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マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』と『それをお金で買いますか』を読んだ。「リベラル」の亜流として、ロールズさんの再分配への傾倒、サンデルさんのコミュニティ=愛国心への傾倒、そして私の人治主義=国家主義への傾倒への流れがあるように思った。 (JRF 3891)

JRF 2025年9月28日 (日)

「サンデル教授」は、NHK が放送した『ハーバード白熱教室』や別に『TED』などで有名で、「トロッコ問題」で特に有名になったというのが私の記憶である。

拙著『宗教学雑考集』でも「トロッコ問題」に関して「サンデル教授」の名前を挙げている。そこで挙げたこともあって、サンデルさんの著作を読まねばならないとは思っていたのだが、今日まで読んでなかった。それをやっと読んだことになる。

なお『宗教学雑考集』とは↓。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/9/284073

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/9/283119

……。

それではそれぞれいつも通り、引用しながらコメントしていく。なお、どちらも Kindle 版で読んでいるので、ページ数は紙の本とは違うかもしれないので、あしからず。出版順に『これからの「正義」の話をしよう』を先に読む。

JRF2025/9/286289

……。

……。

『これからの「正義」の話をしよう - いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル 著, 鬼澤 忍 訳, ハヤカワ・ノンフィクション文庫, 2011年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B009T625JU (Kindle)
https://7net.omni7.jp/detail/1106098526 (文庫本)

原著は Michael J. Sandel『JUSTICE - What's the Right Thing to Do?』(2009)。

JRF2025/9/284148

……。

サンデルさんの「トロッコ問題」は私が知ってるのとは少し違った。

>あなたは路面電車の運転士で、時速60マイル(約96キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。

JRF2025/9/288191

ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。

どうすべきだろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。
<(p.35)

JRF2025/9/288267

さて、ここまでは私の知ってる「トロッコ問題」だが、サンデルさんのこの本にはすぐ次のような続きがある。

JRF2025/9/280970

>さて、もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転士ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている(今回は待避線はない)。線路上を路面電車が走ってくる。前方には作業員が五人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに五人をはねる寸前だ。大惨事を防ぐ手立ては見つからない -- そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことがでいる。その男は死ぬだろう。だが、五人の作業員は助かる(あなたは自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)。

JRF2025/9/280974

その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」
<(p.35)

太った男を突き落とせるだけの力があって、それで止まるのがわかるのに、自分が落ちても意味がない…というのがいまいち想定できないのだが、まぁ、設定の意図はわかる。罪の意識みたいなものが、電車の自動性で免責されるような感覚があるということだろう。AI 時代にそれがどういうことか少し恐ろしいが。

私はこの問題については次のように書いた。

JRF2025/9/280006

『宗教学雑考集』《トロッコ問題と小さな善》
>>
トロッコ問題というものがある。次のような問題だ。

>線路を走っていたトロッコが制御不能になった。その先には 5人いて、このままではその 5人は轢[ひ]かれて死んでしまう。その前に分岐器があり、あなたはそれを操作できる。それを操作すると 5人は助かる。しかし、待避線にも実は労働者 1人が作業をしており、分岐器を操作するとその 1人は死んでしまう。あなたは分岐器を操作するだろうか?<

JRF2025/9/283883

《トロッコ問題 - Wikipedia》によると 1967年ごろからもあった問題だが、サンデル教授が語ることで 2010年ごろ有名になった。サンデル教授はそれに絡めるなどして「正義」を語った。

JRF2025/9/282406

トロッコ問題そのものについては、その質問が与えられたというその機に応じ、具体的に前提の多義性から何を選ぶか示すことが求められていると考えたほうがよい。例えば「その労働者が教授の子息であれば、その向こうに 1000人以上いるはずだからその 1人を轢かない。」と具体的に前提を拡張したり、「私が労働者なら轢かれることを望みます。」と微妙に問題をずらしたり、素直に教授の答えて欲しい答えをして授業をすすみやすくしたり、一般論でいなしたりできる。とにかくそういう授業ならば選ぶしかない

JRF2025/9/285763

一般論ということだと、この命題(問題)そのものを「正義に大小はなく、偽善だからこそ大小が見える」と振り払いたくもなる。しかし、実のところ、いっときに大きな影響がある「正義」はあるし、大きく感情を揺さぶる「不義」はある。

シンプルな命題は美しく分析にとって善かもしれないが、現実の状況から導かれる前提は常に多義的であり、そのときその者が最善と思ったならば、それを正義とするしかなく、むしろその状況を受けたすべての人のその後の人生において正義が構成されていくものだ。(「勝てば官軍」もその虚しい一例かもしれない。)

JRF2025/9/281025

「正義」が試される状況があって、その後の人生においてあの状況で何を正義とすべきであったかを人が実践しうるシンプルな命題にし、その命題の正義が実現できるよう努力し、支える。これが、どんなに大きな組織に関する命題でも「小さな(偽)善」だろう。同じような状況が再び現れたそのとき、信じたことを正義とできるかはわからないけれども。
<<

JRF2025/9/280780

……。

最大多数の最大幸福…ベンサムの功利主義は、基本的人権などにまったく対応してないように一瞬思えるが、そうではなく、基本的人権を人々が欲することがあり、そこに功利を感じるという形で取り込める…ということのようだ。

たとえばそれは次の論を敷衍すればわかる。キリスト教徒をライオンの犠牲とするローマの「文化」…

JRF2025/9/286443

>功利主義者は、こうした娯楽がローマの街の気質をすまさせ、さらなる暴力を生むのではないかと懸念するかもしれない。あるいは、犠牲者となりかねない人びとのあいだに、いずれ自分もライオンの前に放り出されるのではないかという恐怖感が広がる可能性もある。こうした悪影響があまりにひどければ、ことによると、それが見世物の与える快楽を上回り、功利主義者に見世物を禁止する理由を与えるかもしれない。だが、こうした計算だけが娯楽のためにキリスト教徒を悲惨な死に追いやるのを禁じる理由だとすれば、何か道徳的に重要なことが見失われてはいないだろうか?<(p.56)

JRF2025/9/289853

長期的な利益も考えるべきだし、死を超えた利益も考えるべき…としていけば、功利主義も基本的人権の考慮をすることになるのだろう。しかし、そのように考える場合、「野蛮で愚かな今を生きる一般人の全体」としての効用とは確実にズレることになる。ある種の貴族主義的な「全体」、理想主義的な仮想的な「全体」を考えなければ、人権などを擁護できないだろう。

しかし、そこはおいておいて、そのような理想主義的な仮想的な「全体」の効用を考慮すること自体は可能なことなのだろうか?

JRF2025/9/280475

アメリカで費用便益分析が問題となった。自動車のガソリンタンクの不具合により消失する人命などを計算したことが批判されたが、一方、求められた交通規制の緩和をその効果から逆算すると、一定の人命の影響が算出できた。

>費用便益分析の擁護者はこう指摘する。われわれは時速55マイルでなく65マイルで運転することによって、暗黙のうちに命の価値を154万ドルと評価しているのだと。これは、政府機関が大気汚染基準や健康安全規則を定めるためによく用いる600万ドルという命の値段よりはるかに低い。<(p.67)

JRF2025/9/280038

交通事故によって「天才」が死ぬこともありうる。それを「平均」による算出は考慮できていない…という言い方もできるだろう。『宗教学雑考集』《必需品と贅沢品の宇宙的独立関係》では、発明に無限の価値があるとできるとしたものだった。レヴィ分布など発散的で平均の定義できない分布は存在するが、それでも観測した分布には平均は計算できる。費用便益分析の「平均」も本来は単に計算できないものなのではないだろうか。

JRF2025/9/282876

基本的人権もそれを失う事を人々がとても嫌うとして功利主義に組み込めるかもしれないということだった。しかし、そのような考慮はどこかで不可能なのではないか。それには、不完全性定理のようなことが証明できそうに私は感じられる。

不完全性定理の証明において、どのようにしても判断が停止しない問題ができる。効用を計算しようとしても、どうやっても判断つかない費用便益計算というのはあるのだと思う。それを確率的にカバーできるかというと、できるものもあるだろうが、平均が単に計算できない…みたいになることがあるように思う。

JRF2025/9/287174

さらに、計算可能性理論で、チューリングマシンとかラムダ計算とか帰納関数論とか、全部計算は同じ…似たりよったり…なのだが、その中で、計算できないものというと、まず不完全性定理的に停止しない問題があるのだが、もう一つ、見落としがちだが、重要なものに I/O を含む問題というのがある。I/Oは オラクル的で、たしかにその I/O をもたらす「外部」も計算しているから、その計算も含めれば計算可能となるという考え方もありうるのだが、しかし、その「外部」がさらに I/O をもっていることもありえて、ここは無限後退しうる。

JRF2025/9/288649

I/O に絡んだ割り込みは現代だとマルチスレッドなどに絡んでくるのだが、そういう多数性が、本質的に答えを外挿してくることはありうると私は考える。人権なんかも、そういうオラクル的な性質を持っていると考える。その価値はプライスレスなのだ。功利主義は原理的な限界があるのだと思う。

まぁ、でも、平均の存在しない分布も観測した分だけの平均は求まる・求めるときがあるように、それで決めざるを得ない瞬間…それで十分な瞬間は多く、功利主義的効用が定義できることも多いのだとも思うけど。

JRF2025/9/283486

……。

リバタリアンは課税をだいたい否定する。バスケットボール選手のマイケル・ジョーダンの高額報酬に課税するべきだという意見、例えば、次のような論拠について…。

>反論その4: ジョーダンは実際には同意なしに課税されているわけではない。民主主義社会の市民として、自分も従うことになる税法の制定について、ジョーダンにも発言権がある。

JRF2025/9/286086

リバタリアンの回答: (…)市民としてこの社会に暮らしているというだけで、多数派に無制限の権限を与え、どんなに不公正な法律にも従うと事前に同意していることになるだろうか。(…)民主主義社会の市民として、社会のあらゆる取り決めに同意しているのだと主張することによって、多数派は少数派から、言論の自由や信教の自由を取り上げてもよいだろうか?

リバタリアンはこの最初の四つの反論には即座に答えられる。しかし、次の反論を退けるのは、それほど簡単ではない。
<(p.98)

JRF2025/9/286614

ここのサンデルさんはリバタリアン寄りで見苦しいと思った。二者択一強制のレトリックの匂いがキツい。

言論の自由や信教の自由がまったく制限がないというのは、おそらくアメリカ人のみにある幻想だろう。日本ではポルノにはモザイクがかかるし、フランスではブルカが規制される。信教が自由といっても、新宿の通りで血腥い儀式はできない。そういう儀式は他人に迷惑をかけるからというかもしれないが、他人がどう思うかがすでに信教の領域なのだ。程度の問題である。

JRF2025/9/287570

程度の問題だから、リバタリアンの主張はバーゲニングできる。「ある程度」なら課税してよい。もちろん、バーゲニングにも原則は必要である。なぜそのバーゲニングが可能なのかの説明はいる。しかし、それはここでは、すでに十分理由が示されている。それを二者択一的にできるかできないかで示そうとするのはレトリックでしかないだろう。

JRF2025/9/288747

苦しんでいるからといって、腎臓ならば分けてよこせとは言えないが、パンならば分けてよこせというのはそんなにおかしい話ではない。自己所有権はそこまで神聖ではない。金持ちもよい社会を保つそれぞれ皆に借りがあると言えるし、その対価は定額である必要はなく、金持ちはより多く支払っていい。定額であるべきだというのは、一物一価という目的論的ルサンチマン的消費者幻想を金持ちに適用しているに過ぎない。(今の世の中にも学割とかある。金持ち優遇の(逆)差別はダメだが。)

JRF2025/9/286056

……。

徴兵制度と違い、志願兵制度は、金で解決しているという側面がある。

>功利主義者が、志願兵制は徴兵制よりコストがかかると言って反対する可能性も考えられる。必要な数と質の兵士を集めるには、強制的に兵役に就かせるよりも給料も手当ても高くする必要がある。だとすれば給料が上がった兵士の幸福が、軍隊により多くの税金を持っていかれる納税者の不幸で相殺されてしまうのではないかと、功利主義者は懸念するかもしれない。

JRF2025/9/288406

しかし、この反論にはあまり説得力がない。代替案が(身代わり条項の有無にかかわらず)徴兵制ならなおさらだ。功利主義的な立場からすれば、無作為に選んだ人間に強制的に相場以下の賃金で警察や消防などの公共サービスを担当させて、納税者のコストを減らすべきだと主張するのはおかしいはずだ。くじで選ばれた納税者の一段に、ハイウェイを修繕したり他人を雇ってその仕事をやらせたりするよう求めることで、ハイウェイの維持費を下げるべきだという話になってしまう。こうした強制的な手段によって生じる不幸は、公共サービスのコスト削減による納税者の利益を上回るだろう。
<(p.115)

JRF2025/9/283444

いや、徴兵制のほうが公平なため、その公平さを利益と感じることはあると思う、功利主義者的には。その点をここではサンデルさんは先に自分で指摘したことをわざと忘れて議論しているように思う。まぁ、功利主義についてステレオタイプな見方をしたほうが議論しやすいのはわかるけれども。

JRF2025/9/289193

……。

>民主主義社会の市民がたがいに負っている義務とは何か、こうした義務はどのようにして発生するのか。この問いに対しては、さまざまな正義の理論が、さまざまな答えを用意している。<(p.129)

イラク戦争について、自衛隊の海外派兵が問題になったとき、私はこの問題について考えた。そして、「自由を守るために」戦うのだと考えた。天皇を頂いている国家であっても、基本的には遺る人々の自由のために死を賭すのだと。

ただし「自由」のニュアンスは私にとっては以下のようになる。

JRF2025/9/285197

『宗教学雑考集』《捕虜のように敵として生きる》
>>
《祭と国家自由主義》では次のような「国家自由主義」の信条を紹介した。

JRF2025/9/284267

>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。しばしば逃げた先には自由はないもので、「自由」とはどちらかと言えば築いていくものだ。

JRF2025/9/280626

これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。


ポパー『開かれた社会とその敵』では似た主義として「保護主義」を提案している。まぎらわしい言葉で、「保護貿易主義」とは別物で、「自由のために必要限度で国家に保護を求める」主義だ。ただし、彼の場合はウォークマンではなく自転車が問題だったようである。その主義はさかのぼればプラトンと同時代のソフィストであるリュコフロンに行き当るそうだ。
<<

JRF2025/9/283897

……。

ジョン・ロールズの格差原理…。

>格差原理とは、いわば個人に分配された天賦の才を全体の資産と見なし、それらの才能が生み出した利益を分かち合うことに関する同意だ。天賦の才に恵まれた者は誰であれ、そのような才を持たない者の状況を改善するという条件のもとでのみ、その幸運から利益を得ることができる。天賦の才に恵まれた者は、才能があるという理由だけで利益を得てはならず、訓練や教育にかかったコストをまかない、自分よりも恵まれない人びとを助けるために才能を使うかぎりにおいて、みずからの才能から利益を得ることができる。

JRF2025/9/287022

自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるからだと言える人はいない。だからといって、こうした違いをなくすべきだというわけでもない。やり方は別にある。こうした偶然性が、最も不遇な立場にある人びとの利益になるような形で活かせる仕組みを社会のなかにつくればよいのだ(17)。
<(p.216)

再分配の重視。ロールズってこんなことを言っていたんだね。知らなかった。「無知のベール」もちょっと違う印象を私は持ってた。

JRF2025/9/284085

……。

>努力でさえ、道徳的功績の基準にはなりえないのだ。<(p.219)

よく言われるように「努力」も「才能」で、「才能」は運によるから…ということらしい。とはいえ、当人なりの努力はそれでも認められるのだと思う。

『宗教学雑考集』《「結果」の平等、「機会」の平等》でも書いたが、結果を報酬で量る必要は本来ない…金で報いる必要があるとしても、稼いだ額そのまま渡さねばならないという根拠はない。再分配には力が必要なため、その力が問題になる…というぐらいだ。

JRF2025/9/288407

まさにその点をロールズは汲んで、努力した者、才能のある者、運が良かったものに、報酬を与えるが、それは稼いだ額そのままである必要はなく、ある程度、再分配すればよいということだろう。

JRF2025/9/287640

……。

美徳は、マナーとして継続するうちに宿ってくるという。

>マナー専門のコラムニスト、ジュディス・マーティン(別名「ミス・マナーズ」)はかつて、礼状を書く習慣が失われたことを嘆いた。現代では気持ちがマナーより大切にされているらしいと彼女は評した。感謝を感じてさえいれば、そのような形式を気にする必要はないというわけだ。ミス・マナーズはこう反論する。「私は反対に、適切な振る舞いをするうちに美徳の感覚が身につくと考えるほうが安心だと思います。十分な数の礼状を書けば、実際に感謝の気持ちが湧いてくるかもしれません(17)」<(p.271)

JRF2025/9/288635

そうなのか。ミス・マナーズはむしろ気持ちが大事と言ってるように私は受け取っていた。

『宗教学雑考集』《律法や戒律による救い》
>かつて「しきたり」は多かった。そこからの転換の時代に書かれたジュディス・マーティン『ミス・マナーズのほんとうのマナー』を読んで思うのだが、心さえこもっていれば形式は重要でないというのが「真実」で、どうでもいいことを煩瑣[はんさ]にして社会を窮屈にすべきではない…のだろう。ただ、その上で、任意で決まったやり方でそろえれれば、気持ちいい…というのはあるように思う。<

JRF2025/9/284918

……。

戦争責任…日本の慰安婦問題も例として挙がる…その謝罪を現代の人が行うべきか。自由を大事にする(?)個人主義者は、現代を生きる者が、先祖の罪に何のかかわりがあるのか、そこで補償などする責任まではないとしがちである。サンデルさんはそう考えない。

サンデルさんはそういわれるのはあまり心よくないのかもしれないが「コミュニタリアン」ということになるらしく、民族などの「物語」を背負う我々はそうであることにつき有責なのだとする。

JRF2025/9/282525

>ロールズが『正義論』でアメリカのリベラリズムを哲学的に存分に表現してから10年経った1980年代、何人かの評者(私もその一人だった)が、上記のような考え方に沿い、自由に選択できる負荷なき自己という理想に異議を唱えた。こうした人びとは、正しさは善に優先するという意見をはねつけ、目的や愛着を捨象しては正義を論じることはできないと主張した。彼らは現代リベラリズムを批判する「コミュニタリアン(共同体主義者)」と呼ばれるようになった。

JRF2025/9/287534

そうした批判者の大半は、そう呼ばれることに違和感を抱いた。正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものにすぎないという相対主義的見方を表わしているように思えたからだ。
<(p.301)

コミュニティ的な責務があるという、愛国心などにも通ずるもので危うさがないわけではないが。

JRF2025/9/285441

>リベラル派の考え方では、責務の生じ方には二種類しかない。人間に本来つきものの自然的義務と、合意の上で受け入れる自発的責務である(43)。自然的義務は普遍的だ。われわれは理性を持つ存在である人間として、他者に対してその義務を負う。自然的義務のなかには、敬意を持って人に接すること、正義を行ない、残虐行為を避けることなどが含まれる。それらの義務は自律的意志(カント)または仮説的社会契約(ロールズ)から生じるため、合意という行為を必要としない。私があなたを殺さない義務を負うのは、あなたにそう約束した場合だけだと言う者はいないだろう。

JRF2025/9/285089

自然的義務とは異なり、自発的責務は個別的であって普遍的ではなく、合意から生じる。仮に、私が(賃金と引き換えに、あるいは見返りを約束されて)あなたの家のペンキを塗ることに同意したならば、私にはそうする責務がある。だが、誰の家でも塗る責務があるわけではない。

JRF2025/9/284684

(…)

人間を物語的な考え方でとらえる立場からすれば、責務についてのリベラル派の説明はあまりにも貧弱である。同胞としてわれわれがたがいに負う特別な責任が説明されていない。そのうえ、忠誠と責任をとらえそこねている。(…)アイデンティティは、道徳性と正義について熟考する際に度外視してもいい偶発的な事柄ではない。われわれの人となりの一部であり、したがってわれわれの道徳的責任にも、当然、かかわってくる。

JRF2025/9/285454

(…)

そうした責務を、連帯あるいは成員の責務と呼ぼう。(…)その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語とかかわりがあるという認識なのである。

道徳的責任の三つのカテゴリー

1. 自然的義務: 普遍的。合意を必要としない。

2. 自発的責務: 個別的。合意を必要とする。

3. 連帯の責務: 個別的。合意を必要としない。
<(p.305-308)

JRF2025/9/289976

……。

なぜ昨今、リベラルが表現規制するようになったか。その理由の一端が書かれていた。

ケネディ大統領は選挙時、はじめてのカトリック系の大統領となることに対し、「中立性」を訴えて当選した。

しかし時代が進んで、オバマ大統領は…

JRF2025/9/288317

>アメリカ史上の偉大な改革者の大半は、信仰によって動機づけられただけでなく、宗教的な言葉を繰り返し用いてみずからの大義を説いた。したがって、「個人的道徳」を公的な政策論争に持ち込むべからずと言うのは、非現実的でばかげている。わが国の法律は、その定義からして、道徳を法典化したものであり、道徳の大部分はユダヤ教とキリスト教の伝統に基づいている(8)。<(p.335)

…と述べた。

JRF2025/9/280325

>1971年、ジョン・ロールズの『正義論』は、ケネディが演説で示したリベラル派の中立の構想を哲学的に用語した(10)。1980年代には、コミュニタリアンの立場からリベラル派の中立性を批判する人びとが、ロールズの論理の根底に見られる自由な選択と負荷なき自己という観念に疑問を投げかけた。彼らはより強い意味でのコミュニティと連帯の考え方を支持したのみならず、道徳的・宗教低問題への市民のより活発な関与を促した。(11)<(p.337)

JRF2025/9/287731

そして、2025年の今、我々は、ユダヤ人=イスラエルによる、ガザへの「虐殺」を目にしている(ハマスから仕掛けられた戦争とはいえ)。これを民族を重視しがちなコミュニタリアンは擁護するのかが問われる中、私のように権威主義的な人治主義的な見解に傾いていることを意識しつつも、正義は「程度問題」という考え方をとるものが増えているのだと思う。

話は先に進みすぎた。

JRF2025/9/281089

>なぜわれわれは、道徳的・宗教的信念を正義と権利についての公的言説に持ち込むべきでないのだろうか? なぜ市民としてのアイデンティティを、より広い構想である道徳的人格としてのアイデンティティから切り離さなければならないのか? ロールズによれば、われわれがそうしなければならないのは、現代の世界の主流である善良な生活についての「理性ある多元主義という事実」を尊重するためだ。現代の民主的社会に生きる人びとは、道徳的・宗教的問題について意見が一致しない。そのうえ、そうした不一致は合理的だ。「十分な理性を持つ良心的な人格が、自由に討論したあとでさえも、全員同じ結論に達することは期待できない(14)」

JRF2025/9/281858

この主張によれば、リベラル派の中立性擁護論は、道徳的・宗教的不一致に直面した場合の寛容の必要性から生まれる。「とどのつまり、どの道徳的判断が真実かは、政治的リベラリズム向きの問題ではないのだ」とロールズは述べている。対立する道徳的・宗教的教義のあいだで不偏不党を保つには、政治的リベラリズムは「そのような教義の見解が分かれる道徳的テーマに取り組む」ことをしない(15)。
<(p.338)

JRF2025/9/289114

だからこそ、ポルノなどの問題は、問題があるとその当時から見られながらも、中立に見過ごされてきた。もちろん、性の解放という文脈もあっただろうけど。

しかし、それも「保守派の反撃」によって難しくなっていく。

>1970年代には、リベラル派は選択の自由を尊重する中立的な言葉を使うようになり、台頭しつつあったキリスト教右派に道徳的・宗教的言説を譲った。

JRF2025/9/289005

1980年にロナルド・レーガンが大統領に当選すると、キリスト教保守派の声が共和党政治のなかで目立つようになった。ジェリー・フォールウェルのモラル・マジョリティ、パット・ロバートソンのキリスト教連合は「裸だった公共の場(19)」に衣服を着せ、アメリカ人の生活の道徳的な緩みと彼らがみなしたものと闘おうとした。

どちらの団体も、学校での祈り、公共の場所における宗教的な展示、ポルノと妊娠中絶と同性愛の法的規制を支持した。いっぽう、リベラル派はそうした政策に反対した。個々の事例について道徳的判断に異議を唱えるのではなく、政治的には道徳的・宗教的判断の入る隙はないと主張することによって反対したのだ。

JRF2025/9/281305

この議論のパターンはキリスト教保守派にとって有利であり、リベラリズムは雌伏の時代を過ごした。(…)リベラル派にとって典型的なのは、寛容、公平さ、選択の自由を重んじる価値観である(…)。だが、それらは、リベラルな中立性とリベラルな公共的理性の制限に結びついた価値観だった。国内に広まる道徳的・精神的渇望にはつながりがなかったし、広い意味での公共の生への切望に応えるものでもなかった(20)。

ほかの民主党員とは異なり、バラク・オバマはその渇望を理解し、政治の言葉で表現した。(…)リベラルな中立性を超えた道徳的・精神的要素が政治的言語に盛り込まれていた(…)。
<(p.339-340)

JRF2025/9/285304

そして、宗教的な・ピューリタン=プロテスタント的価値観から、表現規制なども主張されてくるようになるわけだ。

ロールズのような…

>自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。

JRF2025/9/283990

私には、これは間違っていると思える。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。
<(p.355)

しかし、そういう文化を作り出そうという努力は軋轢を生む。

JRF2025/9/287688

>われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ -- ときには反論し、論争し、ときには耳を傾け、そこから学びながら。困難な道徳的問題についての公の討議が、いかなる状況でも同意に至るという保証はないし、他者の道徳的・宗教的見解を認めるに至る保証さえない。道徳的・宗教的教条を学べば学ぶほどそれが嫌いになるという可能性は、つねにある。しかし、やってみないことには、わからない。

JRF2025/9/282530

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。
<(p.364)

議論することの大事さが唱えられた時代があった。インターネットの表現の自由があれば、あらゆる階層が議論に参加でき、時代は良くなっていくと。私もその理想に共感し、ブログに書いたり、SNS (Twitter (X)) を続けている面がある。私は今も「リング」に立ち続けている。

JRF2025/9/282900

しかし、「リベラル派」は変節した。炎上が繰り返され、「下層」の参加する議論が彼らの思うようにならないと見ると「誹謗中傷」を攻撃しはじめた。ともに開かれた場での発言ならば、互いに反論できる…表現の自由市場…などという考え方などなかったかのように。

JRF2025/9/284725

たしかに「誹謗中傷」はあろう。議論に慣れてない人物も多いからやり過ぎもあると思う。身の危険におよぶような言説はいけないし、コメントスクラムもマズさはあるとは思う。しかし、かつての寛容さ、言説が十分うまくない人間が体罰的暴力(参: [cocolog:94895713](2024年6月) の引用)に訴えたりといったことへも含まれる…そういったやや暴力的な「言説」へも寛容さを今も持つべきではないのか。今の状態は、言説で「発言」できない者の閉塞感を強めているように感じる。

JRF2025/9/288164

男性性欲の暴力性が発揮されたポルノに関しても、ある程度、寛容であるべきではないのか。実在女性を相手にするポルノについて AI によりモザイク除去(参: [cocolog:92435456](2020年12月))などが可能になって、実在女性が絡む分の規制をやや厳しくしてもいいという判断はありえるとしても、それを無にするような社会というのは私は支持できない。それはそれで成り立つ社会もあるよ。SNS から見えなくすることが、社会問題の存在をなくすわけではないのだから。皆が皆、ピューリタン…プロテスタントのような道徳的人物ではないのだ。

JRF2025/9/284114

……。

具体的なその方向の対策としては、訴訟にすぐにつながる「発信者情報開示」ではない別の「人的仲介または代替的通知手段」が SNS にあるべきだ…そういう責任を SNS に負わせるべきだ…という議論が私にはある(参: [cocolog:93224725](2022年1月)など)。すぐに訴訟・賠償となっているから萎縮が大きくなってる面があると思う。もっと中間的な手段を発達させるべきだ。AI も登場してきて、そういう仲介のコストが安くなっていくことも考えられる…ということで一つお願いしたい。

JRF2025/9/287807

そのためには民間企業を国家…消費者庁などが訴えられるようになるべきだと思う。Microsoft とかクレジットカード会社とか、国にとっちめて欲しい企業は(私には)多い。ただ、それが可能になったとき、その権威の矛先が、そういう企業ではなく、もっと弱い団体や消費者に向くというのは、おおかたが予想するところで、そこは頭が痛い。

JRF2025/9/283611

……。

……。

『それをお金で買いますか - 市場主義の限界』(マイケル・サンデル 著, 鬼澤 忍 訳, ハヤカワ・ノンフィクション文庫, 2012年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B009DEMPO8 (Kindle)
https://7net.omni7.jp/detail/1106469078 (文庫本)

原著は Michael J. Sandel『WHAT MONEY CAN'T BUY - The Moral Limits of Markets』(2012)。

JRF2025/9/287294

……。

日本でも転売ヤーが問題になっているが、それより昔から問題となっていたダフ屋的行為について、何が悪いのか。高い価格で買う者に高い価格で買ってもらえれば、その分、供給者もさらに質を磨けたりするのではないか…といわれると、何が悪いのか、私はちょっと説明に窮する。

その点をサンデルさんは説きほぐしていく。裁判や議会などの傍聴のための行列もホームレスなどで行列代行されて金で買われる。それの何が間違っているのか。

JRF2025/9/285727

>市場価格は、支払い意志額だけでなく支払い能力も反映しているため、特定の財を誰が最も評価しているかを示す指標としては不完全である。<(p.49)

JRF2025/9/284550

>たとえば、私はこんなことに気づいた。野球場で高額な席に座っている人々は、遅くやってきて早く帰ってしまうことが多いのだ。こうした事実を知ると、彼らはどのくらい野球に興味があるのだろうかと思ってしまう。バックネット裏の座席をとれる彼らの能力は、試合への情熱よりも懐具合のほうに関係しているのかもしれない。彼らの関心が一部のファンほどでないのは間違いない。とくに若いファンは、ボックス席を取れなくてもスターティングメンバー全員の打率を言えるのだ。<(p.49)

JRF2025/9/283406

本当に熱心なファンならば、熱心に仕事をして金を貯めるのだ…というのが資本主義のリクツであったはずだが、熱心な仕事が、高収入につながらない…というのも、根深い問題でそれは前の本でも指摘されていたように思う。

JRF2025/9/287282

ただ、現実問題として、支払い能力のある者にお金を出してもらわなければ、文化の維持が難しい局面も多いように思う。私はクラシックは CD で聴いたりテレビで観たりなのだが、それができるのは、ちゃんと高いチケットを買って聴きにいく人がいるからだ。そもそもクラシックの演奏ができるのは文化資本に金をかけてる人がいるからだ。支払い能力がある人にお金を払ってもらうのも大切なことだとは思う。

JRF2025/9/281946

……。

ロック歌手のブルース・スプリングスティーンは、2009年の故郷のニュージャージーのコンサートで、チケット価格を「自制」した。広い客層に来てもらいたかったからである。もちろん、それはダフ行為を横行させた。そもそもスプリングスティーンは何をしたかったのか。

JRF2025/9/288522

>どうして市場価格を請求しないのだろうか。スプリングスティーンにとって、チケット価格を比較的手頃に抑えておくことは、労働者階級のファンへの信義を守る一つの方ほなのだ。また、彼のコンサートがどんなものかについて一定の解釈を表す一つの方法でもある。コンサートが営利事業であるのは間違いないが、それは一つの側面にすぎない。彼のコンサートは祝賀行事でもあり、その成功は観衆の質と構成にかかっている。そのパフォーマンスは歌だけでなく、歌手と観客の関係や、彼らが集まる精神によっても成りたっているのだ。<(p.58)

JRF2025/9/282307

お金で買うのが問題だとしても、行列は逆に時間を要求する。それを求めるのがどういう「善」なのか。

JRF2025/9/288099

その一つの問題が客層に帰着できるというのは一つの納得できる回答だと私は思う。客がどういう集まりに参加したいか、供給者がどういう客層だとうれしいか…は金銭とは別の軸を持っているのだろう。(どういう集りに参加したいか…というのは、逆にタダだと客層が非常に悪くなり、金銭がどれだけ安くても満足度は低い…というので、さかんに SNS では語られる論点でもある。)

JRF2025/9/284142

……。

もちろん、お金による解決が否定されたとき行列がすべてを解決するわけではない。

JRF2025/9/281162

>もちろん、市場と行列だけが物事を割り振る方法ではない。能力に応じて分配される財[善]、必要に応じて分配される財[善]、さらにはくじや運によって分配される財[善]もある。大学が入学を認めるのは通常、最高の才能と将来性を持つ学生であり、最初に願書を出した学生でも、新入生のクラスに入るために最も多くお金を払う学生でもない。病院の緊急治療室は、病気の緊急性に応じて患者を扱う。患者が到着した順番も、最初に診察したもらうために追加料金を払う意志も問題ではない。陪審義務はくじによって割り当てられる。自分が召集されれば、ほかの誰かを雇って代わりを務めてもらうことはできない。<(p.62)

JRF2025/9/282383

……。

インセンティブに関する議論に移る。

禁煙や減量の助けとなるような金銭的インセンティブがかつてはやった。実際、それが健康に導くのなら、どこに悪があるのか? サンデルさんに言わせれば、それは賄賂のようなものだという。

JRF2025/9/283704

>金銭的動機によって、ほかのよりよい動機が締め出されてしまうのではないかと疑われる(…)。つまり、こういうことだ。良好な健康状態とは、適正なコレステロール値や肥満度指数の達成にかかわるだけではない。肉体の健康への正しい姿勢を育[はぐく]んだり、配慮や敬意をもって自分の体を扱ったりすることにもかかわっている。人々にお金を払っって薬を飲ませることは、そうした姿勢を育むのにほとんど役に立たないし、それを損ねる可能性すらある。<(p.87)

JRF2025/9/289998

金を渡すのをやめたとき、次に金がもらえるまでその「望ましい行為」をしたくない…そんな依存性を生むかもしれない。それは元々はあった健康への自発的な動機を破壊したと言えるのではないか…。

JRF2025/9/282530

>というのも、賄賂は人を操るものだからだ。賄賂は説得をないがしろにし、本質的な理由を外部の理由にすり替えてしまう。「あなたは自分自身の健康など気にしないので、禁煙も減量もしないのですね? では、私が750ドル払いますから、そうしてください」

JRF2025/9/289317

健康をめぐる賄賂は、われわれを騙し、何としてもすべきことをさせる。間違った理由で、正しいことをする気にさせるのだ。ときには、騙されるのが役に立つ場合もある。自力で禁煙したり減量したりするのは容易ではないからだ。しかし最終的には、われわれは操られる立場を乗り越えるべきである。さもなければ、賄賂が病みつきになってしまうかもしれない。

JRF2025/9/289931

(…)現金が肥満を治してくれるなら、操られることにけちをつける必要がどこにあるだろうか。一つの答えは、肉体的健康への適切な関心は自尊心の一部だというものだ。もう一つの答えはもっと現実的である。健康を維持しようという姿勢が欠けていると、インセンチブがなくなったときに体重が戻ってしまうかもしれない。

これまで研究されてきた、お金をもらって減量するシステムで、そうしたことが起こっているようだ。
<(p.87-88)

JRF2025/9/284817

礼状が良い習慣につながるのも、利益があるからと言うかもしれない。しかし、減量へのインセンティブは、利益を先に渡す。利益がなくなればその利益をまず欲することになる。礼状は自分にとって負の労役を続けていて利益を得ることがわかるため、利益が途中なくてもその労役は続けられる。しかし、その利益が金銭的なものなら、結局未来と過去の計算がなされ、減量へのインセンティブと変わらなくなるのかもしれないが…。しかし、するとうまく(生きてる間じゅう)自分を騙せる(?)ことも必要なことなのかもしれないな…。

JRF2025/9/283625

……。

>往々にして、市場的なインセンティブは非市場的なインセンティブを破壊したり締め出したりするのだ。<(p.95)

これがインセンティブに対する本書の主な攻撃である。

行動経済学者などはインセンティブを設計したがる。ただのインセンティブだから経済に味を付けるぐらいだ…ちょっとしたナッジだ…と考えるのは間違っているというのがサンデルさんの主張なのだろう。インセンティブ設計の時点で「外部不経済」が生じうるのだ…と。

例としては私も知る有名な例が挙げられる。

JRF2025/9/281198

>イスラエルのいくつかの保育所に関する研究は、こうした事態がいかにして起こるかを示している。それらの保育所はよくある問題に直面していた。ときどき、親が子供を迎えにくるのが遅くなるのだ。親が遅れてやってくるまで、保育士の一人が子供と一緒に居残らなければならなかった。この問題を解決するため、保育所は迎えが遅れた場合に罰金をとることにした。すると、何が起きたと思うだろうか。予想に反して、親が迎えに遅れるケースが増えてしまったのである。

JRF2025/9/289709

(…)何が起きたのだろうか。お金を払わせることにしたせいで、規範が変わってしまったのだ。以前であれば、遅刻する親は後ろめたさを感じていた。保育士に迷惑をかけているからだ。いまでは迎えに遅れることを、そのために進んでお金を払うサービスだと考えちた。罰金をまるで料金のように扱っていたのだ。
<(p.95)

JRF2025/9/282918

……。

もちろん、一般には罰金と料金は違うものだ。

JRF2025/9/285112

>ゴミのポイ捨てに罰金を科すとき、われわれはポイ捨ては悪いことだと言っているのだ。ビールの空き缶をグランドキャニオンに投げ捨てれば、清掃コストがかかるだけではない。そこには、われわれの社会がやめてほしいと願う悪しき姿勢が反映されている。罰金が100ドルだとして、裕福なハイカーが、空き缶を公園の外まで運ばずにすむならそのくらい安いものだと判断したとしよう。彼は罰金を料金とみなし、ビールの空き缶をグランドキャニオンに投げ捨てる。罰金を払ったとしても、われわれは彼が悪いことをしたと考える。グランドキャニオンを高価なゴミ収集箱として扱うことで、それを適切に評価しそこねたからだ。<(p.96)

JRF2025/9/281073

罰金を所得や資産に応じて払わせる案もやや好意的にサンデルさんは取り上げるが、そういう問題だと言ってるわけではない。悪は悪だ。(もちろん許しも必要。)

JRF2025/9/281062

……。

サンデルさんは、狩猟にも厳しい。クロサイやセイウチの猟を非難する。セイウチ猟は猟としては簡単な部類に入り、スポーツとしても意味はないという。セイウチ猟はそれが認められたイヌイットから高額で権利が買われることでなされる。

JRF2025/9/280965

>第一に、この奇妙な市場が満たすのは、社会的効用の計算において影響力を持つべきではない邪悪な欲望だ。大物ハンティングをどんなものと考えようと、これは別物である。難関に挑むわけでも獲物を追跡するわけでもなく、ただリストを完成させるために無力な哺乳類を殺したいという欲望は満たされる価値がない。それによってイヌイットが追加所得を手にするとしても、同じことだ。

JRF2025/9/282702

第二に、イヌイットが自分たちに割り当てられたセイウチを殺す権利を殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティーに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔からの生活の糧としてきたセイウチ猟を尊重することと、その特権を、片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。
<(p.122)

私はリアルな狩猟はやらないが、PC ゲームの狩猟ゲームである『theHunter』が好きで、狩猟者側の気持ちも少しわかる。少し擁護したい。

JRF2025/9/282107

猟には「自分もそうだ」という哲学がある。圧倒的な優位に立つ銃を使っておいて何言ってるんだと思うかもしれないが、猟をするときの弱肉強食の感覚は、自分もまた自然に生きる仲間だという感覚を起こさせる。力ない素早さもない動物を撃つとき、そこには、力もなく素早さもない…相対的にそれがない・なくなった自分も殺されうるんだ…という覚悟とともに撃つものだと思う。そうならない自分が恵まれていることも実感する。そこで撃たれない動物と自分は運により何か腐敗したまたはたまたま聖別された関係にある。そういう意味でトモダチなのだ。無常感に近い。歪つな感覚だと言われれば「その通り」としか言えないが。

JRF2025/9/287231

……。

>スティーヴン・レヴィット(シカゴ大学の経済学者)とスティーヴン・ダブナーは、共著『ヤバい経済学』の最初の数ページでこう明言している。「インセンティブは現代生活の土台であり」「経済学は根本的にはインセンティブの研究である(61)」<(p.123)

JRF2025/9/284105

>レヴィットとダブナーはこう書いている。「経済学者はインセンティブが大好きだ。インセンティブを考え出して法制化し、研究して手直しするのが大好きだ。典型的な経済学者はこう信じている。もしも適切なインセンティブの枠組みを設計する自由を与えてくれるなら、自分に解決できない問題はいまのところ世界に存在しないと。彼の解決策は必ずしも美しくはないかもしれない -- 強制、行き過ぎたペナルティー、市民的自由の侵害を含むかもしれない -- が、本来の問題は間違いなく解決されるだろう。

JRF2025/9/281736

インセンティブは一発の弾丸、一本の梃子[てこ]、一つの鍵だ。すなわち、状況を変える驚くべき力を持っった、往々にしてちっぽけな対象なのである(64)」
<(p.124-125)

「ちっぽけな対象」でも大きな「外部不経済」がありうる…と上で指摘したのだった。確かに「市民的自由の侵害を含むかもしれない」と彼ら自身が述べている。

ちなみに『ヤバい経済学』は私の本棚にあり、読んだはずだが私的な記録が残っていない。ずいぶん前に読んだのかな…。

JRF2025/9/283531

……。

>問題を問うてみよう。お金で買えないものはあるだろうか、と。(…)ほとんどの人は、「もちろん、お金で買えないものはある」と言うだろう。<(p.134)

ホリエモン(堀江貴文さん)に絡んで日本でも金で買えないものがあるか、あるべきかが議論となったことがあった。

JRF2025/9/288085

『宗教学雑考集』《時間の貨幣価値:「金で買えないモノはない」か?》
>>
例えば、「私」がある女性と良い仲になったとしましょう。「私」は当然のごとくプレゼントをしたり、食事をおごったりしました。もちろん、ここにお金がかかります。でも、掛けたのはこのようなお金だけではありません。「私」は時間を掛けて、言葉を尽くし、情報収集に努め、デートだってするでしょう。

ところで、その時間、「私」は働くこともできました。すると、「私」の時間割の所得をその時間にかけ、実際プレゼント等で使った金額と合算すると、なんと、そのような努力は詳細はわからないけど金額としては表せてしまいます。

JRF2025/9/289857

もちろん、違う女性、違う「私」が同じような努力をしても結果はバラバラになるでしょう。もしかすると、同じ女性、同じ「私」でも結果が違うかもしれません。それは競売物件を買えたという事実があるからといって、同等の競売物件が買えないこともあるというのと同じです。

しかし、あえて「競売物件が金で買える」と見る人ならば、同じような論理展開で、「金で買えないモノはない」と言ってもおかしくはないでしょう。

JRF2025/9/288537

要は、詳細を捨て、ほとんど無関係な価格も参考にしてしまうなら、 何でも金で買えたことにできるわけですから。

もちろん、「何でも」の一つ一つは本来、現在形を使って一般化できるようなものではありません。そのような「価格」は多少参考にできるかもしれませんが、競売物件の例よりもさらに参考にならない数字となります。(十分参考にできるなら保険会社が黙ってないでしょう。)

JRF2025/9/282837

…とはいえ、本人が自分にできたことなら他の人にもできるはずだと思って「一般化」しているのなら、その意は汲んであげたいなと私は思います。


* 追記

木村清孝『華厳経入門』に次のような文章がありました。

>本書が、「カネ」に換算してすべてのものの価値をはかるという風潮に終止符を打ち、心を育[はぐく]み、大きく美しい世界にイメージを広げることの大切さを見直すきっかけの一つになればと、切に願っている。<(p.268, 木村清孝『華厳経入門』文庫本あとがき)

このような印象は、ある世代より上の方には広くあるようです。

JRF2025/9/281309

ここでは「ホリエモン」のことが念頭に置かれているのでしょう。俗にいう就職氷河期時代、インターネットの黎明期を若者として生きた私は、ああいう行動が、昔で言えば、給料が安いのに官庁を目指すような「自己犠牲」的精神に支えられていたことを知っています。バブルが崩壊し斜陽の日本で外圧があって、あえて「カネ」に換算することにこだわらざるを得なかったあの時代。「ホリエモン」などは、それで成功して、脆弱だった日本のネット企業を救い、逆転して世界に乗り出そうとしていました。問題となったライブドア社は、RSS リーダーに投資したり、かなりネットの企業を救うようなことをやっていたことをご存知でしょうか。

JRF2025/9/280503

もちろん、問題はあったでしょう。でも、その意志をまったく悪だとすることは私には間違っているとしか思えません。あのころ同じ時代を日本で過ごしたのに、この本の作者ですら、そういった者にまだ慈悲はないのでしょうか。それが私にはとても悲しく、絶望的に思えます。
<<

JRF2025/9/286661

……。

市場に対する異論は二つあるとサンデルさんはいう。公正の議論と腐敗の議論だ。

>腎臓について考えてみよう。お金で腎臓を買ってもその価値が破壊されないのは間違いない。しかし、腎臓は売買されるべきだろうか。ノーと言う人々は、たいてい二つの論拠のうちの一つに基づいて反対する。彼らは、そうした市場は貧しい人々を食い物にすると主張する。貧しい人々による腎臓を売るという選択は、本当は自発的なものでないおそれがあるからだ(公正の議論)。あるいは、そうした市場は人間を予備部品の集まりとみなし、人間を侮辱し、物質視する見方を助長するとされる(腐敗の議論)。<p.157)

JRF2025/9/289994

>公正の観点からの異論と腐敗という観点からの異論は、市場に対する意味合いが違う。公正の議論は、ある種の善が貴重であるとか、神聖であるとか、価格がつけられないとかいった理由で、そうした善の市場取引に反対するわけではない。不公正な取引条件が生じるほど不平等な背景のもので、善が売買されることに反対しているのだ。背景条件が公正な社会であれば、善(それがセックスであれ、腎臓であれ、大学への入学であれ)の商品化に反対する根拠は何もない。<(p.160)

JRF2025/9/284991

公正の観点からすれば、仮に公平公正な社会があるのならば、何を取引したって構わないとなる。ただ、実際には公平公正な社会などないわけではあるが。共産主義社会も公平公正ではなかった。

JRF2025/9/282656

>対照的に、腐敗の議論は、善そのものの特性と律すべき規範に焦点を合わせる。したがって、公正な取引条件を整えるだけでは、この異論を抑えることはできない。権力や富の不正な格差がない社会であっても、お金で買うべきでない事物が存在する。それは、市場が単なる仕組みではないからだ。市場はある一定の価値を体現しているのである。ときとして市場価値は、大切にすべき非市場的規範を締め出してしまうことがあるのだ。<(p.160)

JRF2025/9/284062

ここに書かれていないが、腐敗の議論にも弱点がないわけではない。それは誰かに腐敗があるというとき、それは誰かにはふさわしくない財があるということを示す。これは端的に「差別」なのだ。

ただし、「差別」には許される形態もあるというのがサンデルさんの予防線なのだ。ノーベル賞や MVP は能力に応じて賞が与えられ、誰かがその栄誉を買うことはできない。確かに、賞という財にふさわしい者・ふさわしくない者というのはいるのだ。

しかし、この議論を進めていくと、アリストテレスの時代のような貴族主義が復活する可能性は排除できないと私は思う。まぁ、程度の問題ではあるが。

JRF2025/9/284527

……。

インセンティブが公共心を締め出す例として、核廃棄物問題も取り上げられる。

JRF2025/9/289852

スイスは放射性核廃棄物の貯蔵場所をヴォルフェンシーセンという小さな山村に決めようとした。その村では当初、誰かが引き受けねばならないという責任感から、ぎりぎり過半数の住民が「受け入れる」と調査に答えた。それに対して、経済学者は〈アメ〉を足してさらに支持を広げようとした。村民一人ひとりに毎年補償金を支払うようにした場合も調査がなされた。そのとき、金銭的誘因を追加したせいで、逆に、「受け入れる」と回答した住民の割合は51%から25%に半減した。金銭の申し出を拒否した村人の多くは、反対理由として「自分は賄賂に動かされたりはしない」と語った。

JRF2025/9/287817

>金銭的インセンティブを追加すれば、何であれすでに存在する公共心は強まり、核廃棄物処理場への支持が増えると思われるかもしれない。結局のところ、二つのインセンティブ -- 金銭的なものと市民的なもの -- のほうが、一つよりも強力ではないだろうか? いや、必ずしもそうではない。インセンティブが累積すると考えるのは間違いだ。反対にスイスの善良な市民にとっては、個人への金銭支払いが見込まれることによって、市民としての問題が金銭の問題に変質してしまった。市場の規範が侵入したせいで、市民としての義務感が締め出されてしまったのだ。<(p.164)

JRF2025/9/284876

>こうした締め出し現象は、経済学に大きな影響を与える。社会生活のさまざまな場面で市場メカニズムや市場の論理を利用することに疑問を投げかける。たとえば、教育、医療、職場、任意団体、市民生活といった、内因的動機や道徳的責任が重要となる局面で、成果を向上するために金銭的インセンティブを使うといったことだ。

JRF2025/9/282859

ブルーノ・フライ(スイスの核廃棄物処理場の立地に関する研究報告書の執筆者)と経済学者のレト・イェーゲンは、その影響を次のようにまとめている。「こうした『締め出し効果』が、経済学における最も重要な例外の一つであることはほぼ間違いない。なぜなら、金銭的インセンティブを増やせば供給も増えるという、最も基本的な経済『法則』の逆を意味しているからだ。この締め出し効果が働くなら、金銭的インセンティブを増やすと、供給は増えるのではなく、減ることになる(37)」
<(p.174)

JRF2025/9/283863

……。

経済学者は、利他主義は有限な資源なため、利己主義でまかなえるところは利己主義に置きかえて、利他主義を温存すべきだと論陣をはることがある。

ケインズの弟子だったデニス・H・ロバートソン卿…

>ロバートソンはこう結論している。「われわれ経済学者がきちんと仕事をすれば、この世で最も貴重なもの、すなわち〈愛〉というあの希少資源の……節約に大きく貢献できると思います(49)」<(p.180)

JRF2025/9/288271

ローレンス・サマーズもこう語る。

>サマーズは、市場は利己心と貪欲さに支えられていると批判する人々への回答で講演を締めくくった。「誰もが心のなかに利他心を持っているが、それにはかぎりがある。私のような経済学者は、利他心とは貴重で希少な善であり、節約して使う必要があると考えている。個人が利己的であることによって人々の欲求が満されるシステムを考案して利他心を保存し、家族、友人、そして、この世界において市場が解決できない多くの社会問題のために残しておくほうがはるかによいのだ」<(p.183)

JRF2025/9/281121

ちなみに、サマーズさんは、FRB議長がグリーンスパンさん・財務長官がルービンさんのときに財務次官で、とても強い印象が私には残っている。↓では『ルービン回顧録』を読んでいる。

《絶対性 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/08/post.html

JRF2025/9/281062

それはさておき。このような意見に対してサンデルさんは反論する。礼状を書き続けることで美徳を持つ人が増えていくように、利他性は発揮する機会を増やすことで、さらに増えていくものであり、それを希少だからと使わないのは、むしろ利他心の減退をもたらす…と。

JRF2025/9/282205

>市民的美徳を温存すべく、市民にこう告げるべきだろうか。公共善のための犠牲を求める必要が国家に生じるまでは、買い物にでも行っていてほしいと。それとも、市民的美徳や公共心は使わないと衰えてしまうものだろうか。倫理学者の多くは後者の見解をとってきた。アリストテレスは、美徳は実践を通じて育まれると教えた。「われわれは、正しく行動することによって正しくなる。節度をもって行動することによって節度を身につける。勇敢に行動することによって勇敢になる(50)」

JRF2025/9/287206

ルソーも同じような考えだった。国家が国民に多くを要求すればするほど、国家に対する国民の貢献は大きくなるというのだ。「秩序ある都市では、誰もが集会に駆けつける」。悪い政府のもとでは公的生活に参画する者はいない。というのも「そこで起こっていることに関心がなく」「家政のことで頭がいっぱいだからだ」。市民的美徳は、活発な市民的行動によって築かれるのであり、食いつぶされるのではない。使わなければ、実質的に失われるのだとルソーは言う。「公共サービスが国民の主要な仕事でなくなり、国民が体ではなくお金によって奉仕するようになるや、国家の崩壊は遠くない将来に迫っている(51)」
<(p.181-182)

JRF2025/9/285685


……。

保険に関する議論に移る。

>企業が最高経営責任者(CEO)や経営幹部に生命保険をかけるのは、ずいぶん前から一般的になっている。彼らが死んだ場合に、代役を立てる多額のコストを埋め合わせるためだ。保険業界の用語で言えば、会社には CEO に関して法で認められた「被保険利益」がある。しかし、一般社員の命にまで保険をかけるようになったのは比較的最近のことだ。こうした商品は、保険業界では「用務員保険」、あるいは「死んだ農夫保険」と呼ばれている。最近まで、これはほとんどの州で違法だった。企業は一般社員の生命に関して被保険利益を有していないとみなされていたからだ。<(p.187)

JRF2025/9/287450

保険も一種の賭博だが、生命保険には保険金殺人の誘惑がある。そのリスクを認めても保険の利益があるのが、「被保険利益」がある場合である。例えば、子に保険金を渡すことは、死ぬ父にまっとうな利益を認めうる…ということだ。

刑法があるので、保険金殺人はありえないとしても、なにかのはずみでふと死にそうだが助けなくても罪に問われない…という状況で、助けないというインセンティブを作ってしまうことがある。そういうことは望ましくない。規制はもっともなものだ。

JRF2025/9/286692

日本の場合は、保険法第38条で他者への保険には書面による同意が必要とされ、民法第90条で保険金殺人の誘因が強過ぎるものは、公序良俗に反し無効とされる…ということのようだ。保険法第51条では自殺も禁じられている(Gemini さんによると今は約款では、2〜3年だけ支払いが免責されるそうだ)。もっとあった気がするのだが、忘れた。Gemini さんに聞いてもその程度だった。

JRF2025/9/289469

……。

かつてのエイズ患者等、死期に近い者の保険を買いとって、保険金をもらうかわりに死ぬまで保険料を払い続けるというバイアティカルという産業があった。早く死ぬことで儲けが出るかなり倫理的に問題のある仕組みで、サンデルさんは槍玉にあげている。しかし、年金も同じ性格を持つではないか…と。

JRF2025/9/283204

>原注・終身年金や恩給は、死亡するまで毎月一定額を支払う仕組みなので、生命保険よりバイアティカルに近い。年金企業は、受取人が早く死ぬことで金銭的利益を得る。<(p.196)

だから、国が年金を主導しているのだろう、普通は。しかし、401K などの規制緩和により、民間企業が年金資金を扱うようになった。もちろん、厚生年金は前からはあるが…。その寿命への効果はどうなのか? アメリカの寿命は日本よりも短いそうだが、それは以前からか…。

keyword: 年金

JRF2025/9/289006

……。

>外国のどの指導者が暗殺されるか、あるいは権力の座から引きずり降ろされるかに賭けたり、次のテロ攻撃はどこで起こるかに賭けたりできるウェブサイトを想像してみよう。そしてこの賭けの結果が、政府が国家の安全を守るのに利用できる有益な情報をもたらすとしてみよう。2003年、アメリカ国防総省(ペンタゴン)のある部局がこうしたウェブサイトを提案した。同省はこれを政策分析市場と呼んだが、メディアは「テロの先物市場」と呼んだ(42)。

JRF2025/9/289472

このウェブサイトを創案したのは国防高等研究計画局(DARPA)だった。戦争や情報収集のための革新的技術の開発に取り組む機関である。
<(p.210)

確かに市場の情報は早く概ね正確で、隠されている情報まで考慮に入っているかのような動きをする。情報を得るだけが目的ならその目的は達成できるだろう。>自由市場は効率的なだけでなく予知能力を持っているという主張は注目に値する<(p.213)。

JRF2025/9/283364

しかし、保険金殺人と同じで、賭けに勝つためにわざとテロを見過すような動きが現れないか…空売りなどで当局を攪乱することもできるかもしれない…などの「モラルハザード」が問題になろう。

JRF2025/9/284803

……。

市場が実際、美徳を減じた例としてサンデルさんは野球の問題を取り上げる。マイケル・ルイスが書いた『マネー・ボール』では、オークランド・アスレチックスが、資金規模の小さい球団にもかかわらず統計情報を使って優勝を導いたことが語られる。強打者よりも四球を選び出塁するほうが価値があること、盗塁の試みは得点の機会を増やすどころか減らしがちであること(こんなこと言われてるよ、大谷さん!)、このようなことを統計から読み出して、それに基づいた強化を行い成功したのだ。

JRF2025/9/282118

しかし、それは長続きしなかった。当然のように、金持ち球団はすぐにそれをマネて、より抜け目なくやったからだ。

マネーボールは単なる一過性の流行で罪はないのだろうか? そうではないとサンデルさんは言う。

JRF2025/9/284309

>試合の進め方にマネーボールがもたらした変化を考えてみるといい。打席にいる時間が延び、フォアボールによる出塁が増え、投球数が増え、ピッチャー交代が増え、バットが自由に振られる回数が減り、走路上での思い切ったプレーが減り、バントと盗塁が減った。これでは、よくなったとはとても言えない。

JRF2025/9/283418

九回裏、同点、満塁という打席が長引いたとしても、それは昔ながらの野球の醍醐味を味わうひとときになりうる。だが、時間のかかる打席とフォアボールによる出塁だらけの試合は、退屈な見世物になるのが落ちだ。マネーボールが野球を台無しにしたわけではないにしても、近年、ほかの世界に見られる市場の侵入の例と同じく、競技の価値を減じてしまった。

JRF2025/9/287699

さまざまな財や活動に関して、私が本書で言おうとしてきたポイントが、ここに表れている。つまり、市場の効率性を増すこと自体は美徳ではないということだ。真の問題は、あれやこれやの市場メカニズムを導入することによって、野球の善が増すのか減じるのかにある。これは野球だけでなく、われわれが生きる社会についても問うに値する問題なのだ。
<(p.251-252)

JRF2025/9/281120

……。

広告がやたらと威張る時代があった。今は、少しそれが穏やかになっているように思う。広告に言うほどの効果がないとわかってきたことが大きいのだろう。それ以外の価値のほうが意味があることがわかってきたということかもしれないが、この点は、単に費用対効果だけの話なのかもしれない。広告を載せる審査をするにも(イメージをコントロールするにも)コストがかかり、多くの場合、その審査するコストもかけられないということだろう。まぁ、誰も私のスポンサーになってくれないというヒガミもある (^^;。

JRF2025/9/281823

ただ、広告がやたらと威張る時代には、リンゴ一個にも広告を載せるということがあった。

>自分のリンゴを広告ステッカーで「よごして」ほしくないと言った買い物客を思い出してみよう。厳密に言えば、これは誇張である。ステッカーが果物をよごすことはない(傷をつけなければの話だが)。リンゴやバナナの味が変わるわけではない。バナナにはチキータの商標を示すステッカーがかなり以前から貼られているが、苦情を言う人はほとんどいなかった。だとすれば、映画やテレビ番組を宣伝するステッカーに不満を言うのはおかしくないだろうか。

JRF2025/9/281536

いや、そうとはかぎらない。買い物客が反発している対象は、おそらく、このリンゴにつけられたこの広告ではなく、日常生活への商業広告の侵入なのだ。「よごされて」いるのはリンゴではなく、われわれが暮らす普通の世界、市場価値と商業感覚にますます支配されつつある世界なのである。
<(p.265)

JRF2025/9/284687

商業感覚にわれわれの暮らす普通の社会がよごされている…と。私は大阪人だから、商売っけがあるのは良いことだと思うけど、まぁ、理解できる部分がないわけではない。商店街などがさびれたのは商売の匂いが消えてむしろさびしいが、その代わりに大企業が大企業にしかできない広告とともにやってくるのは、どうなの?…とは思う。

JRF2025/9/281235

……。

球場などには「スカイボックス」がある。金持ちの特別席だ。かつて階級が混じりあって観戦していた時代はとうに過ぎ、隔てられた観客席では、村祭りのような祝祭のような一時的共同体的平等はなくなっている。

JRF2025/9/286405

>われわれの社会のいたるところで、同じようなことが起きてきた。格差が広がる時代にあらゆるものを市場化するということは、懐の豊かな人とそうでない人がますますかけ離れた生活を送ることを意味する。われわれは別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。子供たちは別々の学校に通う。それはアメリカ人の生活のスカイボックス化と呼べるかもしれない。それは民主主義にとってよくないし、満足できる生き方でもない。

JRF2025/9/282632

民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それがたがいに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ。

つまり、結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場が称えないお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか。
<(p.283-284)

JRF2025/9/286607

民主主義を守るには国公立への教育投資の集中が必要だと思う。基本的には、超高齢化のため、選挙による議会は軽視するのは避けられないが、その代わりに、民主主義の保障は教育で行わねばならない。それは国公立のレベルを上げ、貧乏な者もチャンスがあるが、そこに金持ちも高い教育レベル等を期待して集まってくるようにして、そこで机を並べられることが民主主義の基盤になると考える。

話は長くなるが…

[cocolog:95433263](2025年5月)
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『宗教学雑考集』《日本は若者専門家中心の専制的国家に》

JRF2025/9/286548

>「東アジア」の中の日本の誇るべき点はまがりなりにも「民主主義国」である点で、今後それぐらいは保っていかなければ、日本の国際的地位は埋もれる一方になるだろう。ただ、一方で、日本は超高齢化社会となり、「民主主義」のままでは、高齢者の意見だけが通り社会が動かなくなることが予想される。言わば、中国のような専制…特に少数の若者専門家中心の専制的国家にしないと国が動かなくなるだろう。そこにジレンマがある。日本が全体主義的になっていくのは避けられない情勢のようだが、そうなっても自由がある程度保たれるように、上で挙げたような「主義」が役立てばと思う。<

JRF2025/9/288128

keyword: 三者調整会議

三者調整会議(参: [cocolog:94987854](2024年8月) や [cocolog:95000533](2024年8月))の構想では、最近の議論では一時期徐々に政治主導に揺れたのを若者が多い官僚主導に戻そうという論調になっている。そして AI 支配下においても人が知性を失わないために、学術会議のような機関を国の中心に据えようという話になっている。

学術会議などにおいて、平等を守るのは、国公立の低学費で、そこが金持ちのボンボンが多く通うとしても、本当に頭が良ければそれでよく、その上で貧しい者も一定数学べるようにすればいいとしたのだった。
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JRF2025/9/283487

教育予算を国公立に集中して国力と民主主義を守るという方向を私は支持するが、私立にただつぶれろとは言えないため、私立は大人の生涯学習で儲けるべきとする(参: [cocolog:94856421](2024年5月))。

JRF2025/9/289269

それが儲かるためには、議会・行政において高学歴が求められるようにならないといけない。日本をはじめ少子化に悩む国では公共事業にはあまり期待できないのに、なぜ高学歴を求めてペイするかというと、海外投資に有利な情報をそこでつまり企業はひも付き奨学金(参: [cocolog:95000533](2024年8月))を通じて得ることができるから、そうしないと情報が得られないから…となるべきではないか。

そこには以前の文系の層の厚さが、この国での教育投資を合理的にし、円高にするという議論(↓)も重なってくる。マイルドな円高で海外投資を有利にするのだ。

JRF2025/9/282564

[cocolog:94828659](2024年5月)
>円安には、文系での博士をなりにくくしたのも影響しているのかもしれない。そのため海外の「不労所得」から教育に向かい、国内の消費に向かう分が少なくなっている…それが大小各所で起きているだろうから。<

少子化もあっての製造業の空洞化と AI のすでについてしまった技術差でどうも日本は中国やアメリカへの海外投資に頼らざるを得ないというのもある。

JRF2025/9/289452

……。

投資と教育を結び付ける提案は、教育目的金融税というのも私はよく唱えるところである。

keyword: 教育目的金融税

他に今では、中国で「土地」が買えないのに、日本で中国人が土地を買っていて、その相続税がどうなるんだ!…と話題になっている。Gemini さんによると、日本がそれに対し相続税をとることは税法的にすでに可能なようだが、それに絡んで次のようなことを考える。

JRF2025/9/289871

これからの日本に必要なのは、海外資産からの相続税をとりっぱぐれしないことなのだろうと思う。取るのを見逃して、向こうに取られるのをいかに防止するか…が問題。そのために学資の控除などを積極的に認め、海外税務機関と連携するため、日本から提供できる情報を集めていくことが必要ではないか。

学資は大人になってからの生涯学習の学資もその情報を当局に伝えるのと引き換えに積み立てるのを認めるべきなのだろう。すると長い期間、多くの額を捕捉できるようになるのではないか。

JRF2025/9/288967

……。

教育に言及したので気になっていたことを一つ。

○ 2025-09-27T05:29:00Z

理数系はとにかくぶつけてみて拾うような教育をしている側面があると前言ったが(参: [cocolog:94913569](2024年6月))、ぶつけられてダメだからとすぐに諦めてはいけない。突然わかるようになるという例が少なからずあるからだ。しかもそういう者はかつての違和感を知っているから特殊な才能をもって理数系を渡っていくことができるかもしれないのだ。

JRF2025/9/281701

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