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cocolog:95663845

仏性とか如来蔵とかの議論は一つには救いの議論。もう一つは、要は、坊主はなぜエラいかの問題だ。…と考えてみる。前者は地獄と恒星の炎をつなげる議論、後者は梵我一如の議論につなげる。 (JRF 9056)

JRF 2025年10月 6日 (月)

私は、中沢新一さんのチベット仏教の解説を読んだとき([cocolog:95634030](2025年9月))、「空を尊重するのは、働かないのをエラいと思えるため」と喝破してしまった。もちろん、そんな単純な話ではないのだが。

その後、『一言芳談』を読み([cocolog:95663761](2025年10月))、手塚治虫『ブッダ』を読み進める中で、もう少し仏教とは何であったかを考えたのだった。

JRF2025/10/69813

涅槃に生きるとは何だったか、「来世がないのが良い」のはなぜだったか…というと、拙著『宗教学雑考集』では、一口で言えば、戦争を起こさないための産児制限を是認するためと考えたのだった。そして「働かない」ことを是とするのも、そもそも僧が「捨て扶持」で生きる階級として生まれたからだとなったのだった。

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)

JRF2025/10/66563

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JRF2025/10/60417

そして、中沢新一さんの議論を思い出しながら、ならば、よく論争となる仏性や如来蔵についてはどう考えるべきか…に考えが及んだ。それが今回のキッカケである。「グローバル共有メモ」と Twitter (X) にはだいたい次のように書いた。

JRF2025/10/69874

……。

○ 2025-10-02T16:40:24Z

仏性とか如来蔵とかの議論は、一つには救いの議論で、人の固有性は永遠に救われうるか、逆に言えば、『宗教学雑考集』《悪》で示すような「地獄」にどう永遠がありうるか…という議論につながるのだろう。

JRF2025/10/69463

『宗教学雑考集』《悪》
>地獄に永遠にいる人間はいなくなるかもしれないが、悪という概念はあり続け、地獄の炎で永く焼かれ続けなければならないということはあるのかもしれない。例えば窃盗という悪は、その概念が、地獄の炎で焼かれねばならないのかもしれない。しかし、それも恒星の炎のように人間から見れば遥[はる]かに永いときではあるが、終りはあるのだろう。

JRF2025/10/61935

窃盗や殺人の概念すら狭義の永遠の地獄に値しないなら、人はどの属性を取ってもいずれ救われているのだろう。それらの概念より不滅な永遠の「我」がないとするならば。

もちろん、恒星の炎を地獄になぞらえるのは、私の妄想でしかなく仏教経典で語られている「真理」ではない。しかし、地獄というのも現代の価値観から言えば「妄想」とされるのであり、その二つの妄想の距離は現代では近いと…真理性があると私は考えるのだ。

JRF2025/10/63134

……。

仏性とか如来蔵とかの議論は、もう一つは、要は、坊主はなぜエラいかの問題だ。坊主が、なぜ自分は救われうるとするのか、そして、自分だけが救われるわけではありえないことをどう納得するかの問題なのだろう。

JRF2025/10/66792

ここには梵我一如の直感をもたらす胎児感覚が影響しているというのが私の論になろう。その直感が、文化の違いをきわだたせ、文化保持者の元締め的な僧に権威をもたせる。坊主が偉いの根拠が胎児経験にあるなら、すべての人…だけでなく、すべての産まれる生き物に「それ」はあることになる。例えば動物は「教育」はできなくとも、「輪廻転生」の文化的秩序の中に配置できる。「山川草木悉有」の場合は、ある意味すべては地球や宇宙から産まれているではないか…ということであろう。

JRF2025/10/61147

『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》
>「梵我一如」が私のいうように素朴な胎児経験の感覚に由来しているといった場合、そうであることの「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当するのだろう。「真実」は普通人が思い出せない胎児経験であり、それは他人でも似てはいるが違うものだ。それを説明しようとすると、幼児の印象に与える文化の違いが明らかにならざるを得ない。逆にそれを言葉にしていけば、文化を固定化・保守化することになる。そこには、権威が生じやすい。

JRF2025/10/65201

「梵我一如」が真理だという感覚が先にあり、それをもっともらしくするために理論を構築する…。親などが不如意だったストレスが、「苦」と名前を変え、その「苦」がないところに解脱的「梵我一如」がある…と考えるなどのはその一例で、それが仏教となっていったのかもしれない。

JRF2025/10/62542

もちろん、繰り返すが、そういう真理が先にあって、人間がそれを正しいと感じるように創られた、そしてそういう真理に到達するものが偉いと認められるように創られている…という可能性を排除するものではない。

JRF2025/10/68658

そういう真理(梵我一如)が先にあるとする方向がヒンドゥー教(アドヴァイタ・ヴェーダーンタなど)となっていき、胎児経験が先だというのは唯物論で、どちらが先というのもありえるというのが仏教的なのだろうと思う。

JRF2025/10/67182

……。

……。

追記。

○ 2025-10-14T12:15:35Z

涅槃が良いが産児制限を、空が良いが働かないのが良いを意味している…と私は喝破してしまったわけだが、確かにそのような「効果」があるとしても、その効果を目指してそれらの「理論」は作られたわけではない。「真理」の発見がたまたまそのような効果を持っていると私に「発見」されたに過ぎない。それ以上の意味をそれらの真理は持っていよう。

JRF2025/10/159051

ただ、「真理」がある種の利にさとい「心の卑しい人々」に影響を持ったがゆえに後世まで力を持ったとすれば、私の「発見」と同様の発見がいくばくかの力があった可能性はある。

JRF2025/10/152859

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