431
その生を菩薩として生きることができ、菩薩として転生することもできるが、それは「ブッダ」から転生しているのとは違うのだろう。その「ブッダ」は生死を超越していて「涅槃にある」という。つまりは、生も超越していて通常の意味で「生きている」というわけでもない。かといって法律のような言語化できる抽象的概念になっているわけでもない。「抽象的存在」とはギリギリ言えるのか、言えないのか…。
JRF2025/3/290571
「仏国土」の始源はいってみれば、「ブッダ」になった修行者にあるのではあるが、「仏国土」の時間的始源はそれとは別にあり、その国土が持つ応報の機能によって、時間的始源があるのか、無限の過去があるべきなのかが決まる。そして無限の未来があるべきか終末があるべきかも決まるのだろう。(「決める必要がない」という決まり方もあるかもしれないが。)
<
この議論の場合、(人々を救うため何度も戻ってきたい)菩薩としては解脱は不可能であるという状態にあるのだろう。しかし、「ブッダ」としては解脱は(別の仏国土で)達成されているということになる。
JRF2025/3/299582
……。
>「私たちの現在の欲望や妄想は、自然選択ではなく、むしろ資本主義や新自由主義に起因しているのではないか?」という疑問をもつ人もいるだろう。
(…)
現在の私たちが抱えている問題の多くは、自然選択というよりも、むしろ文化に起因すると見た方がはるかに適切であるように思われる。
<(p.123)
私も上で指摘したが、自然選択だけでなく文化(上では「社会」と書いた)が重要な役目を負っているというのはトンプソンさんの意見に賛成する。
JRF2025/3/290531
逆に、ライトさんが、文化にあまり言及しなかったというのは、>進化心理学者は、進化の歴史のなかで「更新世」という一期間だけを重要(…とみなし…)それらの心理的適応を詳細に検討することで、「文化的・社会的現象の体系的な理解が得られる」と信じている。<(p.98)からなのかもしれない。上ではトンプソンさんを藁人形論法と批判したが、ここに根拠があるのかもしれない。
JRF2025/3/290178
……。
無我説に関して。
>ブッダは[異教徒]ヴァッチャゴッタから「はたして自己はあるのか?」「自己はないのか?」と尋ねられたときに沈黙を貫いた。もし自己が存在しないのならば、なぜブッダは素直にそう答えなかったのだろうか?
JRF2025/3/297942
ヴァッチャゴッタの件に関しては、ブッダは弟子のアーナンダに沈黙を貫いた理由を後の自ら説明している。もしヴァッチャゴッタに「自己はある」と答えていたら、「常住論者(常住不変の自己が存在すると信じる者)である沙門やバラモンに与することになっていただろう」。もし「自己はない」と答えていたら、「断滅論者(死後の世界は存在せず、私たちの存在すべては死とともに滅ぶと信じる者)である沙門やバラモンに与することになっていただろう」と。
<(p.139)
上で、アートマンではなくが霊魂的なものまでないと断言することを「唯物論」と語ったが、むしろ「断滅論」というのが、仏教的な言い方なんだね。
JRF2025/3/295777
……。
無我説かアートマンがあるのか、上ではヒンドゥー教のものといったものは↓では「ニヤーヤ学派」の説となるが…。
>認知科学者は自己を実体であると考えていない。そのため、無我説か有我説かという論争では、仏教還元主義者が勝利をおさめると考える傾向がある。これは標準的な仏教モダニズムがとる方向性であもある。だが、このようなものの見方は短絡的で偏っている。認知科学の観点から正しく見れば、仏教徒とニヤーヤ学派の哲学者たちにはどちらも長所や短所があることが分かる。
JRF2025/3/296616
一方で私は、仏教還元主義者に同意する。私も実体的な自己は存在しないと考える。しかし、知覚の結合と意識の見かけ上の統一性についての彼らの説明は、満足できるものではない。彼らは「心的知覚(mental perception, 意知覚)」が、知覚された別々の諸性質を統合するとともに、瞬間ごとに生じる思考や感情などが同一の主体に属しているかのように見せかけるのだと主張する。
JRF2025/3/295383
しかし、心的知覚もまた別の非人格的で瞬間的な認知的出来事にすぎないため、この説明がうまくいっているかどうかは明らかではない。ニヤーヤ学派の哲学者たちは、瞬間ごとに生じる別々の心的知覚が統一されているように見えることを説明するのは何なのかを知りたがるだろう。
JRF2025/3/291483
他方で私は、ニヤーヤ学派の哲学者たちにも同意する。私も知覚の結合や意識の見かけ上の統一性を説明するためには、何らかの統一性や一貫性の原理が必要であると考える。しかし、そこで求められる統一性の原理が、「実体の同一性」の原理であるという点には同意しない。認知科学者が試みているのは、知覚の結びつきや意識の統一性を、実体の同一性の観点からではなく、脳の組織化原理と心的内容同士の相互関係から説明することだ。
<(p.150-151)
>自己は構築されたものである。そして自己という感覚のなかで、不変で独立した人格の本質という印象を抱かせる部分が錯覚なのである(…)。<(p.164)
JRF2025/3/292334
>自己とは行為によって「私」を創造[エナクト]する進行中のプロセスであり、「私」とはこのプロセスそのものに他ならない。たとえばダンスとは、ダンスをその行為によって創造するプロセスであって、ダンス(dance)とはダンスすること(dancing)そのものなのだ。
JRF2025/3/292614
ダンスは、この世界や他のダンサーとのダイナミックな相互関係のなかに身体全体の表現として存在する。「ダンスはダンサーの筋肉の内部にある」と考えるのが的外れなように、「自己は脳のなかに見つかる」と考えるのも的外れだ。「自己は脳のなかに見つからないから、自己は存在しない」と言うのは、自己の概念を誤解している。ダンスと同じように、自己とは創発されるプロセスだ。それは空間と時間のさまざまなスケールのなかで行われる心や身体の活動を通じて構成され続けるものである。
JRF2025/3/298429
自己は、豊かな社会環境のなかで文化的に形成された、生ける身体(living body)に付随して生じる。たしかに、自己は独立的で非関係的な存在であると考えるのは間違っているが、依存的で関係的だからといって自己が実在しないことにはならない。
<(p.167-168)
私は上で「自己」を「我々」の中から発見される「制約」とまずとらえた。また最適化の軸の中の一つとして、そこに像を結ぶことが多いものとして「自己」があるとも述べた。その制約の中でどう動くか…それを目的にしてどこまで働けるか知っていくところに「自己」の発見がある。
JRF2025/3/290308
ただ、それとは別に因果応報の対象としての霊魂を私は認める。それは唯物論・断滅論に陥らないためにも仏教が必要とするものだと私は考える。もちろん、その「霊魂」は常住不滅である必要はない。
『宗教学雑考集』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。
JRF2025/3/290457
その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。
○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆[ひふく]して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。
JRF2025/3/290697
(…)
○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。
そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。AI の意志の発生も、それがなぜ意志を持っているか、説明できていないはずである。意志は、その秘密が解かれる前に、その秘密を迂回[うかい]して、「製造」できるようになってしまった。
JRF2025/3/299486
このような現状においては、挑戦的に脳や一部などに実際に霊の領域があると主張したり、そこから上の説への中間的表現を目指すことも未だ可能であると思われる。
(…)
この《魂の座》で注目して欲しいのは実は「説2」である。説1 の神の記憶モデルは唯一神論に立って自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1 だけを真理とするのはカトリックなどでは実は異端なのだと思う。
JRF2025/3/292372
それに対し説2 は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙[ちせつ]とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち死後に神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを膨らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。
まさか「神」がわざわざ自分にそんなことをしてくれるはずがない、というのも思い込みの一種である。しかし、この説が「稚拙」と私も思ったのは人の親でないからだろう。人は親になるとき「こんなことまで」をやってくれたことを知るだろうから。先の説も自然な形而上学の一つになる。
JRF2025/3/297984
親は子供が産まれたとき、その親からすれば想像もできないこともやってくれているものである。まして、神が、その霊に臨むにおいてや…。
(…)
ちなみに、霊的肉体や神の記憶は、アートマンのように常住不滅で同一である必要はまったくない。霊的肉体モデルで、神がお迎えに来てくれるというとき、身体から掬[すく]い出す「何か」に常に含まれるもの=アートマンがあっても良いが、なくても良い。もちろん、常住不滅のアートマンがある可能性をまったく排除するものでもない。
<
JRF2025/3/293593
ここで神の記憶モデルを考えよう。一般の「認知科学者」は霊があるとすれば脳の中にあると考える。トンプソンさんは、必ずしもそうではないようだが。ただ、神の記憶モデルであれば、それはどちらかと言えば、外部に「霊」はあることになる。
JRF2025/3/291962
しかし、神の記憶に「霊」があるなら、それは常住不滅ではないか…と思うかもしれない。それは、そうでないという解釈も可能である。多宇宙や異世界や、無限の有限へのくりこみを是認すればよいのだ。例えば y = tan(x) において、y を神の記憶モデルの時間スケールとする場合、x の視点に立てば有限の範囲に繰り込まれる。そのような意味で常在と非・常在であることが共存することはありえるのである。…そう私は考える。
JRF2025/3/294514
『宗教学雑考集』《ゼノンのパラドクス「アキレスと亀」》
>無限が、ある立場からすると有限に「くりこまれる」というのは、大事な知見なのだ。それをこれから宗教的因果論・宇宙論の世界で私は使っていく。<
『宗教学雑考集』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。
「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。
JRF2025/3/299216
しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。
JRF2025/3/294447
少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。
結局これはどちらもありうる話なのだと思う。
JRF2025/3/297515
しかも、忽然と創造される話に過去の創造が出てきたが、過去を未来につないで円環にすることも考えれるかもしれない。いろんな時代の創造が円環のように閉じる。円というのは放射上に向こう側に線を引くこともでき、その線に沿って、例えばあるところの色が逆になった上で別のところの音楽になるといった影響のしかたもあるかもしれない。それは十二支のように規則的に並ぶかもしれないし、十二星座のように大きかったり小さかったりする「時代」が並ぶかもしれない。円環が何度もまわりながら、線を太くするように創造がなされていく…。それも不可能とまでは言えないだろう。
JRF2025/3/298235
星は独り輝くというメタファからは、世界がライプニッツのモナドのように独り閉じている独覚者的な時空があり、それを観測することで何がしかの影響がある世界というのもあるかもしれない。物質的に不完全なイメージの力…イデアが強い世界もあるかもしれない。
JRF2025/3/296774
円環と「忽然と無限」が複雑にからみ合うことも考えられる。地動説で固定されてるかのように思われた太陽もまた銀河の中で動いていることをご存知だろうか。そのように次元や宇宙も固定されたものではないとすれば、それ自身が一個の生物の姿をしているかもしれない。いや、複数の動物でもいい…となると、亀と象が出てくるような「古代インドの宇宙観」を絵でご覧になった方も多いと思うが、それも間違いではないのかもしれない。
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JRF2025/3/292225
……。
アメリカにおけるマインドフルネス瞑想の流行は、商業主義だからと言って簡単に否定できるものではない。
JRF2025/3/291820
>仏教は、布教伝道を伴う宗教のひとつであり、その土地々々の文化の経済システムに巻き込まれてきた。たとえば、ブッダと弟子たちは在家者の布施に依存していた。裕福な金貸し業者、キャラバンの商人、有力な支配者などがブッダや後の僧院の設立をサポートし、その見返りに宗教的な「功徳(merit)」を受け取るのである。仏教はインドと中国を結ぶシルクロードの交易ルートを介してアジア全域に広がった。したがって、大衆市場化されたマインドフルネスを批判しようと思うのであれば、本来性や経済的な純潔性という根拠とは別の根拠に訴えなければならない。<(p.172)
JRF2025/3/299785
批判の一つが科学との安易な結び付きを否定するという著者らの姿勢になる。
JRF2025/3/292392
……。
>マインドフルネスは頭のなかにあるという思想に助長されてきたのが、マインドフルネスへの熱狂である。瞑想の科学は、脳神経イメージングの技術を通して観察される脳に過度な注目をすることで、この思想を強化してきた。(…)私たちは、瞑想を認知神経科学の観点のみによって研究するのではなく、認知生態学的な観点へと視点を移して研究する必要がある。
JRF2025/3/294184
ただ脳だけに焦点を当てるのではなく、いかに文化的実践が瞑想に伴う認知的スキルを統制・調整するのかを探究する方向へ向かう必要がある。瞑想の科学がこのような方向転換をしない限り、それはマインドフルネスへの熱狂の自画自賛に対する共犯者であり続けることだろう。
<(p.199)
JRF2025/3/299019
私には「自閉症」とされる知的障害者の親戚がいて、かなり成長するまで、対話ができなかった。今も対話が健常者のようにはいかない。そういう子に、オウム真理教事件などで注目された脳神経イメージングの「ヘッドギア」は希望の象徴だった。脳科学を宗教的にも財政から支えたいというとき、「マインドフルネスへの熱狂」にあえて荷担する者もいるのだと私は思う。トンプソンさんはそういうのは詐欺みたいで苦々しいのかもしれないが、「財政的に何かしている」というそのことが「救い」の感情をもたらすことはあるということは認めてほしいように思う。
JRF2025/3/291968
……。
「悟り」は enlightenment と訳される。しかし一般には enlightenment は「啓蒙」とも訳されてきた。
>カントにとって自らの悟性を用いることは、他者の権威を受け入れるのではなく、自分の意志と理性に従って自分自身でものごとを進めることを意味する。そのためには、強い自己の感覚をもつことが必要だ。あなたは、あなた自身を合理的な行為主体として理解する必要があるし、人格や道徳の自律性を主張しなければならない。人格と道徳の自律性とは、他人の指示に従うのではなく、自らで決断する能力をもつこと、道徳法則に従って行動する能力をもつことである。
JRF2025/3/297314
ところが仏教モダニストたちは往々にして、「悟り(enlightenment)」を自律的な自己や行為主体が存在しないことの認識であると説明する(そうして彼らはしばしば、他者からの指示、すなわち仏教のグルや老師、指導者の命令に従うことをまったく厭わない)。たとえば、瞑想指導者であるシンゼン・ヤングはこう述べる。「悟りとは、あなたの内側に「自己」というモノが存在しないことを直接に認識することによって生まれる、一種の恒久的な視座の転換のことだと考えることができる」
<(p.202-203)
JRF2025/3/294378
>要するに、ヨーロッパの啓蒙主義とその系譜に連なる実存主義などが、自己の自由(freedom of the self)を強調するのに対し、仏教モダニズムにおける悟りは、自己からの自由(freedom from the self)だと考えられているのだ。<(p.204)
確かに仏教は利他性の強調があるかな…と思う。『宗教学雑考集』《四諦:仏教教義の提案的解釈》では、必要悪の強調を私はして、それはつまり、悪をしてでも守るべき自分があるという方向を示して、まぁ、ちょっと従来の仏教(と思われてきたもの)に反逆している部分があるかもしれない。
JRF2025/3/292593
……。
釈尊は、悟ったとき、四諦の真理を得たという。また、釈尊は八禅の段階がある中で第四禅で悟ったという。しかし第四禅は思考するような禅ではないのに、その間に四諦を「思い付く」ことはないのではないかとトンプソンさんはする。
JRF2025/3/294760
>第四禅は、洗練された深い集中状態であり、完全にマインドフルで心の平安が得られた状態にあたる。そこには思考もなければ、あらゆる種類の苦も楽もない。そのような状態は、能動的想起とは両立せず、また(…四聖諦の…)「これは苦しみである」、「これは苦しみの原因である」、「これは苦しみの停止である」、「これは苦しみの停止につながる道である」と識別するために必要となる一種の思考とも相容れないように思われる。<(p.212)
修行体とは別の超越的なブッダ体が四諦を知ったのだとしても、それなら、禅のあとに振り返って知ったというシナリオに近くなる(トンプソンさんが可能性として挙げる)。それで良いのか?
JRF2025/3/298106
ただ、私もそうだがおぼろげな真理をつかんで、あとから構造的な文にしていくというのは普通のことのように思う。「これは苦しみの停止」である…はマインドフルネスに似ており、核心は苦の停止可能性にあって、そこからライトさんが辿ったような八正道の必要性の詳細をあとから認識した…とすれば、そこまでおかしなことではないように思う。
JRF2025/3/292148
……。
涅槃の解釈はいろいろあるが…
>解脱に関する競合する説明であれ、両立可能な説明であれ、それらの説明をひとつのまとめるものは涅槃という概念的な参照点であり、これはあらゆる仏教徒が信仰の問題として受け入れているものである。したがって、仏教モダニストのように信仰を排除してしまうと、悟るための概念的な支えが失われる(…)。<(p.222)
JRF2025/3/299887
でも、そもそも、転生がなくてもよいという洞察が仏教にはあったのではないか。するとある意味、皆が涅槃にあるようなものという解釈もありえた。そこには宗教的な涅槃の概念がなくても良い…それでも仏教は語れるという確信を、仏教モダニズムは継いでいる側面もあるように思う。
JRF2025/3/298138
『宗教学雑考集』《コラム 来世なんてない》
>「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底・または仏教が参考にした外道にはあるのではないか。
しかし「来世なんてない」というと、普通の人は悪の道に走る可能性が心配される。そのような心配をしなくてよくなる条件は何かというのが、仏教の裏のテーマなのかもしれない。それを少し考えよう。
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JRF2025/3/299177
……。
愛は概念依存的である。それと同様に悟りも概念依存的だという。
>愛の体験にも非概念的な要素が含まれるが、愛が成立するためにはそれらだけでは不十分だ。非概念的な要素は、それらが愛という概念のもとにまとめられたとき、はじめて愛の一部になるのである。<(p.229)
愛の実践と、他者がそれを愛と認識していることは別だ。愛の実践はそれが愛であるという自己認識なくできる。
JRF2025/3/295512
悟りも、ある者の慈悲などの実践が、本人が自分が悟っていると自己認識しているかどうかにかかわらず、というか多くの場合、自分は悟っていないと思っていても、外にいる者がそこに悟りを見出すことはできる。それはほぼ幻想に近く、上でいう修行体とは別の「ブッダ体」に近いものを見出しているのだろう。
このあたりは should の話に似てるかな?
『宗教学雑考集』《存在と当為、そして道徳》
JRF2025/3/291227
>sein(ある) から sollen(すべき) は出ないという者は多い(ポパーなど)が、hoffen(望む) や wollen(しよう) があるなら、sollen は出る。「凹」があるのを見て、「凹」は「凸」を望んでいると私が見出せば、私は「凹」が「凸」のある方向に行くべきだと言える。
「それ」(当為の認識)は「凹」ではなくまず他者(第三者)である「私」に生ずるのだ。
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愛については次のように私は語った。
JRF2025/3/298332
『宗教学雑考集』《夫婦愛と愛敵》
>愛については私もよくわからない。ただ、誰でもそうではないか。性の興奮はある。しかし、それは愛とは何か違う。そういう意味では誰も愛を知らずに愛し合っている。ひるがえって、それが愛なのではないか。愛は、ある意味、自らの意志を超えたところから来る。<
JRF2025/3/298050
……。
トンプソンさんはコスモポリタニズムと「親しい特定の人への責任」の共存のしかたをいくつか語る。その一つとしてサミュエル・シェフラーの論も挙げる。
>シェフラーは次のように結論づける。どのような生き方であれ、それが「人生という名に値する」のだとしたら、それは「消し去ることのできない個別主義的な次元」をもっているはずだと。また、すべての人間には等しく価値があることを肯定することと、特定の人々に対する特別な責任があることを肯定することは両立不可能ではない。<(p.244)
JRF2025/3/298495
コスモポリタニズムに問われるのは「実践」なのだ。それを主張して何をしようとしているのか、結局、ごく限られた身内に・または自分の関心領域に利益誘導するだけではないのか…と。それは善意を邪推していると思われるかもしれないが、これは本質的な問いなのだ。ベルクソンを読んでそれを私は確信した。
閉じられた社会の「社会的自我」が求めるような道徳と、開かれた社会の人類愛のような利他的道徳、この二つの間には大きな差がある。
『宗教学雑考集』《開かれた社会の聖人のモデル》
JRF2025/3/296549
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社会的自我が求めるような道徳は、概念的なものになり、もう一つはイエス・キリストのような聖人的・英雄的なモデルに結実するものである。…ということのようだ。
>青少年の教育に従事する人々は、「利他主義」を説くことでは、利己主義に勝利できないのを熟知している。高潔な魂の持ち主がいて、彼は自己犠牲の精神に満ちあふれているが、「全人類のために」奉仕するという考えを前にして、急にその熱意は冷めてしまうということさえあるかもしれない。目的はあまりにも壮大で、効果はあまりにも分散しすぎているのだ。(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』p.47-48)<
JRF2025/3/295353
だから、具体的にどうしたという一人の理想=聖人のモデルが必要なのだろう。その具体性をマネることで、効果があまりに分散するのを防げる。…と。(その具体性に若干の偶然性を加えて広がりをもたせるのが、第3章(易理)の方向になるか。)
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コスモポリタニズムのような利他をやろうとするなら、「聖人」としてどう実践するかが問われるのだ。ある種の偏りの自覚が必要となるのだ。
JRF2025/3/292130
……。
>最後にヴァレラは、仏教には「教義に縛られないオープンな態度」があり、「経典や儀礼そのものを守る必要性に強く制約されることは決してない」と考える。しかし、実際は逆なのだ。伝統的な仏教は、経典を守る必要性と、経典をいかに解釈するかという議論に強く制約されてきたし、儀礼は常に仏教の宗教的実践の中心であり続けてきた(…)。<(p.255)
JRF2025/3/296125
上で「すべては無常。空論ですら常在でない可能性があるのだろう。…」と私は語ったが、この考え方はあらゆるドグマ・教義を相対化する。「教義に縛られないオープンな態度」があるべきとなる。
しかし、トンプソンさんがいうように仏教は伝統的な経典と儀礼を守ってきた。それは経典や儀礼が究極的には否定可能なものだとしても、そこに集うことがサンガを形作ってきた。その自己組織化の核だったという面はあるのだろう。行為的直観やトンプソンさんのいう「認知」に似た、創発されるプロセスとしてのサンガの実践がそれらとともにあったのだろう。
JRF2025/3/299931
……。
エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』は以上。
JRF2025/3/297480
……。
……。
追記。
上で次のように書いた。
>悟りも、ある者の慈悲などの実践が、本人が自分が悟っていると自己認識しているかどうかにかかわらず、というか多くの場合、自分は悟っていないと思っていても、外にいる者がそこに悟りを見出すことはできる。それはほぼ幻想に近く、上でいう修行体とは別の「ブッダ体」に近いものを見出しているのだろう。<
ところが、これはどうも違うようである。
JRF2025/4/18207
《清水俊史:X:2025-04-01》
https://x.com/VisAKBh/status/1907000952638648788
>悟りは内証であり、悟れば「自分は見道に入った」などという自覚が必ず生じます。
他人に「あなたは悟っていますよ」と言われて悟りに気が付く――というのは“大天の五事”の一つ「他令入」という立場なのですが、有部でも上座部でも否定されています。
<
私は基本的に大乗の立場であるということ、また、本人が悟りに気付くことを問題にしているのではないことから、ここでの批判がそのまま私の先の記述にあてはまるわけではないが…。
JRF2025/4/11633
……。
追記。
大乗は皆を救おうとする…その心意気やヨシ…なのだが、皆に自己犠牲を強いるようになるのはよいことではない。経済というのは自由な自己利益の追求がないとうまくいかないものだし、自己犠牲の是認はときにガネーシャが示唆するような医学の人体実験みたいなのにもつながってしまう。その点、上座部や西洋仏教が自己の悟りを絶対視する…自己の探求を絶対視する「わがまま」を是認し、その姿を模範とする信徒を比較的自由にするのは、一定の合理性があるように思う。
JRF2025/4/15604
……。
ただ経済に積極的なのはむしろ大乗の国々・地域で、上座部の国はむしろ経済から超然としたところがあるように思う。これは大乗の人々は救うには経済をよくするしかない…経済で誰かが富むしかない…と考えてきたからなのだろうか?
Gemini さんに聞くと、上座部の国は自然豊かで自給自足がしやすかったことも理由として挙げられた。
対して、大乗は、経済が「活発」で格差があったから、皆を救うべきという主張が力を持ったのだろうか? 機序が私の考えていたのと逆なのかも。
JRF2025/4/21708
2025年3月11日に↓という本を出した。それに言及しながら、「西洋仏教」に関する本を読んでいく。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/3/296920