cocolog:95400819
後藤明『世界神話学入門』と松村一男『神話学入門』を読んだ。新しい視点もあるはずだが今の私はそこに目に止めず、拙著『宗教学雑考集』をただ思い出しながら読んだ。 (JRF 6236)
JRF 2025年4月22日 (火)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
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JRF2025/4/224838
それではいつものように引用しながらコメントしていく。なお、Kindle 版を元にしているため、示すページ数は紙の本と違う可能性がある。
出版年順にまずは、後藤明『世界神話学入門』から。
JRF2025/4/229514
……。
……。
『世界神話学入門』(後藤 明 著, 講談社現代新書 2457, 2017年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B077X3MMW8
https://7net.omni7.jp/detail/1106831371
私の本との対照のため「はじめに」の章から特に多く引用することになった。後の章になるとそこまで引用頻度は高くなくなるので、しばらくご容赦いただきたい。
JRF2025/4/220524
……。
世界によく似た物語があるという最初の例が、イザナギ・イザナミの話である。
>たとえば『古事記』における最初の男女、イザナキ・イザナミの話。この最初の男女神が天界から下界を眺め、何もない海をアマノヌホコという矛でかき混ぜると、滴がしたたり落ちてオノゴロ島になる。このかき混ぜる道具はじつは銛、つまり漁具であり、ポリネシアに広がる島釣り神話と同列ではないかという議論が早くからなされてきた。すなわちハワイやニュージーランドのマオリ族の間に伝わるマイウ神の島釣り神話との親近性である。<(p.3)
JRF2025/4/223482
>死んだイザナミを追って、イザナキは黄泉の国を訪れる。しかしイザナミは、自分が黄泉の国の食べ物を食べてしまったから現世にはもどれない(いわゆる黄泉戸喫[よもつへぐい])、しかし黄泉の国の神と相談してみるので、それまでけっして私の姿を見てはいけない、と言う。しかしイザナキは禁を破って火をともして妻の姿を見てしまう。妻はおぞましい姿になっていた。
JRF2025/4/225011
死んだ妻を追って冥界に行くが、妻をこの世に連れ戻すため何らかのタブーを守る義務を負う。しかし夫はそれが守れなかったために妻は冥界にとどまり、それまでつながっていた現世と冥界との往来が永遠に失われてしまうというこのモチーフは、ギリシャ神話のオルフェウスの物語に典型的なので、オルフェウス型神話と呼ばれている。
<(p.3)
拙著『宗教学雑考集』では、イザナギ・イザナミ、またはオルフェウス型神話は何度か登場する。島釣り型神話の話、世界創造の話、柘榴を食う話を順に紹介して行こう。
JRF2025/4/222696
まず島釣り型神話の話。
『宗教学雑考集』《大陸移動説》
>古代、元々は島が動くというのは与太話であったが、しかし、大陸移動説に似た「島が動く」という概念は可能だった。そこには、大陸や島の発見が求められる海洋探索の歴史がある。いくつか「島が動く」話を挙げていこう。
(…)
また一つは、海洋民族の不安から来る「島を釣る」神話である。
JRF2025/4/229435
日本神話の海幸彦・山幸彦の神話では、弟の山幸彦が、借りた釣り針をなくし、それを探しに海の中の国に行く。このような話は、南洋でも見つかっている。一方、イザナギとイザナミが矛を上げたときにオノゴロ島ができるという神話があるが、それに似た話も南洋にあり、そこでは、島を釣り上げて創造するという話になっている。
JRF2025/4/228861
海洋民族が海に出たとき、島は動くはずのないものだった。しかし、思ったように戻って来れないことも多々あったと思われる。航海中に発見した島などが、次の航海で発見できないということはままあったろう。また、飢餓などで新しい島を発見するのを夢見ることもあったかもしれない。そのようなとき、海流の理解が求められたと思われる。この海流を見るという考え方が、針のない釣り糸で見ることができるとして、実際できたかどうかは別として、そう形容されたのではないか。
JRF2025/4/222359
それで現実的に新しい島を発見できるかはわからないが、そうなればいいな…というアイデアはあっただろう。それが、島を釣るという神話になったのではないだろうか。
<
次に、世界創造の話。
JRF2025/4/220396
『宗教学雑考集』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。
「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。
JRF2025/4/228810
しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。
JRF2025/4/227474
少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。
結局これはどちらもありうる話なのだと思う。
<
JRF2025/4/229917
『宗教学雑考集』《日本の創造》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない…と書いた。そのとき、創造神として複数の者が同時に創っていた…ということはありうる。創造神が「唯一神」でないことはありうる。
JRF2025/4/225613
複数の始源が、始源であるという意味において正しく、それが必ずしも多神教的上下関係を持たない…それらは尊卑・前後という概念を超えている…ということは私は考えられるとしたい。
JRF2025/4/221109
科学的には日本の土地は大陸移動によって何億年かけてできたのかもしれないが、日本人が日本という国を認識したときそこにあったのはイザナギ・イザナミの神話であり、イザナギ・イザナミの神話が成り立つよう日本がはじまっていたのであり、世界がはじまったのは、日本がはじまっていたから…と考えること自体は、国家宗教(国家神道)としてはありうる方向である。日本にいる者にとってはイザナギ・イザナミがなければ世界が創造されていないのと同じことだったのかもしれない。
<
最後に、柘榴を食う話。
JRF2025/4/220311
『宗教学雑考集』《定住文化と非定住文化 - イザナギの冥府降り》
>>
日本のイザナギの黄泉国[よもつくに]訪問と、ギリシアのオルフェウス(オルペウス)の冥府降りはとても似ている。ただ、従来、この種の神話は世界各地に見出されているから、そこから類縁があるとされてきた。しかし、どうもこの二つのみが似過ぎていて、何か関連があるとせざるを得ないようだ。
JRF2025/4/229297
>オルペウス伝説と類似した説話の分布状況については、近年スウェーデンの民族学者フルトクランツによって、網羅的に近い研究がなされている。
JRF2025/4/227229
このフルトクランツの著書によってみると、オルペウスやイザナギの場合と同様、亡夫を上界に連れ戻すため、冥府を訪問した夫の冒険を主題とした説話は、日本とギリシアを除けば、ポリネシアと北アメリカとのただ二つの地域に限って濃密に分布している。しかもこの夫の企てが失敗に終わったとされ、その失敗の原因が冥府で課せられた禁令に夫が違反したことであったとされている話は、日本とギリシア以外では、北アメリカの原住民の伝承中にしか見られない。(…)狭義の「オルペウス型神話」は、実は旧大陸においては、ただ日本とギリシアに出け見出されるのであ(…る…)。(吉田敦彦『日本神話の源流』p.142)
JRF2025/4/225061
日本神話では、イザナギが冥府からイザナミを連れ帰れなかった理由の一つは、前述したように、イザナミがすでに冥界の食物を摂取してしまったことであったとされているが、これときわめてよく似た話も実は従来からしばしば指摘されているように、(…オルペウス伝説とは別の…)ギリシア神話の中に見出されるのである。
JRF2025/4/227192
ギリシア神話で、死者の国の女王とされているペルセポネ女神は、大地の女神デメテルの愛娘[まなむすめ]であり、最初は母親とともに地上で暮らしていたが、あるとき冥府の王ハデスにとらわれ、地下に拉致[らち]されて、無理やりその妻にされてしまった。この暴挙に怒ったデメテルは、後に述べるような仕方(…人間に身をやつし放浪する仕方(同 p.144)…)で、女神としての役割を放棄し、大地より作物を出すことをやめて、世界を飢饉に陥れた。そこで神々の王ゼウスは困惑し、ハデスを説得して、ペルセポネを母親のもとへ返させることにした。
JRF2025/4/227848
しかし、ペルセポネは、このときすでに冥府で石榴[ざくろ]の実を口にしていたために、上界に完全に復帰することができず、その後もハデスの妃として一年のうちの一定期間を、死者の国で過ごさねばならなくされたといわれているのである。(同 p.140-141)
もとは上界に居住していた有力な女神がなぜ冥界に所属する存在となり、死者の国の支配者とあったかを説明するために用いられているという点でも、ギリシア神話と日本神話は軌を一にしている。(吉田敦彦『日本神話の源流』 p.143)
<
JRF2025/4/220832
ギリシア神話では話は別々だが、《大陸移動説》の島釣りでもそうだが二つの説話が別々だから、別々に解釈すべきとは限らない。それを教えられる人物は同じで、その二つの説話から、一つの解釈を導き出していた可能性もあるからだ。
石榴の実を食べたというのは赤ん坊などを食べたことの隠喩であろうとは思う。しかし、そうすると帰れなくなるのはなぜなのだろう? 別にそういうことをしても、子供を産む能力には変化はないはずである。また、普通の食物の場合、客人としてその地の物を食って帰れないということは普通はないはずである。共食が親族関係を作り親しくなるというのはあるかもしれないが、帰れないほどのものでは普通はない。
JRF2025/4/223149
…というところで、これは非定住文化から見た定住文化への揶揄ではないかと思い致った。帰れなくなったのはなぜかではなく、帰らないことに子を食った原因を見出さねばならないのだと思う。帰らず留まる定住文化は子を食うことになるという揶揄なのだ。
JRF2025/4/226453
前節で書いたように定住文化は最終的に「堕胎」を覚悟する文化だった。それに対し非定住の文化は、食物などが足りなくなったら、随時、(野生で育つことを期待して) 子を捨てていく「捨て子」文化だとできるのだろう。そして、「捨て子」がたまたま育てば、向かって来ることもありうる。それとは戦うのが想定されるところから、ひるがえって、いっしょにいる親族どうしでも戦う「骨肉の争い」が予定される文化でもあるのだろう。兄弟争いがモチーフになる。
JRF2025/4/222138
そして、重要なことは、定住よりも非定住のほうが文化が古いと想定できることだ。これは古代においても同じであっただろう。事実はどうか知らないが、非定住の者の中に定住した者がいる、しかし、非定住のままで居続ける自分達のほうが正統だという意識はありえたように思う。
例えば、ローマの建国神話のロームルスとレムスが捨て子になって狼に育てられたというのは、トーテミズムの起源性と同時に非定住の正統を主張する意図があったのではないか。実際は非定住じゃなくても、そこを淵源とするという宣言だろう。
JRF2025/4/226672
定住文化よりも非定住の文化のほうが先にあったが、しばし定住文化に押されていたところ、馬や車輪などの発明で、非定住文化=彼らの中ではより古い文化が復活したという認識もあったのだろう…と私は思う。
ちなみに非定住文化の祖と目されるヤムナヤ文化は紀元元前3600年ごろから紀元前2200年ごろにかけてドナウ川とウラル山脈の間の広大な地域にわたって存在した、銅器時代の文化圏で、その中心地はウクライナである。
<<
JRF2025/4/228115
……。
>では、どうして世界の非常に離れた場所、あるいは世界中の広範な場所にこのように類似した神話モチーフが存在しているのだろうか。
一つには、人類は文化や環境が異なっていても似たような思考を持つことが考えられるだろう。たとえば太陽は全ての生命の成育に不可欠なものである。そのために太陽を神格化するような思考である。ただし太陽や月を神格化する思考は広く見られるにしても、どちらを男あるいは女とするかには一般性はない。
JRF2025/4/227879
もう一つの理由として、歴史的な要因、すなわち人類の移動や文化の伝播に起因する場合も考えられるだろう。これまでにも世界中の神話の類似点から、さまざまな文化の伝播や系統論が唱えられてきた。
<(p.6)
イェンゼンは伝播を重く見たが、ユングの元型論なども十分考えるべきだというのが私の論だった。
JRF2025/4/225515
『宗教学雑考集』《文化伝播論と合目的的発展論とユングの元型論》
>文化、特に、文字記録のないような古い文化が、世界各地で似た神話を受け継いでいるということがしばしばある。これは文化の伝播[でんぱ]によるものか、それとも、それぞれ独自に発達したものかが問題になる。イェンゼン『殺された女神』の第4章の議論を参考に語ろう。
JRF2025/4/224327
古い文化にも、何か目的があり、そこから理由付けをもって同時に独自に発達したということも言えることもあるかもしれない。理由が同じだから似たものができる。イメージによる進化から説明できるトーテミズムはもしかするとそのようなものだったのかもしれない。これを合目的的発展論と呼ぼう。
JRF2025/4/223867
一方、ユングの元型論として知られるものも問題となる。夢などにおいて、ある種の規則性をともなって、モチーフとして頻出する類型である。主要な原型として、ユングが挙げるのが、影、子供、上位人格としての母(原母、地母)、これと対をなす少女、次いで男性におけるアニマと女性におけるアニムスなどである。そういった元型が、違った場所で同じような神話の像を結ぶのだ…ということも考えられないわけではない。これらの元型は集団的無意識として、または、遺伝的にも伝えられているかもしれないという。
JRF2025/4/225353
イェンゼンは、合目的的発展論については釘をさす。例えば、いきなり「木を切り倒すための斧」は発明できない。どこかから斧が生まれ、それがたまたま、木も切り倒せそうだったので、その方向に発展した…といった経路を発明はたどる。だから合目的的説明があるからといって、それだけで発明ができたと考えるべきではない。伝承・伝播を重く見るべきだ。…と。
JRF2025/4/223273
私も、イェンゼンはこういう言い方を許すかわからないけれども「遊び」からまたは宗教的信念があって、そこに発明の端緒[たんちょ]がある場合もありうること自体は、認める。イェンゼンが挙げた例であれば、犁[すき]は、もしかすると大地に男根を刺すという信仰から生まれてきたのかもしれない…とは思う。
JRF2025/4/221620
私は古代の風俗について、合目的的な理由付けをしがちだが、それとは別の「遊び」などからその風俗の芽がありえたことを否定しないようにしているつもりではある。ただ、合目的的な理由がなければ、その風俗は長く生き残ることもなかったのではないか…とも思う。この場合、伝播の段階では「遊び」という形に残らないもののみが伝播していれば同時に発達することも偶然ではなくなる。
JRF2025/4/226329
元型論についても、イェンゼンは、元型は広過ぎ、それで説明するには現実の神話は詳細が似過ぎているという。
しかし、元型は遺伝子に遡[さかのぼ]り、それは、中立的なものもありえ、それが影響しているということはありえる。影響しているなら、それはやがて合目的的発展を経て神話の進化にも痕跡を残すことも可能なはずだ。
逆に、合目的的理由も、遺伝子の進化に影響を及ぼすと同時にそれがかえって、元型を形作ることもあるだろう。長い時間がかかるかもしれないが、不可能ではないと思う。
JRF2025/4/228196
もちろん、元型は集団があれば、神話などを通じて無意識的になるだけで成立しうるのかもしれない。そういう中間的なものとしての元型ならば、合目的性とは別に伝播しうる。
ただ、そもそもの「進化」と合目的性の関係(必ずしもイコールでないこと)を考えると、この分野における元型論は、ミーム(遺伝子風の情報)の進化には生物的遺伝子に根拠がありうる…ということ以上のことを言っていないのかもしれない。
ユングの元型論が大事だったのは、まだキリスト教の霊の理論が強かった時代、魂やイメージ・思考といったものにも遺伝の影響があるかもしれないと気付かせることにあったのかもしれない。
JRF2025/4/226491
いずれにせよ文化伝播論だけ(ましてや単一起源論)では説明としては不十分だと私は思う。
<
JRF2025/4/223097
……。
マイケル・ヴィツェルは『世界神話の起源』において、世界神話の源流を二つとした。
>しかし近年、世界の神話の系統は大きく二つの流れに分けられるのではないかという学説が唱えられるようになった。それがこれから本書で見てゆく世界神話学説である。<(p.6)
JRF2025/4/229136
>ヴィツェルが近年唱えている世界神話学説は、古層ゴンドワナ型神話と新層ローラシア型神話と、世界の神話が大きく二つのグループに分けられるという仮説である。そしてこの神話学説が遺伝学、言語学あるいは考古学による人類進化と移動に関する近年の成果と大局的に一致するというのが彼の主な主張である。<(p.7-8)
JRF2025/4/229006
私は上で定住文化と非定住文化の対比を行った。そこに依れば、定住文化こそ新しいのであり非定住文化のほうが古いのだった。しかし、古層ゴンドワナ型神話は定住文化に属することが多く、新層ローラシア型神話は非定住文化に属すことが多いので、新旧が逆になる。
ただ、ロムルスとレムスの話にあったように、非定住文化は、定住文化よりも古いと主張する新しい文化であるという可能性も私は示唆していた。
JRF2025/4/223587
とはいえ、単純に、ゴンドワナ型神話のほうがローラシア型より常に古い形態を持っているということには、私は疑いは持つ。ローラシア型でも古いそれをパンゲア型神話とするのはやや安直で、非定住という視点で、定住文化からは構造的に捨てられがちだった物語を覚えていることなどもあるのではないだろうか。後藤さんなどの、ゴンドワナ型が狩猟文化で、ローラシア型が農耕文化だというのも若干読み違いがあるように私は考える。確かにゴンドワナ型よりもローラシア型のほうが発達した農業を持つ地域が今は多いが、ゴンドワナ型の地域も十分に定住(農耕)的であった。
JRF2025/4/229012
……。
二つの神話群があるという学説…
>この学説には、神話研究を科学のレベルに引き上げるものだ、と評価する意見や書評もある一方、かつての「矮小民族論」のような人種主義(レイシズム)の復活だとする酷評もあることを付け加えておかねばならない。つまりサンやコイサン、ネグリト、アボリジニ、あるいは南米南端にかつて住んでいたヤーガンなどは人類の古い種族、すなわち進化に取り残された集団とするかつての考え方の復活であるとして危険視する意見もあるのである。<(p.10)
これは私の「定住文化・非定住文化」論にも適応しうる批判で、私はその点も注意すべきだろう。
JRF2025/4/223940
……。
>原初の竜退治<(p.11)
竜退治というと私は以前カルタゴあたりを舞台にした『水竜狩り』という短編小説を書いたことがある。(↓に所収)
『エアロダイバー 他五篇』(JRF 著, JRF電版, 2016年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CEE9CW6
https://bookwalker.jp/ded1d33e07-44c3-45e8-99df-e1fd06916827/
https://j-rockford.booth.pm/items/6376720
JRF2025/4/224144
……。
>ゴンドワナ型神話群では、世界は最初から存在するのである。<(p.11)
仏教などが無限の過去、無限の過去に人の存在を想定するのとは、また違う。そういったことを重視していない…ということだろう。そこは問うても仕方がない、そんな道徳的にも役に立たないことを知ってるヒマはない…と。
JRF2025/4/224799
……。
>第一章 遺伝子と神話<(p.20)
遺伝子の話はデイヴィッド・ライク『交雑する人類』([cocolog:94524505](2023年11月))や篠田謙一『人類の起源』([cocolog:94528860](2023年11月))で学んだことがあり、『宗教学雑考集』では《ゲノムに残る不平等のしるし》の節などに結実している。
JRF2025/4/225689
……。
>宗教の萌芽はおそらくは原人、確実な所では旧人に見出すことができる。<(p.47)
『宗教学雑考集』《メンタライジング》
>ロビン・ダンバー『宗教の起源』によると、神や霊の理解には「メンタライジング」の理論が重要になるらしい。
(…)
ネアンデルタール人にも脳の大きい個体がいて、神の理論を持つ者もいたかもしれないが、「共有宗教」が生まれたとできるのは現生人類がお目見えした約20万年前以後ということになりそうだという。
JRF2025/4/226599
なぜ、このようなメンタライジングが現生人類には可能になったのか? 当然、そこには、脳の肥大化がある。肥大化が起こった理由付けとして、「社会脳仮説」がある。
<
『宗教学雑考集』《シャーマニズム》
>シャニダール洞窟遺跡で見つかったネアンデルタール人は、薬理作用のある植物の花粉とともに見つかった。ただし、《シャニダール洞窟 - Wikipedia》によると、それが動物によって持ち込まれたという意見もあるようだ。
JRF2025/4/226148
(…)
ネアンデルタール人にシャーマンがいたと主張する考古学者もいるが、この世界に影響をおよぼす霊的世界を信じていたことはありそうにない。ただ、音楽などで、トランス状態に入る方法を見つけていたことは充分考えられる。…というのがロビン・ダンバーの見解のようだ。
JRF2025/4/221049
ネアンデルタール人と現生人類は、「ミトコンドリアイヴ」が有名になった時期にはまだ、混血がないとされていたが、古代 DNA の解析が進むことで、混血は確かにあったとされるようになった。今後、ネアンデルタール人の一部の天才の神の理論が、集団に影響を与えていた…となることもあるのかもしれない。
<
JRF2025/4/223995
……。
>フランスのトータベルの洞穴では45万年前の人骨や動物の骨が発見されている。しかし奇妙なことに人骨には肋骨や背骨がほぼ欠如していた。つまり頭蓋骨および四肢骨がほとんどであった。これは何らかの意図的な選択によるものであると思われる。というのは一緒に発見された動物の骨はほとんど全身の骨が見つかっているからだ。つまり人骨と動物の骨は異なった原理のもと、何らかの意図をもって残されていることがわかったのだ。<(p.47)
JRF2025/4/227829
私は人類は骨食を行うスカベンジャーで、道具を使う狩猟のために骨食からあえて距離を取った…そのため、骨を埋める慣習を持ち、それが、埋葬という概念を生んで、霊を信じるようになった…というような機序を『宗教学雑考集』で考えた。ただし、そこで動物の骨と人類の骨の扱いに差異はあるという想定はしていなかった。そこに差があったのか…。
JRF2025/4/229263
『宗教学雑考集』《骨食から埋葬へ》
>熊祭りなどに関して、骨を砕かずに埋め、その再生を願う宗教があったという。しかし、昔の人類にも、再生しないことは明らかで、骨を砕かない意味はない。とすると、人類スカベンジャー説を思う。つまり、従来の骨(髄[ずい])食スカベンジャー(動物の死骸を食べる動物)として生きるのを否定し、道具を使った狩りに生きるのを子孫に強制するために骨を砕いて食することを否定したため、そのような宗教という形になったのではないか?
JRF2025/4/227986
もしかすると、そうやって動物の骨を埋葬するのが先で、そこから人類の埋葬がはじまったのかもしれない。
埋める理由は人間の場合は、人間の味を他の動物に覚えさせないためとできるが、動物のほうは、犬などがあさると自分も欲しくなるからか。
道具を使った狩りならば、人間も狩れる。かつては儀礼的食人もしばしば見られたようだが、食人を(あまり)しない理由は、人間の味を覚えて、戦争や不用意な殺人を犯させないためであろう。
<
JRF2025/4/228433
……。
新人(ホモ・サピエンス)には様々な特徴を持っている…中でも私がハッとしたのが…、
>(五) ビーズ、ペンダントなど個人的装飾品の出現。これは自意識の出現と関係しているだろう。自意識は萌芽的な哲学的思考につながるので、それが思考の原型となって神話が生まれたのではないかと考えられる。<(p.52)
装飾品は自意識の出現…。見られている自分、他者と違う自分(または装飾品を集団で揃える場合は自集団)を意識するから…だろうか。
JRF2025/4/220716
……。
ラスコー洞窟の壁画には棒とシャーマンの角度が45度のものがある。これには意味があるという。
>ラスコーの壁画の描かれた1万7000年前、星の回転の中心となる北極星はこの緯度では仰角45度に見えていた。<(p.56)
『宗教学雑考集』《大陸移動説》
>実は、さらにもう一つ大陸移動が古代でも信じられた可能性はある。それは星の観測だ。とても長い間、星を観測すれば、星座全体が動いていることがわかる。これを星が動いているのではなく地面が動いていると解釈したならば、間違ってはいるのだが、大陸移動という説になりうる。
JRF2025/4/224058
(…)
「星が動く」と書いたが、特に目立つのは北極星の位置の変化である。古代人がそれに気付いたのはいつなのだろう?
JRF2025/4/227146
(…)
北極星が動いてることは、古代にも認識されていたのではないかと疑う。ただ、それをどうやって伝えていたのかは気になる。古代オリエントでは一般に、都市が星座にその祖型をもつことがあった。バビロニアの都市は、シッパルの祖型は蟹座、ニネヴェは大熊座、アッシュルはアルクトゥルス星などによっていた。これがいつからの習慣なのか。地上に星を描くといっても、何千年単位でやっと気付く北極星の位置の変化まで伝えられたのだろうか。伝えることができたのは、文字ができてからなのか、文字ができる前なのか…。
<
JRF2025/4/229386
……。
>フランスのトロワ・フレール洞窟は紀元前2万7000年から1万3500年ころのものと推定されているが、トナカイや馬、バイソンなどの絵の他に、人と動物の混成像が描かれている。<(p.58)
キメラとトーテムの話は『宗教学雑考集』では大事な部分である。
JRF2025/4/221700
『宗教学雑考集』《キメラ》
>《トーテミズム》のところで「ごっこ遊び」という話があったが、キメラを幻想する遊び=キメラ遊びはトーテムについてタブーがある中での、魔術的関心からなされることがあったであろう。「イケナイ遊び」で、ただ、暗黙に許される人気の知的遊戯でもあったのかもしれない。キメラは、(イメージによる)進化では、到達しがたいもので、なぜ到達しがたいかを考えるところに知的遊戯性があったのだろう。
JRF2025/4/220876
トーテミズムが社会的に退潮してからは、タブーも意識されがたくなり、国の合併などが、国のトーテムの合併となり、キメラが象徴として選ばれることもあったのかもしれない。もしかすると、スフィンクスや聖書のケルビムはそうやって生まれた可能性はある。そういうキメラ遊びがスフィンクスが現れるような古代のある時期に流行した兆しはある。
<
トーテミズムには「イメージによる進化」の認識があったと私はした。
JRF2025/4/227485
『宗教学雑考集』《トーテミズム》
>ここで私は前述の《イメージによる進化》を思い出す。鶏が先か卵が先かという議論があるが、私は鶏のイメージが先と答える。そのイメージは群で共有されるだろうから、それは群進化(群淘汰)的でもある。
トーテミズムは、まるで私の「イメージによる進化」の理論を先取りしていたかのように思える。動物をイメージして、そこに向かう、またはその良い特性を取り入れるのを是とするのだ。群進化的であることは、デュルケムがいう集団的トーテミズムが先というのにも合致する。
JRF2025/4/221756
遺伝的なバラエティを増すためには、単一の動物でなくいろいろな動物を理想としたほうがいいだろう。そして理想としている動物が違っても、人間として産めることを担保するためにも、交雑は可能であり続けるべきことから、特定のトーテムを守る氏族に対しそれを超えた部族としてのまとまりも必要となるのだ。
私の「イメージによる進化」論が実際の科学的真理とは違う可能性は未だ残るが、「鶏のイメージが先」という議論は原始人にも可能で、そういう論を仮説的に原始人も持っていたと考えることは行き過ぎではないのではないか。
<
JRF2025/4/228389
……。
狩猟における星座の役割り…
>これらの星座は壁画に描かれている動物の発情期や出産期のサイクルを知る指標だった<(p.63)
『宗教学雑考集』《ピラミッド》
>天文の知識は、最初は方向を知るためのものぐらいだったかもしれないが、後には農業の発展に大きく影響した。<
…方向を知るだけのものでもなかったか。狩猟採集の文化でも。
JRF2025/4/226602
……。
>私は国立科学博物館の海部陽介氏らと旧石器時代の舟を作るグループ「与那国研究会」を作っている。<(p.75)
後藤さんは船(舟)に詳しく、その辺り特に読みごたえがある。
JRF2025/4/222388
……。
>ローラシア型神話では言葉が重視され、名前には神秘的な力、いわば言霊が宿ると考える。つまり最初に言葉を発したのは神なので、その神の力を借りて、名前を発声することによって相手を制御できると考えるのだ。そのためローラシア型神話では呪文が重視されるが、ゴンドワナ型神話では、言葉よりも偶像ないしフェティッシュのほうが重視される。ローラシア型神話では呪文から、やがて経典や哲学的表現が生み出される。一方、ゴンドワナ型神話では、あくまでも具体的な対象と、それに働きかける儀礼を通して祖先を思い出し、過去を繰り返すことに重点が置かれる。<(p.81)
JRF2025/4/229115
ローラシア型では、文字を使った行政・官僚機構による支配が、言葉を重視する神話を選択的に残すことにつながったのではないかと思うが、おそらく、著者がこう話すからにはインディアンなどの文字を持たないローラシア型も言葉を重視するということなのだろう。逆に言葉を重視するから必然的に文字を生んだという機序なのかもしれない。
JRF2025/4/226036
……。
>人類移住の最果てであった南米諸部族にゴンドワナ型神話の形跡が見られることは注目されるべきである。のみならず、さらには人類移動のもっとも遠い到達点である南米南端の集団にも色濃くゴンドワナ型神話の要素が残っている。最初に新大陸に渡った集団がゴンドワナ型神話を主体とした神話を持っていた可能性は否定できない、そう私は考えている。<(p.96)
私はポリネシアから南米へ辿り着いていた可能性を認めるので、ゴンドワナ型が南米南端にあるからといって、即、ローラシア型の前にゴンドワナ型がいたと結論はできない。
JRF2025/4/228480
『宗教学雑考集』《大陸移動説》
>>
ちなみに、「島を釣る」話に関連して、アメリカへの人類到達について。北米のベーリング海峡を通っての到達が定説だが、私はアジアつまりポリネシア側からの到達もあり、マゼランの世界一周ができたのは、その前に、ポリネシア人が、南米に到達している実績を元にしているのではないかと考えたことがあった。それが事実かどうかはわからないが、さつま芋の栽培や DNA の痕跡からは、ある程度は肯定される結果が出ているようだ。
太平洋から南アメリカへの到達。2020年のポリネシア人と南米太平洋岸先住民とのゲノムの研究で…
JRF2025/4/223856
>過去の時代のポリネシア人と南米先住民の混血の痕跡が見出されているのです。
両者の接触は 13世紀のごろのことと考えられており、南米大陸にもっとも近いラバ・ヌイへのオーストロネシア語のオーストロネシア語集団の到達よりはやや早い時期になります。2014年に行われたラバ・ヌイの 27名の先住民のゲノム研究では、その 8パーセントが南米大陸に由来することがわかっていますが、この研究では、それより前にポリネシア人と南米先住民のファーストコンタクトがあったことが説明されました。(篠田謙一『人類の起源』p.186-187)
<
JRF2025/4/222415
ラバ・ヌイとはイースター島のこと。まず南米に流れ着いて、そこからイースター島に帰って来た…みたいな解釈になる。もちろん、今後の調査によって、方向等は変わるかもしれないが。
大西洋からのコースについてもカルタゴなどが、先にアメリカ大陸に到達していて、梅毒を持ち込んだのでは? …という疑いも私にはあるのだが、そちらについては情報は今のところ知らない。
<<
JRF2025/4/228640
……。
>人間は初め永遠の命を保っていた<(p.98)
『宗教学雑考集』《栽培民の前段階としての狩猟民文化と永遠の生》
>>
ハイヌウェレ型神話においては、実は、有用植物がもたらされたとき、生殖と死ももたらされることがしばしばある。
JRF2025/4/228056
植物の果実が楽しむためでしかないならば、それについて人を犠牲にするほどではない。しかし、植物が生きるために必要になったということであれば、それを皆が得るためには一人を犠牲にすることもいとわない…ということなのかもしれない。そして、死があるから生まれる必要があり、生殖の必要ができる…という機序なのだろう。
逆に言えば、有用植物がもたらされる前は不死であったということだ。これはどういうことだろう?
ハイヌウェレ型神話に詳しい書でイェンゼンは次のように語る。
JRF2025/4/224672
>動物狩猟そのものは実際ここで論じている文化より古いのだが、しかもわれわれの引用したほとんどすべての民族において、あの原古の神話的出来事の結果起ったのだと明言されている。人間の狩猟に対する関係についての新しい精神的方向づけがこの文化にはあったにちがいない。というのも殺害がかくも決定的に存在秩序の中で認知され、それゆえ動物殺害は必然的にこの新しく認知された世界の秩序に組みこまれたにちがいないからだ。
JRF2025/4/222273
たとえば、真の狩猟民族の殺害に対する関係を観察すると、全くちがった基本態度に直面することになる。狩猟民は、まるでその狩猟儀式において〈本来は〉殺すのではないことを主として目指しているように見える。望ましい狩の成果を確実なものにするために、一方であれほど努力していながら、他方では、殺された動物と自分自身と世界に向かって動物が殺されたのではないといつわることに懸命なのだ。
(イェンゼン『殺された女神』p.155)
<
JRF2025/4/220636
動物の痕跡を見つけることが、狩猟では大きなウェイトを占める。逆に、痕跡を残すことは、狩られることを意味するのだ。
痕跡がないように、死しても、死んでいないかのように見せる。自分達がまるで居なかったかのように見せること、それが鏡像認知された、人間に必要なことだったのではないか。だから、自分達の墓は基本的に作っても、目立たないようにしていた…。墓はない、だから、死はない…と。埋葬も痕跡を隠す目的が先だったのかもしれない。
逆に、栽培民は、自然(神)に自分達が役に立つことを知ってもらうため痕跡を残そうとするのだろう。
JRF2025/4/226603
(…)
人は、植物を「殺して」食べるが、その植物は栽培してでも増やしたいと願う。そこから、人を殺して自然(神)に食べさせることが、自然(神)に人を増やすよううながすことになる…という信念があるのかもしれない。そして自然の中には人も含まれ、人が人を増やすように…というか島などの限られた自然環境の中で減らさないように導くには食人儀式もすべきなのだ…ということだったのかもしれない。
<<
JRF2025/4/226715
……。
>人間が植物に由来するというモチーフは、私がかつて「ヴェジタリズム」と呼んだ原理だが、東南アジアからメラネシアにも色濃く分布している。東南アジアの熱帯雨林には、巨大なジャックフルーツやカボチャの実から赤子が生まれたという話がある。わが竹取物語や桃太郎の話もその要素を含んでいる。<(p.100)
人類の植物由来神話が、竹取物語や桃太郎の元になっている…と!
JRF2025/4/226680
……。
>死の起源<(p.100)
『宗教学雑考集』では死の起源については生物学的な考察を行ったが、他に、ルワンダ人の「死」の導入神話も紹介している。
『宗教学雑考集』《乳房》
>>
ルワンダ人の「死」の導入神話…、
JRF2025/4/223488
>ある日のこと、イマナ(…神…)は人が死なないようにするために、死を捕らえ破壊することに決めた。彼はすべての住民に屋内にとどまるようにと命じた。翌朝、イマナは死を追跡し、両者のあいだはぐんぐん縮まった。ところが畑に出ていたある老女の耳には、死からの呼びかけが聞こえてきた。「私を哀れに思って、かくまってください! 死にそうなんです!」。老女はかわいそうに思ってこう尋ねた。「どこにかくまったらよいのです」。死は答えた、「あなたの衣服のなかに入れてください!」。
JRF2025/4/229051
老女が言われたとおりにしたちょうどそのときに神が到着して、彼女に向かってこう告げた。「人々の何と哀れなことよ。彼らは愚かさのえじきなのだ。あの女の胸に死が宿るかぎり、彼らは死の刻印を受けて生まれてくるであろう!」。
それ以来、死はこの世にとどまっているのである。
(エリアーデ『世界宗教史 8』p.93-94)
<
なぜ女の胸なのか。そこには乳房がある。乳が足らなくて死ぬことが多かったということか。
JRF2025/4/225784
人は賢さのために、頭が大きい。頭が大きいと産道を通りがたい。だから、少しでも小さいうちに、未成熟のまま産まれてくる。だから、乳が必要な期間も長い。同時に育てられる数には限りがある。それが妊娠期間を長くする方向に作用する。それが人としての多産を制限し、民族を死に近づけている。…ということだろうか?
JRF2025/4/225822
アフリカでは多産が祈られることが多いようだ。人が生きるためには栄養状態が良いほうがよい。栄養状態が良ければ多産になる。だから多産を是とすることは長寿を是とすることにつながる。多く産まれたあとの死はありうるが、そのときは栄養状態も悪くなりそのとき多産にはならないということだろう。広い土地を背景にすれば栄養状態が良くなり、多産になりがちである。だから広い土地を持つべきだというのもそこから導ける。狭い土地でも多産になるときはあり、それは戦[いく]さを導くが、それはそれで良いということだろう。
JRF2025/4/220562
ただ、そこには頭=脳の大きさを是認するような賢さの称揚もあるべきなのだろう。特に平和を願うのならば。だから旧約聖書『創世記』のヤコブ物語のようなズル賢さを称揚する物語が古代には現れていたのではないか。
<<
生物学的な死の起源については↓。
『宗教学雑考集』《生物学的な死と性》
>なぜ死があるのか。
まず《宇宙胎児》で示唆したように一つの個体よりも複数の個体であるほうが、苦しみが少なかったのであろう。《なぜ生きなければならないのか》の枠組みで安住の残骸を集めるには、それらで同種の生きる数を競争したほうが多様に得られるようになったのだろう。
JRF2025/4/228016
そして、生物学的には、複数の子供の中に自らより優れた遺伝子を持つ者がいることのほうが多く、そういう個体が育って生き残るほうが種全体がそれ以降も他の種に勝って生き残るには有利なため、育てることを優先させるための死があるのだろう。《目的の多層性》でも少し語ったように、死があるほうが進化には有利という説を私は取る。
この場合、死を意識できたほうが、育てることに力が入るものと思われる。動物には死の意識がないと言われることがあるが、子供を優先する本能があるなら、それは死の意識に等しいのかもしれない。
<
JRF2025/4/226359
……。
ローラシア型神話には統一性というか共通性・論理の流れがあるのに対し、ゴンドワナ型神話にはそういうものが薄い。逆にそれがゴンドワナ型を特徴付けるのだという。
JRF2025/4/224636
>以上見てきたゴンドワナ型神話はローラシア型神話のようではない、とネガティブに特徴づけることはできたとしても、一般化するのは至難の業である。一つだけ確実に言えるのは、人間も動物も、そして神や精霊も、地上において一緒に暮らしていたとされることである。また夜空の天体もかつては生命をもち、人々の隣で暮らしていたとされる。それらの間に上下関係、階層関係はなく、平等な、相互依存関係こそあるべき姿だという主張が、その基底にはあるように思われる。<(p.115)
JRF2025/4/226217
……。
シナ・チベット語系統の神話でも…。
>二柱の神が自然に出現して、天地を作る事業をはじめた<(p.122)
上に引用したように『宗教学雑考集』の《始源論》を踏まえれば、二柱同時による創造もありうると《日本の創造》ではしたのだった。
JRF2025/4/227644
……。
「世界卵」というモチーフもあるが、実は旧約聖書『創世記』にもその記述があるのだという。
>『旧約聖書』の「創世記」天地創造の冒頭には「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊がおもてをおおっていた」という件[くだり]がある。この文章の最後に用いられているヘブライ語の表現は文字通りに訳すと、神の霊が巨大な鳥の形をとって原初の大海の上で卵を温めていた、という意味になるという。<(p.131)
何度か、日本語インターリニアーのヘブライ語『創世記』を読んだはずだが、気付かなかった orz。
「マイム」は水で卵ではないし…「ラヘフェット」にそんな意味があるのだろうか?
JRF2025/4/229734
……。
>要約すると、ローラシア型神話群において原初の創造、より正確には原初の出現に続いて父=天と母=地の組み合わせが見いだせる。一方ゴンドワナ型神話群ではこのような、典型的な原初の男女神的な概念はほとんど発達していない。<(p.134)
地母神が、地球そのものというキメラであるという概念が、あとからなされた一つの発見だからだろうか?
JRF2025/4/223346
『宗教学雑考集』《キメラ》
>豊饒の女神の大地母神がキメラであるというのは、後に示すように大地母神デメテルが馬頭のキメラで表されたことをいうのではない。
それは、大地(地球)に女性器が付いて足があり股[また]をひらいているというキメラのイメージだ。後にそれはイスラム寺院モスクのミナレットとしても残ったと思われる。それは、キメラ動物のもう一つの極、その最大のものである。
JRF2025/4/226791
「キメラ幻想遊び」のルールとしては、人であってはならない。そして、本当に産まれそうなものであってもならないが、「奥義」的には、大地もまた生命であり、そのルールに則している。そしてその意味するところは、大地(地球)こそすべての生物を産んでいるという思想である。しかも、それは頭がない=まるで考えない。しかし、様々な人生がそこにある。だからこそ、逆にそれが最も偉大な知恵と映る…。
JRF2025/4/228433
そして異時間的なキメラ動物の幻想だったはずなのに、振り返ると「子宮墓」がすでに各地にある事実は、時間感覚を混乱させる。
大地に時間感覚をもたらすと言えば月である。しかし、人には月経があっても一年のうちの決まったサカリはない。年齢に関してはあるが…。
<
JRF2025/4/221024
……。
>宇宙樹<(p.135)
『宗教学雑考集』《ジャンケンと世界樹》
>>
>農耕文化は、その宗教的活動が、宇宙の周期的更新という中心的な神秘のまわりに集中されるので、宇宙的宗教とよばれるものを作りあげた。人間的存在とまったく同様に、宇宙のリズムは、植物の生から借りた言葉で表現される。宇宙の聖性の神秘は、世界樹に象徴される。宇宙は周期的、言いかえれば、毎年、更新されなければならない有機体として考えられた。(エリアーデ『世界宗教史 1』p.74)<
JRF2025/4/227699
昔、ジャンケンのプログラムを書いて対戦させるという実験をやらされた。おそらくアクセルロッドの囚人のジレンマに関するゲームの実験と関連しているのだと思う。要は、しっぺ返しみたいな単純なものが強く、思考プログラムが役に立たないことを示させたかったのだと思う。しかし、私は、そこに同じ手を一定数出し続け、その一定数をどんどん大きくしていくだけのプログラムを書いた。そうすれば、学習が有利になるだろうからである。こういうわざと負ける戦略は、アクセルロッドの実験では禁止されていた(はず)。
JRF2025/4/229042
私は、私のこの発想を「世界樹」的だと思った。なぜ世界樹が世界の創世神話に出てくるかと言えば、それは「思考」が有利な状況を(動物に負け続ける)植物達が作ったと考えることができるからではないかと私は考える。
植物も適者生存しているはずだが、最初に動物のエサになることを選んだ…。もちろん、食われないように細胞壁を強化したのだが、食われるようになってもその方向を捨てなかった。…のは、何か「適者生存」とは根本的に異なる戦略を植物が採ったからではないか…とか私は妄想する。
JRF2025/4/229758
さしずめ今の AI (LLM: Large Language Model) は、社会的に負け続けた者の作ったインターネットコンテンツという世界樹を元に育った思考者ということになるのだろうか?
<<
JRF2025/4/221925
……。
>天神と地母神の子孫、すなわちイトコの神々の間の争いはローラシア型神話に深く埋め込まれている。これはゴンドワナ型神話には見られない重要な違いである。<(p.149-150)
↓で骨肉の争いが非定住文化のモチーフであったことを思い出す。
JRF2025/4/220345
『宗教学雑考集』《定住文化と非定住文化 - イザナギの冥府降り》
>前節で書いたように定住文化は最終的に「堕胎」を覚悟する文化だった。それに対し非定住の文化は、食物などが足りなくなったら、随時、(野生で育つことを期待して) 子を捨てていく「捨て子」文化だとできるのだろう。そして、「捨て子」がたまたま育てば、向かって来ることもありうる。それとは戦うのが想定されるところから、ひるがえって、いっしょにいる親族どうしでも戦う「骨肉の争い」が予定される文化でもあるのだろう。兄弟争いがモチーフになる。<
JRF2025/4/220309
……。
ローラシア型には貴族の成立などが見られるという。
JRF2025/4/220651
>ローラシア型神話は宇宙と人間社会の動きを一貫した秩序ある、調和した方法で描く。その背景には共通の、潜在的でポジティブな、秩序立てる力が働いている。ただこれは個人では制御できない力であり、個人のためではなく社会の調和のために働く。その力の更新は決まった季節や時期に大々的な供物を伴ってなされる。狩猟採集民社会では社会の調和は共食などによって実現される。しかし時には狩猟のリーダーやシャーマンなど、特殊な能力の人物が現れる。農耕社会になると社会に不平等が生まれ、神々の系譜は特定の集団にしか許されないようになる。同時に言葉の威力が増してくる。<(p.155)
JRF2025/4/229007
ここでローラシア型=農耕社会、ゴンドワナ型=狩猟採集社会という図式がハッキリ示される。しかし、私は定住文化と非定住文化の新旧が後藤さんとは逆になっており、支持できない。むしろ、『宗教学雑考集』《三種の神器 - 非定住文化による支配》では、金属器の使用などが、非定住文化の支配層化(貴族化)を導いたとしたのだった。
共食や季節の儀式についても『宗教学雑考集』では言及している。
JRF2025/4/220668
……。
三種の神器が語られる…。
>三種の神具<(p.163)
『宗教学雑考集』《三種の神器 - 非定住文化による支配》
>私は第2章(シミュ仏)の中で、本目的三条件「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」という枠組みを挙げた。
JRF2025/4/229714
しかし、本目的三条件を三種の神器に比定しようとすると微妙に合わない。宗教は「来世がないほうがよい」で良いとしても、それは王権を意味しない。王権はむしろ軍事で、それは「生きなければならない」にあたるのだろうか。食料生産・経済は、「思考・思念を深めるのがよい」という面もあるが、「生きなければならない」という面もある。
これは別のものと考えたほうが良さそうだ。おそらく、{{chapter:シミュ仏}}は「堕胎」を許すシステムだったから、本目的三条件は、定住の文化が理想とする条件なのだろう。そして、三種の神器は、非定住の文化の最適化の在り方を示すのではないか。
JRF2025/4/224563
(…)
ところで、支配の効率性には、縁故が少ない少数派であり続けることが必要になる。
なぜ捨て子文化なのに、少数派を維持できるのか。長子制による「骨肉の争い」がある…というのは、ありうるが、それは、農耕文化でも長子制を取るので、それだけが理由とはならない。
JRF2025/4/225387
思うに、捨て子文化だが、妾腹の子が、その後の長子相続などに影響することを抑えるため、そういう子を生むのは許容されても、父の目が届くうちは、その子に子を設けさせないのが合理的となるのだろう。そのため、僧制のような独身制のシステムが背後にあったのではないか。
あとは、教育による適齢期からずらすのと合わせて、一本という感じか。適齢期からずらすのは支配層近辺だけかもしれないが、それが被支配層と出生率の差を生み、自然に少数派になるという効果もあったかもしれない。
JRF2025/4/228457
つまり、長子制、僧の独身制、適齢期が三種の神器で、それぞれ剣・鏡・玉に相当するのだろう。ただ、適齢期は、玉というより鏡じゃないかということだったのでそこは合わないかもしれない。父の形身の玉ということかもしれない。浪曲などでは形見の話がよく出てくるが、妾腹の文化は形身の文化でもあったろう。ちなみに、売春は貨幣とリンクされることがあるが、玉は貨幣的である。
JRF2025/4/222876
(…)
ところで、なぜ非定住者が支配に適していたか? それは金属器の影響ではないか。
武器を使うのを厭わないためというのは理由にならない。農耕民族も守るためには武器を使うからだ。しかし、武器の独占のために金属を独占しようとしたとき、違いが生じる。
金属は、鉱山への道を含む通商路をおさえることが農耕以上に必要になるため、移動がメインの非定住文化を基礎としたほうがよかったのだろう。それがスキュタイが金を神器に使っていた理由の一つでもあろう。
<
JRF2025/4/227325
……。
最初のほうで説明した島釣り神話。「釣針喪失譚」とこの本では言われる。
>釣りとは、一種の博打あるいは占いなのである。<(p.173)
これはその通りかな…と思う。針のない釣竿で海流が読めるというのもほとんどフェイクで、それは占いに近いのだろう。
JRF2025/4/228957
……。
「釣針喪失譚」に似た物はローラシア型にもゴンドワナ型にも見られるのだが…。
>古層型式(山=狩猟型)では冒険の結果として得るものが嫁である一方、新層型式(釣針喪失型)では英雄はしばしば政治的な権力を得る。私はここに、年少者が積極的に外部社会の探索を行い、新しい社会秩序を確立するというオーストロネシア社会の根幹的なイデオロギーが表現されているのを見る。<(p.174)
こういった物語は、長子相続の基本の中、年少者を労働力化するために、そこに夢を見させるイデオロギー装置であったということかもしれない。
JRF2025/4/227001
……。
カレワラのレンミンカイネン…。
>レンミンカイネンが遠い所で殺されると、母親の所に残していた靴下から血が出る。それを見て母親は息子の死を知る。<(p.194)
似た話が共感魔術・医術の話としてあった。あれ、元は神話なのか…。
JRF2025/4/222137
『宗教学雑考集』《共感魔術》
>>
>ブラッセルの一紳士は格闘していたとき鼻をそぎ取られてしまったが、有名な外科医タリャコッツィは彼のためにボローニャの或る門番の腕の皮膚で新しい鼻をつくった。その紳士が故国に帰ってから約十三ヵ月後にこの接がれた鼻は冷たくなり、化膿し、数日たつと落ちてしまった。(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』下巻 p.354-356, 注)<
<<
JRF2025/4/229281
……。
>地下界に行った狩人が蛇の皮を着ている<(p.203)
上で人類が道具を使った狩猟で生きるために、あえて骨食を避けるために埋葬をはじめたという話を私はしたが、「蛇」はそれに関係する。
『宗教学雑考集』《イナンナの冥界降り》
>ドゥムジは蛇になって逃げた。
(…)
新しい文化主イナンナは、「生命の食物」は骨、「生命の水」は血を与えられた。それを食するのを否定してきた文化的祭りをどう補填するかが求められたということだろう。
JRF2025/4/225716
するとドゥムジに求められるのは、この補填である。とすれば、ドゥムジはギリシア神話のヘルメスとなって、鉱山を探すのにつながる骨に高値を付ける考古学と、瀉血[しゃけつ]の医学をつかさどるようになったのではないか?
ドゥムジが蛇となったのは、骨髄の食いでのある長骨がないこと、噛まれた際、毒を吸い出すためには血を吸って吐く必要があったからであろう。神話などになぜ頻繁に蛇が出てくるかの説明がここにあるのかもしれない。
<
ちなみに骨の説明はいいとしてなぜ血がダメなのか。
JRF2025/4/222188
『宗教学雑考集』《血を飲むことの禁忌》
>宗教で特に血が問題にされていたということは、血を飲むことによる精神作用などはあるだろうか。例えば、興奮させた動物の血を飲むことで、アドレナリンとかを摂取できるとかそのたぐいのことはあるだろうか?
それを Gemini さんに聞くと、血液には、アドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニン、エンドルフィンなどが含まれ、興奮、鎮静、幻覚など、様々な精神作用を引き起こす薬理作用がある可能性はそれなりにあるようだ。
JRF2025/4/221800
しかし、それらを効率的に摂取するためには、煮て変性されるより前の生の血のほうが良いものと思われる。ところが、薬理作用を重視して生の血を飲み続けると、必ずといっていいほど、寄生虫や感染症のリスクが顕在化したのだろう。薬理効果の割にリスクが高過ぎるのだ。
そのため、血を飲んで薬理効果を模索させる可能性を遮断する「血を飲んではいけない」とする宗教が生き残ったのではないか。
JRF2025/4/222634
薬理効果が多少あるというのがむしろポイントである。動物や人などを怒らせたり泣かせたりすることで、血を精神薬にできるという方向自体は確かにあった。血を飲みはじめれば、薬理効果に気付く者が出てくるのだが、その集団は必ずといっていいほど、病気に苦しむ、つまり、「呪い」にかかったのだろう。主に精神的な薬理効果は、「血が命」または「血が魂」という理解を生むが、それを飲むのは「神の怒りを買う」となったのであろう。
<
ちなみにここを Gemini さんにぶつけると…。
JRF2025/4/225184
Gemini:> 地下界に行った狩人が蛇の皮を着ているというモチーフは、狩猟と蛇のイメージが深く結びついていたことを示唆しているのかもしれません。蛇の皮は、脱皮することから再生や復活の象徴とされることもありますが、狩猟においては、獲物を欺くための擬態や、危険な存在としての畏怖の念を表している可能性も考えられます。
JRF2025/4/228853
……。
>神は石を引き上げて代わりにバナナを降ろした。<(p.211)
この神話は、ちょっとだけ『宗教学雑考集』でも言及した。
『宗教学雑考集』《石棺・幽霊と絶滅》
>インドネシア神話には石とバナナに関する人類創成神話があり、人類は石でなくバナナを選んだから、死の運命を与えられたということだ。<
ところで、今考えたんだが、この「石」は実は「骨」のことで、骨食をやめたことの記憶がここに残っているのかもしれない。
そして狩猟することは「不死」を偽装することであったことを考え合わせると、石=骨を食わなくすることが「不死」に関係していることも表しているのかもしれない。
JRF2025/4/224078
むしろ、石を食わないことで不死になるという構図なので、そのあたり混乱があるが、わざと話を錯綜させ謎かけの形にするのは物語作りではよくあることだと考える。
バナナ…甥にしたホラ話をちょっと思い出す。
JRF2025/4/225193
……。
>食あるいは性の歓びを得た代わりに人間に死が訪れる。<(p.212)
上の『宗教学雑考集』《栽培民の前段階としての狩猟民文化と永遠の生》の引用であったが、ハイヌウェレ神話などでは、「死があるから生まれる必要があり、生殖の必要ができる」というのが機序であった。
JRF2025/4/226668
……。
>人間は土中から出てきたとする神話も世界中に分布する。<(p.217)
これは、人間の肌に毛がないことの説明の必要性から出ているのではないか。私はそれは「洞窟猿」という妄想にまとめている。
『宗教学雑考集』《洞窟猿》
>>肌がツルツルの人間は「洞窟猿」だったんじゃないかとか私は考えることがあるが、それと同時に頭には黒い毛が生えていて上が黒、下が白という色づかいはクジラなどに似ているので、海の近くで暮らしていたのではないかと考えることもある。しかし…、
JRF2025/4/227596
>ネアンデルタール人と同じ時代にアフリカに居住していた人類(…)10万年前頃のアフリカの住民は、骨格の形態ではネアンデルタール人よりも現代人に近かった(…が…)海に近い海浜部の遺跡からも、魚の骨や釣り針などが出土しないことから、魚すら捕まえられなかったと思われる。(ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』上巻 p.53-54)<
「魚すら捕まえられなかった」というのでは、海の近くで暮らす益はない。手で捕まえ魚の骨まで食べていたとしても、痕跡がまったくないのは考えられない。
<<
JRF2025/4/222916
『宗教学雑考集』《金属の盗掘・王家の谷》
>>古代エジプト後代(前2000年頃)のテクスト…、
>神の家畜である人間は十分な備えを与えられた。(エリアーデ『世界宗教史 1』p.140)<
《人類の完全性》や《洞窟猿》で、人間が洞窟から生まれた家畜じゃないかという説を紹介するが、エジプトにも、人間が元は、洞窟猿の家畜から進化したという考えがあったのかもしれない。
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JRF2025/4/221905
……。
ゴンドワナ型では、乱暴やズルは最後には損をするとい社会を築こうとしていた。それは猿の集団にも萌芽がある。ところがそれがローラシア型では変わっていったのだ。…という。
>乱暴やズルは最後には損をする教訓を、人類は脳の発達によって内面化した。これがモラルの誕生である。そうボームは結論したのだが、私は、この説を知り、現世の狩猟採集民の多くが保っているこのような慣習こそゴンドワナ型神話の基盤をなしていたのではないかと考えるに至った。
JRF2025/4/225915
しかし鉄器が発達し武器の殺傷能力が高まり、また経済的な不平等が生じ、宗教が不平等を覆い隠すイデオロギーとして機能するようになると、力ある者、能力のある者が権力を握れる社会になっていった。ローラシア型神話がしきりと王や貴族などが誕生した理由を説明しようとするのは、その結果だったのではないだろうか。
<(p.222-223)
こうやってゴンドワナ型を模範にしていこう…みたいな論調をするのであるが、それが差別を逆側に動いただけに見えて、私には居心地が悪い。
JRF2025/4/227617
ゴンドワナ型を学ぶなら、そういうどこかにヘゲモニーを求める思考、あちらがダメと言ってこちらに移住する思考こそ批判されねばならないのではないのか。
JRF2025/4/227803
……。
後藤明『世界神話学入門』はここまで。次は、松村一男『神話学入門』。
JRF2025/4/220785
……。
……。
『神話学入門』(松村 一男 著, 講談社学術文庫 2537, 2019年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07MNNDKV7
https://7net.omni7.jp/detail/1106948083
角川書店より刊行された『神話学講義』(1999年)を文庫化したもの。
後藤さんのものより古い議論ということもあるが、後藤さんが二つの神話の流れ…というシンプルな物語で構成されているのに対し、松村さんのこの本は、これまで神話学がどのように語られてきたか…その経緯を語る内容になっている。
JRF2025/4/222782
……。
松村さんはまず「神話」を定義するところからはじめる。こういう書き方は人文学ではしばしばあるが、私が嫌いなタイプの書き方だ。カチンと来る。
JRF2025/4/220194
機械定理証明可能な表現で書かれて数式的定義、プログラムの実装・データベース利用の仕様を示す定義なら意味はある。しかし、たいてい哲学的定義というものは、核となる部分があってあとは使用に従ってその意味が明らかになれば十分であり、それが通常のその言葉の使用より、大きい部分を示したり小さく示したりする必要があれば、そう断わればいい話だ。LLM が言葉の並びだけから意味を捉えていく時代になって、「哲学的定義」にほとんど意味はないと私はほとんど信じている。ましてカテゴリーを厳密化するだけのものなど、結局は判定者の恣意を押し付けるイデオロギー装置でしかない。…などと考える。
JRF2025/4/220736
>神話(…の定義…)とは「個人ではなく、集団や社会が神聖視する物語であり、作者は問題とならず、成立した年代は不明で -- その結果 -- 太古に成立したとされる」とまとめることができる。そして、この定義の後半部分で述べた無名性、無時間性=非歴史性をどのように解釈するかによって、神話学における解釈の多様性が生じると思われるのである。<(p.9)
JRF2025/4/226055
……。
松村さんは、神話学を19世紀型と20世紀型に分ける。
>19世紀型神話学に共通するパラダイムとは、進化論あるいは歴史主義であり、20世紀型神話学のパラダイムは構造主義あるいは反歴史主義である。かつて天動説から地動説へとパラダイムのシフト(転換)が起こったように、20世紀のある時点から神話学においてもパラダイム・シフトが起こったと考えられる。<(p.14)
この本で対象とする研究者は…
>マックス・ミュラー、フレイザー、デュメジル、レヴィ=ストロース、エリアーデ、キャンベルという6人である。<(p.15)
JRF2025/4/224819
>19世紀型の代表者として取り上げるのは、マックス・ミュラーとフレイザーである。20世紀型の代表はレヴィ=ストロース、エリアーデ、キャンベルである。そして私見によれば、この両者の中間にあって、分水嶺となり移行形態を示しているのがデュメジルである。初期のデュメジルは19世紀型神話学の色彩が色濃く、中期・後期になると20世紀型神話学の先駆的形態を示すようになるからである。<(p.17)
デュメジルは、原本あとがきから知るにおそらく松村さんのご専門なのだろう。
JRF2025/4/229709
……。
>19世紀型神話学は進化論的・歴史主義的なパラダイムの枠内で構想された。マックス・ミュラーもフレイザーも進化論図式を受容している。神話は人間がまだ現在のような科学を知る以前の進化の段階の産物である、過去の産物、古代の産物とされる。つまり神話は人類に普遍的だが、それは人類進化のある特定の段階にのみ認められる。いわゆる「未開」人が現在でも神話を信じているのは、かれらが進化において遅れた段階にあるためということになる。こうした立場からは、神話は人類の過去の精神状態を知るための資料とされる。<(p.17-18)
JRF2025/4/228578
キリスト教を諸宗教の頂点とし、そこに致る「進化」(進歩)の歴史がある…というのはヘーゲルにもあった(参: ヘーゲル『宗教哲学講義』([cocolog:95175021](2024年12月)))。
ただし、フレイザーもおそらくミュラーもさらに無神論に致るのが進化のあり方と考えているフシがあるようだ。
JRF2025/4/220930
……。
20世紀型へのパラダイム転換を促したのは「無意識の発見」だった。
>進化の段階に左右されない、そして歴史的な産物でない無意識の領域の存在の発見は、神話についても新しい見方を可能とした。19世紀型神話学では、無時間的、非歴史的という神話の特徴を過去の人間精神の産物のしるしと捉えていたが、フロイトの無意識の発見を契機として、20世紀型神話学では、神話の思想そして神話自体も、じつは無意識の産物ではないかという新しい見方が生まれたのである。
JRF2025/4/224752
神話を無意識の産物と考えるなら、神話は進化の特定の段階に限定されるものではなく、人類に普遍的であり、現在においても、そして未来においても存在することになる。
つまり、神話は過去の遺物であなく、また非合理の産物でもなくなる。それは人間の心に普遍的に存在するパターンの現れであり、合理的に説明できるものと考えられるようになる。
<(p.21-22)
上で『宗教学雑考集』《文化伝播論と合目的的発展論とユングの元型論》を引用したが、合目的発展論やユングの元型論的な理解が進んだのが、20世紀型神話学ということになるのだろう。ヴィツェルらの二源流説は、文化伝播論の揺り戻しの側面もあるのかもしれない。
JRF2025/4/229202
……。
6人の研究者の特徴の箇条書き。
>マックス・ミュラー -- 進化論の立場。人類最古の神話の再建に関心。神話の起源は天上の自然現象への原始人類の驚きにあるとする。儀礼については無関心。
フレイザー -- 進化論の立場。神話は(…キリスト教前段階の…)呪術段階の産物とする。神話の起源は地上。神話と儀礼は慣習に由来。慣習の物語化としての神話。
デュメジル -- 歴史言語学の影響。社会にとっての神話。個別文化的。関係性・システムの重視。神話と儀礼を同等に評価。対象をインド=ヨーロッパ語族に限定。
JRF2025/4/223405
レヴィ=ストロース -- 構造言語学の影響。理知的な無意識。普遍主義的。関係性・システムの重視。神話と儀礼を別物とする。対象は主として南北アメリカ神話。つまり無文字社会。無文字社会と歴史社会の神話には違いを認める。
エリアーデ -- 起源神話中心。普遍主義的。歴史の恐怖。宗教に代わるものとしての神話と儀礼。神話と儀礼を同等に評価。対象は無文字社会も歴史社会も含む世界中の神話。
JRF2025/4/220769
キャンベル -- ユング心理学の影響大。英雄神話中心。個人にとっての神話。普遍主義的。アメリカニズム。宗教に代わるものとしての神話。神話を読むことによって力を与えられるという「神話の力」観。儀礼についてはあまり関心がない? 対象は無文字社会も歴史社会も含む世界中の神話。
<(p.29-30)
JRF2025/4/225143
……。
19世紀型から20世紀型へのパラダイムシフトの歴史的・社会的要因は何か。
>こうしたパラダイム・シフトをもたらした要因とは何だろうか。それは、キリスト教の衰退いわゆる「世俗化」の開始と、それに連動する学問の世界における西洋絶対優位説への懐疑ではないだろうか。西洋世界はキリスト教を信奉する西洋こそが神に祝福された世界であるという主張をダーウィニズムの登場以前からいだいていた。そしてこの主張はダーウィンの進化論を意図的に曲解することによってさらに強化された。
JRF2025/4/220107
西洋がもっとも進化した段階にあり、その他の文化はより劣った段階にあるという歴史における神の啓示の観念を背景とするこうした世界観は、西洋世界以外の地域が自己主張を始める20世紀になって揺らぎはじめる。そして西洋絶対優位の観念に疑問が呈され、その偏り、誤りが認識されはじめた20世紀に、神話学においてもまた、直線的・歴史的な神話理解ではなく、普遍的・非歴史的な神話理解が可能となったのであろう。
JRF2025/4/223300
もちろん、このことはパラダイムの変更の原因として考えられるという可能性を述べるのみであり、二つのパラダイムのうち20世紀型が正しく、19世紀型が誤りだといっているのではない。確かに19世紀型神話学のパラダイムには行き過ぎが多いが、パラダイム自体、神話の歴史的解釈自体が否定されることにはならない。
<(p.30-31)
西洋キリスト教を頂点とする史観についてはちょっと関係ないかもしれないが、私は次のような文を書いている。
JRF2025/4/222124
『宗教学雑考集』《人類の完全性》
>特に昔のキリスト教徒の西洋人が、完全な自分(達)に向けて人類が進歩していっているという史観を持っていたことを揶揄されることがある。ただ、それ自体は、ある種の淵源があり、それが、アダムが完全な人間として生まれている(そこから人類は一度堕落した)といった神話としても現れているのだと思う。その淵源とは何か?
JRF2025/4/225197
当初は、アダムの神話も、そしてノアの神話も、多民族がいる中での一民族の創世神話を元にしていたのだろうが、しかし、それで初期の完全性を主張するのは、血の近い者の結婚を促す近親婚のすすめでしかない。逆に旧約聖書『創世記』でアダムだけノアだけになる瞬間があるのは、近親婚のすすめを避けたのだろう。どの人類と交わっても彼らの子孫の内となるように。
JRF2025/4/220342
とはいえ、人間の完全性という概念の淵源が近親婚の忌避だけとも私にはどうも思えない。中東の底意地の悪い(失礼!)宗教者が、まるで人類全体が平等であるかのようにただ言っているのもおかしい。それはそれでメッセージがあるに違いない。もしかすると初期の人間の完全性というのは何か真実を含んでいるのかもしれない。
JRF2025/4/220204
例えば頭の良い人間どうしをつがわせても頭の良い人間が産まれるとは限らない。《イメージによる進化》で述べたように、平均への回帰があるからだ。そういうことがいいたかったのだろうか? しかし、それは家畜でも起こることである。それを越えて人類は家畜を品種改良してきた。
家畜を品種改良したようには、どうも人類を品種改良できないということだろうか? 動かすパラメータが多すぎて、または絶妙過ぎて、動かせない…というのはあるかもしれない。
JRF2025/4/224834
いや、逆に、人類は最高の家畜として産まれたという認識があるのかもしれない。最高に目的に沿った家畜は、その特長をへらさずにただ増やしてその特長を固定化していくことができないという認識があるのかもしれない。
「逆」といったが、これは人類を品種改良できないという認識にもつながる。なぜなら、すでに品種改良されきっていたから。
「人類家畜化計画」などが陰謀論で話題になるが、それは根本的に何かを勘違いしているのかもしれない。
JRF2025/4/226970
現代では遺伝子操作が可能になっている。宇宙へ人類が進出することを考えると、遺伝子操作などの必要もあるのかもしれない。言葉は悪いが、ある種の家畜化を通じた遺伝子操作を受け容れる人類が(再び?)一定期間必要なのかもしれない。
<
JRF2025/4/220865
……。
人種偏見は例えば18世紀のリンネには色濃く見出せる。
>植物の分類で有名なカール・リンネも『自然の体系』(1735)では人種を次のように四つに分類している。
(1)「白いヨーロッパ人 -- 創意性に富む、発明の才に富む……白い、多血質……。法律にもとづいて統治されている」
(2)「赤いアメリカ人 -- 自己の運命に満足し、自由を愛している……。赤銅色、短気……、慣習に従って自らを統治している」
JRF2025/4/229265
(3)「蒼いアジア人 -- 高慢、貪欲……黄色っぽい、憂鬱……。世論によって統治されている」
(4)「黒いアフリカ人 -- 狡猾、なまけもの、ぞんざい……黒い、無気力……。自分の主人の恣意的な意志にもとづいて統治されている」(…)
これが当時の科学的人種主義だが、同じような優越感はすでに古代ギリシアにおいてアリストテレスが『政治学』(七・七)で述べている。
<(p.43)
JRF2025/4/224475
悔やしいがこういう面は今もあるように思う。生物学的というよりは歴史的経緯からそうなっているという面が大きいとは思うけれども。
ちなみにアメリカ人が自由を愛するという面については、リンネの時代から、プラス面の評価もあると思う。グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』([cocolog:94865920](2024年5月))によればインディアンがヨーロッパの啓蒙主義に影響したという話があった。
JRF2025/4/227848
……。
>マックス・ミュラーは1823年、中部ドイツの小公国アンハルト・デッサウの首都デッサウで生まれた。父のヴィルヘルム(1794-1827)はゲーテに私淑し、後期ロマン派の叙情詩人として知られ、ギリシアの独立を鼓舞する詩によって、「グリーヒェ(ギリシア人)・ミュラー」と称された。ヴィルヘルムの詩のうち、「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」などは、フランツ・シューベルトの歌曲にもなっている。<(p.49)
おおー! シューベルトの歌曲。私、好きです。意外なつながり。
JRF2025/4/226804
……。
JRF2025/4/228198
>ミュラーの神話論がもてはやされたのは、19世紀ヴィクトリア朝英国である。当時の英国は、ラテン文明を直接に継承するイタリア、フランスなどと異なり、ドイツとともにギリシア文明の後継者を任じていた。しかるにヘシオドスやアポロドロスに代表されるギリシア神話は、クロノスによるウラノスの性器切断やゼウスを筆頭とするオリュンポスの神々の近親相姦、人間の乙女たちが男神によって強姦される物語などに満ちており、こうした神話のあり方を無理なく説明して正当化してくれる言葉を英国の紳士淑女は待ち望んでいたのである。それが神話を「言語の疾病」として説明してくれるミュラーの神話論だったと考えられる。<(p.56)
JRF2025/4/228899
ギリシアでは、言語がまだ十分に発達してなかったので、自然現象などを「詩的に」「下品な言葉で」表現せざるを得なかったということらしい。
JRF2025/4/229529
……。
フレイザーの『金枝篇』。その金枝はアイネーイスが死の世界へ冒険旅行を試みたとき、巫女の命令で折りとったところの「金枝」で、それは古代ローマのネミ湖で行われていた王殺し的奇習において祭司と一騎打ちを望むものが折る聖樹の枝に等しい…ということらしい。それを中心的議題として、フレイザーは古代文化を語った。
JRF2025/4/224104
>王--祭司--呪術師が一体であった原始の時代とは、呪術→宗教→科学という進化の三段階のうち、呪術段階に相当する人類の原始時代と考えられている(…)。フレイザーは、この呪術段階では、類似は類似を生むという「共感呪術」が信じられていたと説く(第3章「共感呪術」)。つまり王--祭司--呪術師が活力に溢れていれば、それが自然の運行に影響して自然の豊穣や社会の安定をもたらすと信じられていたというのである。
JRF2025/4/221645
これは換言すれば、王--祭司--呪術師の病気や老化が自然や社会の衰退や滅亡につながると信じられていたということである。その結果、王--祭司--呪術師が老いたり病気になると、かれを殺害して活力に溢れた若者を新しい王に選ぶ風習があったとフレイザーは推理する(第24章「神聖な王の弑殺」)。かれの考えではネミの森の王の奇習とは太古の呪術段階に行われていた「王殺し」(regicide)の名残りに他ならない。
<(p.68)
「王殺し」にはそういう「合目的的説明」があるんだね。
JRF2025/4/220648
……。
>デュメジルが著名となったのは、インド=ヨーロッパ語族が「三機能体系」(「三機能構造」、「三区分イデオロギー」、「三区分神学」とも呼ばれる)という固有の世界観をもっていたと指摘した学説によってである。
この説によれば、インド=ヨーロッパ語族はインドからヨーロッパまでの広い地域に拡散しはじめる以前の共住期において、すでに神聖性、戦闘性、生産性という三つの観念が階層をなして世界を構成しているという世界観を保持していた。
<(p.102)
JRF2025/4/226277
私は上で『宗教学雑考集』《三種の神器 - 非定住文化による支配》を引用したが、その部分にあたる論なのだろう。しかし、考えてみると神聖性、戦闘性、生産性を分けるのは現代の感覚からするとあたり前に思えるが、なぜ、その三つを分けるのに、私は『宗教学雑考集』《三種の神器 - 非定住文化による支配》を書いたのか…。
私は、長子制、僧の独身制、適齢期が三種の神器としたのだった。長子制と僧の独身性は一人の中では並び立てるのは無理だから分けるのは当然として、支配の少数性を維持するための適齢期のコントロールが、なぜ独立したシステムと認識されねばならなかったのだろう?
JRF2025/4/228019
おそらく、それは少数者と多数者を分けるという意味での独立性なのではないか? 人種的な分断は、長子制と僧の独身性とはまた別に必要とされたということではないか。それは多数者の維持も意味するから、生産性に相当するのだろう。
JRF2025/4/221756
……。
>デュメジルは、限定された集団(…インド=ヨーロッパ語族…)のみを研究対象としていたわけだが、それでも神話一般にあてはまるような理論上の新知見も二つほど示している。一つは、神話がその他の物語ジャンルに変容する可能性の指摘である。そして二つ目は、そこから展開されたもので、資料を神話に限定せず、儀礼、社会構造、伝説、叙事詩、昔話など異なるジャンルも積極的に取り込んで比較したほうがむしろ有効な場合があるという、神話研究にとってはいささか逆説めいた指摘である。<(p.116)
JRF2025/4/227019
デュメジルは、比較神話学では古い資料が必ずしも最善ではない(p.93)と主張した。収集された年代が新しくても、古いテーマを残していることがままある…ということらしい。だから、神話とは異なるジャンルも積極的に取り込もうとしたようだ。
JRF2025/4/221197
……。
橋爪大三郎『はじめての構造主義』を読んだ([cocolog:94448858](2023年10月))ときも、レヴィ=ストロースの神話素に分ける話は出てきた。神話素に分けたとき、二項対立が重層的に起こるのがキモのようだ。そこから見出される構造には、矛盾の深刻さを柔らげる機能がある…とするようだ。
>こうして神話は矛盾を複数並列することによって、より問題となる方の矛盾の深刻さを軽減するものであり、「神話の目的」は、「矛盾を解くための論理的モデルの提供にある」とされる。<(p.137)
JRF2025/4/221600
たとえばオイディプス神話の場合、背後に「人間は土から生まれた」という信仰と「人間は男女の結合から生まれた」という信仰がある。その信仰の「矛盾」の並列を許すために、「人間は土から生まれた」という信仰自身の矛盾表現である「土から生まれる怪物」の存在とその退治という否定が語られる。一方、「人間は男女の結合から生まれた」という信仰自身の矛盾表現である「近親相姦(社会の掟が許し以上の親密表現)」と「肉親殺し(社会の掟より切り下げられた親密表現)」が語られる。…ようだ。
JRF2025/4/227627
>神話は、人間にとって解決が困難と感じられる根源的な対立や矛盾を、媒介となる観念を用いて無化しようとする論理操作であるという説明が提案される。(…)こうした神話の存在理由は、構造言語学には由来していない。レヴィ=ストロース自身の発案なのである。<(p.157)
JRF2025/4/226936
……。
>レヴィ=ストロースは、神話的思考は現代の科学的思考と対象が異なるだけで、その論理性に違いはないとするのである。<(p.138)
「神話的思考」「具体の科学」「野生の思考」などがキーワードとなる。
JRF2025/4/228887
……。
>エリアーデが「近代社会」という語で何を意味しているのかも明らかになる。かれのいう「近代社会」とは欧米のキリスト教社会だったのである。<(p.176)
ミルチア・エリアーデ『世界宗教史 全8巻』を読んだ私は、エリアーデにキリスト教中心史観は見出せなかった。私の読みが甘いのかもしれないが、ヨーロッパの学者に多少キリスト教の影響があるのは当然で、松村さんは、欧州の学者にキリスト教中心史観を見出したいという欲求がバイアスとなっている部分も少しはあるのではないか?
JRF2025/4/229617
……。
>キャンベルは、深層心理学の立場をとる神話学者としての顔の他に、もう一つの顔をもっている。そしてそのことが、かれの神話学を学術的に評価するのを難しくしているのである。
もう一つの顔とは理想主義である。神話はこうあってほしいという願望が実際の神話には語られていないと思われるものまで読み取らせてしまう傾向があるのだ。
<(p.194)
JRF2025/4/220964
ちょっと関係ないことから語り出すが、このところ仏教書をいくつか読んできて、その原始仏教への憧憬はなぜかと考えた。
人に話を聞かせるには権威が必要だというのは、本が売れない私は痛感している。権威主義はある程度必要なもので、学者というのは、権威を文献に求める。普通人が読む時間を作れないことが、学者に優位性をもたらす。当然、初期原典を原語で読むのが権威の第一になるのだろう。だから学者はつい原始仏教を第一と考えてしまうに違いない。
JRF2025/4/225357
ただ、それ以外に権威の出どころを持つことも不可能ではない。私はシミュレーションのプログラムに権威付けを依頼しようとしたことがあった。
JRF2025/4/223850
『宗教学雑考集』《第2章のリード》
>数学には証明があり、科学には実験があり、考古学にはフィールドワークがあり、宗教学には古典原文の探求または浩瀚[こうかん]な文献知識がある。そういった「根拠」は基本的にこの『宗教学雑考集』にはない。しかしあえて挙げるなら、「シミュレーション仏教」の枠組で行ったプログラムの作成と実験が私独自の根拠・強みとなるだろう。私にとって大切な作業だった。ここが私にとっての新たな出発点とも言えるだろうから、説明が長くなる。<
JRF2025/4/221673
キャンベルさんは、流行に・世の流れとともにあることにも権威の出所を置いているのかもしれない。それは集合的無意識を大事にすることでもあって、「実際の神話には語られていないと思われるものまで読み取らせてしまう傾向がある」というのは、集合的無意識を読み込んでいるという側面もあるのだろう。
集合的無意識にも根拠を置くというのは、実際の信仰現場にあるような仏教などの宗教においても大切なことだろう。文献に権威を置くだけではいけない、人々は付いていけない。
JRF2025/4/221089
……。
>こうして見ると、キャンベル神話学は宗教に限りなく近い。無意識とのつながりを失った現代人の魂を神話によって救済しようとするキャンベルは、ある意味では「神話」という「宗教」の教祖や伝道師の相貌さえ帯びている。
対談『神話の力』の第1章「神話と現代の世界」で、キャンベルは、われわれが内面的な価値の重要さを忘れ、生きているという実感をもつ喜びを忘れている、と指摘している。
JRF2025/4/227770
たしかに思い当たる現代人は少なくないだろう。そしてホスト役のモイヤーズが、「そういう経験はどうしたら得られるでしょうか」と尋ねると、キャンベルは次のように答えるのだ。
「神話を読むことです。神話はあなたに、自己の内面に向かうことができるのだ、と教えてくれます。そのおかげであなたは象徴のメッセージを受け始めるのです。(中略)神話のおかげでようやく、いま生きているという経験と関わることができる。それがどんな経験かを、神話は語ってくれます」
JRF2025/4/222138
これは自己の内面を充実させるには確かに楽な方法である。既成宗教のように信者となり、行事に参加し、献金や奉仕活動をし、生きる実感と引き換えに、なにがしかの生活の束縛を受け入れるのでもなく、自由気儘に生きていても、神話を読むだけで魂の救いに到達できるというのだから。
<(p.196-197)
JRF2025/4/228130
この点、「シンクレティスト」の私は反省すべきだろう。宗教書を読んで、献金等をやらずに魂の救いだけを見出している状態なのだろう。申し訳ない。かといって、今さら特定宗教に熱心に通うというのも、心情的に難しいのだが…。
JRF2025/4/226442
……。
本文の内容は1999年のもので、そこから約20年たって文庫版が出た。その間にあった大きな出来事の一つとしてヴィツェルの世界神話学にも言及している。
JRF2025/4/221868
>遺伝子学的人類史とビッグデータ活用の神話学を代表するのはアメリカのインド学者マイケル・ヴィツェル(1943-)とロシアのアメリカ学者ユーリ・ベリョーツキン(1946-)である。遺伝子解析によって現生人類がアフリカから出て全世界に拡散していった過程がかなり正確に復元されている。また神話モチーフの世界規模での分布状況についても膨大なデータの蓄積が可能となっている。これら二つのデータを重ね合わせることで、現生人類がいつごろ、どこで、どのような神話モチーフを持つようになったのかが実証的に証明されることになったのである。
JRF2025/4/223729
彼らの神話学的手法は「世界神話学」と通称されている。その理論については『世界神話学入門』(後藤明、講談社現代新書、2017)が分かりやすく説明しているので興味を持たれた読者は参照されたい。
<(p.234)
JRF2025/4/220356
宗教学に関心があり、後藤明『世界神話学入門』と松村一男『神話学入門』を読んだ。
宗教学への関心から、私は3月11日に↓という本を出した。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。というか、上の本に合わせて、私の本を引用していくのがこの「ひとこと」のメインである。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
JRF2025/4/226465