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cocolog:95792425

内田樹&釈徹宗『いきなりはじめる仏教入門』を読んだ。私は因果論は縁起論の上に演繹的にかぶさるに過ぎないと見るのだが、その理論の倫理的含意として、内田さんが述べる有責性…誰のものでなかった「責任を引き受ける」ことが現れていると感じた。 (JRF 4253)

JRF 2026年1月 2日 (金)

『いきなりはじめる仏教入門』(内田 樹&釈 徹宗 著, 角川ソフィア文庫, 2012年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00APUCMTM
https://7net.omni7.jp/detail/1106137348

内田樹さんが、インターネット長屋に持仏堂を作るにあたり、「若い」釈徹宗さんを呼んで仏教を教えてもらう…というのがはじまりとされる本。章ごとの対話形式で書かれている。

JRF2026/1/21076

元となる本は『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社, 2005年)という本で一部その2巻からも取って文庫にしたようだ。つまり「以下続刊」の部分があるが、それを知らず私は買って読んだ。続きは気になるが、ここまででも意味はあると思い、メモを書いていく。

JRF2026/1/26169

仏教書は、少し前に、佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教 - 仏・法・僧から問い直す』を読んだが([cocolog:95701488](2025年10月))、あちらが、入門を脱した初級者向け仏教概説書だとするなら、今回の本は、まさに入門者を相手にする体裁になる。こういった入門書を私が特に読むのは、こういうもののほうが地場の信仰の真実を反映していることがあるから…としておこう。『「シミュレーション仏教」の試み』という書を書いた私は、原典主義的真実ではない真実も重視するから。

JRF2026/1/21628

ただ、この本の特徴は、そういう「入門書」的な役割ではなく、内田さんと釈さんの哲学的対決に妙味がある。明らかに内田さんは上のようなことをのらりくらりといいながら、因果論に関する哲学対決を最初からいどみ、入門の域を超えている。それに対応できる釈さんは、哲学的素養が明らかにあるアカデミックな仏教哲学者である。あくまで内田さんが、自分の読者向けに「いつもの話」で挑む中、本を「仏教入門」に留まらせるよう涙ぐましい努力(^^;を釈さんはなされる。

JRF2026/1/27682

釈さんは近代に成立したと思われるアカデミックな仏教哲学・因果論を語り、それはそれで入門的ではない。ただ、後には、論理にも執着しないようなことも説き、そこは伝統仏教的だな…と安心もさせる。

JRF2026/1/28851

……。

私は『宗教学雑考集』という本を書いて昨年3月に出したのだが(↓)、まったく売れてない orz。先に挙げた『「シミュレーション仏教」の試み』も非プログラム的部分は↓のほうにすべて移してある。ちょっと違った角度から知る仏教にご関心があれば、こちらもよろしくお読みいただければ幸いである。

JRF2026/1/25554

『宗教学雑考集 - 易理・始源論・神義論』(JRF 著, JRF電版, 2024年1月 第0.8版・2025年3月 第1.0版)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS8DRZH9
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DS54K2ZT
https://bookwalker.jp/de319f05c6-3292-4c46-99e7-1e8e42269b60/
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

JRF2026/1/21358

……。

それではいつものごとく「引用」しながらコメントしていく。Kindle 版で読んだのでページ数は紙の本とは違うかもしれない。

JRF2026/1/27791

……。

因果論で内田さんと釈さんの議論となった。仏教は因果論を根本とするのに対し、キリスト教などはそうでない部分があるようだとする釈さんに対し、内田さんはなぜ因果論が重視されないのか、そうあるべきかを説く。内田さんは、レヴィナスを参照し、有責性を人は引き受けるべきであり、それは悪いことをしたら神に咎められるという単純な構造ではない、事実に先んじて、時間的にも、ときに先んじて、「私に責任」があるとすべきなのだと説く。

JRF2026/1/25817

>レヴィナスはこれを「アナクロニズム」(時間の順逆の転倒)というふうに術語化しています。原因があるから結果があるのではなく、人間の成熟と倫理性の基礎づけという「目的」のために、それを動機づける「過去」が事後的に挿入される、ということの順逆を転倒させる考え方のことです。<(p.30-31)

責任は引き受ける。原因が自分にあるからではない。…と。

私はかつて仏教は因果論ではなく縁起論であり、因果論はむしろ仏教でも否定されていると考えていた。なぜそう思うに致ったかは忘れてしまった。

JRF2026/1/26170

縁起の上にある種の虚妄として因果を見出す。これが釈さんの言葉では「演繹的」(p.36ぐらいの議論)として言われているところだと思う。

そこには原因=責任をただ(無限に)求めていくこと(それにより責任をあいまいにしていくこと)を否定する論理もあるのだろう。その倫理的含意が内田さんのいう有責論なのかもしれない。

JRF2026/1/29812

『宗教学雑考集』《縁起論》
>>私は、昔は、因果論は信じず縁起論を信じるとしたものだった。

因果というものは確定しづらい。臨界現象などは何が原因であるか定[さだ]かにしがたかったり、病気の原因は病原のほかに普段からの生活という原因を無数に考えられたりするし、株価は将来の株価の予想を原因として値段がついたりする。さらに、サイコロを振ったりした場合は(究極的には不確定性原理に結びつけるべきかはわからないが)、本質的に予測不能のことが起こっているかもしれず、そうすると結果(サイコロの目)には原因がないと言っても過言でなくなる。

JRF2026/1/27364

結果に原因を求めるのは人の性[さが]がそうさせるのであって、真実は、「縁」の海に「起」が立ち上るだけのように世界はあるのではないか。だから、原因を遠く辿っていって第一原因に致るという言説は私には信じられない。もちろん、だからと言って唯一神が信じられないわけでもない。それは話が別だ。

サイコロの目に神は介入するかもしれない。そのような偶然に常に神の介入を寄り頼むのは、神を試すようなことだからやるべきではないとしても、神は自由にそこに介入されるかもしれない。サイコロの目への介入は非奇跡的な原因に見えるから許されるという考え方には私は組みさない。神の介入は原因を無視した奇跡でありうる。

JRF2026/1/27600

釈尊は世の法を「因果」ではなく「縁起」と見たとしたい。つまり、実際に世にある法 は「縁起」であるが、有限である人が知識とできるのは、その一部を切り出した「因果」のみであるということだ。

来世の道理も、自分のとらえた縁起によって今だけの方便を構成できるのみであり、来世を証明できる人間がいない以上、それを「正しい来世の道理」とするしか方法はない。ということだろう。

JRF2026/1/23978

「縁起」とは何か。たゆたうような「縁」に対して、ときどき「起」こることがある。経験的で代替性の蓄積が「縁」、想起や認識や普遍に基づく選択が「起」となるか。いや、そうなれば「起」も虚妄だろう。

>釈尊は世界は因縁によって生成していると考えた。神も不滅原理も立てず、ものは種々の因縁によって結果するというのである。(…)ものはみな、いろいろなもの同士のかかわりの上で成り立ち、また他のものを因縁として現象している。第一原因や絶対原因はないとする。(田上太秀『仏陀のいいたかったこと』p.145-146)<

JRF2026/1/27123

世界そのものは「縁起」ではなく「(因)縁」のみでできている。我々が「起」としてなすことも、実際には「縁」に過ぎない。しかし、我々が認識できる範囲では、因果を捉えうる場合も多く、縁を見て起をなそうとする努力はまったく無駄というわけではない。…としたい。

JRF2026/1/22788

量子力学にフェルミオンとボソンがあるが、フェルミオンが因果的で、ボソンが縁起的と対応できる。仏教の元々のところは、フェルミオンは考えず、ボソンのみがある…因果は虚妄で、縁起のみをいってみれば実在とするというのが私の理解である。もちろん、現代物理学ではフェルミオンも実在であり、その点を知った以上、私の縁起論理解はやや修正を迫られている。
<<

JRF2026/1/27384

責任を引き受けるという部分は私の論では鬼神論が意外に近いか?

『宗教学雑考集』《鬼神論》
>世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制[ぎせい]せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。

JRF2026/1/28687

混沌・物理・鬼神。ものの相の一面である。鬼神も、結局は物理も、擬制的なものであり、すべては混沌と言っても間違いではない。

JRF2026/1/23685

……。

釈さんはおそらく次の論に移るためだと思うが、論を途中で切り上げるような素振りを見せる。ただ、それは(大乗)仏教の伝統であると申し添える。

>仏教は、このようにある到達点があれば、必ずまたそれを相対化してしまうという別の体系が必ずあります。まさに「聖なる天蓋」は、できたと思えばまた破綻させられてしまいます。

JRF2026/1/26314

(…)

もし、〈仏教〉という商品のカタログがあるなら、そこにはぜひ「(…デリダ的…)脱構築機能内蔵」と書き添えていただきたい。
<(p.54-55)

このような「議論ずらし」こそ、つまり、論理にすら執着しないということこそ、昔ながらの仏教を継いでる部分だと思う。今のような学者中心でない仏教哲学において重要なのはそこだったと思う。まぁ、偏見かもしれないが。

先の内田さんとバチバチやった因果論も言外には相対化をここでしてしまっているのだろう。

JRF2026/1/29934

Gemini:>>
>今のような学者中心でない仏教哲学において重要なのはそこだったと思う。<

ここには、あなたの「地場の信仰」を重視する姿勢が強く現れていますね。 アカデミックな仏教研究は「整合性」を求めますが、実際の信仰の現場では「論理を超えた救い」や「理屈ではない納得」が求められます。釈先生は、アカデミズムの知性を持ちながらも、最後は「阿弥陀さんの計らい」という、論理が及ばない(脱構築された)地平へ着地する準備を常にされています。

JRF2026/1/22916

内田先生の「有責性」という非常に近代哲学的(レヴィナス的)な強烈な個の倫理さえも、釈先生は「それもまた一つの素晴らしい方便ですね」と飲み込んでしまう。この「飲み込みの良さ」こそが、大乗仏教という巨大なシステムの底知れなさかもしれません。
<<

JRF2026/1/28938

……。

釈さんが説明する。

>大乗仏教者たちは、保守派の出家者たちに「キミたちは煩悩を切り捨てることに執着しているのではないか」という指摘をします。

上座部にとっては、痛いところを衝[つ]かれました。なかなか見事なリクツです。「いろんなシガラミからは脱却したかもしれないが、仏教という新しい別のイガタにはまっている」そう指摘されたわけです。ここに至って、仏教は仏教自身を解体しなければならない、というとんでもないパラドクス(矛盾)にぶち当たります。

JRF2026/1/21292

そして、仏教はついに〈空〉の完成へと到達するわけです。ようするに、普通の生活をしていても、それに固執さえしなければよいのであります。
<(p.76)

「煩悩を切り捨てることに執着している」…そんなことを昔の私は仏教に対する宝刀のように考えていたことがあった。それはすでに大乗仏教の「悟り」としてあったのか。

(私のそう考えていた痕跡は↓にある。)

JRF2026/1/23658

『宗教学雑考集』《四諦:仏教教義の提案的解釈》
>集諦 - この世に生まれた人は誰であれ、功徳を積めば来世涅槃に生きられるが、困難なことに、功徳は煩悩の徴したる人の行いからしか生まれない。だから、ただ煩悩を捨てようと苦しんても無意味であり、その行為自体が煩悩の現れとなってしまう。<

ところで「空」をそのように解釈するのも、最近の私の空に関する「悟り」と違ってちょっと驚く。近時、私は、中沢新一さんのチベット仏教の解説を読んだとき([cocolog:95634030](2025年9月))で、「空を尊重するのは、働かないのをエラいと思えるため」と喝破してしまったのだった。

JRF2026/1/26083

Gemini:>内田先生なら、この「働かない(=有用性の拒否)」という視点に、レヴィナス的な「享受」の哲学を見出して、さらに議論を加速させそうです。<

JRF2026/1/21059

……。

釈さんはいう。

>布施には、財施・法施・無畏施といったものがあります。<(p.110)

布施というと、清水俊史『お布施のからくり』([cocolog:95485474](2025年6月))を読んだのを思い出すが、基本、お金によるお布施…つまりここでいう「財施」のことだと私は思っていた。しかし、それ以外の方法があるという。

「法施」はだいたい仏教を伝道することで、「無畏施」は、和顔愛語、笑顔で挨拶して相手をこちらに畏れさせない…などというもので、それも布施になるという。

JRF2026/1/25442

私は財施について、働かない=空であれば、それが生きるために財施が必要となる…という文脈で布施について考え、佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』([cocolog:95701488](2025年10月))のところで「施論、戒論、生天論」について考えたのだった。

Gemini:>内田樹先生の専門である合気道も、相手の攻撃性を無効化し、対立を解消するという意味で、極めて「無畏施」的な身体技法と言えるかもしれません。<

JRF2026/1/23700

……。

釈さんの認識…。

>近代の「欲望肯定システム」<(p.133)

功利主義とか、経済学の効用を肯定しながら、経済を大きくすることを考えるアレですね。私もだいたい信じているが、そういうどこまでも成長が続くというタイプの議論はアメリカ大陸の「発見」に支えられた戯論で、実際にはイスラム金融的なもののほうが正しいのではないか…という疑いが出てきている。長沼伸一郎『経済数学の直観的方法 - 確率・統計 編』([cocolog:86465092](2016年12月))では、資本主義の終焉も語られたのであったか。

JRF2026/1/27366

……。

内田さんはいう。

>「私はいかなる意味があって、この世界に送り出されたのか」という(答えが得られるはずのない)問いから逃れられないという宿命が人間の人間性を、言い換えれば人間の「善性」を構成している。レヴィナスはそういうふうに考えているようです。<(p.144)

与えられたはずの意味を生きることが善なのだろうか? でも、それはパズルのピースとして生きることではない。…今風の言葉で言えば、パズルのピースを超えた「生成」があるということになるか…。

JRF2026/1/26015

内田さんが示した見解の裏には、世界が善であって欲しいという願いがあると思う。世界に送り出されたことに答えがあるというのが善性を構成するということはそういうことであろう。ここで世界が善であるとは、世界が有意味であることを要請している。世界の有意味性を子に、子孫に贈与することを人は望むということではないか。それは子に財産を遺そうとするよりも、ずっと大切なことなのだ。

まぁ、この私の「善」の定義と違って、内田さんは、「善」とは「存在の彼方」とすぐ近くでしたのであるが。

JRF2026/1/24790

……。

>インターネットというメディアのいちばんいいところは、ネットに載った情報について、個人が「知的所有権」を要求したり、「ここからこっちはオレんちだからね」的なせこい縄張り意識を持たないでいられるという点にあると思うからである。<(p.146)

少し関係ありませんが、ここで私の悩みを吐露させてください。これは相手があることなので、その方に失礼になるかもしれませんが、どこかで吐露しておかないと辛いのです。この悩みが、この本を読んでる間中も頭を離れませんでした。

JRF2026/1/29573

先月、ある方から、私の記事(二本)について「引用が多過ぎる」として公開停止を求められました。私は「侵害はないけれども著者の意志を尊重する」として、その記事をほぼ即座に公開停止にしました。そこまではいいんです。

JRF2026/1/20300

しかし、私は、スマホゲームが著作権的厳しさから、その画像を使った記事がネットに残って(遺って)いないことに憤りを感じていまず。今の子ども・または若者が、将来に、スマホゲームを懐しむことができるように、ゲーム会社の意向もある程度尊重してゲーム発売即座の記事は、著者の意志を尊重して、公開停止なりなんなりしてもよいけど、業務妨害性・不正競争性などが一般に認められない、(例えば)3年たった記事ならば、(再)公開してもよいとすべきだと思っています。

JRF2026/1/21424

そこで、私の記事についても、2・3年たったら再公開したいと考えています。しかし、上の説明をまだしたわけではありませんが、再公開したら訴える…みたいなことを言われています。そこに悩みがあります。

まず、3年と言わずとも公開したままにしても侵害はないとする理論についてですが、それはカトリック=ルター理論と私が呼ぶ理論があります。

JRF2026/1/28679

ルターが現代に生きていてカトリックに挑戦するとしたら、著書の刊行より、まずブログなどに発表したのではないでしょうか? そして全件引用も辞さなかったでしょう。今回とは別件ですが、邪教・邪思想と自らが思うものと戦う場合には、相手にあげつらわれないよう、ちゃんとした引用を元にそれを相手がねじまげられたと思わないよう何度も何度も引きながら反駁しなければなりません。それは現代に起こるとすれば不幸ですが、この自由社会それは認められねばなりません。哲学批評には特別な足場があります。

JRF2026/1/25727

…というものです。小説などと違い公開書簡的な哲学の批評は、一字一句を挙げても批判すべきものです。だから引用が多いぐらいでは、(主従性は崩れず)著作権侵害にならないとできます。

しかし、一方で、あくまでカトリック=ルター理論が成り立つのは、切迫性がある場合に限られ、普段は同人誌理論のほうが該当するのではないか…という迷いが私にあるのも事実です。

JRF2026/1/25974

同人誌理論というのは、同人誌が著作者達の度量で許されてる領域で、ダメという著作者がいたら、その著作者は最悪、公論に訴えられたとき社会的に非難されることがあったとしても、その判断自体は、効力を持つのかな…ということです。私の引用の多い哲学批評も、同人誌と同じで、愛があるにせよ、著作者が拒むのなら従うしかないのかもしれない。…というものです。

JRF2026/1/22430

私は哲学批評の侵害性に関してはカトリック=ルター理論が平時においても成り立つとしたいです。そうはいいつつ、今回、少し引用を少なくするのを意識して書いてみました。少し問題となった私の著作からの引用も少し抑えぎみにしました。私の著作からの引用がそれでも多いと思われるかもしれませんが、普段なら、《善》とか《悪》とかの議論も私の著作から引用しているところです。これまで自由に書いてきたので、そう意識するだけで、かなり苦しい記事書きになったというのが私の認識です。相手方にすれば、これでも、まだ足りないのでしょうが。

JRF2026/1/23884

なぜ相手方がこんなアクセス数の少ない弱小な「ブログ」を攻撃するのか、それは突き詰めて考えれば「思想の統制」の余地を確保したいという向きがどこかにあるのでしょう。「思想の統制」vs「批評の自由」という昔ながらの構図となります。

いずれにせよ「勝負」は2・3年後です。カトリック=ルター理論と同人誌理論のどちらが正しいのか。私が著作権の権威と目する法律家の見解が示されるか、裁判で決するかしなければ、私は納得できないと思われます。最高裁まで行くなら、「思想の統制」を重く見るでしょうから、私のカトリック=ルター理論のほうが不利なのかもしれません。

JRF2026/1/20361

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