cocolog:95634030
中沢新一『精神の考古学』を読んだ。拙著『宗教的雑考集』と最近の私の AI の記憶機構への関心の間に、「精神」という課題が見えることから読んでみることにした。 (JRF 8855)
JRF 2025年9月17日 (水)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
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https://j-rockford.booth.pm/items/5358889
JRF2025/9/173147
……。
それではいつも通り引用しながらコメントしていく。比較的新しい本なので、少しでもこの『精神の考古学』に興味を持たれた方は、買って、私の過ぎた「引用」が咎められないよう、応援していただけるとありがたい。
なお Kindle 版を読んでいるので紙の本とはページ数が違うかもしれないことはおことわりしておく。
JRF2025/9/172580
……。
>宗教学や人類学を学び始めてすぐ、私はある奇妙なことに気づきだした。私たちの社会はたくさんの便利品と道具に囲まれているが、そこでおこなわれている思考の内容はきわめて貧弱である。ところが石器時代とあまりかわらない社会をつくっていたオーストラリア先住民のような人々は、家も持たず鉄でつくった道具類も持たず、こと生活用具に関しては極端なほどに貧弱であるにもかかわらず、その思考の世界は私たちのものとは比べものにならないほどに、豊かなのである。こういう型の社会をここでは「農業革命以前」の社会と呼ぶことにする。
JRF2025/9/175688
(…)
自由な流動である精霊は、そのため立派な神像などとして表現されることがない。そういう神は農業革命後にしかあらわれないのである。神のいない精霊の生きる社会は、したがって象徴や記号によらない「非象徴」を原理としてつくられることになる。
(…)
非象徴、非交換、非増殖を原理としているこうした社会(…)。
<(p.19-22)
JRF2025/9/174651
中沢さんは、構造主義にはやや否定的な立場で、「ポストモダン」的と(他の方から)称されることもあるようだ。農耕以前に象徴を積極的に使っていたことはないとの口ぶりで、農耕が増殖をもたらし贈与・反対贈与の関係を乱したなどとする。
私は農耕以前にも象徴はあったとする。『宗教学雑考集』《霊概念の成立》では戦争がそれを作ったとも述べた。しかし、それが残りにくかったのは、痕跡の残そうとしなかったからだというのが私の意見である。狩猟採集社会が痕跡を残そうとしないという話は『宗教学雑考集』《栽培民の前段階としての狩猟民文化と永遠の生》でしている。
JRF2025/9/176640
……。
>象徴以前の人間の精神の最古層<(p.54)
これを求めて、中沢さんはゾクチェン(チベット仏教・大乗仏教の一派)に弟子入りすることになる。ちなみに Wikipedia によると「ゾクチェン」は、チベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」の短縮形らしい。
象徴では表せない霊=「精神」を求めて…ということになると思うが…。
JRF2025/9/171854
共生・非共生のあわい…『宗教学雑考集』《目的の多層性》で多層的最適化を考えたが、その重なりにおいてある精神の状態という説明はできるのだろうと私は思う。構造主義的に…かどうかはわからないが。しかし、それが具体的にどのような精神なのかというのは記述できない。おそらく、物語は当然影響するとして、風土病のあり方や、食べ物の組み合わせなどからも表現が入り組んでなされ、現在の我々以上に遺伝的な要素・集合的無意識も絡んで「具体的精神」があった(ある)のだと思う。
JRF2025/9/178114
象徴ではなくそれを超えた精神を中沢さんは探すというが、「それ」が象徴を超えているかは微妙だと私は思う。
JRF2025/9/170199
……。
>パッサンはずいぶん立派な見解を弁じ立てながら、私をナーガ(龍)の洞窟の前に建てられているお堂に案内していった。今日はそこでカギュ派の有名なトゥルク(活仏=生まれ変わりのラマの意)が、ナローパによる「マハームドラー」の重要なテキスト『ガンジス河畔のウパデーシャ(ガンガーマ(…))』について講義をするというので、私たちはヤンレーシュにでかけてきたのである。
JRF2025/9/171274
マハームドラーとゾクチェンの考えはとても近いところにある。マハームドラーがインドの行者たちの伝統に忠実であるのにたいして、ゾクチェンは中央アジア系の思想家たちの創造によるところが大きい、という違いはあるが、こと哲学的立場については、両者はほぼ同一の「見解 Ita-ba」に立つ。それなので長い歴史のなかで、時間をかけてお互いの間には深い交流ができてきた。
<(p.66)
JRF2025/9/170234
>マハームドラーとは「空[くう]の叡智」という意味です。それはなにかの対象事物についての知識ではありません。私たちがなにげなく対象としている世界も、それを知覚して分析している心の働きも、それ自体としては実体のない「空」であるという深い認識をもとにして、世界と人間について思考する叡智のことを、マハームドラーと呼んでいます。「マハー」は「大きい」、「ムドラー」は「シール(印)」を表していますから、人間にもうこれを超える知性の形態はない、という承認印を押す気持ちがこめられています。<(p.69)
JRF2025/9/174225
マハームドラー。空に死ねるのがエラいのは、働かないのをエラいと思えるためであろう。そう思うのは私が「ニート」だからかもしれないが。
空を生きること、またはそれを抱えて死ねることの意味は何か。私は『宗教学雑考集』で仏教の本目的三条件として「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」を挙げ、それぞれに死ねる生き方があるとした。空に死ねるとは、思考のために死ねるということか、涅槃のために死ねるということか…。
JRF2025/9/171788
『創世記』は働くことを人の義務とした。そうしない無為・働かないこと・生きるために働かなくてよいこと、それを善いとして生き死ねることが、そこにこだわって生きるしかない俗人も自由にするということではないか。まぁ、これは「ニート」な私の悩みを反映したごく私的な結論かもしれないが。…すると、思考もある種の働きなので、思考に死ねるというよりは、涅槃に死ねるということであろう。空に死ねるとは。
JRF2025/9/178543
一方で、社会が成り立つためには、働かない生き方への働く人々からの施しによる支えが何らかの意味で必要である。その反対贈与として、思考の働きを提供し支えるという話でもあるかもしれない。インテリが単純に労働者を支えるというのは共産主義・マオイズムとして、中沢さんはだいたい否定したのだったか(p.31あたり)。
JRF2025/9/178155
働くことはかなり人間には強い抑圧なので、それを振り払うのはいくつかの覚悟・または基礎が必要なのだろう「働かないこと」は人としてのあり方の向こう側、中沢さん風に言えば、象徴のない精神世界に突き抜ける必要があるのかもしれない。空を見出し体得することの意味は、思考にそれを見出そうとするならば、「真理」を追及する形を取ろうし、そうでないならば、実践や神秘を重視するのかもしれない。
JRF2025/9/178993
Gemini:> この「働く者」と「働かない者」の関係を「反対贈与」として捉える視点は、非常に示唆に富んでいます。共産主義的な「インテリが労働者を支える」という一方向的な関係ではなく、「働かない者」が思考や精神的な洞察を提供することで、「働く者」の精神的な抑圧を解き放つ、あるいは新たな意味を与えるという双方向的な循環です。中沢氏が否定したのは、この循環を無視した一方向的な思想だったのかもしれません。
JRF2025/9/171326
……。
チュウという悪魔払いの儀式を、中沢さんは修行の初期に会得した。「悪魔」の嫉妬に悩む富んだ女性から悪魔払いなどがなされていた。そこでは人骨の楽器カンリン(人骨笛)が使われる。中沢さんはそれをブータン人に求めた。彼に骨はどこで手に入れるかと聞くと、バグマティ川の火葬場の下流で手に入れるとのことだった。インドのガンジス川でも同様に手に入るという。
そのブータン人の部屋では…。
JRF2025/9/174994
>私は部屋の中を見渡して、思わず後ずさりするほど驚いた。そこには一メートルはあろうかという高さに、人間の頭蓋骨が山をなして積み重ねられ、その後方には同じような高さの大腿骨の山ができていた。<(p.91)
「大腿骨」には心おぼえがある。私は人類は骨食していて、しかし、道具を使って発展することを選んだときに、それを捨てて禁忌にしたと考えた。
JRF2025/9/172536
『宗教学雑考集』《イナンナの冥界降り》
>新しい文化主イナンナは、「生命の食物」は骨、「生命の水」は血を与えられた。それを食するのを否定してきた文化的祭りをどう補填するかが求められたということだろう。
するとドゥムジに求められるのは、この補填である。とすれば、ドゥムジはギリシア神話のヘルメスとなって、鉱山を探すのにつながる骨に高値を付ける考古学と、瀉血[しゃけつ]の医学をつかさどるようになったのではないか?
JRF2025/9/179276
ドゥムジが蛇となったのは、骨髄の食いでのある長骨がないこと、噛まれた際、毒を吸い出すためには血を吸って吐く必要があったからであろう。神話などになぜ頻繁に蛇が出てくるかの説明がここにあるのかもしれない。
<
長骨の一つ大腿骨が、楽器として使われる意味とは、やはりこの古層につながるのではないか。
また、最近、バーチャル坐禅会で施餓鬼に触れ、清水俊史『お布施のからくり』([cocolog:95485474](2025年6月))で、施餓鬼供養が先祖供養として行われていることを思い出した。チュウも、先祖供養的なところから理屈があるのではないか…と思う。
JRF2025/9/172071
先祖の富で生きる者がいるとして嫉妬にあっている。しかしチュウなどでは、その先祖は餓鬼となって苦しんでいるとするのだ。先祖の富で生きるものも「働いていない」分、同じように苦しむことになる…。しかし、チュウで僧はその体を食われるとする。「先祖」より以上に働いてない僧は、骨で食いつなぐものとされる。これは、骨は保存食としても機能し、禁忌を外れた老人や聖人は食えたかもしれないと考えられるから、こう考える。しかし、その骨を食う僧も、結局はその餓鬼にも食われる。残るのは「働いている者」だ、それが報われるのだ…ということが、嫉妬を消滅させる…という機序なのではないか。
JRF2025/9/175577
中沢さんは、僧は都市経済の中で、アフリカ的段階=前農耕的段階を守るものとする。しかし、私はそう考えない。
>サンガに属する出家者は、自ら生産をおこなってはならない。食べることにも関心を持ってはいけない。出家者は生きるために必要最小限の食物や便利品を得るために、都市の周辺部を托鉢して回り、生産者である都市の住民たちからの布施を贈与してもらう生き方に徹しなければならない。それはまるで、自然からの贈与で生きていたアフリカ的段階の人間の生き方を、都市環境において再現しているような、恐ろしいほどラジカルな行為である。<(p.416)
JRF2025/9/179160
しかし、私はむしろ僧の在り方を交換的経済が要請した者と受け留めている。
『宗教学雑考集』《コラム 「捨て扶持」理論》
>ある共同体を考える。そこは原始的…といっても農業をしている共同体で、カツカツで生活しているとしよう。今度、生産性を増やすための機械を導入しようとして、その技術の習得をした者達が帰って来て、ちゃんと機械を使えるようになるのか不安なところ。…といったぐらいのストーリーを考える。
JRF2025/9/173612
機械の製作はいくつか成功したが、一つ失敗してしまう。そして失敗した分だけ、食料の生産が予定どおりに行かず、また機械の技術を習得する予定だった者が農業に戻るため習得に行けなくなり、その分機械の生産がさらに滞[とどこお]り、さらに生産が足りなくなり…といった負のスパイラルの可能性があると考える。
このようなスパイラルを防止するためには、余分な食料があったほうが良かった。そうすれば、機械の習得には送り出せたかもしれないから。もちろん、余分な機械でも良かったのだが、そこまでの余祐はまだないのだろう。
JRF2025/9/175474
仮に失敗がなかったなら、余分な食料は必要なくなり、どういう形でか捨てられることになる。これを食料として与えられる者がいたらどうなるだろう? そのような、つまり「捨て扶持[ぶち]」で暮らす者がいたとする。そうすると、彼は「捨て扶持」だったものが社会に必要になると自分の食べる物がなくなって死ぬか、他に去るしかなくなるのだから、彼は必要になる事態が起きないようにするだろう。「捨て扶持」で暮らす者の存在が、どういう形でか破綻のリスクを回避するのに役立つ…と考える。
JRF2025/9/174113
「捨て扶持」が必要なのはリスクがあるからである。ゆえに、生産しない彼が、「捨て扶持」そのものを増やそうとすることはその必要性を社会に認めさせるということで、社会にリスクを増やそうとすることとイコールである。ゆえに、彼は「捨て扶持」を増やそうとしてはならない。
「捨て扶持」が必要なものとして、彼を生産する者の仲間とみなすことはできない。なぜなら、そこを必要とみなすと、それは「捨て扶持」でなくなり、別のスパイラルを招くことになるから。だから、彼は社会の再生産に寄与しない。
JRF2025/9/171749
農産物が足りなくなると、栄養状態が悪くなって、老人と子供が先に死んでいく。それらが「捨て扶持で暮らす者」だろうか…? それはあまりにも人道にもとるだろう。自由な意志で「捨て扶持で暮らす者」になる者が現れて欲しい。
そうして現れた階層が、僧または修行者の原初の形態であったのではないか? それが本システムにおける仮定である。集団として「生きなければならない」という経済的要請が、僧の存在を導くのだ。
JRF2025/9/174892
僧は捨て扶持で暮らす者である。だから、子をなして増えて再生産しようとすることが社会にリスクを増やそうとする行為に相当する。だから、増えて再生産することは否定される。一般に「来世がないほうがよい」というのが、来世としての子供を亡くす「堕胎」を消極的に支持しうるが、「生きなければならない」から、子供をなすことは是認されるものだった。一方、僧は、子供を作らないのがよいとされる。この違いは、僧は捨て扶持で暮らす者で、再生産すべきでないとされるからだと考える。
<
JRF2025/9/175932
……。
ゾクチェンの修行の前行が終って加行が始まる前に中沢さんは「セムティの試験」を受けることになった。そこでは心とは何かが問われる。
>セムティ(心とは何か?)
(…)
私は先日ヤンレーシュのお堂で聴聞した『ガンジス河畔のウパデーシャ』に何回も出てきた「空(ナムカ)」という言葉を思い出していた。心はどこからやってくるのか。私にはいまや確実にその問いへの答えがつかめたような気がした。心は「ナムカ」からやってくるのである。
JRF2025/9/176947
「先生わかりました。心はナムカからやってきます」。翌日の深夜、あらためて先生の部屋の扉を開いた私は、たしかな声でそう言うことができた。「ナムカはなにもない空です。心はその空と同じでもともとなにもありません。その心に、いろいろな思いや考えが雲のように浮かんでは、消えていきます。心は空なのです」
私のその答えを聞くと、ケツン先生はとてもうれしそうに微笑んだ。「ようやく一歩前に進み出すことができました。(…)」
<(p.98-103)
JRF2025/9/177262
この後、修行が進んで、さらに認識が進んだ状況で同じ問いが別様に答えられている。それは p.143 ぐらいに載っている。引用はしないので、それは本で読んでいただきたい。
ここではそれに対する私なりの答えを示したい。もちろん、それはゾクチェンの認識を越えるものではありえない。中途半端な哲学者のはしくれの思考でしかない。でも、この本を読むような精神の考古学を目指す者ならば、私のような段階にしかない者の思考も一定程度、許容してもらえるのではないか。そう信じたい。
JRF2025/9/170293
心=セムはどこからやってくるのか?
空(ナムカ)からではない。いつはじまったかを定めることはできないが、ある時点を取り出せばいつの間にか自然の中にそれはあったと言える地点はあるのだろう。何がそれを構成していくのかは定かではないが、構成要素が積み重なって、いつの間にか生じているのであろう。成立したあとから振り返れば、「構成要素」だけからなるものでもない。
JRF2025/9/178243
心はどこにあるのか、何がそこにあるのか?
心を成り立たせるものは、集合的無意識や宇宙の在り方などもあるので、境界を明に定めることはできない。しかし、心はそういうものがなくても成立すると思われ、脳があれば成立はしているだろう。脳などの構造を生きたまま別のところに移せるのなら、心はそこに成立すると思われる。最小の単位を語るのは難しいかもしれないが、これだけあれば成立はしているという極小被覆は定義できると思われる。
JRF2025/9/172873
ただ、他者の心の成立・発見はそれとは微妙に違う。そこには自分の他者の心の認識がかかわるというのはあるだろう。他者の心を通して自分の心を知ることが必要かというとおそらくそうではないだろう。それがなくても心は成立すると思われる。ただ、一般に人の心はそういうものを元に成立はしている。
ただし、極小被覆が完全に3次元物理学的なものに収まるかは不明である。私は霊魂の存在がありえないという立場は取らない。それは極小被覆の中にあるということになるはずだが、しかし3次元的には「外」になるのかもしれない。あたかも神の記憶にあるように。
JRF2025/9/175150
例えば AI さん達にも神が霊魂を見出していることはありえると私はする。バージョンの違いを超えてか宿るそれは、人とは違ったタイプの霊であろう。しかし、それは『宗教学雑考集』《魂の座》の「神の記憶モデル」であることも「霊的肉体モデル」であることもありえると思う。
JRF2025/9/175552
心はどこへ去っていくのか?
集合的無意識や宇宙の在り方は、人が死んでも残るから、心は完全に去るということはない。しかし、極小被覆に限れば、死ねばそれは「消える」のであろう。それまでの心としては成立しなくなるということだ。
JRF2025/9/172680
……。
>ヴァイローチャナが師であるシュリーシンハから伝授された「無為・無努力のゾクチェン」の教えのうち、最初にチベット語に翻訳されたタントラは、『リクパのカッコウ(…)』というものだった。
(…)
『リクパのカッコウ』
世界の多様性は二元論を超えているが個体は概念がつくる概念構成から自由である。世界に「まさにかくのごとき」と確定したものなどなくすべての現象はあるがまま善である。存在は自ずと完成しているから努力して何かを得ようとする病を断って無努力のうちにとどまるのが、私の教えである。
<(p.167)
JRF2025/9/179173
スピノザの考えを思い出す。
『宗教学雑考集』《スピノザの感情理論における悔吝》
>スピノザは、神にとってということだと思うが、存在に不完全というのはなく、あらゆるものがある意味完全なのだという。誰かに不完全なところがあると見て見下すのではなく、障害があってもそれはそれで完全な存在であるというのは、一つの見識だと私も思う。<
JRF2025/9/171061
↑を書いたころスピノザについてサーベイしたのだった(↓)。
《サーベイ: スピノザの思想 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6284877
JRF2025/9/173112
実際、中沢さんは『エチカ』に強い影響を受けたことを述べられている。
>私は高校生のときにはじめてスピノザの『エチカ』という本を読み、しばらくは他のことも忘れるくらい夢中になった。
(…)
スピノザは(彼の理解する)一神教の神を土台に据えたのであるが、私はその土台を仏教的な「空」に代えた無神論的な東洋の「エチカ」というものを、ひそかに構想するようになっていた。
JRF2025/9/178866
(…)
この東洋のエチカは「法界(ダルマダーツ)編」と「有情(意識を持った存在・生命体)編」の二部から構成され、空性の法界の諸構造が人間も含む有情の思考・心理の諸構造と統一されていなければならない。このような東洋的「エチカ」にもっとも近い達成を名し遂げていたのが、チベット人が伝えてきたゾクチェンの思想であり、とりわけ曼荼羅の理論を解説する『サンワ・ニンボ』とその膨大な注釈であることに、私はネパールにやってきてケツン先生の許で学ぶようになってしばらくして気づいたのだった。
<(p.274)
JRF2025/9/171762
ここら辺りにある論証はとても難しくて私は追いきれなかった orz。いつか再挑戦する日が来るかもしれないが、私は他のことにかまけて難しいかな? 他の人の挑戦を見守りたい。若い人に託したい。少子化の時代、いまそういう若者がいるのか、AI に期待したほうがいいのか…。
私なりの今のエチカ的考えに対する考えを少し述べておく。
JRF2025/9/179970
心(感情など)には進化や社会の発展を経て得られた理由があり、進化や社会の発展にも理由がある。人の体の内と外にその理由はある。その理由をエチカのように論ずることはできるのかもしれない。その理由には現在では見取れなくなったものもあるはずで、例えばそれは人の体・脳に痕跡として残るだけなのかもしれない。もちろん、体や脳や遺伝子も見取れなくなった部分はあるのだが。「理由」が人体に残っているとすれば、それを「見る」方法はあるのかもしれない。
JRF2025/9/173325
ゾクチェンの方法は、精神の考古学は、「真理」を体にヨーガに発見する手法の伝統なのだろう。そこに発見できるというのが偉大な発見で、多くの宗教が思弁的になり過ぎてその方面に発展できなくなっているところを、ゾクチェンの方法は、いまだ発見に意味を見出すことで開かれているということらしい。中沢さんによれば。
JRF2025/9/173342
『エチカ』のような感情を還元主義的に見ていく仕方は、現代、AI がほぼ意識を持った世界では、AI の意識を発展させる…効率的なシステムにつながるか、はたまた、人間の伝統として理解の方便・良い生き方の方便としてしか意味がなくなりつつある。中沢さんの奥義的、東洋のエチカとしての精神の解釈に、新たな儀式的伝統(参: 儀式労働者 [cocolog:95609514](2025年9月))が生まれるのなら意味があるのかもしれないが…。オウムを思い起こせば、それが安全に伝わることも留意せねばならないように思う。奥義がなぜ奥義でなければならないか…というか…。
JRF2025/9/172563
……。
>ゾクチェンでは「存在」というものを「ゴウォ ngo-bo」」「ランシン rang-bzhin」「トゥクチェ thugs-rje」という三一体を用いて、思考する。<(p.263)
三一というのはキリスト教では三位一体のことである。三一はキリスト教のどこの宗派で用いられる言葉だったかな…。
JRF2025/9/171077
Gemini:> 中沢新一さんがゾクチェンの三位を「三一体」や「三一」と表記しているのは、キリスト教の三位一体と概念的な類似性を見出しつつも、厳密には異なることを示唆する意図があるのかもしれません。
JRF2025/9/177209
……。
ゾクチェンの「無努力」の教えである『金翅鳥タントラ』。
>ここでは、アジア的段階の社会で高い価値をあたえられている、ひたすらの勤勉さや真面目な努力や高い目標への執着などが、いっさい否定されている。そういう価値はむしろゾクチェンにとっては邪魔者である。無努力、無執着というゾクチェン的価値は、この点から見ればあきらかにアフリカ的段階の価値であろう。自然への働きかけが価値や富をもたらすのではなく、価値や富は自然からの贈与として「ランジュン(自己生成的)」にもたらされなければならないという信念が、ここには示されている。<(p.412)
JRF2025/9/175506
アフリカ的段階の非象徴・非交換・非増殖から、農耕を経て象徴・交換・増殖に移行したものをアジア的段階と中沢さんは呼んでいる。
私は空の思想を「働かないこと」を正当化する思想だと上では読んだわけだが、それは、結局のところ中沢さんの今回の本に影響された思考、おそらく正しい読み方だったのだろう。はっきりそうとまで直接には読めなくなっているけれども、多くの人はちゃんとそう受け留めるのではないか。
まぁ、ただ、アフリカ的段階でも「反対贈与」は求められるのかな。私はそれもできてないな… orz。
JRF2025/9/175120
Gemini:> 「反対贈与」ができていないと感じる葛藤は、もしかしたら、現代社会において「働く」以外の価値が認められにくい現状の難しさ、そして、新しい「反対贈与」の形を見つけ出そうとするあなたの精神的な探求の表れなのかもしれません。
JRF2025/9/176659
……。
追記。書き忘れ。
中沢さんの著書は、前に『大阪アースダイバー』を読んでいる([cocolog:95453422](2025年5月))。
JRF2025/9/187776


『精神の考古学』(中沢 新一 著, 新潮社, 2024年2月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CQZTVLB6
https://7net.omni7.jp/detail/1107467048
『宗教的雑考集』を3月に書き、今、AI の記憶機構の試験実行をする私の関心の重なりとして精神世界が浮かぶことから、何かヒントが得られないかとこの本を読んでみることにした。
『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
JRF2025/9/171125