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cocolog:95844142

内田樹&釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』を読んだ。親鸞はこの世を地獄として、布施も鬼への賄賂で悪とし、悪人正機でアリとした。酷い悪も悪人正機だが、それを支配して抑めたいという欲も悪人正機で是とし安定させた。そして地獄においては他力にすがるしかない。…としたのではないか? (JRF 6974)

JRF 2026年2月 6日 (金)

『はじめたばかりの浄土真宗』(内田 樹 & 釈 徹宗 著, 角川ソフィア文庫, 2012年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00APUCMSS
https://7net.omni7.jp/detail/1106157679

JRF2026/2/65757

内田樹さんが、インターネット長屋に持仏堂を作るにあたり、「若い」釈徹宗さんを呼んで仏教を教えてもらう…というのがはじまりとされる本『いきなりはじめる仏教入門』の続き。章ごとの対話形式で書かれている。

元となる本は『インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗』(本願寺出版社, 2005年)で、それに対談を足して文庫化したもの。

JRF2026/2/61664

『いきなりはじめる仏教入門』は [cocolog:95792425](2026年1月)で読んだが、それは、最初の因果論が中心として読んだのだった。その続きとのことだが、当初はその因果論の議論で十分で、釈さんの仏教解説にはあまり興味を持てず、買う気はなかったのだが、ここからどう続けるのだろうとも少し気になっていたので、短かいし安いしで、いちおう買って読んでみることにしたのだった。

JRF2026/2/61241

この本、やはり、内田さんの議論は、前回が中心で、内田節は今回それほど炸裂していないと私は読んだ。そんな中、真宗の教えについて私なりに考えた。

いくつか引用してコメントしていく。Kindle 版なので紙の本とはページ数が異なるかもしれない。

JRF2026/2/62138

……。

釈さんの話。大学時代の某先生が、「知っていて悪を為すのと知らずに悪をなすののどちらが悪いか」という話をされて「知らずに悪をなすほうが悪い」とされたことへの違和感。それをどう解釈したかという話で…。

>自らの愚かさや罪深さを自覚し、悟る仏教から、救いを求める仏教への転換。仏教広しといえども、浄土教ほど「悪の自覚」にこだわった体系はありません。この流れは、主役を相対化する脇役として、インド仏教の比較的初期から連綿と続いています。

JRF2026/2/64810

つまり最初の某先生のお話である〈知っていて悪を為す〉というのは、「悪の自覚」のことだったんですね。 -- きみたちは、自分がいかに悪を重ねながら生きるしかない人間であるか、ということに目を開いていないのじゃないのか -- 、という問いかけだったわけです。それなら少し納得。
<(p.7)

法学でも、確か法律を知らないことで免責されない…みたいな論があったように思う。代わりに未成年への減刑がある…みたいな。

ここでは悪を自覚しているほうが人間として正しいはいいすぎだけれども、生き方としてよいのではないか…ということを話題にしている。

JRF2026/2/65851

↓を思い出す。

《『創世記』ひろい読み - 知識の実 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html
>02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。<

知識がないからといって責任はまぬかれない。それも内田さんの解釈だったか。

JRF2026/2/69772

被投性…責任がまずある状況に人は投げ入れられ、そこから逆に法などの知識を学び人は知性を得ていく、ことの順序はそういうものなのだ…そういう話だった。

JRF2026/2/64168


……。

釈さんの…

>念仏を、仏の呼び声だと捉えた人は親鸞だけです。<(p.9)

…という言葉には少し異論がある。

JRF2026/2/68579

拙著『宗教学雑考集』《阿弥陀仏と最後の審判》
>「心」の境界はあいまいという話を前節まででしたが、それは「我」が「空」であるということだ。業報が尽きる涅槃がある。そのことが無限の善からの照射を受け善なる報いをもたらす。そもそも、無限の善からの照射があるから、我々は自分をあると思っていて、空であっても「我」を使い、苦を超えた善の・生の根拠になりうるのかもしれない。一神教と仏教をつなげればそのような見解も見えてくる。<

JRF2026/2/68324

本来空なる自己に善性の照射があるがゆえにこそ、そこに自己意識が生じている。信心は、または、念仏を唱えたいと思わせるのは、阿弥陀仏からの照射であり、そこですでに選ばれている…という構図は、親鸞以前から意識されていたことだと思う。

ただ、戦国の世で、末法思想が仏教界に広がり、その末法への特に呼び掛けがある…という意識は親鸞に特別なものだったのかもしれない。すべての人が救われるためにどうあるべきなのか、どういう信心があるべきか…という課題は親鸞に特別なものだったかもしれない。

JRF2026/2/62047

この世は地獄。平等は僧にも適用されねばならないという意識があったのだろう。僧が生きるための布施も、だから特別な善とつながっていてはいけなかった。

本来布施にはこういう構図がある。

佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教 - 仏・法・僧から問い直す』を読んだ [cocolog:95701488](2025年10月)で…

JRF2026/2/61942

>>
>佐々木 もともとインドには「福田思想」といって、良い人にお布施をすれば悪い人にお布施するよりもリターンが大きいという考え方がある。そうすると、仏教の僧侶というのはいろいろな執着を捨て去って非常に立派な生活をしている人たちだ、だからお布施の甲斐があるんだ、ということになる。その場合、布施する側はどんなリターンを望んでもいいわけで、たとえば来世でお金持ちになりたいとか、執着丸出しのどろどろの希望を持っていたとしても、それが叶うということになっている。

JRF2026/2/68817

もちろん、布施をすれば来世ではあなたもお坊さんになって悟れますよ、という方がきれいだけど、やっぱりそんなきれい事だけでは済まなくて、仏教にはいろんな人のいろんな欲望を引き受ける存在でもあった。釈迦はそんなふうにサンガを設計したんだと思います。

JRF2026/2/67658

宮崎 在家者や異教徒には、仏教を受け容れやすくするため初っ端は生天などを説く。そうして相手の反応や理解の度合を確かめながら、徐々に仏教独自の高度な教義に進んでいく。これが次第説法、パーリ語でアヌプッビカターですね。このとき、布施を行うことと五戒を守ることを並説した。そして「施論、戒論、生天論」がパッケージで伝授された。
<(p.80-81)

JRF2026/2/67076

在家者には涅槃ではなく、輪廻が続く天に転生できるようになると布施をすすめた。その布施のおかげでサンガ=僧団が維持できるようになった。仏教は教えの継続のため個人の修行よりもサンガを必要としたが、そこには布施が必要で、布施のためには輪廻と生天を信じている…すくなくともその体裁を保つ必要があった。そして、それが社会に対する貢献となるのは、そこに戒を説き、戒を守らせるから、実際、社会がよくなるからで、それが業報輪廻的にこの世を天に近付けていった。僧は戒があるから、欲を滅し涅槃に致れるし、人々の模範にもなれる。施論・戒論・生天論がパッケージになるゆえんである。…と。
<<

JRF2026/2/65625

しかし、このような論は親鸞は採れなかった。それでは僧だけが救われることになる。そうではないのだ。だから、むしろ、布施は地獄の鬼への賄賂…のように考えたのではないか。賄賂だからそれも悪なのだ。僧もそもそも現世という地獄にいつかせる悪の存在である。それも賄賂もよいのは悪人正機だからなのだろう。

JRF2026/2/63864

さらに酷い悪をなした者は制せねばならないのではないか? いや悪人正機でそれもよいのであるが、それを地獄の生活のしやすさのために現世の支配者が罰するのは地獄にいつかせるいいことなのだ。それも自利。そこには悪しかない構図があり、だからこの世は地獄。逆にそこから出るには他力しかない…ということ。

JRF2026/2/62261

秩序だからといって是認(善認)しない。そうでなければ救われない人がいるから。下剋上できるぐらいじゃないと救われない人がいる。しかし現実には秩序がある方が人は救われうる。救われたいということは是認するのだろう。それが念仏。念仏はあくまでこの世の善ではない。(往生して)救われたいというこの世の欲という迷いがあり、支配して偉く思われたいという欲という迷いがある。それだけだ。

これが浄土真宗の世界観ではないか? (まぁ、釈さんに言わせれば、私ごときの考え、間違っているんだろうけど…。)

JRF2026/2/63902

……。

先日、心療内科に定期検診にいったところ『いきなりはじめる仏教入門』の話題となり、内田さんが述べた「有責性」の議論を医師の先生に紹介したが、そのとき、例を挙げるべきところで言葉が詰まって、挙げることができなかった。

ユダヤ人の迫害にユダヤ人であるレヴィナスが有責性を感じる。それを今の自分に適用できるか、それはおこがましいことではないのか。確か、イサク奉献でも有責性の議論を展開できたはずだ。でも、イサクを殺す決意をしたことがどう有責性になるんだ…と言葉にできなくなった。そのイサク奉献について内田さんはいう。

JRF2026/2/61569

>アブラハムの決断は「悪人」のそれです(…オウムの狂信と何が変わるか?…)。

だって、イサクを殺す決意をするんですから。

主のことばを自分が「正しく」聴き取ったのかどうか、それはアブラハムにはわかりません。

わからないけれど、「こう聴いた」という判断をした以上は、そこから先はアブラハムの責任です。

そして、誰にも責任を転嫁することのできない絶対的孤独のうちで、みずからの行動の責任を引き受けるという決意によってアブラハムは「義人」となるわけです。
<(p.36)

JRF2026/2/69180

>なぜアブラハムは壮絶な孤独のうちにありながら、なお主のことばは「絶対的に正しい」という確信だけは揺るぎないものとして維持できたのか<(p.37)

JRF2026/2/63894

>この物語(…イサク奉献…)はこういうふうに展開する以外にありえないということになります。

このストーリーラインでなければ、「あなたの常識には外側がある」という被造物としての宗教的覚知と、「あなたはあなたの『常識』を守って、あなたに与えられたスキームの中で、『正しく』生きなさい」という倫理的命令を同時にアブラハムに理解させることはできないからです。
<(p.70)

JRF2026/2/60303

倫理は常識であり、常識はその常識が内部にしか通じないことをメタ常識とする。倫理もその内部でしか通じないことが倫理となる。ようだ。

その知識を得ていけるところに神への絶対的な信頼が約束されているのだろう。その約束がユダヤ教→キリスト教となっていったのかもしれない。

JRF2026/2/61658

……。

p.37ページで内田さんは次の釈さんの文を引用しそれに説明を求める。しかし釈さんはそれにはまともには答えてなかったように思う。

>(…親鸞は…)でも、いくら仏に呼ばれても、その声に背き続けるのがオレという人間だ、と言います。そして、それこそがオレの実存だ、仏教はまさにこのオレ唯一人のためにこそあるのだ、と言うのです。<(p.9)

JRF2026/2/62848

親鸞はなぜ弥陀の本願を信じたのか。なぜ他の人もそれを信じればよいと確信できたのか。その信じるに致った直感は、オウム真理教の松本教祖の空中浮遊を信じた直感と何が違うのか? 人の生き方を変える決意をしたのは同じではないだろうか? そこには召命があった。

JRF2026/2/61262

空中浮遊が実在することで、それをどう生き方につなげるのかが大事…と内田さんはいうが、それを彼らは宣教という生き方につなげた。そこは内田さんの読み誤り…説得がうまくいってないところがあると思う。別の方の論だったか(例えば↓のジェイムズ)、そのような宗教的がどう現実を改善していったか…そこにしか、議論の着地点はない気が私はする。「奇跡」を信じる私は。

JRF2026/2/64679

拙著『宗教学雑考集』《還元主義・実用主義・医学的唯物論》
>>

JRF2026/2/69241

>キリスト教神秘主義の歴史においても、真に神の奇蹟である神託や体験と、悪魔が悪意をもってこしらえた偽[にせ]もので、宗教的人物を以前の二倍も地獄の子たらしめるような神託や体験とを、どうして識別するかという問題は、つねに解きがたい問題であって、もっとも優れた良心の指導者たちの、あらゆる聡明[そうめい]と経験とを必要とする問題であった。そして、結局その解決は、私たちの経験論的な規準に頼らねばならなかったのである。すなわち、「その根によらず、その果実によりて、汝ら彼らを知るべし」という規準である。<(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』上巻 p.38)

JRF2026/2/67095

「その果実によりて、汝ら彼らを知るべし」というのがジェイムズの立場である。
<<

親鸞が、「自分一人が…」と考えた部分については、私はかつてこのように書いている。

親鸞『顕浄土真実教行証文類 (現代語版)』または『教行信証[きょうぎょうしんしょう]』を読んだ [cocolog:92076991](2020年7月)で…

JRF2026/2/64695

>>『無量寿経』には五逆のものなどを除くと書かれているが、『観無量寿経』ではそうではない。

>『観無量寿経』には、「五逆・十悪など多くの呼くない行いをしてきたものもまた往生できる」と説かれている。<(p.311)

この『観無量寿経』によって教えが「上書き」されていると考えるようである。ただし、そこでは正しい法を謗る罪(謗法の罪)が除かれている。

JRF2026/2/68821

(…)

ちょっと思い付いたのだが、阿弥陀仏の本願では五逆や謗法のものが除かれているとしても、阿弥陀仏にならって衆生を救おうとする「菩薩」の中には五逆や謗法のものも救われるように誓願などをする者もいるのかもしれない。地獄に堕ちた者がいるなら、自分も地獄に堕ちてでも念仏などで救いたいとする者もいたかもしれない。

『観無量寿経』において「上書き」ができたのも、そのような「菩薩」がいたからではないか。実は親鸞がその一人である(一人になる)と自認していた可能性はないだろうか?
<<

JRF2026/2/63362

……。

親鸞自体、晩年、念仏には喜びをあまり感じないし、煩悩まみれのこの世は恋しい…といったという。しかし…

>「こんな私だからこそ、悪人のための少いは間違いないことが実感できるのじゃ」と語ります。親鸞は、普段からよく「この私ひとりのためにこそ〈悪人が救われる仏の願い〉はあるのだ」と言っていたそうです。<(p.45)

JRF2026/2/63675

自分が救われるはずがない。にもかかわらず弥陀の本願を説くことによって「布施」のようなものが集まり現世において親鸞は救われている。信じたくなるじゃないか(信じていない)。…ということではないか? 人々が召命に答えることで事後的に召命の正しさが証しされる。違う時代にはもちろん通用しなかったかもしれないが、釈尊も、おのれの仏法すらそうだ(いずれ末法の世が来る)と認めていた。だから、それでよいという諦観が親鸞にもあったのだと思う。

JRF2026/2/67965

……。

浄土真宗には異端問題(異安心問題)が多い。そんな中、空華学派の考えが正統になっているという。

JRF2026/2/65486

>現在は「信心[しんじん]正因[しょういん]、称名[しょうみょう]報恩[ほうおん]」という定句に表現されるような枠組みで落ち着いております。「信心」が確立したとき浄土の往生は決定。そして「称名(ナモアミダブツと称える念仏)」は「ありがとうございます」という仏恩[ぶつとん]を感謝する行為。自らの「念仏」によって往生が決定するなら、修行による結果だけども、私たちの行為によって往生できるわけじゃない、というわけです。中沢新一氏は、この「報恩」行という概念に注目し、「ここに至って、仏教は本当に日本人のものになった」と述べています。<(p.49)

JRF2026/2/68477

そうなんだね。拙著『宗教学雑考集』《最後の審判を信じる者の浄土》で述べたような、他者が往生するための…強制修行させるための…念仏という考え(邪念)の余地はなくなっているんだね…。

JRF2026/2/64134

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