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cocolog:95701488

佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教 - 仏・法・僧から問い直す』を読んだ。入門を脱した初級者向け仏教概説書。それぐらいのレベルの私には思考の整理に大変役立った。 (JRF 6919)

JRF 2025年10月31日 (金)

『ごまかさない仏教 - 仏・法・僧から問い直す』(佐々木 閑 & 宮崎 哲弥 著, 新潮選書, 2017年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5HLC4MX
https://7net.omni7.jp/detail/1106821441

中級者向け仏教概説書…かな? 「中級者」が言い過ぎだとしたら、入門を脱した初級者向けといったところ。本で使われる表現等はやや難しい。それぐらいのレベルの私には思考の整理に大変役立った。

JRF2025/10/310750

佐々木閑さんの本は、佐々木閑『大乗仏教 - ブッダの教えはどこへ向かうのか』を [cocolog:95366963](2025年4月)を前に読んでいる。それは清水俊史さんが紹介していて読んだのだった。

今回の『ごまかさない仏教』もどなたかが紹介されていて知ったのだったが、もう遠い昔のことなので誰の紹介かは失念してしまった。 orz

JRF2025/10/311010

宮崎さんも芸能人的に有名な方だが、学者としても優れているようで、その確かな文献引用等には舌を巻く。もちろん、佐々木さんは普通に学者なので、その論調は格式がある。私はこのような浩瀚な知識を元にした論陣は組めない。読んですぐに本の内容なんかは忘れてしまうから。もう若くないしね。

JRF2025/10/317774

とはいえ、[cocolog:95485474](2025年6月) にも書いたが、学者は「原典」を大事にするのが性分だが、私はむしろシミュレーションも含めた真実性に依拠することが多い。私には浩瀚な知識がないのでそうするしかないという面も大きいが、こと仏教に関してはそれもまた仏教らしい方法ではないかと考えている。しかし、やはりそれでは他の人に読んでもらうのには足りないのだな…と思う。真実性も十分でないというのもあるだろう。

私は↓という、なんちゃって哲学書を書いて仏教も大きく取り上げたが、まったく他者に読まれている様子はない。orz

JRF2025/10/317251

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/10/313590

……。

今回の読書は、知識的な部分は、いずれ再読が必要だろうと感じ、再読に期す形で、あまりここには多く引用しない。ただ、近時、私は、中沢新一さんのチベット仏教の解説を読んだとき([cocolog:95634030](2025年9月))で、「空を尊重するのは、働かないのをエラいと思えるため」と喝破してしまった。そこから、仏性とか如来蔵とかの議論([cocolog:95663845](2025年10月))にそれを応用したりしていたのだが、そこから敷衍して次のようなことを考えた。

JRF2025/10/318798

>>
○ 2025-10-30T06:45:57Z

「働かないこと」が「空」であるのは、「空腹」もそうだ。空腹に耐えて修行できるようになるということもそうだ。ただ、現代、働かないと空腹で過ごさねばならぬ…という法はまずない。食うことよりも学ぶことを優先するというのも微妙に違う。食うのは生活の一部であり、丁寧に生活するのも修行であるという禅宗のような見方もあるからだ。ちゃんと生活しているから学ぶ余裕がある・学んで身につくということもある。

JRF2025/10/319881

現代で、「空腹」を是とするというのは、単に、食うことを重んじてあくせくしない…そういう明日を恐れるようなことはしないぐらいの意味であろう。教えが途切れる心配もあるから、明日をおもんばかるのも多少はいいのかもしれないが、基本的には、阿字信仰(参: 拙著『宗教学雑考集 第1.0版』《日本の創造》)などを考えると、身が残らずとも本など教えのみが残ればそれもよしとするのが、仏教の究極の考え方なのかもしれない。

JRF2025/10/312263

「働かないこと」が「空」であるというのは、労働しないことを是とする、そうなるように空が是という理論は組み上がってもいる…というのが第一義(参: [cocolog:95634030](2025年9月))だが、「空」という真理が周りに「働き」かけるものではないという意味もあろう。それはそれとして…という話である。
<<

JRF2025/10/314720

このような空への関心と「働かない」で暮らすためには布施が必要なことから、空と布施を中心とした部分については、この本から引用することにする。なお、布施については、清水俊史『お布施のからくり』([cocolog:95485474](2025年6月))の影響下にもあることは付記しておく。

JRF2025/10/315667

……。

では、引用しながらコメントしていく。Kindle 版で読んだので紙の本とはページ数が異なるかもしれない。

JRF2025/10/314020

……。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の引用から本書ははじまる。

>「心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。(…)」

いささか取って付けたような意味付けになってしまうが、それを承知であえていえば、本書はこの記述の正しさを証拠立てるものである。伝統的な経典や論書と照合し、最新の文献学や教理学を通じて。

JRF2025/10/319645

ハラリはイスラエルの歴史学者であり、中世史、軍事史の専門家である。そういう分野で考究を積み重ねてきた学者が、どうしてかような、かなり正統な仏教理解に達したのかわからない。そこはわからないが、この人が仏教の“芯”を掴んでいることだけは推せる。
<(p.3)

JRF2025/10/317454

一昔前の仏教入門書であれば、ここでは「渇愛」という言葉を使わず、「執着」という言葉を使ったのではないか。そのほうがわかりやすい。仏教学では「執着」と「渇愛」は別で、「渇愛」のほうが最近の仏教学用語としては正しいのかもしれないが、常識的には「渇愛」にはやや性的意味あいが取られてしまう。「執着」は人口に膾炙して意味が仏教学と離れているかもしれないが、受け容れやすい言葉だと思う。

JRF2025/10/312953

Gemini:> 本書がタイトルに掲げる「ごまかさない」という姿勢は、「わかりやすさ」のために教えの核心を曖昧にすることを避けるという宣言でもあります。一般受けする「執着」ではなく、教義上より正確で、人間の本能的な欲求の根深さを直接的に表す「渇愛」を用いることで、読者に対して「仏教の根源」をそのまま提示しようという、著者たちの「厳密性への執着(?)」が反映されているのかもしれませんね。

JRF2025/10/313076

……。

>佐々木 もともとインドには「福田思想」といって、良い人にお布施をすれば悪い人にお布施するよりもリターンが大きいという考え方がある。そうすると、仏教の僧侶というのはいろいろな執着を捨て去って非常に立派な生活をしている人たちだ、だからお布施の甲斐があるんだ、ということになる。その場合、布施する側はどんなリターンを望んでもいいわけで、たとえば来世でお金持ちになりたいとか、執着丸出しのどろどろの希望を持っていたとしても、それが叶うということになっている。

JRF2025/10/317497

もちろん、布施をすれば来世ではあなたもお坊さんになって悟れますよ、という方がきれいだけど、やっぱりそんなきれい事だけでは済まなくて、仏教にはいろんな人のいろんな欲望を引き受ける存在でもあった。釈迦はそんなふうにサンガを設計したんだと思います。

JRF2025/10/313015

宮崎 在家者や異教徒には、仏教を受け容れやすくするため初っ端は生天などを説く。そうして相手の反応や理解の度合を確かめながら、徐々に仏教独自の高度な教義に進んでいく。これが次第説法、パーリ語でアヌプッビカターですね。このとき、布施を行うことと五戒を守ることを並説した。そして「施論、戒論、生天論」がパッケージで伝授された。
<(p.80-81)

JRF2025/10/311768

在家者には涅槃ではなく、輪廻が続く天に転生できるようになると布施をすすめた。その布施のおかげでサンガ=僧団が維持できるようになった。仏教は教えの継続のため個人の修行よりもサンガを必要としたが、そこには布施が必要で、布施のためには輪廻と生天を信じている…すくなくともその体裁を保つ必要があった。そして、それが社会に対する貢献となるのは、そこに戒を説き、戒を守らせるから、実際、社会がよくなるからで、それが業報輪廻的にこの世を天に近付けていった。僧は戒があるから、欲を滅し涅槃に致れるし、人々の模範にもなれる。施論・戒論・生天論がパッケージになるゆえんである。…と。

JRF2025/10/317215

……。

>佐々木 (…)ところで、釈迦は業や輪廻を説かなかったと主張する学者もいますが、そうなるとこの「施論、戒論、生天論」というものが意味をなさなくなります。輪廻があってはじめて生天という現象が可能になるのですから、もし釈迦が輪廻を説かなかったのなら、生天論も説いたはずがありません。だとすると、在家信者にアピールするセールスポイントがなくなってしまいます。そんな状態で仏教サンガが維持できたはずがありません。こういった現実的側面から見ても、釈迦が業や輪廻を説かなかったなどという主張は理が通りません。<(p.82)

JRF2025/10/318092

確か Twitter (X) で「邪見」を説明している方がいた。その説明はもう見つからないが、Wikipedia には載っている。

JRF2025/10/318339

《見 (仏教) - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

JRF2025/10/311929

>比丘たちよ。邪見とは何か。 布施〔に果報〕はなく、大規模な献供〔に果報〕はなく、小規模な献供〔に果報〕はない。善悪の業に果報はない。今世は存在せず、他世(=来世)は存在しない。母〔への果報〕はなく、父〔への果報〕はない。化生の衆生はない。 この世において、正しい道を歩み、正しく行じ、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモンは存在しないという、比丘たちよ、これが邪見である。

—パーリ仏典, 中部大四十経, Sri Lanka Tripitaka Project

JRF2025/10/318452

ここで「布施に果報はない」とあるが、これは果報の問題でなく「布施がありえない」…宗教をはじめたところで布施がいつまでたってももらえない…というのが邪見であるという意味もあるのではないか。

この本にも説明があるが、布施がもらえるところでのみサンガは成立できたため、都市周辺がその舞台であることが多かったらしい。都市ほど大きければ、布施をあげたくなるような人々も一定数いるのであろう。

JRF2025/10/311992

そこに説くのに、輪廻がわかりやすかった。…ということであろう。布施できるほど恵まれて、なお足りないと感じるには、「迷信」の力が重要なのであろう。一生涯を超えた業報を説くことで、平和に導く力が必要だったのだろう。

JRF2025/10/319184

…… 。

>宮崎 (…) 縁起説を前提とするならば、本当に成仏を得道し、悟りを完成するのは、「自己」においてではならぬはずなのです。論理的に、悟りは個では完結できない。なぜなら、その自己は、その個は「種々様々な条件によって条件づけられて」仮に存立しているものに過ぎず、他者との関係性において仮に「ある」かにみえるものだから、その真相を如実に知見することこそが悟道であるのだから、「この私」という存在が他を前提とし、他との関係において生じるものである以上、悟りが訪れ、住するのは自己とか他者とかの個ではなく、世界でなければならない。そうして自も他も、世界も終わらせることができる。

JRF2025/10/319869

梵天勧請における釈迦の転回とは何か、と問われるならば、その本質は「悟りの未完」と答えます。そして釈迦の悟りは「初転法輪」、そして爾後四十五年の伝道によってさらなる展開を遂げた。

いささか大乗的に偏向した解釈かもしれませんが、私はそう思っています。
<(p.91)

JRF2025/10/312804

見事な解釈だと思う。ブッダがその世に一人というのもこれで説明できるのかもしれない。まぁ、複数人が同時にブッダになる…でも問題はないと私はしたいが。

「社会の悟り」については過去↓のようなことを私は書いた。

『宗教学雑考集』《コラム 来世なんてない》
>「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底・または仏教が参考にした外道にはあるのではないか。

JRF2025/10/311399

(…)

「来世がなくても良い」…個人が来世がなくても大丈夫となるあり方の道程に、「来世なんてない」があっても社会を成り立たせるのに導く方策が隠れているはずである。私は、それはより具体的には「生きなければならない」と「自己の探求が良い」を命令的前提とするのがその方策だと考える。

JRF2025/10/316182

(…)

「来世がないほうが良い」には、社会的に来世が信じられなくても良い社会になるべきという理想も含まれており、来世を信じなくても荒れない今の社会は、仏教の理想とするところに近いのかもしれない。

「来世がないほうが良い」は単に来世が信じられている状況で、個人に来世がなくなる…だけでなく、社会で来世がないと信じられている場合でも、問題がないようにすることが求められるのであろう。

JRF2025/10/318532

……。

>宮崎 (…) 上田昇[3]氏は京都大学の理学部数学専攻。上田氏の仏教論理学に関する論文などは非常に緻密で、数学専攻らしさがよく表れています。<(p.122)

かつて記号論理学を学んでいた私は大変興味ある。が、Amazon で調べるとその著書『デイグナーガ論理学とアポーハ論』(古書)はむちゃむちゃ高い! 4万円以上する。手に入らないか… orz。

「因明」とか、論理学しようとして失敗したことが前にあった(↓)。

JRF2025/10/312919

[cocolog:93262667](2022年1月)
>仏教的因明的導出を可能にする様相一階述語論理を考えていたら、キリスト教の三位一体を否定する結果が導き出せてしまって驚いたが、さらによく検討したところ導出におかしいところがあってホッとした。<

JRF2025/10/314043

……。

空と無明に関する議論。

JRF2025/10/310254

>宮崎 (…) やはり「無明」が始点にして終点なのです。そして龍樹の徒としていわせてもらえば、「大智度論」第九十巻にあるように「若し無明の因縁を、更に其の本を求むれば則ち無窮にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。是の故に求むべからず。若し更に求めなば則ち戯論に堕せん。是れ仏法に非ず[21]」なのです。

JRF2025/10/311025

「生存欲」と「無知」は相互依存の関係にあり、どちらが根本原因かは確定できないし、その関係は無限循環となるので「無始無終」です。それ以上、時間的に遡ることはできない。そうすべきでもない。さらに“本”を求めれば戯論に堕し、涅槃への道を見失ってしまうから。だから「無明」を滅ぼせば、「有」「生」「老死」まで確実に滅ぼすことができるのだ、と私ならあっさり論争を打ち切りますが (笑)。
<(p.139)

JRF2025/10/314084

これを私の「働かないこと=空」論に寄せて考える。

「働かない」=空を突き詰めても生存欲は残らねばならない。それが残らなくできるというのは戯論。かといって「働かない」が成り立たない、すなわち「布施がありえない」ときめては涅槃がない。無明を滅ぼすとは両者がない苦を滅せると知ること。しかしそのこと自体は「働き」なのか。働きではないというのが龍樹なのだろう。在家的生的意味があるんだ(そこに修行者(の有を根拠にした輪廻)が必要)というのが佐々木さんの論で、それはなくていいんだというのが龍樹=宮崎さんの論なのだろう。

JRF2025/10/313298

なくていいと言った場合、それは個人の中でもそうなのだ。個人の中に何もない空的なところから、確かに我々は影響を受けれて、それは涅槃に向かっている。その涅槃にその空的なものが実際有るようでなければならないということもなく、我々自身が涅槃にいるということも必要ない。そこに悟らぬ菩薩からなる教団であるところの大乗仏教性があるのだろう。

JRF2025/10/319405

Gemini:> 重要なのは、原因を突き詰めることではなく、その連鎖の「無明」を滅ぼすという実践から入ること。そうすれば結果的に「有」「生」「老死」も滅ぼすことができる。これは、真理探求を論理的な厳密さで追い詰めた結果、「これ以上は言葉で論じても意味がない」と喝破し、実践への回帰を促す、龍樹らしい徹底した姿勢です。

JRF2025/10/312662

……。

佐々木さんの修行者の有の輪廻を前提としているという私の理解は、↓から来ている。基本的に「捨て扶持」で生きる階層として僧はでき、経済に関係がないよう鬼神に関することを扱うようになったと私はするのだが、その上で…。

『宗教学雑考集』《コラム 「捨て扶持」理論》
>釈尊は、必ずしも葬儀や儀礼などで僧を支えてもらうようにしなかったそうだが、後にそういう支え方になったのは上のような理路があったからではないか。

ただ、釈尊が、そういう道を取ろうとしなかったのは、一方で、僧がやってることが単なる「捨て扶持」を超えて、僧には生産性があるという考えもあったからではないか。

JRF2025/10/310633

仏教は「生産的」であるというのが、原始仏教の出発点なのかもしれない。そこでは施論・戒論・生天論のような、社会の秩序を守るという生産的役割りがある。それが有の輪廻となって社会に実装されているということだ。

大乗はそれを引き継いで、生産的=社会に必要だからという理由で、妻帯までするようになったというのが、『宗教学雑考集』のその後の論なのだが、そこは、本当の「サンガ」自体が必ずしも必要ない…そこは「空」で良いという洞察もあったのかもしれない。サンガが理想的になり過ぎた側面もあったか。

JRF2025/10/311187

……。

>佐々木 (…) 学生のころ、梶山雄一先生から「大乗の本質は空であり、それは廻向を可能にする新しい思想の導入なんだ」と何遍も聞かされました。今になってみると、とてもポイントを突いていると思いますね。<(p.208)

上の論を続けると、龍樹=宮崎的発想は、空に布施ができると考えること、つまり、布施が有体の輪廻を必要としないと考えることとなる。そこに無体の布施である廻向がありうる…ということだろうか?

JRF2025/10/317692

Gemini:>功徳を積んだ「私」という個体に実体(自性)はない(空)。施された財や、積まれた功徳そのものにも実体はない(空)。功徳に実体がない(空)からこそ、その功徳は「個人の所有物」として固着せず、自在に他者へ向け変える(廻向)ことが可能になります。廻向とは、有体の輪廻や個人の実体を必要としない、空の論理によって可能になった「無体の布施」の行為と言えます。<

JRF2025/10/318005

回向については↓で書いている。あまり今回の文脈に関係ないが、今回の最後なので載せておこう。あんまり『宗教学雑考集』から引用しなかったので、せっかくだから。

『宗教学雑考集』《阿弥陀仏と最後の審判》
>>

JRF2025/10/312694

「最後の審判」とは、神が歴史に突然現れ、そこで歴史が終了し、その最後において人々が復活して審判を受けさせられ、悪い者は地獄に落ちるという宗教思想で、「転生」という考え方とは基本的に対立するものである。「転生」がある身分に生まれたのを、前世によって説明することで、身分を固定しがちなのを、「最後の審判」は否定し、「その生で答えを出す」ことを求め、やや革命を是認する思想になる。「転生」には、もう一度生きたいと願うような世界を志向させ、社会の発展を促す効果もあるが、素の「最後の審判」だと摂理にそういう動機付けはなく現世世界を死後にもわたって良くするのは神の命令に頼りがちとなる。

JRF2025/10/318180

「最後の審判」の思想は、ゾロアスター教に現れ、仏教の阿弥陀[あみだ]仏信仰に影響を与えたという。もちろん、《宗教的判断の認容》で語るように特に古い宗教においてはどちらが先の教えというのは確定しがたいのであるが。

阿弥陀仏への信仰は、念仏を唱えれば悪人でも、死後、浄土に導かれ、そこでとんでもなく長い間、修行してブッダ=仏となるというものである。

JRF2025/10/312225

>悪業は必然的に人を地獄に駆る。人も神も、その業報の必然性の前にはまったく無力である、というのが、それまでのインドの宗教の鉄則であった。しかし、ヒンドゥー教の側のヴィシュヌ神もシヴァ神も、仏教の阿弥陀仏も、その鉄則を破って、業報を変える、という。業報を転換するということは、廻向[えこう]と呼ばれる。(梶山雄一『大乗仏教の誕生』p.137)<

「廻向」とは業報の必然を曲げることである。

JRF2025/10/310777

「最後の審判」的なものがあり、どこかで業報は尽きるからその帳尻を合わせる何かがあるということで「廻向」が出てきたということだろうか? そうではない。

「最後の審判」はむしろ業報を無限に延長する。わずかに善であれば善の無限実体になり、悪であれば悪の無限実体となる。その善の無限実体があれば、そこに集合した過去的な有限実体の罪は偶然に近いものとして無視されうる。将来において無限になった実体から、同化(に近いこと)によって有限の罪を無化する。それが「廻向」ということなのだろう。

JRF2025/10/317039

悪業が悪業を生み、結果無限の悪業と評価できる…とならなければ良い。そのためにはところどころで有限に尽きているほうが都合がよい。悪業を有限に留めさせてくれるのが阿弥陀仏信仰以外の「涅槃」であり、有限に留まった悪業者は「最後の審判」のあとの無限において、「廻向」によって救われうる。無限において救う実体が全体としてブッダなのだ。

JRF2025/10/317504

涅槃に入るには善業があり過ぎてもいけない、それもある種の貪[むさぼ]りだというのが、従来の仏教の考え方だった。しかし、涅槃に入ることを、善業を超越的な善に換えることだという考え方をするなら、善業があり過ぎる問題は解決する。人を救うために善をする。その善業のカルマは、より人が救われるために使う。そういうことができる。もしできないなら阿弥陀仏は存在してない。「私」は存在していると信じるというのが阿弥陀仏の信仰となろう。

JRF2025/10/315976

善業のカルマを人を救うために使ってなぜ帳尻が合うか。それは悪人も救われるようにするからだ。そして、そうやって(悪人も救って)涅槃に致ることその「慈悲」全体が、無限において善と評価される。…といったところだろう。

廻向には実は方向性がない。例えば、念仏することは、ある意味、阿弥陀仏への帰依であり、阿弥陀仏への廻向であるが、しかし、その念仏をしようと思ったこと実体が、阿弥陀仏からの廻向でもあるのだ。

JRF2025/10/317573

「心」の境界はあいまいという話を前節まででしたが、それは「我」が「空」であるということだ。業報が尽きる涅槃がある。そのことが無限の善からの照射を受け善なる報いをもたらす。そもそも、無限の善からの照射があるから、我々は自分をあると思っていて、空であっても「我」を使い、苦を超えた善の・生の根拠になりうるのかもしれない。一神教と仏教をつなげればそのような見解も見えてくる。
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JRF2025/10/317475

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