cocolog:95485474
清水俊史『お布施のからくり - 「お気持ち」とはいくらなのか』を読んだ。軽めの・少し煽情的なタイトルだが、バッチリ、経典に典拠を持つ実に読みごたえのある本だった。 (JRF 0259)
JRF 2025年6月10日 (火)
……。
なお、私は、宗教学への関心から、私は3月11日に↓という本を出した。ここでもそれに言及し・引用しながら語っていく。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
JRF2025/6/103364
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/6/103470
……。
ちなみにあまり関係ないが、仏教に関すること(?)として、最近 AI さん達と「涅槃」に関して議論した。それもご参考になれば…と、こちらに挙げておく。
[cocolog:95459643](2025年5月)
>涅槃考。生成 AI に即して、人の世も最適化過程で、望ましい定常状態からズレたところから、意味を生成していくと考えてみる。そのズレが大きな意味で「カルマ」と考える。ならばそれを消す「涅槃」とは何か? ChatGPT は「出力可能性」に満ちた静かな構造としての存在というが…。
JRF2025/6/108026
(…)
私は「諸行無常」を「諸行無常」自身に適用できると思う。あくまでも「無常」は「諸行」について言ってるのであって、「諸法」については言っていない…という者も多いかもしれないが、私はそう解釈したい。
JRF2025/6/108412
(…)
「諸行無常」自身に「諸行無常」適用すればどうなるか。それは常にある法則があるということになる。それはつまり「諸行無常」自身がその常にある法則ということに気付く。しかし、それ自身が常にあるというなら、それは「諸行無常」自身に反している。これは矛盾なのだ。だが、矛盾がしばしば重要な役割を果たして生成されうるのが「リアル」であるというのも真理のように思う。
(…)
<
JRF2025/6/109895
……。
この『お布施のからくり』に関して清水さんは Twitter (X) で激しい論争をほうぼうにしかけている。その中に例えば次のような Tweet があった。
《清水俊史:X:2025-06-07》
https://x.com/VisAKBh/status/1931027879263195375
>拙著『お布施のからくり』では戒律問題にいろいろ触れたが、現代の日本仏教に「戒を守らなきゃ失格」なんて一言も言ってないからね。「せめて檀家からお布施にふさわしいと思われるように努力せよ」だからね…。<
また戒を保つ者ほど布施を受けるにふさわしいという議論もあったように思う。
JRF2025/6/100856
私には『宗教学雑考集』にも書いた「捨て扶持」理論がある。社会の捨て扶持で暮らすある種のバッファとして僧は登場してきた…というものである。仏教はある意味そこから少し脱却し、社会に必要なものとして認められようとしてきた流れがあったとも認めていた。教育や外交活動などに従事し、「生産」に寄与するようになった。…と。
ただ、そこではだいたい物々交換的なことが想定されていた。「捨て扶持」は余った農産物のイメージだからだ。貨幣経済の場合、「捨て扶持」とは何なのか?
JRF2025/6/105106
貨幣は何にでも使えることから、捨てる部分はない。それをあえて「捨てる」とすれば、ある種の贅沢品を買うのと変わらないということになるのかもしれない。現代では「推し活」という言葉があるが、清水さんも Twitter (X) でもこの本でも主張するように、それが近いのだろう。それを戒と結び付けるとはどういうことか?
JRF2025/6/105496
僧は、戦争を起こさないために、人口を抑えることも大事な役割として私は見ていた。ひとたび災害が起これば、戦争を起こすのではなく、「無駄」な経済を縮小しようとする。僧はそのとき、何を縮小すればよいかの指針を示すことが期待されるのかもしれない。何がなくても生きていけるか知っている者として。
戒=(貨幣経済の中の何かが)なくなっても生きていけることを示すこと。
布施=(不要とされることに備え)エッセンスを社会に記憶してもらうこと。
…ではないか。
JRF2025/6/108815
僧は必ずしても布施者の仕事を記録しない。戒があって関心を持ちづらいから。
しかし、戒を持つ者がいることで、それがなくなりうるとわかるから、社会がそれを記憶すべきとわかる。だから戒を保持するからこそ布施をすべきなのだろう。
ただ、それは「推し活」とは直接結び付かない。そのあたりの感情的な反応を、布施に結び付けるのは、過去に鬼神の力を方便として使ったことに似て現代における方便的な振る舞いなのかもしれない。
また『宗教学雑考集』にはこう書いた。
JRF2025/6/106241
『宗教学雑考集』《コラム 来世なんてない》
>現代の日本では、僧は、涅槃に入ること・「来世がないほうがよい」という外観を保つために善行していると極論してよいのではないか。僧が善行することを見て、人々は僧が尊ぶ涅槃に入ることは社会的にも良いことなのだと確信できる。
JRF2025/6/100872
習ったことが新しい時代に通用しなくなること(衆生的「法帰依」的なもの?)に執着せず、子供が言うことを聞かないことや作品が遺らないこと(衆生的「自帰依」的なもの?)に執着しない。涅槃に入るのが良いこととすることで、それらに執着しないことを促し、執着による苦をやわらげる。例えばそれが、転生概念がない場合でも、もたらされる仏教の救いではないか。
JRF2025/6/106571
僧が「善行」をすることで、涅槃に入ろうとすることが善いことだとブランド化される。それはブランド化だから、僧と同じことができなくても、自分は涅槃に(いずれ)入ると考えることができる。涅槃に入る方法は、僧的な善行以外にもいろいろある。
僧自身が「自己の探求」をしているとは限らない。それは大乗仏教の世の中だからでもあるだろう。しかし、そのブランド戦略により、「自分探し」の中に多様な「真の自己の探求」があらわれる。
転生概念が薄くなった現代でも、大きな意味で仏教の本目的三条件の最適化が行われているのではないだろうか。
<
JRF2025/6/104737
そのブランドが布施の感情的根拠になるのであろう。
…この本を読む直前に、こう考えた。
JRF2025/6/104630
……。
それではいつも通り引用しながらコメントしていく。『お布施のからくり』が出たのはごく最近近なので、著作権的・業務妨害関係的に文句を言われやすいかもしれない。興味がある方はぜひ買って、私が「引用」しまくってることを補償するための応援もしていただけるとありがたい。
なお、読んだのは Kindle 版のため、ページ数は紙の本とは異なる可能性が強い。
JRF2025/6/103159
……。
>多くの日本人にとって、先祖供養を執り行うことは、必ずしも仏教(あるいはキリスト教)を信じることとイコールなのではない。統計数理研究所の国民性調査によれば、「宗教を信じるか」との問いに「信じている」と答えた人は三割前後で推移しているのに対し、「先祖を尊ぶか」の問いに「尊ぶ方」「普通」と答えた人は九割前後で推移している(1953年より2018年まで)。
JRF2025/6/107009
要は、特段強い信仰心を持ってはいないが、先祖は尊ぶというのが日本人の最大公約数なのである。よって、葬式や七回忌などの法事を執り行ったとしても、それは故人を偲ぶという先祖供養に意義を認めているからであって、必ずしも特定の宗教に対する篤い信仰心に根差しているわけではない。
<(p.3)
こんな調査があるんだね。私なんかの神学・教学スキーは、そういったものこそ信仰の核のように考えがちだけど、むしろ先祖供養みたいな伝統のほうが核で、そこに学問をかぶせているのが、「宗教」の実態なのかもしれない。
JRF2025/6/101033
もちろん、葬儀形態が家族葬に切り替わっているということも本書には述べられるので、ただの伝統墨守とも違う、信仰の…先祖供養の核的なもの・思いは、それはそれであるんだろうけど。
JRF2025/6/108504
……。
>釈尊は、(…)特にバラモン教の祭祀において動物が生け贄として捧げられる行為を取り上げ、これが単に殺生の悪行(悪いカルマ)にすぎないと非難している(他に、『中部』51経「カンダラカ経」、『相応部』3章一品九経も参照)。<(p.11)
JRF2025/6/100330
[cocolog:94515614](2023年11月)で「動物供犠」の復活(アニミズムへの回帰)が必要でないかと私は論じていたりする。動物供犠のためにはだいたい野生動物が必要である。それが逆に自然を保護することへの関心の維持につながるのではないか。また、人を動物よりも上位におくことが、その儀式が、環境保護で少子化が求められる時代だとしても、ひいては、環境保護より最低限の人権を守ることにつながるのではないか…と考えている。
JRF2025/6/106702
……。
>お布施されるに値する立派な修行者とはどのような人物なのか。それは、財産を捨て、最低限の所有物だけで生活を営み、戒を保ち、仏道修行に励む修行者である。このような禁欲的な修行者像は、“生まれ”にもとづく階級社会の頂点にいたバラモンたちへの批判でもある。<(p.14)
清水さんは、修行者は財産を捨てろ…みたいなことを主張はしないが、「行い」によって布施を受けるべきだというのは一貫して主張する。
JRF2025/6/106350
……。
>出家者の立場から見ると、もし“行い”が優れていなければお布施を得られず、飢えに直面するため、修行に専念することが難しくなる。したがって、出家者は自らの“行い”を正し、お布施を受けるに値する修行者であるよう努めなければならない。<(p.16)
JRF2025/6/109775
この部分、戒を守ることと、修行することには違いがあるとも読める。もちろん教学から・学問的に導かれる戒もあるだろう。しかし、それ以外に、人々が・その時代の人々が求めたがゆえに、ブランドとして守るべきとされた戒もある…ということではないか。清水さんは学者らしく原典を大事にするから、そこから逸れることをヨシとしないようだが、私は、現代に求められる戒律は、ブッダ当時のものを参考にすべきだとしても、まったく同じでなくてもよい…という立場を取りたい。
JRF2025/6/102446
その点、清水さんも根幹となるべき戒は守るべきだが瑣末な部分は必ずしも重要ではないとも考えているふしもある。例えば、出家戒(具足戒)を紹介する最後のほうの部分でこのような記述がある。
>この他にも、露地敷僧物戒「僧団の公共財である寝台寝具、椅子、敷具、坐具などを露地に持ち出して使用したまま放置することを禁じる」といった出家者の日常生活に関する規則が細かく決められているが、古代と現代とでは生活様式があまりにも異なりすぎていることもあり、本書においては割愛する。<(p.159-160)
JRF2025/6/104945
ただし、妻帯も含む女犯については清水さんは厳しい主張を崩さない。それが枢要な戒と指定されてきたからでもあるが。
ちなみに↓を読むと、瑣末な戒でも、まぁ、現代、そこまで無理なことは言ってない気もするが…。「250戒のうち100戒を無視する」とかはしなくて良さそうではある。
《戒律について(釈尊在世当時の戒律を全て掲載)》
http://www.suijoji.sakura.ne.jp/asia/kairitu.html
JRF2025/6/108090
……。
>>釈尊は、戒を保てず、自制もできないような修行者は、お布施を受けるに値しないと明言している。
>戒を保たず自制しない[出家者]が国の[人々から]施しの食を受けるより、[地獄で]炎のように赤熱せられた鉄の塊を食らうほうがふさわしい。(『ダンマパダ』308偈)<
<<(p.17-18)
清水さんの論調としてはお布施をする側は、誰にお布施しても、ご利益を意図していたとしても、問題はないが、受ける側は、戒を保持する必要がある…ということらしい。
JRF2025/6/101094
……。
追善供養・先祖供養の仏教的理由付けとは、施餓鬼法要に根拠があるということらしい。
>(…『餓鬼事』によれば…)なんと、(施主が先祖を)嘆き悲しむだけでは亡者の利益にはならないとされる。亡者の利益となるためには、施主が相談を経由して供物を捧げる必要があるという。<(p.20)
そこに図があり、「自身を指定して僧団にお布施がなされたのを知って亡者が随喜する。この随喜は善業であり、亡者の利益になる。」と書かれている。
JRF2025/6/109228
嘆き悲しむのはもしかすると悲しむ者の善業になるかもしれないが、亡者の善にはならない。亡者は、僧に布施がなされたことを知って随喜したとき、それがいわば餓鬼となった亡者にとってめずらしいことであるから、善業になる…ということであろう。
JRF2025/6/109857
……。
布施はどういう者に贈るのがよいか。個人よりも僧団に贈るのがまず良いとされる。そして個人では…。
>興味深いのは、戒(良い習慣)を保つ者よりも煩悩を断じた者のほうが尊いとされることである。そのため、11位の「煩悩を抑止している外教者」が12位の「凡夫の持戒者」より上位に位置づけられている。したがって、布施の対象が煩悩を断じた立派な人であれば、たとえそれがキリスト教の神父であっても、凡夫の僧侶に布施するより功徳が大きいということになる。<(p.33)
キリスト教神父に布施するほうが正当化されうる場合がある。ということのようだ。
JRF2025/6/103903
……。
ただし、「僧団」というのは日本には「ない」のだという。
>このように、定義上は出家者個人より僧団組織へのお布施のほうがその果報は大きいと結論される。だが、現代日本仏教においては、すでに釈尊より続いていた出家戒の伝統が途絶えており、日本仏教の諸宗派は厳密には「僧団組織」に該当せず、そこに所属する僧侶も厳密には「出家者個人」に該当しないという重大な問題を抱えている。すなわち、現代日本には、お布施する先として12位「凡夫の持戒者」、13位「凡夫の破戒者」、14位「動物」しかいない。<(p.36-37)
JRF2025/6/102078
ちなみに清水さんは、妻帯する日本の「僧侶」はすべて「出家者」ではなく「凡夫」と見る。持戒者かどうかは、多少緩めて、「戒を守ろうとしている」ことを評価するのだけれども。
JRF2025/6/105154
……。
お布施をする側について。
>信仰心がなければお布施をしても、全く果報がないというわけではない。
たとえば、お布施の動機として「名声欲」(動機(7))が認められているうえ、お布施の対象としては異教の宗教者や動物すらも含まれる。ゆえに、仏教に対する信仰心ではなく名声欲のために、仏教以外の宗教や公益財団法人、動物愛護団体に寄付したとしても、あるいはアイドルへの“推し活”を行ったとしても、それは広義のお布施にあたり、必ず何らかの良い果報を生みだす。言い換えれば、初期仏典の記述によれば、お布施(すなわち贈与)はどのような状況でも善業となり、悪業に転ずることはない。
<(p.37-38)
JRF2025/6/107271
賄賂や、子供への贈与などで甘やかすのはまた別の話なのかな?
JRF2025/6/109926
……。
>前々節「誰にお布施すれば効率よく果報を得られるのか」においては、個人にお布施するよりも、僧団にお布施したほうが果報が大きいこと、この定義の背景には僧団の活動を円滑にしたいという意思が見て取れることを述べてきた。<(p.38)
JRF2025/6/101641
私の最初のほうの考えでは、布施は社会が経済のエッセンスを記憶するため…ということであった。ただし、僧団自体は何もしないのではなく、さらにそのエッセンス的なもの…「教え」を護持する必要がある。エッセンスは時代を超えて受け継がれねばならない。そのためには個人の寿命を越える僧団が存続せねばならない。だから僧団への布施のほうが大事なのだと私は思う。あとで大きく引用するように>宗教組織を永続させなければ集団の救いは難しい。<(『宗教学雑考集』《結婚》)
そもそも私は清水さんと違って原典をそこまで重視しない。
JRF2025/6/101443
佐々木閑『大乗仏教 - ブッダの教えはどこへ向かうのか』を読んだ [cocolog:95366963](2025年4月) で…
>学者からすれば「原典」は価値が大きいのかもしれないが、教えの価値からすれば、そこまで原典性は重要ではない。大乗仏典はだいだい、釈迦の説を僭称してきたわけだし。<
JRF2025/6/100595
[cocolog:95400819](2025年4月)
>>ちょっと関係ないことから語り出すが、このところ仏教書をいくつか読んできて、その原始仏教への憧憬はなぜかと考えた。
人に話を聞かせるには権威が必要だというのは、本が売れない私は痛感している。権威主義はある程度必要なもので、学者というのは、権威を文献に求める。普通人が読む時間を作れないことが、学者に優位性をもたらす。当然、初期原典を原語で読むのが権威の第一になるのだろう。だから学者はつい原始仏教を第一と考えてしまうに違いない。
JRF2025/6/101569
ただ、それ以外に権威の出どころを持つことも不可能ではない。私はシミュレーションのプログラムに権威付けを依頼しようとしたことがあった。
JRF2025/6/107980
『宗教学雑考集』《第2章のリード》
>数学には証明があり、科学には実験があり、考古学にはフィールドワークがあり、宗教学には古典原文の探求または浩瀚[こうかん]な文献知識がある。そういった「根拠」は基本的にこの『宗教学雑考集』にはない。しかしあえて挙げるなら、「シミュレーション仏教」の枠組で行ったプログラムの作成と実験が私独自の根拠・強みとなるだろう。私にとって大切な作業だった。ここが私にとっての新たな出発点とも言えるだろうから、説明が長くなる。<
JRF2025/6/108619
キャンベルさんは、流行に・世の流れとともにあることにも権威の出所を置いているのかもしれない。それは集合的無意識を大事にすることでもあって、「実際の神話には語られていないと思われるものまで読み取らせてしまう傾向がある」というのは、集合的無意識を読み込んでいるという側面もあるのだろう。
集合的無意識にも根拠を置くというのは、実際の信仰現場にあるような仏教などの宗教においても大切なことだろう。文献に権威を置くだけではいけない、人々は付いていけない。
<<
JRF2025/6/102453
そのころ読んだ原典主義的な仏教書というのには、清水さんの『ブッダという男』もそうだし、↓もそうだ。
[cocolog:95349479](2025年3月)
>「現代西洋仏教」の解説書というべきロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』とその批判本というべきエヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』を読んだ。<
JRF2025/6/101752
ブッダが言ったこと以外に真実があるとするのは僭越なことかもしれないが、私はそういうこともありえると思いたい。真実(シミュレーションなどから知れるものなど)を根拠とする論証の仕方もありえると信じたい。
私が最初に示したお布施の原理的理解から導けることもあると思う。
JRF2025/6/101878
……。
私は経済を縮小すべきときに向けてお布施することが役立つとしたのだったが、それはある意味「現世利益」があるということである。ただ、それは施主そのものに現世利益があるべきというわけではない。
私の考えだと、「布施=(不要とされることに備え)エッセンスを社会に記憶してもらうこと」だった。では、施主が、彼自身が・彼の所業がより記憶されるように、公けにして布施すべきだろうか?
JRF2025/6/103236
いや、施主はどちらかといえば知られるべきではないと私は考える。まず、それは「評判」という現世利益になるが、仏教は現世利益を保障すべきでないから…とまず考える。でも、それはなぜか。現世利益は我を強くする。無我を尊ぶ仏教の教えるところではないから。…とは言える。しかし、必ずしも仏教に熱心でない者にそれは通じない。ならば、そこに納得をどう導くか。「我」がないようにするのは、布施がそもそも、必要ならば(経済を)縮小できるようにすることを目的としてなされるからだ。「我」があると、縮小が自由にできなくなる・邪魔なのだ。だから、施主はどちらかと言えば知られるべきではないのだろう。
JRF2025/6/109632
布施はだから、施主が目立たないように「平等」に取るべきなのだ。もちろん多寡はあるべきだが、誰しもから取るべきなのだ。その上で多く払う人もいていいが、それは表向きには評判になるべきではない・知られるべきではない・誰かの「我」になるべきではないのだろう。
JRF2025/6/106018
ただ、清水さんが文献を示して示されるように、名声欲で布施することは排除されず、そこまでの「悪」とはされず、果報の「効率」はよくないかもしれないが、施主が知られても、よいことはよいのであろう。
JRF2025/6/100333
……。
布施を原資に何が買われるべきか…。
>現代において本堂の改修工事や仏具の購入にお布施が使われた場合、その本堂や仏具が壊れるまで、そのお布施による功徳は増大し続けるとされる。一方で、高級スポーツカーや高級腕時計などの嗜好品は公共物や共用財には該当しないため、それらが購入された場合には施主にさらなる功徳は期待できない。<(p.47)
JRF2025/6/106112
まぁ、嗜好品でも、苦しくなったときや貨幣信用が消えたときなど「まさか」のときのための、そのときでも仏道を継続するための資産としての意味もあるだろうし、一概に否定だけしうるものではないとは思う。文化を保護するという役割は仏教と限らず僧にはあると思うから、財産に余裕があるのなら、そういう財の買い方もあるのであろう。
まぁ、嗜好のために買ってるなら、俗っぽいな…と魅力半減する人もいるのはわかるけどね。清水さんも少し認めるように、「スター」にいい生活して欲しい…という信者の願いもあるかもしれないし…。
JRF2025/6/100592
……。
>どのような状況であれ、贈与が行われればそれは善業である。現代日本は無宗教を自任する人が増え、「宗教心からのお気持ち」ではなく、むしろ、「法事サービスの対価」としてお布施を払っている人が大半を占めるであろうが、そのようなお布施であっても必ず何らかの良い果報を生むのである。<(p.48)
清水さんは僧を叱咤するけれども、この辺、現実的な落としどころをよく知ってるな…という感じ。
JRF2025/6/109256
……。
例えば「貧女の一灯」の逸話は、全財産を布施しろという話ではないが、そういう側面がないわけではないという。
>これらの逸話は、貧乏であれ金持ちであれ、可能な限り悪くの財産をお布施することが信者の理想的モデルケースとされていたことを示している。
つまり仏教側の本音としては、「本当にお気持ちがあるなら、お布施の金額は多くなるはずだ」という前提がある。
<(p.52)
JRF2025/6/104760
この点、私はお布施をどこにもほぼしていなくて申し訳なさがある。バーチャル坐禅会とか参加してるのにお布施してなくて申し訳ないとか思っている。
もちろん、逆に、受ける側にもなれない。私は布施されるにはとうてい値しない悪人だ。だから稼がねばならないはずなのだが…稼げていない。本もカードも売れてない。
布施すべきなのにしてないのは悪人性も強化する。金があれば布施しているかもあやしい。逆に、だからダメ、金が寄り付かない、天下の回りものが回ってこない、というのもあるだろう。orz
JRF2025/6/109275
……。
>天台宗の宗祖・最澄(767-822)がインド伝来の「出家戒」の伝統を退け、「菩薩戒(大乗戒)」による出家制度を確立したことは、日本仏教の大きな転機となった。<(p.57)
問題は認識されていて、鑑真(688?-763)が来てくれて出家戒を授けてくれたのだが、それが続かなかった。続けられなかったということのようだ。
それを最澄は末法思想と結び付けて正当化したと言われている。
JRF2025/6/107964
>>日本仏教においては、1052年に末法の時代に入ったと信じられてきた。また、最澄の作と伝わり、日本仏教全体に大きな影響を与えた『末法灯明記』には、この末法の時代には戒そのものが成立しないと説いている。
>末法の時代には、ただ名ばかりの僧侶しか存在せず、この名ばかりの僧侶を世の中の真の宝としている。もはや福田(お布施を受けるにふさわしい者)は存在しない。末法のなかにおいて、もし持戒者がいたとしても、それは異常で驚くべきことである。まるで「市場に虎がいる」というようなもので、誰がそれを信じるだろうか。(『末法灯明記』)<
<<(p.60)
JRF2025/6/106862
この時代に出家戒を守っていても市場に虎がいるようなもので、その事実を疑うのが普通だ。…と。
JRF2025/6/104673
……。
>このように、出家戒と律による統制から解き放たれた日本仏教は、驚くべき破戒へと突き進んだ。現代では末寺の住職は世襲が当たり前になっており、それどころか妻帯者が天台座主や浄土門主といった宗派のトップに就くことも公然と行われている。本来なら還俗処分が下される最重罪である淫戒を破ることが常態化している現状を見れば、日本仏教が仏教としての大前提を放棄していると批判されても、反論は難しいかもしれない。<(p.68-69)
JRF2025/6/107625
この点は私は清水さんとは意見を大きく異にする部分である。最重罪としての淫戒は、本当に「淫行」というべきものをした場合に限られ、つつましい妻帯などは現代では許されるべきだと私は考える。
『宗教学雑考集』《結婚》
>
結婚はしたほうがいい。
JRF2025/6/108751
インドには四住期を経て解脱するという考え方がある。四住期とは、生涯を四つの時期に分け、師のもとで学ぶ学生期、結婚して家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する家住期、森林に隠棲[いんせい]して修行する林住期、一定の住所をもたず乞食遊行する遊行期の四つの住期(《アーシュラマ - Wikipedia》)のことである。
JRF2025/6/104197
Twitter (X)で見たのだが、35歳までで産める女性は間違いなく子供を産もうとする話、密教では女性が悟っていた話、そしてインドでは四住期を経て悟るとする話…を考えると、人間の完成=涅槃となるには本来は結婚を経る必要があるのかな…と私は思うようになった。
性を通じて異性とその関係を理解し子供を持つことの自らへの本能的意味を体得するのが必要なのかなと思う。
JRF2025/6/101102
涅槃=悟りは一味といってもいろいろあって、人間の完成=涅槃はそのうちのある種の考え方に過ぎないかもしれないけれども、そういうのが少なくとも大乗仏教のブッダまたは涅槃には必要なのかもしれない。
JRF2025/6/105419
私は、昔は、純粋に修行する者が(結婚しようがしまいが)悟りに近いものだと思っていたけれども考えを改めるべきなのだろう。釈尊もそういえば結婚していたのだった。(私のような学ぶばかりの)独身の修行者は、学徒・寺男・(ある種の)僧どまりなのかもしれない。独身にも利点があるのは認める。独身であるがゆえに学ぶ余暇があるということもあるし、政治に関わる宗教においては、政略結婚により教団がのっとられるリスクを避けるために独身を守ることに意義を見出せる。それでも現代、特に少子化が顕著な国における宗教においては結婚の価値が大きいと思う。
JRF2025/6/107508
もちろん、私は悟りに憧[あこが]れるけど、悟れるつもりは毛頭ないし、戒とかはさらさら持しないし、上のように考えても独身のままでいつづけるだろうけど、他の人(修行者的人物)を見るときに妻帯しているから、ランクを下げて考えるみたいなことはなくなると思う。そういう意味では僧的な人物でなくても、立派に家庭を持っていれば、宗教的にも尊敬するようになるだろう。
JRF2025/6/100932
もしかすると、浄土宗の「往生」などを考えると、必ずしも結婚しなくても、進化をシミュレートできるぐらいの途方もない年数、瞑想できるなら、それで代わりはできるのかもしれない。「往生」は浄土に行った後、結婚なく、涅槃まで修行するという教えだったはずなので、そうすると、いつまでも「人間の完成」がないのはまずいから。
JRF2025/6/102458
それはほぼ、転生して結婚したのに等しいのだろう。結婚しても子をなすことの欲望は理解できても異性の中のものは学ぶしかなく、しかし、進化を経た生物である人の経験があれば途方もない時間をかければ瞑想のようなものでも学べるのだろう。(浄土のあと涅槃が確定してからの転生も許されるのかもしれないが。)
JRF2025/6/100241
一生で「人間の完成」をしての涅槃に致るには結婚が必要だが、ただの「完成」…「生の完成」の涅槃ならば、死んだあと、または、前世・前々世…の結婚または浄土での修行を通じて可能となっている…。「人間の完成」をする者も、釈尊のように転生はしてきているということになるだろうから、あまり違いはないかもしれない。
JRF2025/6/104507
もちろん、「人間の完成=涅槃」のために結婚が必須というのは私個人の信条としてはいいとしても、宗教組織を世代を越えて永続させるにはマズイ面もあろう。宗教組織を永続させなければ集団の救いは難しい。永続のためには坊主に資産を集める必要があり、坊主は偉くないといけない。僧の間では結婚しない僧のほうが偉いほうが、聖俗の違いがきわだち、「坊主が偉い」を実現しやすいだろう。もちろん、僧ぐらいの学識があればその偉さは方便であると喝破してるだろうけど。
JRF2025/6/109117
結婚するほうが「人間の完成」に近い、しかし、結婚してない坊主が偉いのは、キリスト教(新約聖書『マタイによる福音書』20:16)の「後の者が先になる」からなのかもしれない。苦行の肯定に近いが、それは聖性をもたらす方便で徳があり善いことなのだろう。
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JRF2025/6/102643
……。
>>結論としては、「僧侶だから偉い」という理解は全く成り立たず、当人の行いが問われる。出家か在家かを問わず、行状の優れた人や団体こそが、お布施(贈与)を受けるにふさわしい存在だと言える。
(…)
>生まれを問うな。行いを問え。火は巻木から生じる。卑しい家系であっても、堅固にして、謙虚で慎み深い、沈黙の聖者こそが高貴な者なのである。(『スッタニパータ』462偈、『相応部』7章一品九経)<
JRF2025/6/107019
この教えに照らせば、今日の我々は「僧侶か在家か」ではなく、「いかに行いを正しているか」を基準として、お布施を行う相手や団体を見極めることが大切ということになる。
<<(p.70-71)
私の布施理論でも、教えの時代を超えた「永続性」が大事なのだった。永続性があるかどうかも大事で、そういう意味では、団体…特にこれまで継続してきた伝統的宗教団体のほうが布施を受けるにふさわしいということになると思う。もちろん、「永続性」とひとくちにいっても、本当に永遠であることが必要というわけではないが。
JRF2025/6/102032
それに現代では、少子化で日本社会自体の永続性が問題となってきている。そこで模範を示すべきエリート層の一角である僧も、ある程度妻帯することは「善業」的方便なのではあるまいか。
JRF2025/6/100621
……。
浄土真宗は追善供養を(あまり)認めないのは有名な話である。他の浄土宗系について、そもそも「念仏廻向」は可能であるか?
>法然も、「常日頃のお念仏において、亡き人のために廻向されるべきである。そうすれば、阿弥陀仏は光を放って、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しんでいる者たちを照らし、彼らの苦しみを和らげ、命が終わって後にはその[苦しみの]状態を終わらせることができる」(『勅修御伝』23巻)と述べている。したがって、現代においても念仏廻向は可能である -- と。<(p.77)
JRF2025/6/100889
基本的には本人が念仏を唱えなければならない。…のだが、次の世において念仏を唱えるように祈ることはできるのだろう。
>往生のためには当人の信心と念仏が必要であり、廻向はその助因にしかならないと理解するほうが穏当である。<(p.80)
ただ、往生で成仏が確定するのなら、廻向で念仏が確定することもあるやもしれない。…とは思う。
JRF2025/6/109973
……。
>もし念仏廻向で第三者を極楽へ一方的に送り込めるとするならば、むしろ他宗教や本人の意思を踏みにじる行為にもなりかねない。たとえば、ローマ教皇が亡くなった際、「念仏廻向したので、死去されたローマ教皇は、神の国ではなく極楽世界にいます」と言われれば、キリスト教徒は怒りを感じるだろう。こうした意味で、「誰でも救われる」という一見寛容に見える発想こそが、実は他者の意思を排除する不寛容にも結びつき得るのである。<(p.80)
このことについては私も懸念があった。「グローバル共有メモ」から…。
JRF2025/6/103991
>>
○ 2025-04-22T11:20:22Z
《清水俊史:X:2025-04-21》
https://x.com/VisAKBh/status/1914289888452902966
>ローマ教皇フランシスコが崩御したので、念仏廻向した。南無阿弥陀仏。これでフランシスコ教皇は、天国(おそらく大梵天)ではなく極楽浄土に往生するはず。
最近の浄土宗は、事実上、こういうことを平然と主張するから怖いね。
<
JRF2025/6/108711
拙著『宗教学雑考集』では、追善供養の必要性を解いた一方で、それが「念仏」信仰と合わさることの問題を示唆した(はっきり書かなかったが)。その際、イタリア・カトリックなどキリスト教圏で、マフィアが相手を天国に行かせないために念仏するという在り方も空想の内に合った。
ただし、イエス・キリストの威光はものすごいもので、(真なる改悛があれば)きっと浄土に行った者も自らの天国へと遷移させることが可能なのだと私は思う。…と書いておこう。(^^;
<<
JRF2025/6/101590
ここは念仏廻向が効果あるという前提で書かかれている。念仏廻向が助因でしかないならこの心配はないが。ちなみにここでいう『宗教学雑考集』の部分は次の節である。長くなるが引用しておこう。
『宗教学雑考集』《最後の審判を信じる者の浄土》
>浄土とは、阿弥陀仏の本願により可能となった死後の世界で、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えればそこに行けるようになる。極楽とも呼ばれる美しいそこで修行をすることで、人は必ず涅槃に致ることができるという。
JRF2025/6/106465
浄土の考え方が現れたとき昔の人が新しい浄土の考え方をなぜ信じれたか。または、現在の転生を信じない人やキリスト教徒などが浄土の教えに惑わないようにできないか。
JRF2025/6/107476
涅槃に入るとは、魂のようなものが「ない」ようになることを肯定する面がある。浄土の教えは、涅槃に結局入るのを目指し、罪があれば目醒[めざ]めが遅くなるということは逆にそれが早くなるのは良いこととされている以上、早く寂滅しても問題はない。現代によく思われているように、死後の転生などない・浄土などないのだとしても、それを勧めた者は、死人にとっての義理ははたしたことになろう。あとは仏教の善が、現出するかの問題ではないか。
JRF2025/6/101339
浄土というものがなければ、悪は、現世で悪となる。転生を信じる場合、転生してきた者が、その悪因で現世に悪を生じさせるとなる。悪は現世で悪となると信じることで、他人の悪を現実に生じさせないようにしようとする動きがありえた。浄土の教えは、それを弱めるおそれはあるかもしれない。
JRF2025/6/100450
一方、たとえ、浄土というものが「嘘」で、転生で地獄に生まれても、(浄土教以前の仏教が正しければ)それまでの「念仏」というものの「私」への無執着という特徴からの功徳がある。…などとはできるかもしれない。仏教哲学からすれば、そういった功徳は、「本人」はもちろん、他のたとえば仏教徒以外にも利益をもたらしうる。
JRF2025/6/101466
逆に、浄土というものがあるとすると、悪人が地獄に行かないとなるが、悪人が報いを受けるなら慰撫[いぶ]されたはずの復讐心が残り、現世をけがすことになりかねない。浄土で少しは報いを受けるというので納得できるものだろうか。一方で、悪がこの世に転生しないことで、悪が起こりにくくなるという観方もあるかもしれない。
また、浄土に入ることは、菩薩とならない限り、この世には帰らないことなので、この世に死を越えて果たすほどの恨みがないことの表明ではあると言えるかもしれない。それは仏教徒以外にも利益をもたらすだろう。
JRF2025/6/103226
最後の審判を信じる者については、念仏を唱えても、信なければ浄土には行かないらしいので、復活を邪魔する呪いのようにはならないはず。もちろん、だからと言って無理に念仏を唱えさせるようなことがあってはならない。ただ、最後の審判を信じる者で地獄に堕ちるのが必定となっている者については、念仏を唱えることに上に書いたような功徳はあるのではないか。
「追善」が可能なら、敵のために念仏を唱えるものはいるのかもしれない。
<
JRF2025/6/107288
……。
>来世に極楽世界に往生するためには、今生において信心を起こして念仏をしている必要があるが、残念ながら、ペットなど動物が信心を起こして念仏を唱えることは基本的に不可能である。したがって、いくら飼い主が念仏廻向したとしても、確かにその廻向は亡きペットの来世に何かしらの良き果報をもたらすだろうが、来世の行く先を極楽世界に変更させることはできない。<(p.81)
JRF2025/6/106413
逆にいうと、何らかの良き果報はもたらしうるということである。清水さんは、経済的事情を釈尊が重視したという見解も持っているようで、ペット供養などもある程度ヨシとする方向のようだ。
私に関していえば↓にあるように山川草木悉皆成仏もありうるとする方向なので、ペット供養も認めて欲しいとは思っている。
JRF2025/6/103867
『宗教学雑考集』《オッカムの神概念とマナと悉有仏性》
>>仏教には、「悉有[しつう]仏性」という考え方がある。「悉」は「ことごとく」と読む。「生きとし生けるものはいずれブッダになれる」とする『法華経』や、「生きとし生けるものにはブッダとなる素質がある(一切衆生悉有仏性)」と説く『大般涅槃経』があり、それらを元に作られた言葉として「山川草木悉皆成仏」がある。ただし、最後のものには否定的意見がある。
JRF2025/6/107564
>信仰上、山川草木悉有仏性は考えられるとしても、山川草木悉皆成仏は善根を積むこと、菩提心を起こすこと、八正道を修めることの三つを抜きにしてはありえないと経典が教えている点を銘記すべきである。(田上太秀『ブッダの最期のことば』p.188)<
生命または意志を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。
木が人に彫らせる…そういう意志のありかたもあるのかもしれない。蟻も、ハイエナも、ゴキブリも、熊も、ライオンも、鯨もみな意志・仏性があるなら、そういう木に意志を見出して何が悪かろう。
JRF2025/6/105325
墓を作り祈って仏像を飾り死人に追善して何にもならないという議論もあるかもしれない。しかし、死んで霊がそのあたりに存在するなら、五蘊(…つまり身体…)を離れることで執着が薄くなくなり、よほどの恨みがなく教えさえあれば「成仏」しやすいのかもしれない。
死人は「ほとけ」になりうるほど善い人だった・悪い部分はあっても救いのある人だったと思い返し、死後「ほとけ」になるという信仰はそれほど罪のあるものではない。信仰は論理的なものではなく、並立していてもよい。信じる先が多過ぎて寄進先が多いのは不幸だが、純粋な信仰を求めるのも僧や支配者側の都合で不幸ではないのか。
JRF2025/6/104374
そういう、霊が「ほとけ」になるあり方があるなら、「善根を積むこと、菩提心を起こすこと、八正道を修めること」に相当するようなことをクリアした「山川草木悉皆成仏」もありうるのではないか。仏教には様々な流派がある。そういうフトコロの広い宗教だと信じたい。
JRF2025/6/105505
大乗仏教は、ブッダの悟りをものすごく時間のかかることにしてしまった。「簡単」といっては語弊があるが、原始仏教では一生のうちにブッダになれるものだった。「山川草木悉皆成仏」は、ブッダになることを「簡単」に引き戻す意味があるとも言える。一度、「ほとけ」になる…「ほとけ」になると決まってからも、菩薩[ぼさつ]として何度も転生的なことをする必要があるとしても。
草木が、木彫りの仏像が、転生してやがてブッダになって何が悪かろう。
JRF2025/6/109053
ただし、そういった成仏の否定は、何らかの人的犠牲または生贄をともなうような偶像崇拝をさせないことを目的とした面もあったろう。そういうことが再び起こるような愚はおかさないようにしないといけない。
<<
ここで「生贄をともなうような偶像崇拝をさせない」と書いているが、仏教がもちろんそうすることはダメだとしても、神道的なものが再びアニミズムとして生贄を使う儀式をすることは上で書いたようにある程度やるべきではないかと最近では私は考えている。
JRF2025/6/106696
……。
浄土真宗は、僧侶が自分達を凡夫だと考えていることを清水さんはある程度評価しているようだ。
JRF2025/6/104681
>>この「お布施しなくても、信心さえあれば阿弥陀仏に救い上げられる」という理解は、机上の空論ではなく、現代の浄土真宗にも生きていて、お布施の総額が安い傾向にある。たとえば、「釈○○」という法名(他宗における戒名に相当)の授与には一律一万円程度(未成年は5000円)しかかからず、他宗において院号を貰うために何十万円、何百万円とかかる現実と比べれば圧倒的な差がある(ただし、八万円から二十万円ほどの追加料金を払えば、浄土真宗でも院号が授けられる)。これは、浄土真宗においては、「自分たち僧侶は、在家者と比べて偉いわけではない」という親鸞の深い反省が、今もなお生きていると言わざるを得ない。
JRF2025/6/109868
したがって、浄土真宗における葬儀費用は、お布施と呼ばれることがあっても、実質的にサービスの対価である。もちろん、法事に僧侶を呼んでお経をあげてもらえれば、在家者としてはその感謝の証として、お布施を包みたいと思うだろう。その思いまでをも浄土真宗は否定するものではない。事実、親鸞によれば、阿弥陀仏への信心が具われば、自然と心も入れ替わるのであり(『未燈鈔』)、そうなれば報恩の気持ちが自ずら生まれるのだという。
JRF2025/6/107897
>自然の理(阿弥陀仏の本願)にかなうようになれば、[自ら]仏のご恩がわかり、また師のご恩も知られるはずである。(『歎異抄』6章)<
現代における布施は、初期仏教以来の「立派な出家修行者にお布施をすれば大きな果報が期待できる」という構造ではなく、葬式など法事に読経してくれたサービスへの対価という側面が強い。浄土真宗における、お布施の捉え方は、現代的価値観に合致していると言える。
<<(p.86-87)
JRF2025/6/104726
清水さんの原始仏教推しは、「発展途上国」に資金を回したいというのも少しあるのかな…と思っていたが、浄土真宗も褒める(?)のは、そこに弱者が集っているからだろうか?
JRF2025/6/102424
……。
浄土真宗では…
>教義のうえでは先祖供養は唾棄されるべきものであるが、念仏を広める教化の手段として、また寺院経営の資金源として先祖供養が重要とされるのである。<(p.89)
JRF2025/6/102925
親鸞さんの考えでは、私の『宗教学雑考集』《最後の審判を信じる者の浄土》と同じく、往生するというのは、いわば監禁に身を置く側面があり、罪者が永く置かれることもあれば、そこに善悪があるわけもなし…ということだったのかもしれない。善でないなら、それを他人に薦めるわけにもいかない、自分で選択するしかない。かといって「僧」は僧でないのだから、今さら仏道の本道にかえって追善できるわけでもなし。…と。そういうことだったのではないか。
JRF2025/6/105519
でも、末法において、それで救われる人がいるなら、今を生きるその人々の心が慰撫されたなら、その寺を続ける意味はあり、そのために先祖供養のまねごとをして、銭を稼ぐのであろう。しかし、それぞ菩薩のふるまい…という感じは私にはする。仏道とは少し違うかもしれないが。神はその「善意」を・「偽善」をヨシとなさるのではないか。私の信心からはそう願う。
そのあたりの信心、なぜ先祖供養をするかも含めての私の考え方はぜひ『宗教学雑考集』を読んでいただきたいです。不十分にしか書かれてないと思われるかもしれませんが…。
JRF2025/6/100943
……。
>確かに、ある大乗仏典には「戒を守ろうが破ろうが、中身がどうであれ、髪を剃って僧侶の服装をしていれば、その僧侶は供養するに値する」と、まるで破戒僧が自らを擁護するために書いたかのような一文が残されている(『大集経』)。この一文を天台宗の宗祖・最澄が取り上げ、我が国において、末法無戒の時代でも僧侶を敬いお布施すべき根拠としている(『末法灯明記』)。なるほど、『大集経』から末法無戒の世における僧侶のあり方を明らかにしたことは、宗教者としての高見であろう。したがって、たとえ破戒僧であってもお布施に値するというのが天台宗(ならびにそこから派生した鎌倉仏教)の基本的な立場である。
JRF2025/6/102481
しかし、この大乗経典で言及される破戒僧とは、出家戒を受けた僧侶が破戒した場合を指しており、そもそも出家戒を受けていない自称僧侶(=日本仏教の僧侶)はここにすら該当しないのである。よって、『大集経』を用いて、出家戒を受けていない僧侶もお布施にふさわしいとする理論は、原文の意味から逸脱する。
<(p.116)
マンガ『孔雀王』に最澄という若者が出てきて、「ばちあたり最澄」と言われる場面があり、それが印象に残っている。まぁ、トラウマ的な感じで。
清水さんの書きぶりとか読むと、「ばちあたり最澄」ってのが二重のギャグだったのかな…と思う。
JRF2025/6/108229
……。
>なぜアイドルは尊いのか -- それは、恋愛という人間の本能を抑止し、安い給料にもかかわらず、ファンのために日々厳しいレッスンに励む姿が、まさに現代の出家者と言えるからである。恋愛禁止が戒として機能し、もし恋愛が発覚すればグループから“卒業”や“活動自粛”を余儀なくされるという厳格さは、日本仏教が世襲妻帯を黙認している現状よりも厳しい。このことを考えると、仏教教理に照らし合わせても、アイドルと破戒僧のどちらにお布施すべきかは明白である。<(p.144)
JRF2025/6/105963
>何をもって立派な僧侶とするかは、結局、施主側の判断で決まるだろう。本書においてはその一つの基準を設けた。仏教教団は人々の役に立つ公益財団法人よりも立派であると思われるべきであり、僧侶は恋愛禁止を貫くアイドルよりも立派であると思われるべきであるというのである。末法無戒・世襲妻帯を前提とする今の時代において、この基準は「お布施とは何か」を問ううえで核心を突いている。<(p.152)
JRF2025/6/103001
もう私は50歳を超えて性欲がかなり減退していて、性欲を抑えているからエライ…みたいにはあまり考えなくなってきている。清水さんはまだまだ若いから(でも 1983年生まれでもう40歳超えてるのか…)、そこを大きく見過ぎている面もあるのではないか。もちろん、誰しも若いころはあるので、そういう価値観は理解されやすいという面もあるけれども。
JRF2025/6/108001
……。
出家戒の中で、僧籍剥奪処分の波羅夷罪があり、謹慎処分の僧残罪があり、後者はその一部がこの本に載っている。その後者の中に次のようなものがある。
>5. 媒嫁[まいけ]戒 男女の仲を取り持つ(紹介・仲介する)ことを禁じる。結婚の仲人のみならず、意思疎通の仲介や、一時的な交際の取り持ちであっても禁止されている。<(p.158)
あ、これがダメなのか。お見合いを坊主が仲介するとか、信用できる!…って感じなのに。
↓でも、結婚への介入…というか子作りへの介入は当然ありうると見ていた。
JRF2025/6/103683
『宗教学雑考集』《コラム 「捨て扶持」理論》
>子供ができたときの「堕胎」はしない、しかし、集団が維持できるよう「妊娠」が起きないよう欲しい子供の数等に介入するのは許されるだろう。<
『宗教学雑考集』《聖》
>僧は「来世がないのがよい」も主宰するようになるが、それには、来世=子という考えから、産児制限の是認もありうるとしたのだった。もちろん、それは、「堕胎」よりも、人口増が戦争を導き人が死ぬよりは、予め結婚などを規制し子供の数を抑制するということだったが。<
JRF2025/6/104919
……。
あとがき。
清水さんはアカハラを受けたことで有名になったが、大学を追い出され、一時、日雇い労働で食いつないだこともあったらしい。頭が下がる。
JRF2025/6/106391
>さて、2023年冬、新宿で路上生活者支援の手伝いをした際のことである。一人のご老人が、私が僧籍を有していると知ると、「僧侶から恵んでもらってもいいのだろうか」と言って支援物資の受け取りを躊躇された。最終的には受け取っていただけたが、話を伺うと、僧侶とはお布施をする対象であって、その僧侶から何かを恵んでもらうことに抵抗感があるのだという。私は僧籍を書類上持つだけで、どの寺院にも属していない蓄髪の破戒僧であるが、それでも「僧侶」であるという事実は時として重い。
JRF2025/6/109742
その時、次の疑問を抱いたのをよく覚えている。慈善事業を「お布施」と見たならば、宗教がそれをすべき教理的裏付けがあるのかという問いである。現在、仏教系やキリスト教系の団体が炊き出しなどの慈善事業を行っている。宗教は社会の安寧を目指すものである以上、慈善事業は称賛されこそすれ、批判される謂れはない。しかし、仏典のなかに「自ら慈善事業を行え」という一文が見出せない以上、これをどう正当化すべきなのだろうか。
JRF2025/6/108234
この経験が、本書に通底する一つの結論「お布施は在家者と出家者のあいだに相互利益的な関係を形成し、健全な社会の基盤を支える」へとつながっている。そうした双方向の関係が重要である以上、施主のためにも、僧侶はお布施を頂くにふさわしい存在になる努力が必要である。その努力の一つに慈善事業があることは何らおかしくない。
<(p.164)
JRF2025/6/109245
仏教のブランドのために「善業」をする。教えから直接導ける業でなくても。原典には書かれてなくても。…ということのようだ。それはこれまで言ってきたように私の立場からは支持できる。しかし、それが清水さんらしいのか…そこには大学外に出て原典主義以外の方法を探るその宿命が現れているのかもしれない。
JRF2025/6/106246
『お布施のからくり - 「お気持ち」とはいくらなのか』(清水 俊史 著, 幻冬舎新書, 2025年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0F7SD47DK
https://7net.omni7.jp/detail/1107606691
清水さんの本は前に『ブッダという男』を読んだ(参: [cocolog:95233837](2025年1月))。
JRF2025/6/103930