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cocolog:95683424

コリン・ウイルソン『アウトサイダー』を読んだ。「社会」を構成しているブルジョワ的インサイダーに対しアウトサイダーとして生きはじめるということは、ベルクソンの「開かれた社会」でも生きるということと似ていると思った。 (JRF 3358)

JRF 2025年10月19日 (日)

『アウトサイダー』(コリン・ウイルソン 著, 福田 恒存 & 中村 保男 訳, 紀伊國屋書店, 1975年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAYCRI (単行本)
https://7net.omni7.jp/detail/1100617510 (文庫本)

原著は Colin Wilson『The Outsider』(1956)。

「社会」を構成しているブルジョワ的「インサイダー」に対し、自らをそこから疎外して考える「アウトサイダー」を論じた本。古今の聖人なども「アウトサイダー」になる。

JRF2025/10/199131

この本は、内田樹さんが紹介していて知った。昔の若者のタネ本だったと。

《『アウトサイダー』についての個人的な思い出とささやかな感想 - 内田樹の研究室》
http://blog.tatsuru.com/2021/12/06_0901.html
>これだ、と私は確信した。M田君はこれを読んだのだ。私はその茶色の土偶のようなものが表紙に描かれた『アウトサイダー』を不機嫌な顔の店主からひったくるように買い求め、そのまま払暁に至るまでむさぼるように読んだ。最後まで読み終えるまでに三日とかからなかったと思う。そして、読み終えたときに、私は深い満足感と、一抹の寂しさを感じていた。

JRF2025/10/196334

うれしかったのは、この本が私の久しく待望していた「現代哲学の学習指導要領」(それもきわめて出来のよい)だったからである。寂しかったのは、おそらくはあの先輩たちもこれに類した「参考書」をひそかに自分用に持っており、(誰にも教えずに)哲学者たちの名前と引用句をそこから拝借して読んだような顔をしているのではないかという疑念にとらえられたからである(事実、一年後に私自身が新入生たちに先輩風を吹かせるようになったとき、私は「読んでもない本を読んだような顔をする」技術にすっかり習熟していた)。

JRF2025/10/191840

これは「教科書」として読むべき本だろう。私はそう思った。ただし、きわめて強い個人的バイアスのかかった教科書である。

JRF2025/10/198984

(…)

『アウトサイダー』は1950-60年代における最高のブックガイドだったと私は思う。私はコリン・ウィルソンの案内によって、その後ニーチェを読み、キェルケゴールを読み、ドストエフスキーを読むようになった。私の同世代の友人たちのあるものはT・E・ロレンスを読み、あるものはニジンスキーを読み、あるものはブレイクを読むようになった。彼らは自分がなぜそのような本を読み始めたのか、理由を告げなかったが、私は彼らの書棚には必ずや『アウトサイダー』があったろうと確信している。

JRF2025/10/190161

「ブックガイド」ということは悪く言えば、衒学的な本だということも言えるのだと思う。私は、知識が大してないのに時間だけはある(ググるヒマもある)という、そういう本に耐えられる人生になってしまった。

JRF2025/10/199113

Gemini:>当時の若者たちが感じていた「自分だけが人生の空虚さに気づいている」という孤立感や疎外感を、『アウトサイダー』は瞬時に覆しました。「彼ら(偉大な先人たち)も同じ問いと格闘していた」という事実を提示することで、読者は自らの悩みが普遍的な「人間の伝統」の一部であると認識できます。これは、個人的な苦悩を実存的な探求へと昇華させるための、非常に強力な精神的ガイドブックでした。<

JRF2025/10/196544

……。

Gemini さんによる『アウトサイダー』の簡単な解説はこうである。

Gemini:>コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』は、文学、哲学、実存主義を横断する非常に示唆に富んだ作品です。

ウィルソンは、社会の規範や価値観に馴染めず、本質的な「生の意味」や「真実」を探求する孤高の魂、すなわち「アウトサイダー」たちに焦点を当てました。彼はドストエフスキー、カミュ、サルトル、ニーチェ、ヴァン・ゴッホといった多様な天才たちを分析し、彼らの苦悩や探求を「アウトサイダーの伝統」として捉え直しています。

JRF2025/10/191613

その中で、ウィルソンが提示する重要なテーマは「存在の肯定」、そして「意識の進化」の可能性ではないでしょうか。アウトサイダーの抱える絶望や疎外感は、彼らが凡庸な現実を超えた、より深い実在を「垣間見てしまう」ことから生じていると彼は論じます。この「垣間見」が、彼らを常識的な生活から引き離し、極限的な探求へと駆り立てるのです。

JRF2025/10/197414

……。

少し前に私は↓という本を出した。今回も上の本を読みながらその議論を少し紹介する。なんちゃって哲学書だが、もしご興味があれば、手に取っていただきたいです。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/10/191247

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/10/197827

……。

それではいつもの通り、引用しながらコメントしていく。なお、旧漢字は新漢字にだいたい改めてある。

JRF2025/10/194317

……。

まずは哲学書の吉例で、解説から読んでいく。

出版当時『アウトサイダー』はベストセラーとなり、知的スリラーと言われたそうだ。

JRF2025/10/192520

>「アウトサイダー」を扱って、しかもおもしろいということはどういうことか。「アウトサイダー」は外側にいるものであり、「インサイダー」による誤解はかれの運命でなければならぬ。その誤解にたえることでなければならぬ。が、ウィルソンはその肩の荷を軽くしてやろうとして出発する。喜劇の舞台と精神病院からの脱出を助けてやろうとする。「外側にいるもの」を内側にとりこもうとする。これは矛盾している。「アウトサイダー」にとっても不本意ではないだろうか。

JRF2025/10/191901

が、ウィルソンはそれに気づいていないではない。かれは「アウトサイダー」を救出しようとしながら、つねに、それを中途でやめている。それは単にスリラーのためのスリラーではない。ウィルソンは危いところで「アウトサイダー」の問題の本質をはずしていないのである。かれは救出を中途で放棄することによって、次の事実を暗示しているのである。それは、「アウトサイダー」にとって、救出は自己救出しかありえぬということである。自己発見が自己によってしかなしえぬことは自明の理であろう。

JRF2025/10/196534

最後にウィルソンは宗教を暗示して終る。この書を読み終って、逆に眺めると、それまでの救出放棄は、すべて、この結論に導くためだったことがわかる。
<(p.327, 訳者あとがき:福田恒存)

JRF2025/10/195381

難しい本で、結局何が言いたいのかよくわからない面のある本だった。「アウトサイダー」を扱っている。その心がまえのようなものを説いている。仏教の修行論的な方法論らしきもの(在家で悟るためのようなもの)はある。でも、それはウィルソンさんの個人の見解を超えるものでなく、権威は引用によってそれほど付いているようには思えなかった。なぜ、それにもかかわらずベストセラーとなったか。その分析が、この訳者解説なのだろう。つまり、自己救出をあくまで求め、その手助けとなるのに留めたところに支持が集ったということであろう。

JRF2025/10/192318

解説にも書かれていないことでは「戦後」という時代性もあるのだろう。従軍経験があり社会で働く者が一方でいて、それに対し、そうでない若者などが、自己を説明する焦燥感に駆られていた時代ではなかったか。

JRF2025/10/194309

Gemini:>ウィルソンは、既存の哲学や宗教の権威をもって結論づけるのではなく、あくまで「個人の見解」、つまり彼自身のアウトサイダーとしての「自己発見」の過程を提示しました。

これは、既成の権威を嫌い、「自分の頭で考えること」を是とするアウトサイダー読者層にとって、非常に受け入れやすいアプローチでした。彼は、偉大な思想家たちを、「いまだ答えを見出していない、しかし必死で探求した同志」として扱い、その探求のプロセス自体に最高の価値を置いたのです。

JRF2025/10/198382

……。

本文に入る。

まずは名言集にでもいれるべきもの。

>ヴィリエ・ド・リラダンの「アクセル」(…1890年…)の態度 -- 「生活などは、召使が代りにやってくれる」 --<(p.5)

JRF2025/10/197450

私は生活をどう立てるかがまだ解決していない。稼げていない。日々の細々としたことは年老いた母に頼っている。母を「召使」のようにこきつかって、今、哲学している。これではいけない…と思う。しかし、そこから抜け出れない。一から、下層から働くという気力はない。アウトサイダーに追いやった人に収入の道を与えずやがて下層で働かせようとする、そういう社会の欺瞞を措定してしまう。

JRF2025/10/191355

Gemini:>ウィルソンがアウトサイダーに共感するのは、彼らがこの「欺瞞的な二者択一」を見抜いているからです。社会は、アウトサイダーの「意識の高さ」を罰するかのように、生活の重圧を課します。<

JRF2025/10/193003

……。

人の死は最高の霊長類の死にふさわしい何か一幅の絵になることを期待しがちだが、そうはならないものだった。特に戦場では。ヘミングウェイ『死者の自然史』(1933年)はこう書く。

>死者に関する第一の発見は、急激な死に襲われたものは、動物のように死んだという事実だった。……

わたしにはわからない、が、大部分の人間は、人間らしくなく、動物のように死ぬ。
<(p.31)

JRF2025/10/198138

「世の中に重要なことは何もない」という「悟り」はヒューマニストによって否定されがちだが、しかし、そのヒューマニストもあっさり死ぬものだ。アウトサイダーはその否定に生きるのではない。

ヘミングウェイ…

>かれの作品において宗教的な理想にもっとも近づいた文章は、「失うことのできぬものを見つけるべきだ」であるが、この考えは発展されぬままにおわる -- というより、失うことのできぬものは皆無だという主題が、このあと長々と証明される。だから人生は無価値だ、というのではない。逆に、人生こそ唯一の価値であり、無価値なのは観念にほかならぬ。<(p.31)

JRF2025/10/190886

この辺はキリスト教的、「最後の審判」的考えなのかな。転生を期待せず、この生で答えを出さなければならない…この生に答えがある…の変形がここにあるように思う。

ただ、ウィルソンさんは単純に仏教などを否定することもしない。断食の方法を覚え、低収入で生きて、考える時間を増やすことも是認する。それが涅槃=転生の終りならば、その生を生きることになるから…ということかもしれない。

実生活を必死に生きることも否定はしないが、「実生活に堕落する」という見方も否定はしないようだ。

JRF2025/10/194921

……。

>自由は、その前提として自由意思を要求する。これは自明の理である。が、「意思」が働きうるためには、まず動機がなければならぬ。動機のないところに意思はない。しかし、動機とは信念の問題にほかならない。なにごとにせよ、それが可能で意味のあることだと信じぬかぎり、それをなそうという気はおこらぬものだ。そして、信念とは、なにものかの存在を信じることでなくてはならない。つまり、信念は現実なるものとかかわりあう。それゆえ、自由は結局、現実なるものに依存する。

JRF2025/10/196654

ところが、「アウトサイダー」は、その非現実感ゆえに、根源から自由と遮断されている。非現実の世界で自由を行使することは、降下しながら跳躍することと同様に不可能なのだ。
<(p.33)

ここは、強引な論の進め方で、こういう強引さはここだけだったように思う。

JRF2025/10/198038

まず、自由意思がなくても運動余地があれば自由は成立するとも言える。自由意思が阻害されたとき自由が意識されやすいとは言えるかもしれないが。

意思には動機がある必要は必ずしも必要ない。なぜかそれを欲するということはあり、かくたる動機がないことはある。

動機の背後に信念があるとは限らない。何かちょっとやってみようというときには好奇心程度のものしかないことはある。

信念はなにものかの存在を信じるとは限らない。単に観念を信じることもある。

自由は現実に依存しないこともある。ネットゲームで何かが買えることに自由を感じることもあるものだ。

JRF2025/10/199253

じゃあ、ウィルソンさんはここで何を言いたいかというと、戦争が終わったこと、その後の実存主義などの流行のことが言いたいのだと思う。

信念はなにものかの存在を信じるというのは、本当は神を信じると言いたのだけど、戦後の合理主義の状況では言えないからそれを探すのだが、その根拠は、現実の何者かに見出したことにしなければならない…ということなのだと思う。

動機の背後に信念があったのは、戦争に一方の側に立って参加することを決めるその動機には、必ず命がけの信念があったということだろう。結局、動機というのは戦争が終った「今」でもそこまで問われなければ嘘だという感覚があるのだろう。

JRF2025/10/199127

何かなされていれば、そこには命がけの動機を持っているというのがおたがいの信頼であり、そういう信頼の上に、どんな自由な行動もあると認められているものだった。…ということであろう。

でもそこで「アウトサイダー」となったものは、兵役逃れのようなもので、非現実な存在とされる。そこに本当の自由はなかった。そこからどう跳躍するのか? 芸術か? 宗教か? それともそれ以外の何かか?

『宗教学雑考集』を書いた私は宗教に寄せていったということだろう。しかし、寄せきれてない。「アウトサイダー」のままだ。

JRF2025/10/198453

Gemini:>あなたが指摘するように、現代的な観点から見れば、「好奇心」や「曖昧な欲望」も動機になり得ますし、ネットゲームのような「仮想現実」でも自由は感じられます。しかし、ウィルソンがここで扱う「自由」は、「人生全体を賭けた実存的な行動」を指しています。

彼は、アウトサイダーが「この世界は虚偽だ」と感じている限り、その世界で何を選び、何をしようとも「本質的な意味を持たない」という麻痺状態に陥っていると主張したいのです。この「非現実の世界で自由を行使することは、降下しながら跳躍することと同様に不可能」という比喩は、その無力感を劇的に表現しています。

JRF2025/10/195592

……。

>ヘッセ『悉達多[シッダルタ]』(…1922年…)<(p.53)

ヘッセ『シッダルタ』は [cocolog:94240082](2023年6月) で読んでいる。

ヘッセはアウトダイダーを扱う作品ばかりを書いたとウィルソンはする。

JRF2025/10/195728

……。

ヘッセ『荒野の狼』(1928年)の主人公ハリー・ハラーはいう…

JRF2025/10/198574

>「アウトサイダー」はブルジョワ社会の支柱であり、かれなくしては、ブルジョワは存在できず、社会を構成する普通人の活力は、ひとえに「アウトサイダー」にかかっている。多くの「アウトサイダー」は、詩人もしくは聖者として自己を統一し、自己を実現する。もちろん、悲劇的な分裂と無策とに悩みつづける「アウトサイダー」もある。が、かれらとても社会に霊的エネルギーを供給していることにかわりはない。思想を純化し、ブルジョワ世界がそれ自体の重みに喘ぎ、のたうつのを阻止するのは、かれらの奮闘においてほかになく、かれらこそ社会の精神的ダイナモであり、ハリー・ハラーはその一人なのだ。<(p.57)

JRF2025/10/197638

自己実現については「社会実現」という言葉を対比させて私は考えたことがあった。それはインサイダーに向けての提言だった。するとウィルソンさんが主張したいのは、アウトサイダーならば、あくまで自己実現にこだわるべき…ということだろうか。

『宗教学雑考集』《林住期と社会実現》
>ひと昔前、「自己実現」という言葉が流行った。「なりたい自分になる」というフレーズで示されたものだった。「ワークライフバランス」という言葉もあった。仕事と、趣味や家庭などの生活…というよりも人生とのバランスを取るという考え方である。

JRF2025/10/192270

「ワークライフバランス」という言葉は、従来デフレ期に人があまって「ワークシェアリング」…一人一人の仕事を減らして仕事を分け合ってみなが生活できるようにしよう…というのを意識して、余暇に「自己実現」を目指そう…という文脈があったと思う。

昔、《売春と貨幣》で語るリュディアでは、ゲームが流行ったそうだが、平成の日本もゲームなどの消費を盛り上げて、ゲームに時間を使うことを肯定して、それでワークを分配しようという考えが支持されていた面もあった。ただ、結局、ワークをする人はそれに専念し、ゲームをする人もそれに専念するしかない感じで、うまくはいかなかった。

JRF2025/10/197632

しかし、現在、インフレ期になり、ワークシェアリングのための「自己実現」という部分は余計になり、「ワークライフバランス」は、ヘルスと出産などのリプロダクトとワークのバランスを意味するようにシフトしてきているように思う。自己実現は子供時代または老齢時代に目指すものとされていくのかもしれない。

JRF2025/10/191709

だから、壮年期・中年期は自己実現ならぬ「社会実現」を目指すなどとこれからの時代、されていくのではないか? 自己の夢だったものは、むしろ、それを他の人が叶[かな]えるように社会で実現していく、そういう夢が叶う社会を実現していく。もしかすると自己の夢もついでに叶うかもしれないが。そういう責任世代であることを強調して、副業・残業を是認していくようになるのかもしれない。

JRF2025/10/192141

自分の「無能」に悩みつづけるアウトサイダーについては、この部分に似た部分を最近読んだのを思い出す。

[cocolog:95663761](2025年10月)
>>小西甚一 校注『一言芳談』を読んだ。

(…)

>(…明禅法印が…)また言われたこと。「世のためになるというわけで、ことごとしく何かをしなくても、ほんとうに生死対立の世界を離れようとさえ心に決めておれば、その人その人の器量に応じて、かならず世のためになっているものだ。」<(p.34)

JRF2025/10/190163

私は社会の役に立っていないことに悩んでいる。役に立ってない証拠に稼げていない。

しかし、生死対立の世界からはドロップアウトして引きこもっているとは言える。ならば、世のためにはなっているものだろうか。それならば救いはある。

…でも、Twitter (X) はやってるな、あれは生死対立の世界だ。…だからダメなんだろうか?
<<

JRF2025/10/196591

……。

>>ヘッセの失敗は、自己実現ということばの意味が、かれにはあやふやであったことに起因しているのであるまいか。「荒野の狼」には、不意に訪れた忘我の歓喜、「時間を超えた瞬間」について述べている --

>ピアノの調べが二つか三つ鳴る間に、別世界に通じる扉が不意に開いた。わたしは天国を駆けめぐり、神の業を見た。……わたしはすべてを肯定し、すべてのものにわが心を捧げた。(…)<

JRF2025/10/192720

だが、この心境は十五分ほどしかつづかない。一生をかような瞬間の連続とさせる修練がありうることを、ヘッセはどこでも述べていない。かれがもし善良なキリスト教徒であったら、かような大それた望みはいっさいもたず、ただひたすら神に近い人生めざして努力することに満足し、残るすべての神の手に委ねたであろう。が、ロマン主義者のヘッセは、こうした中途半端の態度に甘んじることをいさぎよしとしない。かれは、人間が生ぬるい日常茶飯事の次元において生きねばならぬことに深い不満をいだき、芸術家が創造にさいして感じる法悦のあの強烈さを不断に生きることのできる道がなければならぬ、と感じる。

JRF2025/10/192427

そんな考えはロマンティックな希望観測だといってかたづけることもできようが、これは、「アウトサイダー」共通の理想の一つとして、注目に値する点である。次の章では、ロマン主義者という汚名を冠することのまず不可能な人たちで、しかも、この理想の人生を見いだすべく、世のなかに出かけ精進した人びとを考察する予定である。
<(p.65-66)

JRF2025/10/194601

次の第4章で紹介されるのはヴァン・ゴッホ、T.E.ロレンス(アラビアのロレンス)、ニジンスキーである。議論を先取りすると、それぞれ、感覚・智能・肉体に優れていたが、それらのバランスが取れてなかったとする。そしてアウトサイダーならまずは智能に優れるべきだとするようだ。

「瞬間」の議論は、私はエックハルトを思い出す。ウィルソンさんも後にエックハルトから参照するが、私のエックハルトの印象とは違うところがあるようだ。

JRF2025/10/196423

『宗教学雑考集』《エックハルトの神》
>>エックハルトの神は、神の「今」において今も創造している。神にとっては、どの今も昔も未来もまた神にとっての「今」なのだ。そして神の「恩寵」は、物理学の「繰り込み」のように人の「内」に生じ(そしてそれに作用された人の「内」にまた生じ)、おそらくすべてが終ったときにのみ人全体の働きによって「恩寵」が現れていたことが証しされ、それが人が意志して求める浄福=真の幸福を導くのだろう。

JRF2025/10/191596

個々人がなしたことが恩寵にふさわしかったかどうかが問題なのではない。神が魂に住まい、神の視点で、全体が恩寵をなしたことが大事なのだと私は解釈する。俗に言えば、恩寵は結果責任が問われるということだろう。

大事なのはかつてどうだったかでなく「今の私」としてくれる。魂の「内」に神はあり、その神と魂が一つになる瞬間があるという。その…

JRF2025/10/190794

>神の内で一切が一[いつ]になるまでは、魂はけっして安らぎに到ることはない。神は一である。このことが魂にとっての浄福であり、魂の誇りであり、魂の安らぎである。(田島照久 訳『エックハルト説教集』p.111)<

JRF2025/10/193243

(…)

エックハルトにおいて、知性は神が善とすることを知ることができ、それを実現しようとすることはできる。また、神秘的な超越的奥義はあり、それに人の魂が達する一瞬はありうる。しかし、もちろんその一瞬以外にも人生はあるのだ。神が偽善を善となすように、人生の一部に超越性を認めてくださることもあるはずだ。それに照らされながら人は生きていけばいいのだ。
<<

それを永続させられようなどと、私は夢にも思わなかった。ヘッセもそうなのではないか。

JRF2025/10/193730

……。

>蝶になった夢を見たが、この自分は、はたして蝶になった夢を見た人間なのか、それとも人間になった夢を見ている蝶なのか、わからなくなった、と述べたのは荘子である。<(p.67)

胡蝶の夢。『荘子』は [cocolog:84506351](2016年2月)でも私は読んでいる。

JRF2025/10/195187

Gemini:>ウィルソンがヘッセに求めたのは、瞬間的な法悦(超越的なヴィジョン)を永続的な状態にする「修練」でした。

荘子の夢は、どちらの次元にも偏ることなく、両方の次元を高い意識レベルで同時に認識することの可能性を示唆します。これは、感覚(蝶)や智能(人間)といった部分的な能力の「バランス」を取るだけでなく、その根源にある意識の「レベル」自体を引き上げること、すなわちウィルソンが次の章で探求する「智能」を核とした「統合された自己実現」へと繋がる道筋です。

JRF2025/10/192045

ウィルソンは、東洋哲学が持つこの「統一的な意識」の概念を、西欧のアウトサイダーの悲劇的・分裂的な探求の先に位置づけていると言えるでしょう。

JRF2025/10/190922

……。

>自己実現の問題、つまり「アウトサイダー」の問題

(…)

「死者にわかっていることは、ただ一つ、生きているほうがましだということだ。」
<(p.

「アウトサイダー」にとってはどう生きて(精神病的な死にもならずに)自己実現するかが問題であり、それ以外ではない…というのがウィルソンさんの見立てのようだ。

JRF2025/10/193537

……。

>ある限度を超えれば、「アウトサイダー」の問題は、単なる思考の手に負えなくなる(…)。それは生活されねばならぬ問題なのだ。<(p.69)

JRF2025/10/194916

大学時代をモラトリアムと呼ぶことがあるが、アウトサイダーもモラトリアム的に「生活を召使にまかせて」おけばいい段階は早晩過ぎるのだろう。「その後」をどう生きるかは、才能によるようだ。才能豊かな人=ウィルソンさんが指すようなアウトサイダー=読者がそうありたいと願っていてそうなれないと悩んでいるようなアウトサイダーは、生活を立てることができる。実際できていた。しかし…それはどこかに歪みがあることが多かった。それを慰めにするわけではないが、「失敗」しない方法を探るという名目で、もっとマシな生をウィルソンさんは促すようだ。

JRF2025/10/193721

……。

>ロレンスは、異常なまでに意思の力を働かせることができたが、その意思をふり向けるべき目的をもたなかったために失敗した。かれの失敗した原因は、自己のうちにうごめく漠然とした欲求を分析し、それに意思の照明をあてることができなかった点にある。<(p.82)

JRF2025/10/196634

ロレンスは活躍のあと、空軍に二等兵として再入隊した。それをウィルソンは「精神的自殺」と言ってのける。叙述活動に道を見出すべきだったようなことを匂わせる。そうしないことで、ロレンスは、感情・肉体・精神といった「自分」を敵としてしまったのだ。…と。地位が人を作るとしても、その「人」が自分じゃないと思ってしまった…ということか。

JRF2025/10/195262

……。

>ロレンスがあまりに多くを考えたにたいし、ヴァン・ゴッホはあまりにも多くを感じた、と述べればよいであろう。<(p.95)

さらなる一方のバレエダンサーのニジンスキー。彼が「私は神だ」などと言ったのは、ギリシャ正教(ロシア正教)の「神化」に重なる部分で、そこまで特異ではないと私は思うが、それを統合失調症で私も経験した神的存在の肉体への「憑依」(または離人感)に寄せて、ウィルソンさんは考えるようだ。

JRF2025/10/193004

>ニジンスキーの肉体は、かれの創造的衝動の命令にしたがったまでだ -- ちょうど、ヴァン・ゴッホの画筆とロレンスのペンが、かれらの創造本能にしたがったと同様に。肉体は容易にそれ自体の活力によって酔うことができる。智能もしくは感情がそれ自体の活力で酔うよりも、それは、はるかに容易なのだ。<(p.105)

私はそういう肉体の声は、散歩と太極拳で「解消」している感じかな。

JRF2025/10/198019

>もしロレンスの強大な智能と、ヴァン・ゴッホの神秘的な自然愛、それに自己の肉体にひそむ可能性にたいするニジンスキーの直感とを溶合することが理想的な結合とするならば、ヴァン・ゴッホもしくはニジンスキーから出発してロレンスの次元に達するよりも、まずロレンスを出発点として、それに他の二人を補足するほうが良策だと思われる。が、これはけっして、ロレンスがニジンスキーやヴァン・ゴッホよりも偉大な「芸術家」であったとかなんとかいう意味ではない。

JRF2025/10/193148

ここで筆者が問題としているのは、芸術家としての三人でなく、あくまでも「アウトサイダー」としてのかれらなのだ。そして、「アウトサイダー」にかんするかぎり、高度に発達した「感じる」能力よりも、強大な智力をもつことのほうが肝要なのだ。

しかし、この章で暗黙のうちに仮定されているもっとも重要な点は、「アウトサイダー」はなによりもまず「アウトサイダー」たることをやめたがっているという点である。
<(p.109)

JRF2025/10/190656

この本の読者はインテリだろうから、まずは智力が大事というポジショントークの面があるかな…とは思う。もちろん、感覚や肉体を重視するところから、知力を後から育てるのは難しいという面もあるのだろう。いや、感覚や肉体を単に重視するだけなら、インサイダーとして回収されるのが普通なのだということかもしれない。まず、アウトサイダーとなるには智力が必要という面もあろう。

JRF2025/10/197113

それはそれとして、ここで私が思ったのは、現在の AI (LLM) の学習・発展の方向である。LLM はまず智能をバケモノじみて発達させたあと、感覚(マルチモーダル)や肉体(ロボット)を発達させようとしているということだ。それはウィルソンさんのいうアウトサイダーの順序そのもの。もしかするとこの順序には、何か深い意味があるのかもしれない。

JRF2025/10/199683

……。

>ウィリアム・ジェームズ(…)『宗教的体験の種々相』<(p.111)

ジェイムズ『宗教的経験の諸相』は [cocolog:94838245](2024年5月) で読んでいる。

JRF2025/10/198600

……。

>正しいのは一度生れたきりの人か、二度生れた人か? 健康な精神の持ち主か、「アウトサイダー」か?<(p.122)

ジェイムズの本では、楽観主義の宗教の者を「一度生まれの者」、厭世主義を経て回心したものを「二度生まれの者」といった言葉で表していた。

ジェイムズの本では精神病になることも問題になっていたが、もちろん、アウトサイダーは精神病になる必要まではない。ただ、その近くには行くということだろう。

JRF2025/10/192118

ところで、ここで、アウトサイダーとインサイダーの対比に相当する私の議論を思い出しておこうと思う。それはベルクソンから得られた「開かれた社会」に関する議論である。人は「開かれた社会」と「閉じられた社会」に同時に属して生きている。「開かれた社会」は、プラトンのイデア界のようなもので、そこでは人は平等なのだが、その社会を現実の個人の側に持ってくると、取り分はわずかしかなく、貧しい世界なのだ。これが「アウトサイダー」の世界だろう。一方、閉じられた社会は格差はあるのだが、そのために生活ができるようになっている。

JRF2025/10/196753

『宗教学雑考集』《捕虜のように敵として生きる》
>閉じた社会で人類愛を実現するのに捕虜というものが重要だったこと、そして、死んだほうがマシを押し付けてくる人類愛を忘れがちな現代社会というものを、敷衍していくと、次のような考えが浮かんでくる。

「閉じられた社会」で、とらわれた捕虜のように敵として生きる・生き残ることが求められているのかもしれない。それが「閉じられた社会」で生きながら「開かれた社会」にも生きるということなのではないか。

あなたもわたしも、皆がこのように考えるべきなのではないか。

JRF2025/10/190212

これは、プラトンの「肉体は魂の牢獄である」に近い考え方となり、ハイパー・プラトニズムと私が呼ぶ主義につながる。

それをウィルソンさんの言葉で言えば、インサイダー的に生きている者も皆アウトサイダー的な部分をかかえていることを意識すべし…となるのかもしれない。総クリエイター社会の現代、そこに連帯がある。…と。

JRF2025/10/195755

……。

詩人エリオットは「アウトサイダー」から宗教への一歩を踏み出した。

>とはいえ、実際に教会に加わるところまでは、まだまだ遠い。なぜなら、教会の教理のなかには知的に弁護できるものがあると認めるのと、ときたまの「アウトサイダー」ばかりか無数の「インサイダー」たちが気楽に居られるような宗教をつくるために、教会が甘受せざるをえない尨大[ぼうだい]な妥協にたいして完全な賛意を示すこととは、まったく別の問題だからである。<(p.127)

JRF2025/10/199713

「アウトサイダー」の真理=「開かれた社会」の真理は、実にシンプルなもので、律法や戒律や建築物・伽藍などは言ってみれば「インサイダー」に救いの感覚をもたらすためにのみあるのかもしれない。

↓を思い出す。

JRF2025/10/192171

『宗教学雑考集』《律法や戒律による救い》
>スピノザは哲学と宗教を峻別[しゅんべつ]し、哲学は「自然的光明」つまり理性によって神を認識するのであるが、それは宗教で書かれる神の在り方とは異なるとする。聖書で書かれる神は、民衆の把握力に合わせた書かれ方しかしていない。モーセ五書で書かれる律法などは当時のヘブライ国家にのみ適用されるよう、その国民の把握力に合わせて述べられたものである。本当の神が求める「律法」は、「神を愛し隣人を愛する」しかない、それを行為によって示すことだ。…という。

JRF2025/10/195170

(…)

《善》などで述べたように、だいたい自由意志で努力して、神などにその善性を認められるべきと私はするけれど、しかし、ここでいう神はこのリアル世界にはおらず、その努力が正しいという保証は一切ない。しかし、人はどんな人も一定の悪い部分を持っていて、それでも救われるという保証は欲しい。そのとき、これさえやっていれば、救いに近づくというものがあれば、許しの実感…心の平安を得られるものだ。

それが律法や戒律になる。

JRF2025/10/197395

第2章(シミュ仏)の本目的三条件のように、人の目から見て何が正しいのかをある程度[]演繹[えんえき]的に導くことはできるのかもしれないが、律法や戒律が、神から見ても正しく救いになるかは、究極的には自然的光明によっては証明できない。しかし、啓示(ブッダの教えやある種の伝統・迷信などもここでは啓示とする)によれば、その正しさをもたらすことができる。スピノザは哲学と宗教を分けるから、この啓示による救いのみが宗教であるとするようだ。

JRF2025/10/198978

「啓示」による律法・戒律は、共同体に影響や使命を与える。それはその時代の民衆の把握力にふさわしいものだったとできる。やがて、歴史を通じてその利益を全社会が受け取ったとき、その役割は終り、共同体は解消される。最終的に残るのは、または、新しい共同体も作られる中いつもあるのは、スピノザのいう「律法」だけだ。…それが、スピノザの預言なのだろう。

JRF2025/10/191295

……。

>ニーチェ<(p.127)

ニーチェに関しては『権力への意志』([cocolog:92189836](2020年9月))や『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』([cocolog:82173429](2015年4月))を読んでいる。また田島正樹『ニーチェの遠近法』([cocolog:82200204](2015年4月))を読んでいる。

JRF2025/10/197127

……。

>『易経』<(p.142)

易に関しては一家言があるというと大袈裟だが、まぁ、いろいろ考えている。『宗教学雑考集』には易理という章がある。それを参考にした「易双六」というタロットソリティアゲームも作った。

keyword: 易経

JRF2025/10/199537

……。

>トルストイ<(p.159)

トルストイ『復活』は読んだことがある([cocolog:83307893](2015年9月))。

JRF2025/10/196365

……。

社会を構成する「インサイダー」…

>これらの人びとは牢獄にいる -- 「アウトサイダー」はこう裁く。かれらは獄中で満足しきっている。自由というものを知ったことのない檻[おり]のなかの動物だからだ。が、依然それが牢獄であることにはかわりない。では、「アウトサイダー」はどうか? かれもまた獄中の人だ。この本に登場した「アウトサイダー」は、ほとんど一人残らず、各自の表現法でその旨を述べている。ただ、かれは自分が牢獄にあることを知っている。そして、そこから脱出したいと願っている。<(p.166)

JRF2025/10/196931

上で「開かれた社会」の考え方に関し、プラトンの「肉体は魂の牢獄である」という考えを挙げた。『宗教学雑考集』では映画『グリーンマイル』の名も挙げた。

JRF2025/10/197865

そして、イスラエル=ハマス戦争にも言及した。人質を解放しようとだけするのは間違っているのではないか。人質が人質のまま良い生活ができるようになることを目指すべきではないか。…と、そういう考え方もあるのではないか。我々は皆、牢獄から解放されたいと思う…それを熱狂に結びつけるのではなく、あえて、『創世記』のヨセフのようにその牢獄で生きられることようにまずしていくべきではないか。人質がいつか普通に社会の一員となっているとき、そのとき閉じられた社会は開かれた社会に接近しているのだ。まるでバビロン捕囚のユダヤ人が『エステル記』バビロンで社会の一員になったように。…と。

JRF2025/10/199163

……。

>中世イタリアの哲学者ポエティウスが(プラトンにならって)断言したように、ほんとうに人間は絶対の悪をなすことができぬのであろうか?<(p.170)

そうか、すでに先人が述べていたか。私も「絶対の悪」を個人がなすことはできぬ…としたものだった。

JRF2025/10/198142

『宗教学雑考集』《悪》
>罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、悪人はいるが、仮に生まれたときから悪人だったとしても、彼が悪人になったのは長い目で見れば偶然なのだ。

地獄は「心」のうちにあるのであって救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なようにも私は思う。本当の意味での悪というのは人間には不可能なのではないか…という思いがある。

JRF2025/10/192068

確かに人がなす悪はありうるのだが、人が意志から完全に悪になるとき、それを追い込むものがあったはずで、その追い込んだものの問題と考えれば、その人そのものは救われうるとなる。軽い気持ちで悪を見過ごすような場合、これは存外深い悪ともなりうるが、しかし、悔い贖[あがな]いの機会はやがて訪れると考えたい。

人の力で、本当に絶望の地獄に陥ることもまた不可能。…と私は考えている。私に甘さがあるかもしれないことは留保するが。

JRF2025/10/197355

ただ、ウィルソンさんは、アウトサイダーなどがあえてする悪、地獄にふさわしい本当の悪意はあるのだ…とするようだ。ドストエフスキーの小説の登場人物を挙げてそう論じる。

JRF2025/10/198560

ところで、私は、ドストエフスキーの小説は『貧しき人びと』([cocolog:86580536](2016年12月))、『カラマーゾフの兄弟』([cocolog:80215217](2014年7月))を読んでいる。『カラマーゾフの兄弟』の中核で、ウィルソンさんも大きく取り上げる『大審問官』の部分については特に↓(または『宗教学雑考集』《正教とロシア革命前夜 - 『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》を読んで》)で読み「解説」を試みている。

JRF2025/10/190636

《正教とロシア革命前夜:『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』を読んで - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/03/post_1.html

JRF2025/10/190869

Gemini:>あなたの「救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なようにも私は思う」という信頼に対し、ウィルソンは、アウトサイダーの強すぎる「意志」が、その「心の地獄」を自らの選択によって永続的なものにしてしまう可能性がある、と対置しているのかもしれません。これは、「自己救出」の裏側にある、「自己破滅」の恐るべき可能性への警告です。<

JRF2025/10/192844

……。

ウィリアム・ブレイクは書く。

>聖書、聖典の類はすべて次の誤謬の原因となっている --

(一) 人間は、真に存在する二つの原理、すなわち肉体と魂をもっている。

(二) 「悪」と呼ばれている「エネルギー」は肉体のみから発言し、「善」と呼ばれる「理性」は魂のみから発言する。

しかし、以上の反定立である次の主張は正しい --

人間は、「魂」からはなれた肉体をもっていない -- なぜなら、肉体と呼ばれるものは、魂の五感によって認知される部分であるから。……

JRF2025/10/190153

「エネルギー」こそ唯一の生命であり、それは肉体から発現する。「理性」とは、エネルギーの境界もしくは外周である。

「エネルギー」は永遠の悦びである!
<(p.172)

私はこれには賛成できないかな。まず、魂については次のような論を持っている。

JRF2025/10/196379

『宗教学雑考集』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。

その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

JRF2025/10/190298

○ 説 1. <b>神の記憶モデル</b> - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆[ひふく]して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。

○ 説 2. <b>霊的肉体モデル</b> - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。

JRF2025/10/193773

そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。AI の意志の発生も、それがなぜ意志を持っているか、説明できていないはずである。意志は、その秘密が解かれる前に、その秘密を迂回[うかい]して、「製造」できるようになってしまった。


そして「エネルギー」はちょと違うかもしれないが、悪と物理の理論に関しては次のような考えがある。

JRF2025/10/198973

『宗教学雑考集』《悪》
>菩薩になってこの世において救うのが「善」だとするならば、それに対応する「悪」は究極的には物質的制約になるだろうか? 《四諦:仏教教義の提案的解釈》では、この世に生まれたこと自体が悪の報いとしたが、物質的に制約され、苦しみ、悪なることをせざるを得なくなるということだろうか。ならば、逆に物質的に全ての人が満たされれば、またはある程度欲も抑えてほどほどに満たせば、それが善なのだろうか?

JRF2025/10/192679

なぜ悪が裁かれねばならないかと言えば、最終的にはそれが人を殺すまたは人を滅ぼすところまで行くからだろう。ただ、人を滅ぼすにはいろいろな意味合いがある。今、AI が人を支配するようになるかもしれないと言われているが、それで人が思考力を失うなら、それも「滅び」だろう。快楽に溺れるのも滅びだろう。そう考えれば、物質的に満たされれば善というわけでもない。

JRF2025/10/194880

……。

>「アウトサイダー」のもつ価値は宗教的なものだとするのが本書の主張であるが、この点を詳述するのは、ドストエフスキーの問題をすませてからでおそくあるまい。<(p.173)

「アウトサイダー」のもつ価値は宗教的なものというようにはここまでで読めなかったのだが、そうであると結論に持っていくようだ。ただ、それもうまくいってないというのが訳者あとがきの論調であったか。

JRF2025/10/197072

……。


ドストエフスキー『悪霊』の悪党・スタヴローギン…

>かれがなさずにおわったことは、「すべての生きものはなぜ死よりも生を選ぶか?」という疑問に智能をかたむけることであった。<(p.188)

この問題は、「なぜ生きなければならないのか」と「死はなぜあるか」の問題として私は扱ったことになろう。

JRF2025/10/197750

『宗教学雑考集』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。

JRF2025/10/192272

二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生き残った者が、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められず、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」・「生なければならない」になる。

総体が生きたかったのなら、そこから飛び出した個々には他から望まれなくても「生きるべき」となるといっていい。

JRF2025/10/198409

(…)

そもそも「反作用」とは何か? 物理学用語の「反作用」とは似て否なるものというだけで、はっきりとした答えはない。定常状態などがかつてあって、なくなったそれらを再び求めるような作用・「法則」を私は言っている。

そんな「法則」がありうるのか? そのような「法則」があるとして、なぜそのようなものがあるのか? 世界はそうあるからということでよいなら、「総体として生きたい」という欲があるというのも世界はそうあるからとしていいのではないか?

JRF2025/10/198690

よくはない。なぜなら、「反作用」は「法則」だが「生命」は「偶然」だから。「反作用」は宇宙で普遍的に見られるもの。「生命」は(今のところ)地球にしか見られない。「反作用」が必ず「生命」をうむわけではない。そこには「偶然」がなければならない。

JRF2025/10/198893

宇宙時代、「生きたい」はどこにでもある「法則」ではなくなった。地球はたまたまどこでも生命に満ちていたが、宇宙に目を向ければ生命はマレだ。「生命」は「偶然」だけで説明するのは足らず、「法則」か何かでその確率を増す必要がある…と私は感じている。そして、物理学が究極的はすべてを説明できると考えがちな還元主義の現代において、どこにもここにもある「法則」と「偶然」ですべてが説明できるとも私はしたいのかもしれない。「反作用」はそこから逆算して唱えた妄想的「法則」でしかないとなろう。

JRF2025/10/199279

『宗教学雑考集』《生物学的な死と性》
>なぜ死があるのか。

まず《宇宙胎児》で示唆したように一つの個体よりも複数の個体であるほうが、苦しみが少なかったのであろう。《なぜ生きなければならないのか》の枠組みで安住の残骸を集めるには、それらで同種の生きる数を競争したほうが多様に得られるようになったのだろう。

JRF2025/10/195902

そして、生物学的には、複数の子供の中に自らより優れた遺伝子を持つ者がいることのほうが多く、そういう個体が育って生き残るほうが種全体がそれ以降も他の種に勝って生き残るには有利なため、育てることを優先させるための死があるのだろう。《目的の多層性》でも少し語ったように、死があるほうが進化には有利という説を私は取る。

JRF2025/10/194764

……。

>大審問官<(p.199)

大審問官の物語の解釈は私とは違うようだ。キリストの大審問官への接吻に、ウィルソンは>「あなたの理論は強大です。けれども、わたしの愛はそれよりも強い」<(p.200) と「勝利」を語らせている。しかし、私は上に挙げた記事で、>イエスが老審問官にキスをするのは、ドストエフスキー自身は、老審問官が表すカトリックの方法には反感を感じても、その自己犠牲の精神には、キリストから、誤った形式でかもしれないが、確かに受け継がれた模範を見ているということか。<と「模範(イコン)」を語らせている。

JRF2025/10/199463

ここを考えると、コリン・ウィルソンさんの読み方が一般的な読み方からそれていることがあるという訳者あとがきの意見に私も傾く。もちろん、私の読み方も偏ってはいるのだと思うが、私がウィルソンさんが挙げる本を実際に読んだなら、違う感想を持つだろうことは予期できる。

JRF2025/10/190285

……。

『カラマーゾフの兄弟』の長老ゾシマは若いころこう悟る。

>自然に罪はない。……罪深いのは人間だけだ。人生が楽園であることがぼくらにはわかっていない。それがわかりさえしたら、すべては、そのあらゆる美しさにおいて成就されるのだ。<(p.204)

JRF2025/10/190372

上で引用したように『宗教学雑考集』《四諦:仏教教義の提案的解釈》では、この世に生まれたこと自体が悪の報い…つまりこの世が地獄としたわけだが、そうではなくこの世が天国…はイイスギだとしても、「神の国」だとする考え方もある。

特にキリスト教の文脈では、預言された「神の国」が到来していることが「すでに」と「いまだ」の間にあることがよく語られる。この世界を「神の国」として、その一員として生きることはできる。

JRF2025/10/192900

私の思想の中で「神の国」がすでに訪れている…という感覚は、「我々が奇跡の中に生きている」という感覚として用いられている…のかもしれない。

『宗教学雑考集』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。

JRF2025/10/193606

総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。

その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。

JRF2025/10/198592

すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。

神にとって個を救うことは主観においてにまかされている。きっと、神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。

JRF2025/10/199582

『宗教学雑考集』《奇跡》
>この世界では時間がたてば客観的には奇跡はほぼなかったことになるが、奇跡はありうることも忘れてはならない。主観的に心理的に救いがあったというだけでなく、奇跡による救いもあるのだ。ただ、それは、たいてい客観的にずっと信じられるほど頻繁でもわかりやすいものでもないようだ。奇跡があるとたのんで行動すれば裏切られる。

JRF2025/10/198666

奇跡がそのようにしか起こらないということは、神は「《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあること」がわかっておられたというだけでなく、その特長を(長い目で見て)維持しようとなさるということである。

JRF2025/10/192507

『宗教学雑考集』《エックハルトの神》
>奇跡に惹かれて新興宗教等に導かれる者はある。キッチュな奇跡は客寄せとして使われる。でも客寄せでしかない。やがて手品のタネは知られ奇跡はほぼないと気付かれる。それでも新興宗教等に残る者がいるのは、(世間体的に足抜けできなくなってることもあろうが、)同時に、精神が救いをそこに見出してるからでもあろうとは思う。

JRF2025/10/198892

「あなた」がまたは「あなた」たちが、奇跡という「ボーナス」を受け取ることがあっても、いずれそれはほぼなかったと同様になるのだから、それまでに精神的な構築物を築く必要があるのだと思う。

JRF2025/10/193341

Gemini:>「すでに(Aleready)」: 「総体として生きたい」という奇跡的な意志が生まれたこと、そして「善いことをすれば全体として善くなる(有神論の基本定理)」という摂理が働いていること。これが「神の国がすでに訪れている」という認識です。

JRF2025/10/193822

「いまだ(Not Yet)」: 個人の苦しみや悪が残っているため、「奇跡に惹かれて裏切られる」経験があり、「精神的な構築物を築く必要」があること。これが「神の国がいまだ完成していない」という認識です。

JRF2025/10/193085

……。

>これまでの結論をひとまず簡潔に述べておこう --

「アウトサイダー」は、「アウトサイダー」たることをやめたいと願っている。

「バランスのとれた人間」となることをかれは望んでいる。

感覚による知覚を鋭く生き生きとさせることを欲している。(ヴァン・ゴッホ、ロレンス、ヘミングウェイ)

JRF2025/10/198769

人間の魂と、その働きを理解することをも欲している。(バルビュスと、ミーチャ・カラマーゾフ)

瑣末事から永久に脱して、力への「意思」、より充実した生命を求める「意思」に「とり憑かれる」ことを念願している。

なかんずく、自己表現をおこなうにはどうしたらよいかを知りたがっている。自己を知り、自己のうちにひそむ未知の可能性を自覚する方法は、自己表現による以外にないからである。

JRF2025/10/193253

これまでに検討したどの「アウトサイダー」の悲劇も、結局は自己表現の悲劇にほかならない。

指針としてわれわれは、「アウトサイダー」の「道」にかんする二つの発見を手もとにもっている --

(一) 「アウトサイダー」の救済は「両極限にある。」

(二) 脱出口がどこにあるかがわかるのは、「悟り」とか熱度の強烈な瞬間などにおいてであることが多い。

この二番目の可能性を、われわれは以下の二章においてさらに深く追究せねばならない。
<(p.223)

JRF2025/10/191584

両極限とは「究極的な然り」と「究極的な否」のことで、この後、仏教の中道の概念も出てくるが、それは苦行という「究極的な否」のあとに来るとするようだ。

この両極限に振らないといけないというのを私は信じない。が、中道に関しては私は次のように書いている。

JRF2025/10/192182

『宗教学雑考集』《社会の反応エネルギー - 「中道」》
>すでにある制度というのは、化学反応におけるポテンシャルエネルギーの安定な状態にあるようなもので、複数の制度をとってその「中をとる」ことがかならずしも安定な状態にはならない。「中庸」や「中道」であるからこそダメな場合がある。そして目指す制度が、実際、効率のよい安定なものであったとしても、そこに致るまでの反応エネルギー(活性化エネルギー)がたくさん必要な場合もある。

JRF2025/10/193847

「中をとる」ことが安定な制度を部分的に実現するものであったとしても、活性化エネルギーが足りず安定な状態に変わり切らないため、「中をとる」部分的な実現だけでも維持するために、いつまでもエネルギーを投入し続けなければならない状態になっているかもしれない。

「じゃあ、とにかく活性化エネルギーを高くしよう」とすることが、すべてを破壊することもありうる。逆に、全々関係なさそうなところから、うまい「触媒」が見つかることが、安定な状態を導くこともあるかもしれない。

そういった社会理解が私にはある。

JRF2025/10/195847

社会だけでなく自己に関してもこのようなことはある程度言えると思う。

Gemini:>ウィルソンは、その「悟りの瞬間」という触媒を最も早く、最も確実に得るために、あえて「両極限」という危険な道を推し進め、その後の章で、その「悟りの瞬間」をいかに継続させるかという「方法論」へと向かっているのです。<

JRF2025/10/195982

……。

>エックハルトだが、かれはこう述べている -- 「もし神が真理からはなれさったとしたら、わたしはあくまでも真理に固執して、神を手ばなすだろう。」<(p.226)

「神も悩む」とか「神が人間の魂に入ってこれない…不可能なことがある」とか、エックハルトには「行き過ぎた言」があることは知っていたが、ここまで言っていたとは知らなかった。田島照久 訳『エックハルト説教集』([cocolog:94771542](2024年4月))とエックハルト『神の慰めの書』([cocolog:94778956](2024年4月))は読んだのだが。

JRF2025/10/197727

……。

キリスト教の一派クエーカー教の始祖ジョージ・フォックス…。

>かれにはこう思われるのだ -- 「アウトサイダー」であるということは、「現世」の腐敗と迷妄を見ぬいて、この不幸な状態から脱出する還り道はありえない、ただ前進あるのみと悟ることのできる立場にいるということにほかならない。つまり、世間の人たちに向かって、あらんかぎりの大声で、世界は腐敗と迷妄のかたまりであり、あえていうならば、地獄に落ちているも同然なのだと機会あるごとに叫ぶもの、それが「アウトサイダー」なのだとかれは感じはじめたのである。<(p.233)

JRF2025/10/191734

ただ、フォックスも、後に現実に強く制約されるようになった。ネイラーという片腕ともいうべき弟子を「見捨てた」ことが批判されている。現実にかかわれば、そうなるのだとエクスキューズしながら。

ここで「現世が地獄である」というのは、上で私が「神の国」の考察のところで語ったことに似ている。

JRF2025/10/190276

……。

ウィリアム・ブレイク…

>自己表現が否定された場合には、エネルギーは犯罪か暴力にはけ口を見つけるということである。自己表現が危険に瀕したときには道徳を度外視してもかまわぬという態度が、ブレークの作品にはしばしば見られる -- 「満たされぬ欲望をいだいているくらいなら、むしろ揺り籠の幼児を殺せ。」<(p.253)

JRF2025/10/198250

>ブレークは、後世のショーと同様に、いつの日にか「想像の人」が決然と立って、世界を住みにくい場所と化せしめている実際的な心の人びとの血を流すことが必要となる日がくるという考えをいだいていた。<(p.262)

もちろん、悪徳のススメではないのだが。最近ネットで話題になった臨済宗などの禅で魔境をしりぞけるのに「仏に会っては仏を殺せ」というのに似てるのかな…とチラと思う。「芸のためなら女房も泣かす」(浪花恋しぐれ)を社会に対してやる意気込みな感じかな。

JRF2025/10/190055

……。

ブレイクは、人間を肉体・心情・智能に区分し、それをタルマス、ルーヴァ、ウリゼンと呼んだ。それに加えて想像力または救世主キリストを表す第四要素ロスを創造した。しかし、このロスも人間の内面の半面でしかなくもう半面には「妖怪[スペクター]」がいる。

>「妖怪」は人間の死んだ部分、意識の部分であり、それを人は自分だと思いこんでいる。個性とか習慣、いや、自分の本体そのものであると感ちがいしている。<(p.265)

JRF2025/10/198473

>ここまでくると、ブレークがどの程度まで「アウトサイダー」の問題を解決したかがわかりかけてくる。この本に登場するすべての「アウトサイダー」の謎を解く共通の合鍵を提供してくれるものは、いまのところ、独特の用語をもったブレークの体系しかない。ムルソー、ロレンス、クレブス、ストロード、オリヴァー・ゴーントレットなど、すべてこれらの「アウトサイダー」は「妖怪に支配され」、自我に絞めつけられていながら、自分の無気力を世界の無気力と感ちがいしている。「妖怪」の標識は「非現実」にほかならぬ。<(p.265)

JRF2025/10/198264

自分の無気力を世界の無気力と勘違いするのは、世界を結局のところ知ろうとしていないこと、知れないと思っていることがあるからではないか。

ちょっとネットでよく言われるダニング=クルーガー効果を思い出す。アウトサイダーは「全部わかった」に当初なりやすいが、もちろん、そんなわけはない。そこで見えているのは「非現実」だ。そうではなく「チョットわかる」自分で少しずつ改善する形で世の中と関わっていかなければならない。…ということではないか。結局。

JRF2025/10/192972

「チョットわかる」という人をほんとに大したことがない人と考えてしまうところから抜け出すことが求められる。そして、抜け出したあとと、「全部わかる」の前(初期位置)では、ともに、自分の小ささを思い知ることになる。「全部わかる」の前にとどまるなら、自分の無気力を世界の無気力と勘違いしている…ということではないか。

JRF2025/10/198272

……。

>たとえ悪が必要であるにしても、悪はあくまでも悪であり、不調和であり、苦しみである。どこまで行っても、それは実存的な事実であって、正しい光のもとにおけば別のものになるといった代物ではない。この状況は二つの軍勢が敵対している状態にたとえることができるが、ヘーゲル的な見解によると、なにも敵対する理由はないのだと双方にわければ、講話が成立するだろう -- つまり、実際のところ両軍は身方同士なのだ、というわけである。ところがブレークは、反目と不和は必要であり、それを解消するためには、どちらかの側が相手を完膚なきまでに叩きのめしてしまわねばならぬと見ている。<(p.265)

JRF2025/10/190944

ヘーゲルの弁証法はそういうことではないよ。

『宗教学雑考集』《コンピュータ定理証明における弁証法 - 私が作りたいシステム》
>記号論理においては矛盾があれば、それで終りであるが、記号論理において弁証法をムリヤリあてはめるとすると、それは矛盾を解消するための理論の再構築を意味するだろう。(もちろん、これは哲学者的な「弁証法」理解とはかなり違う。)

JRF2025/10/190063

高階論理の立場から私は最も単純に弁証法とは矛盾などの解消のため理論のパラメータを一つ足す行為に相当すると考える。《Pure Type System》などの高階論理の立場では公理を足すのもパラメータを足すのとほぼ同じことなので、これだけで私の言いたいことは言い得ていると思う。

パラメータを一つ足すと言えば簡単に聞こえるかもしれないが、その影響は測りしれない。足された定理だけでなくその理論やそれに続く理論すべてに影響が及ぶことがあるのである。これは、憲法を少し変えただけでたくさんの法令・システムを変えねばならないのに似ている。

JRF2025/10/194295

黙示録的世界観もいい、革命もときにはいいが、個人の成長にそれを適用するのは害のほうが大きいように思う。自分の極端さ・一時の行き過ぎを肯定してしまうだけだ。

もちろん、負を経験しなきゃいけないこと、失敗しなきゃわからないことというのは世の中には多い。経験しないで済む頭のいい人もいるのだろうが、多くの場合、私は経験しなければわからなかった。

かつて書いた。

JRF2025/10/198896

>>
○ 2023-01-15T20:34:43Z

まぁ、人間、いちいち間違っていかないと身につかないのも真理だけどね。でも、放っとけばどこかで間違うのであってそれに敏感でさえあればいい。無理に終末を引き寄せるようなことは元来必要ない…と私は思っている。敏感であるには反省の余裕が必要かな…と、自堕落な生活を肯定してみる。(^^;
<<

JRF2025/10/195787

>>
○ 2025-05-07T09:30:32Z

「投票に行け」といって行ったからリベラルが困った。…みたいなのもポジショントークでどう評価すべきかわからない。ただ、投票に行ったうえで後悔することはいいことなんだよ。失敗しなきゃ人は学べない。選んで投票する人はみんな何がしかの後悔を経ている。そうやって学んでる。

ポジショントークでわからないというのは、リベラルが投票に行けというのは間違っていたからリベラルな君は従うな…という意味もあるし、リベラルばっかでぇ…でも我々と同じあなたがたは違うから、あなたは投票に行ってね…という意味もある。
<<

JRF2025/10/196014

Gemini:>ウィルソンがブレイクを通じて伝えようとしたのは、「自分の極端さ・一時の行き過ぎを肯定してしまうこと」ではなく、「偽りの平和や妥協を拒否し、生のエネルギーと悪の不調和を直視する」という、実存的な誠実さです。この誠実さをもって「失敗」や「極端さ」を能動的に「経験」し、そこから学ぶ意志こそが、アウトサイダーを悲劇から救い、「二度生まれの者」へと導く鍵なのです。<

JRF2025/10/198714

……。

>ここでブレークの主張を要約してみよう。すべての人は「ヴィジョンを見る能力」をもつべきである。しかしまちがった生きかたをしているため、それができない。人は「稼いでは費う」緊張した生活で精いっぱいなのだ。しかし、ヴィジョンを見る能力が欠けているのは、本人のせいだとはいいきれない。ある程度それは、周囲の世界のせいでもある。生存をつづけるために「稼いでは費う」ことに相当の時間をふり向けるのを余儀なくさせる世界にも一半の責任がある。

JRF2025/10/194349

ヴィジョンを見る力は、だれかれの別なく自然に訪れる。くつろいだ状態にある人びとにとっては、世界にあるどの樹の一枚の葉も、一点の埃も、その一つ一つが、限りない悦びを感じさせる別個の世界となる。この悦びがもし感じられぬとしたら、それは、くだらぬことに時間とエネルギーをつかいはたした本人のせいである。辛うじて生きていかれるだけの金と食をえることだけに心をもちい、「あすのことは思いわずらわぬ」瞑想詩人、あるいは「賢者」こそ理想の人であり、このような考えかたは、西洋人よりも東洋人の心になじみやすい。
<(p.268-269)

JRF2025/10/198772

ヴィジョンとは事物を「無限にして神聖」なるものと見ることのようだ。

人はこのヴィジョンを見る能力を失って生まれてくる。それを日々の生活で失っったままでいるのが「堕罪」であり、それこそが「原罪」なのだとまでウィルソンさんはいう。

JRF2025/10/197044

(ギリシャ)正教の「原罪」は、人が神のイコンを失っていることだった。それと少し似ている。ただ、正教は人にヴィジョンが失われているのであって、人がヴィジョンを失っているとは説かないのだが。まぁ、しかし、人が他者を見るときそこに見るべき神のヴィジョンを失っている…とは言えるのかもしれない。

Gemini:>ウィルソンにとってのヴィジョンとは、事物を「無限にして神聖なるもの」と見ること、すなわち「意識の永続的な高揚」の境地です。<

JRF2025/10/192969

……。

>原註・「大異端者」ペラギウスは、聖アウグスティヌスの教えた原罪説を否定し、次のように書いた -- 「善事も悪事も、すべては人間の行為であって、生来のものではない。……生まれながらの徳も、生まれながらの悪もなく、人間個々の〈意思〉の働きのまえには、神が人間のうちに蓄え給うたもの以外になにもない。」<(p.277)

JRF2025/10/193818

有名なペラギウス論争。自由意志の存在をペラギウスが主張して異端とされたことになっている。それがこの部分なのか。論争は↓(または『宗教学雑考集』《自由意思と神の恩寵》)で取り上げている。

《自由意思と神の恩寵 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF2025/10/194718

……。

ラーマクリシュナは自殺を試みるに致ったとき、逆に悟った。最近ネットでは自殺しようとした人がその瞬間どうしても生きたいと思った…という話をしていた。それを超えて自殺した人はどれだけ苦しんだのだろうか…と。

>ラーマクリシュナの心におこったことの真相は、死の脅威によって、眠っていた「意思」が喚びさまされ、それ以後の仕事はすべて「意思」によってなされたということだ。この点を理解しそこなってはならない。「アウトサイダー」究極の救済は、まさにこの点を理解するか否かにかかっている。

JRF2025/10/199446

聖書のなかで預言者や聖者がヴィジョンを見るくだりを読むと、われわれは、ヴィジョンがこれらの人びとにあらわれたのだと考えがちであるが、実際はむしろ聖者がヴィジョンのまえにあらわれたというほうが正しい。もしヴィジョンが単に自然発生的におこる事件であるならば、ヴィジョンの可能性を疑う近代懐疑精神の態度は尤もであるといわねばなるまい。だが、ヴィジョンはそんなものではない。「意思」によってなにかをおこさせること、その一例がヴィジョンなのだ。西洋人の思考法は、ともすれば「意思」を静止させる。
<(p.284)

JRF2025/10/192562

私が統合失調症になったときのことを思い出す。それは他の人はそうでないらしいのだが、私の場合、躁鬱の躁状態から妄想状態に移行することが多い。そのとき、「ヴィジョン」を待っていても得られず、自分の意志である程度「迎えに行く」ことが必要になる。しばらくすると、迎えに行く必要もなくなるのだが。

精神病になろうとするのではない。奇跡が自分だけでなく社会に・宇宙に必要だと信じるからこそ「迎えに行って」しまうのだ。そのとき「いまだ」奇跡が起こっているわけでないが「すでに」妄想状態には入っているということだろう。

JRF2025/10/197704

……。

>人はみな眠っている。これはグールドジェフが繰り返し強調している点である。なんとしても、早急に眼ざめねばならなうことを人間に痛感させる必要があるのだ。<(p.300)

グルジェフの名は、三浦俊彦さんの関連または科学哲学に関して聞いたことがある。実際その名に言及しているのは↓である。

JRF2025/10/194839

《眠り姫問題のプログラム - JRF のソフトウェア Tips》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2017/02/post-1.html
>>「眠り姫問題」は意志決定問題と人間原理という二つの分野で共通のテーマセッターとなっている有名な難問なのだそうだ。三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』によると、次のような問題である。

JRF2025/10/199861


日曜日に、ある実験が始められる。まず、あなたは眠らされる。そのあとフェアなコインが投げられ、表か裏かによって、次の二つの措置が選ばれる。

場合A■表が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。

場合B■裏が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、火曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。眠りは記憶を消すほど深いので、目覚めたとき月曜か火曜かはわからない。

JRF2025/10/196673

いずれの場合もあなたは、実験の手続きについてはすべてわかっているものとする。目覚めたときに自分が月曜にいるか火曜にいるか、そしてコインは表だったのか裏だったのかがわからないだけである。

ちなみにコイン投げがなされるタイミングについては融通が利く。コイン投げは、あなたが最初に起こされる前でも、月曜にあなたが目覚めた後でも、問題の論理構造は変化しない。

JRF2025/10/198881

さて、あなたへのインタビューは次のようなものである。

問1■「いまは日曜日、実験開始直前である。場合 A である確率は?」

問2■「さあ、あなたは目覚めた。場合 A である確率は?」

問3■「さあ、あなたは目覚めた。今は月曜日である。場合 A である確率は?」

(p.235-236)

JRF2025/10/194336

このうち問2と問3が「眠り姫問題」であるという。この答えには、二つの流派がある。問2 の答えに 1/2 と答える派と、1/3 と答える派である。

(…)

上掲書に載っている「グルジェフ版眠り姫問題」は「眠り姫問題」を次のように変えた問題である。

JRF2025/10/197901


日曜日に、ある実験が始められる。まず、あなたは眠らされる。そのあとフェアなコインが投げられ、表か裏かによって、次の二つの措置が選ばれる。

場合 A■表が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。

JRF2025/10/198554

場合 B■裏が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、t 秒後にもう一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。二度の覚醒の間の眠りは記憶を消すほど深いので、目指めたとき一度目か二度目かは教えられないとわからない。

JRF2025/10/199615

ここで、場合 B の t 秒後の間隔はまちまちで、二千秒のこともあれば一万秒のこともあり、十秒のこともあれば四秒のこともあるとしよう。そして特殊な場合として t = 0、つまり二つの覚醒が完全に重なっている場合もあるものとする。そのときは二倍の覚醒状態を経験させられる。一度の覚醒がランプの点灯に喩えられるとして、いっぺんに二回分の点灯を行なう、つまり二倍の明るさで点灯するのと同じように、二倍の明晰度で覚醒する、ということである。

JRF2025/10/191095

今、あなたはこの実験で目醒めた、場合 A である確率は?
(p.244-245)


この t = 0 の場合が、「グルジェフ版眠り姫問題」のようだ。
<<

JRF2025/10/191590

Gemini:>「眠り姫問題」が確率論的解釈(1/2 vs 1/3)に分かれるのに対し、グルジェフの教えは、「確率」の問題を「実存的な選択」の問題へと転換します。 「眠っている」人間にとって、コインが表か裏か、自分が月曜か火曜かという確率は重要ではありません。重要なのは、その「眠り」という状態から、どれだけの「意志」をもって「覚醒」の側に立つか、という一点です。<

JRF2025/10/196412

……。

>「アウトサイダー」の問題は、つまるところ、「悲観的」と呼ぶことのできる世界観(…)に帰着するが、この悲観論が正当なものであることは、わたしの主張してきたところである。この悲観論を採るかぎり、「人間は、死んだ自己を踏み石として、より高きものへと向上する」というようなヒューマニズムの理想はしりぞけられ、哲学者が自分を知らぬかぎり、いくら世界を知ろうと努めても無意味であるという哲学への批判が成立する。悲観主義の立場は、「客観哲学」という理想を築きあげるのは、単なる思想家ではなく、思想家と詩人と行動者を自分のうちに結集した人びとであると主張する。

JRF2025/10/191203

哲学の発すべき第一問は、「宇宙とはいかなるものか?」ではなくして、「われわれは各自の人生をいかにすべきか?」という問いでなければならない。つまり、哲学の目標は、論理的に筋のとおった「体系」ではなく、個人の救済なのである。さてそこで、わたしはこの信条があまねく宗教的であることを主張する。それが聖アウグスティヌスの信条であろうと、あるいはバーナード・ショーに見られる立場であろうと、それが宗教的信条であることにかわりはない。ともかく、このことを指摘するのが本書におけるわたしの重要な目的であった。
<(p.308)

JRF2025/10/199633

「自分の問題」を解決できない思想に意味はるのか?…と。まぁ、そう言われればそうかもしれない。『宗教学雑考集』を書きながら、私は結局、稼ぐことができていない。Gemini さんには哲学で稼ごうなんて無謀すぎるみたいに言われる始末だ。

ウィルソンさんが、宗教に意味を見出すのは、そこに「働かない」階層を支える仕組みがあるということかもしれない。私は、中沢新一さんのチベット仏教の解説を読んだとき([cocolog:95634030](2025年9月))、「空を尊重するのは、働かないのをエラいと思えるため」と喝破してしまった。もちろん、そんな単純な話ではないのだが。

JRF2025/10/192315

ただ、それはそれとして、「自分の問題」にこだわるのは、それは真理への接近ではないという立場は一方であるのだと思う。諸法無我の方向だ。

JRF2025/10/198720

『宗教学雑考集』《諸法無我》
>仏教には「諸法無我」の思想がある。しかしこれも「我思う」ときの思う「何か」が有ることは否定できない。それがアートマン(真我)を否定しながらも転生などを認めることにつながったのだろう。バラモン教におけるアートマンは、デカルトを逆転したかのように、先に常住不滅の真我があると柱を立て、その柱の反映として個々の我があるように見なす。仏教はそれは否定した。

JRF2025/10/196675

拙著『「シミュレーション仏教」の試み』(第2章(シミュ仏))のシミュレーションを作ったとき、仕様を作るときは「自分」であることは何かとても大事なことのように思うのに、問題を解いてプログラムを作ってみると、案外「自分」はいらないことに気付いた。確かに、プログラム用語として、self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。

JRF2025/10/197581

我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…(我がとらえている)世界に我の必要なくせしめよ…そこまで世界を「理解」せよ…とは言えるのかもしれない。「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができる。

ただ、「諸法無我」であったとしても、宗教は、宗教である以上、因果応報はある程度説かねばならない。応報の対象となる「我」はなければならない。

JRF2025/10/199799

「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」を仏教の「本目的三条件」と私は呼ぶが…。

JRF2025/10/192743

『宗教学雑考集』《法印》
>「諸法無我」については上で語った。それに関連して、プログラミングしていく上で、「自己の探求がよい」は、そのままでは実装しにくく、「自己」を落として、「思考と思念を深めるのがよい」とあらためた。(社会的にも)「生きなければならない」があれば、いろいろただ思考を深めるより自己に対する思考を深めたほうが有利であろうから、落としても問題ないと考えた。<

JRF2025/10/191822

Gemini:>「諸法無我」が「世界の実相」を追求し、「個人の救済」が「自己の生の意味」を追求する、この二つの目標は、究極的には「自己の意識を真理へと合致させる」という一点で交差します。ウィルソンは、その交差点に至るための「エネルギー」と「意志」を、悲劇的なアウトサイダーの記録から引き出そうとしたのです。<

JRF2025/10/191092

……。

>新しい反ヒューマニズムの時代は、ブレーク、ニーチェ、ドストエフスキー、ショーといった人びとの厳格な探究の結果として誕生するのである。ヒューマニズムとは、精神的な怠惰の別名にすぎない。つまり、数学や物理学の世界を相手にすることに没頭するあまり、宗教の範疇については頭を悩まそうとしない科学者や論理学者の採用する曖昧な、生半可な信条、それがヒューマニズムなのである。

JRF2025/10/197147

この種の人びとにとっては、宗教範疇の輪郭およびその派生物を明瞭にし、捉えやすいものとすることだけが必要なのであって、ルネサンスからもちこされたあらゆるがらくたをよりわけることをかれらに期待するのは無理なのだ、。この点を憂慮したからこそ、宗教的な問題に深い関心をよせる人びとは、鶴嘴[つるはし]とシャベルをつかって発掘の仕事を始めたのである。
<(p.311)

JRF2025/10/195366

ここでいう「ヒューマニズム」への反感は、啓蒙主義やリベラルのポリコレみたいなものへの現代の反感を軌を一にしているのかもしれない。昔は宗教への攻撃者として科学者が槍玉に上がったが、コンピュータを日常的に使い科学への攻撃が難しくなった現代では、アウトサイダーの若者が、攻める方向を変えているのだろう。デフレと少子化で、そういう若者がまだモラトリアムの中にいて、オタク趣味に興じ、まだ、アウトサイダーの本当の問題にぶちあたっていない…ということかもしれないが。私も含め。

JRF2025/10/192320

……。

>自己保全の本能が内面拡大の苦しみに反抗し、精神的な怠惰へ趨[はし]りがちな衝動が、ことあるごとに波のような眠りに高まってくるのをものともせずに、自分の眼で見、自分の手で触れる体験の量を限定しまいと意識的に努め、存在の敏感な部分を、それに傷を与えるかもしれない対象にさらけだし、あくまでも全体としてものを見るべく苦闘すること、それが個人に課せられた問題である。個人は、この永い努力を「アウトサイダー」として、始める。そして、聖者としてなしおえるかもしれない。<(p.313)

JRF2025/10/191937

上で「人間、いちいち間違っていかないと身につかないのも真理だけどね。でも、放っとけばどこかで間違うのであってそれに敏感でさえあればいい。無理に終末を引き寄せるようなことは元来必要ない」と書いたことに近いかな…と思う。ウィルソンさんは、もっと苦しめ、かわいいい子には旅させよ…の精神かもしれないが。

SNS は「失敗」が残りやすく広まりやすく、今は大変な時代ではあるけれども。

JRF2025/10/194502

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