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cocolog:95366963

佐々木閑『大乗仏教 - ブッダの教えはどこへ向かうのか』を読んだ。大乗仏教のことぐらい知っていると私は慢心していたが、この本にはかなり斬新な(と感じる)視点が提供されていて、自分の無知を(やはり)わからされてしまった。 (JRF 1032)

JRF 2025年4月 9日 (水)

『大乗仏教 - ブッダの教えはどこへ向かうのか』(佐々木 閑 著, NHK出版新書, 2019年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07NKT4VS2
https://7net.omni7.jp/detail/5110577545

『ブッダという男』を書いた清水俊史さん(参: [cocolog:95233837](2025年1月))が Twitter (X) で確か紹介していた本。あの厳しい清水さんがいうぐらいだからと興味を持った。

JRF2025/4/96703

大乗仏教にいたる経緯の書きぶりはこれまで見たことがない感じで、『宗教学雑考集』を書いた私は大乗仏教のことぐらい知っていると慢心していたのだが、この本にはかなり斬新な(と感じる)視点が提供されていて、自分の無知を(やはり)わからされてしまった。

ただ、法華経や浄土三部経など日本語訳で以前読んでいたもの([cocolog:92083486](2020年7月)・[cocolog:92105472](2020年8月)などに)については、多少「おや?」という感触は持った。

JRF2025/4/98363

……。

ところで、これまで私は新書などの「学術書」は、おおむね紙の本で買ってきた。それを最近、Android タブレットを買って([cocolog:95281539](2025年2月))それでの読書が快適であることを知ったことにより、この本も電子書籍(Kindle)で買って読んだのだった。

JRF2025/4/97064

これまでは紙の本だったので、引用は自分で打ち込む必要があり、そのメンドクササから、自然、引用を抑える効果があった。今回その制限がなくなるかと思いきや、Kindle には出版社が設定したコピー制限というものがあり、当然それを超えて引用するため、そこにテキストがあるのにコピーできず、結局、打ち込む必要があるようになってしまった。ただ、コピー制限を超えて引用しているわけで、後半さすがにやり過ぎだと気付いたので、意識的に引用(のマーク)をしないようにしたのだった。

JRF2025/4/90861

ちょっと引用し過ぎの面はあるかもしれないが、慣れないことだったので、その点、大目に見ていただきたいです。そういう引用しすぎもあるので、著作権等で文句が言われにくいよう、少しでも興味を持った方は、ぜひこの本を買っていただきたいです。

JRF2025/4/94361

……。

ところで、私は上で書いたように3月11日に↓という本を出した。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/4/91854

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/4/93421

……。

それでは引用しながらコメントしていく。Kindle 版を元にしているのでページ番号は紙の本と違うかもしれない。

JRF2025/4/96745

……。

>ご自分の家の宗派についてご存知ですか?<(p.9)

少し前に次のようなことを Twitter (X) などに書いた。


○ 2025-03-20T11:02:29Z

私の祖母は黄檗宗だったらしいんだけど、だいぶ前に祖母の法事に行ったら、その実家は別の宗派に頼んでいて、私が指摘するまで黄檗宗だったことを忘れていた。それで私がどう思ったか。「そんなものか」と思った。私はシンクレティスト(宗教混淆者)だが、私が死んでどうなるかにはこだわるまい…と思った。そのまま仏教式でいい…と。

JRF2025/4/97407

私がシンクレティストであるという自己意識はそのときからではない。以前からキリスト教や仏教などの間をフラフラしていた。でも、上のようなことがあったおかげで、シンクレティストでもいいか…という信念が強化された面はあったかもしれない。

JRF2025/4/94962

……。

>お坊さんの中には「宗派や教えに多少の違いはあっても、目指す山の頂は一つである」とおっしゃる方もおられますが、「釈迦の仏教」と、私たち日本人が信仰している大乗仏教とでは、じつは教義の内容がまるで異なっているのです。もともとあった「釈迦の仏教」にのちの人が手を加え、オリジナルの教えとは別のものとして、日本や中国に伝わったのが大乗仏教だと思ってください。

JRF2025/4/97453

(…)

私はどちらが正しくてどちらが正しくないのかを論じるつもりはありませんし、大乗仏教を否定する気もありません。どちらの教えにも人々を苦しみから救ってくれる力があるのは事実です。もし本当に大乗仏教がお釈迦様の教えを曲解しただけの底の浅いものでしたら、これほど長きにわたって信仰されているはずはありません。とっくの昔に途絶えてしまっているはずです。
<(p.10-11)

JRF2025/4/92088

佐々木さんはそうはいいつつ、「釈迦の仏教」(原始仏教のこと)を最後は重視していて、大乗仏教を題材にしながらも原典を重視するところの「学者仏教」の側の人間では結局はあるのではないかという感想に私はなった。

JRF2025/4/97952

……。

>「釈迦の仏教」が自己鍛錬によって煩悩を消そうと考えたのに対し、大乗仏教では外部に私たちを助けてくれる超越者や、あるいは不思議なパワーが存在すると想定して、自分の力ではなく「外部の力」を救いの拠り所と考えました。<(p.16)

「釈迦の仏教」が自分の悟りを重視するというのは、最近読んだ西洋仏教の本でも言われていたし、それにも一定の合理性があるのだなと私は理解した。

JRF2025/4/95622

[cocolog:95349479](2025年3月)
>「現代西洋仏教」の解説書というべきロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』とその批判本というべきエヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』を読んだ。

JRF2025/4/95408

(…)

大乗は皆を救おうとする…その心意気やヨシ…なのだが、皆に自己犠牲を強いるようになるのはよいことではない。経済というのは自由な自己利益の追求がないとうまくいかないものだし、自己犠牲の是認はときにガネーシャが示唆するような医学の人体実験みたいなのにもつながってしまう。その点、上座部や西洋仏教が自己の悟りを絶対視する…自己の探求を絶対視する「わがまま」を是認し、その姿を模範とする信徒を比較的自由にするのは、一定の合理性があるように思う。

JRF2025/4/92119

……。

>大乗仏教の場合は、在家信者の日々の善行が悟りのエネルギーにつながると考えるのに対し、「釈迦の仏教」では、在家信者の善行は世俗的な果報にしかつながらないと考えます。世俗的な果報とは、今より美男美女になれるとか、お金持ちになれるとか、あるいは輪廻世界の一領域である「天」の世界に生まれ変わるといった現実的な利益のことです。

つまり、大乗仏教ではすべての信者が「悟り」という同じ目標に向かっていこうとするのに対して、「釈迦の仏教」では、在家信者と出家者では、目指す目標にレベル差があると考えるのです。
<(p.17-18)

JRF2025/4/99927

天に生まれ変わるのが「現実的な利益」というのがひっかかるが、そういう世界観ではあったのだろう。

でも、「釈迦の仏教」でも、在家信者も転生の先には、涅槃に致ることを望むべきことと考えていたのではないだろうか?

または、↓。

JRF2025/4/93111

『宗教学雑考集』《コラム 来世なんてない》
>「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底・または仏教が参考にした外道にはあるのではないか。

しかし「来世なんてない」というと、普通の人は悪の道に走る可能性が心配される。そのような心配をしなくてよくなる条件は何かというのが、仏教の裏のテーマなのかもしれない。

JRF2025/4/97726

……。

仏教にはそもそも多様性があり、それが西洋仏教を生むキッカケにもなっているようだ。

>青年 仏教を信仰するようになった欧米人は、それまで信じていたキリスト教を捨てて、仏教に改宗していったのでしょうか?

講師 そこが興味深いところなのですが、必ずしもそれまでの宗教を捨てたというわけではないのです。今までどおりキリスト教の信念を貫きながら、仏教的な生き方を実践している人も欧米には多くいます。

JRF2025/4/92435

つまり、そうしたスタイルすら許してしまう教義の多様性が仏教にはあるということなのです。

青年 現在の仏教が様々な宗派に分かれ、信じる者の立場や状況によって自由に選択できるものに、なっているというのはわかりますが、先生の今のお話の流れからすると、すでにアショーカ王の時代に多様化の動きが起こっていたということになりますよね?

JRF2025/4/92420

講師 そうです。もちろん今ほどの多様化は進んでいなかったにしても、アショーカ王の時代にすでに、仏教は多様化の道に踏み出していたと思われるのです。その根拠として挙げられるのが、大乗仏教の発生よりずっと前、アショーカ王の時代に現われたと思われる「部派仏教」という概念の成立です。
<(p.23)

部派仏教の時代に「破僧」の概念が変わったのだという。釈迦の説を曲げることは釈迦がいなくなった以上「不可能」とされ、「布薩[ふさつ]」や「羯磨[こんま]」という集会に参加さえしていれば「破僧」ではなくなった(『摩訶僧祇律』に根拠がある)。

JRF2025/4/97344

>もともと、お釈迦様の教えは一つでしたが、アショーカ王の時代に破僧の定義が変更されたことで、「仏教の教えの中にもいろんな解釈があっていい。異なる考え方をもつ相手を否定するのではなく、互いに仲間として認め合おう」という状況が生まれました。<(p.28)

そしてとうとう「論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」(p.29)という考えがまで来て、大乗仏教が登場することになる。…とのこと。

JRF2025/4/90470

>大乗仏教より前に作られた「釈迦の仏教」の経典の一つである『涅槃経』(大乗仏教にも同名のお経がありますが、別のものです。大乗の『涅槃経』については、第六講で解説します)を見ても、そうした流れが実際に起こっていたことがわかります。

この『涅槃経』にはパーリ語(古代インドの言語)のものと、漢文のものが存在していますが、パーリ語のほうには「教えの正統性を確認するためには、お釈迦様の言葉に合っているかどうかを確かめろ」とだけ書かれているのに対して、漢文のほうにはそのほかに、「理屈に合っていれば、それはお釈迦様の教えと考えてよい」とも書かれているのです。
<(p.30)

JRF2025/4/93766

……。

大乗仏教がなぜ在家で悟れるとしたのか。

>大乗仏教が興った時代は、インドを統一したマウリヤ王朝が滅び、混乱期を迎えた頃と重なります。特に北インドのガンダーラ(…)周辺には、ギリシャ系、イラン系など、いろいろな異民族が流入してきてはげ乱世状態に陥っていました。

当然そういう環境では、呑気に出家生活を送ることも難しくなってきます。人々は自分の身を守ることに精一杯でサンガや出家者を養う余裕などなくなります。でも、だからといって出家者たちは悟るための修行を諦めきれません。
<(p.32-33)

JRF2025/4/96578

そこで在家でも悟れるとするしかなかった…その道が模索された…ということらしい。あくまで推測だが。

JRF2025/4/94052

……。

そのころのブッダになる方法は、過去世でブッダに会い、誓いを立てて、菩薩として輪廻を繰り返すことだった。そこに在家でもよいと考えれる芽がある。

>輪廻して生まれ変わる先は必ずしも人間とは限りませんよね。天界で神として生まれることもあれば、畜生道に堕ちて動物に生まれ変わることだってあるわけです。

JRF2025/4/98972

しかし、たとえウサギに生まれ変わったとしても、前世でブッダと誓いを立てたのならば、それは菩薩としてウサギになったことになります。ウサギは出家するわけにはいかないので、その場合はウサギとして正しい生活を送ることがブッダになるための菩薩行となります。そう考えていくと、大乗仏教がなぜ出家しなくてもブッダになれると考えたのかが、おのずとわかってくるのではないでしょうか。
<(p.39-40)

JRF2025/4/94022

話は脱線するが、これは上の西洋仏教の本を読んだひとことでも語ったことだが、また、この先でもこの本が語るが、多宇宙解釈を取り、菩薩の修行体とブッダ体は別の時空に存在する…などすれば、この娑婆世界ではずっと不完全な菩薩として転生することも可能ではあるのだろう。ただ、ブッダ体として決まった生を生きる者は、しかし特別な功徳があり、まるでブッダ体が予定されている…みたいに考えれば、キリスト教予定説的果実が受け取れるのかもしれない。似たようなことは『宗教学雑考集』《変成男子》で語った。

JRF2025/4/92467

……。

>阿羅漢とは、お釈迦様の教えをすべて学び終えて、悟りを開いた人のことです。悟ったとは言っても、阿羅漢はステージ的にはお釈迦様のようなブッダよりもずっと下位のレベルです。<(p.33-34)

ブッダより下のレベルというが、それは部派仏教などの時代にそうなったのではなかったか? 本当の釈迦の時代は、ブッダと阿羅漢に差異はなかったのではあるまいか? 学者が間違うわけはないので、私の記憶が間違っているのだとは思うが…。

JRF2025/4/91928

……。

>もちろん、「釈迦の仏教」にも「利他」の概念は存在しますが、そこでは「自利をベースにした利他」を基本構造としています。自分が率先して厳しい修行に励む姿を見せることで、苦しみを抱えながら暮らしている人たちに「そうか、こういう救いの道もあるのか」と“気づき”を与えることが「釈迦の仏教」における利他です。言ってみれば、よき手本となってみんなを導くというかたちでの利他なのです。これに対して大乗仏教の利他はもっと直接的で「自分を犠牲にして誰かを救うこと」が基本となります。<(p.40)

JRF2025/4/93257

これは上で>上座部や西洋仏教が自己の悟りを絶対視する…自己の探求を絶対視する「わがまま」を是認し、その姿を模範とする信徒を比較的自由にするのは、一定の合理性がある<と私のひとことを引用した部分に重なるね。

JRF2025/4/91531

……。

菩薩になるには、まずブッダに会う(そして誓う)ことが必要になる。しかし、ブッダには会いがたい。死んだ釈尊には会えないのだし…。

>大乗仏教の教えで最大のネックになるのが、「実際にはブッダと会えないこと」なのです。そのために大乗仏教では、会えないブッダにどうすれば会えるか、実際には会えないブッダと会ったことをどうやって人々に納得させていくのか、様々なアイデアを練っていくことになります。それが大乗仏教の面白さであり、真骨頂なのです。<(p.42)

JRF2025/4/90720

……。

大乗仏教最初の経典の『般若経』で、私たちはすでに前世でブッダに会っており、菩薩になっている…と説く。それが信じられないという者に対しては…。

>「このお経(『般若経』)を読んでみた時に、あなたはどう感じましたか? 心が震えて有り難いという気持になりませんでしたか? もし心が震えたなら、それが過去にブッダと出会って誓いを立てたという証拠です。もし何も感じないのなら、あなたはブッダと出会っていないことになります」と。

そう言われて「いや、私は何も感じませんでした」と堂々と答えられる人はなかなかいません。
<(p.47)

JRF2025/4/96986

……。

善行も業になる。

>自我意識という鎧を捨てた姿での善行ならば業にはつながらないのですが、そうした無の境地で善行を行うのは、容易ではありません。<(p.52)

あ、そうなのか。それは知らなかった。

>『般若経』の特徴は、「本来は輪廻を繰り返すことにしか役立たないはずの業のエネルギーを、悟りを開いてブッダになり、涅槃を実現するために転用することができる」ととらえ直した点にあります。<(p.52)

JRF2025/4/98999

ここで引用するのはどうかと思うが手のうちをさらすという意味で私の善行の業を超える議論を載せておく。

『宗教学雑考集』《阿弥陀仏と最後の審判》
>>
>悪業は必然的に人を地獄に駆る。人も神も、その業報の必然性の前にはまったく無力である、というのが、それまでのインドの宗教の鉄則であった。しかし、ヒンドゥー教の側のヴィシュヌ神もシヴァ神も、仏教の阿弥陀仏も、その鉄則を破って、業報を変える、という。業報を転換するということは、廻向[えこう]と呼ばれる。(梶山雄一『大乗仏教の誕生』p.137)<

JRF2025/4/93730

「廻向」とは業報の必然を曲げることである。

「最後の審判」的なものがあり、どこかで業報は尽きるからその帳尻を合わせる何かがあるということで「廻向」が出てきたということだろうか? そうではない。

「最後の審判」はむしろ業報を無限に延長する。わずかに善であれば善の無限実体になり、悪であれば悪の無限実体となる。その善の無限実体があれば、そこに集合した過去的な有限実体の罪は偶然に近いものとして無視されうる。将来において無限になった実体から、同化(に近いこと)によって有限の罪を無化する。それが「廻向」ということなのだろう。

JRF2025/4/91742

悪業が悪業を生み、結果無限の悪業と評価できる…とならなければ良い。そのためにはところどころで有限に尽きているほうが都合がよい。悪業を有限に留めさせてくれるのが阿弥陀仏信仰以外の「涅槃」であり、有限に留まった悪業者は「最後の審判」のあとの無限において、「廻向」によって救われうる。無限において救う実体が全体としてブッダなのだ。

JRF2025/4/93565

涅槃に入るには善業があり過ぎてもいけない、それもある種の貪[むさぼ]りだというのが、従来の仏教の考え方だった。しかし、涅槃に入ることを、善業を超越的な善に換えることだという考え方をするなら、善業があり過ぎる問題は解決する。人を救うために善をする。その善業のカルマは、より人が救われるために使う。そういうことができる。もしできないなら阿弥陀仏は存在してない。「私」は存在していると信じるというのが阿弥陀仏の信仰となろう。

JRF2025/4/96807

善業のカルマを人を救うために使ってなぜ帳尻が合うか。それは悪人も救われるようにするからだ。そして、そうやって(悪人も救って)涅槃に致ることその「慈悲」全体が、無限において善と評価される。…といったところだろう。

廻向には実は方向性がない。例えば、念仏することは、ある意味、阿弥陀仏への帰依であり、阿弥陀仏への廻向であるが、しかし、その念仏をしようと思ったこと実体が、阿弥陀仏からの廻向でもあるのだ。

JRF2025/4/94264

「心」の境界はあいまいという話を前節まででしたが、それは「我」が「空」であるということだ。業報が尽きる涅槃がある。そのことが無限の善からの照射を受け善なる報いをもたらす。そもそも、無限の善からの照射があるから、我々は自分をあると思っていて、空であっても「我」を使い、苦を超えた善の・生の根拠になりうるのかもしれない。一神教と仏教をつなげればそのような見解も見えてくる。
<<

JRF2025/4/98572

……。

>残念ながらブッダとは簡単には会えない。では、どうするか? お経をブッダそのものととらえることで、私たちはこの世界で何度もブッダと出会い、パワーをもらうことができる、と『般若経』は考えたわけです。<(p.65)

そうなのか、お経が、自ら尊いと言い、自分を広めるように言うのは、それ自身がブッダだから、法身だから…なんだね。

JRF2025/4/93726

……。

龍樹は…

>『般若経』の「空」の教えは、「世界を構成している基本要素と、その間に成り立つ因果則は実在する」というお釈迦様の教えを無化し、そこに神秘的要素を含ませることで成立していました。しかし、龍樹は『般若経』の教えから、逆に神秘的要素を排除し、全体を「論理的構造で成り立っているかのような姿」で説明し直したのです。<(p.67)

JRF2025/4/98854

ただ、西洋仏教のひとことでも書いたが、お釈迦様が諸行無常というとき、それは法もまた無常でありうると考えていたのではないだろうか。「因果則は実在する」を方便と見なす日が来るというのも想定されていたのではないか。まぁ、それが「末法」の世なのかもしれないが。

JRF2025/4/90440

……。

法華経…

>全体を通して読むと、「これこれこういうことをしなさい」とはほとんど言わずに「このお経はとても優れた、有り難いお経である」とばかり言っているのは事実です。しかし、その部分だけを挙げて批判することが正しいとはかぎりません。なぜなら『法華経』が「お経を崇めよ」といった裏側には「『法華経』の神秘性を信じて、自分が菩薩であることを自覚しなさい」という悟りへの思いがちゃんと込められているからです。

JRF2025/4/91460

実際に、『法華経』の信者さんの多くは、『法華経』を広めることが菩薩である自分の仕事と考えています。『法華経』が説く世界をこの世に実現することが、彼らの最大の目的です。
<(p.97)

JRF2025/4/91053

>特に『法華経』は「常不軽菩薩」の話にもあるように、「誰からも認めてもらえない、苦労しても報われない姿こそが菩薩の正しい姿である」ととらえたため、本当に辛い状況にある人にとっては大きな心の支えとなるはずです。また、「南無妙法蓮華経という題目をとなえさえすればすべてがうまくいく」という教えも、病気や貧困に苦しんでいる人にとっては、明日を生きる希望につながっていきます。『法華経』は社会を変える力があると信じられたからこそ、多くの人に支持されたのでしょう。<(p.104)

私は『法華経』は観音信仰と焼身自殺がメインみたいな捉え方をしてしまったが、こういう捉え方があるのは勉強になった。

JRF2025/4/94260

……。

>浄土教では(…)「私たちが生きているこの世界とは別の場所に、無限の多世界が存在している」と、まずはとらえることにしたのです。<(p.112)

>(注) 『般若経』『法華経』でも多世界の存在は想定されているが、それがわれわれの成仏に役立つとは考えない。<(p.131)

多宇宙解釈を容易に受け容れる私は浄土教の考え方に影響され過ぎてるのかな…。

JRF2025/4/94001

……。

大乗仏教が作られた頃に「共業[ぐうごう]」という考え方が生まれたらしい。

>共業とは、「個人の業以外にも、みんなが共通に出し合う業が存在していて、それが世界の在り方に影響を及ぼしている」という考え方です。わかりやすく言えば、みんなが悪いことばかりしていると飢饉や災害が起こり、逆にみんなが善い行いを積むと平穏安泰な世界が訪れるというものです。<(p.117-118)

共業は私の↓という考え方に似ている。もちろん、私が共業という考え方を(知らなかったがそれを知ってる)どこからか影響を受けていて、↓のような考え方に致ったのかもしれない。

JRF2025/4/98518

『宗教学雑考集』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。

…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。

善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。

JRF2025/4/92522

例えば、災害が起きたときにその災害が人間の悪の結果起きたと考えるのはほぼ間違いだとしても、人間が因果応報を信じて、善い行い…災害後の統率の取れた行動のような無意識的なものや災害準備のような意識的なもの…をし続けていたことで、個々に不満はあるかもしれないが、大きく見ればその被害がマシになることはある。そういう面では、因果応報は認めうる。

JRF2025/4/91204

……。

>誤解を恐れずに言うならば、一つの教えを無条件に信じて狂信的にならなければ、本当に救われるはずなどないのです。

たとえば、IS (イスラミック・ステート、「イスラム国」)の若者を見てもわかるでしょう。自爆テロを行う彼らの多くが、その行為をジハード(聖戦)であると信じ、死んだあとは必ずアッラーのもとに召されると考えています。信仰とはそういうものです。もちろん IS のメンバーのすべてが、強い信仰心に基づいて行動しているなどとは思えませんが、根底に殉教の精神があることは間違いありません。

JRF2025/4/99555

極楽往生を本気で信じて一向一揆の中で死んでいった人を、今の私たちは不幸ととらえがちですが、じつは本人たちは幸せだったのではないでしょうか。亡くなって本当に極楽に行けたかどうかはわかりませんが、少なくとも「自分は幸せだ」と感じながら死んでいった人も多かったと思います。
<(p.129-130)

JRF2025/4/95896

『宗教学雑考集』第2章や『「シミュレーション仏教」の試み』の中で、「自己の探求」を続けていると、輪廻転生の考えが出てきて、やがて狂信につながり、それは戦争で、当初はうまくいくかもしれないが、やがて人を殺すだけのものになっていき、「来世がないほうがいい」という歯止めが必要になる…みたいに考えたのだった。

佐々木さんは、大乗仏教はヒンドゥー教的だということを隠さずに言う。ある種、「来世がないほうがいい」を遠ざけ、仏教から元のインド宗教に戻ったような面が、一向一揆などの中にはあるのかもしれない。この本にも出てくる天国と極楽浄土を同一視する思想などがそれなのだろう。

JRF2025/4/94473

……。

華厳経の…

>「一即多・多即一」の考え方は、合わせ鏡というよりも、「フラクタル」の概念をイメージしていただいたほうがよいでしょう。<(p.140)

『宗教学雑考集』《フラクタル次元とエルゴード性》
>確率的に物質があるというとき、それは次元に関してはどのように広がるのか。関係ない次元にはまったく広がらないものなのだろうか? それとも確率的な広がりが、逆に次元を定義するものなのか。

JRF2025/4/97476

フラクタルという数学の概念がある。「自己相似性」を示す構造のことだ。それは無限に小さな自己相似を繰り返していくこともでき、それによりフラクタル次元といった概念も可能となる。「相似」であればよいので、そこに確率的概念が入りうる。そのため、リアス式海岸などもフラクタルになっていると見なすことができる。

確率的な広がり方が次元を定義することもありうるということである。

エルゴード性という概念がある。粒子のふるまいなどの長時間平均とある不変測度による位相平均(計算論的・全事象等確率的として推察できるもの)が等しいという統計力学などの概念である。

JRF2025/4/97839

この世がエルゴード性を持つのは、この世が完全な三次元でなく、不確定性原理にもとづく同相性がフラクタル次元のようなものを構成するからではないか?

なぜなら、不確定性原理がなりたってるこの世が確率的なフラクタルの次元を持つと推定する。フラクタルな次元で起きる事象は、大部に起こることがその細部において反射のようなことが起こるとする。その反射により起こったことが全域に充填[じゅうてん]するため、エルゴード性が成り立つとなる。

これは事実ではないだろうが、ごく小さな領域で起こったことが、全域に影響を及ぼすというイメージをここでは持つことにする。

JRF2025/4/98766

……。

>密教においては、「私たちがどうすればブッダになれるのか」という問題は、すでに解決済みというスタンスです。「自分がすでにブッダであることを自覚する」ということが唯一必須の作業なのです。

しかし、自分がブッダであることを自覚したあとは、ブッダとしてなんらかの活動をしなければならない、ということで、護摩を焚[た]いて加持祈祷をしたり、祭祀を執り行ったりするといった密教独特の行為が導入されていきました。したがって当然ながら、加持祈祷は現世利益を祈るものであって、悟りのための修行ではありません。
<(p.153)

JRF2025/4/92891

加持祈祷は現世利益を祈るもの…か。そうかもしれない。(自分が現世ですでにブッダであるというからには)現世があり続けるのも大事だからね。

JRF2025/4/91141

……。

「梵我一如」と自分の中にブッダがいるという「如来蔵思想」はかなり接近した思想である。

>「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗仏教はアイデンティティを失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んでいったのです。歴史の教科書などには書かれていませんが、インド仏教衰退の理由は仏教そのものにあったというわけです。<(p.160)

これはそうだろうと思っていたが、学者もこのような考え方をするんだね。そうだろうと思っていたのは、私は他でも読んだのかな? 覚えていない orz。

JRF2025/4/92787

……。

>「仏性思想」が登場したことで、「われわれがブッダになるためには、別のブッダに出会わなければならない」という、大乗仏教が抱えていた根本的なハードルは解消されました。ブッダと私たちは一体化した存在なのですから、わざわざ出会う必要などない、ということになるのです。<(p.167)

JRF2025/4/97526

西洋仏教のひとことで書いたが、「梵我一如」を、仏教では、胎内では世界が一者に見えてもその実、母は複数存在しうるところに、その否定を見たのだと私は思う。毘盧遮那仏は一者だとしても、産まれて会う母は一者ではなく、心の中に会うべきブッダも一者ではなく、いろいろなブッダの形がありうるのだとすれば、ヒンドゥー教とはまた違った側面も強調できたのではないか…とは思うのだが…。でも、そうなると神々と何が違うのか…という話になるか…。

JRF2025/4/98154

いや、しかし、佐々木さんのようにまとめてしまうのは、スッキリさせ過ぎだと思う。「一即多・多即一」がフラクタルに似ていたように、何か解明されてないものがそこにあるように思う。

JRF2025/4/98301

……。

>曹洞宗も臨済宗も最初は「私たちは生まれながらに仏性を持ってはいるが、仏性に気づくためには智慧が必要で、智慧を修するために座禅を行う」と考えていたのですが、徐々に「体」だけで悟ることができるという方向に向かっていったのです。

しかし、なんの悩みもない者がただ座ったところで悟りなど開けるわけがありません。智慧なくして体だけで悟ることができると思い込みやすいところが、禅宗の陥りやすい落とし穴と言えるこもしれません。
<(p.175)

JRF2025/4/94194

『宗教学雑考集』《私の信仰告白》
>私は精神病になって神秘的体験をしたと書いた。一般に神秘的体験といっても、様々な人に「啓示[けいじ]」は与えられていくもの・きたものであって、(少なくとも現在は)体験さえすれば一気にすべてがわかるようなものではない。神は理性だけでわかるものではないが、理性(・知識・知恵)がなければわからないものである。

JRF2025/4/93210

イスラム教などでは「最後の預言者」性を問題にする。教えを主に言葉で神から直接与えられるようなことは、もう現在においてはありえないと理性でわきまえるべきなのだ。誰か・何かの言葉を神のものだと体験したとしても、その言葉をもはや鵜呑[うの]みにしてはいけない。

JRF2025/4/96971

そして私の精神病の経験から言えば、何が正しいかを上位存在と争うことはあっても、教えのようなものは自分で見つけるだけで、基本的には自分という人格がこの先どう生きるのかの示唆を受けるだけだった。(そしてその通りには生きれていないが結局はみじめに生きるということだけは合っている。)

JRF2025/4/98831

神秘体験を求めるような宗教…新プラトン主義とか…は、精神病になる前は、一つ下に見ていた。禅とかは神秘体験とはまた違うという話だったし…。冷静に言えば神秘体験は迷妄だろうが、体験した自分からすればもう無視できない。神秘体験を経ないカミの認識はどこまで言ってもシンでしかないと思う。ただ、「神秘体験」ではなく聖霊の導き等があるからカミなのだと主張されれば、区別はしづらい。禅や聖霊の導きや子供の素朴な宗教感情と、神秘体験が何が違うのか、というと難しい。虚の世界の複雑性からみれば同じものの反映とかいえそうではあるけど、本質的な違いもあるかもしれない。

JRF2025/4/96161

……。

>「侘び寂び」<(p.176)

『宗教学雑考集』《わび・さび とハイヌウェレ神話》
>私にとって「侘び」は、見捨てられた寺に転がるしゃれこうべの眼窩[がんか]から草の芽が吹き出しているイメージだ。または、大雪原に生きる老いた一匹狼の狩りの生々しさに感じる美しさである。そこには、俗世を離れ孤高として在る様と生命の静かな息吹きが感じられる。

JRF2025/4/98775

「寂び」のイメージは、戦争で荒んだ教会に久しぶりに訪れたとき、そこに差した一条の光が破損した聖像を映し出しているとしよう。その光景を見て、教会が持つ本来の調和のとれた美を失っているのに、逆にそうであるがゆえの哀しさに、美しさを感じることである。そこには栄華を感じさせるきらびやかさと、それが失われることへの諦観がある。

これらは西洋文化でも理解できるイメージになっているのではないか。

JRF2025/4/93973

……。

侘び寂びには高級感があるという。

>思いっきり大きくてキラキラしたもので飾り立てたいという思いを、ストイックな抑制力で押さえつけるところに、自己の強さを表現しようという思考です。そして、その抑制力の競い合いが侘び寂びとして一般化していったのです。<(p.177)

「自己の強さを表現しようという思考」に滅びの感覚がともなうだろうか? 佐々木さんはここの説は外していると思う。

JRF2025/4/98020

……。

>禅宗の場合、もともとは仏教の僧団ではなく中国の道教コミュニティが発祥だったために律を持たなかったのです。<(p.181)

もちろん、僧が自給自足を必要とする成立事情にも言及はされているが。

でも、律が意識されてなかったわけではないではなく、諸行無常の対象に法を含める解釈法からいろいろ派生できたのではないか…と私は思う。

JRF2025/4/91816

……。

近時、『大乗起信論』パッチワーク説が定説となった。それにより…、

>もちろん、『大乗起信論』が無意味な紙くずになったなどというのではありません。中国南北朝時代の学識ある僧侶が、すでに存在していた中国文献(その中にはインドから翻訳された本当のインド由来の本も多数含まれています)を渉猟し、ここはと思う箇所を抜き出してつなぎ合わせ、そこに適宜自分の思いや地論宗北道派の考えなども書き足してできたのが『大乗起信論』ですから、そこにはその当時の中国仏教界の思想が反映しています。その意味で、『大乗起信論』は立派な仏教書です。

JRF2025/4/95255

ただそれは、千五百年にわたって仏教界の常識とされた「大乗仏教の本義を説き示す、根源的な仏教解説書」という位置づけからは外されねばなりません。

(…)

今回の大竹さんの研究では、『大乗起信論』の編纂者自身が、自分の創作物を馬鳴に仮託したらしいということも指摘されています。(…)そのような不正をする人物をすぐれた仏教思想家として認めるということになります。
<(p.212-214)

JRF2025/4/99094

学者からすれば「原典」は価値が大きいのかもしれないが、教えの価値からすれば、そこまで原典性は重要ではない。大乗仏典は橙、釈迦の説を僭称してきたわけだし。

仮託もそうしなければ、読まれなかった・または保存できなかったのかもしれない。偽典にも現代とはまた違った評価がありえただろう。宗教書なのだから、その教えの奇跡性を重視してもいいと私などは思う。仏教は論理的であっても唯物論ではないのだから。

JRF2025/4/96490

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