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ライプニッツ『モナドロジー』を読んだ。ライプニッツのモナドというと、独覚の悟りを連想してたが、違って、どうも顕微鏡が発明され微生物が発見された時代にうまれた「魂のある原子」のような概念のようだ。 (JRF 0402)

JRF 2025年11月30日 (日)

『モナドロジー 他二篇』(ライプニッツ 著, 谷川 多佳子 & 岡部 英男 訳, 岩波文庫 青616-1, 2019年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B92MG3VS
https://7net.omni7.jp/detail/1106976576

原著は Leibniz『MONADOLOGIE』(1714)。

JRF2025/11/309348

私は「モナドには窓がない」などという説明から、ライプニッツのモナドを独覚的悟りのように思ってきた。禅者の独居空間みたいな想像をしてた。が、原著を読むとそれは誤解で、どうもデモクリトスの原子に近いもののようだ。ただ物理的原子というよりも生物的原子と呼ぶべきもののようだ。というのもライプニッツは、動物は、生きてる細胞に還元できるように、細胞もより小さな生物に還元でき、それが機械と違って、無限に還元できると考えていたフシがあるからだ。当時、顕微鏡が発明され、精子や微生物が発見され、そういう直観を支えていたようだ。

JRF2025/11/309146

昔の私のイメージは…

[cocolog:93225056](2022年1月)
>星は独り輝くというメタファからは、世界がライプニッツのモナドのように独り閉じている独覚者的な時空があり、それを観測することで何がしかの影響がある世界というのもあるかもしれない。物質的に不完全なイメージの力…イデアが強い世界もあるかもしれない。<

JRF2025/11/302778

[cocolog:94517420](2023年11月)
>このメンタライジング能力が宗教の成立に大きく関わっている(p.138)。

意識がある動物はすべて1次志向性は持っているとできる(p.139)。

自分の以外の生き物に精神があることを理解できなければ、別の霊的世界に意図を持った存在がいることは想像できない。相手の心という別世界が想像できなければ霊の世界もない。霊の世界の成立には2次志向性以上が必要であろう。(p.138) (ちょっと、ライプニッツのモナド論を思い出すね。)

JRF2025/11/302132

……。

私は↓という本を書いた。まったく売れてない orz。その宣伝も兼ねてその本からも多少引用する。そこでの関心および前によくわからずにモナドに言及していたことから『モナドロジー』は読んでみるべき本と思っていて、読んだのだった。

JRF2025/11/307754

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2025/11/304540

……。

それではいつものように引用しながらコメントしていく。なお、Kindle版で読んだため、ページ数は紙の本と異なるかもしれない。

JRF2025/11/301110

……。

まずは、訳者あとがき から。

デカルト一派が動物を機械的なものと見て、そこに魂などの存在を認めなかったのに対し、ライプニッツはそれを認めた。

JRF2025/11/303615

>ライプニッツはイタリア即興喜劇がもとにあるアルルカンをしばしば引いているが、自らの大原理についてもアルルカンの口を借りて、「いつでも、どこでも、すべてはこことまったく同じように」と述べている。すべては生命に満ちていて、生命体は魂、モナドと呼ばれ、それは有機的身体(物体)を必ず伴っている。人間だけを特別視せず、動物も他の生き者も精霊も基本的には同等の存在として扱っている。きわめて洗練されたアニミズムとも言える。すべての魂は宇宙全体を無意識的にであれ表象し、相互に表現しあっていて、人間と他の存在との違いは表象の判明さの度合いによる。

JRF2025/11/304212

魂の作用としての表象と欲求も、身体の作用としての運動も、他から強制されるのではなく内からの自由な発現だとされた。
<(p.173, 訳者あとがき)

「きわめて洗練されたアニミズム」。そういう見方もできるのか。

JRF2025/11/309939

なお、関係ないが、注に「アルルカン」は>キリスト教から排除された民衆レベルの祖先崇拝の死者信仰が、中世俗信で悪魔化したアルカンとなり、後に道化化してアルレッキーノ(伊)、アルルカン(仏)、ハーレクイン(英)となったという。<(p.153)とのこと。有名なハーレクイン・ロマンス…ってそんなところに淵源を持つのか…?

Gemini:>ロマンスの文脈では、初期の怪異な側面は薄れ、道化や恋のライバルといったキャラクター像が色濃く残っています。<

JRF2025/11/302861

……。

最近、日中関係がギクシャクしているが、ライプニッツは、中国(文明)をある程度評価していたという。

>その関心は、当時ヨーロッパ世界にとって地理的にも文明的にも対極にあった中国にも向けられた。中国人の宗教を理性に基づく自然宗教として擁護し、科学技術においても双方が補いあうことを主張する。たとえば医学においては、解剖学、化学、生理学など原理的な知識はヨーロッパが優れているけれど、植物学、薬学、治療学などの経験的な領域では中国のほうが優れているので補いあえる、と。<(p.177-178)

JRF2025/11/309256

拙著『宗教学雑考集』第17章 医術と奇跡 (医術論)では、漢方について、特にその哲学的側面を擁護している。西洋医学のアンチテーゼとして、東洋医学の意味はまだあると私は思う。

JRF2025/11/300226

……。

>ライプニッツには一定の大きさの主著ともいうべき著作がないこともあって、これまでは「モナドには窓がない」とか、「予定調和」といった言葉がライプニッツ自身から離れて捉えられ、いわば独り歩きしてきた感も否めない。これには、ライプニッツを揶揄したヴォルテールの『カンディード』なども大きな役割を果たしただろう。<(p.180)

ライプニッツは数学者だったので、そこにアレルギーを持つ者も多かったのかな。原著があまり読まれず、印象で語られることが多いのかもしれない。以前の私みたいに。

JRF2025/11/306233

Gemini:>ライプニッツは、易経の陰と陽、そして八卦・六十四卦の体系が、自身が発見した二進法(バイナリコード)の考え方と一致することを発見し、これに深く感銘を受けました。彼は、この中国の古代の知が、普遍的な論理体系(普遍計算)のヒントになると考えました。<

そうそう、そうだった。思い出した。

JRF2025/11/302333

……。

では、最初に戻って本文に入っていく。

>真理にも二種がある。思考[推論]の真理と事実の真理である。思考[推論]の真理は必然的でありその反対は不可能で、事実の真理は偶然的でその反対が可能である。真理が必然的であれば、その理由を分析によって見つけることができる。つまりその真理を、もっと単純な観念もしくは真理に分解していき、最後に原初的な観念もしくは真理にまで到達する。

JRF2025/11/300247

(…)

しかし、偶然的真理ないし事実の真理のなかにも、十分な理由があるはずだ。言い換えれば、被造物の世界に行きわたった事象の系列のなかにも、十分な理由があるはずだ。そこでは自然の事物が果てしなく多様で物体は無限に分割されているから、個々の理由に分解していけば限りなく細部にまで至ることになろう。過去および現在の形と運動が無数にあって、それがいま私が書いていることの作用因に入ってきている。また、私の魂の、現在と過去にわたる微小な傾向や状態が無数にあって、その目的因のなかに入ってきている。

JRF2025/11/309873

さて、こうした細部はすべて、それより以前のもしくはそれよりも細かな偶然的要素のみを蔵し、その偶然的要素それぞれの理由を示すにはまた同じような分析が必要になる。したがって、いくらやっても一向に進まないわけだ。そこで十分な理由すなわち最後の理由は、これら偶然的要素の細部がどれほど無限でありえても、その連続した繋りつまり系列の外にある、としなければならない。

JRF2025/11/302837

こうして、事象の最後の理由は、一つの必然的な実体のなかにあるはずで、その実体のなかに、諸変化の細部が、ただ卓越的に存している。あたかもその源泉のなかに存するごとくである。この実体が、私たちが神と呼ぶものである。
<(p.25-28)

>被造物はその完全性を神の作用から得ているが、不完全性は被造物固有の本性から得る、ということになる。<(p.29)

JRF2025/11/305227

不完全性が神とは別にあるということで、スピノザの汎神論とは違うようだが、理神論で、人格神性はほぼ認められない神解釈である。

原因を無限に辿っていけば終局には必ず神がある…と言ってるように読める。

JRF2025/11/305124

しかし、ゼノンのパラドックスや tanh (ハイパーボリックタンジェント)のように、無限が有限に繰り込まれることはあり、終端はあってもそれは境界の存在を示すだけで、最終原因をそこに登場させる必要はない。その有限に繰り込まれた無限の各部から影響を受ける以外にも、「系列の外」的にその「無限」そのものを原因とすることも不可能ではない。

JRF2025/11/306536

時間が・過去が、そのように繰り込まれていた場合、無限の過去があると想定しうるのだが、その無限の個々の過去すべてからの影響が記述できないとしても、繰り込まれた境界までのすべてというものは、神に関係なくありえ、そこから何かが関数的に出ることは私は可能であると思う。そのような過去も、想像的過去に似ているが実在的過去なのだ。

JRF2025/11/303441

……。

>神の知性は、永遠真理もしくは永遠真理のもとになる観念が存する領域であり、神がなければ、諸々の可能的なもののなかに実在的なものは何もなくなり、現実存在するものがなくなるばかりか、可能的なものさえなくなってしまうからだ。<(p.30)

ライプニッツは、不完全性を被造物の物とするのだが、それだけでは「実在」は生じないとする…ということだろうか。私は神の人格神性を重く見るので、不完全な被造物は創造の要素(土のようなもの)として実在しうると考えがちなのだが。

JRF2025/11/303868

Gemini:>ライプニッツが強調しているのは、もし神がいなければ、現実世界(実在的なもの)がなくなるだけでなく、「可能的なものさえなくなってしまう」という点です。

これは、論理的な矛盾を含まないアイディア(可能なモナドや世界のあり方)が、単なる「無」ではなく「何か」であるという実在性、すなわち客観的な妥当性を、神の知性が保証している、ということです。

JRF2025/11/302689

例えば、「丸い四角形」は論理的に不可能ですが、「窓のない単純実体」は論理的に可能です。この「可能である」という客観的な属性(アイディアの実在性)は、永遠真理の領域であり、ライプニッツはそれを神の知性の内に置いています。

したがって、ライプニッツの神は、世界の創造者であると同時に、論理的な必然性と可能性の原理そのものの根源なのです。

JRF2025/11/303225

……。

>神だけが原初的な一なるもの(1)(…)

(1) 草稿では最初、「神は原初的な単純実体すなわちモナド」とされていたが、最終稿(B写本)ではモナドという語は削除された。以前はモナドという語は神にも被造物にも適用されていたが、モナドという呼び方を被造物だけに限定したのは、身体をそなえたモナドの特徴(第一節)を強調するため。「神はモナドのなかのモナドである」という有名な表現が流布してきたが、これはライプニッツ自身というよりも、後のヘーゲルの『哲学史』に由来する。
<(p.32-33)

JRF2025/11/309897

神のような「巨大」な存在もモナドだとするなら、独覚的悟りもモナドと解釈しても良さそうである。が、ライプニッツは後にそういう解釈を排除したようだ。

JRF2025/11/304499

……。

>神のもつ観念のなかには無限に多くの可能的宇宙があるのに、宇宙はただ一つしか現実に存在できないのであるから、他の宇宙でなくてこの宇宙を選ぶよう決定する神の選択の十分な理由がなければならない。<(p.36)

>神の至高の完全性からして、神は宇宙をつくり出すにあたって可能なかぎり最善の計画を選んだということになる。そこには最大の秩序とともに最大の多様性がある計画だ。<(p.62-63)

JRF2025/11/309964

>賢明で有徳な人たち(…)彼らは(…)次のことを認める。もし私たちが宇宙の秩序を十分に理解しうるなら、その秩序は最も賢明な人々の願望すべてよりも優れているから、それを現在におけるよりももっと善くすることは不可能である、と。しかもこのことは、一般的な全体にとってだけそうなのではなく、私たち自身一人一人にとっても、そうなのである。<(p.53-54)

宇宙が選ばれたのは神に善意があるからで、最善のものが選ばれている。神義論とか、なぜ悪があるのか…という問いに対しては、それは神をしてもそれ以外に作りようがなかったのだ…という方向の説明になるのだろう。この点はスピノザに似ている。

JRF2025/11/301514

スピノザ『エチカ』などについては↓をご参照いただきたい。

《サーベイ: スピノザの思想 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/6284877

JRF2025/11/303932

私はこの世界は「最善」とまでは言わないが、「珍しいもの」だとはする。スピノザのように宇宙はただ一つしか現実に存在できない…とも考えない。お互い交渉できない「宇宙」は現実に複数ありうるとしたい。その複数も含めて一つの「宇宙」なのだと言う意見は、意外な「宇宙」がありえるため、常に裏切られるのではないか。論理体系の「中」に神を取り込むとき、そのときはその論理の中の「宇宙」というか論理空間は一つとできるのかもしれないが(参: [cocolog:95509656](2025年6月) の「神のいる「空間」は考えることができる」)、それは「現実」というよりは仮想的なものだ。

JRF2025/11/303202

『宗教学雑考集』《死のときに知る報い》
>どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: 《なぜ生きなければならないのか》)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。

総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、《有神論の基本定理》が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。

JRF2025/11/307218

その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない(参: 《象または天意について》)。

すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、(《有神論の基本定理》が実現していた)「善きこと」も消えてしまうからだ。

JRF2025/11/300908

……。

モナドは一つ一つが宇宙を持つ。ただしその宇宙はこの現実の宇宙であるから、言わば、一つの宇宙を共有している。それを別の角度・バイアスで見ていて、それがモナドの「個性」となる…ということのようだ。

>同じ都市でも、異なる方面から眺めるとまったく別のものに見え、眺望としては幾重にもなったように見える。これと同じように、単純な実体が無限に多くあるために、その数だけの異なる宇宙があることになる。けれどもそれらは、各々のモナドの異なる視点から見る唯一の宇宙のさまざまな眺望に他ならない。<(p.38)

JRF2025/11/307786

>創造されたモナドはそれぞれに宇宙全体を表現し、特にそのモナドに割り当てられて、モナドがそのエンテレケイアをなしている物体[身体]をより判明に表象する。そうしてこの物体は、あらゆる物質が充実空間のなかで結合していることで宇宙全体を表出しているから、魂もまた、個別的に自分に属している物体[身体]を表現することによって、同時に宇宙全体を表現する。<(p.41)

>物質の各部分が宇宙全体を表出しうる<(p.43)

JRF2025/11/307146

「エンテレケイア」は Wikipedia によると、>これはアリストテレスによって提唱された言葉であり訳語としては「完成態」、「完全現実態」、「終局態」、「終極実現状態」が割り当てられてきた。完成された現実性という程度の意味から、生活する人の活力の一つの種類として、精神や霊魂などと同じ様に見られるようになった。<とのこと。

JRF2025/11/308840

Gemini:>「物質の各部分が宇宙全体を表出しうる」というテーゼは、ライプニッツの全体論を象徴しています。

これは、宇宙の全ての部分が、無限に連鎖する原因と結果の繋がり(充足理由律)によって相互に結びついており、一つの部分の状態を見れば、原理的には宇宙全体の他のすべての部分の状態を読み取れる、ということを意味します。

JRF2025/11/304364

モナド論における予定調和は、この関係を保証するためのメカニズムです。窓がないモナドが、外部から情報を受け取るのではなく、内的な原理に基づいて、宇宙全体と完璧に同期した表象を自発的に展開していると説明することで、ライプニッツはデカルト的な心身二元論の問題(心と体の相互作用)を回避しました。

JRF2025/11/305568

……。


魂はモナドの一種である。

>魂だけでなく魂の活動も、つねに保存されますし、すべてのものが協力し共感しているので、それぞれの魂の活動さえもが、宇宙全体のどの魂にも保存されるのです。<(p.99)

↓の議論を思い出す。

JRF2025/11/301728

『宗教学雑考集』《魂の座》
>脳科学が進展し、または、AI が意識を持つように見えるようになった現代。意志の働きは「霊」を考えなくとも説明できるように思える。しかし、仮に意志の動きを科学がすべて説明できたとしても、「霊」の存在を信じ続けることは「科学的」につまり論理的に可能である。

その場合、霊魂が、脳がないのにどのように意志を持つことができるのかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

JRF2025/11/309857

○ 説 1. 神の記憶モデル - 人の霊は、神の中の記憶のようであり、それは、人を包むようにはじまり、ニューロンに至るまですべてを被覆[ひふく]して定義される。神の中の記憶であるから、それは完き人であるばかりでなく、人の理想状態であるかもしれない。

JRF2025/11/307853

○ 説 1'. 自然の霊的記憶モデル - 人の霊は、他人や自然物の霊の中に記憶として残る。それは、単に人の記憶や物理的根跡をいうのではなく、いってみれば、目に見える事象を根拠としそれを包むように霊的次元が存在し、その霊的次元の中に「縁」の局所的集積として「人の霊」のようなものが弱く定義できる。この霊的次元を時間軸に拡張することで輪廻も説明できよう。

JRF2025/11/306303

○ 説 2. 霊的肉体モデル - 人は死ぬと、人が決して確認できない微小な「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成することになる。人が死ぬと枕元に神などが訪れ、用意した霊的肉体に「魂」を移す…というイメージになる。

JRF2025/11/308858

そして大事なことは、意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないということだ。AI の意志の発生も、それがなぜ意志を持っているか、説明できていないはずである。意志は、その秘密が解かれる前に、その秘密を迂回[うかい]して、「製造」できるようになってしまった。

このような現状においては、挑戦的に脳や一部などに実際に霊の領域があると主張したり、そこから上の説への中間的表現を目指すことも未だ可能であると思われる。

JRF2025/11/300298

……。

予定調和について。

>予定調和<(p.39)

…がこの本で最初の登場のようだ。

形而上の魂がどうやって形而下の身体と交渉を持つか。その答えはデカルトなどは専用器官の脳の松果体などを考えたのであるが、ライプニッツは予定調和で説明する。

JRF2025/11/303285

>魂は魂みずからの法則に従い、身体も身体みずからの法則に従う。それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだにある予定調和のためであり、それは実体がすべて、同じ一つの宇宙の表現だからである。<(p.48)

>この説によると、物体[身体]はあたかも魂がないかのように(これは不可能だろうが)作用し、魂は物体[身体]がいないかのように作用し、しかも両方とも互いに作用を及ぼしあうかのように作用する。<(p.49)

なんのこっちゃ…だが…。

JRF2025/11/300979

>完璧に調整されて同時にぴたりと合う二つの振り子時計(造りは異なるかもしれないが)のように対応しています。これが私の言う予定調和で(…)<(p.110)

つまり、振り子の共振のように魂と身体が同じ振動をしている…というイメージか…。

ただ、これも少し違うようだ。

JRF2025/11/301258

>魂もしくは何か他の真の実体が外から何かを受け取ることは、全能の神からの場合を除いて不可能であると認めざるをえないので、私は徐々に一つの見解を抱くようになった。それは不意に私に現れたのだが、避けられないものに思われる。実際、それは非常に大きな利点とたいへん注目すべき美しさをもっている。つまり、神が始めに魂とその他のあらゆる実在的一性を創造したが、その際神は、魂にとってはすべてのことが、その魂から見れば完全な自発性によって自身の内奥から生じながら、しかも外の事物と完全な適合性を必ず保つことになっているようにしたと言わなければならない、という見解である。<(p.78)

JRF2025/11/304705

>ライプニッツは、機会原因論を、機械仕掛けの神を呼び出すとか、奇蹟に頼ることだと批判している。『新説の第二解明(バナージュ・ド・ボヴァル宛の手紙の後書き)』(1696)では、二つの実体の交渉もしくは調和(魂と身体の調和)について、有名な時計の比喩で次のように説明されている。二つの置き時計または懐中時計があって完全に一致していると想像するならば、それには三つの仕方が想定される。

JRF2025/11/305727

第一は相互の影響・作用によるという説明(影響の途)であるが、これは物質的形質による説明と同じで、考えられない(…私の共振説がこれにあたるだろうか?…)。第二はどちらかの時計が進むか遅れるかすると、そのつど職人が合わせに来るというもの(助力の途)であり、これは可能ではあるが機械仕掛けの神に頼る説明に他ならず、機会原因論はこれにあたる。第三は最初から狂うことのない正確な時計がつくられていたために一致しているというもの(予定調和の途)で、これが予定調和説である。

JRF2025/11/307504

時計をつくる、魂と身体をつくるのが神であるならば、どの説明が相応しいかというと、予定調和説しかありえない。
<(p.146, 注)

Gemini:>「振り子の共振」のような相互作用(影響の途)の発想は、デカルトの相互作用説や、より古い物理的な流れ込みの考え方として、ライプニッツの前に存在していました。<

JRF2025/11/307599

……。

顕微鏡の発明により精子や微生物が発見されたことがライプニッツに、動物の魂の存在を信じさせることになった。ただし、魂といっても仏教が想定するようなものではない。

>どの生きた身体にもそれを支配するエンテレケイアがあり、動物ではそれが魂であることがわかる。さて、この生きた身体の肢体には、他の生命体、植物、動物が充ちていて、その各々がまた、それを支配するエンテレケイアもしくは魂をもっている。<(p.44)

JRF2025/11/304877

ここの魂はモナドであろう。人が造る機械は還元していくと部品という「役に立たない」ものになるが、生物は還元していくと、生物の中には生物(微生物)が含まれ、その微生物の中にはさらなる生物叢があり…というのが無限に続くと考え、そうしてその無限の先にあるのが、「魂のある原子」的なモナド…ということのようだ。

>すべての物体は川のように永続的な流動状態にあり、その諸部分は絶えずそこに入ったりそこから出たりしているからである。

JRF2025/11/302072

それで魂は少しずつ徐々にしか身体を取り換えないから、その器官すべてをいちどきに失うことは決してない。また動物には、変態ということがよくあるけれど、輪廻すなわち魂の転生は決してない。さらに[身体から]まったく遊離した魂もなく、身体をもたない精霊もない。ただ神のみが身体から完全に離れている。
<(p.44-45)

「魂」もその中心となるもの以外は集合的・細胞的で、それらがまとまって「魂の体」を構成している…みたいな考え方だろうか。「魂の体」は死に向けて徐々に崩壊というか入れ替わっていく…と。中心を残しながら…。

JRF2025/11/307477

そもそも「モナド」=「実体的中心」でもあるらしいが…。

>すなわち各モナド、各実体的中心も<(p.64)

>単純実体すなわち際立ったモナドの各々は、他の無数のモナドから成る物塊に取り巻かれている。そうした無数のモナドが、中心的モナドの固有の物体[身体]を構成し、その物体[身体]の変状に従って中心的モナドは、一種の中心におけるように自分の外にある事物を表現する。<(p.56)

ということで「魂の体」みたいなものもあるのだろう。

JRF2025/11/305291

動物は不生不滅だという。精子のようなものが受け継がれていくからだが、しかしそれは輪廻ではなく、変態なのだという。

>魂は決して自分の身体全体から離れてしまうことはなく、一つの身体から別の、自分にとってまったく新しい身体に移ることもない。だから、輪廻はなく、変態がある。動物は部分だけを変え、取り、捨てる。<(p.60)

JRF2025/11/308083

同じ精子のようなものが身体間を輪廻的に移動しているわけでない。なぜなら、子は複数生まれうるから。変態して魂となった精子的モナドがある…ということだろうか?

Gemini:>「変態して魂となった精子的モナドがある」というよりは、「精子状の身体を持つ微小なモナド」が変態を続けて、人間や動物の魂となっている、と考える方が、ライプニッツの思想に近いです。<

JRF2025/11/306457

……。

人間には理性があり、それは「神の似像」的に特別に与えられるもの…という考えがどうもライプニッツにはあるようだ。

>人間の精子な動物の魂は理性的ではなく、受精によってこれら動物が人間本性をもつと決定されたときに、初めてその魂は理性的になる。<(p.60)

>(…動物に比べて…)理性的魂はより高次の法則に従っており、精神の共同体の市民としての資格を失わせるようなことすべてを免れている。神がきわめてよく配慮されたので、物質のいかなる変化によっても理性的魂からその人格の道徳的性質が失われることはない。<(p.74)

JRF2025/11/300689

>魂一般は、被造物の宇宙の生きた鏡ないしその似姿であるが、精神はそのうえに、神そのもの、自然の作者そのものの似姿であり、宇宙の体系を知ることができ、建築術的な雛型によってある点まで宇宙を模倣することができる。<(p.50)

人間は他の魂同様に唯一の宇宙を持っているだけでなく、他の仮想的宇宙も持てるということか。仮想的宇宙に生きるとは、社会を自由意志に従って構成できるということでもあるのだろう。もちろん、その社会は神の意志とも(予定)調和しているのだろう。

JRF2025/11/305374

ちなみに「鏡」をラプニッツはよく言及するが、それはおそらく『創世記』から来ているのであろう。

『宗教学雑考集』《熟慮の複数》
>>
>神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(旧約聖書『創世記』1:26-1:27)<

JRF2025/11/301412

この部分をとって、人は神の似像[にすがた](似姿)に創造されたなどとも言われる。

ここで、唯一神であるのになぜ「我々」を自称として使うのかが問題とされてきた。通常は熟慮の複数と呼ばれ、古いヘブライ語の文法に帰されることが多いが、伝統的に様々な解釈も許され、その伝統の積み重なりにも意味があると私は考える。そこの解釈の一つが、次のようなものである。いわく、

JRF2025/11/306090

神の中に神のイメージがあるのならば、全能な神がするイメージである以上、イメージの中の神は完全な神である。当然そのイメージの中の神自身もイメージを持つはずで、イメージの中の神の、さらにイメージの中に、神のイメージがあるはずである。それは、あたかも合わせ鏡のごとく、無限に神のイメージを作り出す。神のイメージを取り出してアダムを作ったが、アダムの中には神のイメージのイメージであると同時に神のイメージとしては同等なイヴの要素が含まれていた。神はアダムの肋骨で表されたこの「神のイメージのイメージ」からイヴを創った。人の子孫は、男と女の合わせ鏡が生み出す、神の無限のイメージの連鎖から生まれてくる。

JRF2025/11/306205

…というものである。この「合わせ鏡」の「我々」が「私」の中にも不完全ながらあると私は考えがちなのだ。
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JRF2025/11/301768

……。

>私たちの幸福は完全な享楽[享受]のなかには決してないであろうし、またそうなってはならない。もしそうなればもう何も望むものがなくなってしまい、私たちの精神は愚鈍になってしまう。そうではなく、私たちの幸福は新たな喜びと新たな完全性へと永遠に続く前進の内にある。<(p.68)

不完全さも神の恩寵または予定調和のうち…ということであろう。

ちょっと↓を思い出す。

JRF2025/11/303098

『宗教学雑考集』《エックハルトの神》
>エックハルトの神は、神の「今」において今も創造している。神にとっては、どの今も昔も未来もまた神にとっての「今」なのだ。そして神の「恩寵」は、物理学の「繰り込み」のように人の「内」に生じ(そしてそれに作用された人の「内」にまた生じ)、おそらくすべてが終ったときにのみ人全体の働きによって「恩寵」が現れていたことが証しされ、それが人が意志して求める浄福=真の幸福を導くのだろう。

JRF2025/11/301042

個々人がなしたことが恩寵にふさわしかったかどうかが問題なのではない。神が魂に住まい、神の視点で、全体が恩寵をなしたことが大事なのだと私は解釈する。俗に言えば、恩寵は結果責任が問われるということだろう。

JRF2025/11/301199

『宗教学雑考集』《悪》
>菩薩になってこの世において救うのが「善」だとするならば、それに対応する「悪」は究極的には物質的制約になるだろうか? 《四諦:仏教教義の提案的解釈》では、この世に生まれたこと自体が悪の報いとしたが、物質的に制約され、苦しみ、悪なることをせざるを得なくなるということだろうか。ならば、逆に物質的に全ての人が満たされれば、またはある程度欲も抑えてほどほどに満たせば、それが善なのだろうか?

JRF2025/11/301478

なぜ悪が裁かれねばならないかと言えば、最終的にはそれが人を殺すまたは人を滅ぼすところまで行くからだろう。ただ、人を滅ぼすにはいろいろな意味合いがある。今、AI が人を支配するようになるかもしれないと言われているが、それで人が思考力を失うなら、それも「滅び」だろう。快楽に溺れるのも滅びだろう。そう考えれば、物質的に満たされれば善というわけでもない。

JRF2025/11/300622

……。

数学的直感、連続に対する直感から、ライプニッツはアリストテレスに由来し、デカルトがありえないとした「実体的形相」…魂の物質的な座のようなもの…の復活を試み、それがモナドの考えにつながったらしい。

JRF2025/11/306520

>初めアリストテレスの軛[くびき]からから脱したとき、私は思わず空虚と(…デモクリトス的な…)原子へと気持ちが傾いた。それらが最もよく構想力を満足させたからだ。しかし立ち戻ってじっくり考えた後、私は、真の[統]一性の原理を物質のなかにだけ、すなわち受動的でしかないもののなかにだけ、見いだすことは不可能だと気づいた。というのも、そこではすべてがどこまでも際限なく諸部分の集合もしくは堆積でしかないからである。

JRF2025/11/306352

ところで、多なるものはその実在性を真の一性からしか得られない。真の一性は[物質とは]別のところに由来するが、それは数学的点とはまったく別のものである。

数学的点は延長するもの[延長体]の端にすぎず、様態にすぎないから、数学的点から連続体を合成できないことは確かである。それゆえ、そうした実在的一性を見いだすために、私はいわば実在的で生きた点、すなわち実体の原子に頼らざるをえなかった。そこには、完全な存在をつくるための何か形相的なもの、すなわち能動的なものが包蔵されているはずである。

JRF2025/11/305839

だから、今日あれほど不評を買っている実体的形相をよみがえらせ、いわば復権させる必要があった。ただし、そうした実体的形相を理解できるものにし、その本来なすべき使用をこれまで行われてきた誤用から分離する必要があった。すると、私は、実体的形相の本性は力にあり、ここから感覚や欲求に何か類比的なものが帰結し、だから実体的形相は私たちが魂についてもっている概念に倣って理解しなければならない、ということがわかった。
<(p.69-70)

JRF2025/11/301374

Gemini:>お客様の言い換え(「魂の物質的な座のようなもの」)は、ライプニッツが批判したデカルトの「松果体」のような相互作用説(心と体が物質的な場所で接触する)を連想させるため、注意が必要です。<

JRF2025/11/308718

……。

>石塊や他の非有機的物体に実体的形相がある(…という考えには…)私は否と答えます。生命の原理は有機的身体にしか属さないからです。たしかに(私の説によれば)、物質のどの部分のうちにも、無数の有機的で生命ある身体[物体]があるのです。その身体ということで私は、動物や植物だけでなく、私たちにまったく知られていないかもしれない他の種類の身体も含めています。しかし、だからといって、物質のどの部分にも生命があると言うべきではありません。魚に生命があっても、魚でいっぱいの池も生命ある身体とは言わないのと同じです。<(p.109)

JRF2025/11/308178

私は大地母神信仰に絡んで大地も生命である…みたいなことを述べたりしたが(参: 『宗教学雑考集』《キメラ》)、ライプニッツはここではそういう考えは拒絶したようだ。

『宗教学雑考集』《オッカムの神概念とマナと悉有仏性》で書いたように私はどちらかというと山川草木悉皆成仏・山川草木悉有仏性を信じる者なので、この点はライプニッツと意見を大きく違えるところだ。

JRF2025/11/308632

……。

神は最善のこの現実を・宇宙を選んだという話のつづき…

>神が選択するときは、最善という理由によっているのであり、人間が選択するときは、その人を最も印象づけることになる側が選択されるでしょう。もし、別の面ではあまり有益とも心地よいとも思えないものを選択するとしても、それは、おそらくその人にとっては、気まぐれや反抗心やまた同様の理由のために、より心地よいものになっているのでしょう。堕落した嗜好のそうした理由は、たとえそれが最終決定する理由ではないとしても、それでもやはり決定づける理由なのでしょう。そして人はいかなる反例も見いださないでしょう。<(p.122)

JRF2025/11/308680

イスラム教アシュアリー派の三人兄弟についての問答を思い出す。

『宗教学雑考集』《追善供養》
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ここでイスラム教アシュアリー派の三人兄弟についての問答を思い出す。それは次のような問答である(参: 中村廣治郎『イスラム - 思想と歴史』p.165-166)。

JRF2025/11/300007

>「長男は正しい信仰者として、次男は不信仰者として、三男は幼くして死んだ場合、長男は天国の最上位に、次男は地獄に、三男は天国の最下位に行く。三男が早く死んだのはそれ以上生かしておけば、不信仰者になったからである」という師の言葉に、アシュアリーは「神が次男をそうと知りつつ生き延びさせたのはなぜか」と問うたが、師は黙して答えなかった。そこでアシュアリーは回心をした。<

これに私は応える。

JRF2025/11/303357

それは、三男が死んだのは、他の人の自由意志の結果により、三男が不信仰者として一生を終わるしかなかったのに対し、次男にはもっとマシな選択肢があったのだが、それを選択しなかったのである。と答えることができる。

だが、私もこの答えに違和感を持っている。

三男には罪をおかす機会が与えられなかったし当然悔悛の機会はなかった。そのまま生きていれば、周りの者を不信仰者にしたからとするなら、なぜそのような者が生まれたのかということになる。それでも生まれたほうがマシだったということはありえようが。
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JRF2025/11/306435

Gemini:>お客様の違和感(「三男には罪をおかす機会が与えられなかったし当然悔悛の機会はなかった」)は、ライプニッツのシステムが持つ最大の緊張を突いています。

ライプニッツの神義論は、論理的な合理性(最善の必然性)を追求するあまり、個人の救済や道徳的選択の機会といった倫理的な感情や要求を、全体としての調和の下に従属させてしまう傾向があるからです。

JRF2025/11/306325

人間が「個として生きている」(前回の議論)以上、機会の公平性や悔悛の可能性は、神の善意の重要な証しとなります。ライプニッツのシステムは、神の「全知」と「最善」という、論理的な「必然性」によって、この倫理的な自由と機会を、最初から限定してしまっている、と批判できるでしょう。

JRF2025/11/308615

……。

>ビュリダンの驢馬[ろば]<

ビュリダンのロバ(ブリダンの驢馬)は、スピノザ『エチカ』を読んだときも出てきた。

[cocolog:95101663](2024年10月)
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ブリダンの驢馬については訳注に説明がある。

JRF2025/11/301423

>注(35) (…)ジャン・ブリダンは14世紀のフランスのスコラ哲学者。彼は驢馬には自由意志がないから等距離にある二つの等しい食物の間に置かれたらどちらを選ぶこともできず餓死するだろうと説いたとされる。<(上巻 p.344, 第二部訳注)

基本的には、自然(環境・身体)というのは何がしか違うものなので、「等距離」は実現せず、仮に「等距離」が実現すると無理に仮定したら、人はどちらも選べないはずだ…というのがスピノザの意地のようだ。
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JRF2025/11/300276

……。

>グイ神父および他の人たちがガロア師とフランスで討論したとき、私は彼らにこう証言しました。実際に無限[大]の大きさも、実際に無限小の大きさも、存在するとは思っていないし、それらは虚構にすぎないけれども√(-1)のような、代数における虚根のように、短縮し普遍的に語るのに有用な虚構である、と。<(p.136)

無限小については↓に書いた。

JRF2025/11/309912

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○ 2025-03-24T05:36:17Z

無限は実在するか? 特に無限小について。等比級数の無限和は特定の数値に収束しうる。その数値は実在する。しかし、等比級数の和を作るとき、一定以降の小ささのものはそれを作る実在的操作は実質存在しえないとはいえる。それをどう考えるか…。

《ララビアータ:カントの「無限判断」 - livedoor Blog(ブログ)》
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52635818.html

JRF2025/11/308529

Grok3> 個人的な考えとして、無限小は「実在するもの」ではなく、「実在するものを記述するための道具」と捉えるのが自然に思えます。等比級数の和が収束する事実は現実的ですが、そのプロセスに含まれる無限の細分化は、我々の有限な世界では想像の域を出ません。とはいえ、この想像が現実的な結果を生む点で、無限の概念は驚くほど強力です。

JRF2025/11/305457

jrf> 「この想像が現実的な結果を生む点で、無限の概念は驚くほど強力」という Grok さんの意見に賛成です。無限小がほぼあるという哲学が、微分などの操作を可能にしていて、それは現代論理学、数学には欠かせないものだからです。

Grok3> 「ほぼある」という曖昧さが、実は現実を記述する力を与えている点が面白いですね。無限の概念は、現実には触れられないかもしれないけれど、現実を扱うための道具として驚異的な成果を上げている。数学が「実在」と「想像」の境界をまたぐ領域であることを、こうした議論から強く感じます。
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JRF2025/11/301290

……。

>非物質的な精神は物質的な実在をいかに認知・認識しうるかという問題に答えるために、直接的に答えられないにしても、両者を媒介する間接的な説明原理として中世哲学において用いられたのがスペキエス(形質)という概念で、感性的形質と可知的形質に区分された。<(p.143, 注)

JRF2025/11/307115

「非物質的な精神は物質的な実在をいかに認知・認識しうるか」という問題については、現代の AI (LLM) は物理を知らない…空間認識などが苦手だ…と言われ、それに対する対策が必要とされていることを思い出す。エンボディメントや物理的グラウンディングと呼ばれているものである。スコラ哲学と現代科学に意外な接点がある感じ。

JRF2025/11/304010

……。

近時、『チ。- 地球の運動について』というアニメもあったが…。

>天体同士の運動も、物体同士の運動や衝突も相互的な変化であるので、どちらが動かしどちらが動かされるのかを決定することはできない。現象としての運動は単なる関係のなかに成り立ち、異なった仮説(天動説・地動説・折衷的なティコの体系)、異なった視点によって同様に解釈可能である。太陽が地球の周りを回っていると言うことも、地球が太陽の周りを回っていると言うことも同様に可能である。ライプニッツはこうした考えでデカルトを批判すると同時に、ニュートンをも批判している。<(p.147, 注)

JRF2025/11/305038

私が統合失調症的妄想状態で書いた↓を思い出す。

《七支刀って剣? その3 ― 七芒星の埋め込み - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2010/12/post.html
>And yet "cosmos" moves.<

JRF2025/11/307887

[cocolog:95349479](2025年3月)
>私は天動説が間違っているとは思わない。地動説は太陽を固定化して考えるが、実は宇宙においては太陽も動いている。太陽の固定も近似でしかない。近似でないものをあくまで厳密に考えたいなら、視点を中心に固定する天動説的見方は一貫性はあると言える。そこから観測できるものは複雑になるが。<

JRF2025/11/303941

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