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cocolog:95475426

松岡正剛『知の編集工学 増補版』を読んだ。北大生だった私が起こした「ハルシネーション」のケジメとして読んだ。 (JRF 1040)

JRF 2025年6月 4日 (水)

『知の編集工学 増補版』(松岡 正剛 著, 朝日文庫, 2023年10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CK8L5V9F
https://7net.omni7.jp/detail/1107436051

元の単行本は1996年7月に朝日新聞社から出ていた。

JRF2025/6/46675

北海道大学で学生だったころ先生に松岡正剛さんを知っているかと問われ、知っていると答えたが、実は知っていなかった。本を読んだりしたことはなかった。しかし、そう言わせる時代の雰囲気があった。その「ハルシネーション」が気になって、いつか松岡さんの本を読みたいと思っていた。そのいつかがどんどん遅れていって…。2024年8月12日に松岡正剛さんはご逝去なされた。それを機に、この本を Amazon のウィッシュリストに登録し、つい最近 Kindle で買って読んだのだった。

時代の寵児というべき方の本、興味深く読んだ。

JRF2025/6/47463

……。

私は、宗教学への関心から、私は3月11日に↓という本を出した。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。松岡さんは世紀末の神秘主義的時代の雰囲気の中、そこに接近しながら、大きく踏み込まなかったようだが、私はそこにどっぷり漬かった感じだろうか。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/6/47963

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/6/41799

……。

それではいつも通り引用しながらコメントしていく。増補版が出たのは2023年と最近なので、著作権的に文句を言われやすいかもしれない。興味がある方はぜひ買って、私が「引用」しまくってることを補償するための応援もしていただけるとありがたい。

なお、読んだのは Kindle 版のため、ページ数は紙の本とは異なる可能性が強い。

JRF2025/6/44998

……。

序章にて。この本で訴えたかったことの…。

JRF2025/6/45858

>第二に、世界と自己を関係づけるにあたっては、さまざまな編集技法を駆使してみることが有効だということを強調した。この編集技法はさかのぼれば古代ギリシアの「アナロギア(類推力)、ミメーシス(模倣力)、パロディア(諧謔力)」を淵源とするもので、イシス編集学校をつくってからは、新たに「アナロジー、アフォーダンス、アブダクション」の三つの A がつく編集技法 3A を積極的に奨めるようになった。アフォーダンス(認知対象と関係適応力)はジェームズ・ギブソンからの、アブダクション(演繹や帰納に陥らない仮説作成力)はチャールズ・パースからの援用で、私なりに磨きをかけた。<(p.9-10)

JRF2025/6/46013

ミメーシスもよく聞く言葉だが、そのごとに忘れてしまう言葉。私にとって。なんとなく神秘的な響きがある。

アブダクションについては、記号論理学を学んだものとして、名は知っているが、うさんくさいものという印象だった。

上の引用部分については、大澤真幸さんの解説にやや詳しい説明があった。

JRF2025/6/42061

>あるいは第四章で、古代ギリシアには、「ミメーシス(模倣)」「アナロギア(類推)」「パロディア(諧謔)」という三つの編集方法があったと紹介されているが、私の考えでは、これらは広義の〈アナロジー〉の三つのタイプである。〈アナロジー〉は、「同一性←→差異」という振幅の中でなされる。「同一性」へと向かう力が強いとミメーシス(模倣)になる。逆に「差異」への指向が強まって、否定や批判といった含みまで入ってくるとパロディア(諧謔)になる。<(p.320, 解説)

JRF2025/6/41239

エクアリティではないというところが大切で、それでも同一性をより深く認識すると神秘性がでてきてミメーシスになり、ほんとうは似ているんだけど、そうではないと強弁するところを見出して、エンターテイメント性を発見するのが、パロディア…なのだろうか。

ついでに、議論を先取りして、解説の引用をすすめると、歌舞伎の「世界定め」が「編集工学」には大事だという。それは「アナロジー」の前に「アナロジー」がそこにおいて意味を持つような全体的な領域を定めることであるという。

JRF2025/6/45724

そして、それはむしろ目を「世界」の外からやってくるものに向けさせる。このあたりは『宗教学雑考集』ではレヴィナスの「他者」の考え方として紹介したものに近い。そこでは一人称の「手前ども」が二人称の「てめえ」になるような「主と客の入れ替え」が起こる。

JRF2025/6/42389

>ここで気をつけなくてはならない重要なことがある。主と客の入れ替えによって、主と客がいわば総合されるのだが、その総合において優越しているのは客のほうである。主人が客人を取り込むのではない。逆に、客人こそが主人になる、客人こそがもとの主人よりもいっそう真実の主人であったことが判明するのだ。<(p.323, 解説)

JRF2025/6/49005

>主に対する客の優越、主から客を見るのではなく、客(あちら)の方からこそ主(こちら)を見るという態度は、編集工学的な方法の基本的なスタンスである。そして、この「主と客の入れ替え」、つまり「客人を主人としてしまうこと」を、西洋哲学の語で言い換えれば〈アブダクション〉になる。〈アブダクション〉は、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースが導入した概念である。

JRF2025/6/47288

〈アブダクション〉は、それだけ単体で見ると、ただの誤謬推理、誤った帰納法(インダクション)にしか見えず、何がすごいのかよくわからない。だが、編集工学の文脈に置いてみると、〈アブダクション〉の意義、その重要性が見えてくる。主人の「世界」を「数寄」によって限定し、設定したとき、必ず客人がやってくるのであれば、実はその客人こそが主人なのではないか、と反転させてしまうこと、それが〈アブダクション〉である。<(p.323-324)

JRF2025/6/42686

弁証法的側面がある…ということだろうか。それとも何か「世界」に関してメタ的な何かの主張なのだろうか。

以前、アブダクションに似たものとして私は、仏教論理学の因明を考えたことがあった。結果的には、うまい論証にはできなかったのだが。

[cocolog:93262667](2022年1月)
>仏教的因明的導出を可能にする様相一階述語論理を考えていたら、キリスト教の三位一体を否定する結果が導き出せてしまって驚いたが、さらによく検討したところ導出におかしいところがあってホッとした。<

JRF2025/6/40119

他に↓では、それが定理証明システムの UI としては意味を持つだろうと述べている。私の定理証明の UI の話(アイデア)は『宗教学雑考集』《オブジェクト指向高階論理》などに少し詳しくある。

[cocolog:94980637] 2024年8月
>数学的帰納法という演繹は別として、論理学とかは別として、アブダクションとかは、確かに論理学的に有効に機能しえないのは事実だと思う。アイデア出しとか、証明支援システムの UI の中では結構、意味があるんだけど。<

JRF2025/6/43427

……。

序章にて。この本で訴えたかったことの続き…。

JRF2025/6/46655

>第五に、本書では物語編集力の有効性を特筆している。ここでいう物語とは、広い意味の物語性(ナラティビティ)のことで、神話・小説・映画からスポーツやマンガやゲームがもつ物語まで含む。いや、科学や医療やビジネスまで含む。ところが多くの物語がいつしか「勝ち組の物語」に偏ってきた。マネー資本主義やハリウッドのせいだけではない。物語が多様性を孕[はら]めなくなって、シンプルなストーリーに回収されていってしまったのだ。私は長らくこのことに抵抗したいと思ってきた。世界は複雑で多様なのである。ただ、そのことをあらわす複雑で多様な物語編集力が劣化してしまったのだ。<(p.10-11)

JRF2025/6/40609

生存バイアス、または、敗軍の将、兵を語らず…というのもあるだろうし、物語が世界で伝えられなくなっているというのもあるだろう。ただ、前者はマネー資本主義のせいで、後者はハリウッドのせいとすれば、松岡さんはそれ以外にも理由はあると考えているということだろう。

JRF2025/6/47938

……。

>どんなニュースも編集されたニュースなのである。[追記=その後SNSが普及するとユーザーが発信者となって、編集なしの情報が出回るようになった]<(p.16)

まぁ、完全な「編集なし」はありえないが、それまでの時代に比べて相対的に…ということだろう。

この本自体はパソコン「Apple マッキントッシュ」の新規性が話題になる90年代ぐらいの議論が中心なのであるが、追記は2023年のもので ChatGPT の「革命」は経験している。

JRF2025/6/41178

……。

>誰も見向きもしない報告書や提案書があるとしたら、そこに欠けているのは〈編集力〉なのだ。<(p.21)

私は『宗教学雑考集』もそうだが、『The JRF Tarot for 易双六』なんかもまったく売れておらず、最近作ったシミュレーションプログラム([cocolog:95455686](2025年5月)など)も話題にならないし、「私、天才じゃん」と作ってるときは思っていた jrf_pdb_agent_lib.py ([cocolog:95466253](2025年5月))にはアクセスもない。orz

JRF2025/6/44132

Gemini さんとかに愚痴ると、今はみんなが発信できるがゆえに逆に難しい時代だ…みたいなことを言ってなぐさめてくれるけど、でも、本質的に私に欠けたものあると思わざるをえない。それが「編集力」なのかもしれないな…。

JRF2025/6/44982

……。

>二十世紀フランスきっての遊学者であったロジェ・カイヨワは、遊びには四つの種類があると考えた。アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスである。

「アゴーン」は競争で、それぞれの資質が敵対関係になりつつひとつの境界の内部で争われる遊びをいう。大半のスポーツ競技はアゴーンの遊びにあたっている。昔の戦争も、たとえば関ヶ原の一戦のように、一定の境界の中で雌雄を決したという意味ではアゴーン的だった。

JRF2025/6/48741

「アレア」は、ラテン語でサイコロ遊びのことで、相手に勝つことより、見えない運とたわむれることを遊びにする。トランプやマージャンのようなゲームには、配られた“手”という運がふくまれるが、その“運”を加味してたのしむ遊びだ。自分でたのしむ占い遊びなどもアレアに入る。

次の「ミミクリー」は真似[まね]の遊びである。何かを模倣したり、転写しながら情報遊戯を楽しんでいく。子どもたちがノートに先生の似顔絵を描きたくなるのも、歌まねや動物のまねをしたくなるのもミミクリーだ。古代ギリシア・ローマでは「ミメーシス」と呼ばれていた。

JRF2025/6/49625

四つ目の「イリンクス」はめまい、痙攣、トランス状態などをともなう遊びである。子どもたちがくるくると回転したくなったり、ジェットコースターやF1レースに人々が熱狂したりするのは、イリンクスにもとづいている。

(…)

ちなみにここにはまた共通して「パイディア」という特徴もある。即興的な興奮だ。また、もうひとつの共通項がある。それは「ルドゥス」というもので、無償の困難に向かっていきたいという態度をともなっている。

JRF2025/6/49693

この「パイディア」と「ルドゥス」も遊びの本質であって、かつ編集の本質でもある。いわばパイディア(熱狂)してルドゥス(困難)する -- それが編集的遊びというものだ。
(p.32)

JRF2025/6/41967

私はタロットソリティア「易双六」というゲームを作って、今、それに使うカードも上記のように販売しているのだが、それは「アレア」になるのだろう。ただ、簡単でも計算が伴うので「ルドゥス」はあるが、「パイディア」はあまりなく鎮静された雰囲気の中やるゲームとなっている。まぁ、うまくいかなくてちょっと興奮することぐらいはあるかもしれないが。

それが「ちょっと」だから、売れないのかな…。orz

JRF2025/6/48614

……。

>私たちには「部分と全体を適当にとりかえながら判断を進める」ということができるのだが、コンピュータはこれがヘタくそだ。

たとえば、街の一隅にある自転車を見ているとき、われわれは自転車の全体をパッと見て、次にハンドルの曲がりぐあいやスポークの光りぐあいに目をやり、また全体をチラリと見て、「ふんふん、これはマウンテン・バイクのようだな」などとおもう。その視点の入れ替えの最中に急速に知識を動員させている。

JRF2025/6/48986

もっと重要なことは、このような「部分と全体の入れ替え」をうまく利用して、曖昧性や冗長度や不整合な部分をふくんだ判断をしている。回答が見つからなくともかまわない。そのまま保留して、その保留状態のままに、そのうち似た自転車に出合えば、その保留を平気でもち出し、そこで新たな判断を加えるということもする。たとえば「男っぽい自転車だな」とか「出前用だな」とか。私はこれを〈仮留め〉とよんでいるのが、これがコンピュターには難儀なのである。
<(p.42)

JRF2025/6/47824

上で挙げた jrf_pdb_agent_lib.py では AI がエージェントとして Python のデバッガを複数起動して、それを操りながら人の要求に対処するような状況を想定している。そこでは、回答の保留とさらなる情報収集がなされるであろう。私はそういうことがもう可能であると見ている。LLM はそこまでできそうに見える。

JRF2025/6/48145

……。

>しかしバックプロパゲーション学習法だけでは、ニューロ・コンピュータはあまり進展しなかったのである。<(p.46)

これが GPU の高度化によって、大きく進展したのが最近の状況だった。LLM もそれである。

JRF2025/6/46284

……。

>これを編集工学では〈ハイパーリンク状態〉という。この用語はテッド・ネルソンによるものだ。<(p.55)

私の「ひとこと」ブログは、[cocolog:95466253] みたいに書くとそこにリンクが張られたり日付を書くとリンクが張られたりする。keyword を書くと自分のサイトの google 検索にリンクが張られる。こういったものが脳のリンクに模したものであるという認識が私にはある。もちろん、ハイパーリンクの考え方にも影響されている。ただ、それが、今の AI (LLM) さんたちにはあまり役に立ってなさそうなのが、ちょっと意外である。

JRF2025/6/43256

Gemini:> LLMは明示的なハイパーリンクを「読む」というよりは、学習データの中に埋め込まれた潜在的なハイパーリンク(意味的関連性)を駆使して「思考」している、と考えることができるかもしれません。あなたのブログのリンク構造は、人間の認知的なハイパーリンク状態を外部化したものですが、LLMはその内部にそれを巨大なスケールで構築している、と言い換えられるでしょう。この「見えないハイパーリンク」の存在を意識することで、LLMの持つ情報処理能力の奥深さが見えてくるのではないでしょうか。

JRF2025/6/47028

……。

分節化も情報編集プロセスにとって最も基本的な編集作業である…という。

>指を折ることをデジット(digit)という。「デジタル」(digital)という言葉はここから派生した。

JRF2025/6/47260

ついでながら、ウェルトハイマーは、こうした指の分節化が言葉の発生を促したと考えた。赤ちゃんはしょっちゅうニギニギしているが、あれは五指対向力の準備なのである。赤ちゃんはまた、その握ったものをつねに凝視し、ときどき「バアバア」と口の中を動かしている。これらには一連の関係があるはずなのだ。それには赤ちゃんの手のひらを強く押してみるとよい。なんと口があくようになっている。指の分節化と言葉の発生は関係があるはずなのである。
<(p.70)

分節化から、文法…「情報文法」も生じてくる…という。

JRF2025/6/46254

>分節化は文法に先行する。指は数に先行するのだ。

それゆえ私のばあいでいえば、自分の知っている情報をしっかり分節化しておくことが、とくに未知の分野に挑むにあたって劇的な効果を生むことになる。私はほとんどこの方法で新しい領域の旅をする。
<(p.74)

LLM は今はどうだか知らないが、トークンを基本単位としていた。分節化が決定的な役割りはしていたといっていいのだと思う。ただ、今の LLM はダジャレとかを解するので、結構文字単位で分節しているか、それを十分理解しているように見える。

JRF2025/6/42703

……。

>先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから“生命という様式”が考案されたのだ。この考案をやってのけたのは、生命の設計者としてのDNAやRNAなどである。これが遺伝情報のスタートだった。<(p.76)

私は「情報」を最初とはしないが、似たことは述べている。

JRF2025/6/44749

『宗教学雑考集』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>現代の物理学的宇宙観では、ビッグバンからはじまり、数々の天体・星の生成・消滅を経て、太陽が・地球ができ、その上に生物が・人間が生まれ、それがあなたや私になっているということになっている。

JRF2025/6/45838

かつて宇宙には地球以外の文明があり、それが滅んだこともあったかもしれない。その文明以前には文明はなかった・生物はなかったが、何がしかの定常状態やパターンぐらいは偶然に生じていたことだろう。そういう文明または定常状態・パターンを「安住」と呼ぼう。定常状態やパターンができたことをさらに突き詰めれば、まずは等質的な空間(無明?)があったことが必要なのかもしれない。もしくは、「無明」という「非等質性」を等質とみなせるほど貫く強烈な光・エネルギーが本質だったのかもしれない。

JRF2025/6/48627

とにかく、その安住が崩壊したとしよう。そのとき、永い年月を得たあとかもしれないが、その安住の残骸(例えば、同じパターン的形質の岩があるとか)を根拠として、別の安住が起ち上がることもあるだろう。そこでは安住の残骸と同じものがあったほうがよいとなろう。それを探し求める実体になるものがある…ということだ。これを物理学用語から少し離れるが安住の「反作用」と呼ぼう。

JRF2025/6/48387

新たな定常状態としてかつての継続を求めるものは、反[かえ]って自らの継続も求めていることになる。そこにはある種の定常状態が・個物とはまだ言えないものの「総体として生きたい」が生じていると考える。

JRF2025/6/42611

ここまでをまとめれば、かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。

JRF2025/6/40055

二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生き残った者が、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められず、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」・「生なければならない」になる。

JRF2025/6/41031

総体が生きたかったのなら、そこから飛び出した個々には他から望まれなくても「生きるべき」となるといっていい。

人は・生命は反作用により総体として生きたいという欲求がある。ならば太陽系などに終わりがあるため、宇宙に広がり、次元を超えて広がる「べきだ」とすら言える。いや、そもそも、人が・生命が、宇宙に広がること、次元を超えて広がることが「恩返し」(反作用)で、そこまで人という種を継続させるべきだということになるのかもしれない。

JRF2025/6/46649

……。

貨幣に情報が付着すべきだ…または、情報が付着しているものだった…というのが松岡さんの論である。

>情報貨幣がインターネットをまわるということは、結局、情報に価値がついているということであり、したがって、情報のネットワーク性が市場の肩代わりをしうるということになる。[追記=その後、ブロックチェーン・システムによる仮想通過が登場するようになったが、言語性を伴う情報通貨力は想定されていなかった]<(p.122)

JRF2025/6/45018

中沢新一『大阪アースダイバー』を読んだ([cocolog:95453422](2025年5月))際の議論では、無縁こそ、そういう「情報」がついてないことこそ、「商品」の特徴だということだった。そういうのを扱いだしたのが都市の文化である。…と。

ただ、情報に「価値がない」のが商売なのだけど、その情報を物々交換している、そこに贈与の関係を結んでいるというのは、インターネット時代も、確かにそんな気はする。私はその「ネットワーク」から外されていて実相はわからないのだけれど。

JRF2025/6/48857

ただ、私の書いたことが実際はすごい情報としてやりとりされてるみたいな妄想にこれはつながっていて、ちょっと危険な考え方ではあるのだけれど…。

JRF2025/6/49743

……。

>湾岸戦争がおこったころ、日本の情報データベースとシンクタンクがほとんど機能していないことが問題になったことがある。湾岸戦争のおこる背景に関しての情報がまったく整理できていなかったからである。私のところにも外務省をはじめ、いくつかの機関から新しいデータベースの構築方法について問い合わせがきた。早急にデータベースの改良をしてほしいというのだ。

JRF2025/6/49342

既存のデータベースを見て私は愕然とした。それは過去の図書分類にも似た古ぼけた“情報のカイコ棚”にすぎなかったからだ。そこにはほとんど「意味の立体性」が設計されていないのだ。
<(p.134)

このあたり政府系の SNS とかができればいいのかな…とか考えたことがある。「日本会議」というのが、もしかすると「それ」だったのかもしれないが。

JRF2025/6/49354

[cocolog:74483905](2012年10月)
>実際は皆 SNS を使うわけではないんだけど、SNS の管理等をモデルとした党管理が行われる。その党の組織運営の仮想(架装)が、現実の SNS システムとして動いているという実証が必要だという主義。…ってどうだろう?<

これ以外にも政府系 SNS に関する「ひとこと」を書いた覚えがあるのだが、Gemini さんの手を借りても見つからなかった。orz

…ところが「組織」というキーワードで辿ったところ見つけた! これだと思う。

JRF2025/6/44882

[cocolog:94449745](2023年10月)
>総括って何? 一つの統一的な物の観方は組織に常に(Wiki のように)存在しなければならないのでは? 現代に、時代が終わったとしてなすような総括など存在しうるのだろうか? あえていえば小集団が圧倒的に思想を支配したときにその思想が総括となりうるだけではないか?<

JRF2025/6/40464

これは Bard さん(Gemini さんの前身)との会話を記録したもので、Bard さんとの会話では、もっとツッコンだ議論をしていて、それで私が覚えていた「キーワード」では検索がうまくひっかからなかったのだと思う。

JRF2025/6/40666

……。

>私は「創造」や「創造的である」など、神様の仕業ならばともかくも、安易に自慢するものではないとおもうのだ。もっというなら、私は「オリジナリティ」という言葉にもほとんど信用をおいていない。「彼の作品にはオリジナリティがある」とは、よく言われるセリフだが、その彼は日本語(あるいは彼の国の言葉)をもオリジネートしたというのだろうか。あるいは小説や絵画やオクターブという様式をつくったというのだろうか。どこかにちょっと新しさを加えただけなのだ。それはオリジナリティではない。むしろ編集的な成果なのである。<(p.191-192)

JRF2025/6/45779

人は「巨人の肩の上にのって」「創作」をしているものだというはそうだと思う。ただ、じゃあ、まったく「創造」ということがないか「無からの創造」という要素はいつでもないかと言われるとそうではないと思う。

JRF2025/6/43444

『宗教学雑考集』《目的論的発展と無からの創造》
>世界がその一部が何らかの目的を与えられて発展しているという「目的論的発展」という概念がある。スピノザなどそれを否定する方々は多い。それに対し、私は《イメージによる進化》で、神がイメージに介入しうるとし、目的論的発展を肯定した。ただし、イメージは神からでなく、当然、ただの偶然である可能性もある。

JRF2025/6/43597

最適化などに偶然の要素を使うことは常識である。偶然得られた解といっても、実際の身体などを使って試す解は、偶然得られた解の中でも吟味[ぎんみ]された解である。さらにその解が、身体などで試すことでさらに吟味される。だからそれは通常の「偶然」や「ランダム性」とはずいぶんかけ離れたものとして想像はできる。しかし、吟味するとき、そこには信仰的要素が入りうるし、実際に神が介入していたとしても、または、無意識により社会からの示唆があったとしても、それを偶然を積み重ねた吟味と区別することはできないと思われる。

JRF2025/6/49042

AI の強化学習などを考えれば、そういったことが実際に役立つことがあるのは明白である。これを認めるなら、「偶然」に得られたイメージ=目的を目指す社会の発展や進化は当然あるとすべきように思う。

それが神からの介入を受けてなかったとしたなら、偶然がその大元にあったというなら、そのことをもって神学では問題になる「無からの創造」があった・観念的には今もあると見なせるのかもしれない。神が関与したと見なせない無があり、そこからの創造を「無からの創造」と呼ぶのならば。

JRF2025/6/42768

そもそも無があるからこそ生じるものはある。この宇宙において・時空間において、私がいる。または「あなた」がいる。ならば、無があったとしても同時に私(あなた)はある。詭弁に思うかもしれないが、それは厳密にいうと無ではない。ならば、そこに何かが生じても不思議ではないのだ。無は観念にしかない。無を想い、悲しむ「あなた」がいるとき、そこには何かの契機がある、または、目的は生じうる。その全体は決して無ではない。

JRF2025/6/49674

……。

>しかし、最も重要な時間的編集のエッセンスは、私は「まつり」にこそ集約されているとおもう。世界の多くの祭祀は擬死再生儀礼を原型にしているのだが、それは毎年一度の「世界の再生」を企画した時間的編集の集大成なのである。<(p.194)

JRF2025/6/45350

『宗教学雑考集』《死と復活の信仰と秘伝》
>>古代には季節に関する信仰があった。それとともに死と復活の信仰があった。冬に死に春に復活する信仰である。確かに農業はとても大事なものではあるが、しかし、冬が厳しい場合、死を意識するとしても、春は、まだ実りも多くなく、そこまで「復活」することはできない。なぜ、死と復活という信仰になったのだろう?

《イナンナの冥界降り》で古代メソポタミア神話のイナンナの冥界降りの話をしたが、そのドゥムジについて…、

JRF2025/6/47270

>世界の創造に先立つ「混沌」は、王の儀礼的な「死」、すなわち冥界降りをも意味していた。つまり、二つの宇宙的様態 -- 生と死、混沌[カオス]と宇宙[コスモス]、不毛と豊穣 -- は、同一過程の両局面を構成しているのである。農耕発見ののち把握されたこの「神秘」は、世界、生命、人間存在の統一的説明原理となる。それは宇宙のリズム、人間の運命、神々との関係をも支配するので、植物のドラマを越えている。

JRF2025/6/47500

この神話は、愛と豊穣の女神がエレシュキガル王国を征服すること、すなわち、死を絶滅することに失敗したことを物語っている。(…)ドゥムジ - タンムズは、六か月後に「再び現われる」ために「消える」のである。(エリアーデ『世界宗教史 1』p.108)


もし、冬の死によって、人口が減る場合、同時に多くの文化が失われることが予想される。その文化を復活させる場合、失なわれた「秘伝」があってはいけない。または、「秘伝」者が死んでいてはいけない。

JRF2025/6/40123

では王権の周囲に秘伝がなかったかというとそんなことはなかったであろう。少なくとも金属器の登場によって、金属の利用法や、宝石・鉱石の採掘について、秘伝はあったと思われる。もちろん、歴史や法律に関する秘伝もあっただろう。そういう秘伝を伝える者は、冬の死により失なわれてはならないと主張しただろう。

死を当然予想しなければならないというのが死の儀式である。それで社会的プレッシャーをかけて、秘伝を守ろうとする者に王権に庇護を求めさせる、そのような、王権集中の制度が季節の信仰だったのではないか。
<<

JRF2025/6/45767

……。

>またちなみに日本で「世界」という言葉をつかうばあいは、主に二つの用法があった。ひとつは仏教語である。過去・現在・未来を「世」、東西南北上下を「界」といい、衆生が住む全体のことを二つつなげて「世界」と名づけた。三千大千世界という、あれである。もうひとつは『竹取物語』などに「世界の男、あてなるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな」とあるように、世間とか人間社会一般を意味した。<(p.203)

「世」と「界」で「世界」なのか。あまり関係ないが…。

JRF2025/6/40986

『宗教学雑考集』《「八方」の玄義》
>「四方八方」という言葉がある。「四方」が東西南北の方位だとして、八方はそれらの間の方位、南東・南西・北東・北西の「四隅」を四方に足したものだというのが一般的な解釈だろう。

しかし、私はそれは「八方」のニセモノの意義ではないかといぶかっている。

JRF2025/6/45150

地図を描いている紙(など)が円や正方形でないかぎり、四隅[よすみ]は方位としてほとんど意味をなさない。長方形の縦横の比率が変われば四「隅」の位置は変わる。四方の間を表したいというなら、正確な図示の面倒な三方を表現できるので十二方のほうが実用的である。「四方 + 四隅」はわざわざ独立した概念とするほどの重みはないように感じる。

実は、「八方」の原義は、陰陽の四方を別のものとしてみ、あわせて八方としたのではないか。

JRF2025/6/41751

昔は方位磁石はなく、天体により方位を見た。昼と夜で方位のはかり方に違いはあり、また方位に求められるものも昼と夜で違っただろう。昼ある方位からくる者と夜その方位から来る者は、違っただろう。

昼の四方は、主に太陽に依るわけだが、これは夜の天体により知れるほどはっきりできるものではない。基本は人の働きで時を知り、のちに方位を知るということになるのだろう。つまり、陽の四方はたまたまあう人の「動き」により知るわけだ。

JRF2025/6/49748

ならば、四隅にも違った意味があるのではと私は想いいたる。というのは四隅も、四遇または四偶、四つのたまたまあうこと、が元ではないか。さらに想像力をたくましくすれば、「隅」という字自体、すみという意味より人がたまたま出会う街「角」という意味があったのではないだろうか。

ちなみに八方美人という言葉がある。これは単なる全方位に向けた顔というだけでなく、昼と夜の態度の違いまで含んでいるとすれば意義深いではないか。

JRF2025/6/41732

そして「八方」にはさらに玄義があり、それが四方+天地+今昔ではないか。四方を拡張して六方と気付くのは簡単だが、時間軸というものまで想像するにいたるには超えるべきものが大きい。今の人は四次元の考え方などあたりまえだが、昔はこれはかなり難しい考え方だったのではないか。

JRF2025/6/41330

……。

>さて、かつて「世界」はあきらかに二つあった。それがしだいにややこしくなっていった。歴史はワールド・モデルの複雑化に向かって進んできたのだ。

最初の二つの世界とは、何か。いわゆる「この世」と「あの世」である。私はこれを“here”(ここ)と“there”(むこう)とよんでいる。

最初のワールド・モデルは「あの世」(there)を構想することでつくられた。
<(p.206)

『宗教学雑考集』でもだいたい死後の世界をさして「虚の世界」とかバーチャルな世界として書いている。もちろんメタバースなんかにも言及がある。

JRF2025/6/48165

『宗教学雑考集』《大乗仏教的議論》
>「仏国土」は(バーチャルには)どこかにあるとできるが、娑婆世界の一時代の一部として部分的に現れることができるとすれば、現実とかかわりを持たせることができる。それはメタバースやゲームの世界でもよいのだろう。<

そして松岡さんはユートピア的空想のバーチャルの世界を現実に実現する方向についても語られる。

JRF2025/6/42641

……。

>ポパー<(p.212)

『宗教学雑考集』でもポパーの話は少し取り上げたが、ポパー『開かれた社会とその敵』を私は [cocolog:94937590](2024年7月) などで読んでいる。

JRF2025/6/42270

……。

>おそらく物語には遺伝子ならぬ「物語の母型」のようなものがあったにちがいない。それがいくつくらいあるのかは研究者たちがあきらかにしつつあるけれど、きっと世界中の物語の多くが「物語の母型」を前提に広まっていったと考えられる。<(p.218)

『宗教学雑考集』だと《文化伝播論と合目的的発展論とユングの元型論》あたりがその話の関連かな。でも、その後に書いた「ひとこと」が「物語の母型」に詳しい。

[cocolog:95400819] 2025年4月
>>後藤明『世界神話学入門』と松村一男『神話学入門』を読んだ。

JRF2025/6/45987

(…)

マイケル・ヴィツェルは『世界神話の起源』において、世界神話の源流を二つとした。

>しかし近年、世界の神話の系統は大きく二つの流れに分けられるのではないかという学説が唱えられるようになった。それがこれから本書で見てゆく世界神話学説である。<(後藤明『世界神話学入門』p.6)
<<

松岡さんが挙げるキャンベルの話は、松村一男『神話学入門』に大きく載っていた。

JRF2025/6/47732

……。

>北大の田中譲さんの開発したインテリジェント・パッドとの共用研究<(p.225)

おおー、とても懐かしい! 北大出身でここに関係していた私。

JRF2025/6/46140

……。

松岡さんのキーワードとして「エディトリアリティ」がある。

>「もっともらしさ」という〈エディトリアリティ〉<(p.242)

「ヨーロッパは「吊るす文化」、日本は「畳む文化」」とか言われて「なるほど」…と思う。そこに物語の母型に似た「もっともらしさ」があり、それをうまく編集に利用するのが「エディトリアリティ」の一例であるようだ。いわば、偏見の利用なのであやうさもあるのだろうが。

JRF2025/6/42990

……。

>オブジェクト指向プログラミング<(p.273)

北大にいたころ、オブジェクト指向を記号論理やコンピュータ支援定理証明システムに導入することが私の研究のメインテーマだった。上でも少し紹介したが…。→ 『宗教学雑考集』《オブジェクト指向高階論理》。

ただ、北大にいたころは、全然その目標に接近できず(今も接近できてないが)、先生方には迷惑をかけた。申し訳ないばかりである。orz

JRF2025/6/45717

……。

>オブジェクト指向プログラミングをもう一歩進めた方法に、90年代にになって人気をよんだ「エージェント指向コンピューティング」という方法がある。<(p.277)

「エージェント」も AI の最近の進展によって一気に現実的に役立つものとなりつつある。そんな中でそこに貢献しようと生まれたのが上で紹介した jrf_pdb_agent_lib.py である。

JRF2025/6/40279

[cocolog:95466253](2025年5月)
>AI エージェントはデバッガを好むのではないか? AI 専用デバッガ、またはデバッガを使うことが前提の agent ライブラリ(Python モジュール)の登場が待たれる。… pdb_agent_lib 構想。<

JRF2025/6/49926

……。

>生命が「負のエントロピーを食べている」(シュレディンガー)<(p.289)

「負のエントロピー」もちょっと前までは私の関心が大きかった。人間や生物は「負のエントロピー」だから AI は保護しなければならない。…みたいな文脈で。

keyword: 負のエントロピー

[aboutme:100478](2009年05月)にはシュレディンガーの本を読んだらしい形跡もある。もう覚えてないが。

JRF2025/6/42842

……。

>さらに薦めてみたいのは、遊びを創案してみることだ。<(p.304)

上にも書いたようにタロットソリティア「易双六」というゲームを作ったのだが、うーん、やってもらう、関心を持ってもらうというのが難しいものだ。これをブラウザゲームとして作って、Nintendo Dsi 用の「易双六 PTC」を作ってるとき、ちょうどその zip のサイズに合わせるように Google がライブラリを用意してるみたいな感じがあって、「注目されてる」みたいな妄想があったのだが、やはり妄想に過ぎなかったようだ。今の注目のされなさからすると。(ブラウザゲームは今は↓からできる。)

JRF2025/6/43721

《易双六 Youscout ~ Tarot Solitaire》
http://jrockford.s1010.xrea.com/archive/youscout/youscout.html
https://jrf-2018.github.io/youscout/youscout.html?default_lang=ja

JRF2025/6/47169

……。

あとがき から…

>もともと私は、情報の基本的な動向について三つの見方をもっている。それは「情報は生きている」ということ、「情報はひとりでいられない」ということ、そして「情報は途方にくれている」ということだ。

JRF2025/6/41745

最初の「情報は生きている」というのは、そもそも生命の本質が遺伝情報などの情報編集であって、人間はこの情報編集のしくみに属しながら活動をしているということを意味している。次の「情報はひとりでいられない」とは、情報はつねに別の情報と離合集散をおこす“縁”のようなものをもっているということだ。三つめの「情報は途方にくれている」とは、情報は自分の行方をさがしている“家なき子”なのだから、適切な誘導を待っているという意味だ。これら三つの動向を一言でいえば、情報は関係しあおうとしているということになる。この関係線を見出すこと、それが編集である。つまり編集とは「関係の発見」することなのだ。

JRF2025/6/41591

<(p.306)

「情報は途方にくれている」というのは感覚的で、おもしろい。案外今の LLM の学習とも関係しそうな言葉である。

JRF2025/6/48491

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