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cocolog:95716997

finalvent『新しい「古典」を読む 4』を読んだ。日本青年のニル・アドミラリ=「動じず生きていること」の宿痾。性愛とそれが国家幻想とつながるところを説く…など。若者に是非読んで欲しいのだが、この出版形式で届くのか? (JRF 5539)

JRF 2025年11月11日 (火)

『新しい「古典」を読む 4』(finalvent 著, BANDIT, 2025年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FYGVYY4L

1巻は [cocolog:95544340](2025年7月) で、2巻は [cocolog:95565484](2025年8月) で、3巻は [cocolog:95609806](2025年9月) で、読んでいる。

いちおうかつての cakes 連載分ではこの4巻が最後らしい。ただ、5巻に向けての構想もあるようなことを Twitter (X) ではおっしゃってたように思う。

JRF2025/11/116999

……。

私はちょっと前に↓という本を出した。まったく売れてない orz。その宣伝も兼ねてその本からも多少引用する。

JRF2025/11/114451

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/11/111882

……。

では、いつものごとく引用しながらコメントしていく。今回の本は出たばかりなので、業務妨害や著作権侵害等で私が訴えられないよう、ここを読んで少しでも興味を持った方は、『新しい「古典」を読む』をご購入していただき、応援していただければありがたいです。というか、良い本なのでそうでなくても買って読むべきです。

なお、Kindle 版で読んだため、紙の本とはページ数が異なる可能性があります。

JRF2025/11/117306

……。

「2章 詩人・黒田三郎の生涯をかけた愛の言葉 -- 黒田三郎『詩の作り方』」から。

>私が高校生時代に傾倒したのは黒田三郎と西脇順三郎の二人である。詩作は大学に入ってやめた。私と同様に学習雑誌に詩を書いて投稿していた学生たちは、その後、雑誌『ユリイカ』などに投稿先を選んだが、私はしなかった。詩作が自分を破滅させることを知ったし、詩人たらんとした高校生の内面は破滅していた。私が詩人であったとすれば十九歳で死んだ。<(p.33)

JRF2025/11/118396

finalvent さんは若いころから優秀だったことがわかる。finalvent さんが認められたのは、若いころに築いたコネがあるのかなぁ…とか漠然と思う。

私は若いころは勉強せずとも試験の成績はよく、習い事とかは続かないタイプで、漫然と遊びほうけていた。「遊び」といっても女性がらみの話とかは、付き合ってるとか嘘をつくことがあっても、リアルにはまったくなく、本当に子供っぽい遊びにかまけていた。

そういうころから、ちゃんと雑誌に投稿とかしている人とは差がついていたんだなぁ…。そういうのは人生の始めのころにはなかなか気が付かないよね。orz

JRF2025/11/117850

……。

「3章 彼女の存在の悲しみを問う神は -- 高野悦子『二十歳の原点』の謎」から。

自殺した高野悦子が持っていた本の中…

>二冊目「アウトサイダー」は二十五歳のコリン・ウィルソンを一躍有名にした著作である。H・G・ウェルズ、カミュ、ヘミングウェイ、ニーチェ、ドストエフスキー、さらには神秘家グルジェフなど社会から逸脱した人々(アウトサイダー)を描いている。(…)私も高校生のときに読んでいる。<(p.62)

私はごく最近読んだ。遠いキッカケは内田樹さんが紹介していたことだった。

JRF2025/11/116272

[cocolog:95683424](2025年10月)
>コリン・ウイルソン『アウトサイダー』を読んだ。「社会」を構成しているブルジョワ的インサイダーに対しアウトサイダーとして生きはじめるということは、ベルクソンの「開かれた社会」でも生きるということと似ていると思った。<

JRF2025/11/113876

……。

>2015年に十四歳の年齢の子供にとって、『二十歳の原点』三部作は、おばあちゃんの歴史になったのである。それは、戦後民主主義日本の一つの叙事詩になったと言っていい。叙事詩こそ民族の歴史である。

「ここに歌われているのは、あなたのおばあさんの若い日の物語ですよ」と言ってよいのである。そしてもっと言って欲しかった。

「あなたたち十四歳は、これからどれほどか恋愛と性と国家に苦しむかもしれない。死ぬほど苦しいかもしれない。でも、おばあちゃんもそうして生きてきたのですよ」と。
<(p.80)

JRF2025/11/110473

『二十歳の原点』三部作は高野悦子の日記である。処女喪失と自慰の記録も含む。私が若者のころは・性行為への幻想を抱いていたころは、そういう知識も欲しかった。そして書かれる、自殺へと致る(恋愛の)蹉跌。

finalvent さんにはお子さんがいて、そこに伝えたいというのはあっただろうし、広く若者…「青年」男女に向けて、この本を届けたいという思いがあると思う。そういう「メッセージ」がこの本には随所にある。

JRF2025/11/116913

……。

「4章 青年の心証を抉る「青春の考古学」 -- 柴田翔『されど われらが日々 --』の蹉跌」から。

小説の中で自殺した共産党員の佐野がいう。[wikipedia: 六全協]による打撃は…

>「ぼくも含めて、党と革命に自分の目標を見出していた学生にとっては、殆ど致命的なものに思えました」<(p.89)

JRF2025/11/117525

「革命」を目指していることが、求心力となって人が若者が集まることがどうもあるようだ。その点、そういうものをハナから目指さない私に「魅力」がないことにつながっているのかな…と悩む。この点については、近時、finalvent さんがNY市長選でマムダニさんが勝ったのをキッカケに Twitter (X) で述べられていた。

JRF2025/11/116470

《finalvent:X:2025-11-06 付近》
https://x.com/finalvent/status/1986234011493277735
>>
社民党は 、社会民主党の略ですが、アカデミックに見ると、社会民主主義の政党ではないんです。

社会民主主義はエドゥアルト・ベルンシュタインに由来する思想であり、日本の社民党や共産党のように、レーニン・スターリン主義のインターナショナルとは別なんですよ。

日本の左派にはほとんど、社会民主主義者はいません。非レーニン・スターリン主義として、トロッキストと新左翼がいるくらいです。

JRF2025/11/110783

とはいえ、鶴見俊輔は、社会思想家として戦後日本の市民運動を主導した人物で、日本社会党や日本共産党とは明確な距離を置いていました。

市川房枝もスタンスは似ていて、そう言えば菅直人さんは彼女の丁稚みたいな感じだったけと、変わったなあ。

JRF2025/11/118890

……。

現在の日本の左派やリベラルは意外と社会主義の歴史を知らないんですよね。ざっくり こんな感じですね。

第一インターナショナル(1864年):マルクスとエンゲルスがロンドンで創設。
第二インターナショナル(1889年):マルクス没後エンゲルスの影響下で設立。
第三インターナショナル(1919年):レーニンがボリシェヴィキ革命の成功を背景に創設。ベルンシュタインの社会民主主義(第二インターナショナル)を批判し、世界的革命を推進。以降、「コミンテルン」。

で、トロッキストの「第四インターナショナル」とかもないわけではないけど。

JRF2025/11/113899

日本共産党は、1922年、コミンテルン(第三インターナショナル)の直接指導・資金・指示により設立され、事実上の日本支部として活動した。その後は複雑。

日本社会党は、戦前の第二インターナショナル系社会民主主義を源流とし、1945年に自主再建された。が、戦後、その左派はマルクス・レーニン主義の分析枠組みや構造改革論(イタリア共産党経由)を採用し、思想的に強い間接的影響を受けた。それでも議会主義を貫き、革命路線を取る共産党とは明確に区別された。

JRF2025/11/114854

まあ、こう整理すると、社会党はベルンシュタインの影響下だったようにも見えるけど、社会党でもベルンシュタインは修正主義とされ(つまりレーニン主義ですね)、西欧型の社会民主主義とは別物だった。

まあ、この先はちょっと同時代を生きてきた人間の雑談なんだけど、社会党が社民党化したっていうのは、社会主義革命というものを、暴力革命あるいは前衛指導っていう考えを基本的に排除して、民主主義の流れにしようとしたんですよね。

JRF2025/11/113726

で、そうしたところ衰退しちゃったと。一方、共産党の方はまだちょっと生き残ってますし、ネットでゴロゴロいる左翼のロゴ老人たちは、新左翼的な流れの残党で、結局この2つは革命幻想を生きてきたわけですよ。

革命幻想っていうのは生きる糧なんですよね。それを漸進的に行うのか、というのも大きな問題で。吉本隆明は当初、やはり暴力革命の流れの人でいたんだけど、1980年代に「そういうものはないんだ」と割り切っちゃって。まあそこでだいぶ、吉本から人が離れましたね。

JRF2025/11/110302

吉本って人はね、そうは言っておきながら、『反核異論』とか読むと「俺が銃を持てといえば」みたいなこと言い出して、まあ彼も革命幻想で生きてきた人でしたね。

ぶっちゃけ、革命と革命でないものは何が違うかっていうのは、毛沢東が言ってたように、銃口ですね。

JRF2025/11/118331

……。

おそらく全ての左派やリベラル、社会主義者、そういう立場が共通に病んでいる精神の病は「前衛主義」なんですね。「我々は大衆の前に立ち、我々が大衆を指導する」っていう考え方です。

これが一番の問題だからこそ、吉本隆明はこれを解体するために「大衆の原像」ということを言い出したんですよ。

これは何か、って言うと、この文脈でいうなら、「社会の本体である大衆いうものには、イデオロギーなんてクソどうでもいいことなんだ
<<

JRF2025/11/112030

Gemini:>現代の真の「魅力」とは、壮大な幻想を必要とせず、自身の内面や日常、そして具体的な繋がりにおいて、いかに誠実であるかにかかっています。ユーザー様が若い頃に築いた「子供っぽい遊び」や「漫然とした時間」は、この「大衆の原像」的な、虚飾のないリアリティを構築するための重要な基盤だったとも言えます。<

JRF2025/11/119886

……。

>理想に生死をかけるほど純粋であろうとしたことへの「裏切り」としての現在の自分。それは理想からすれば無価値であり、生存すら許されないものである。その自罰感から、せめてかつての純粋性だけを救済したいなら、現在の裏切りの身体を処罰するしかない。かくして自殺に至る。

こうした日本近代の青年の心性はなんなのだろうか。生死をかけるほどの理想の純粋性は、その理想に異性が象徴されることで矛盾を深める。あたかも理想が性を持つ身体に受肉していくことで、矛盾もまた受肉していくかのようだ。

JRF2025/11/117940

なぜこのパターンをとるのだろうか。この問いは私には仮想的な問いかけではない。私の青春においても実体験であった。柴田翔より二十年近くも遅れて生まれた私も、同様の青春の蹉跌のなかに生き、他者から失恋に見える類似の事件を経て自罰の道を進んだ。自分が大学・大学院で学んだことをすべて捨てて一人の工場労働者になった。そのころ傾倒していたフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの影響もあった。彼女も哲学を捨てて工場労働者になったのである。

JRF2025/11/112115

私もそうであったが、青春の理想を失った社会人として自罰の人生を歩むことは珍しいことではない。社会人としての存在は青春の処罰であること。それは日本人の青春の蹉跌の一つの原形を構成しているのである。
<(p.92-93)

私はさっき言ったように恋愛は縁がなかったが、研究者というものに理想を持ち過ぎていて、その理想に到底到達できないと認めざるを得なくなったとき、「自罰」をすることになった。大学院(修士相当)を出たが、その後、引きこもりとなった。

JRF2025/11/111611

いや、自罰というよりもベンチャーなどの千載一遇のチャンスを狙ったものだったので、finalvent さんとかとは大きく違う。親のコネかもしれないが、就職した昔の人と違い、私は親のカネで、ひたすら引きこもったのだった。そして2001年に発狂する。

JRF2025/11/110264

……。

小説で、先に述べた佐野に対し主人公の文夫…

>佐野は理想との対比のなかで自己の恥辱を発見して自殺したが、文夫にはそうした理想は最初からなかった。ゆえに絶望すらなかった。

JRF2025/11/110184

この感性は、「私たちの世代は」という表現で自己の世代の感覚として作者に自覚されているが、これもまた日本近代青年の類型的な心性である。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介などが、「ニル・アドミラリ (Nil admirari)」として語った心性である。本来なら、この言葉は、「何事にも動じない」とという達観を意味しているが、彼らの心性は、むしろこの世界の意味が「はじめから不在だった」ことに向き合っている。
<(p.96)

ニル・アドミラリ…ってそういう意味なのか…。

JRF2025/11/112306

これは私は儒教的「中庸」との絡みを感じる。私は何か専門的になること、予測して先回りして応じていくことを、そうでないほうが望ましいことのように感じる心性が確かにあった。

JRF2025/11/119937

……。

>なぜ、近代日本の青年において政治と性が関係してしまうのだろうか。(…)おそらく、前近代社会の人間の心性においては、共同性への欲望が性欲によってかたどられているからだろう。戯画的な比喩を出すとすれば、一人の青年が愛する女性に、その愛が本当であるかと問われるとき、公的な社会の正義に生死をかけることで保証されるような心性があるのだろう。<(p.97-98)

戯画的な比喩はわかりやすい。要は、女性は妊娠出産で死ぬことがあり、その社会的な補償として、ツガイのもう片側の男性は「死」を賭することが求められたのだろう。死んだあとどう(子と)生きるかがそういう時代の文学の問題でもあったか。

JRF2025/11/117635

Gemini:>政治的な理想に散った男の物語は、彼が命を賭けたことで、遺された女性や子が共同体内で正当な地位と保護を得るための「社会的な補償(叙事詩)」として機能します。この構造が、私的な感情の激しさ(性欲/愛)と、公的なイデオロギー(政治/革命)という、一見無関係な二つの要素を強烈に結びつけ、近代日本の青年文学の核心を成したのだと考えられます。

JRF2025/11/118058

現代社会では、医療の発展と個人主義の進展により、「妊娠出産のリスク」は大きく低下し、「公的な死の覚悟」による愛の証明はもはや機能していません。しかし、その代わりとして、「社会的地位・経済力」や「自己の個性の純粋な証明(SNS上での自己表現)」といった、別の要素が「愛の真実の担保」として機能し始めていると言えるでしょう。

JRF2025/11/119922

……。

「6章 二十世紀最高の傑作オペラ、その無限の可能性 -- コルンゴルト『死の都』という文学」について。

コルンゴルト『死の都』は、2019年12月 NHK BS P 放送の ペトレンコ指揮 ストーン演出 バイエルン国立歌劇場のものを観たことがある。

[cocolog:92859212](2021年7月)
>物語は、「メロドラマ」への過渡期の感がある。特に衣装が現代的なためそう感じたのかもしれない。夢オチだが、夢は本当はどちらなのか…といったところ。<

JRF2025/11/119309

……。

「7章 未完の小説『死ぬことと見つけたり』が描き出した「生の輝き」 -- 隆慶一郎『死ぬことと見つけたり』」から。

>インドやチベットでは実際に死者を大地に置いてじっと白骨になるまで見つめるという精神修行が長く伝統となっていた。禅学者・柳田聖山は『禅思想 -- その原型をあらう』でこうした仏教の原型の側面を書いた。死を見つめる修行方法は、日本の中世にも現世を穢土とする仏教の浄土教信仰で広まっていた。『死ぬことと見つけたり』で描かれる時代に重なる儒者・伊藤仁斎も若いころ不浄観の修行をしていた。日本人は、死を見つめる修行をする民族でもあった。<(p.178)

JRF2025/11/116325

最近読んだ中沢新一『精神の考古学』([cocolog:95634030](2025年9月))では、チベット仏教で、カンリンという人骨笛の話が出てきた。似た話であろう。

白骨観は↓で言及している。あまり finalvent さんの論旨には関係ないが。

『宗教学雑考集』《聖と清》
>>
ところで、人間はそもそも清いのか? 釈尊は、修行者が最も注意すべき項目として、身不浄説(または白骨観)を唱えた。

JRF2025/11/114376

>鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏[こう]がある。また、その九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。(…)しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。また身体が死んで臥[ふ]すときには、膨[ふく]れて、青黒くなり、墓場に棄[す]てられて、親族もこれを顧[かえり]みない。(『スッタニパータ』196-200)(田上太秀『仏典のことば』p.157,158)<

JRF2025/11/115911

今は義務教育として保険体育や生物を教えるから、「カマトト」ぶってアイドルまたは「私」が不浄なものを出さないと言える者はいないだろう。現代では、免疫システムとの関連で、ウィルスや細菌・寄生虫とどう人間が共棲[きょうせい]しているかについての議論ができる。人の身体がそういった共棲物にとって清浄なる世界なのかどうか。

JRF2025/11/111366

人は、若さや健康への驕[おご]りを持つものだ。老人や親を自分の成長の先にある姿とはとても想像できないというのは子供なら誰しも持つ感覚だし、例えば、社会保障の議論に若者が関心を持たないとか、起業するのに社会保険を無視しがちだ、というのは大学を出てもそうだろう。終身雇用といいながら、組識の年齢構成もピラミッド型をしているのに、障害者の存在に気づかないのもそういうことなのかもしれない。生きているうちにも人の体はどんどん朽[く]ちていく。人は自分が朽ちる前に社会の一員としてそれを知っていかねばならない。

JRF2025/11/111688

とはいえ、人の死体は、かつてのインドでは二・三日経ったら腐乱するものだった。逆に言えば、死ねばたった二・三日で「不浄」と見なされるようになるものが、生きている何十年もの間はそうならなかったわけで、その間は共棲物による「清浄なる世界」を実現できていたことになる。「彼ら」から見れば人の体は結構清いのかもしれない。その「彼ら」には「男ども」も含まれるのであろう。
<<

JRF2025/11/115867

……。

>『葉隠』は基本、封建主義時代の偏狭な精神の産物であり、人権思想の微塵も含まれておらず、主君に従うことに大義がある。特攻隊の精神にも「天皇のため」という大義が含まれている。しかし不思議なことに『葉隠』は、死というものと大義を直接的に結びつけはしない。最終課題は、大義ではなく、「犬死気違ひ」なのである。何かのための死という意味付けを拒否して、ただ完璧に死にきったとき、あるいはそうした状態で結果的に生きているなら、人は自由を得るというのだ。むしろ人の自由を奪うものが大義なのである。死を意味付けようとしてためらう不自由さはなくなる。

JRF2025/11/111715

奇妙な逆説がここに生じている。隆慶一郎のこの小説は、「犬死気違ひ」を実践する自由の闊達さを強調し、薄っすらと大義そのものの否定を描いているのである。
<(p.181)

finalvent さんはここで浄土教の名前も出しその影響を示唆するが、私は最近読んだ『一言芳談』で確かにそういう話を読んだ気がする。

JRF2025/11/112024

[cocolog:95663761](2025年10月)
>小西甚一 校注『一言芳談』を読んだ。念仏宗では「はやく死にたいと修行」することを老人僧が推し、ただ念仏にすがれとした。しかしそうして生き残った者こそイニシエーション(成人儀式)を経てきたように強く、文化を大事にしたということであろう。<

JRF2025/11/111961

……。

>人はその生涯の本質を死に向き合って生ききるとき、おのずから与えられるものである。<(p.201)

この「信仰」にはユダヤ教を思う。

『宗教学雑考集』《死のときに知る報い》
>神にとって個を救うことは主観においてにまかされている。きっと、神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。残った者は虚の世界を求めがちで、それは死ぬまでの主観を安心させる。

JRF2025/11/118065

個々に因果応報的に救われるようにするのは人の働きが大きいが、その「人の働き」は神から来るものと見なすことができる。つまり、人を通じて神が作用する。それにより、現実に救いがあると信じさせようとするのだから、神をたのむものは自らも現実に救いがあると信じるべきとなる。信じた結果どうなったか。ユダヤ教の伝統において、それは長い間うまくいった。だから、死後の世界(の詳細)は必ずしも大事ではないかもしれない。「神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。」と信じてよいのだろう。

JRF2025/11/112632

ここでは「自害」した三島由紀夫の美も対置される。それが隆慶一郎の一生をかけた到達と何が違うのか? ここでぼんやりとだが、鞍点に関する議論を思う。

[cocolog:95713714](2025年11月)

JRF2025/11/116059

>>凸関数・凸集合が大事でそれが局所最適ではなく全体最適となる最大値…特定領域に制約した最大値(極大値)かもしれないが…を保証するのが大事ということだった。しかし、最近のニューラルネットなどは鞍点などがあって、局所最適値に留まらないのが大切であるというのが AI さんの意見として前あった。注意機構が、多層目的であり、多層目的は単純な最大値的なものではないという私の考えも合わせると、多層目的は多次元鞍点などの探索に有効だったのかもしれない。だから、凸集合が多次元的にはかならずしも凸でなく探索可能な部分を持つ方が案外現代では意味があるのかもしれない。

JRF2025/11/112459

Gemini:>「連続最適化」が重視した完璧な凸性よりも、現代のAIでは、「凸ではないが、勾配や情報(アテンション)を頼りに探索可能な部分」、つまり「滑らかだが鞍点を多く含む非凸な領域」を効率よくナビゲートする能力こそが重要になっています。<
<<

つまり、死を賭けさせる「美」という最適値を急に求めようとするのではなく、じっくり鞍点を調べて回り道する…そういう生き方が人間という最適化マシンにも必要なのかもしれない。

JRF2025/11/111075

Gemini:>隆慶一郎の「生ききること」は、人生という複雑な非凸空間において、「大義(Local Maximum)に固執せず、ノイズ(現実の不条理や偶然)を味方につけながら、鞍点を恐れず、探索を諦めない生き方」と解釈できるでしょう。<

JRF2025/11/114525

……。

>私たちが生きて、死者の国を継いでいるということは、そのように生の輝きを死者の国からそのままにして受け取る可能性であり、そこを超えた大義などは不要なのである。隆慶一郎の生涯はそうしたロマンのビジョンを与えるものであり、『死ぬことと見つけたり』という物語の滑稽とも言える最後にそれが未完で残されたが、もういいだろう、それは顕現したのである。<(p.203)

JRF2025/11/119116

上で念仏宗に関して「イニシエーション」を述べたが、『宗教学雑考集』《林住期と社会実現》では、それには>社会から性的に排除されることで、子をなし自分を残すことよりも、「霊」を残すこと、文化を継承することに目が向くという意味がある<と述べた。

JRF2025/11/118761

しかし、この後の吉本隆明さんの論とも関連するが、死と国家の関係はそれだけではない。佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』([cocolog:95701488](2025年10月))を読んだときにも述べたように、教えを遺すためのサンガや共同体というものがありえるし、『宗教学雑考集』《死と復活の信仰と秘伝》で述べたように、季節の儀式によって王権に力を集中するという形もあった。

対して、イニシエーションは「個人性」が強く、成人儀式後は、結局性愛へ回帰することが求められる。それが「大義など不要」という直観につながるのだろう。

JRF2025/11/114698

とはいえ、イニシエーションの大事なところは、その「真理」を自分で見出し、自分で見出したがゆえに確固たるものとして生きることが求られているところだ。そこに知識ではなく、儀式でやる意味があるのだろう。そういう儀式性を現代は失っている面があり、それが問題となっているのかもしれないが…。戦争が性と死をごっちゃにした影響もかつてはあったのかな?

JRF2025/11/116715

Gemini:>finalventさんが『死ぬことと見つけたり』という未完の物語の最後に「それは顕現した」と結んだのは、物語の完成度や大義ではなく、「生ききること」という個人のロマンが、すべての理論を超えて、読者の心の中に「真理」として具現化したことを宣言しているのだと解釈できます。<

隆慶一郎さんの生き方がその例の一つだった…と。

Gemini:>『死ぬことと見つけたり』が未完であることは、その生き方が「停止点(極大値)」を持たず、最後まで探索と生成の途上にあったことの証明であり、それこそがロマンなのだという finalventさんの見解は、極めて説得力があります。<

JRF2025/11/114825

……。

「8章 ローマ史を通じて知る歴史への向き合い方 -- 塩野七生『ローマ人の物語』」について。

私はフェニキア・カルタゴ萌えをかつてわずらっていて(^^;、塩野七生『ローマ人の物語』はハンニバルに関する部分だけ読んだ記憶がある。この「ひとこと」など記録に残ってないが。

JRF2025/11/119012

……。

「9章 『共同幻想論』が内包するエロスを私たちは自覚できるのか -- 吉本隆明『共同幻想論』」から。

>廣松(…渉…)『世界の共同主観的存在構造』<(p.226)

2009年に買った Amazon 履歴があり、これもかつて読んだはずだが、記録に残っていない。たぶん、まったく読めなかった感じだったように思う。

JRF2025/11/113313

……。

>繰り返そう。吉本は、人間の行動を、単純にそれを支配する意識の表出として見うるのではなく、無意識を含めた意識の総体が、むしろ個の意識に背く(疎外する・逆立する)ような行動を導く意識(幻想)の生成過程として見ていた。<(p.229)

「総体」は…私の「総体として生きたい」を思い出す。それは単に人間の話ではなく、生物一般の話だった。

JRF2025/11/116560

『宗教学雑考集』《コラム なぜ生きなければならないのか》
>かつて宇宙に安住があったことの反作用として「総体として生きたい」ができる。…ということである。とにかく「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。<

JRF2025/11/111277

……。

>フロイト(…)『モーゼと一神教』<(p.229)

これも読んだ気がするのだが、記録にない。買った履歴もこちらはない。

JRF2025/11/116513

……。

>簡単に言えば、動物なら個体が死ねば死んだきりで、他個体との関係では多少の記憶がもたらす愛着があるにせよ現実の不在で終わる。その段階では、死者のいる世界空間は想像もされない。だが、性意識(対幻想)を介して愛する対象としての人が死んだ場合、さらに親密な性の関係が生み出した家族の一員が死んだ場合には、その死をただ、無への変化と見るのではなく、愛情の幻影として死後の世界(他界)にその存在を幻想するようになる。これらが母性の原点に存在している、というのが吉本の主張である。<(p.242)

JRF2025/11/116739

単純に自然に返ることの子供の無理解に単を発しているのではないか、大人の嘘が「愛」によって生じている部分もあるかもしれないが、基本は無理解があるのだと思う。

私は死後の世界の成立は、戦争と言語に結び付けて考えていた。

『宗教学雑考集』《霊概念の成立》
>動物も死んだ個体のことは思い出すことはあるだろう。記憶はあるから。しかし、その思いはすぐに消えるのではないか。今の自分にはほぼ関係なく、それが現れるにいたった状況に関し警告を受け取ることはあろうが、それがそこにいるなどと考えることは判断を鈍らせるからである。

JRF2025/11/114633

しかし、人間は死者を常時思い出すことができる。それを集合=社会に固着させることでなす。固着できるような社会は言葉またはシグナルが作るのであろう。シグナルが共通の意味を持ちうる社会が必要だから。

社会が記憶を刺激するのは、社会が社会の敵になるため、警戒すべきものであるからかもしれない。人類には戦争が必要だったのかもしれない。その付随物として、死者が警告するようにまた判断を邪魔するようになったのであろう。

JRF2025/11/117226

その散発的残像現象と折り合いを付けるため、言葉で概念化する必要が生じ、そこに概念と、死者を概念化し社会的な(警告の)力とした霊魂がほぼ同時に生じたのかもしれない。

JRF2025/11/113960

『宗教学雑考集』《金属の盗掘・王家の谷》
>通常、肉は自然に帰り、そこから植物が生え、また肉となるという点で、自然は循環しており、そこから、子宮墓のようなものに裸で埋めて、そこから自然を通じて、再び人として生まれてくるという、転生的概念のほうが成立が先のように私は思う。

JRF2025/11/110901

しかし、先の述べたように、まったく同じ人物が帰ってくることはありえず、特に、侵略などがある場合はそこに帰ってくるのは別の民族ということになる。にもかかわらず骨食を避けるための埋葬を続けるなら、帰って来ないことの合理化のために、転生を否定した死後の世界という概念が成立する余地が出てくる。そうなれば、死後の世界で役立つような副葬品も同時に埋めるという信仰もうまれてくるのであろう。

JRF2025/11/110216

Gemini:>愛が死後の世界の「動機」を与え、戦争と言語がその世界を「制度化」した、という構造が見えてきます。<

私は性愛の経験が少な過ぎてそこに価値を見出しがたいというのもあるのかもしれない。

JRF2025/11/117885

……。

finalvent さんは吉本隆明さんの思想に傾倒する。しかし、盲目的にそれを是とするわけではない。

>私は吉本隆明の生涯の思想の帰結は未完であっただろうと思うし、さらに大きな修正を経る必要があっただろうと思う。そもそも国家幻想の解体は、今でも世界の思想的課題なのだろうか。

JRF2025/11/110333

『共同幻想論』に示された人類意識の史的展開の考えの終点をあえて単純に図式化すれば、高度な国家幻想をもった国家ほど、市民の個人幻想は共同幻想に対立しているはずである。しかし、中国と米国という国家をその共同幻想のあり方と政治制度の点で比べてみたとき、より高度な国家幻想を持っている米国のほうが、国家の法という共同幻想を介して、市民に対し自由や権利を保証している。中国はその逆だ。アジア的な帝国となって人々の自由と権利を抑圧している。

JRF2025/11/119093

こうした現実から見るなら、国民と市民のあり方は、国家の解体を主眼におくより、市民権を中心にすえて国家を適正な姿に改造していくほうが、個人の解放にもなる。個人幻想や対幻想の解放にも近づくだろう。
<(p.247)

finalvent さんは夜警国家論よりの意見を持っておられたと記憶していたので、この記述はやや意外であったが、こうなるとそれは私の記憶違いであったようだ。↓みたいなのは記録にあるが。

JRF2025/11/117733

[cocolog:89997835](2018年9月)
>finalvent 氏などが、憲法は政府を縛るもので、国民の義務などを書く必要はない…かの論を展開しているのを読んだことがたしかあるが、私は、[aboutme:95506] で書いたように、憲法は「国民の宣言」としての性格も持ち、投票の義務([aboutme:108306])などを入れていくべきだという考えを持っている。<

ここの論で思い出すのは、「国家自由主義」かな?

『宗教学雑考集』《捕虜のように敵として生きる》
>>
《祭と国家自由主義》では次のような「国家自由主義」の信条を紹介した。

JRF2025/11/117911

>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。しばしば逃げた先には自由はないもので、「自由」とはどちらかと言えば築いていくものだ。

JRF2025/11/118829

これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。

JRF2025/11/119038

ポパー『開かれた社会とその敵』では似た主義として「保護主義」を提案している。まぎらわしい言葉で、「保護貿易主義」とは別物で、「自由のために必要限度で国家に保護を求める」主義だ。ただし、彼の場合はウォークマンではなく自転車が問題だったようである。その主義はさかのぼればプラトンと同時代のソフィストであるリュコフロンに行き当るそうだ。
<<

JRF2025/11/117111

……。

>個人が抱く国家共同体の解体への情念は黙示録的なエロスの狂気に過ぎない。もっと簡単に言おう。正義を実現するために悪はみんな死んでしまえ、とする情念を自己の生涯において解体することが、美や死に魅了されつつも、人が類として生きる意義なのである。<(p.251)

スピノザ『エチカ』を読んだ [cocolog:95101727](2024年10月) で次のように述べている。

JRF2025/11/113382

>>
『宗教学雑考集 第0.8版』《悪》
>悪とされる心も、進化(や社会の発展など)を経て得てきた「善い贈り物」で、元来の悪はない。しかし不幸のシステムはあって、悪はなされ人は裁く。しかし、実は外の世界にある「悪しきもの」もある種の「進化」の結果かもしれない。長い目で見ればそれも偶然であり、生き残る者は目の前にあるシステムを変えつつ和解を導くしかない。許しあわねばならないのが和解ではなく、和解は子によって実体的意志を現す。<

…としてある意味本来の悪はないとする。

JRF2025/11/114906

しかし、スピノザに「人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろう」と言われるとき、決して妥当な観念だけを持っているとは口が裂けても言えない私は、上のように本来の悪はないといってのけてしまうことに、居心地の悪さを感じる。
<<

悪を進化などのせいにして許してしまっているのは、結局私がヤクザに実際に困ったことがないなど正面から「悪」に挑んだことがないから言える甘ちゃんのセリフではないのか…という迷いはある。

JRF2025/11/114139

finalvent さんは「悪がない」と言っているのではなく、それはそれとして共存する方法を知れ…と言っているのだと思うが。

JRF2025/11/112459

……。

お試しで #Sora2 を使ったこの「ひとこと」の宣伝動画。

https://youtube.com/shorts/MPRQ3itkZck

JRF2025/11/111520

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