« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:95663761

小西甚一 校注『一言芳談』を読んだ。念仏宗では「はやく死にたいと修行」することを老人僧が推し、ただ念仏にすがれとした。しかしそうして生き残った者こそイニシエーション(成人儀式)を経てきたように強く、文化を大事にしたということであろう。 (JRF 4393)

JRF 2025年10月 6日 (月)

『一言芳談』(小西 甚一 校注, ちくま学芸文庫 コ-10-6, 1998年2月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480084126
https://7net.omni7.jp/detail/1101478134

正しくは『一言芳談抄』のようだ。抄があるため、元があるということではなく、一言芳談が他からの引用エッセンス集みたいなものなので抄なのだろう。成立は1297年から1350年までのいずれかとなるらしい。作者未詳。この本にもそのところは簡単な解説があるが↓にも詳しい。この本は、原文と現代語訳が付いている。

JRF2025/10/61441

《一言芳談 - 新纂浄土宗大辞典》
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E8%A8%80%E8%8A%B3%E8%AB%87

島本和彦のマンガ名言集『炎の言霊』シリーズが私の座右の書なのだが(^^)、そういう魂を燃やすちょっとした言葉を、浄土宗の念仏についてまとめたのが、この『一言芳談』といった感じになる。

JRF2025/10/62053

……。

少し前に私は↓という本を出した。念仏者が厭う理論的な本だがもしご興味があれば、手に取っていただきたいです。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/10/69732

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/10/65897

……。

それではいつものごとく引用しながらコメントしていく。

JRF2025/10/68575

……。

哲学的な本については吉例で、解説から読んでいく。この本には冒頭の書肆情報的な解説とは別に最後に『徒然草』に関する解説が付いてくる。時代的に『徒然草』に近く、『徒然草』に『一言芳談』の引用があるからとは言え、ここまで『徒然草』に偏った解説がつくのは、何か別の思惑があってのことだろうと思う。その思惑とは何か。

『一言芳談』では…

JRF2025/10/62340

>端的にいえば、最上の願いは死の一事以外にはないこと。それには念仏に専念して、仏さまにおすがりするほかはないこと、につきるといってよい。これだけ、ひたすらに死を願う人間のことばを集めた書は珍しいだろう。死を願い、念仏をとなえる以外のことは、ことごとくそれのさし障りとして否定されている。学問も、知識もいらない。教養など問題にもならない。紙衣[かみこ]を着ながら、着くずれを気にするような人間はどうしようもない。住む庵は、垣をしないで、西の方を空けておくだけでよい。本尊仏も、経文もいらない。<(p.186)

JRF2025/10/67856

「はやく死にたい」と修行することを求める。現代ならば邪教のたぐいであろう。戦国の世ならば、そういう教えにも意味はあるのかもしれない。死を恐れずに戦った者がやがてトーナメントで最終的には全勝した者が残るように、運で生き延びる者が出てくる。修羅の世界。しかし、そういう生き残った者で作られた世界は生き生きとした強い者の世界になるのかもしれない。そういう考え方もあるのかもしれない。

修羅の世界、顕密の学を否定しきれば、やがて、平和になっても、浄土の教えも消えてしまう。それで良いと思ったということであろう。念仏が呪文のようにあればよい…と。

JRF2025/10/62627

しかし、『徒然草』は同じ世界を共有しながらやや違う方向を向いているという。現代、ただ「はやく死ね」というだけでは無責任だと考えられて、この方向を示す必要があると思われたのであろう。

『徒然草』にはこのような考え方がある…

JRF2025/10/67399

>死が近づきつつあることを忘れているから生を楽しむことを知らない。生きているこの瞬間の喜びを楽しまなくてどうするか。こういう声は、『一言芳談』の世界では、絶えて聞くことのできなかった声であるこというまでもない。死の渇望ではなくて、生の渇望にほかならない。目前の一瞬間が空しく過ぎ去るのを惜しまなくてはならないのだ(『徒然草』百八段)<(p.189-190)

JRF2025/10/64075

いかに末法の世とはいえ、私が述べたようなそこまでの修羅の世界は考えられていなかったのかもしれない。ここは人間の世界だ。死んでいいとして念仏に専念する者も、それが世を捨てずに生きるなら、やがて専念にあきる。そうして生き残る者が強く、次の時代を作る。一方で、世を捨てたように生きる者は、そうはいいつつ暇ができるもので、いずれ学ぶ者になるのだろう。専念にあきた者が、世を捨てた者を助け、教えが受け継がれたのが実際の次の時代だったことがうかがえる。浄土宗が富んできたと受け取れる記述が『一言芳談』にもあるからだ。

JRF2025/10/60228

死ぬかどうかは天に委ねるが、生は責任は自らに引き受ける…そういう生き方を結局人々は選んだのではなかったか。僧は「とく死ね」と言う。しかし、そうはいいつつ、皆生きてる。老人になるまで生きている。「生存バイアス」かもしれないがそういう世界はあった。

そこでは「はやく死ぬ」ようにさとしたことは、一種のイニシエーション(成人儀式)として機能したのだろう。

JRF2025/10/60400

『宗教学雑考集』《林住期と社会実現》
>林住期は、インドでは家住期のあとに来るのだが、未開人の文化ではしばしば、成人儀式として林住が求められるのは結婚の前である。林住する意味は、林住により、社会から性的に排除されることで、子をなし自分を残すことよりも、「霊」を残すこと、文化を継承することに目が向くという意味があるのだろう。

JRF2025/10/60017

インドで林住期が家住期のあとに来るようになったのは、寿命が延びたという点があるのではないか。未開文化では、若いうちに文化を少しでも知り、その中からわずかに生き残っていくというイメージになろう。インドでは、学生期にも文化を学ぶのだが、それはむしろ自分のためで、長い林住期においてこそ文化を未開文化よりも多く複雑に学ぶことが求められるのだろう。

JRF2025/10/69479

日本では仏教などの影響で成人儀式があまりおおっぴらには行われなくなったのを、逆に念仏宗がそれに相当するものを復活したということではないか。性的に排除され、「死を思え」とすることが、逆に文化を、仏の学問への理解の必要性を痛感させる面もあったのかもしれない。その学恩が、念仏宗(浄土系の宗派)の興隆を導いたのかもしれない。

JRF2025/10/64607

……。

では、本文に入る。

>ある人のことば。「慈悲の心をおこさないのは、まあ、しかたがない。しかし、人を憎んではいけない。」<(p.21)

復讐に意味はない…なんてことが簡単に否定される世の中になったが、本当に修羅の世を生きる人々は、人を憎んで生きることの無益さを知っていたということだろう。

Gemini:> 中世の人々は、理論よりも実践的な「死の覚悟」を通して、憎しみが自己にとって無益どころか、致命的であることを深く知っていたのでしょう。

JRF2025/10/64578

……。

>空観 -- 「すべての存在は、実体として存在するものでなく、たがいに相依相関することによりそのものとして在るにすぎない」とする哲理が「空」で、その実体的否定を具体的な事がらについて体得する精神訓練が空観である。<(p.22, 注)

みごとな説明である。

私は、中沢新一さんのチベット仏教の解説を読んだとき([cocolog:95634030](2025年9月))、「空を尊重するのは、働かないのをエラいと思えるため」と喝破してしまったのだった。もちろん、そんなわけはない。

JRF2025/10/64611

……。

>明禅法印云く(…)「(…)聖法師の、今生に徳をひらく事は、大略、後世のためには捨て物なり。」

(訳)「(…)世捨て人がこの世において幸せに恵まれるのは、だいたい、後世のためには無用である。」
<(p.28)

刹那的に生きるのの何が良いのか。修羅の世ならば意味もあるのかもしれないが、今のような世ならば、それは自滅以外にないのではないか。

JRF2025/10/69366

オタクが刹那的に生きても、養分になるほかない。養分となって AI・ロボットで稼ぐことができ、そこが発達して、生活が楽になる道が、ひょっとしたら今は出てきているかもしれないが…。

ただ、訳と少し違って、「聖法師の、今生に徳をひらく事」は、学問をきわめることも指すのであろう。念仏宗は学問を厭うという体裁をよくとった。(実際には皆よく学んでいたとしても。)

JRF2025/10/65655

……。

>(…明禅法印…)又云く、「しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどの事は、大抵[おおむね]せぬがよきなり。」

(訳)また言われたこと、「しようか、しないでおこうかと思案されるようなことは、たいてい、しないほうがよろしい。」
<(p.33)

アニメ『この素晴らしい世界に祝福を!』のアクシズ教のアクア様の言葉を思い出す。

「迷った末に出した答えはどちらを選んでも後悔するもの。どうせ後悔するのなら、今が楽ちんな方を選びなさい。」

JRF2025/10/64247

……。

>(…明禅法印が…)また言われたこと。「世のためになるというわけで、ことごとしく何かをしなくても、ほんとうに生死対立の世界を離れようとさえ心に決めておれば、その人その人の器量に応じて、かならず世のためになっているものだ。」<(p.34)

私は社会の役に立っていないことに悩んでいる。役に立ってない証拠に稼げていない。

しかし、生死対立の世界からはドロップアウトして引きこもっているとは言える。ならば、世のためにはなっているものだろうか。それならば救いはある。

…でも、Twitter (X) はやってるな、あれは生死対立の世界だ。…だからダメなんだろうか?

JRF2025/10/62125

……。

>(…松蔭の顕性房…)又、「死をいそぐ心ばへは、後世の第一のたすけにてあるなり。」

(訳)また言われたこと、「はやく死にたいと思う心がけは、後世のため最上の助けである。」
<(p.80)

まさに外道。まさに邪教。…と現代ではなるところ。そういう時代だったのだろう。そこに勝ち筋が見えたのであろう。本人達は「勝ち筋」だなどと思ってもみなかった…というだろう。(寺沢武一『コブラ』の名セリフ「金庫の中に金が入ってるなんて思ってもみなかった」を思い出す。)

後世とは、死んで極楽浄土にいった後の生のこと。

JRF2025/10/61988

……。

>(…敬仏房が…)また言われたこと、「あるとき心仏房に、『世間の鍛冶屋または大工などが、それぞれの道を伝えてゆくのに、かならずしも隅から隅までは教えないが、なかで中心となることを身につければ、その道を伝えたと称するのである。それと同様に、二三年このかた、おまえがわたくしに就いた収穫としては、世を捨てた身で無常を忘れないということさえ満足にゆけば、もう十分だろう』と説き聞かせたことがある。」<(p.87)

JRF2025/10/60479

個人が救われるための要諦は、いつの時代も簡単なものであり、ただ、より多くの人が救われるよう、教え広め文化にして遺すには、煩瑣にするしかなかっただけ。釈尊もまた。…と考えたのだろうか。念仏宗の真実は、やや反知性主義的な欲求があり、少し違うように私は思うが、結局は、そういうものかもしれない。

Gemini:> 結局、救いの「要諦」と、教えを支える「煩瑣な文化」は、車の両輪のようなものです。念仏宗は、「文化」を支える知識は否定しないが、「要諦」を曇らせる知識は徹底して排斥したかった、というのがその真実ではないでしょうか。

JRF2025/10/62416

……。

>正信上人のことば。「念仏宗は、理論が無いことを理論としている。」<(p.94)

『宗教学雑考集』を出したころ「考えない」ことを是とする本がいくつかあって、私への批判かと妄想したものだった。ただ、それが本として出ていることの意味、本を読む「考える」階級のために書かれている意義を考えると、このようなことは現代にも求められているのかもしれない。

Gemini:> 「考えない」というメッセージは、「思考を尽くした先に、思考を捨てるべき瞬間がある」という、現代の知性階級に向けた「念仏宗の理論」とも言えるかもしれません。

JRF2025/10/64317

……。

>有[あるひと]云く、「高野の空阿弥陀仏の、御庵室のしつらひの、便宜あしげにて、『すこし、か様にしたらばよかりなむ』と御たくみありける間、『さようしつらひなさん』と人申しければ、『いやいやあるべからず、是又厭離のたよりなり。よしと思ひて心とめては、無益なり』とおほせられける。」

JRF2025/10/64341

(訳)ある人のはなし。「高野山の空阿弥陀仏の御庵室が、設備不完全で、『もう少しこんなふうにしたら良かろう』と思案しておいでなので、『そのように模様がえしましょう』と周囲の者が申し出たら、『いやいや、それには及ばん。こんなのも、また浮世を離れようとする心の助けじゃ。便利だなと思って、それにとらわれる心がおこるから、つまらんことじゃ』とおっしゃったそうだ。」
<(p.96-97)

JRF2025/10/62976

「それにとらわれる心がおこるから」というよりは「それにとらわれる心がおこるなら」とするところだと思う。この方の場合、実際にはおこらないだろうけれども、それを遠慮して言っているのだろうから。他の人の在り方を考えておっしゃっておられるのだろうから。

JRF2025/10/66446

……。

>(…然阿上人が…)また言われたこと。「真実の心で、仏の本願を信じ、たしかに往生しようと思う、これを三心と称するのだ。」<(p.143)

三心[さんじん]…何かの音訳な気がする。三つというのはこじつけではないか。

JRF2025/10/60907

《三心 - 新纂浄土宗大辞典》
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%BF%83
>(1) 阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種の心で、至誠心・深心・回向発願心のこと。『観経』上上品に「もし衆生あってかの国に生ぜんと願せば、三種の心を発すべし。すなわち往生す。何等をか三とす。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、必ずかの国に生ず」(聖典一・三〇五~六/浄全一・四六)とある。この三心を具する者は、必ず即便に阿弥陀仏の浄土に往生するという。

JRF2025/10/69397

(…)

(2) 菩薩の発すべき三種の心で、直心・深心・大悲心のこと。『起信論』には「一には直心、正しく真如の法を念ずるが故なり。二には深心、楽うて一切の諸の善行を集むるが故なり。三には大悲心、一切衆生の苦を抜かんと欲するが故なり」(正蔵三二・五八〇下)とあり、十信位の終りの初住位にある菩薩が発すべきものとされる。


私の直感は間違いのようだ。

JRF2025/10/69605

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »