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cocolog:95433263

厳復『天演論』を読んだ。天演とは進化の意。日清戦争後の中国で受容された国際関係の優勝劣敗の原理としての進化論の書。優生学的主張や社会進化論といった現代ではおおっぴらに語られにくい思想にも触れられている。 (JRF 5444)

JRF 2025年5月 6日 (火)

『天演論』(厳 復 著, 坂元 ひろ子 & 高柳 信夫 監訳, 岩波文庫 青235-1, 2025年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003323513
https://7net.omni7.jp/detail/5111524938

原著、厳復『天演論』は 1898年刊。

JRF2025/5/62616

原著は、トーマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henriy Huxley)の進化に関する論文『Evolution and Ethics: Prolegomena (1894)』と『Evolution and Ethics: The Romanes Lecture (1893)』の中国語への翻訳ではあるのだが、かなり自由な訳らしく、厳復の意見が節ごとに付けられていたりする。しかし当時、格調高い文章で、中国の知識人に多く読まれたという。

JRF2025/5/66962

「天演」とは厳復の訳で「進化(evolution)」のこと。「天択」は「自然淘汰」で「物競」は「生存競争」らしい。ただ、そういう用語も日本語では現代風に訳されてたりカッコ付きの説明があったりして、読むのに支障はない。

なお、ディストピア小説の傑作『すばらしい新世界』(参: [cocolog:89997835](2018年9月))を書いたオルダス・ハクスリーは、トーマス・ヘンリー・ハクスリーの孫らしい。

JRF2025/5/68771

……。

私は、宗教学への関心から、私は3月11日に↓という本を出した。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。創造論・進化論の哲学的側面に絡めて語っていくことになる。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/5/68690

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/5/60122

進化に関してはたまたま↓というシミュレーション・プログラムを最近 Python で書いた。まぁ、今回との関連は少ないが、いちおう紹介しておく。

[cocolog:95428644](2025年5月)
>Grok さんに教わりながら、ウィルスの弱毒化のシミュレーションと、病痕を美的に評価する集団の実効潜伏期間が短縮されるよう性選択されるというウィルスと人類との共進化(?)シミュレーションを作った。<

JRF2025/5/66329

……。

それではいつも通り引用しながらコメントしていく。今回の『天演論』はごく最近に出たものなので、業務妨害や著作権侵害等で私が訴えられないよう、ここを読んで少しでも興味を持った方は、『天演論』をご購入していただき、応援していただければありがたいです。

JRF2025/5/61029

……。

ではまず哲学書の慣例として、訳者解説から読んでいく。

日清戦争後の中国では、『天演論』の進化論は細かい部分よりも、その「優勝劣敗」という図式が国際関係のリアルとして受け容れられていったのだという。

JRF2025/5/63445

>確かに、日清戦争敗北後、強烈な亡国の危機感を抱いていた中国の知識人たちにとって、「優勝劣敗」という図式は、当時の中国の置かれた状況を読み解く上で極めて強烈なリアリティーを持つものであった。かくして、『天演論』は、中国の改革のための指針として、単なる学術書の枠を超えたベストセラーとなり、以後、およそ中国の変革を目指す者にとって、『天演論』によって紹介された進化論、特にその社会進化論的側面は、それぞれの政治的立場を超えた共通の思考枠組として、圧倒的な影響力を持つこととなった

JRF2025/5/65795

(他方で、厳復がスペンサーの進化思想を『易』の概念を用いて解説していることからも推測されるように、中国の伝統的な宇宙観と進化論との間には一種の親和性があり、西洋のように進化論に対する拒否感が生じにくかったことも考慮する必要があるだろう)。
<(p.380, 解説)

JRF2025/5/62924

……。

>厳復は「翻訳凡例(p.33)」で、翻訳において留意すべき点として「信(原文の意味を正確に訳文に反映すること)」「達(訳文が中国語として読者にとって分かりやすいこと)」「雅(訳文が中国語として格調高いものであること)」という三つを提示した。

JRF2025/5/65648

(…)

では、この「信・達・雅」という基準からみた場合、厳復自身の訳書はどう評価されるだろうか。魯迅の「翻訳に関する通信」(1931年)での議論にしたがえば、『天演論』は「信」を犠牲にして「達・雅」を追求したものであり、その文体は桐城派の古文の規範に即していて、当時の中国の古典的素養を持った知識人にとっては理解しやすかったという。他方で、魯迅によれば、厳復は、『原富』(…アダム・スミス『国富論』…)以降の訳書では「信」を「達・雅」より重視する方向に軌道修正していったとも評されている。
<(p.381-382, 解説)

JRF2025/5/61388

文を書くとき、雅を重視するというのが、私の意識にはないかな。私はもっぱら「達」を重視しているのだけど、他人の目を経ていないので、読みにくいこともしばしばで、それを「雅」と言い訳するぐらいのものだろうか。まったく「雅」ではないのだが。

JRF2025/5/60780

……。

では、最初に戻って…。

JRF2025/5/60316

……。

「天演」だけでなく人が自然を制御する「人治」も大事だという方向もあってそれが対置される。それはハクスリー氏の方向でもあるのだが、ただし、「人治」も「自然」の働きの中にあることは忘れてはならない。…と、厳復の友人・呉汝綸はいう。

>もっとも、人が自然と争い、自然に勝利するというのもまた自然のはたらきに含まれるのであり、よって「天行(自然の運行)」と「人治」とはともに「天演(宇宙自然の進化)」に帰する。<(p.16, 呉汝綸序)

JRF2025/5/64409

……。

『易経』は「物理学」の書である…みたいな「たわごと」はたまに見たことがある。ただ、具体的に『易経』のどの部分をさして「物理」と言ってるのか。それがハッキリ示されている部分がこの本にははじめにあった。貴重だと思うので少し長くなるが引用しておく。

>この200年、ヨーロッパの学術の繁栄は、古代をはるかに超えており、そこで得られた論理や法則はどれもこれもこのうえなくすばらしく、ゆるぎないものとなっている。ただわが古人が得たものは、しばしばそれに先んじている。これはなにもこじつけや自慢で言うのではない。ためしに明明白白で欺きようのないものをあげて、世に問うてみよう。

JRF2025/5/61832

そもそも西学[西洋の学問]のうち、最も切実で、その法則によって[事物の]変化を制御できるものは、名学[論理学]・数学・質学[化学]・力学[物理学]の四者にほかならない。わが『易』はというと、名・数を経[たていと]、質・力を緯[よこいと]とし、合わせて「易」と名付けた。

JRF2025/5/68201

大宇宙の中で、物質と力は相関しており、物質がなければ力はあらわれないし、力がはたらかないことには物質は形をあらわしようがない。およそ力はみな「乾[けん][『易』64卦の最初の卦で、天を象徴し、活動性を示す]、物質はみな「坤[こん]」[『易』最後の卦で、地を象徴し、静止性(安定性)を示す]である。

JRF2025/5/63058

ニュートン[Isaac Newton, 1642〜1727]の運動法則には三つある。第一が「静止しているものは自ら動かず、運動しているものは自ら静止することはない。運動の方向は必ず直線であり、速度は必ず一定である」というものである[慣性の法則]。これは未曾有の創見というものである。この法則が発見されてから天学[天文学]が明らかとなり、人間社会に利がもたらされた。だがわが『易』はというと、「乾は静止しているとき専[いちず]であるが、運動すると直[まっすぐ]になる」[『易』繋辞上]と述べていたのである。

JRF2025/5/65258

ニュートンのあと200年してスペンサー[Herbert Spencer, 1820〜1903、イギリスの哲学者・社会学者]があらわれ、「天演」のはたらきで変化を説明し、書を著し立論し、天地人を貫いて、これを一つの理にまとめた。これもまた近年の大傑作である。彼は天演を定義してこう述べた。「翕[あつ]まって質を合し、闢[ひら]いて力を出す。始めは簡易[単純]だが、終わりは雑糅[ざつじゅう][複雑]である」と。一方わが『易』といえば、「坤は静止しているときは翕[あつ]まり、運動すると闢[ひら]く」[『易』繋辞上]としている。

JRF2025/5/61461

エネルギー不滅の説に関しては、「自強して息[や]まず」[『易』乾]のほうが先であり、作用・反作用の説には、「消息」[「天地の盈虚[えいきょ](充ち欠け、盛衰)、時とともに消息す」『易』豊]の考え方が早くからある。さらに「易、見るべからざれば、乾坤あるいは息むにちかし[易が機能しなくなれば、天地陰陽の変化はなくなったも同然である]」[『易』繋辞上]の意味は、とりわけ「熱力が均衡すると、天地[陰陽による変化]は壊れる」という説と照応している。

JRF2025/5/64796

これらはすべて偶然の一致といえるだろうか。とはいえ、こうしたことから、西洋での発見はみなわが中国に前からあったといいはり、はなはだしくは西洋の学はみな東から伝わったものから出ているとさえするのも、事実と関係なく、まさに自らの偏見にとらわれた説である。そもそも古人が端緒を開いたのに、後人がそれを成就できず、古人が大要を示したのに、後人がその精細なところまで議論できないのなら、無学の未開の民と同じである。父祖が聡明でも、子孫の愚昧無知を救すすべはない。
<(p.26-28, 『天演論』自序)

JRF2025/5/62752

先に私は「たわごと」と書いたが、ここを読んでどう思うかは、人によるだろう…。

JRF2025/5/67733

……。

>格物致知 もと『大学』に由来する語。「格致」とも略称される。様々に解釈される語だが、朱熹(朱子、1130〜1200)によれば「物に格[いた]り、知を致す」、つまり事物に宿る理を究明して知を推し極めることだと解される。認識面を重視するこの方向の解釈の延長上において、後に科学的思考をも意味することになった。<(p.30, 『天演論』自序 注)

「格物致知」とは「科学研究」…と。高尚な言い方だね。

JRF2025/5/69710

……。

本文(導論)に入って…。

すべては変化するしかし変化しないものがあるとすればそれは「進化の法則」ということのようだ。

>自然の流れは変化するものだとしても、不変なものがその中ではたらいている。不変なものとはなにか。これを「進化[天演]」と名付ける。<(p.49)

仏教書を最近読んで考えたことだが(参: [cocolog:95366963](2025年4月)・[cocolog:95349479](2025年3月))、「諸行無常」という真理は、仏教的真理・法則にも適用されるのではないか。

JRF2025/5/66569

「諸法無我」という真理もまた無常であるとすれば、アートマンの存在もありうるという話になりうる。それはおかしいと思うかもしれないが、しかし、涅槃を遂げた「我」…それを「我」と呼ぶべきかはわからないが…それはアートマン「的」ではあったのであった。

JRF2025/5/69643

同様に「諸行無常」自身に「諸行無常」適用すればどうなるか。それは常にある法則があるということになる。それはつまり「諸行無常」が常にある法則ということになるだろう。しかし、それ自身が常にあるというなら、それは「諸行無常」に反している。これは矛盾なのだ。だが、矛盾がしばしば重要な役割を果たして生成されうるのが「リアル」であるというのも真理のように思う。(あくまでも「無常」は「諸行」について言ってるのであって、「諸法」については言っていない…という者も多いかもしれないが、私はそう解釈したい。)

JRF2025/5/61852

「進化」は進化自身に反しているわけではない。常に「進化」という概念も進化していくとするのだろうから。「遺伝子」が DNA だけでなく、DNA に新しく付加されたものが遺伝子となるような進化もこの先あるのかもしれない。AI が人を超えて支配していき、AI と人との合同体が人という「遺伝子」を抱えて発展していくのも新たな進化なのかもしれない。

JRF2025/5/60328

……。

>それゆえハクスリーは次のようにいう。昔は、大地は動かず、宇宙の中心にあり、太陽や月や星が周囲を回っていて、地球こそが主たるものだと考えたが、コペルニクスが現れて、地球は本来惑星であって、太陽の周りを動いているということが分かった。昔は、人類は他の生物から抜きんでたもので、神をかたどって作られていて、他の生物とは全く異なると考えたが、ダーウィンが現れて、人類は進化の中の一つの段階で、変化しながら進んできたもので、将来どうなるかはこれからのことであり、キリスト教の[神が人類を]土から作ったという説は、全く信じられないということが分かった。<(p.52)

JRF2025/5/69051

地動説と進化論。この点、私は少し違った意見を持っている。

まず地動説について。

[cocolog:95349479](2025年3月)
>私は天動説が間違っているとは思わない。地動説は太陽を固定化して考えるが、実は宇宙においては太陽も動いている。太陽の固定も近似でしかない。近似でないものをあくまで厳密に考えたいなら、視点を中心に固定する天動説的見方は一貫性はあると言える。そこから観測できるものは複雑になるが。<

JRF2025/5/67070

次に進化論について。

『宗教学雑考集』《創造論と進化論》
>進化論が認められた現代。旧約聖書『創世記』のアダムとイブの話などを科学の側は笑う。実際、『創世記』などの創造論を信じるとしても、そもそもの『創世記』の中に、例えばカインの妻がどこから現れたかとか、ノアへの命令と実行が微妙に違うとか、いろいろ矛盾もある。

JRF2025/5/65382

しかし、いくら科学の証拠が挙がろうと、世界五分前仮説を信じることができるのだから、根本的なところで創造論を信じることもできる。そういう聖書に基づく創造論の場合、人類が生まれたのは 6000年前などになる。そこで創造が終ったのではなく上のバベルの塔の話のように改変的創造が続いていると考えることもできる。

そういう創造論においての問題は、なぜ、そのような創造や改変を神がしたかという神の目的論である。神の目的がはっきりしているなら、創造には何の問題もない。なお、仮に目的がわからなくても、そのわからないことが神の偉大さを指し示すことになる。(《易の小集団主義》でも似たようなことを述べたが。)

JRF2025/5/69059

もちろん、科学の側も、創造論が作られるようになった背景に聖書などの創作者の目的があったことに思い至れば、目的論がほぼ常にできるのも納得できるだろう。科学の側は、創作者だけでなく、それを引き継いできた人々の集合的無意識を無視しがちなことに留意すべきである。

JRF2025/5/65356

現代、進化論のほうが証拠がいろいろ積み上がっていることについては、創造論者も心穏やかではない。しかし、それについても、創造論を信じる側は、進化論が正しく見えることもそう見せることで神が何かを伝えようとしているという目的論を介してそれを受け容れることができるのだ。そうとはいえ、進化論を目的論のフィルターで見た場合、それはとても競争主義的な価値観を持っている。

JRF2025/5/67147

それを嫌うなどして、進化論は創造論を否定するための嘘、または悪魔の導きだと進化論を否定することはあいかわらず可能である。創造論者の多くは、「仮説としての進化論」でも説明できるように神は(再)創造したと考え、進化論が広まったからには進化論だけでも十分に生き残れる社会になるのか、不安に思いつつ、見守っているのかもしれない。

JRF2025/5/66588

……。

>進化の説に拠れば、インドやイスラーム、ユダヤといった諸宗教のいうような「神による創造説」はいずれも成り立たない。<(p.60)

いや、進化が起きるということと、宇宙の始源がどうなっていたか…ということはほぼ独立に議論できるだろう。無のようなものから進化して宇宙はこうなったという議論ができるとしても。円環のような創造も「ありえない」とまでは言えないと私は考える。

JRF2025/5/63397

『宗教学雑考集』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。

「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。

JRF2025/5/61585

しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。

JRF2025/5/63272

少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。

結局これはどちらもありうる話なのだと思う。

JRF2025/5/66708

しかも、忽然と創造される話に過去の創造が出てきたが、過去を未来につないで円環にすることも考えれるかもしれない。いろんな時代の創造が円環のように閉じる。円というのは放射上に向こう側に線を引くこともでき、その線に沿って、例えばあるところの色が逆になった上で別のところの音楽になるといった影響のしかたもあるかもしれない。それは十二支のように規則的に並ぶかもしれないし、十二星座のように大きかったり小さかったりする「時代」が並ぶかもしれない。円環が何度もまわりながら、線を太くするように創造がなされていく…。それも不可能とまでは言えないだろう。

JRF2025/5/68481

……。

>スペンサーによる進化の定義はこうである。「進化とは、「翕[あつ]まって質[物質]を聚[あつ]め、闢[ひら]いて力を散ずる」[『易』繋辞上伝をふまえる]ということである。進化がはたらくとき、物は単純から複雑へ、流動から凝固へ、混沌から画然[はっきりと区別のある状態]へと移行し、物質と力がまざりあい、相互の均衡の中から変化が生じる。」<(p.62)

JRF2025/5/68406

そして、厳復は、「翕[あつ]まって質[物質]を聚[あつ]め」・「闢[ひら]いて力を散ずる」「単純から複雑へ」・「流動から凝固へ」・「混沌から画然へ」・「物質と力がまざりあい、相互の均衡の中から変化が生じる」…をそれぞれ論じる。

「単純から複雑へ」というのはエントロピー増大則(熱力学第二法則)で、「流動から凝固へ」というのは、「温度」(温度はいろいろ定義できるが)が低くなることではあるだろう。

JRF2025/5/65315

>「単純から複雑へ」・「流動から凝固へ」ということのみを語って、「混沌から画然へ」を言わないでいると、[唐代の]劉[劉禹錫[りゅううしゃく] 772〜842]・柳[柳宗元 773〜819]の「[天地万物の根元である]元気が衰えると、悪性のできものや痔ができる」という説[「天論」・「天説」]のような、病的で逸脱した状態のものでもすべて、進化と名付けてよいことになってしまうだろう。<(p.65)

JRF2025/5/67668

「混沌から画然へ」は、画然としたものが生き残る…という感じか。遺伝子の情報による秩序だった成長に基づく遺伝の意味か? 植物の成長が他者を極力排除して実を付ける…そういった画然とした様が生物の基礎にある…といったところだろうか。

JRF2025/5/67886

……。

>進化がおこっている以上、[変異、淘汰、競争の]三つの法則は一つもないがしろにはできない。変異が無く、淘汰が無く、競争が無い、一つでもそうしたことがあるなら、それはわれわれが今いる世界ではないのである。<(p.72)

変異・淘汰・競争が、進化の三つの法則。先日、シミュレーションをしたとき「いっぱい殺して(淘汰させて)」、そうすることで進化が起きるのをハッキリさせたことがあったのを思い出す。

JRF2025/5/63306

……。

>スペンサーの「自然に任せるという説」<(p.93)

それは単純な弱肉強食ではない。戦略を立てること、社会集団になりやすいように規律を守ること…そういったことも一種、自然が求めることであり、そういったことが求められるのも含めて「自然に任せる」ということのようだ。

JRF2025/5/61567

……。

動植物の生存競争に相当するものを人為で行うことはできる。その人為淘汰…

>人為淘汰をして効果を上げるためには必ずその物の性質をよく理解しなければならない。ああ、これこそまさに人口を増やし、富強を実現するための秘術であり、軽率な者には語らぬよう、慎重でなければならない。<(p.99-100)

JRF2025/5/66662

『宗教学雑考集』《ヤコブの一神教》でも取り上げたが、人為淘汰はとくに家畜を品種改良していたころは常識ではなかったか。でも、その後のキリスト教が進化に驚いたことを考えると、その知識はかなり失なわれていたのかもしれない。主にそれが人という種に適応されるのを恐れたからだろう。それが「秘術」とするゆえんか。

JRF2025/5/66091

ただ、それだけでなく、現代、生命科学が発達し過ぎて、そういう優生学的考えがある程度常識になってしまっているという側面もあるのかもしれない。もちろん、優生学そのものは否定されたが、生物の種を選択的に扱うというのは、普通の人でも受け容れるようになっている。それは厳復の時代にはそこまで常識的ではなかったとも思われる。

JRF2025/5/65100

……。

>聖人は、人を治める人が、本来、治められる人から出ることを知っている。あくどくてずる賢い民からは清廉で公正な役人は現れず、怠惰な人びとからは英明勇敢な君主は生まれない。ゆえに大いなる統治の隆盛を望むのであれば、民力・民智・民徳の三者のうちに必ず根本を求めなければならない。

JRF2025/5/68607

そこでさらに各種の学校を作ったのである。各種の学校の制度が整ってこそ、智・仁・勇[『中庸』をふまえる。人がいかなる場合にも常にふみ行うべき三つの徳]をそなえた民が育成され、智・仁・勇をそなえた民が生まれれば、社会が一致団結できるようになり、そうしてのち、その国はひとたび富めば貧しくなることはなく、ひとたび強くなれば弱くなることはない。ああ、国の統治はこのような段階にいたってこそ十分なものとなるのである。

JRF2025/5/67294

(…)

このような社会は、古今の世の中には存在したことがないもので、それゆえにユートピアと呼ぶのである。ユートピアとは「そのような国はない」ということであり、想像上にのみ存在するものである。しかしもし後世においてユートピアが本当に出現するとしたら、それをもたらすのは、あるがままの天行に任せたからではなく、人治において尽力したからであることは、はっきり理解できるのである。
<(p.110-112)

JRF2025/5/68918

後の部分で、人口が増え過ぎれば争いが起こることも聖人は知っていると厳復はするが…、だからこそ聖人自体が、理想にしか存在しえない存在なのだろう。

最近では AI の支配により人が労働から(資本家の仕事からも)解放される…というビジョンが語られることがある。私もそれにあてられたクチだが。そういったのも昔で言えば、ユートピア思想なんだろうね。やはりそのままの意味では実現可能性がないものなのだろう。

JRF2025/5/61522

……。

>イギリスが行った[輸出入にかかる]税をなくすことなどは、経済学をよく理解する者がそれを主張して久しかったが、結局誰も実行できなかった。<(p.114)

関税をなくしてじゃあ消費税にするのが正しいのか…というと違うのだろう。本来は所得税と法人税と固定資産税がメインの、日本の戦後直後のものこそ、「経済学をよく理解する者」が望んだものなのだろう。

JRF2025/5/69088

消費税は逆進性が高いが、地租の代わりとして出てきた法人税の代わりとして出てきたため、固定的な収入が求められ、それが生活費部分の消費税に相当するため、逆進性の解消ができない。そこが、経済学者から見ても「非効率」となる面が大きかったのだと思う。

JRF2025/5/60844

この点、法人税総額をそのままで法人税率を上げるのがよい…とか、能登や福島など細かく消費税を安くするのはトランプ関税の発想に通ずるがアリではないか…とか、私にはいろいろ意見があるのだが、それらは「グローバル共有メモ」(または Twitter (X))を見ていただきたい。AI さんたちともしきりに論じてはいる。ただ人にも AI にも共感を得られたことはない orz。

JRF2025/5/61986

……。

人為淘汰を人に適用するという考えについては忌避せずちゃんとこの本にも出てきた。

JRF2025/5/64902

>「人も生物の一種であり、[他の生物と]知能の水準がかけ離れているとはいえ、身体の方は、その種を伝え繁殖させていくにあたって、「生まれた者は先祖に似ているが、世代を経るごとに少しずつ変わっていく」[変異]という点では、各種の動植物と何ら異なるところは無い。今[人為淘汰という]私の方法は、これを植物や動物に適用して大きな効果があがっているのだから、これを人類に応用しても、有効でないはずはなかろう」。

JRF2025/5/61466

こういうと、彼の主張は人を驚かせるもののようだが、このことについては成果があがるように求めていけば、確かに必ず結果は出るだろう。ただ[問題は]、この[優れた種]を選択し、[その種を]残すという作業は、いったい誰にさせるのかということだけなのだ。
<(p.122)

人は社会的な動物で後に出てくるが共感を大事にする。そういった種で、優れた者だけをつがわせるというのは、人の社会的な種としての性質に反しているという矛盾もある。ならば、それに反して人為淘汰するのは進化にならない…といったような見解ものちに示される。

JRF2025/5/66777

私はこの点は「人はそもそももっとも優れた家畜」であるから、それ以上改善しようがないのかもしれない…という論を出して煙幕を張る。人は家畜に人為淘汰を適用する前にまず自らに最高に適用したのではないか…と。

『宗教学雑考集』《人類の完全性》
>家畜を品種改良したようには、どうも人類を品種改良できないということだろうか? 動かすパラメータが多すぎて、または絶妙過ぎて、動かせない…というのはあるかもしれない。

JRF2025/5/69907

いや、逆に、人類は最高の家畜として産まれたという認識があるのかもしれない。最高に目的に沿った家畜は、その特長をへらさずにただ増やしてその特長を固定化していくことができないという認識があるのかもしれない。

「逆」といったが、これは人類を品種改良できないという認識にもつながる。なぜなら、すでに品種改良されきっていたから。

「人類家畜化計画」などが陰謀論で話題になるが、それは根本的に何かを勘違いしているのかもしれない。

JRF2025/5/60029

現代では遺伝子操作が可能になっている。宇宙へ人類が進出することを考えると、遺伝子操作などの必要もあるのかもしれない。言葉は悪いが、ある種の家畜化を通じた遺伝子操作を受け容れる人類が(再び?)一定期間必要なのかもしれない。

JRF2025/5/67608

……。

ハクスリーが共感が人類を形成した的なことをいうのに対し、厳復はそれには同意しない。

JRF2025/5/64671

>人が分散の状態から社会の段階に進んだのはもともと安全と利益のためであり、そのはじめは禽獣など下等な動物と同じであって、決して共感によって成立したものではない。社会の成立が安全と利益のためである以上、進化のはたらきは社会を形成できるものを生き残らせ、社会を形成できないものを滅ぼすし、社会をうまく維持できれば生き残り、社会をうまく維持できなければ滅びる。社会をうまく維持できるようにするのは何か。それはうまく共感しあうことである。そうすると、うまく共感しあうという性質は自然淘汰が行われた後のことであって、最初からこのようだったわけではないのだ。<(p.145)

JRF2025/5/69890

この点は厳復が正しいと思う。ただそれはそれとして、共感が大事だという点、私は異論というか別の考えを持っている。

共感というのは、ハクスリーなどによると、親切だけでなく嫉妬や恥辱も含まれるので、少しズレはあるのだが、だいたい隣人愛のようなことを言っているとここではする。

JRF2025/5/63021

私は隣人愛というのを、有神論の基本定理というところからだいたい導き出せるとしている。有神論の基本定理は因果応報の神(または摂理など)を必要とする。「共感」に神の「跡」を私は見るのだ。言ってみれば、「神」という発明があって、「共感」が「社会」が可能になったのではないか…と見ているわけだ。多少社会性のある猿に神はなくとも、人は神を作ったから高度な社会・共感システムを築くことができたのではないか…と。

ハクスリーや厳復のころは進化論の衝撃で、過度に無神論的な考えに傾き、共感を基礎とするしかなかったのではないか。現代は、そこに「神の発見」があったことをむしろ認めるべきではないだろうか。

JRF2025/5/69711

現代は、法が支配しているから「因果応報」は神がなくとも人々はだいたい信じられるようになっている。だから神が見えなくてもそれなりに共感システムを維持していけている。しかし、そのそもそもに「神の発明」がかかわっていたなら、それを認めずまったく忘れてしまうのも危険なことのように私は思う。

『宗教学雑考集』《有神論の基本定理》
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。

JRF2025/5/69914

…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。

善いことをすることには、個人に直接的に報いがあるとはとはいいがたいが、ある意味間接的に、全体効果としては、良い報いがある。…ということである。

例えば、災害が起きたときにその災害が人間の悪の結果起きたと考えるのはほぼ間違いだとしても、人間が因果応報を信じて、善い行い…災害後の統率の取れた行動のような無意識的なものや災害準備のような意識的なもの…をし続けていたことで、個々に不満はあるかもしれないが、大きく見ればその被害がマシになることはある。そういう面では、因果応報は認めうる。

JRF2025/5/69736

『宗教学雑考集』《律法や戒律による救い》
>《有神論の基本定理》にことよせて考えると、「神を愛する」のは、因果応報の神が確かにいると人々が思うためであるとできる。また、それは集団として良いことのためだから、集団であることすなわち「隣人を愛する」ことが必要になるとできる。

これは《有神論の基本定理》が「神を愛し隣人を愛する」よりも先にある・後者は前者から出る…という主張ではなく、《有神論の基本定理》は「神を愛し隣人を愛する」と両立する・矛盾しない・consistency がある…それが簡単に確認できる…ということだ。ただ、《有神論の基本定理》は「神を愛し隣人を愛する」に近いとは主張する。

JRF2025/5/61951

……。

>「恕」(…思いやり…)の道は、民と民の間では使えても、国と国の間では使えない。なぜだろうか。民には[その上に]さらに国家の法律があって、民のために公平・公正を実現してくれるが、国となると、[その上に立って]公平・公正を実現してくれる者が誰もいないのである。<(p.152)

「神」の発明のあと法を作ることで民の間での因果応報はだいたい実現されるようになった。しかし、国と国の間にはまだそれが不十分である。…と。

JRF2025/5/67875

>最近のヨーロッパで富強が実現していることについて、学識者はみな経済学のおかげだとしている。経済学はアダム・スミス氏に始まるものである。そこにも最も重要な原理があり、「大きな利潤が生まれるところには、必ず双方に利益がある。他人に損をさせて自分を利していはいけないし、自分が損して他人を利するのもいけない。下の者に損をさせて上の者を利してはいけないし、上の者に損をさせて下の者を利してもいけない」と述べている。<(p.152-153)

JRF2025/5/67185

win-win の関係でないといけない。…と。しかし一見 win-win に見えても外部不経済があること…たとえば環境破壊など…が多いというのが最近の考え方ではないだろうか。

JRF2025/5/64643

……。

人治はしかし人口過多に行き詰まるというのが、ハクスリーの論である。イギリスなどが当時うまくやってるように見えるのは、過多な人口を海外に移民させてるからだ…と。

>ハクスリー氏のこの書の要旨は、生存競争をわざわいの根源とし、人治は最終的に人口の過多に行き詰まるとするものである。この点こそ彼の持論がスペンサー氏と大いに異なっているゆえんであり、[ハクスリーは]社会の理想的な状態など存在しないのだと主張する。スペンサーはといえば、どれくらいの速さかは分からないものの、人間は必ずや完全な理想社会に至ると考える。<(p.160)

JRF2025/5/68173

私は『宗教学雑考集』第2章でも紹介する『「シミュレーション仏教」の試み』において、仏教的社会の本目的三条件として「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」という枠組みを挙げた。その中の「来世がないほうがよい」には、「堕胎」の緩やかな是認があるとしたのだった。戦争に比べてそのほうがマシだと。

JRF2025/5/63497

ただ、そういう直接的な方策は、厳復などは考えに浮かばないフリをするようだ。それは彼らが「堕胎文化」ではなく「捨て子文化」だからなのかもしれない。(「堕胎文化」「捨て子文化」については『宗教学雑考集』《定住文化と非定住文化 - イザナギの冥府降り》に書いてある。)

「堕胎」を認めないなら、スペンサーは何をもって、人口過多が解決するとするのか?

その前にそもそも人の生存競争そのものには良い面もあるという。

JRF2025/5/61110

>人が生存を図ろうとすれば、必ずその才知を発揮してその生の妨げになるものと闘わなければならない。敗者は日々衰退し、勝者は日々繁栄するのである。勝者とはほかでもない、智・徳・力の三つがいずれもすぐれたものである。この三者がすぐれていてはじめて環境に適応する能力が高くなり、生命活動や器官の機能が十分なものとなる。このことから見ても、人口過多は人間にとっての究極的なわざわいではないのである。<(p.164)

しかし力は置いておいて、徳と智をすぐれたものにするとは脳をすぐれたものにするということだ。そうすれば感情・共感もすぐれたものとなる。ということは…

JRF2025/5/64537

>その脳を助け補うための消費が最も多くなるのである。脳のための消費が多くなれば、生殖のための消費は抑制される。生物でこの二つ[の消費]がともに盛んであるものは存在しえないのである。

JRF2025/5/64486

(…)

私はすでに脳が発達した生物は成熟する(オス・メスが交わる時のことを言う)のに時間がかかることを明らかにし、さらに男女の情欲が極めて盛んになった時、[そうでない時と比べて]思考能力は必ず劣ったものとなり、思考能力がよくはたらいている時は、例えば初学者が数学の難題に懸命に取り組んでいる場合のように、生殖能力はしばしば阻害され、十分発揮されないことを明らかにした。

JRF2025/5/64722

以上をまとめて見れば、社会が最高の段階まで進化し、世界が人で満ち溢れている時でも、人口の過多は心配しなくてもよいのである。人口増加の速度は、その国の政治や教化の程度とつねに反比例するものなのである。

スペンサーの発言は以上のようなものであるが、その説がでてからというもの、進化を論じる学者の八割九割がそれを尊崇している。
<(p.166-167)

JRF2025/5/60457

まぁ、生殖行為のときに脳を使わないからといって、生殖能力に優れたものがバカであるとは限らないわけで、そういうのは、エネルギッシュな賢人とかを見ると身につまされる。だからスペンサーのここの論を鵜呑みにはできない。

しかし、統計でも女性教育の増進と出産減は確かにリンクしていたはずで、脳が発達すると少子化になり人口過多が解消されるというのは、だいたいにおいて、現代にはどうも起こっているようで、むしろ少子化が問題となっている。

JRF2025/5/68747

……。

>スペンサーの社会学における種の保存原則には二つある。生物が種を伝えて繁栄しようとするなら、成体となる前に得る利益はその働きとは反比例するべきであり、成体となった後に得る利益はその働きと正比例すべきである。この二原則に反すると衰退し滅亡する、というものである。<(p.186-187)

JRF2025/5/67826

「成体となる前に得る利益はその働きとは反比例すべき」というのがこの本では説明されておらずよくわからないが、思い当たるフシはある。反比例しているわけではないが、例えば、化粧について、高校生までは注意するのに、大学・社会人となると、それを知ってるのが前提となる…みたいな断層がなぜ起こるか…というときにスペンサーのここの見解の適用があるのかもしれない。…と思った。

あと、もしかすると、この時代はまだ児童労働があったので、働きに反比例する…とは、児童労働させるのではなく学業に比例して…ぐらいの意味かもしれないとも思った。

JRF2025/5/64807

それはそれとして上に続く部分…

>氏の『群誼篇』(…スペンサー『倫理学原理』第2巻第4部『社会的生活の倫理 正義』(?)…)では種の進化の三原則をあげる。第一に、民の成人後は働きと[得られる]食物とがつりあうこと。第二に、各人[の間に]はそれぞれ境界があって互いに侵犯してはならないこと[各人の自由は他の人間の同等の自由を侵害しないことを条件とする]。第三に、[個人と社会が]両方とも損害を被る時は、個人を軽くみて社会を重んじること。これらはギリシア、ローマとこの200年来の科学の諸学を集大成したもので、国家が安定発展する際に実施されているものである。

JRF2025/5/62312

国を治める者が危険を安全とみなし、災害を利益とみなすならどうしようもないことだが、まことに自国の生き残りを欲するなら、ハクスリー、スペンサー両氏の言はまず動かしがたい。ハクスリーが[上位にある賢明でない者の]助けとなっているものを取り去るというのと、スペンサーが[民の成人後は]働きと[得られる]食物とがつりあうようにするというのは、言いかたはまるで逆だが、その道理は同じなのである。
<(p.187)

JRF2025/5/60428

イギリスの(二大)政党政治が、賢明でない者を引きずり降ろすための制度の一例という説もこの本にはあるのだが、その点、若者による独裁「三者調整会議」を構想する私には考えさせられるものがある。

JRF2025/5/67520

『宗教学雑考集』《日本は若者専門家中心の専制的国家に》

JRF2025/5/63968

>「東アジア」の中の日本の誇るべき点はまがりなりにも「民主主義国」である点で、今後それぐらいは保っていかなければ、日本の国際的地位は埋もれる一方になるだろう。ただ、一方で、日本は超高齢化社会となり、「民主主義」のままでは、高齢者の意見だけが通り社会が動かなくなることが予想される。言わば、中国のような専制…特に少数の若者専門家中心の専制的国家にしないと国が動かなくなるだろう。そこにジレンマがある。日本が全体主義的になっていくのは避けられない情勢のようだが、そうなっても自由がある程度保たれるように、上で挙げたような「主義」が役立てばと思う。<

JRF2025/5/62321

keyword: 三者調整会議

三者調整会議(参: [cocolog:94987854](2024年8月) や [cocolog:95000533](2024年8月))の構想では、最近の議論では一時期徐々に政治主導に揺れたのを若者が多い官僚主導に戻そうという論調になっている。そして AI 支配下においても人が知性を失わないために、学術会議のような機関を国の中心に据えようという話になっている。

JRF2025/5/60411

学術会議などにおいて、平等を守るのは、国公立の低学費で、そこが金持ちのボンボンが多く通うとしても、本当に頭が良ければそれでよく、その上で貧しい者も一定数学べるようにすればいいとしたのだった。

ただ腐敗対策はそれでは不十分でないかというのは気になってるところである。学会に腐敗が少ないから、AI が実質支配しているから、大丈夫ではないか…というのもあるのだが。

JRF2025/5/69516

でも、究極的には体裁を守るために残す民主主義的システムが大事なのかもしれない。私の構想は超高齢化・少子化をそもそもの発端としている。もし、AI 支配下であっても再び人口を取り戻す日々が来るのなら、そのときは民主主義的システムが復権し、腐敗排除を効率的に行うようになるのかもしれない。

逆に言えば、誰かだけが人口を増やすという腐敗があった…それが問題になるまでは、腐敗はあまり問題になりそうもない…ということかもしれない。私はそうあって欲しいということかもしれない。

JRF2025/5/66604

……。

>私(…厳復…)に「人の生き方[人道]は、苦楽を究極のところとするのか、善悪を究極のところとするのか」とたずねた者がいる。それに対しては「苦楽こそが究極のところであり、善悪は苦楽の範囲如何によって分かれる。幸福は善、苦痛は悪、苦楽こそが善悪を定める基準となる。もし苦楽の間に区別が無いとすれば、善悪の境界も判然としなくなる。なのにどうして[善悪が]究極の目標だなどと以るだろうか」とこたえた。<(p.194)

JRF2025/5/61243

この「苦楽」には自分の子の幸福のために苦労する母のような「他人の幸福を楽とする」考え方も含まれ、単純な快楽主義では決してなくミルなどの功利主義に近い。そしてそれはどちらかと言えば個人主義で、全体主義を是認しがちな私は普遍主義的でそこには若干首肯できない部分がある。

JRF2025/5/61428

『宗教学雑考集』《善》
>私はこれまで生きてきて、どちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭[いと]わない道を意識として持つべきだと思うようになった。

JRF2025/5/68836

現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。

JRF2025/5/65816

「神は善とされる」という部分には二重の意味がある。第一義的には神が足りない「善」でも恩寵[おんちょう]によって善と認めてくれるということだ。善であろうとした努力を認め、虚の世界でかもしれないが、報いてくれるのだろう。もちろん、報いがあるから善であるべきという話ではない。

JRF2025/5/66497

第二義としては、神が虚の世界を通してかもしれないが、偽善の足りないところを補って善となるようにしてくれるという意味も込めている。この場合は、現実においても我々の偽善的行為が神の助力によって結果的に善として結実していることがしばしばありうるとなる。「善は不可能」とまでは言えないということだ。

神の義・善とはそのようなものなのだ。

誰かから見て善悪、自分の今の状態からみての善悪、やるべきだという should という相対的善悪、皆が決めたまたは誰かが決めた法の善悪…はあるが、絶対的善悪をいおうとすると、それは神にでも求めるしかないということだ。

JRF2025/5/64913

『宗教学雑考集』《悪》
>罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、悪人はいるが、仮に生まれたときから悪人だったとしても、彼が悪人になったのは長い目で見れば偶然なのだ。

地獄は「心」のうちにあるのであって救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なようにも私は思う。本当の意味での悪というのは人間には不可能なのではないか…という思いがある。

JRF2025/5/67399

確かに人がなす悪はありうるのだが、人が意志から完全に悪になるとき、それを追い込むものがあったはずで、その追い込んだものの問題と考えれば、その人そのものは救われうるとなる。軽い気持ちで悪を見過ごすような場合、これは存外深い悪ともなりうるが、しかし、悔い贖[あがな]いの機会はやがて訪れると考えたい。

人の力で、本当に絶望の地獄に陥ることもまた不可能。…と私は考えている。私に甘さがあるかもしれないことは留保するが。

JRF2025/5/61973

(…)

悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。

JRF2025/5/68074

……。

「導論」の章はここまで。次に「本論」の章に入る。

本論は進化論というよりは宗教論の色彩が強いように思う。

JRF2025/5/66427

……。

>ベーコン[Francis Bacon, 1561-1626](…)「科学の研究では、およそ神の創造のみわざで作られたものであれば、すべてわれら[人間]によって解き明かされなければならない」<(p.203)

↓のように書いたこと。どこかに根拠が欲しかったがベーコンが似たことを言ってたのか。

JRF2025/5/63537

『宗教学雑考集』《無限観》
>キリスト教では、人に必要なことならば、一生のうちに極められないようには神は人を創造してないとなるのだろう。個人にできることは有限としても、いずれ人の世の終末が訪れれば、そのときには、それまでの大勢の人々により人の領域は十分広く外に向かっており、神の国において無限の広がりを持った世界に通ずるのかもしれない。まぁ、この先の未来は、AI による把握も含めた「一生のうち」ということになるのかもしれないが。<

JRF2025/5/66086

……。

>ハクスリーはかつて、「人間の生命とは水中の渦のようなものです。その形はしばし保たれていますが、渦の中にあるすべての水の粒子は刻々と移り変わっているのです」[1884年4月8日付け「ウェルビー夫人への手紙」]とも述べ、一時名言だともてはやされた。<(p.208)

生物を「動的平衡」と見る見方だね。散逸構造(非平衡開放系ともいう)も昔ならば動的平衡の一種ということで良かったのだと思うが。

JRF2025/5/69332

……。

宗教はいろいろあるが…、

>聖人や賢人が教示したこと、帝王が制定したこと、司徒[官名。土地管理や民衆教化を管轄]が儀礼を用いること、そして司寇[しこう][官名。刑獄を管轄]が刑罰を用いることは、その趣旨は異なるものの、いずれも天を畏敬し、民が過ちをおかさないようにさせようとして始まったものである。<(p.214)

JRF2025/5/64225

私は上の「有神論の基本定理」としてあたかも因果応報を宗教の第一原理的なものとして挙げたが、「民が過ちをおかさない」のが第一であるという考え方は少し違うべつのものかもしれない。

民が親を愛するように支配者を愛するようにしたときも、民が過ちをおかせば、その愛を返さないという点で、因果応報的側面はあるのだが、民が過ちをおかそうとしないことをより信じる・まず信じるという点での強調はある。

JRF2025/5/62282

……。

>聖人もまた世の中の趨勢の中の一存在であり、世の中の趨勢によってはじめて聖人は生まれるのである。世の中の趨勢が聖人を作りあげるのであって、聖人が世の中の趨勢を作りあげるのではない。もし聖人が世の中の趨勢を作ることができるのなら、進化と呼ばれるものは存在しないことになる。<(p.216)

私は「聖人」というのも奇跡的なもので、後世の人々が作り上げる空想の存在に近いと思う。

JRF2025/5/65706

『宗教学雑考集』《孔子と易》
>孔子は「仁」の理論を作った。「仁」の解釈について、間違っているのだとは思うが、やはり私は「人は聖人にはなれずなれるのはだいたい二番目の人と書いての仁である」というふうに解してしまう。

聖人というのは、仏教では梵我一如のアートマン…涅槃に入り法となったホトケに似ていて、ある種の理想像で、ただアートマンなどと違って人格神的…人格があって時代を画して人を支配しているものだと考える。たまたま同時代にそれがいるとなることもありうる…いや仙人的でも良いなら必ずいるのかもしれない。

JRF2025/5/65237

神話伝説時代の王の尭[ぎょう]・舜[しゅん]・禹[う]が聖人であるといっても、生きている彼らは仁でしかなかったのではないか。しかし人々が望む聖人の役をよく引き受けたから、人々からは聖人と見られていたし、死後聖人であったという評価になったのであろう。というか人々の中に遺った姿・おもかげが聖人とはどのようなものかの規範となったのであろう。

JRF2025/5/62142

孔子が聖人であるというのはまた違った意味がある。孔子は仁であり君子ではあったのだろうが、支配者ではなくその意味では聖人でなかった。しかし、死後その後の時代、君子を支配する規範者となったことにより、その後の時代を聖人として生きている…ということではないか。

JRF2025/5/64829

聖人と人格神の違いは聖人には死があるということだろう。上に挙げた君臨する孔子には実質死はないが、しかし、死は彼にあったもので避けられなかったものとして扱わねばならない。「復活」などはないし、死後に天界などで本当に生きていて影響しているのだ…という概念も(ほぼ)ない。

そして繰り返すが、その聖人に、生きている人はなれないのだ。なれるのは仁たる君子のみ。

JRF2025/5/60443

ただ、易に戻って、日々生きる人が陰か陽かはスッパリ割り切れるものではない。陰は陽を含み、陽は陰を含むとはいう。小人かそれとも仁たる君子かも同じことだろう。

JRF2025/5/63819

……。

人は人治をきわめるに応じて憂患を持つようになった。それ以前には凶暴さのようなものが必要とされたが、そこから「進化」してきたのだ。

JRF2025/5/69419

>社会の秩序が整備されてきたからには、サルやトラの性質は人にとって無益で、まさに自分自身を損うものとなり、当初はそうした性質を頼りとして生き残ってきたのだなどとは、誰が言うだろうか。それゆえ、憂患の到来は、自然環境による度合いはさほどではなく、人間関係に由来する度合いがずっと深刻なのである。宇宙の中で、進化は輝かしく進展し、その広大さ、見事さは最高のものであると言える。だが[人間の]憂患がそれとともに極まるのである。<(p.219)

JRF2025/5/66234

上で『宗教学雑考集』《悪》で>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。<と重なる部分である。そして>和解を導くしかない<とそこに諦めが多少あるのが憂患なのかもしれない。

JRF2025/5/69351

……。

「本論三」で「宗教の源」が語られるのだがどうもよくわからない。

>[『老子』第12章で言うように、過度に]聴覚・視覚・味覚・意識に心地よいものが増えていくと、声や視力・味覚を損なわせ、発狂することもだんだん増える。聡明な者は[感覚の鋭さが]愚昧な者を超えているからには、性情の奥底で感じとって心を動かされることも微妙で深く真摯なのである。

JRF2025/5/65116

それゆえ[彼らが]生を楽しむにも、濃厚なもの、華麗なものとその様態はさまざまで、[それは]未開の荒野のあずかり知うところではないが、一方、悲しみの情が心に生まれると、その悲しみの深さも質朴な者とくらべるとことに甚だしい。過去については過ちをせんなく悔い、未来については不測のことへの憂慮をつのらせる。空想の中でさらに別の幻を生み、それは地獄心を生じる[衆生が刻刻と悪心を募らせ、地獄で苦しみを受けること]と言っても言い過ぎではない。

JRF2025/5/69232

しかも高尚、富貴な[文明]生活には「倦厭[飽きて嫌になる、うんざりする]」という名の大敵がいる。煩悩が心中に鬱々とし、気力は外で消耗される。「倦厭」という情がおきてそれに流されると、さきの喜びはあっという間に[空しい]かすとなる。前[の喜び]が強ければ強いほど、後にますます耐えがたくなる。生を終える時にわが生は幻妄で、なにもかも自分の思い通りにならないと気づくばかりであっても、それでもなお恋々とするのは、ただ死が不可知であるからでしかない。

JRF2025/5/64073

ああ、これこそが仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教が台頭する理由である。
<(p.225-226)

生への倦厭から発狂し、死に期待を置かざるを得なくなる…それが宗教の源ということだろうか?

Gemini さんにぶつけると…。

JRF2025/5/61655

Gemini:> 厳復が言いたいのは、人間が「死に期待を置く」から宗教が生まれる、というよりは、「生(特に文明化された生)の苦悩や虚無感、そして死への恐怖」という、文明化された人間が直面する避けられない心理的・実存的な課題こそが、宗教がつけ入る隙、あるいは宗教が人々に受け入れられる土壌を提供する、ということです。宗教は、これらの苦悩に対する何らかの回答や救済、あるいは超越的な意味付けを提供するものとして出現する、という社会心理学的・機能主義的な説明です。

JRF2025/5/62874

……。

>鬼神 鬼神という言葉はここでも踏まえられているように、「[聖人は]始めをたずねて終わりにかえる、ゆえに死生の説を知る。[陰の]精[陽の]気は[凝集して]物をなし、[それが分解、離散すると]游魂は[精から天へ浮きあがる]変をなす。このゆえに鬼神の情状を知る」(『易』繋辞上)で知られる。

その概念形成には変遷があるが、もと「鬼」は死者の霊魂、「神」は伝説上の超能力を持つ天神を示すことはあっても自然神的な意味あいがあるとされ、いずれにせよ唯一神的な神とは異なる。

JRF2025/5/63523

孔子の「鬼神を敬してこれを遠ざける」(『論語』雍也)立場で知られるように、儒家は鬼神の存在に深く関わることを避けようとし、道教では道と気と神の一体を説いた。宋代の儒学では鬼神の自然化が進み、朱熹は幽霊なども否定することなく、自然現象、気の運動として鬼神論に組み込み、祖先の祭祀も気論で合理化しようとした。
<(p.231, 訳注)

鬼神論は『宗教学雑考集』第3章「易理」の大事な部分である。

JRF2025/5/61783

『宗教学雑考集』《鬼神論》
>世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制[ぎせい]せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。

JRF2025/5/66887

混沌・物理・鬼神。ものの相の一面である。鬼神も、結局は物理も、擬制的なものであり、すべては混沌と言っても間違いではない。

JRF2025/5/63917

(…)

この章では「易理」を論じる。中国の古典『易経』とそれに基づく易占いについても論じるが、まずは、それらにはない鬼神の話からはじめた。これが「易理」の一部である。なぜ易経を語るでもない原中国の思想に擬したものを「易理」と私は呼ぶかというと、鬼神を論じない孔子の前の哲学を論じたかったからだ。孔子は「怪力乱神を語らず」(『論語』述而篇)と言われるが、この章では「怪力乱神」を直接的ではないかもしれないが、おぼろげにその存在を認めつつ思考していく。なお、通常「易理」と言えば、易の理屈ぐらいの意味しかなく、私の語法はそれに逆らっている。

JRF2025/5/60474

なお、孔子と朱子の易との関わりについても『宗教学雑考集』《孔子と易》で別書の引用によって論じている。

JRF2025/5/68614

……。

刑罰論が論じられる。

>過失や不運というものは民自身の意思ではどうすることもできない(…)。それゆえ統治によって教化を進めたければ、故意と過失の区別を厳格にしなければならない。<(p.238)

このあたりのことは↓で論じている。

『宗教学雑考集』《なぜ人を殺してはいけないのか》
>私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような示唆があるように思う。

○ 罪ある者でも生かそうとする「保険」と自分やその子は罪を犯すことがあり、それに厳しくあれないという「信用」の限界が、刑からの許しを示唆する。

JRF2025/5/65767

○ 復讐のための条件を欲する「信用」と武器をとる者が常にいるわけではないという「分業」の限界が、正当防衛を示唆する。

○ 職業的にまかさなければならない「分業」と無責任を正当化してしまう「保険」の限界が、過失責任を示唆する。

この「刑からの許し」「正当防衛」「過失責任」を「対罪三立」と私は呼ぶ。

こういったことが「法理」として必要になるのは、ここにもう一つの重要な問いが隠れているためである。

それは「仕方なく人を殺してもよいのはどういうときか」という問いである。

JRF2025/5/67922

その「一般的な問い」は危険への導きである。人は一方で生死を操る者であり、他方で残酷な機械であるからだ。人は「仕方ない」状況をワザと選ぶこともできれば、人を「仕方ない」という状況に追い込むこともできる。

JRF2025/5/65243

……。

>そもそも、善を為した者が必ずしも福運を享受するわけでもなく、悪を為した者が必ずしも災禍を被るわけでもないということは、文字による記録が無い時代は遠い昔のことなので確かめようがないが、文献が存在するようになった後でも[その例は]どれだけあるか知れない。<(p.241)

神義論の領域だね。神はあるのになぜ悪があるのか…と。この本でもすぐ後に議論されるように旧約聖書『ヨブ記』が有名。

『宗教学雑考集』も第6章が「神義論・支配論」となって一章を取っている。

JRF2025/5/63554

『宗教学雑考集』《奇跡》
>ここまで来て「神はなぜ悪を創ったか」の私の考えを私なりにまとめることができるだろう。

JRF2025/5/61154

神は個の独立を好み、自然の摂理の中でそこから集団として善に向かうことを好まれる。そういうことが成り立ちうるようにこの世界を自然をそして悪を造った・造らざるを得なかったということになるだろう。個々の善悪は多くの場合バーチャルにしかかえりみられない。セネカ流を拡張して、集団全体を善者として善者だから試練を与えているとも見えるが、そうではないのかもしれない。神の似像として人を創るというのは、神が悪を創らざるを得ないように人もしばしば悪をなすことになることも含み、神をしてもそうせざるを得なかったのかもしれない。

JRF2025/5/63478

『ヨブ記』については拙著『道を語り解く』に論考がある。ブログをもとにしているのでその原稿は今もネットでも読めるが…。

JRF2025/5/63975

『道を語り解く 第2版』(JRF 著, JRF電版, 2016年3月11日第1版 2020年3月11日 第2版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01CERFZLA
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JRF2025/5/64531

……。

>天[のあり方]は決して勝手な憶測をしてはならないのだ。<(p.249)

この点、私は↓で天の「象」を憶測することを論じている。

『宗教学雑考集』《象または天意について》
>天意は従わせることはできない。予想できないから。しかし、予想しなければならない。人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならないから…。<

JRF2025/5/60019

……。

>宋・元(960〜1368)以来、西洋では科学研究が発展するにつれ、宗教がもたらす災禍は消滅していった。高い見識を備えた人士は事物の奥深い原理を研究し、天[の意思]は不可知であるという説を発表し、世人が古えの説を固く信じたり自ら[の主張]を過信したりしないように戒めた。

JRF2025/5/69924

(…)

だがインドの聖人であるブッダはそれでは学説として成立するには不足があると考え、十分な理屈を何としても立てようとして、それで輪廻因果の説を提起した。輪廻因果の説とは何か。一言でいえば、語りえる道理によって、不可知のことを導き出し、知りたい天[の意思]を解明するということである。
<(p.249)

この後、輪廻説について説明があり、カルマについても説明がある。

JRF2025/5/69457

>早計に[因果説を]妄言だと排斥し、粗略な考えとみるわけにはいかない。しかも輪廻の説ももとより目に見える世間のことと物事の道理にもとづいておしはかったものであり、普段の行いに適用してみても、実に[輪廻の説]に似たところがある。これこそ物事の道理をきわめようとする人士が好んでその説をくりかえし研究し、その奧深い意義を求めようとするゆえんである。<(p.251)

例えば奥深い意義とは↓のようなことなのだと思う。表面的に因果がなくても、どうもカルマや因果はあると受け取れる構造がある…と。

JRF2025/5/64683

『宗教学雑考集』《コラム 来世なんてない》
>生きるとは個人が生きるだけでなく、子供を生み種として残っていくことが含まれる。業が霊的に直接来世につながらないとしても、業は他者の恨みとなって子供世代の生を脅やかすかもしれない。種として「生きなければならない」を実行するには、業がないこと、つまり、善の必要性があ(…る…)。<

JRF2025/5/67660

あと、↓もちょっと思い出した。

[cocolog:95231673](2025年1月)
>Attention 機構は拡張された微分ではないかとちょっと妄想した。元々の微分がクローズアップして注意した結果傾きがわかる…みたいに解釈して。…AI の今後のますますの発展を願って、最適化の拡張を妄想してみる。

JRF2025/5/65555

最適化を拡張することを考えていたのだけど、一般的な最適化過程というのは、むしろ定常状態からはじまり、ある方向に傾けると、反作用的な力が生じると想定する。その辺で微分と反作用が何か一般的な機構としてありうる。

そして、定常状態に戻らない場合、しかし、多くのものは定常状態的に戻る中で、戻らないことがある種の定常状態になる。これが、メタ的な・または外部接続的な微分と反作用概念になるのではないか?

JRF2025/5/69428

(…)

GPT も次のトークンがないというのを定常状態からの欠落と見て、そこからどう反作用すれば「定常状態」に戻るか…という最適化過程なのではないか。ただ、この場合、文章を書き続けるためには、定常状態が常時変わっているか、定常状態から少しズレたところに着地し続ける…みたいなことが必要になるのかもしれないが。

JRF2025/5/69003

私は、人の世も(生物の世もそうかもしれないが)最適化過程で、望ましい定常状態からズレるというのが「カルマ」でそれを戻そうとするのが因果説的だと考えたのである。こう捉えると、人の罪や霊の業だけがカルマでなく、より広い認識にもつながってくる。

この認識は諸行無常の上での認識にもつながるかもしれない。わかりやすい法則・明々白々なものも大事だが、それより隠微なもののほうが生成力があるものだ。拡散過程を使った画像生成を考えれば、まったくの混沌のほうが生成力がある…もあるかもしれない。

JRF2025/5/68756

……。

>プラトンの説 真実在(イデア)の想起や転生についての以上の内容は、プラトン『パイドロス』(…)や『国家』(…)などに関連する記述がみえる。<(p.259)

そうかプラトンも転生を論じてたのか。あまり気にしてなかった。「プラトンと言えばイデア説」的にしかとらえてなかった。

JRF2025/5/60614

……。

輪廻転生説は仏教以前からあり、この本には、それを仏教のものとした粗さはあった。ただ、仏教以前のバラモン教との違いに無頓着というわけでもなく、ブラフマンとアートマンの議論と仏教を区別はする。その区別が、どうも難しいが。

JRF2025/5/66071

>(…バラモン教において聡明な人はこう考える。…)一生は幻妄であるうえにすべての困苦や屈辱といったことはいずれも自分でうみだした私欲から生じているのであれば、因縁を絶ち、その[私欲という]初発のところを破壊することが最も得策であると。そこで「徳を絶ち知を棄て」[『老子』第19章]、「憤怒を制し欲望を抑え」[『易』損]、いわゆる「生死を超えて輪廻から抜け出すこと」を求めるのであるが、その方法はほかでもなく、われわれから見れば、進化に身をまかせることをせず、生存競争の喧騒には関わらないことなのである。<(p.261-262)

進化的アルゴリズムも生成する最適化の一種である。

JRF2025/5/60470

>そもそも一切の諸世間、つまり人間界でも天上界でも地獄界においても、神霊・魔鬼から人間、畜生まで、あらゆるものがみな輪廻の中で転生しているのであり、その生と死、発生と消滅は終わるときがない。これが元来のバラモン教の旧説である。ガウタマがあらわれると、諸々の実体[とされていたもの]をすべて虚無であるとした。<(p.281)

バラモン教は苦行するが、仏教はそれを否定した。

JRF2025/5/60451

>バラモン教の教義は自分のため[為我]のものであるが、仏教では逆に無差別の愛[兼愛]によって[バラモン教に]反対する[為我・兼愛については「導論十一」注(2)参照]。仏道の道筋はその並みはずれた堅忍刻苦の精神においてはバラモン教と同じではあるが、その意図は全く異なるのである。<(p.284-285)

このあたりの仏教に関する意見がハクスリーの意見か厳復の意見かは判然としないが、それに対する私の判断は保留したい。私は仏教書をいろいろ読んでいるが、いまいち仏教がつかめてないというものあるし、こういう解釈もありなように私は思いたいクチだから。

JRF2025/5/69037

……。

>「(…)「思考が積み重なって我[自身[セルフ]]となるのであり、「思考」はおのずと存在し、ゆえに我[自身]はおのずと存在し、非我[非自身[ノットセルフ]]は虚妄たりうるが、「我[自身]]は妄想とはなしえない、これが真の我というものである」。デカルトの説はこういうものである。<(p.273)

JRF2025/5/68712

『宗教学雑考集』《我思うゆえにありうるのは我々までである》
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。

我々は必ずしも思いどおりにならない「私」達の集りで、ならば、「私」は「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起ち上がったとき、我々も存在していたと気づくに過ぎない。

JRF2025/5/66413

「我々」というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。我々を境界して私になる…境界に意味がある。他と違う比較的自由に意味がある。例えば、所有=己のものというのも境界としてちゃんと意味がある。

JRF2025/5/61200

人は産まれてくるものだから、最初(受胎以前)は今の己はないんだとというのは多くの人は合意できると思うし、永遠はなかなか想像できないから、アートマン=常住不滅の真我みたいなものが「なければならない」みたいなことはない…というのも合意できると思う。しかし、実体が現にある以上、己に実体がないというのはなかなか合意できないものだ。生物として常に危機にさらされている「実体」という規制が己を形作る。それがデカルトの根拠になっていたのだろう。


ちなみにデカルト『省察』なら [cocolog:95158388](2024年11月) で読んでいる。

JRF2025/5/65246

……。

>涅槃が「不可思議」<(p.291)

道理に悖[もと]る部分のある真実が「不可思議」だが、上では「諸行無常」についてそのような解釈をした。涅槃とアートマンに関してもそこで言及した。

そういったことを教えるというときは「不二法門」とか「不立文字」が必要とされるのだろう。

JRF2025/5/63095

……。

神義論が再論される。

>悪根はつねに善果を含み、幸せには禍[わざわ]いが胚胎し、人は通常、「憂患に[苦しむことで真に]生きることができ、安逸享楽に[ふけることで]死をまねく」[『孟子』告子下]などといわれるが、確かにその通りである。ただ憂患が生ずるゆえんは、[天が]「その人の心を鍛え性格を忍耐強くして、今までできなかった[ことをなしうるように]能力を増大させるためであり」[『孟子』告子下]、心のもちい方が慎重で患[うれ]いを慮ることが深い者が徳性と智慧、学術と才智を得られるようにするためだとされる。

JRF2025/5/66147

だが私が理解できないのは、以下のことである。

世の中に存在する人間であれ、人間でないものであれ、無数の下等生物であれ、[天がそれらのものの]「一身を窮乏させ、何事も思いどおりにならないようにし」[『孟子』告子下]てもその能力は決して向上しないし、困苦をきわめて、危険なことを安全と思い災禍を利益と思ったとしても、智慧は増進しない。それにもかかわらず、高きところにいる天[『詩経』周頌・敬之]がよりによってある者たちを選んで窮乏させ、思いどおりにならないようにし、困苦をなめさせるのはいったいなぜであろうか。

JRF2025/5/69505

もしもこの愚かな者や下賎の者が元々かの天に愛惜されていないというならば、前に述べた主宰者はこの上なく恵み深い存在であるという説はいったいどうなるのか。さらにもし神が全能であるとすれば、世界を創造するときに、なぜ、災害がなく、悪い行いがなく、欠陥のない世界を創らずに、よりによってこのように憂患があふれ、水害や火災が多発する世界を選びとったのか。さらにその上、知覚を持ち苦楽の違いが分かる生物をつくり、そこであらゆる艱難辛苦を経験させるのは、何のためであろうか。
<(p.315-316)

まなじりを決してこう理由を問う者をかわせないとは思うが私なりの答えが↓になる。

JRF2025/5/69240

『宗教学雑考集』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。

総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。

JRF2025/5/69626

その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。

すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。

JRF2025/5/60552

神にとって個を救うことは主観においてにまかされている。きっと、神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。残った者は虚の世界を求めがちで、それは死ぬまでの主観を安心させる。

JRF2025/5/68881

……。

>天体の実態について、どのようにして天地が正しい位置を占めることになったのか、混沌[天地を生じる前の不分明な状態]から天地がどのように生まれてでてきたのかということは、好事家が知りたいと思うことであるが、人間の世界のことがらに何の関係があるというのか。<(p.328)

こういう疑問は出てくるよな…。これにも一応の答えは書いた。納得は得られないかもしれないが。これ以外にも理由はありうる。たとえばその下の《日本の創造》で書いた考え方は、国民統合に寄与するだろう。

JRF2025/5/62474

『宗教学雑考集』《因果応報の神》
>ところで、こういう「始源」を探求して何が得られるのだろう? これはある種の「自分探し」なのだろう。「自分」の発見のしかたを教えてくれる。引いては様々な生き方があることを教えてくれる。《本目的三条件》の「自己の探求がよい」に相当し、それだけでも価値があるが、他人の操作に主体的に応じることができるようになって、他人が気が回らないことができることで、災害などに強くなり、集団として「生きること」に寄与することができるようになる…そういう価値は少なくともありそうだ。<

JRF2025/5/66460

『宗教学雑考集』《日本の創造》
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない…と書いた。そのとき、創造神として複数の者が同時に創っていた…ということはありうる。創造神が「唯一神」でないことはありうる。

複数の始源が、始源であるという意味において正しく、それが必ずしも多神教的上下関係を持たない…それらは尊卑・前後という概念を超えている…ということは私は考えられるとしたい。

JRF2025/5/67637

科学的には日本の土地は大陸移動によって何億年かけてできたのかもしれないが、日本人が日本という国を認識したときそこにあったのはイザナギ・イザナミの神話であり、イザナギ・イザナミの神話が成り立つよう日本がはじまっていたのであり、世界がはじまったのは、日本がはじまっていたから…と考えること自体は、国家宗教(国家神道)としてはありうる方向である。日本にいる者にとってはイザナギ・イザナミがなければ世界が創造されていないのと同じことだったのかもしれない。

JRF2025/5/61885

……。

宇宙自然と人間の関係について悲観論と楽観論がある…とハクスリーはいう。悲観論では、国土をはかなくもろいものとし、人生を夢や泡のように見なし、自らを救うには苦行を行う。楽観論では、世界を天国のように見なし、煩悩はつきつめてみればみな福だとする。ハクスリーはその間を取ればいいように言うのだが、厳復はそれを安易だといって批判する。

JRF2025/5/65240

>ハクスリー氏のここのところはとりわけ浅薄な議論にはしる欠点に陥っていて、哲学者の言らしくなく、前の二氏[悲観論者と楽観論者]の学に遠く及ばない。試みに「哀楽半ばする]などと言っているところを考えてみると、二氏がそんなことを知らなかったはずはないが、結局、そう言わなかったのは、真妄を弁別できる眼力でもって全存在を観察していたのであり、俗見とはおのずと異なるのである。ハクスリー氏のこの言は浅学の者に媚びるもので、至高の論ではない。<(p.338)

ちょっと関係ないかもしれないが…。

JRF2025/5/63907

主成分について語るべき…みたいなのはある。最適化をするときに一番効いてくるところがそれだから…みたいな。制御はそういったものに対し行うべし…みたいなこと。このあたり論の立て方の学があると思うんだけど…。そういえば LLM AI さんも、語るときに何を語るか制御しているはずで、このあたり、気にしてそうだけど、どうなんだろ?

JRF2025/5/68316

……。

この本の結びの部分。

>ヨーロッパの社会の変化は、要約していえば、三段階に分けて論じることができる。最初は侠気にあふれた少年のようなもので、放縦にして粗野で、人間の安危や苦楽の違いについてあまり気にとめない。次には、天行の残酷さを制御しようとして果たせず、失意の中で意気消沈し、方向を転じてこの世から脱出する方法を求めた。これは盛んに進軍の太鼓を打ち鳴らした後に、[戦闘の結果]鎧を脱ぎ捨てて、武器まで投げ捨てて敗走した[『孟子』梁恵王上]ことにほかならない。

JRF2025/5/69541

われわれは現代に生きているのだから、もちろん、ホメロスが詩に詠んだ侠気あふれた[人類の]少年期のように軽躁であるべきでないし、また、ガウタマが人生の無常を哀しみ、現世を捨て去り、ただ軟弱な姿を示しただけで、後世に無益であったようでもあるべきではない。

JRF2025/5/67198

当然のことながら、冷静でありつつ毅然として力を発揮し、ひとかどの人物としての能力を示し、独立した立場にありながら師の教えにはそむくことなく、競争に参加すべきであって、[競争を]放棄してはならない。置かれた状況が望ましいものであれば、もちろんそれを充実させて維持していくが、置かれた状況が望ましいものでなくても、悩むことはない。終日倦むことなく、志を同じくする者の力を糾合して、禍を転じて福とし、外となるものを利とする術を考えていくだけである。

JRF2025/5/61809

テニスンの詩[「ユリシーズ]]にいう。「帆をかけて大海原に打ち進めば、茫茫たる風と波、深淵に沈むか、仙界に達するか、そのいずれを選ばんや、まさに然るや然らざるや、いまやその時、我はわが力を奮い、恐るること無きは、男子として必定のこと」。私は天下の心ある人びとと、この志を共にしたいと思う。
<(p.362-363)

JRF2025/5/64854

日本経済、失われたウン十年。競争がなかったと未だになげく方があるが、そうではない。競争が激し過ぎて、自由を選んだ者は疲弊しつくし、結局、政商みたいなところが勝つのが常態化してしまった(参: [cocolog:92847915](2021年6月))。その結果を見て「競争がない」と外の人はなげくのかもしれないが、そうではないのだ。…そうでないと私は思う。

敗者の私が、敗者としてトシをとった私が、何を言っても無駄なのだろうが…。

JRF2025/5/63493

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