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cocolog:95559854

白田秀彰『私たちはなぜ法に従うのか』を読んだ。主に西洋法制史を扱った本。当初はエンタメに振りたかったらしいが、至極まじめな本。若干、エンタメ方向の痕跡がある。公認会計士試験などを目指して法学を独学していたころを思い出しながら読んだ。 (JRF 1069)

JRF 2025年7月29日 (火)

『私たちはなぜ法に従うのか - 法と「正しさ」をめぐる3000年の世界史』(白田 秀彰 著, 亜紀書房, 2025年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4750518735
https://7net.omni7.jp/detail/1107626245

JRF2025/7/297784

白田秀彰さんは、Twitter (X) では、ロージナ茶会 / 峰盛山 旭霜 (@RodinaTP) として活動していらっしゃって、私はだいたいいつもチェックしている。ずいぶん前の話だが、著作権法にからんで、「MIAU」という活動をされていたり、テレビに出たりしていたこともあった。2006年・2007年ごろかな、そのころの私は、ネットに戻ってきたばかりで、税理士試験を諦めたころだった。ブログを付けはじめ、P2P ファイル共有に関心を持っていた。

keyword: 白田秀彰

JRF2025/7/294399

白田秀彰さんの著作は、最初の『コピーライトの史的展開』は高くて買えないが、それ以外は読んでいる。この「ひとこと」の記録に残るものだと、[cocolog:87865666](2017年8月)に『性表現規制の文化史』を読んでいる。また↓では、『インターネットの法と慣習』にリンクしている。

《デジタル著作権の報酬請求権化に向けて - JRF の私見:税・経済・法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2007/11/post_4.html

JRF2025/7/296313

……。

90年代後半、私は北大の工学系の大学院を修了しはしたのだが、いろいろこじれて北海道に留まっていて、いろいろ勉強していた。公認会計士も本気かどうかは定かではないが、そこを目指している感じの勉強もしていた。

そういう緩い状態の中で、でも、勉強するからにはしっかりと勉強しようと、公認会計士試験に必要な法学についても勉強していて、他の人がやらないような基礎もしっかり学ぼうとしていた。研究者を目指していた根性がそんなところで生きていた。

2001年9月11日を境に、私は明確に発狂し、精神病院に入院することになった。そこから医師の助けがあって退院はできて、大阪に戻ってきた。

JRF2025/7/295139

大阪に戻ってきたあとは、税理士試験に挑戦しようとしたのだった。しかし、簿記と財務諸表論はなんとかなったが、税法が見通しが立たなかった。筆記スピードが遅過ぎるからだ。もしかすると、薬や入院の影響であったアカンジア(貧乏ゆすり)のため、そうだったのかもしれない。言い訳になるけれども。

それもあって、私は税理士試験はほとんど半ばで諦め、ネットに活動のよすがを求めていくことになる。ブログを付けはじめたのが、2006年だった。

JRF2025/7/296373

そういう経緯だったので、法学への関心というかコンプレックスをかなり感じながら、ネットに接していて、特に著作権法や、労働法に関心を持っていたりした。

著作権法については今でも猥褻物規制([cocolog:95551700](2025年7月)など)やレトロゲームがらみ([cocolog:94880232](2024年6月)など)で関心を持っているが、AI が出てきてからは、完全に老いた私が手を出せる領域ではないと感じつつあり、関心が薄れている。

JRF2025/7/290016

労働法については、残業に課税しろ…とか、企業で45分 PC で働いたら15分休憩=1/4 の時間は個人が自由にネットさせろ…とか、そういう主張をして、あとはもう「わからない」と素直に認める感じになった。

憲法についても少し言及していたが…まぁ、私が考えることではないか…と思いつつある。

JRF2025/7/299250

ただ、拙著『宗教学雑考集』に絡んで、カントやヘーゲルについて学ぶことはあったし、西洋はいまだにローマ法やゲルマン法が、特に支配層の中では信じられているのではないかという「陰謀論」は抱いているので、その辺りの関心から、この本は興味深く読めた。

keyword: ローマ法

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/7/295126

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/7/299124

……。

それではいつものごとく、引用しながらコメントしていく。最新の本なので、著作権法または業務妨害等で問題になりにくいように、少しでも興味のある方はこの本を買っていただきたい。

なお、白田さんは、ページを示すときに複数ページにわたるときは pp.3-7 みたいな表記を求めるようだが、私は簡便さのためにそういう伝統には従わず単に p.3-7 みたいに表記する。その他、白田さんの基準からすれば、いろいろ問題ある点が私にはあると思うが、なにとぞ、ご海容願いたい。

JRF2025/7/298877

……。

>国家の暴力は法律に従ってのみ発動(…し…)ます。法律は暴力を正しく行使するための条件の集合体です。するとこういう見立てができます。

ほとんど何でも実現できる「力」がわれわれの世界には存在していて、その「力」を発動させる魔法が法律だという見立てです。あの「意味のわかりにくい日本語文の集合体」を術式だと考えるのです。法律言語を用いて詠唱し、法律に従って術式をおこない、「力」の管理者である裁判官を説得できれば、「力」が発動し自分の目的を実現したり、敵を粉砕したりできるわけです。

これはオタクの妄想ではありません。
<(p.13)

JRF2025/7/292943

法は魔術である…と。

「おわりに」で白田さんはエンタメに振る構想があったことを述べるのだが、この本はエンタメではなく至極まともな本になった。そんな中、稀少なエンタメ要素の名残りがこの部分だと思う。

JRF2025/7/299009

……。

ローマ法がなぜ今でも大事にされているかが謎だったが、この本にはその根本が書かれていた。

>>(…)新都市はローマと名づけられたというわけです。

しかし、法の歴史にとって重要なのはここからです。

このとき、(…双子の兄弟…)ロムルスとレムスはお互いの勢力圏を分けるために、溝を掘って城壁を作り「この壁を越えるものは誰であっても殺す!」と誓ったそうです。ところができあがった溝と城壁が小ぶりなものだったようで、レムスは「こんなもの、なんともない」と溝を越え城壁を侵しました。そして、これを見たロムルスは躊躇せずレムスを殺害したのでした。伝承では紀元前753年4月21日のことです。

JRF2025/7/297291

その後のローマの展開を考えると、これはとても象徴的な伝承です。たとえば、『概説 西洋法制史』(ミネルヴァ書房)では、この逸話について次のような説明がされています。

>レムスが殺害されたと伝えられる日をもって建国の日と位置づけた「事実」もまた重要であろう。法を破った者は、たとえ実の兄弟であったとしても、仮借なく厳正に処罰する。ローマはそのような厳格な法の上に築かれたのであり、こうした伝統的な法こそがローマ人の精神的支柱なのである。<
<<(p.56-57)

JRF2025/7/299874

また初期にサビニ人の女たちを奪ったことが「ないものは、どこからかとってくればいい」となった…などとも白田さんは書いている。

この他、ローマの法制史が書かれ、これですべての私のローマ法への陰謀論的印象が解消されたわけではないが、かなり納得がいく説明があったように思う。日本語でローマ法の詳しい説明って、昔(90年代まで)は案外なかったんだよね。

JRF2025/7/296837

……。

>「無法者について書かれた中世の文献の多くによれば、正面から正々堂々と行われた強盗は尊敬に値したらしい。それはちょうど神明裁判におけるような扱われ方だった -- 強盗が成功したということは、神がそれに味方したというわけだ」(テリー・ジョーンズ/アラン・エレイラ『中世英国人の仕事と生活』高尾菜つこ訳、原書房、2017年、p.93)<(p.289 注)

ルパンとかの怪盗がなんで社会的に認められるかというとこういう文脈があったということか。ねずみ小僧とかの義賊のことも考えると、日本とかでも同じような感じだったのかな?

JRF2025/7/293083

……。

ゲルマン法についてもわかりやすい説明が述べられていてありがたい。

要は、ローマの行き過ぎた理性主義的・知性主義的な法の肥大化に対し、ゲルマン法は古拙を尊んだようなところがあるのだろう。

もちろん、ローマのような知性主義的な法の肥大化ができる背景には、格差の問題がある。現代とはちょっと違うかもしれないが、金融権力的なものの肥大化もあったのではないか。

JRF2025/7/294290

私も作ったカード(『The JRF Tarot for 易双六』 https://amzn.asia/d/iAGwLxm )がまったく売れなくて難儀しているが、なんか投資や借金がビジネスであって、輸入できる国がいっぱいあって、一部の金持ち以外は貧乏人ばかりで、物が売れてない・まともな価格で工芸品が売れない…みたいな状態に、ローマもなっていたのではなかろうか。

JRF2025/7/291908

>ゲルマン部族法典を見てみると、不思議な気持ちになってきます。そこには、部族ごとに、社会身分ごとに、身体の部位ごとに値段が付いているのです。これには次のような考え方が反映しています。誰かを害した場合、とくに身分が上の人物を害した場合、自分の身体の一部を報復として損壊されます。場合によっては命を奪われる可能性すらあります。そこで贖罪金を支払うことで、自分の身体や命を相手から「買い戻す」わけです。<(p.79)

JRF2025/7/298828

いかにも拝金主義が極まったかのようなシステムだが、実態は、逆なのであろう。つまり、金を貸した者がいかに金を貸し込んだとしても、それを殺せば、贖罪金でチャラになる…ということ、それがいやなら、金ではない「力」で・部族の力で、自分の身を守らねばならない。…ということなのだと思う。むしろ金銭への反感があったのではないか。

JRF2025/7/291824

現代、ミサイルでバンカーバスターというのがある。これは Bunker Buster で銀行家(Banker)と違うのであるが、私はそこにダブルミーニングがあると思う。銀行家がシェルターに隠れようと殺せる。証書を燃やして借金をチャラにしうる。そういう意気込みがあるということなのだと思う。これがローマ法を経たゲルマン法に続く態度なのだろう。

JRF2025/7/296096

……。

>こうした様子を見ると、中世には現代の私たちが考えるような種類の「正しさ」が存在しなかったことがうかがわれると思います。共同体になじんでたくさんの友人がいる強力な成人男性であれば、たいていのことはやりたい放題だったと見てもよいと思われます。

このような中世の共同体における正義を見て、怖くなった人もいるでしょう。身分が低く友達が少なく、口下手でおどおどしている人は、共同体ではとても生き残れそうにありません。
<(p.90-91)

JRF2025/7/296694

現代の機械文明になるには、「口下手でおどおどしている」ギークに力を与える必要があった。ただそれも筋肉の必要な職人と研究者とで分かれていて、中世は主に前者のみがギークのモデルだったということだろうか。「大量生産」に人力が重要だった時代では、そうならざるを得なかったのかもしれない。

JRF2025/7/293459

……。

ゲルマン法では遠距離交易などに対応できず、キリスト教教会のカノン法が取引において重視されるようになる。

カノン法裁判所の…

>下級裁判所は自分の町や村といった単位ですが、より上級になると、遠い都市に出かけることになります。そうなると、最終審まで進めるとローマまで旅行することになってしまいます。しかし、カノン法裁判所では、すでに書面主義がとられていたので、当事者が集まる必要のある事実審は地方裁判所でおこない、それ以上の法律問題についての判断は、書類だけをより上級の裁判所に送ることで、判断を仰ぐことが可能になったわけです。<(p.144-145)

JRF2025/7/293691

なるほど、日本の最高裁とか地方になくて、地方在住者は不利だな…とか思っていたが、基本的に上級審が事実では争わず法律問題のみ書面で扱うというシステムなら、少し納得感がある。

JRF2025/7/294473

直近の [cocolog:95558759](2025年7月) でも書いたが、司法におけるリモートの活用として最寄りの裁判所の監視の下の海外などへの証拠の提示([cocolog:95155334](2024年11月)など)というのがこの先、見込まれる。そうすれば、時代は・考え方は、大きく動くのだと思う。最高裁での事実審も手続き的に(地方者にとって)不公正とは言えなくなる。冤罪裁判(やその事前の審議)なども変わるのではないか。

JRF2025/7/298561

取引の契約で裁判所を指定するのは、統制がとれていて判断が安定したカノン法裁判所などを使うためになされた面があったようだ。海外のゲームメーカーなどが、日本に売る場合も海外の裁判所を指定していて、ずいぶんヒドイ話だと思うが、元はそういうところに正当化の根拠があったのだろう。それもリモート裁判(自動翻訳付き・録画検証付き)が普及すれば、変わってくるのだと思う。変えなければならない。

JRF2025/7/294921

……。

「カノッサの屈辱」

>不利を悟ったハインリッヒ四世は、グレゴリウス七世に謝罪し恭順を示しました -- とはいえ破門を解かれたあとの皇帝は、皇帝権力の増強に努め、軍事力を用いてグレゴリウス七世をローマから駆逐してしまうのですが。<(p.162)

JRF2025/7/299533

拙著『宗教学雑考集』《慰安婦像とカノッサの屈辱》でカノッサの屈辱を、ある種の「歴史修正主義」として取り上げた。>それが事実であったとしても、教会はこれを広く宣伝して、教皇の優位を確立していったのであった。現代では名誉毀損は事実であっても成立する。<…として。

JRF2025/7/291363

ただ、「歴史修正主義」とまでは言えないという印象は今も抱いていて、なぜ「カノッサの屈辱」にそのような強い印象を私は抱いているのか、いまいち説明できなかった。フジテレビの番組のせいではもちろんない。

白田さんの説明で、少しそういう面が確かにあったらしいことが感じられてホッとした。そういう歴史を私は高校時代などに教師などから聴いたのかもしれない。

JRF2025/7/295771

……。

神聖ローマ帝国の時代…

>この時代の刑事罰は、すべて王の命令への違反を理由とする処罰になります。<(p.173)

keyword: 反逆罪
keyword: 背任罪

国家反逆罪の規定は今も必要じゃないかとか私は考えたことがある。

[cocolog:92747538](2021年5月)ではダンボールサイズの不統一に怒って、それを促したものを反逆罪にすべきだみたいな暴論や、[cocolog:91228785](2019年8月) では、海外などで、日本の利益よりも私利を追及して住民を虐げたものを反逆罪に問えないか…みたいなことを述べている。

JRF2025/7/297236

……。

>「ポリツァイ」(Polizei)<(p.185)

ポリツァイについては↓で学んだ。

[cocolog:94987854](2024年8月)
>>大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか - ヘーゲル「法哲学」入門』を読んだ。ポリツァイ(内務行政)とコルポラツィオン(corporation=ギルドの発展形?)で上下から「現実的な神」である国家有機体を運営するのが、ヘーゲルの国家論のようだ。

JRF2025/7/299583

(…)

「ポリツァイ」は現代では police つまり警察と同じ言葉だが、当時は別のもっと広い意味を持っていた。「ポリツァイ」という言葉は、いろいろ訳があるが、

>「内務行政」という訳もあり、これが一番ヘーゲルの語の語ろうとしているものに近いかもしれません(…)。<(p.61)

JRF2025/7/293175

かつての「ポリツァイ学」は、帝王学というか帝王の家臣学のようなもので、内政について広く学ぶ学問であったらしい。かつての行政的政治を知りたい、「支配」の秘密を知りたいという方は、この本で参照されているような「ポリツァイ学」にあたってみると、ひょっとすると求めるものがあるのかもしれない。

ウェーバー『支配について』([cocolog:94703217](2024年2月))は、宗教や哲学に関心を持つ者にはいいかもしれないが、実務に関心があるなら、ポリツァイ学などがいいのだろう。
<<

JRF2025/7/298259

……。

>こうしてみると、強力な「権力」や「権威」というものは、「過剰に複雑なものを、運用者が取り扱える程度に単純化する道具として使われているようにも見えます。権力や権威は、私たちが考えることを面倒に思うようになったとき、重宝されるものだと言えるのかもしれません。<(p.201)

今となっては少し気恥ずかしいのだが、昔、憲法私案を少しだけ書いて「天皇」のところをこう書いた。

JRF2025/7/294839

[cocolog:79931284](2014年6月)
>第二条 天皇は、人が人でしかないことの象徴であると同時に、儀礼においては国民の象徴であって、この地位と公の行為は、国民の総意に基づかなければならない。<

そして、これは>法ですべてを解決することは不可能であるという、我々の限界<を表していると書いた。

この点、白田さんのここの考え方に似ている。

JRF2025/7/298819

……。

「普遍的な自然法」という考え方に対し…

>モンテスキューは、「合理的社会」よりも「人間の合理性」のほうがより普遍的であると考え(…ました…)。彼は、同じようなものの考え方や行動をする人間であっても、人間を取り巻くそれぞれ異なった環境に合理的に適応した結果として、それぞれ異なっているように見える国々や諸民族のありさまを作る、という図式を示したのです。<(p.222)

ここは「人権」にちょっとキナ臭いものを感じる私の直感に合致している。カントに対するヘーゲルもこういう方向だったようだが。

JRF2025/7/291282

拙著『宗教学雑考集』《政治が決める善》
>ただし、近代における「自然法」的な人権の主張は、「未開の地」において介入する口実として使われたのではないか…と現代アメリカなどの「人道的介入」で戦争を起こしてきたのを見て思う。「人権」というものは、実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、それは「基本的人権」なので例えば海外に出ていった先でもその外国(の未開さ)に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。<

JRF2025/7/290356

あと環境が作るという点は、ちょっと関係ないが、最近書いた↓を思い出す。

>>
○ 2025-07-27T16:58:02Z

動植物が、動物どうし・植物どうしも、環境から共生を強制されてきたということは、「生物が共生してきた」ということである。

JRF2025/7/295614

[cocolog:95311957](2025年3月)
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2025/03/post-0bf49e.html
>進化論的初期植物の戦略。動いて食われるのが酸素呼吸生物なら、食われ過ぎれば酸素が足りなくなるため、共生を強制できる。そして、酸素呼吸生物が他よりも圧倒的に強いことが、植物のそれへの「利他性」を導いたのであろう。<
<<

JRF2025/7/295615

……。

>法典は単に「存在している法」や「理性で組み立てた体系としての法」というだけでなく、「啓蒙され規律された市民社会の行動規範」という側面も持っていました。つまりそれは、現にある社会の規範というだけではなく、「あるべき社会の予定」として組み立てられていたのです。<(p.227)

↓を思い出す。

JRF2025/7/290873

[cocolog:89997835](2018年9月)
>finalvent 氏などが、憲法は政府を縛るもので、国民の義務などを書く必要はない…かの論を展開しているのを読んだことがたしかあるが、私は、[aboutme:95506] で書いたように、憲法は「国民の宣言」としての性格も持ち、投票の義務([aboutme:108306])などを入れていくべきだという考えを持っている。<

JRF2025/7/295277

…… 。

>大学で講義されていく中で、多くの法曹たちはパンデクテン法学の理論や思考様式に慣れていくわけですが、それを決定的にしたのがヴィントシャイト(Bernhard Windscheid, 1817-1892)が著さいた『パンデクテン法教科書』(Lehrbuch des Pandektenrechts, 1862-70)でした。これは19世紀の歴史法学を集大成した教科書であり、法律解釈や法律構成の技術を模範的な形で提示したため、その後制定された『ドイツ民法典』(Bürgerliches Gesetzbuch)に決定的な影響を与えました。<(p.252)

JRF2025/7/291959

『パンデクテン法教科書』。なにそれ、興味ある…。と思って Amazon を調べたら邦訳はなさそう。がっかり。

JRF2025/7/290617

……。

将来、裁判などでも AI に「神託」をあおぐような形になるだろうという予測を白田さんは述べる。

>すると、高度に発展したテクノロジー社会の中で、私たちの社会は伝統と慣習への帰還を果たすということになるのかもしれません。私はこれをよいとも悪いとも評価しません。ただ、そのようになるだろうと、かなりの確信をもって推測しているのです。<(p.277)

JRF2025/7/297230

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