cocolog:95509656
J. L. バレット『なぜ子どもは神を信じるのか?』を読んだ。子供は人とは限らない行為者を容易に見つけだし、親も含めそこに制限なき力を想定しがちであることなどが、子供が神を信じることを自然にさせる。無神論者は非自然的。…という本だった。 (JRF 5647)
JRF 2025年6月25日 (水)
関連かどうかはわからないが、子供と宗教に関する本としては過去に、エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間の子供たち』『子どもと死について』を読んだことがある。まだ読書メモを「ひとこと」に残す前のことで、どういう本だったかほとんど覚えていないが。ちなみにエリザベス・キューブラー・ロスを知ったのは finalvent 氏が紹介していたからだった。
JRF2025/6/255651
……。
私は、宗教学への関心から、私は3月11日に↓という本を出した。その関連としてこの本を読んだ。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
JRF2025/6/258862
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/6/254187
……。
それではいつも通り、引用しながらコメントしていく。特に新しい本なので、著作権侵害・業務妨害等で私が訴えられないよう、少しでも興味を抱いた方は、買って私を著者ともども応援してくださるとありがたい。
JRF2025/6/251423
……。
子供が予想よりも簡単に神について考えることができることを示す実験を始めていたバレットさんは、インドの電車の中でバラモンとその話になった。
JRF2025/6/258135
>バラモンは、(…)当然わかっているといったように微笑み、自信満々に「それがなぜだか知りたいですか」と聞いた。私が「もちろん」と言うと、彼は説明を始めた。私たちは死ぬと、神のところに行き、その後生まれ変わる。子どもはごく最近まで神のもとにいたので、大人よりも神のことをよく理解することができる。子どもはまだ忘れても混乱もしてもいないし、この世界に汚染されてもいない。彼がいうには、事実上、子どもは、大人よりも純粋かつ正確に神について知っている状態で、この世にやってくるのである。<(p.6)
JRF2025/6/258180
なるほど。子供が神について信じやすいという研究をしようとすると、戦前ぐらいのかなり前は、転生の証明をしようとしている…みたいなバイアスがあったのかもしれない。そこからバレットさんなどは完全に免れているということだろう。
この点、おそらく転生的信条は、ヨーロッパでも戦後のほうが広まってないということがあるのかもしれない。ヨーロッパの地場では、最後の審判であって転生などないという基本的信条がありながらも、きっとギリシャなどからの伝統で、転生もそれなりに信じられていたのだろう。人間の信じることというのはあいまいなものだから…。
JRF2025/6/252970
……。
子供の脳を「白紙」またはそれに近いものに見建てて、親が教え込むから宗教に染まるのだ…といったような「教え込み仮説」(indoctrination hypothesis)はよく唱えられる常識的なものだ。しかし、世の中には、ブロッコリーを食べさせることのように単純にそうはいかないものもある。神を信じることはどちらかというと子供に信じさせやすいことのようなのだ。
JRF2025/6/253619
>なぜ、神のような存在を子どもに信じさせるのは、ブロッコリーを食べなければならないことや、大叔母さんは本当は怖い人でないこと、そして神がいないと信じさせることといった他の種類の信念を信じさせるより簡単なのだろうか。<(p.9)
これを説明するのがこの本ということになる。
ブロッコリーの例は心理的なものではない感じなので、適切ではないかもしれない。もっともっともらしい例もある。
JRF2025/6/258335
>生まれたときから、人間は、人間の顔を識別することに秀でている。成人するまでに苦もなく多くの人の顔を特定し、記憶し、見分けることができるようになる。最新式のコンピューターでも手に負えない技である。逆に、三桁のかけ算を解くことには、多大な努力とそれに特化した教育が必要である。数世代前のコンピュータですら容易に解ける問題であるのに。
JRF2025/6/258286
顔認識とかけ算の対比が示すものは、人間の心は、ある種の情報や問題を他の情報や問題よりも上手に扱うことができるということである。同様に、全ての考え方や信念が、他のものと同じように獲得されるわけではない。物理学者が研究で用いる概念の多くは、宗教的信念の多くに比べて学びにくいということが明らかになっている。これは、物理学者が用いる概念の多くが私たちの心にとってより困難なものだからである。多くの宗教的概念と違い、物理学者の概念から私たちは、心が自然的に行うことからかけ離れた、異質なものを感じ取るのである。
<(p.12)
JRF2025/6/258156
バレットさんも三位一体のような概念は宗教的概念とは言え、すんなりと受け容れられないことは認める。そういうこともある。しかし、三位一体の「矛盾」を矛盾のまま、受け容れて信仰生活を送る…といったことは人間の心には容易なように思う。物理学を生かして、たとえば爆弾をよけるよりは、三位一体をそのまま信じて謙遜に暮らすほうが容易だろう。
JRF2025/6/259565
……。
子ども(赤ちゃん)は行為者(agent)と非行為者を容易に区別する。行為者は意志を持って(持っているかのように)行動し、秩序をもたらせるものだ。人、動物、コンピューター…。
>社会集団の中で適応し、捕食者の脅威から生き延び、獲物を捕えるためには、私たちは(私たちの祖先のように)目に見えない行為者についても考えることができなければならない。<(p.32)
目に見えない行為者として自然に「神」が登場できる。
JRF2025/6/251247
>これまで紹介した研究をまとめると、赤ちゃんは生後一年目にしてすでに物理的なものの基本的性質を学んでおり、行為者がこの性質に違反できることを理解していると考えられる。具体的には、行為者は自分自身や他のものを動かすことができ、(ランダムにではなく)目的を達成するために行動することができる。また、子どもが行為者を想定したり、ある行為が行為者によるものだと判断したりする上で、行為者は人間のように見える必要はなく、目に見えている必要もない。こういった能力を身に着けることは、人間や動物だけでなく、神について考えるための土台にもなる。
JRF2025/6/252859
神は目に見えないか人間と似ていないことが多いが、それでも行為する行為者である。しかし、神についての素地を持っていることと、神について考える傾向を持っていることは違う。次の二つの章では、子どもが神について考える傾向を自然的に持っていることについてさらに記述する。本章の残りの部分では、次の二章の土台作りとして、私たちは生まれて間もない頃から神について考えることができるだけでなく、周囲の世界に積極的に行為者(それが既知の人間や動物に似ているかどうかにかかわらず)を探そうとする自然的な傾向があることを示す。
<(p.33-34)
ここは第1章。
JRF2025/6/255020
……。
第2章の最後まで飛ぶ。
インテリジェント・デザイン論というのがあるが、それと関係なくはないが、それはそれとして、子どもは、自然に「デザイナー」がいるという想像を持ちやすいようだ。
>私たちは発達段階の初期から、自然界に存在する全てのものにはデザインや目的があるという直観を持っている。<(p.51)
JRF2025/6/255475
>なぜ私たちの心が世界にデザインや目的を自然的に見出すのかについては議論の余地がある。一つの可能性として、このような目的論的推論は、世界がどのように機能しているかを理解し、さまざまな植物や動物、あるいはそれらの部位を人間の目的のためにどのように利用できるかを学ぶ上で適応的な戦略であったことが考えられる。<(p.227, 注)
JRF2025/6/251931
>前章では、私たちが幼いころから、身の回りの隠れた行為者の兆候を熱心に見出していると思われる根拠を紹介した。この傾向に、自然界にデザインや目的を見出してしまう傾向を加える。さらに人間などの意思を持つ存在が秩序立ったデザインをもたらすのであって、自然の力がそうするわけではないという根強い直観を混ぜ合わせる。仕上げに、普通ではない出来事が何を意味するのかとつい考えてしまう傾向をパラパラ振りかける。こうして「万物の背後にいるのは誰か?」という問いへの答えを渇望するよう自然的に発達する心のレシピができあがるのだ。<(p.52)
↓を思い出す。
JRF2025/6/257374
『宗教学雑考集』《神の存在証明を論駁する》
>ただ、このような議論は、しかし神が目的を持っているという議論だ。自然や社会は何がしかの最適化をしているので、有限な現実には多くの場合、目的は見出せる。しかし、神が特定の目的を持つと決めるのは、やはり、神を制約するに等しい。そうやって制約してしまうと、「神のこころがわり」を考える必要なども出てくるが、それでいいのか。…とは問える。
JRF2025/6/257397
しかし、私は我々が悩むように「神も悩む」ほうが好きだ。そのような神こそ「現存」している感じはする。「何も制約がない」も一つの制約でありうることを考えれば、人の祈りが求める多少の制約があってもそれは神の力を減ずることはなく、神はある意味でそれを超えてこられるのだろうと信じる。
<
JRF2025/6/252939
……。
>最も注目すべき点は、親が支持する進化論的説明や、学校の教科書や科学のカリキュラムに盛り込まれている進化論的説明は、10歳前後までは子どもの思考に効果的に浸透しないと示唆されることだ。親は進化論を信じているし、教えると言っているし、教科書にも載っているが、子どもは予想に反してそれを肯定しない。なぜだろう。
JRF2025/6/255252
その理由の一つは、進化論が人間の心に求める概念的な要求にあるかもしれない。自然選択によるものであれ、超自然的な導きによるものであれ、その両方によるものであれ、進化論では、ある種類の生物が別の種類の生物に変化することができる、つまり、ある種の祖先が別の種の子孫を持つことができることを信じるよう求めている。クジラの曽曽曽曽祖父か、それ以前の祖先が牛であったという考えは、親と子孫の関係の自然な理解(…)に反するものである。
<(p.66)
JRF2025/6/252267
私は進化論については『宗教学雑考集』《イメージによる進化》に書いたように群淘汰をある程度認める方向なのであるが、それに関してまた次のように書いている。
『宗教学雑考集』《トーテミズム》
>キリスト教社会では、進化論は驚きを持って迎え入れられたかもしれないが、日本のようなアニミズム的社会では動物から人に変わったのは大いにありうることだった。ただ、猿だけでなくキツネなども人になれるというもので、そこには大きな断絶があった。
JRF2025/6/257263
しかし、家畜を生んでいたころの人類はそれとは違い、どういう動物はかけあわせることができるか、できないか、それを人に適用したらどうなるかについて、その知識が社会で重視されていたと思われる。そこでは自然に進化というものが現代ほどではないにせよ、ある程度は理解されていたのではないか。イメージによる進化論は、鶏が先か卵が先かの議論から生じうるもので、それは古代でもある程度可能だったように思う。
JRF2025/6/251703
イメージによる進化は、(三葉虫とタコの)視力の獲得のように種を越えた形質の伝達を説明しうる。それは、誰かが視力を獲得したとき、それを論理的に察知すれば、そういうものを目指そうとして、イメージによる進化・性選択などが駆動するからである。イメージは種を越えて、形質を実現しうる。無生物からであろうと学べるのだ。
<
JRF2025/6/254426
これと先のバレットさんの見解を考え合わせると、逆説的だが、タヌキやキツネが人を化かす…他の種に変化できる…という「迷信」はひょっとすると、進化的考えを子供に受け容れさせるにはプラスだったのかもしれない。動物はある条件下では違う物になりうるという点において。それは、品種改良などのためには必要な知識で、それを子供に理解しやすい形で受け継いでいるのが、狸や狐が化けるという物語だったのかもしれない。
JRF2025/6/257526
……。
多くの宗教的な考えを子どもはどのように、また、なぜ簡単に取り入れるのかという疑問がある…。
JRF2025/6/255261
>この問いに対する一つの答えが、一世紀以上にわたる宗教の科学的研究、特に宗教心理学の理論的中心にあった。この答えを、擬人化仮説と呼ぼう。
JRF2025/6/259005
擬人化とは、人間に似せて何かを作ることだが、この仮説は、人間は神に似せて作られたという聖書の考えとは正反対である。神は昔も今も、そしてこれからも、人間の姿に似せて作られる。この考え方によれば、子どもは人間について学び、人間が何を考え、どのように行動し、何を好むのかを知り、そして神について類推する。神の概念を学ぶということは、人間を学び、それを神に当てはめるという単純なことである(どれくらい単純なのかは不明だが)。子どもたちが容易に神やおばけ、精霊、悪魔について考えるのも不思議ではない。
JRF2025/6/258319
さらに擬人化仮説では、子どもが神を理解するために用いる推論能力が向上するため、発達の過程で神が次第に人間に似ていないように見えてくると主張される。
<(p.71)
人の姿を神に適用していくフェイズがあることは私は認めていた。
JRF2025/6/259430
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>逆に我々は、「私」に至る偶然に神の意志性を見出す。生まれてきた「私」は何かと不如意[ふにょい]である。思い通りにできない。しかし、「私」を導くものがあり、「私」のしたいことを前もって助けてくれる。それは親かというとそれももちろんあるが、それだけではない。私の肉体自身が私にはよくわかっていないから、私の肉体が「私」を教えるという面もある。そこに(親や肉体も含めた)「他者」の痕跡を発見するのだ。
JRF2025/6/251361
それを振り返ると、「私」が選ばれてきた偶然がある。「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「私」に至る偶然に何らかの意志性を見出さざるを得ない。なんだかわからない何かつまり神、名前もまだ知らぬ神の、意志性の発見である。
JRF2025/6/258192
逆にその神の意志から、「私」はそれが自分の中にも似た物があると発見していくのではないか。第1章で「我思うゆえにありうるのは我々までである」と説いたが、何が意織しているか当初はわからないまま、他者としての神を認識し、自らにとって不如意であること甚[はなは]だはしいが導いてくれる、その神に似たものとして意識の境界を確定し、「私」の意志性を発見していくのではないか。
JRF2025/6/253768
人が出会う最上の動物は人である。意志のあるものに人以上のものはないことから、今度は神の意志性も人と同様の働きがあると想像していく。神の意志性が人の意志性となったあと、今度は逆に、人の姿を神に適用していくようになり、そこに人格神が生じるのであろう。
<
JRF2025/6/256626
……。
>擬人化仮説とは対照的に、私は、子どもは人間について推論するように神について推論する必要はないと主張する。実際、子どもの心は、アブラハム系一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)や他の宗教の神概念の多くの特徴を理解し、使用することを容易なものとする。この提案を、準備仮説と呼ぶことにする。子どもが神についての考えを容易に形成することができるのは、子どもの心のメカニズムが神についての学習に有利な二つの特徴を持つからである。
JRF2025/6/255881
第一に、この心理的装置は人間以外の行為者を容易に受け入れる。第二に、行為者が超人間的な特性を持っていないことが明らかになるまでは、超人間的な特性を持つことが前提となるようである。超人間的であることは自然のデフォルトの設定に近いのだ。
JRF2025/6/252410
(…)
神についての考えを獲得するのに有利な子どもの心の二つ目の特徴は、子どもの心は、多くの超人間的な特性が標準であると、単純にデフォルトで想定していることである。たとえば、第1章で紹介した過敏な行為者探知装置(HADD)が、何かを意図的を持つ行為者と認識した場合、3歳児は自動的に、その行為者にあらゆる情報にアクセスできる、あるいは誤りのない信念を持つという超人間的な特性を仮定する(少なくとも次の二章で説明する一定の範囲内では)。
JRF2025/6/255960
発達心理学者は、超越的な知識、超越的な知覚、創造力、不死などの神の特性が、少なくとも幼児にとってはきわめて直観的であるという証拠を見つけ続けている。神の概念は、これらのデフォルトの前提条件に背くのではなく、それを利用しているので、容易に受け入れられるのだ。
<(p.71-72)
JRF2025/6/252687
親もまずは力に制限のないものとしてまずは認識され、徐々にその制限が学ばれる…ということらしい。制限のない力のほうが他者の力としてはデフォルトのようだ。
なお、HADD は hypersensitive agency detection device の略。
JRF2025/6/253052
……。
ピアジェなどは「神」は特別な人間であるというふうに学ばれるとしたがそうではないのだという。箱の中身が見えないとき…
>どの年齢層の子どもたちも、だいたい80%かそれ以上が、「箱の中に石があることを神様は知っているだろう」と答えた。つまり子どもは必ずしも神をただの人間として考えてはいないことを示す証拠である。<(p.80)
JRF2025/6/253917
これは神の全知性の認識が子どものころからあるとするのであるが、私は全知性は歴史的に登場してきた概念だとしたものだった。おそらく子どもが知っている「全知性」は、未来にわたっての全知ではないのであろう。透視能力に近いのかもしれない。
JRF2025/6/256713
『宗教学雑考集』《神の全知性》
>「全能者は「重すぎて何者にも持ち上げられない石」を作ることができるか」という有名な神学的逆説がある。《全能の逆説 - Wikipedia》によると様々な解釈があるようだが、神を全知・全能・至善とするのは、論理学的には難しい。極論すれば、何を強調するかという問題でしかない。
JRF2025/6/257502
全知性を強調して四次元上の全知性しか考えないことは、神が予測し得ない決定を行える者を神が「創造しえない」と考えていることを意味する。すなわち神の全能性に疑問を呈しているのである。もちろん、そのような創造をできるとした場合は、神の全知性は過去の事実と将来の可能性の認識や大まかな計画に限られることになる。
全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。
JRF2025/6/253029
全能性を強調する立場のほうが、いろいろバリエーションを考えることができる。
<
『宗教学雑考集』《神の全知全能性》
>ところで、神が未来にわたって全知、あらゆることに全能というのはどこから出てくるのか? 古代の神々はそれほど全知全能でなかったことが知られている。
JRF2025/6/257403
因果応報のためには、人のなしたことをすべて知っていなければならない。応報がいつも機能しているためには、いつでも介入できる能力があり、いつでも介入していなければならない。(このあたりは、《魂の座》の「神の記憶モデル」「霊的肉体モデル」にもそれぞれ対応しているのだろう。) でも、それらは「神が未来にわたって全知、あらゆることに全能」とは少し違う。
JRF2025/6/259289
それが未来にわたって全知となるには、応報がその人のためになっていることがわかっていることが必要だから、未来もわかっていなければならないからだろうか。ただ、神が公平な裁判を行うという概念は古代にもあったが、しばしば神は至善(常に人にとって善いことをなす)ではなく、そこに全知性は成立してなかったと思われる。
JRF2025/6/251964
どこから至善で全知が導き出されるのか? …善は法として人が決めるものだから、神も決める、神の「法のように決めたこと」が善だから、それを決めれる神は至善なのだ、そしてそのために人のすべての行動を知る全知があるはずだ…という展開だとすると、ハンムラビ法典のような<b>法律の成立が至善性・全知性の淵源なのかもしれない</b>。
JRF2025/6/259806
人に言うことを聞かせるには「全能」を信じさせたほうが良い。しかし、なぜそれを信じることができるのか? 奇跡信仰との関連だろうか…。なぜ奇跡を信じることができたのか? 世界が広まり伝聞が重要になったからだろうか…。ピラミッドのような<b>公共事業や科学技術の驚異が、奇跡のあり方を空想させ、人にその延長線上の全能がありうることの信仰を生んだのかもしれない</b>。
JRF2025/6/257751
文明の進展とともに「神の記憶モデル」と「霊的肉体モデル」が相互に影響を与え合った…ということだろうか? 法で人が応報すること(「霊的肉体モデル」に近い罰をもたらす考え)が「神の記憶モデル」に作用し「全知性」を、技術などの知識(「神の記憶」に近い「知識」)の蓄積が「霊的肉体モデル」に作用して「全能性」を形成していった…と。
<
JRF2025/6/251111
……。
……。
>イスラム教の一部とユダヤ教とキリスト教の神学者が言う、空間も時間も持たない神<(p.94)
このことについては、この「ひとこと」を書く前に気になったので、深く考察してみた。次のような考察である。
JRF2025/6/257085
……。
神のいる「空間」は考えることができる。
唯一神教の一部に、空間も時間も持たない神という神学がある。私はこれを否定したい。
まず人格神であることを肯定するなら、人格神には感情的な動きがあり「動き」がある以上「時間」がある。もちろん、その時間は人間の時間とは重ならない超越的時間かもしれないけれども。
JRF2025/6/255903
次に、直線のグラフを書いたとき実際には、それが無限に続くはずなのにそれを図示せずとも、空間が把握されうるように、また、x = tan(y) のように、または、ゼノンのパラドクスのように無限を有限(の図)に繰り込める。神が無限である「空間」に入らないからといって、その無限を繰り込んだ「空間」を想像できないわけではない。その内部にいるものには、その空間の外にはどうやっても出ていけない。また、その外部というのが概念的に考えられたからといって、その外部から操作できる者が何もいないというだけのことである。この場合、「それは空間でない」というのはそれを考えてはいけないというルールでしかない。
JRF2025/6/250490
次にバイナリ空間という言い方があるが、(人, 非人) という二値もまた「空間」を構成しうる。超ひも理論の11次元空間を超えて無限次元空間というのもありうるし、可算無限次元を越えた無限次元などもあり、それが無限に続く次元を次元としてはとらえられないというのはあるかもしれない。しかし、それは集合論に属する。集合論を一つの「空間」とすれば、それにとらえられるわけだ。特に(自然言語もそうであるように)「非人」のような否定という文が可能になった時点でその論理空間は、神を含みうると考える。
要は「彼ら」の定義する「空間」がそのような「空間」ではないと言っているだけなのだと私は考える。
JRF2025/6/250402
もちろん、そのような空間でなされる神の言及はすべて間違う定めだというのかもしれない。ならばこういおう。その場合、神は論理的には「矛盾」という「空間」に(も)存在するのだろう。
そして、唯一神教徒は「矛盾」に神があるという言い方を嫌うだろう。ならば、「矛盾」にないというならば、「そこに神がある」と定義できる空間は(概念としては)あるのだ。定義上、神(の全体)はそこに(も)ある。(「空間」という言葉を使えないなら「超空間」と言えばいい。)
JRF2025/6/250762
……。
タネ明かしすると、↓の議論において「創造神は「どこ」にもいない」という反論がやや想定外だったように感じられて、しかし、それぐらい考えてなかったはずはない…とこねくりまわしたのが今回の論になる。
拙著『宗教学雑考集』《始源論》
>世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。
「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。
JRF2025/6/255807
しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。
JRF2025/6/251250
少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。
結局これはどちらもありうる話なのだと思う。
<
JRF2025/6/250223
……。
↓も思い出す。
参: 涅槃考
[cocolog:95459643](2025年5月)
>涅槃考。生成 AI に即して、人の世も最適化過程で、望ましい定常状態からズレたところから、意味を生成していくと考えてみる。そのズレが大きな意味で「カルマ」と考える。ならばそれを消す「涅槃」とは何か? ChatGPT は「出力可能性」に満ちた静かな構造としての存在というが…。
JRF2025/6/253046
(…)
私は「諸行無常」を「諸行無常」自身に適用できると思う。あくまでも「無常」は「諸行」について言ってるのであって、「諸法」については言っていない…という者も多いかもしれないが、私はそう解釈したい。
JRF2025/6/259589
(…)
「諸行無常」自身に「諸行無常」適用すればどうなるか。それは常にある法則があるということになる。それはつまり「諸行無常」自身がその常にある法則ということに気付く。しかし、それ自身が常にあるというなら、それは「諸行無常」自身に反している。これは矛盾なのだ。だが、矛盾がしばしば重要な役割を果たして生成されうるのが「リアル」であるというのも真理のように思う。
(…)
<
JRF2025/6/255450
……。
議論の大勢には影響を与えないはずだが、そういえば、集合論(ZF など)では、「非人」のようなある集合以外の集合というのは直接的には(ベース集合なしには)定義できないのだった。
この点、AI さん達に確認を取ると、その事実はむしろベース集合のような空間の必要性を認識させる点で、むしろ私の論を補強するという意見がいくつかあった。
JRF2025/6/253798
……。
……。
>私の母がまだ子どもで原理主義的な教育を受けていた頃、「神様はいつも見ているよ」と強く言われるのが不気味だったと、私に話してくれたことがあった。「お行儀よくしていないといけないよ。神様はいつも見ているんだから」と特に厳しく言われた後、のぞき見をする神のせいで、トイレを使いにくかったという。
JRF2025/6/257009
確かに、人間が見たり聞いたりできる以上のものを、見たり聞いたりできるというのは、全知ではない神であっても全世界の神々に共通している。目に見えなかったり、特別な知覚的能力を持っていたりするために、神は、隣の家の人よりも多くのことを見たり聞いたりしている。実際、情報 -- 特に私たちの言動についての情報 -- にアクセスできるために、多くの文化で、神は人間に道徳を強要したり、神とその領域に対する違反行為を罰したりすることができる。
<(p.96)
JRF2025/6/252833
「全知」までは必要とされないが、かなり見聞きできると想定されるのが神ということのようだ。それはいってみれば、必要あらば罰するためのようだ。
Gemini:> 神の概念は単なる抽象的な教義としてではなく、子どもの発達途上の認知機能(特にHADDや超人間的な特性をデフォルトと見なす傾向)と、文化的な伝達(親や教師からの言葉)が結びつくことで、極めて個人的かつ具体的な形で形成されていくことが示唆されます。
JRF2025/6/251755
……。
>道徳的推論に関する最近の研究結果、特に進化論的な観点からの研究によって、以下のような結論が出始めている。人は幼少期から、基本的な道徳的な本能、基本原理、直観を持っている。これらの道徳的直観は、世界中の人々が何が正しくて何が間違っているのかについてどう考えるかの骨組みを提供する。
JRF2025/6/259519
たとえば、私たちは皆、その人の同意なしに他人を傷つけてはいけないと言う直観的なルールを持っているかもしれない。しかし、このルールは、文化的環境によって衰退したり増幅したりすることがある。道徳を教えることは、子どもたちのこうした道徳的感受性を高め、子どもたちがこれらの直観に気づいて新しい状況に適用し、時には競合するルールを道徳的直観を持たない人たちと競い合うのを助けたと示唆している。これらの観察は、ある人たちの主張に反して、道徳の核となるものは、特定の文化的信念体系から生まれるのではないことを示している。
JRF2025/6/253565
正常な発達をした人たちは、似たような基本的道徳的直観を持っている。全ての人が、物理的な物体の特徴や、人間の行動がどのように信念と欲求によって形成されるかについての基本的直観をも持っているのと同じである。
<(p.106)
JRF2025/6/250517
宗教が教える以前に原始道徳とでも言えるようなものが人間にはあらかじめ備わっているらしい。宗教がそれに反した教えを埋え付けるのはなかなか難しいようだ。しかし、道徳を特定の方向に伸ばすようなことはできるのだろう。
ある行為が本質的に正しいか間違っているかするものだというのは「道徳実在論」と呼ばれるようだ。
神がしばしば全てを見聞きするだけで十分なのは、全てを見聞きしさえすれば、道徳はすでにあるものだから、誰が正しいかは容易に判定できる…と想定されるからということらしい。
JRF2025/6/255255
……。
>人間が欲しいものを手に入れるために、騙したり盗んだりするのと同様に、弱い神は、欲しいものを手に入れるために不道徳なことをしなければならないかもしれない。宇宙の統治者である神は、全知全能であるからこそ、知識と力について過ちを犯しやすい神に比べて、不道徳な行動をとったり、道徳的に堕落する理由がほとんどないのだ。<(p.110)
なるほど、全知全能であれば「至善」は自然にそうなるものだ…と。
JRF2025/6/251742
上の『宗教学雑考集』《神の全知全能性》では至善性は、(自然の)法を作ったのが神だからというところに置いていた。ただ、私の至善性に関する考えはむしろ次に現れる。
『宗教学雑考集』《善》
>私はこれまで生きてきて、どちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭[いと]わない道を意識として持つべきだと思うようになった。
JRF2025/6/251936
現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。<b>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。</b>そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。
JRF2025/6/253053
「神は善とされる」という部分には二重の意味がある。第一義的には神が足りない「善」でも恩寵[おんちょう]によって善と認めてくれるということだ。善であろうとした努力を認め、虚の世界でかもしれないが、報いてくれるのだろう。もちろん、報いがあるから善であるべきという話ではない。
JRF2025/6/250927
第二義としては、神が虚の世界を通してかもしれないが、偽善の足りないところを補って善となるようにしてくれるという意味も込めている。この場合は、現実においても我々の偽善的行為が神の助力によって結果的に善として結実していることがしばしばありうるとなる。「善は不可能」とまでは言えないということだ。
神の義・善とはそのようなものなのだ。
誰かから見て善悪、自分の今の状態からみての善悪、やるべきだという should という相対的善悪、皆が決めたまたは誰かが決めた法の善悪…はあるが、絶対的善悪をいおうとすると、それは神にでも求めるしかないということだ。
<
JRF2025/6/250397
……。
>子どもは大人が抱えるような恵みと感謝の問題を有していないのかもしれない。強い義務感と等価交換の感覚を持っている大人とは異なり、子どもにはそのような感覚はないようである。とりわけ非常に幼い子どもは、他者からもらった分をお返しするような資源も能力もなく、何かをもらうことも、何かをしてもらうことにも困惑することはあまりない上に、プライドが邪魔することもない。<(p.126-127)
社会的交換の義務感が大人にはあるが、子どもはそんなことを気にする必要はない。神の恩寵は子供であったときのほうが、受け容れやすかった真理なのだろう。
JRF2025/6/258292
……。
>子どもは大人が抱えるような恵みと感謝の問題を有していないのかもしれない。強い義務感と等価交換の感覚を持っている大人とは異なり、子どもにはそのような感覚はないようである。とりわけ非常に幼い子どもは、他者からもらった分をお返しするような資源も能力もなく、何かをもらうことも、何かをしてもらうことにも困惑することはあまりない上に、プライドが邪魔することもない。<(p.126-127)
社会的交換の義務感が大人にはあるが、子どもはそんなことを気にする必要はない。神の恩寵は子供であったときのほうが、理解しやすかった真理なのだろう。
JRF2025/6/254490
……。
>子どもは犬や鳥、カタツムリが生きていると理解する時期にはまだ、苔やキノコ、カビ、木々は生きていると認識しないということである。それゆえ、子どもや初期人類が全ての物体は生きており、意識を持つと見なしているという考えは、科学的には正しいとは言えない。そのため、諸宗教の伝統に見られるアニミズムに子どもが直観的に惹きつけられるとは考えにくいのだ。
JRF2025/6/259953
しかし、大人の信念体系の多くに見えられるようなアニミズムのいくつかの側面は、まったくもって非自然的というわけではなさそうだ。自然的な素朴生物学の主な要素の一つである、生物は生命力や活力を有しているという考えは、熟慮の末構築された多様な文化的信念を組み上げる際の、熟慮不要な素材を提供しているかもしれない。そうして文化的信念としては、精霊や生命力、気、ないしは人間に(特には物体にも)生気を与える目に見えない内的エネルギー(あるいは霊)についてのさまざまな信念が挙げられる。
JRF2025/6/251673
ユダヤ教とキリスト教は、神の息ないし霊とは無生物を生物に変え、人間や動物を生き生きとした生命力のあるものにするような、生気を与える力であるという考えを共有している。おそらくこうした生命力としての霊という考えは全て、生物についての自然的・認知的思考において直観に訴えるものがあるのだろう。
アニミズムに関して少し非自然的で反直観的なのは、岩や木々でさえ人間や動物と同等に霊を持つという発想である。
<(p.129)
JRF2025/6/255196
デュルケムはトーテミズムからアニミズムに流れるというふうな説明で、その中間的なところにマナの理論を位置付けた (確か)。私は、霊の理論はすでに知られていたが、トーテミズムはそれをあえて避けていたと考えていた(イメージによる進化にのっとるためである)。
トートミズムでも認識されていたように、岩や木々にも霊が宿りうるというのは私にはかなり自然な発想のように思う。ただし、それは岩や木々が死んで霊になりうるというのとは違うのだろう。
JRF2025/6/251910
『宗教学雑考集』《身体と影》
>>身体ではないが、人から離れないものとして影がある。
>影は、見たところ非物質的な現象でありがなら、しかし直接に身体と関係する現象である。人間の影はしばしば霊的な要素の可視的な形態と考えられている。したがって影は、時には生命力と結び付けられ、時には祖先に由来する要素と結び付けられるわけである。例えばフォン族では、影[イエ]は祖先の証である。つまり、「子供は時として、その祖先に生き写しであるが、それは、影が身体の形体を保持しているからなのである」。(エリアーデ『世界宗教史 8』p.32)<
JRF2025/6/257472
影は不死でもある。死んでも影は残るから。霊はときに影のようなものである。
夜に影はなくなるが、火は影を復活させる。火葬は案外そういったところに淵源があるのかもしれない。
影は守護霊的である。守護霊という概念があって、それが影に似ているのか。それとも、影から守護霊を想像するようになったのか。どちらもあるのだろう。ただ、守護霊の概念が複雑になるにつれ、影との類比が崩れ、守護霊の概念が影から独立していくのだろう。
影が霊なら、自然物にも影があるので、自然霊・精霊がありうるとなるのかもしれない。
<<
JRF2025/6/257274
影を知ることは、狩りにも適応的であると思われる。私が子供のころ『カゲマン』というマンガがあったが、影への興味というのは子供のころからあるように思う。それが自然に精霊のような概念に結び付くというのが上の私の論の示すところである。
ちなみに『宗教学雑考集』《オッカムの神概念とマナと悉有仏性》で書いたように私はどちらかというと山川草木悉皆成仏・山川草木悉有仏性を信じる者である。
JRF2025/6/252044
……。
>子どもたちは他の宗教よりも、一部の特定の宗教に対して、一般的な意味でのバイアスがかかっているかもしれない -- おそらくこれがある宗教が他よりも広まる理由の一つなのだ -- が、子どもが信じる傾向にある考えを完璧に反映した宗教的伝統は存在しないだろう。<(p.131)
子供が生まれるときの経験から、「梵我一如」を学びやすいと私はしたのだった。
JRF2025/6/259279
『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>神の意志性から私の意志性を発見するというのはこの「梵我一如」を知ることに似ている。意志性といった場合、肉体的一致までは要求していないので「梵我一如」と正しく対応するわけでなく、もっと素朴であるが。
神の意志性はいつ発見されるのか、その永遠性を必要と考えたとき・望んだときだろうか? いや、永遠性はあとづけのもので、神との対峙が先にあると私を自ら振り返って思う。
JRF2025/6/258041
他者という点では親などの認識のほうが先ではないか、親の意志性の認識から私の意志性をまず発見するのではないか? …この見方は、少し事実と異なるのではないか。欲望は意志の前からあると考えるが、そこにあるのは、欲が実現するかどうかという視点だけで、欲に応えてくれる存在がある…ということであろうと思われる。何かと不如意のなか、欲望が実現するときがある。そこから欲望が実現しやすい親という「他者」を認識することにはなるのだろう。しかし、本人が未熟で、理性的な意志性の発見までにはなかなかいたらないのではないか。
JRF2025/6/257972
ただ、そのような素朴な意味での「他者」性の発見も含めるなら、それは、まず胎児の段階にあるのではないか。ある意味、胎児の段階でそのわずかな「世界」を「他者」と知るものと思われる。そしてそれは「他者」でありながら、自己と一体である。
…もしかするとそれが「梵我一如」の正体なのかもしれない。「梵我一如」は胎児であったことの記憶が残滓として残っていて、それを真実と感じてしまうところに真実性の担保がまずあるのかもしれない。
JRF2025/6/252148
(…)
キリスト教でも、私の梵我一如が胎児の感覚から来ているという理論からすると、梵我一如的なものを真理ととらえる感覚自体はなければならない。キリスト教では、それは、三位一体の「イエスと神の一致」に現れ、そのイエスに倣うことによって、個々がそれを(胎児のころから数えて再び)ものにする。…という形なのだろう。
JRF2025/6/257638
イスラム教の場合、神人一致というとスーフィズムがあるが、スーフィズムのないところもあることを考えると、そこ以外に、梵我一如的なものがあるに違いない。難しいが、それは、梵我一如の感覚が胎児という「過去」の記憶であると同様に、キリスト教という「過去」が梵我一如を「達成」しているとして、それを「大人」の宗教であるイスラム教が取り込んでいるということにするのではないか…と私は考える。ここから敷衍[ふえん]すると、逆にキリスト教を過去とできることが弱いところほど、スーフィズムが現れることが予想されるが、実際のところはどうなのだろう?
<
JRF2025/6/251885
……。
神を信じることを子どもっぽいからダメだとする一派がある。
>フロイトと同じくドーキンスにとって、神や神々を信じることは子どもっぽいことで、人は成長したら「神を捨て去るべき」なのだ。<(p.148)
まず、バレットさんは、真実性などが大事なのであって、それが子供時代からあることは問題にならないとする。
JRF2025/6/254253
>信念が子ども時代に生まれたという意味で「幼稚である」ことは、それが真実や善であるかには、直接関係しない(…)。幼少期の信念については、その有罪が証明されるまでは、無実であるとして扱うのが最も賢明なのかもしれない。<(p.151)
その上で、宗教を信じてる人のほうが概ね幸福感が高く健康であることなどを挙げる。それがその人にとっての「真実性」ということでもあるのだろう。
JRF2025/6/257333
……。
子どもは理解しない限り、信じることはできない。
>自分の子どもに、七次元空間に存在し、人が考える前にその人の心を読み、目で見るだけでいつでも誰でも消すことができ、毎月の素数の水曜日に現れたり消えたりするが、それぞれの人のエーテルが原生動物として生まれ変わっていた世界へ戻ってくるかどうかに非常に大きく関わる、特別なジャガイモがあると信じさせようとしたら、その子どもは(大人も)おそらく「ふーん、ジャガイモ。フライドポテトなら好きだけど」と返事をすることだろう。
JRF2025/6/259789
子どもが最低限の理解をするということは、その子どもが信念を獲得するために必要なことであり、そしてその子どもの概念能力は、子どもが理解するものに制限をかける。そのため、どれだけ情熱的に強制的に親から勧められようとも、子どもが信じるものはその子の概念能力によって制限されるのである。
<(p.166-167)
どっから出て来たんだ、ジャガイモ(笑)。
JRF2025/6/251403
……。
神も霊も信じないタイプの無神論はかなり特殊で、自分が無神論者だと思う人の周りに無神論者が多かったとしても、それは「類は友を呼ぶ」だけのことで、無神論者を多く見つもっているのだという。
JRF2025/6/252773
>神を信じていない人々というのは実際に存在する。彼らの信仰の欠如はとても非自然的なものなのだろうか。「非自然的」というのが病気や異常、精神的障害を指すのだとしたら、その答えは「いいえ」である。「自然的」ということが人間本性の典型的な表現を指すのなら、確かに彼らの信仰の欠如は非自然的だと言える。つまり、非自然的というのが日常的な、成熟した自然的認知システムによって十分に支えられていないということを意味するなら、無神論は非自然的ということになるが、それはコンサートピアニスト、最高峰の科学者、現代の神学者についても当てはまる。<(p.175)
JRF2025/6/250459
……。
>多数の宗教認知科学者が通常の宗教的思考や行為、経験にとって重要だとする要因の一つは、心の理論のシステムおよび関連する社会的推論である。すなわち、他者の心の心的状態を推論する十全な能力がなければ、特に幽霊や精霊、神といった不可視の非人間的存在の心を推論することも難しくなるということだ。他の成熟した自然的能力と同様に、心の理論がどれほど容易に、円滑に機能するかは、人によって異なる。
JRF2025/6/259879
心理学者のサイモン・バロン=コーエンは、こうした心の理論および関連する社会的認知の可変性を調査する一連の研究を行った。彼は社会的認知能力と関心が大きく欠如していることを男性脳と名づけたが、このことは議論を呼んでいる。
JRF2025/6/255874
彼がこの個人的特質を男性性ではなく男性脳と呼ぶのは、それが女性の間にも見出され、男性の間でもとても強く見られる人からほとんど見られない人まで、大いに差が存在するためである。Y染色体を有することは男性脳になることに対し決定的ではないようだが、男性は女性よりも何倍も深刻な男性脳に悩まされやすい。男性脳を強く予測する生物学的要因は(ベビーベッドの中でもその兆候は見られる)、子宮内のテストステロンの濃度である。男性脳が臨床的に極端な形として現れたのが自閉症だと、バロン=コーエンは述べている。
<(176-177)
JRF2025/6/251438
たまたま男女の脳の性差に関して「メモ」していたのでそれをこちらにも書いておこう。
>>
○ 2025-06-18T22:13:53Z
《森口佑介『つくられる子どもの性差: 「女脳」「男脳」は存在しない』(光文社新書 ):X:2025-06-16》
https://x.com/moriguchiy/status/1934421757676720484
JRF2025/6/257814
>フランスの小学1年生を4年間追跡したところ、入学時数学の性差はないが、4ヶ月で男子有利になり、1年後に拡大するという衝撃的な研究です。年齢より就学と関連することから、数学における性差は生得的ではなく、学校教育による社会文化的現象という結論。Natureです。
https://www.nature.com/articles/s41586-025-09126-4
<
JRF2025/6/254895
これは保育園の先生は男女を区別しないということ? それとも(数学を学んだことのない)ゼロ点を比較しても無意味ということ? でも、そんな単純な疑問を Nature が見過ごすはずはないから、論文を読めばそのあたりのことも書いてあるんだろうな…。
JRF2025/6/259438
○ 2025-06-19T11:45:49Z
何が言いたいかというと、小学校の先生のバイアスが保育園の先生のものとさしてかわらず、実質的数学教育開始前のゼロ点から始まるなら、実質的数学教育で成長する素質(生得的)には性差があるという仮説も成り立つことをこの研究は示しているとも読めるということ。
コロナ下で差が縮まったのも、実質的数学教育には競争と評価が大事で、それがないため実質的数学教育としての成長が全体として乏しかったためという解釈も可能である。
JRF2025/6/252169
もちろん、これは生得的性差があるという仮説も成り立つというだけであって、社会環境によるという仮説を否定するものではない。今後、さらなる研究が進んでどちらかが否定されることもありうるし、よりありうるのは、どちらの仮説もそれなりに正しいとされることだ。
JRF2025/6/256658
でも、この論文では生得的性差を否定しようとしていたが、それは否定できていないというのが私の Gemini Deep Research を使った感想。この論文が言えてるのは、結局、結果としては数学に性差があることぐらいではないか。もしかすると、それを示すのにこういう体裁を取らないといけなかったことに現代の問題があるのかもしれない。ただ、先にも述べたように Nature に載った論文にそんな穴があるはずもなく、おそらく私に間違いがあるのだろうと思う。
JRF2025/6/253203
ちなみに Gemini 2.5 Flash Deep Research は生得的性差があるという私の仮説はかたくなに否定。Grok さんはそれもあるかもね…と認めてくれた。
<<
JRF2025/6/251404
……。
バレットさんによると無神論は非自然的だが、無神論になりやすい条件というものがあるようだ。
>無神論が存続し広まるためには、さらなる個人的、社会的・環境的要因が必要である。それゆえ、あなたが満足した、堂々とした無神論者になりたいのなら、私のアドバイスは以下の七つのステップに従うことである。
1. 他者の心について平均以下の推論能力を持ち、心理的・社会的推論を行わない傾向を持つこと。意図を持つ行為者を使った説明が難しいのであれば、宗教的思考は弱められるだろう。
JRF2025/6/252079
2. 子どもを持たないこと。依存関係を少なくして生活することは、無信仰を可能にする。
3. 安全な環境にいること。めったに生存が脅かされず、生存に関わる判断がめったに行われないような環境は、宗教的存在への誘引力を減らすだろう。狩猟をしなければ生き残れないような生活を避け、土地や天気の予測不能性に脅かされない生活をすること。
JRF2025/6/250940
4. できる限り何でも人間のおかげだと考えたり、人間のせいだと考えたりする習慣を持つこと。とりわけ強い政府と洗練された技術を有する都市化社会に見られるように、その環境に意図を持つ行為を見出した場合に、人間の活動が十分な説明になりうるのであれば、そのような行為の説明として神を求める必要性は限られたものとなる。
JRF2025/6/252709
5. 疑似行為者を好むようにすること。明らかに通常の人間のコントロールを超えた状況や事態において、運命、偶然、正義、政府、自然選択といった疑似行為者ないし抽象物が説明に利用できるなら、日常会話でそうした見方に慣れることによって、神はより遠ざけられる。
JRF2025/6/258607
6. 熟慮のために時間をかけること。宗教的思考の自然性に抵抗するための重要な要素は、冷静に熟慮を行う時間である。自然的な概念バイアスから逸れる神学が生まれるためには熟慮のための時間を要するのと同じように、非宗教的哲学や世界観も熟慮するための時間を必要とする。
7. これらの要因に、若いうちからの反宗教的教え込みを加えること。そうすれば無信仰が戦い続けるチャンスが生まれるだろう。
JRF2025/6/251003
ここで無神論の普及に貢献するものとして提示した諸要因は、人類史の上では比較的まれなものであるが、とりわけヨーロッパ社会においてはますます一般的となっていることに注目してほしい。
<(p.189-190)
いくつか補足する。まず 2 について。
JRF2025/6/251251
>あなたは保護者として、自分の子どもを安全で、栄養十分で、健康で、幸福な状態に保つことはできないかもしれない。それゆえ、保護者は宗教的実践も含む補償方策に訴える、とベインブリッジは述べている。彼によれば、「扶養する人を持たない人や、そのような義務を負う何らかの強い社会的絆のない人は、より自由に無神論を信奉できる」。この主張に合致するものとして、ベインブリッジは独身で子どもがなく、若い男性は他よりも無神論者になる割合が高く、子どもを持つことは無神論の強い妨げになることを示す調査データを提供している。<(p.179-180)
JRF2025/6/256748
3 について補足する。
>この分析と合致するように、無神論は切迫性が比較的低い場所において最も広まっているように思われる。それはすなわち、比較的裕福で安全な、工業化を終えた社会である。厳密な無神論は狩猟採集社会や、漁業や農業で生計を立てている人々の間ではあまり見られない。無神論は、人々が捕食者や獲物、しのび寄る敵、作物をだめにする嵐の心配をしなくてよい場所で最も一般的になる。食物がスーパーマーケットの棚で育ち、政府機関が人々を保護しているような場合には、HADD の作用はずっと少ない。<(p.181)
JRF2025/6/257061
……。
宗教教育(例えば地獄について教えること)を性的虐待に比すような意見がある。ドーキンスやヒッチンスなどが主張している。しかし…
JRF2025/6/254552
>宗教的な関与と、心理的かつ身体的な幸福の関連については、かなり研究されている。そして一般的に、宗教に関与している有神論者は、無信仰者よりも心理的に健康で、情緒的かつ健康上の問題によりよく対処する能力があることがわかっている。この研究の大部分は、教育の中で地獄について教えられてきた、主にキリスト教徒の集団が対象であり、少なくとも、地獄や他の「虐待的な」教義は、宗教的参加による恩恵を帳消しにすることに成功していないことを示唆している。
JRF2025/6/256684
子ども時代の性的虐待の悪影響についても多くの研究がある。これらを統合すると、より直接的で体系的なエビデンスがない限り、宗教教育を性的虐待と類似したものとすることは、学識のある科学者としての見識が問われる。<(p.194)
子どもの頃にバレットさんが受けた…
JRF2025/6/255765
>ホロコーストの心象は今でも、地獄の心象よりも強く私の脳裏に焼きついている。ホロコーストについて教えられたことは、私にとって邪悪で虐待的だったのか。ヒッチンスは、ホロコーストは嘘ではなく実際にあったのだから虐待とは違うと言うかもしれないが、そのような答えは間違いなく、彼が忌み嫌う原理主義者の術中にはまることになる。「地獄は実在するし、嘘ではない」と言う彼らの声が聞こえてきそうだ。<(p.195)
さらに、子ども自身の社会的欲求として宗教的教育が求められているのだという。
JRF2025/6/250172
>子どもたちが何を考え、何を信じ、何を大切にして、自分自身が何であると思うかを決めるときが来たら、社会的な配慮が知的な配慮と同じくらい重要になるだろう。子どもは(一般的に)、多くの宗教的、無宗教的な次元で親たちのようになりたいと思う。子どもたちを社会的な輪に入れないのは、感情的な追放の一形態だろう。子どもが親と自分を同一視するのは自然的なことなのだ。
JRF2025/6/250466
私が危惧するのは、考え抜かれた信念体系(宗教であろうとなかろうと)を親が子どもに与えないという、ハンフリーとドーキンスの戦略は、実際には破綻の運命にあり、家族内に関係性の距離と疎外を生み出すだろうということだ。親の価値、信念、習慣、社会的一体感から意図的に締め出された子どもは、もしそのようなことが本当に可能であるならば、親に自分が心から信じている信念を教えられた子どもよりも「虐待された」と感じるだろう。そのような子どもはまた、洗練されていない自然宗教により引き寄せられやすいだろう。
<(p.197)
JRF2025/6/259332
……。
人はいろいろなことに取り組んでいるが、その中に宗教的な取り組みが含まれている人は、様々なことに葛藤が少なくなるともいう。
JRF2025/6/253891
>エモンズの研究は、宗教的な努力を必要とする取り組みが多い人たちは、取り組み間の葛藤が少ないことを明らかにした。宗教を中心に据えた人たちは、競合する価値観や欲求によってばらばらになるよりも、取り組みの間で足並みがそろう傾向があった。
JRF2025/6/258809
「よい市民であること」、「良い友人であること」、「神を喜ばせること」といった三つの異なる取り組みは、全て調和しており、互いに有効に関連している。宗教的信念が日々の目的や努力を必要とする取り組みに対して影響を与えるほどに宗教的に積極的に参加していることは、人生において何が重要かを構造化し、順序づけることによって幸福を促進する。それによって、葛藤を減らし、それによって精神的・身体的病気を減らすのである。
<(p.202)
JRF2025/6/252427
生活は、感情的なまたはそのほかの矛盾に満ちている。宗教も三位一体のように「矛盾した」真理を含むが、それに慣れておくことで、生活の矛盾に対しては自分の中では矛盾をあまり感じずに対応できる場面が増えるのかもしれない。
Gemini:> つまり、宗教的な信念は、単に特定の価値観を提供するだけでなく、複雑で矛盾に満ちた現実世界を精神的に乗り切るための「認知的なツールボックス」を提供している、という側面もあるのかもしれません。
JRF2025/6/253988
……。
先に無神論者になるための七箇条が示されたが、最後に、今度は子どもを信仰者とするための十箇条が示される。
>要約すると、子どもが特定の宗派の成熟した信者になる自然的性向を作り出したいのであれば、以下の10のガイドラインに従うことを勧めたい。
1. 早くから教え始めよう。幼い頃(3-4歳)の僅かな投資は、児童期の終わりのより大きな投資よりも価値がある。子どもは、抽象的にではなく具体的に説明をされた場合には、大人が考えている以上に神学的な内容を取り扱うことができる。
JRF2025/6/256311
2. 愛と謙遜な心で教えよう。信仰を持たせるために子どもを脅してはならない。その代わりに、あなたの人生の中で最も重要な宗教への関わり方を共有できるように、子どもたちを招き入れるのである。「知らない」とか「わからない」といった言葉を恐れてはならない。子どもと共に探求すれば良い。
3. 考え方、学び方、見分け方を教えよう。あなたは全ての事実を知っているわけではないだろう。だから、学び方や悪い考えと善い考えの違いの見分け方のモデルになることは、伝えたい内容以上に重要であろう。
JRF2025/6/259192
4. 優柔不断な言葉を使うのはやめよう。神が存在すると信じているのであれば、神は当然いるものとして話さなければならず、「……と信じています」のようなあいまいな言い方はしてはならない。神が信頼できると確信しているのであれば、「神への信仰を持っています」ではなく「神を信頼しています」と言い表そう。
5. 神の存在とその業によって現実世界に目に見える違いが現れているような文脈の中で神について話そう。あなたの神は現実世界に違いをもたらしているだろうか。この点を指摘しよう。子どもが時折、神の業を探し当てているのであれば、その信念は強化されるだろう。
JRF2025/6/253549
6. 宗教的な考えを日常生活の中で使おう。子どもにとって神が存在し、子どもと関係を持つようになるためには、神は祝日や宗教的行事だけに限定されないほうが、助けになるだろう。
7. 信仰に行動を起こさせよう。霊や神を信じることは、行動の仕方や特定の価値観への動機づけを変化させているだろうか。行動を通してこのつながりを描き出さなければならない。
JRF2025/6/250902
8. 自分の信念に従って行動しよう。子どもは、あなたが言ったことをあなた自身が信じているという、行動による証拠を必要とする。子どもは矛盾や偽善に驚くほど気づきやすい。
9. 宗教的な関与をあらゆる感情と結びつけよう。子どもの感情や体験の全てに神を結びつけたいのであれば、神を楽しいときやゲームとだけ結びつけることも、畏怖や厳粛さとだけ結びつけることもすべきではない。
10. 子どもと安定した関係を形成しよう、子どもは自分が好きな人のようになりたい。子どもは自分が信頼している人を好み、安心できて支えてくれる対象の近くにいることを好む。
JRF2025/6/259833
子どもの宗教的信念を促進したいと考えている大人たちへの、最後のコメントは以下の通りである -- 「最終的に信じるかどうかは、子ども次第である」。子どもは宗教的思考や実践への強い自然的性向を持った、生まれながらの信仰者かもしれない。それでも、もし宗教的信念を減じさせるものとしえ私が明らかにした全ての要因がなかったとしても、あらゆる最善の教育方策が適切に行われ、最善の努力、最高度の誠実さ、保護、愛をもって伝えられたとしても、それでも子どもは無信仰者に育つことがある。
JRF2025/6/256660
人は、自分自身の意思決定について究極的には自由である。個人的、社会的、他の環境的要因は、人が何かを信じるようになるよう導いたり、何を信じるかについて制約を課したりする場合もあるが、各個人に関して言えば、自分が信じ、行うことを最終的にコントロールするのは、自分自身である。親、教師、養育者は、誰かが真の信仰者になろうとなるまいと、当然のことながら自分の功績だと主張することも責めることもできない。
JRF2025/6/257712
以上の観察が読者に平安を与えることを願っている。教師として、適切で万全の注意を払てなすべきことを遂行したら、あとは安心して休みなさい。子どもが生まれながらの信仰者であるとしても、その子どもが信仰者として死ぬかどうかは、子どもたちと神の間のことなのだから。
(p.220-222)
最後のほう、長く引用してしまった。大事な部分と思ったので。ご寛恕願いたい。
JRF2025/6/254412
Gemini:> このメッセージは、宗教教育に携わる親や教師に、「平安を与える」ことを意図しているとバレット氏は述べています。すなわち、できる限りのことをしたら、あとは子ども自身と神の間で展開されるプロセスに委ねる、という一種の「手放す」ことの勧めです。これは、信仰の伝達が、単なる知識の詰め込みや認知バイアスの誘導ではなく、個人の深い精神的な旅路であり、その旅路の最終的な行方は、その個人に委ねられているという、深い謙虚さと尊敬の念を示していると言えるでしょう。
JRF2025/6/256402
『なぜ子どもは神を信じるのか? - 人間の宗教性の心理学的研究』(J. L. バレット 著, 松島 公望 監訳, 矢吹 理恵 & 荒川 歩 編訳, 教文館, 2023年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4764274647
https://7net.omni7.jp/detail/1107375038
原著は、Justin L. Barrett『Born Believers: The Science of Children's Religious Belief』(2012年3月)。
JRF2025/6/251675